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2016年7月 7日 (木)

日本国誕生史の復興.・21

 神話に登場する1千万坪の鳥の地上絵(1)

漫画家の巨匠・手塚治虫氏の代表的な作品に『火の鳥 黎明編・ヤマト編」』がある。この漫画には、『魏志』倭人伝に登場する卑弥呼が登場する――卑弥呼が死去してからわずか約20数年後に、1千万坪の巨大な「愛の鳥」の地上絵が作られた。
 A図は静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を示す地図の形であり、約1730年後に至っても消滅せず現在の日本地図上に存在する。この細江町の地図の形は西暦230年ころに日本国が誕生した歴史を現在に伝える遺跡であり、漫画「火の鳥」以上にドラマチックな神代から舞い降りた「愛の鳥」の地上絵である。
 この大鳥の地上絵の作成目的は伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を後世へ伝えることであった。だから、シンプルな言葉で表現すると「愛の鳥」となる。
N401
(C) 2016 OHKAWA
 

 わたくしは20142月初旬以前において、A図の神代に地図化された1千万坪の大鳥の地上絵を「建比良鳥(たけひらとり)の地宜(ちぎ)」あるいは「建比良鳥の地上絵」と呼んでいた。しかし20142月初旬以後は「卑弥呼の地上絵」と呼んでいる。
 現在まで、B図に示す8ヵ所の遺跡から10口の銅鐸が出土した。この10口の銅鐸(どうたく)は「近畿式」と「三遠式」とに分類されて「終末期銅鐸」とされ、この終末期銅鐸は260290年に製作され使用されたと指摘される。したがって日本建国の〔愛〕の理念を画題にした、A図の鳥の巨大な地上絵は260290年に作成されたことになる。
N402

(C) 2016 OHKAWA

 

 山尾幸久著『魏志倭人伝』(講談社)は「『三国志』の成立は、晋(しん)の武帝の晩年である太康年間(280289)、陳寿(ちんじゅ)の著作郎時代という以上には限定できない」と指摘する。ゆえに、著作郎(歴史編纂官)であった陳寿が著作した〔『三国志』の魏書東伝末部の倭人伝〕がいわゆる“『魏志』倭人伝”と呼ばれるので、『魏志』倭人伝は280289年に著作されたことになる。
 『魏志』倭人伝は280289年に著作され、A図の卑弥呼の地上絵は260290年に大地に図化されたゆえ、両者は同時代に作成されたとことになる。というのも、上記したようにB図の地域から発掘された近畿式と三遠式の銅鐸は「愛の鳥」(卑弥呼の地上絵)を図化するために使用された道具であると証明でき、これらの銅鐸の製作・使用年代が260290年だからである。

B図における④滝峯(たきみね)遺跡から滝峯第1号鐸・第2号鐸の2口が発掘された。198611月、わたくしは細江町立姫街道歴史民族資料館の栗原雅也学芸員にお願いして滝峯第1号鐸の実測図を入手し、この実測図をもとに沼津市平町の渡辺板金所の御主人(渡辺進一氏)に銅板製の模造鐸(原寸大)を作成していただいた。この模造鐸(もぞうたく)でわたくしは〔[]のキャッチ(天頂線緯度と子午線のキャッチ)〕の実験をおこなった。
 C図に示すように、模造鐸の身(/)の中に頭を入れてしばらくすると、筒の中の暗闇によって自動的に瞳孔径(どうこうけい/瞳孔の直径)が最大(7~8mm)に拡大された。そして筒上部の舞(まい)に開けられた二つの孔(あな)から舞の中央にある垂直に立つ厚さが2~3mmの薄い板となる鈕(ちゅう)を仰ぎ見ると、その「鈕」は板ではなく細い1本の線(赤黒い影)と化して見えた。この線を両手で銅鐸の筒の傾きを操縦しながらゆっくりと微調整して赤黒い線が最も細くなるようにすると、C図のごとく銅鐸の筒はおのずと精確に垂直に立っていた。そして、鈕の頂上に取り付けられる「渦巻状双耳(うずまきじょうそうじ)」という名の部分に刻まれる文様は矢を射当てる用具の的(まと)の文様のように同心円形となり、鈕影の極細線と天から降下した天頂緯度線がぴったりと重なった。言い換えると渦巻状双耳文が同心円形と化した、その的の中心点に天から降下した天頂点がぴったりと重なる仕組みになっていた。だから、滝峯第1号鐸は天頂緯度が精密に測量できる構造となる。
N403
(C) 2016 OHKAWA
 

