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2016年7月19日 (火)

日本国誕生史の復興・23

 神話に登場する1千万坪の鳥の地上絵(3)

◆A図は2008年に発見された東日本における最古で最大の前期古墳の、静岡県沼津市の東熊堂に所在する高尾山(たかおさん)古墳の規模図である。
 高尾山古墳は230年頃に墳丘が完成し、250年頃に後方墳の主体部に土器・後漢時代の破砕鏡(はさいきょう)1面・鉄槍(てつやり)2点・鉄鏃(てつぞく)33点・ヤリカンナ1点・勾玉1点などが納められたと推定されている。
N461
(C) 2016 OHKAWA
 

 わがブログ「日本国誕生史の復興」の2~15回までで詳細に証明したように、高尾山古墳は『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に登場する小国・日本の女王となった伊耶那美命と軍王(いくさのおおきみ)となった伊耶那岐命が最初に結婚した式場であった。この結婚式で、伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。さらに倭女王になった伊耶那美命と伊耶那岐命は兵庫県淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮で二度目の結婚式をおこなった時も倭国の国作りの柱を日本建国の〔愛〕の理念と定めたと、淤能碁呂島の聖婚説話は記す。つまりこの説話は現在の「四国」を「伊予之二名島(いよのふたのしま)」と名づけて四つの小国に分け、そのうちの一国を「伊予国」と名づけて祭神名を「愛比売(えひめ)」と定め、倭国の国作りの柱を日本建国の〔愛〕の理念と定めたと記す。したがって伊予之二名島(四国)全体の祭神もまた「愛比売」であったゆえ、倭国の国作りの柱は日本建国の〔愛〕の理念であったことになる。日本建国の〔愛〕の理念をあらわした「愛比売」は現在の県名「愛媛」となって残った。
 伊耶那岐命は後の第9代開化(かいか)天皇である。開化天皇の正妃の竹野比売(たかのひめ)は、人民に敬愛されて「伊耶那美命」と呼ばれた。したがって、開化天皇が小国・日本の軍王であった時の「伊耶那岐命」も愛称であった。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の18回・19回で詳細に解説し証明したように、伊耶那美命が没すると伊耶那岐命の第ニ后の伊迦賀色許売命(いかがしこめにみこと)が倭女王に選ばれた。彼女は、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話に登場するヒロインの「黄泉国の伊耶那美神命」であった。この「黄泉国の伊耶那美神命」の正体は、皇室が最も偉大な先祖と定めた「皇祖の天照大御神」であった。倭女王に就任した天照大御神=黄泉国の伊耶那美神命は熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に伊耶那美命の陵墓を築造する事業を指揮し、多数の青年男女を犠牲(いけにえ)にして殺して八雷神(やくさのいかづちがみ)に捧げる徇葬(じゅんそう)を決行した。この残酷な徇葬を怒った伊耶那岐命がクーデターを決行し、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本つまり現在の熊野速玉大社の所在地(和歌山県新宮市新宮)で黄泉軍(よもついくさ/倭王朝の大軍)を伊耶那岐命軍(日本軍と熊野に住む戦士たち)が撃破してクーデターを成功させた。
 8世紀初頭、皇室は天照大御神が最も偉大であったと捏造(ねつぞう)する偽書(ぎしょ)の作成を欲求した。このため『古事記』編纂スタッフは徇葬を決行した倭女王名を「天照大御神」と記すことができなかったので、皇室が憎悪した「伊耶那美命」の名を利用して「天照大御神」を「伊耶那美命」と表記する方法で偽書を作成したと装(よそお)った。
 伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の末部は、現在の新宮市磐盾(いわたて)町に所在する神倉(かんのくら)神社の御神体の千引石(ちびきのいわ/現在のごとびき岩)の前で伊耶那岐命は伊耶那美(天照大御神)に離縁を言い渡した。すると離縁された妻は「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日に千頭絞(ちがしらくび)り殺さむ」と呪(のろ)いの言をはいた。この呪いの言は「日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人々の母親たちの産道が狭くなるように呪って、一日に必ず千人の胎児の頭を狭い産道で絞()めつぶして殺す」と意味した。だから伊耶那岐命は「吾(あれ)一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」と述べ、伊耶那美命の遺志を継いで「日本建国の〔愛〕の理念を最も尊ぶ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓した。
 この千引石の前の記事をもって、編纂スタッフは「伊耶那美命」の正体が「天照大御神である」と証明できるようにした。その証拠に夫婦が離縁した場所に現在は神倉神社の社殿が作られ、神倉神社の主祭神は天照大御神である。

