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2016年7月14日 (木)

日本国誕生史の復興・22

 ●神話に登場する1千万坪の鳥の地上絵(2)

◆A図は2008年に発見された静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳の規模図である。
N431
(C) 2016 OHKAWA
 

 高尾山古墳は東日本における最古で最大の前期古墳である。わがブログ「日本国誕生史の復興」の2~15回で詳細に証明したように、高尾山古墳は『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に記載された伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚式をおこなった場所である。
 『三国志』呉書孫権(そんけん)伝「230年に、呉の皇帝・孫権は夷州(いしゅう)と亶州(せんしゅう)に分かれる東鯷人(とうていじん)国へ1万の武装兵を遠征させた」と記述する。呉の1万の呉軍が遠征に向かった東鯷人国はいわゆる“東国”(東海東部と関東地方)であった。中国における東鯷人国に関する最も代表的な情報は――紀元前3世紀の秦の始皇帝の時代に、方士の徐福(じょふく)が若い男女数千人を率いて海に入ったが、始皇帝が探して来いと命じた蓬莱(ほうら)の神仙(しんせん)の不老長寿の霊薬を発見できなかった。徐福は死刑をおそれて帰国しなかった。3世紀、徐福が定住した地は東鯷人国であり、卑弥呼が治める倭国の隣国であった――であった。このような徐福の歴史にもとづき、高尾山古墳は築造された。
 中国では紀元前1世紀に北極星を太一神と尊重するシナ天文が完成した。このため3世紀になると、大海を往来できる〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)〕を鍛錬する習慣が廃(すた)れた。これゆえ呉の遠征軍は東鯷人国に至るルート途中の台湾沖の太平洋で、8割から9割の兵士たちが正確な位置と方位を失って迷い漂流して壊滅した。
 ところがわがブログ「日本国誕生史の復興・2」で解説したように東鯷人国王も卑弥呼はじめ両国の人民たちは、遠征するからには呉軍は〔[]はキャッチできるにちがいない〕と思い込み、さらに呉軍の遠征目的は魏軍を倒して天下を取るための人狩りであると考えたため、1万の呉軍が必ず再度遠征するにちがいないと脅(おび)えた。これゆえ東鯷人国も倭国も恐怖のルツボと化した。ザックリ言えば赤壁の戦いの戦果にもとづくと1万の呉軍は魏の40万の大軍に匹敵(ひってき)する無敵艦隊であったゆえ、東鯷人国王は呉軍と戦っても勝てるはずがないと考え倭国の属国になることを決意した。
 かくして倭国から呉軍の呪的(じゅてき)戦力を奪う小国・日本の魔女の女王の伊耶那美命と軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命そして兵士たちが派遣され、東鯷人国は消滅して小国「日本」が誕生した。前述したように高尾山古墳において、伊耶那岐命と伊耶那美命は結婚式をおこなった。というのも、徐福が不老長寿の霊薬が採取できると思い込んだ蓬莱山は、富士山の南東に所在する沼津市の足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)であったからである。したがって呉の遠征軍は蓬莱山・足高山を目指して襲来する可能性大と推断された。そして足高山の麓一帯に汽水湖にして一大湿地帯の浮島沼が存在した。この浮島沼は呉軍との戦いを有利に戦える戦場として注目された。というのも呉軍の船団が駿河湾から浮島沼に入る入口は西方(田子ノ浦)にあり、浮島沼の奥=東方へと呉軍の船団を誘導すれば「袋のネズミ」にすることができて日本軍が有利に戦うことができたからである。ゆえに日本軍は勝利を呼びこむために、高尾山古墳は浮島沼の東方の足高山の麓に築造された。その証拠に高尾山古墳が背にする足高山の高地一帯に中国の「蓬莱山図」のごとくの一大軍事基地の足高尾上遺跡群が設営され、足高山の山頂には仙人(蓬莱の神仙)に呪力を与える「桃」と「浮島沼」をあらわす「沢」の字が付く桃沢神社が鎮座することになった。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話には「高尾山古墳における結婚式で、伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた」と記述された。この日本建国の〔愛〕の理念は、B図の高尾山古墳の主体部に埋納(まいのう」された後漢時代に作られた「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」の破砕鏡(はさいきょう)で表示された――この証明はわがブログ「日本国誕生史の復興」の1619回までの4回でおこなった。
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(C) 2016 OHKAWA
 

