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2016年7月 4日 (月)

日本国誕生史の復興・20

 日本人の尊厳の歴史

中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝には、下記のごとくの記事がある。
 「日本国は倭国の別種なり。その国日辺(にちへん)に在()るを以(もっ)て、故(ゆえ)に日本を以て名となす。あるいは曰()う、倭国自らその名の雅(みやびやか)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ))たりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大(きょうだい)、実を以て対(こた)えず。故に中国焉()れを疑う。またいう、その国の界、東西南北各(おのおの)数千里あり、西界南界は咸()な大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即(すなわ)ち毛人の国なりと。」
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝にも同じような日本の国名の改変について語る記事があり、この記事は下記のごとくである。
 「後稍(のちやや)夏音(かおん)を習い、倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずる所に近し、故に名となすと。あるいは云う、日本は乃(すなわ)ち小国、倭の幷(あわ)す所となる、ゆえにその号を冒せりと。」
 わがブログ「日本国誕生史の復興」は2回~前回までで証明したように、A図に示すように――倭国の範囲はいわゆる西日本、小国・日本の範囲は東国であった。
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(C) 2016 OHKAWA
 

 A図に示す倭国と日本国の範囲の相違を指して、遣唐使は「日本国は倭国の別種なり」と語ったのではない。「日本人の魂と命の尊厳と日本人としての誇り」を示して「日本国は倭国の別種なり」と言ったのである。
 前回までのわがブログ「日本国誕生史の復興」が証明してきたように、『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚神話は「伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた」と記載し、伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話では「伊耶那岐命は伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を継承した」と記載する。他方、倭国は日本建国の〔愛〕の理念を否定して、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻は「国家権力の強大化に努めて卑弥呼が没した時と伊耶那美命が没した時の二度にわたって多数の奴婢(ぬひ/18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女)を犠牲(いけにえ)にして殺す残酷な徇葬(じゅんそう)をおこなった」と記載する。この徇葬を自らの生存()と先祖から受け継ぐ魂を最大に侮辱するものと憎悪して先人たちは倭国と対立した。だから日本建国の〔愛〕の理念と倭国の徇葬を行った政治を対比して、遣唐使は「日本国は倭国の別種なり」と語ったのである。
 その証拠に、遣唐使は具体的に「残酷・野蛮な徇葬を憎悪した」とは語らなかったが、『旧唐書』倭国日本伝には「徇葬」を示唆(しさ)する「倭国自らのその名の雅ならざるを悪(にく)む」という記事が存在する。
 だから倭国の政治は王朝をささえる強き人々(権力者たち)のために存在するものであったゆえ、国中の人々が憎悪し反対した多数の若き男女を犠牲(いけにえ)にする残酷・野蛮な徇葬をおこなった。いっぽう、小国・日本の政治は〔愛〕を国作りの柱と定めて人民のために存在するものであった。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の2~15回で証明したように、『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話は「小国・日本は女王・卑弥呼が統治する倭国に属することになった。そこで伊耶那美命が小国・日本の女王に選ばれ、伊耶那美命の夫となる軍王(いくさのおおきみ)に伊耶那岐命が選ばれて、両人は小国・日本に赴任した」と伝える。だから、小国・日本は倭国に属する小国の一員であったことになる。したがって、この点にもとづくと「日本国は倭国なり」となる。
 しかし前述したように、先人たちは「日本国は〔愛〕の国家」、「倭国は日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人々を弾圧(だんあつ)し苦しめる国家」と明確に分けていた。だから遣唐使は「日本国は倭国の別種なり」と語ったのである。

A図に示した「小国・日本」はいわゆる「東国」と呼ばれるが、『旧唐書』倭国日本伝に記された「東西南北各数千里」と「東界北界」の「東」は現在の「南」を意味した。これゆえ『旧唐書』倭国日本伝は「その国日辺にある」、『新唐書』日本伝は「国日の出ずる所に近し」と記述し、「その国東国なり」「国日の出ずる東国なり」とは記述されなかったのである。
 B図は現在の方位規定に則(のっと)る小国・日本地図である。
 C図は『魏志』倭人伝の15ヵ所ある方位記事に1点の〔誤読(文献批判)〕を加えずに忠実に再現すると〔東〕が〔南〕と定まる転回方位にもとづく小国・日本地理である。
N382
(C) 2016 OHKAWA
 