◆クーデターが成功して倭の大王となった伊耶那岐命=開化天皇は晩年、天照大御神・大和王朝によるクーデターの連鎖(れんさ)を断つために、倭女王から失脚(しっきゃく)された怨念(おんねん)と復讐(ふくしゅう)の念を露骨に示す天照大御神=伊迦賀色許売命が生んだ第10代崇神(すじん)天皇に譲位した。わがブログ「日本国誕生史の復興・19」で指摘したように、天照大御神は開化天皇の父の孝元(こうげん)天皇とも結婚し、孝元天皇とのあいだに生まれた子が崇神天皇である。したがって、崇神天皇は開化天皇の養子であり、異母弟でもあった。この崇神天皇の異名(いみょう)も『古事記』は生母・伊迦賀色許売命と同じく「天照大御神」と記した。
 開化天皇のクーデターの連鎖を絶つ政策は、『古事記』上巻の三貴子(さんきし)の分治説話に記載された。この説話は「天照大御神・崇神天皇に高天原(たかままのはら)を、月読命(つくよみのみこと)に夜之食国(よるのおすくに)を、伊耶那美命が生んだ須佐之男命(すさのをのみこと)に海原(うなはら)を治めるように授けた」と記す。
 B図に、三貴子の各分治範囲を示した。月読命はおそらく第三后の意祁都比売命(おけつひめのみこと)が生んだ日子坐王(ひこいますのみこ)であると考えられ、「小国・日本」が「夜之食国」であったのであろう。
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(C) 2016 OHKAWA
 