◆B図に示すように、日本建国の〔愛〕の理念が表示された破砕鏡より約1m離れた主体部の東と南には〔230年頃に作られた東海西部系の土器〕が埋納された。
 主体部から出土した230年頃の土器はわずかであり、同じ種類の土器はほとんど主体部の外(墳丘上)から出土した。ゆえに、B図に示した〔230年頃のものと考えられる東海西部系の土器〕について沼津市教育委員会は「それらの土器は墳丘が完成した際の祭祀(さいし)で墳頂部(ふんちょうぶ)に供えられた土器が、後で混じり込んだ可能性が高い」と考えた。
 しかし、それらの土器は230年に壊滅した呉軍の遠征にもとづいて供えられ埋納された可能性のほうが高い。また高尾山古墳の主体部(木棺)は小国・日本国に隣接する東海西部系(旧国の遠江・三河・尾張)の兵士たちによって作られたことを示すものかもしれない。東海西部は倭国に属し、小国・日本(東海東部と関東)の範囲ではなかった。したがって〔230年頃のものと考えられる東海西部系の土器〕は倭国から東海西部系の兵士たちが小国・日本の防衛に派遣されたことを示す証拠となる。 
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・21」で証明したように――C図の卑弥呼の地上絵=建比良鳥(たけひらとり)の地上絵は、高尾山古墳の主体部が作られた10数年後の260年、日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために作成が開始された。
N433
(C) 2016 OHKAWA
 

 卑弥呼の地上絵は、東海西部のうちの遠江(静岡県西部)の浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)である。この地上絵は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命神話のうちの二神の誓約説話において「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記述された豪族とその一族によって作成された。この氏族の後裔(こうえい)が関ケ原合戦直後の1601年に彦根藩主となった名家の井伊氏である。
 “地上絵”といえば、世界遺産の〔ナスカの地上絵〕が有名である。D図は“サギ()を表現したものであろう”と指摘されるナスカの地上絵で最大の鳥の地上絵である。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 D図のナスカの地上絵最大の鳥の地上絵の全長は約300m、翼長は約90mである。C図の卑弥呼の地上絵の全長は約8.5km、翼長は約9kmである。ナスカの地上絵最大の鳥の地上絵と卑弥呼の地上絵を同倍率で縮小すると、E図のごとくなって、卑弥呼の地上絵がはるかに巨大であることが一目瞭然(いちもくりょうぜん)となる。
N435
(C) 2016 OHKAWA
 
 
ナスカの地上絵は比例の方法を用いて作成されたと考えられている。まず2m四方ほどの面積に原画を描き、あとは支柱と綱を使って、その原画を比例の方法で拡大したとされる。
 ナスカの地上絵は平地に描くものであったから、比例の方法で作成できた。しかし卑弥呼の地上絵は全長8.5kmにして翼長が9kmもあるゆえ比例に使う綱をピーンと張ることができない障害物となる森・林・山・丘・谷・川などがあり、さらにちょうど1千万坪の面積にするという制約があるゆえ、比例の方法では絶対に作成することができない。
 C図が示すように卑弥呼の地上絵はA地点を経緯度原点地と定め、A地点と同緯度の滝峯不動尊を設置し、A地点と滝峯不動尊の経度軸から29度に傾く線を延長した交点の八幡宮を基準地とする大三角を測量した。この大三角を基準にして中・小の三角形の網や鎖を形作る測量をおこなえば、ちょうど1千万坪の卑弥呼の地上絵は図化できる。この卑弥呼の地上絵の作成原理は、現在の国土地理院の精密日本列島地図の作製原理と同じである。卑弥呼の地上絵の作成方法はC図に示す方法のみ一つであるからして、卑弥呼の地上絵はC図に示す方法で作成されたと断定できる。

◆C図に示すように、卑弥呼の地上絵における大鳥の顔は夏至の日の出の方角を向き、その「夏至の日の出の方角」で「わが国には中国の夏代(かだい)初頭=後期縄文時代初頭に原初漢字の夏音(かおん)文字とその学芸が伝来していた」と示す。
 「卑弥呼」の3字を「ひみこ」と読むと夏音文字の字音となる。『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名には夏音文字が用いられ、『古事記』序の冒頭の「臣安万侶(しんやすまろ)(もう)す」より以降の「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)をなす」までの文は「今から約4050年前の後期縄文時代初頭に銀河各部の形状を文字(字源・字形・字義)とする原初漢字の夏音文字の学芸が伝来して習得された」と解説するものであった。そして『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く多数の11音文字はすべて夏音文字である。
 だから、3世紀のわが国には平面的に図化する精確な地図を作成することができる夏音文字の天文地理学、いいかえると卑弥呼王朝が厳重な機密として独占管理した天文地理学が存在した。
 中国古代文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)[]の字源について「卜文(ぼくぶん)にみえるメンズハウスの建物は千木(ちぎ)形式で、わが国の神社建築に似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律化けの生活がなされたのであろう」と指摘する。卜文つまり今から3300年前に出現した殷代(いんだい)後半の甲骨文字の[]の字形は文字を学ぶ学校を図案し、わが国の千木がそびえる神社建築に相似する。だからわが国の神社建築が証拠となり、また『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に多数の夏音文字が記載されているゆえ、わが国には白川静著『字統』の[]の字源に合致する王朝と国家が厳重な機密にして独占管理した夏音文字の学芸が実在したことが確かな事実となる。この重大な事実を新井白石以来約290年もの長い間、学者たちは『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に存在する夏音文字をまったく解明しないばかりか「誤読」(文献批判)を駆使(くし)して夏音文字の学芸を排除し続けている。このため、実在した夏音文字の学芸は存在しないと日本中の人々が信じるようになったのである。