 B図の現在方位の地図だと「西界」は大海ではなく静岡県西部や西隣の愛知県である。ゆえに、『旧唐書』倭国日本伝の「西界は大海に至る」という記事に矛盾する。
 C図の転回方位の地理だと「西界」は大海の太平洋、「南界」は鹿島灘がある太平洋である。だから、『旧唐書』の「西界南界は咸()な大海に至り」という記述に矛盾しない。C図の東(現在の北)界には三国山脈や日光の山々や関東山脈があり、北(現在の西)界には富士山と赤石山脈がある。ゆえに『旧唐書』の「東界北界は大山ありて限りをなし」という記述に合致する。また「山外は即ち毛人の国なり」は「南界の大山の外の地域には蝦夷(えみし)のアイヌの人々すなわち毛人が居住する」と語るものであったことになる。
N383
(C) 2016 OHKAWA

 D図は、『魏志』倭人伝の全部で15ヵ所ある方位記事に1点の〔誤読(文献批判)〕をも加えなければ表示できる倭地理である。卑弥呼王朝はD図が示すように「日本列島の東端は中国の海岸地域の南のほうに伸びるにちがいない」と断定した錯覚の転回日本列島地理を制定していた。これゆえ倭国の一員となった小国・日本の地理は、C図に示したようにD図の転回方位規定に則ることになったのである。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の10回と11回で証明したように、伊耶那美命の夏音名(かおんめい/夏音文字の名)は「壱与(いよ)」であった。
 『魏志』倭人伝の末部は「卑弥呼の墓に百余人の奴婢を殺して埋めた徇葬を憎悪する国中の人々が立ち上がって武器を持って戦った。そこで、倭王朝は千余人の反乱者たちを殺した。また倭王朝は卑弥呼の宗女(卑弥呼が率いる巫女界を代表する女性)に選ばれて13歳の時に王となった(小国・日本の女王となった)壱与(伊耶那美命)を倭女王に即位させると、国中にひろがった反乱は遂に定まった」と伝える。倭国から小国・日本へ赴任した壱与・伊耶那美命は国作りの柱を〔愛〕と定めて、小国・日本の人民に10数年のあいだ〔愛〕が最も大事であると熱心に説いた。この情報は倭国の国中にひろがった。このため壱与・伊耶那美命が倭女王に就任するならば必ず徇葬は禁止されるにちがいないと反乱者たちは信頼したので、倭の大乱は一気に終息したのである。このように『魏志』倭人伝の末部には伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念に関する記事が存在する。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の2~15回で証明したように、『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に記述された伊耶那美命と伊耶那岐命が結婚した会場は、E図に示す静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳であった。高尾山古墳はB図・C図の東国(小国・日本)における最古・最大の前期古墳である。伊耶那美命が唱えた「日本建国の〔愛〕の理念」は、高尾山古墳の後方墳の主体部から出土したF図の「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」の破砕鏡(はさいきょう)に残った「4羽の味鴨の絵柄」と「上」・「宜」の2字によって明確に事実となる。これについてはわがブログ「日本国誕生史の復興」の1619回で詳細に証明した。
N391
(C) 2016 OHKAWA
 