 ところが、たとえ開化天皇が崇神天皇に譲位しても、天照大御神母子の伊耶那美命・伊耶那岐命への憎悪と敵意は消えるはずもなく、千引石の前で誓ったとおり日本建国の〔愛〕の理念を尊ぶ人民を祟(たた)って苦しめる政策を必ず実行するにちがいない――と考える五人の王たちが天照大御神母子王朝を崩壊させるクーデターを計画した。この五人の王たちのクーデター計画は天照大御神母子王朝を倒して須佐之男命を倭の大王に即位させ、伊耶那美命の墓が造られた熊野本宮大社に王朝を創設すると企てるものであった。ゆえに後に、須佐之男命は熊野本宮大社の主祭神となって祀られた。
 『古事記』の三貴子の分治説話の次の須佐之男命の啼()きいさち説話は――倭の大王の位を譲られても崇神天皇とその母の怨念は消えず日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民を憎悪して苦しめるにちがいなく、彼らが譲位を感謝して父開化帝が没した時に陵墓を造るはずがないと、須佐之男命が悲嘆して号泣した――と説明するものであったことになる。
 須佐之男命はじめ五人の王たちが予想したとおり、崇神天皇は母を倭女王から失脚させて天下を奪った開化天帝をゆるさず復讐して開化天皇陵を築造しなかった。奈良市に所在する開化天皇陵は墳丘規模などから5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推定されている。ゆえに、3世紀に死去した開化天皇の墓は築造されずに5世紀末から6世紀まで開化帝・伊耶那岐命を葬った古墳は存在しなかったので、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話の末部には「伊耶那岐大神は淡海(おうみ)の多賀(たが)に坐()すなり」と記された。つまり滋賀県犬上郡多賀町にある多賀大社は開化帝・伊耶那岐命の霊を祀る廟(びょう)であった。というのも、多賀大社はA図に示す高尾山古墳が背にする、C図に示す沼津市の足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)と同緯度(北緯3514)であったからである。(この詳細は、わがブログ「日本国誕生史の復興・16」を参照していただきたい)
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 開化天皇は須佐之男命と5人の王のクーデター計画を知って、さらなるクーデターの連鎖の発生に激怒して皇居から息子を追放した。しかし、その時に開化天皇は死期が迫っていたので追放した須佐之男命を枕もとに呼び寄せて、生母の伊耶那美命の遺志を継ぐ「多賀」という遺言を残した。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は――「多賀」の[]の字源について「声符は加。加は耜(すき/)を祓(はら)い清めて、その生産力を高めるための儀礼。貝も生産力を高め、魂振(たまふ)り的な呪能(じゅのう)をもつとされるので、両者を併せて、生子儀礼や農耕儀礼に用いる字である」と解説する。ゆえに、「多賀」は「多くの子が生まれ、多くの農作物が収穫される」と意味した。だから「多賀」という遺言は、上記した倭女王・伊耶那美命と伊耶那岐命が兵庫県淡路市多賀の伊弉諾神宮で二度目の結婚をして倭国の国作りの柱に定めた「日本建国の〔愛〕の理念」をあらわした。
 須佐之男命は父の葬式を略式ですませると、「多賀」という遺言をまもるためにD図に示す天照大御神・崇神天皇母子が居住する新首都となった師木(しき)の水垣宮(みづがきのみや)(『日本書紀』の磯城の瑞垣宮)へ目指し配下の兵士たちを率いて上った。『古事記』上巻の須佐之男の昇天説話は「須佐之男命が新都に上る様子」を説明し、この説話の次は天照大御神と須佐之男命の誓約説話である。
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◆天照大御神と須佐之男命の誓約説話は――天照大御神つまり崇神天皇と須佐之男命が天下を二分して争う倭の大乱を避けるために〔不戦の誓い〕を約束した様子――を記述する。
 この〔不戦の誓約〕がおこなわれた場所が、D図に示す師木の水垣宮の北側の狭井(さい)川であった。この説話は〔狭井川〕を「天(あめ)の安河(やすかわ)」と記す。崇神天皇と須佐之男命が不戦の誓いを交わした場所は「天(あめ)の真名井(まない)」と名づけられた。
 崇神天皇軍の兵士が小さな谷川の狭井川を渡って須佐之男命の腰に帯びる長剣をもらい受け、この長剣を崇神天皇は三つに折って天の真名井の水(聖水)で洗い清め、その聖水を口に含み噛()みに噛んで吐き出す息で霧吹きをして宗像(むなかた)の三女神をあらわした。
 次に須佐之男命軍の兵士が狭井川を渡り、武装するとともに倭女王から失脚した生母の怨みをあらわして女装する崇神天皇の角髪(みずら)に巻く多くの勾玉(まがたま)を貫き通した長い緒(ひも)をもらい受け、これを須佐之男命は天の真名井の聖水で洗い清めた。この聖水を崇神天皇と同様に須佐之男命は口に含んで噛みに噛み、吐き出した息で霧吹きをしてクーデターを企てる五人の王たちの名を渾名(あだな)で告げて不戦を誓った。
 ところが、須佐之男命は崇神天皇の卑劣な策にはまって騙(だま)された。
 崇神天皇が須佐之男からもらいうけた「長剣」は「戦争の道具」であるから「三つに打ち折る」は「戦争をしない」すなわち「不戦」をあらわした。しかし、崇神天皇が聖水で霧吹きをしてあらわした〔宗像の三女神〕は「戦い」をあらわした。というのも天照大御神と須佐之男命の誓約説話の末部は「宗像の三女神に斎(いつ)(奉仕する)天菩比比命(あめのほひのみこと)に率いられる一派も、須佐之男命と五人の王たちグループとは別行動でクーデターを計画していた」と記載するからである。というのも須佐之男命は三女神を祀る天菩比命は崇神帝の味方につくほど親しいと疑っていたので、天菩比命は別行動をとらざるをえなかったのである。ゆえに、崇神天皇は「不戦」を誓うかのごとく見せかけて、須佐之男命が天菩比命一派もクーデターを計画していることに気づかないことを利用して「クーデターを企てる六人の王の勢力を討伐する」と意思表示した。だから須佐之男命は崇神天皇にまんまと騙(だま)されてクーデターを計画する五人の王たちの情報をもらしたことになる。
 その証拠に、次の須佐之男命の勝さび説話は――不戦の誓約で崇神天皇に騙されたことを知った須佐之男命は「わが心は清らかで邪心がなかった。だから吾は騙された。しかし所詮(しょせん)、吾が騙された三女神はか弱い女性であるから、誓約の結果は吾が勝ったことになるのだ」と負け惜しみを言って悔(くや)しがり、その鬱憤(うっぷん)晴らしに須佐之男命(と兵士たち)は数々の乱暴を働いた――と記述する。