 天頂緯度測量した銅鐸の両側にある「鰭(ひれ)」と呼ばれる装置は緯度軸(東西軸)を表示する。だから助手と天頂緯度測量した天文士が慎重に銅鐸をそのまま動かさずに台(祭の神輿を置く台のような装置)に置けば、鰭が精密に天頂緯度線=緯度軸を示す。この天頂緯度線の直角方向が子午線=経度軸となる。
 ゆえにB図の地域から出土した10口の銅鐸は、D図の右上に示した〔[]をキャッチする道具〕であったにちがいない。したがって10口の銅鐸はA図の〔卑弥呼の地上絵を作成するに用いられたD図の[]の天頂緯度線を象(かたど)るための器物、つまり玄象(げんぞう)器物〕であったことになる。
N411
(C) 2016 OHKAWA

 
  倭国では、人間の目の呪力(じゅりょく/神秘的な能力)を注目し、視界の中に光が入らないように真っ暗闇にした筒の中に頭を入れて瞳孔径を最大に拡大して、筒の天井の二つの孔から覗(のぞ)いて筒の上部に垂直に立てた鈕の影で〔[]をキャッチできる極細線〕を象る器物、すなわち銅鐸を発明していた。われわれ現代人は目のまわりが真っ暗闇にすれば即座に銀河部や暗い星はじめ銅鐸の鈕影(ちゅうえい)が形成する極細線などは見えないと思い込んでしまう。しかし夜な夜な[]のキャッチをおこなって眼力を鍛錬していた弥生人たちは、瞳孔の魔術すなわち目の呪力を知っていた。だから、B図の地域から出土した10口の銅鐸は筒で周囲の明るい光を遮断して真っ暗闇にして目の呪力(魔力)を最高に高めて〔天頂から銅鐸の鈕まで降下する天頂緯度線と鈕影の極細線とがぴったりと重なるようにして[]をキャッチした道具〕であったことになる。
銅鐸は楽器であったと指摘する説がある。というのも初期の小型の物は鈕の内側に紐(ひも)などを通して吊るし、舞孔から木や石や鹿角製の「舌(ぜつ)」を垂らした胴体部分か、あるいは「舌」そのものは揺らし、内部で胴体部分の内面突帯と接触させる方法で鳴らしていた痕跡(こんせき)があるからだと指摘されている。
 20013月末時点までに出土した銅鐸は全国で約500口である。この約500口の銅鐸のうち、「舌」が出土した数は極めて少なく1割の50個も発掘されていない。ゆえに「舌」が出土した銅鐸は楽器であったかもしれないが、大半の銅鐸は楽器ではなかったことになる。
 B図に示した遺跡から出土した「愛の鳥」を画くために用いられた10口の銅鐸には、「舌」が一例も出土していない。だから、10口の銅鐸は楽器ではなかった。
 19871224日、B図の⑦の浜松市都田(みやこだ)地区の前原(まえはら)Ⅷ遺跡から前原鐸が発掘された。E図のごとく、前原銅鐸の身の側面の中心軸は緯度軸に合致して埋まっていた。
 また前原銅鐸の出土から2年後の19891228日、B図の⑧の滝峯才四郎谷(たきみねさいしろうたに)遺跡から銅鐸が発見された。F図に示すように、滝峯才四郎谷鐸もE図の前原鐸と同じく緯度軸に合致して埋納されていた。
 D図に右上に示す[]の「天頂緯度線」は要するに「緯度線」であるからして、緯度軸に合致して埋められていた前原鐸と滝峯才四郎谷鐸は〔1分の緯度の差を測定できる[]の象(ぞう)をキャッチ道具〕すなわち〔玄象器物〕であったことになる。
N412
(C) 2016 OHKAWA
 