 しかし、1千万坪の卑弥呼の地上絵によってわが国に夏音文字の学芸が伝来し習得されて実在したことは確実となる。
 C図に示した卑弥呼の地上絵の南にある大鳥の頭部を90度転回して東に配置すると、F図のごとくなる。F図の卑弥呼の地上絵の翼は、G図の中国地図における海岸線の形に相似する。だから、卑弥呼の地上絵は中国地図をあらわすものであり、わが国には夏代初頭(後期縄文時代初頭)に夏音文字と精確な中国地図が伝来し、しかも3世紀において精確な中国の海岸線地図が保存されていたことになる。
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(C) 2016 OHKAWA
 

 前述したように、C図における卑弥呼の地上絵の頭部は「夏至の日の出の方角」で「夏音文字の学芸が習得された」とあらわす役目があった。このため、F図の「卑弥呼の地上絵の頭部の形」は「山東半島の地宜(地図の形)」に合致しない。
 しかしF図の〔東〕にある卑弥呼の地上絵の頭部はC図では〔南〕にある。ゆえに〔東〕に伸びる日本列島は〔南〕に伸びると卑弥呼王朝が制定した、H図の錯覚の転回日本列島地理に合致する。
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(C) 2016 OHKAWA

 わがブログ「日本国誕生史の復興・4」で詳細に証明したように、『古事記』上巻の淤能碁呂島説話は「淤能碁呂」の4字に〔音〕という注を付けて夏音文字であると指摘する。
 []の字義は「どろ()」、[]の字義は「能(クマ・熊)の冬ごもりの巣穴に横穴と縦穴があるがごとく横の緯度が縦の経度となる」をあらわし、[]はH図の左側に配した「日本列島の西端にある沖ノ島と東端にある神津島」、[]の字形は「沖ノ島と神津島と、両島を結ぶ同緯度線」をあらわすゆえ「碁呂」は「転回する」と意味した。だから、「淤能碁呂」の4字の夏音文字の語は、H図の卑弥呼王朝が制定した「錯覚の転回日本列島地理」をあらわした。つまり夏音文字「淤能碁呂」は「大海中にある日本列島の地底には海水が流れこんで淤(どろ)や沼のように柔らかくなっているので、緯度が経度になるように転回して、〔東〕に伸びるのではなく中国海岸線地域の〔南〕の方に伸びる」と意味するものとなる。これゆえ、H図の「錯覚の転回日本列島地理」は夏音文字の天文地理学の遺産であったことになる。
 I図はわがブログ「日本国誕生史の復興・10」で解説・証明した「鳥居」の形をした銀河図である。3世紀、「鳥居」の形をした銀河は、卑弥呼の地上絵の天頂にめぐってきた。I図の銀河図は〔右西・左東〕形式であるので、C図のごとく〔右東・左西〕形式にして卑弥呼の地上絵と合体すると、J図のごとくなる。
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(C) 2016 OHKAWA
 

 J図が示すがごとく「鳥居」の形をした銀河の鳥の頭部は〔東〕を向き、卑弥呼の地上絵の頭部は〔南〕にある。これゆえ、〔東〕に伸びる日本列島を卑弥呼王朝が〔南〕に伸びると制定した転回日本列島地理をあらわした。
 F図に示した卑弥呼の地上絵の頭部と山東半島の地宜に対して「向きが違う」と違和感を覚えたかもしれないが、J図の天象(「鳥居」の形をした銀河)と地宜(卑弥呼の地上絵)における鳥の頭部は〔東〕=〔南〕と示すゆえ、H図の卑弥呼王朝が「日本列島の〔東〕を〔南〕である」と制定した錯覚の転回日本地理を明確にあらわしていることになる。
 だから卑弥呼の地上絵と同様に、H図の卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理もまた、夏音文字の天文地理学の遺産であったことになる。