◆話を天照大御神と須佐之男命の誓約説話にもどすと――須佐之男命が崇神天皇に告げたクーデターを計画した五人の王の渾名(あだな)は、(1)正勝吾勝々速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)(2)天之菩卑能命(あめのほひのみこと)(3)天津日子根命(あまつひこねのみこと)(4)活津日子根命(いくつひこねのみこと)(5)熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)であった。(3)の天津日子根命には後世に国造(くにのみやつこ)や連(むらじ)や直(あたい)などになった先祖の12人の豪族たちが従っていた(『古事記』に記載された12人の豪族の名は省略する)
 疑われて須佐之男命グループに加わることができなかった天菩比命のクーデター計画一派には七人の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が参加していた。この七人の建比良鳥命は――(1)出雲国造(いずものくにのみやつこ)(2)无耶志(むざしの)国造、(3)上菟上(かみつうなかみの)国造、(4)下菟上(しもつうなかみの)国造、(5)伊自牟(いじむの)国造、(6)津島県直(つしまのあがたのあたい)(7)遠江(とおとうみの)国造の先祖の豪族たちであった。
 
E図は、上記の天菩比命のクーデター計画一派に参加した最後の七人目に列記された遠江国造の先祖の建比良鳥命とその一族が作成した〔卑弥呼の地上絵〕である。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 
A図の高尾山古墳の主体部はじめ周溝(しゅうこう)やその周囲から、地元産(静岡県中部・東部)の形式以外に、関東、近江(滋賀県)、北陸や東海西部(愛知県と静岡県西部)の土器が出土している。
 F図は伊耶那美命と伊耶那岐命が封ぜられて治めた小国・日本の範囲である。
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(C) 2016 OHKAWA
 

 ゆえに上記したクーデターを計画した五人の王のうちの(1)正勝吾勝々速日天之忍穂耳命は、小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命の後を受け継いだ関東に居住する男王であったと考えられる。
 (2)天之菩卑命は、G図に示す倭女王卑弥呼が居住した王国の邪馬壱(やまい)国の山陰出雲地方(島根県・鳥取県西部。旧国の石見・出雲・伯耆)の男王の渾名であったであろう。ゆえに、その名に「卑弥呼」の[]の字が配されたにちがいない。
N473
(C) 2016 OHKAWA
 
 (3)天津日子根命は高尾山古墳から出土した土器が示すように、G図に示す呼邑(こお)国にして近江・滋賀県の伊耶那岐命の異母弟の建波邇安王(たけはにやすのみこ/『日本書紀』は「武埴安彦」と記す)であったことになる。『古事記』中巻の崇神天皇紀には建波邇安王の反逆記事があり、建波邇安王を崇神天皇は「庶兄(まませ/異母兄)」と呼び、孝元天皇紀は伊耶那岐命・開化天皇と崇神天皇の兄弟として建波邇安王の名を記載する。また『日本書紀』崇神天皇紀の四道将軍の記事では武埴安彦は謀反人としてあつかわれ、武埴安彦軍は崇神王朝軍に討伐(とうばつ)された。これゆえわがブログ「日本国誕生史の復興」の1619回で証明したように、近江・滋賀県にはA図とC図に示した高尾山古墳と足高山・蓬莱山こそが日本国が誕生した中心地であったと証明できる幾つかの史料が現存する。
 (4)活津日子根命は『日本書紀』崇神天皇紀の四道将軍の箇所で四道将軍の一人の大彦命(おおびこのみこと)に討伐された北陸の男王の渾名であったことになる。『古事記』崇神天皇紀の建波邇安王の反逆記事もまた「大毘古命(おおびこのみこと)を越道(こしのみち)つまり北陸地方に派遣して討伐した」と記述する。前述したように、A図の高尾山古墳の周溝やその周囲から北陸の土器が見つかっているゆえ、北陸の男王・活津日子根命は倭国から小国・日本に派遣されて伊耶那美命を崇拝して日本建国の〔愛〕を尊重したことになる。
 (5)熊野久須毘命は伊耶那岐命の黄泉国訪問説話が証言するように伊耶那岐命のクーデターを協力した熊野の戦士たちがつかえる男王を指していたことになる。
 『古事記』と『日本書紀』の崇神天皇紀は――大彦命以外の四道将軍の三人を東海道の十二国や西道や丹波に派遣して討伐した――と記述する。このように、崇神天皇・天照大御神王朝はクーデター計画を潰した。