上記した『旧唐書』倭国日本伝と『新唐書』日本伝の「倭」から「日本」の国号改変記事は、702629日に九州の港を出帆して玄界灘を渡り翌年に中国に到着した第7回遣唐使が説明した言を書くものであったと限定できる。
 この時の遣唐使のトップは執節使(しっせつし/特別大使)の粟田真人(あわたのまひと)、最下位の幹部は万葉歌人で名高い山上憶良(やまのうえのおくら)であった。
 憶良が作った和歌の代表作は『万葉集』803番の「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも」であり、この和歌は『万葉集』802番「子らを思う歌一首 幷せて序」という題詞がつく長歌の反歌である。802番には漢文の序があり「釈迦如来は『衆生(しゅうじょう)を平等に思うことは、わが子のラゴラを思うのと同じである』とお説きになった。また、『愛執(あいしゅう)は子に優るものはない』とお説きになられた。この至極(しごく)の大聖人でさえ、やはり子を愛(いつく)む執着する心があった。ましてや、世間一般の人々で、誰が子を愛さずにおられようか」と表現する。このように憶良は伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を『万葉集』801番・802番で表現した。憶良は『万葉集』892番の長歌「貧窮問答(ひんきゅうもんどう)の歌」でも日本建国の〔愛〕の理念を詠んでいる。要するに『万葉集』に収録された憶良が作った作品の大多数は日本建国の〔愛〕の理念を表現するものであった。ゆえに、『旧唐書』倭国日本伝の「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」、また『新唐書』日本伝の「倭の名を悪み、あらためて日本と号す」という記事は、憶良が語った言を記載するものであったにちがいない。『旧唐書』倭国日本伝は「粟田真人は経書や史書を詠むのが好きで、文章を創ることができ、ものごしは温雅(おんが)である」と記す。朝廷は真実の歴史を語ることを遣唐使に厳重に禁じたが、これに逆らう山上憶良の言を温雅で歴史好きの粟田真人はゆるしたのであろう。
 第8回遣唐使は716717年に派遣されたが、特別大使の押使(おうし)は多治比県守(たじひのあがたもり)、大使が大伴山守(おおとものやまもり)、副使は藤原宇合(うまかい)であった。宇合は藤原不比等の三男であり、父不比等と同じく天照大御神の崇拝者であった。だから、もしも7回のメンバーに宇合が加わっていたならば憶良の言は宇合から朝廷に伝えられて憶良は即刻死刑となっていたことになる。粟田真人は憶良が語った言を朝廷に伝えなかったゆえ死刑にならず、彼の言は『旧唐書』倭国日本伝と『新唐書』日本国伝に残った。

『万葉集』63番は「山上臣(おみ)憶良、大唐(もろこし)に在る時、本郷(もとつくに)を憶(おも)ひて作る歌」という題詞がつく。この『万葉集』63番の和歌は下記のごとくである。
 「去来(いざ)子等(こども) 早く日本(にほん)へ 大伴(おほとも)の 三津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ」

 現代語に訳すると「いざ〔玄〕をキャッチして緯度と子午線を測定して中国に到着した遣唐使と船乗り諸君、早く“日本”と国号が改まった本国に帰ろうよ。出帆した時に見えた大伴氏の地領である難波の三津の浜に生える松の木がさぞや待ちわびていよう」となる。
 憶良は「いざ」と読む「去来」で玄海灘を往来した航海法の「[]のキャッチ」をあらわし、「子ども」で「日本建国の〔愛〕の理念」をあらわして、初句を「去来子ども」とした。というのも「大の大人の遣唐使も船乗りも」も「子ども」とあらわされたからである。
 G図は「去来=[]」の解説図である。
 H図は緯度が1分の精度で測定できる天頂緯度線と重なる銀河部位の軌道図である。
N392
(C) 2016 OHKAWA
 

 H図の右上に[]の上部の[(とう)]すなわち「天頂緯度線と子午線」をあらわす図案を配した。[][]の下に憶良が「子ども」と詠む[(よう)]が加わる字である。G図における[]は「頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)の胎児の姿」の図案である。G図右側の[]の金文は「子宮口がすっかり開く開口期(かいこうき)の終わりから次の娩出期においてはじまる、産道を通過する胎児の姿」を表現した。というのも〔[]をキャッチする時の心得〕は「産道を通過する胎児のように無欲であれば[]をキャッチできるが、[]を必ずキャッチすると欲を有すると[]はキャッチできなくて道に迷い、産道を通過できない胎児のごとく死ぬ」であったからである。したがって[]の部分だけを図案する[]の金文形は「産道を通過する胎児の姿で[]をキャッチする時の心得」を図案するものであった。
 []は約4~6秒でキャッチされた。G図に示す西端と重なる銀河部位は前に、東端と重なる銀河部位は後に通過する。また、G図に示すように「天頂点と真北あるいは真南の目印となる天体部(銀河部位や星や星団など)を結ぶ線」が「南北を表示する子午線」となって、「天頂緯度線と子午線」をあらわす[]となる。ゆえに「天頂緯度線の西端
天頂点」は[(去る)]、「天頂緯度線の東端天頂点」は[(来る)]となる。したがって、「去来」は[]をあらわし、「[]をキャッチする心得」の[]が加わって[]となった。だから「去来=[]」をあらわした。また[]の下の[]は「産道を通過する子(胎児)のように無欲になって[]をキャッチして玄界灘を往来した遣唐使と船乗りたち」をあらわした。
 だから、憶良が作った『万葉集』63番の初句の「去来(いざ)子等(こども)」の「去来=玄」であり、「子等」は「玄界灘を往来した遣唐使と船乗りたちと、そして伊耶那美命がたくさんの子どもを生みその子どもたちを愛しみ育てよと説いた日本建国の〔愛〕の理念」をあらわした。ゆえに、憶良は初句の「子等」に込めた「日本建国の〔愛〕の理念」が容易に連想できるように二句に「日本」の2字を挿入して「早日本辺(早く日本へ)」と詠み「日本建国の〔愛〕の理念」を強調した。