◆B図に示した高尾山古墳の主体部に埋納されていた後漢製の破砕鏡は学者の研究にもとづき、沼津市教育委員会はK図に示すがごとく〔4羽の鳥の絵柄〕に「鹿」「虎」「鳥」「羽人」という注を付ける。また、この破砕鏡には「上」と「宜」という文字も残っていた。また破砕した部分は高尾山古墳が背にする蓬莱山・足高山と密接に関わる仙人(蓬莱の神仙)の絵柄があったという。
N452
(C) 2016 OHKAWA
 

 B図に示したように、この破砕鏡の約1m離れた〔東〕と〔南〕には230年頃の東海西部系の土器が埋納されており、偶然の一致であろうかその〔東〕と〔南〕は「東に伸びる日本列島を南に伸びる」と定めたH図の転回日本列島地理に符合する。また卑弥呼の地上絵が所在する遠江は「東海西部」に合致する。だから卑弥呼の地上絵を作成した遠江に住む建比良鳥命は、伊耶那美命が後漢に作られた上方作系浮彫式獣帯鏡を砕いて日本建国の〔愛〕の理念をあらわしたことを知っていた。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・17」で詳細に解説・証明したように――K図の後漢製の破砕鏡に付けられた「鹿」「虎」「鳥」の注は、L図に示すがごとく「山東半島と廟島列島の地宜」を「オス鹿の横顔に相似する」、「山東半島の南の付け根から南方の海岸線地宜」は「虎の横顔に相似する」、「中国全土をもれなく包みこむ海岸線地宜」は「飛翔する味鴨の姿に観える」とあらわすものであった。
N453
 
 M図の右端[](カモ)の金文形の上部は「飛翔する味鴨の大群」、下部は「中国全土に住む多数の人民」をあらわした。ゆえに、[]の金文形は「羽人」をあらわした。
 高尾山古墳の主体部から出土した後漢製の破砕鏡の「上」と[]は、M図の「中国の海岸線を上にする地宜」をあらわした。
 だから、後漢製の鏡の〔4羽の鳥の絵柄〕は「群れが3kmにも及んだという、飛翔する味鴨の大群」をあらわす図案であり、後漢王朝の「飛翔する味鴨の大群のごとく中国全土に人民が満ちあふれる願い、すなわち人口増加政策」を表現するものであった。
 高尾山古墳から出土した上方作系浮彫式獣帯鏡は、日本国内ではこれまでに50例近く見つかっている。そうすると当時、50例以上おそらく100例以上の鏡が倭国と小国・日本にもたらされて「4羽の味鴨の絵柄は後漢王朝の人口増加政策をあらわす」と解釈されて有名であったにちがいない。
 だから伊耶那美命が〔4羽の味鴨の絵柄〕を残した破砕鏡は高尾山古墳の主体部に埋納されたが、他の上方作系浮彫式獣帯鏡によって「伊耶那美命は日本建国の〔愛〕の理念をあらわして小国・日本を去り、倭女王に就任した」と倭国は大騒ぎになったのである。

 『魏志』倭人伝末部には「卑弥呼の墓に百余人の奴婢を犠牲(いけにえ)にして殺して埋めた徇葬(じゅんそう)を憎悪する人々が倭王朝と戦う反乱が倭国の国中にひろがったが、遂に壱与(いよ)が倭女王に就任すると遂に定まった」という記事が存在する。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・10」で証明したように、呉の遠征軍の呪的戦力を奪う伊耶那美命の魔女名=夏音名は「壱与」であった。
 上記した『魏志』倭人伝末部の「壱与・伊耶那美命が倭女王に就任すると国中にひろがった徇葬を憎悪する反乱が遂に定まった」という原因は、『古事記』上巻に記された「高尾山古墳でおこなわれた淤能碁呂島の聖婚で壱与・伊耶那美命は唱えた日本建国の〔愛〕の理念」であった。つまり、〔愛〕の女王壱与・伊耶那美命が倭女王に就任したならば必ず徇葬は禁止されるにちがいないと反乱者たちが信じて戦うのを止めた。ゆえに、徇葬を憎悪する大乱は一気に終息したのである。
 そして高尾山古墳の主体部が完成してから10数年後の260年、小国・日本に派遣されて高尾山古墳の主体部の作成に参加したであろう遠江の建比良鳥命は日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために1千万坪の卑弥呼の地上絵の作成に着手した。
 さらに建比良鳥命以後に生存した先人たちもまた、夏音文字の学芸を用いて日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える日本人として実行すべき使命を全(まっと)うした。これゆえ日本建国の〔愛〕の理念は遺跡・遺物・信仰・国語・文学・絵画・風俗・習慣等となって残った。ところが新井白石以後の学者たちは夏音文字の学芸をまったく解明しなかった。だから彼らの意見は、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記述された歴史の真相を解明することができない誤読の産物となった。

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