◆天照大御神・崇神天皇母子王朝を崩壊させるクーデター計画は失敗した。天菩比命一派のクーデター計画に参加した遠江国造の先祖の建比良鳥命は「なぜなんだ! なぜだ、なぜだ、なぜだ……、なぜこうなるのだ」と憤激悲嘆(ふんげきひたん)して、E図に示す日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える1千万坪の大鳥の地上絵を作成した。
 というのもわがブログ「日本国誕生史の復興」の1619回で証明したように、倭女王に選ばれた伊耶那美命は小国・日本を去るときに後漢時代に作られた「上方作系浮彫式帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」を砕(くだ)いて日本建国の〔愛〕の理念をあらわし、A図の高尾山古墳の主体部に埋納したからである。
 H図の上方作系浮彫式獣帯鏡の破砕鏡(はさいきょう)に残った「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の注が付く〔4羽の鳥の絵柄〕は日本建国の〔愛〕の理念をあらわした。また、この破砕鏡に残った「宜」という字は「地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」を意味した。
N474

(C) 2016 OHKAWA

 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・22」で指摘したとおり、I図に示すように高尾山古墳の主体部に埋納されたH図の後漢製の破砕鏡より約1m離れた東と南から「230年頃に作られた東海西部系土器」が発掘された。
N475

だから「東海西部の遠江」の豪族・建比良鳥命は、H図の鏡の〔4羽の鳥の絵柄〕が日本建国の〔愛〕の理念をあらわすことを知っていた。伊耶那美命を熱烈に敬愛して憧れた建比良鳥命は後世に日本建国の〔愛〕の理念を伝えるため、鏡にある[]の字に注目して260290年頃に1千万坪の大鳥の地宜すなわち卑弥呼の地上絵を作成した(注 E図の卑弥呼の地上絵の作成年代は、わがブログ「日本国誕生史の復興」の21回・22回で証明した)
 小国・日本の兵士であった遠江の豪族・建比良鳥命は後期縄文時代初頭(夏代初頭)に中国から伝来した夏音文字と天文地理学に精通する学者でもあった。これゆえ、『魏志』倭人伝と『古事記』序と上巻に残った夏音文字の全貌が科学的に解明でき、また夏音文字の天文地理学の全貌も科学的に具体的に解明できる卑弥呼の地上絵が約1730年後の現在においても失われないで残ったという世界史的にも極めて稀(まれ)な奇跡がおきたのである。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の10回・11回で証明したように伊耶那岐命・開化天皇の夏音名は『魏志』倭人伝末部の247(魏の正始7)の記事に登場する載斯烏越(そしあお)であった。伊耶那岐命・竹野比売(たかのひめ)の夏音名は『魏志』倭人伝に記載された倭女王・壱与(いよ)であった。したがって高尾山古墳の主体部が作られて伊耶那美命と伊耶那岐命が小国・日本を去ったのは、246年か、247年初頭の頃であったことになる。そして、多分250年頃に伊耶那美命は死去し、建比良鳥命が卑弥呼の地上絵の作成に着手した260年頃の12年前に伊耶那岐命は死去していたことになる。
 須佐之男命はB図に示す海原の中心地の出雲に移住して生涯を終え、天之菩卑能命の没後に大国主神が出雲地方を支配した。『古事記』上巻の葦原中国(あしはらのなかつくに)のことむけ神話は「小国・日本を治める男王の正勝吾勝々速日天忍穂耳命が天照大御神に懐柔(かいじゅう)された」と示す記事から始まる。このため、大国主神は小国・日本を味方にした天照大御神・大和王朝に征討(せいとう)されて国譲りした。『古事記』上巻の天孫邇邇芸命(てんそんににぎのみこと)神話は、天菩比命が治める宗像王権は天孫(天照大御神の孫)が率いる大和朝廷軍に討伐されたと記述する。残るクーデターを計画した熊野久須毘命については、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に伝わる陰陽和合の護符である牛王神璽(ごおうしんじ)の起請文が――伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の舞台が熊野であった秘密を漏らす者は天罰が下り、この紙の一片を違反者に飲ませると血を吐くと定めて二度と大和朝廷に歯向かうことはしなくなった――と今に伝えている。
 以上のごとく『古事記』上巻は、須佐之男命が天照大御神(崇神天皇)に不戦の誓約で騙されたために六人の王たちが計画したクーデターは失敗し、六人の王たちは征服されあるいは懐柔されて大和朝廷の基礎が築かれた史実を記述する文献であったのである。

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