憶良が作った『万葉集』63番の和歌冒頭の「去来=玄」が伝えるように、894年に遣唐使の派遣が廃止されるまで遣唐使船は北極星ではなく[]をキャッチして玄界灘を往来した。D図の左側に示したように、日本列島の西端にある玄界灘に浮かぶ沖ノ島と日本列島の東端にある神津島(こうずしま)が同緯度(北緯3415)である。沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候であるゆえ〔西冷〕となり、神津島は冬に雪が降らない一年中暖かい気候であるゆえ〔東暖〕となる。中国の海岸線地域の北部の気候は冷たいゆえ〔北冷〕となり、南部の気候は暖かいゆえ〔南暖〕となる。中国海岸線地域の〔北冷〕は日本列島の〔西冷〕は共に冷たい気候で合致し、中国海岸線地域の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕は共に暖かい気候で合致する。だから、卑弥呼王朝は日本列島の気候が暖かい東端は中国海岸線の気候が暖かい南部の方に伸びると錯覚した――D図に示す転回日本列島地理を制定したのである。
 I図に示す北極星では、緯度を1度の60分の11分の精度で測定できないので中国に到着するために往来しなければならない玄界灘を往来することができなかった。
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D図の左側上部に記す「玄界灘」は「北極星の天の北極からのかたよりで緯度を算出する方法だと必ず迷って死ぬことになった陸地から遠く離れた波の荒い海。[]をキャッチして往来した大海」とあらわす名称であり、D図の転回日本列島地理の立論基盤となった[]をあらわすものであった。
 『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻〔地球・宇宙〕(学習研究社)における「緯度の測定」と題する記事は「天の北極」を単に「北極」と記して、下記のごとく指摘する。
 「緯度は北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の北極からのかたよりが計算できるので、北極の高度に換算できる。もっと精密に測る方法は、子午線経過を天頂の南側と北側とで行い、そのときの天頂距離がほとんど等しいような一対の恒星を選んでおき、その天頂距離の差を測るのである。」
 上記の記事では「簡単な方法は北極星の高度で測定すればよい」と指摘するが、I図に示したように『魏志』倭人伝が著作された3世紀の北極星は天の北極を中心にして半径約10度で円周していた。ゆえにわがブログ「日本国誕生史の復興・2」で詳細に証明したように、3世紀における緯度の誤差は直径の約20度・約1200分となるので、1度の60分の11分の緯度差を測定できる方法が求められた玄界灘を往来することができなかった。中国では紀元前1世紀に北極星を神(太一神)と崇拝するシナ天文が完成したために、魏の人々も魏の出張機関がある帯方郡の人々も玄界灘を往来することができなかった。しかし〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣〕が栄えていた倭国の使者が玄界灘を往来できたので、魏と倭は国交が結ばれて『魏志』倭人伝が著作された。したがって、倭国では北極星は緯度の測定と方位の基準に用いられない無視する星であったので、D図の錯覚の転回日本列島地理は真実であると信じられたのである。
 だから上記した『図詳ガッケン・エリア教科事典』は「北極星では正確な暦と精確な時刻を示す時計が存在に現代にあっても精密に緯度は測定できない。だから北極星の北極からのかたよりではすべての古代において1分の緯度差を測定できなかった」と指摘するものであった。しかし古代においては、天頂緯度線をキャッチすれば1分の緯度差は測定できた。というのも学者たちは知らないが、人間の目は鍛錬すると〔[]がキャッチできて、1分の精度で緯度が測定できる神秘的な能力〕を有するものであったからである。
 新井白石以後、学者たちはD図の真実を否定して北極星がある方角を〔北〕と定めて、北極星でも玄界灘を往来できたにちがいないと約290年間もの長いあいだ錯覚し続ける。だから、学者たちの北極星信仰による錯覚が原因で邪馬台国論争が永久に決着できなくなっただけでなく、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記述された日本建国の〔愛〕の理念はじめ幾つかの重大な事実が排除されることになった。