 銅鐸が楽器であったならば、C図とD図で示した[]をキャッチする方法、この方法以外にどのような方法で東西軸を測量したのであろうか?
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・20」で詳細に解説して証明したように、G図に示す北極星ではE図とF図の銅鐸の埋納状況のごとく精確に緯度を測量することができなかった。
N413
(C) 2016 OHAKAWA

 また、H図に示す太陽の日の出・日没の方角でも精確に緯度軸は測量できなかった。なぜならば春分の日と秋分の日の日の出と日没が東西軸・緯度軸を示すが、太陽が“今日は春分の日だ”とか“今日は秋分の日だ”とか声に出して昇ってこないから、古代の人々は日の出の方角で春分・秋分の日を知ることができなかった。
 古代ではD図に示した[]のキャッチによって緯度軸を測定して春分と秋分の日を知った。だから、3世紀においては[]をキャッチしないで、北極星とか日の出とかまたその他の方法で緯度軸を知ることはできなかった。
 したがって3世紀では、E図とF図の銅鐸の埋納状況が示す緯度軸は〔[]をキャッチする方法〕で測量していたことになる。だから、A図とB図の「愛の鳥=卑弥呼の地上絵」が現在に伝えているがごとく、銅鐸は玄象器物であったにちがいない。

“字書の聖典”と尊重される2世紀初頭に成立した『説文解字』は、[]の字源を「幽遠(ゆうえん)なり」とし、また「黒にして赤色あるものを玄と為()す。幽に象(かたど)り、入はこれを覆(おほ)うなり」と解説する。
 []の字源となる「天頂緯度線」はD図に示すように〔遥か遠くの天頂に存在する、4~6秒間でキャッチする幽(かすか)な線〕である。ゆえに、『説文解字』は「幽遠なり」と解説した。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・13」で解説・証明したように、『魏志』倭人伝に記載された倭の34小国名に最多の用いられる字は、I図に示すように[]である。この []の字源・原義は、J図に示す「ジャコウウシ」であった。ジャコウウシは漢字作成原理を象徴する聖獣であった――漢字作成原理は“漢字の始祖”と尊敬された今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が発明した。
N421
(C) 2016 OHKAWA
 

 五帝時代においてはジャコウウシの体を包む毛(ウール)は、K図に示すがごとく[]をキャッチするのに理想的な太さと呪力(じゅりょく)を有する糸として用いられた。
N422
(C) 2016 OHKAWA
 

 ジャコウウシは天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中にかくして円陣をつくって対抗した。この〔ジャコウウシの円陣〕がD図の〔天頂点と重なる銀河部位の円形の軌道〕に見立てられた。そして[]をキャッチすれば狩猟で遠くの地に行っても道に迷わって命を失うことなく家族が待つ家に帰ることができた。ゆえに、〔天敵のオオカミに襲われたときに、真ん中にかくして子どもの命をまもるために円陣を作るジャコウウシの群れ〕は〔常に[]がキャッチできて命をまもることができる呪力、また呪術〕を象徴することになった。ジャコウウシの毛は黒にして赤(暗い褐色)であるゆえ、『説文解字』は「黒にして赤色あるものを玄と為す」と解説した。錆(さび)ないうちの銅鐸は赤色であるので、[]をキャッチする時の銅鐸の鈕影は『説文解字』の「黒にして赤色あるものを玄と為す」という字源解説に合致する。また、C図に示した――幽かな天頂緯度線と鈕影で象られる幽かな[]の極細線は銅鐸の身の中に入り、周囲が銅鐸の身で覆われるとキャッチできた。これゆえ、銅鐸で〔[]をキャッチする方法〕は『説文解字』の「幽に象り、入はこれを覆うなり」という字源解説に合致する。
 ――したがって、三皇五帝時代や夏代では明るい光が視界に入らない銅鐸のような籠(かご)・被(かぶ)りものや天頂の部分が見える葉で覆われる木陰に入って[]をキャッチしていたことになる。
 だから、銅鐸は「玄象器物」であったと考えるべきことになる。