上記した『新唐書』日本伝の記事冒頭の「後稍夏音を習う」という文は「壬申の乱の後、稍々(やや)夏音文字を蘇(よみがえ)らすことになった」と意味するものであった。「神仏習合(しゅうごう)」という語は「日本の神々を仏に蘇らせて合体する」と意味するゆえ、[習の字は「蘇らせる。復興する」と意味した。
 前述したように、「伊耶那美命」の夏音文字の名称は「壱与」であった。「卑弥呼」を「ひみこ」と読むと夏音文字の名称となる。ゆえに『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名には夏音文字が楷書で表記されて残った。第7回遣唐使は九州を出港した10年後の712年に完成した『古事記』上巻には編纂スタッフが朝廷に逆らって「夏音文字」を「音」という注を付けて多数残した。というのも編纂スタッフは夏音文字の字源・字形・字義をもって真実の歴史が解明できるように、夏音文字の役目を企(たくら)むものであったからである。
 だから『魏志』倭人伝と『古事記』上巻は下記の重大な4つの事実を伝えることになった。
 (1)日本国は倭国の別種なり、すなわち日本人の魂と命の根源は伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念であり、(2)わが国には後期縄文時代初頭(4050年前)に夏音文字とその学芸が伝来し習得された、(3)夏音文字の学芸は1分の緯度差が測定できる[]を基軸に体系づけられるものであったので、この天文地理学によってD図に示すように倭の34小国の正確な地宜(ちぎ)つまり平面的に図化した地図を作成できた、(4)卑弥呼王朝は日本列島の東端が南に伸びると考える錯覚の転回日本列島地理を制定した。
 要するに、F図に示した高尾山古墳から出土した破砕鏡における「4羽の味鴨の絵柄」は「日本建国の〔愛〕の理念」を表現し、[]という字は上記の(2)(3)(4)の重大な事実を示すものとなった。だから、わがブログ「日本国誕生史の復興」は次回から「日本国誕生史の真実を伝える大鳥の地上絵」と副題を定めて、先人たちが〔巨大な鳥の地上絵〕を作成して上記した4つの重大な神代史の事実を科学的に証明できるように残した歴史を明らかにする。
 D図の転回日本列島地理に〔誤読〕を加えてI図に示す北極星がある方角を〔北〕とする学者たちの意見では玄界灘を渡ることができなかった。
 H図の厳然たる[]の真理によって、学者たちが主張する邪馬台国説と日本神話説が誤読の空論であることが一気に事実となる。ゆえに、先人たちは[]の方法で「〔鳥の地上絵〕を作成して日本人の魂と心の尊厳である日本建国の〔愛〕の理念を伝えた。だから学者たちが主張する邪馬台国説と日本神話説について日本古代史学界が即座に誤読の空論・荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメであると否定しなければ、われわれ市民が立ちあがらなければならない。というのも両説は、日本人としての尊厳を凌辱(りょじょく)し日本人としての魂を台無しにする空理空論だからである。この空理空論を放棄(ほうき)していたならば世界の人々は、日本人は自らの尊厳と誇りを誤読の空理空論で冒涜(ぼうどく)して全日本人を日本人とは呼べない魂の抜け殻にした挙句(あげく)に自国の存立をも危機的状況に陥らせることに気づかないという、何とも愚かな民族であるものよと笑い者にするにちがいない。
 

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