 833年に成立した「令」の注釈書『令義解(りょうのぎげ)』巻十雑令にある「凡(おおよ)そ秘書、玄象器物、天文図書、輙(すなわ)ち出すを得ず」という文がある。この文は、朝廷と律令政治体制にとって不都合な歴史を後世に伝える事物を列挙するものであった。つまり「秘書、玄象器物、天文図書」は、朝廷と律令政治体制にとって不都合な過去の遺物・遺産であったゆえ私有物とすることを厳重に禁じた。朝廷と律令政治体制にとって〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史は厳重な機密にして独占管理しなければならない事案であった。ゆえに、上記の文中に登場する「秘書」つまり「秘密の古代書物」には「『魏志』倭人伝と『古事記』」が真っ先にあげられ、次の「玄象器物」は「銅鐸や、[]のキャッチに用いられた銅矛・銅剣・銅戈」であり、「天文図書」は「天文つまり銀河各部の形状を図書(文字)とした、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の随所に〔音〕と注が付いて多数記載された夏音(かおん)文字」であった。
 A図の「愛の鳥」の地上絵=卑弥呼の地上絵は、朝廷と律令体制が躍起(やっき)となって抹殺しようとした日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために作成された。
 だから、B図の地域から出土した10口の銅鐸は『令義解』巻十雑令に記された朝廷と律令政治体制にとって不都合な過去の遺産の「玄象器物」であったことになる。

A図の1千万坪の卑弥呼の地上絵を画く方法は、C図とD図に示した〔[]をキャッチする術〕のみ、この方法のみに限定される。G図の北極星でもH図に示した日の出・日没を利用する方法でもまた他の方法でも、ちょうど1千万坪の卑弥呼の地上絵は作成することはできない。
 L図に示すように、卑弥呼の地上絵はA地点を経緯度原点地と定め、A地点から同緯度の一等三角本点を滝峯不動尊(たきみねふどうそん)に設置し、A地点と滝峯不動尊で測量した子午線(経度軸)から29度傾く線が交わる八幡宮をもう一つの一等三角本点と定めた。この大三角形を基準にして中・小の三角形の網や鎖(くさり)を形作って幾つかの三角点を設置してちょうど1千万坪の卑弥呼の地上絵を作成した――L図は現在の国土地理院の精密日本列島地図の作製原理と同じである。
 だから、L図のA地点と同緯度の滝峯不動尊が明確に示すように、[]をキャッチすると1度の60分の11分の緯度を精確に測量できた。人間にとって命が最も大事であり――そして人間の目を鍛錬すると1分の緯度差を測定できる神秘的な眼力=呪力がそなわり、頭脳には神秘的な1分の緯度差を感知する本能=呪能(じゅのう)が潜(ひそ)んでいたので――命をまもることができた。だから原始の時から人類は[]をキャッチして生存することができたので絶滅しなかった。
N423

 
  M図に示すように、北緯3448分のA地点と滝峯不動尊と卑弥呼の地上絵の南限の北緯3446.6分との中間となる1.4分の地域に、大鳥の頭と翼の形が図化された。ゆえに、D図に示した[]のキャッチならば1分の緯度差を測定できる能力が人類にそなわり、旧石器人も縄文人も弥生人も〔[]のキャッチする呪力と呪能〕を有していたことになる――この重大な事実をA図の「愛の鳥」こと細江町の地図の形は現在に明確に伝える。
 A図の「愛の鳥」の地上絵の他に、先人たちは日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える遺跡・遺物・遺産を多数作って残した。彼らは人として実行すべき使命あるいは彼らの生きてゆくための目的であったゆえ日本国誕生史の真相を後世に伝えた。
 だから、新井白石以来約290年ものあいだ学者たちが『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に多数の〔誤読=文献批判〕を加えて排除しつづけた日本人にとって最も大切な日本国誕生史の真相は科学的に具体的に解明できる。つまり『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の記事を忠実に読解する立論方法は先人たちが残した遺跡・遺物と矛盾なく合致して論理が完結して事実となるので、日本国誕生史の真相はあざやかに蘇(よみがえ)る。したがって日本人としての命の尊厳を失わずにすみ、日本人としての魂の抜け殻にならないですむ。

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