« 日本国誕生史の復興・23 | トップページ | 日本国誕生史の復興・25 »

2016年7月24日 (日)

日本国誕生史の復興・24

 神話に登場する1千万坪の鳥の地上絵(4)

2008年に発見された静岡県沼津市の高尾山(たかおさん)古墳は東日本最古で最大の前期古墳である。わがブログ「日本国誕生史の復興」が前回まで証明してきたように、高尾山古墳は――『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話の全記事・全語・全字に合致する――ゆえに現在、日本国は〔愛〕の理想の基(もと)に誕生した歴史を証明できるようになった。
 皇室が正史と定めた『日本書紀』神代紀にも基本となるオロゴロシマ説話はじめ「一書曰(いわ)く」という十種のオノゴロシマ説話が存在する。しかし、この十一種すべての説話は高尾山古墳との合致点が少ない。だから『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話とこの説話に合致する高尾山古墳の両者は日本国誕生史の真相を伝える最も確かな根本史料となる。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に日本国が〔愛〕の理想の基に誕生した歴史が記述されたことは、新井白石(16571725)以前の天皇はじめ先人たちは知っていた。ゆえに、どうやら白石の〔誤読=文献批判〕を用いる立論方法は日本国誕生史ばかりかその害が大和朝廷の基礎を築いた皇祖天照大御神の歴史まで及んで破壊されると驚愕(きょうがく)し心配した皇室は、白石が没してから13年後の1738年、皇室最大の神事の大嘗会(だいじょうえ)を復興して即位する天皇の王冠の意匠で日本建国の〔愛〕の理念を表示するようにした。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話は〔高尾山古墳を式場とする結婚式で伊耶那美命が伊耶那岐命より前に「なんとまあ、すばらしい男性でしょう」と声をかけたという記事〕をもって伊耶那美命が小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めたと後世に伝えた。
 この伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念は、上記した高尾山古墳の主体部から出土したA図の2世紀後半頃(後漢時代)に中国で作られた上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)の破砕鏡(はさいきょう)によって明確に証明することができる。だからA図に示す破砕鏡によって、『古事記』上巻の淤能碁呂の聖婚神話に記述された日本建国の〔愛〕の理念を排除(はいじょ)する現在の学者たちの解釈は紛(まぎ)れもなくほんものの〔誤読の産物〕であった。
N481
(C) 2016 OHKAWA

 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・23」で証明したように、B図の現在の静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域をあらわす地図の形として現存する卑弥呼の地上絵は、日本国が〔愛〕の理想のもとに誕生した事実を後世に伝えるために作成された。

◆沼津市教育委員会は高尾山古墳の墳丘は230年頃に完成し、主体部は250年頃に作られたと推定する。B図の卑弥呼の地上絵は高尾山古墳の主体部の構築から約10年後の260年に作成が開始され約30年後の290年に完成した。また、『魏志』倭人伝は280289年に著作されたゆえ、卑弥呼の地上絵は『魏志』倭人伝と同時代に作成されたことになる。
 上記したように新井白石以後から学者たちは自由気ままに多くの誤読を加え、この「誤読」に「文献批判」と洒落(しゃれ)た名をつけて空理空論を主張し続ける。
 学者たちの意見が簡単に即座に誤読の空論であると断定きる決定的な理由・論拠は――C図に示す北極星で3世紀の人々が森林や山谷や大海の緯度と方位を精確に測量できると思い込む、この学者たちの錯覚である。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・2」で詳細に解説したように、C図は――すべての時代において北極星では精確な緯度と方位を測定できなかった【科学】の事実を示す。
N482
(C) 2016 OHKAWA

 
 C図に示すように、卑弥呼や伊耶那美命が生存した3世紀の北極星は天の北極から約10度・600分隔てて円周していた。したがって北極星で緯度観測すると、直径の20度・1200分の誤差を生じることになった。だから学者たちの意見だと中国と日本列島の中間の玄界灘を魏・魏の朝鮮半島の出張政庁・帯方郡(たいほうぐん)の使者も倭の使者も玄界灘を渡ることができなかったことになる。したがって魏と倭は国交を結ぶことができなかったゆえ、中国では倭国の事情をまったく知らなかったので『魏志』倭人伝は著作されず文字が1字も書かれていなかった白紙となる。だから、即座に学者たちの意見は誤読の空論となる。
 D図の右上に示す[]をキャッチすれば、1度の60分の11分の緯度差の相違と南北の子午線が精確に測定できた。だから3世紀の倭の使者と船乗りたちは玄海灘を往来することができた。玄界灘は「北極星で緯度測量すると渡ることができないが、[]をキャッチすれば往来できる大海」であったゆえ、当然、「玄界灘」と名づけられたのである。
 人間の目は鍛錬すると[]がキャッチできる能力があり、脳は[]をキャッチできる本能を有するものであった――この事実に学者たちはまったく気づかない。
N483
(C) 2016 OHKAWA

 E図の右側に示すように日本列島の西端にある玄界灘に浮かぶ沖ノ島と東端にある神津島は同緯度(北緯3415)である。卑弥呼王朝は沖ノ島と神津島の気候を注目して「日本列島の〔東〕は中国の海岸線地域の〔南〕の方に伸びる」と立論した錯覚の転回日本列島地理を制定した。『魏志』倭人伝には方位を記す記事は全部で15ヵ所ある。この全15ヵ所の方位記事は、E図の転回日本列島地理に合致する。
 F図に示すように、日本列島の西端の沖ノ島では冬に雪が降るが東端の亜熱帯地区の神津島では冬になっても雪は降らず一年中暖かい。これゆえ、日本列島の地理と気候を合体させると〔西冷・東暖〕となる。中国の海岸線地域の北部の気候は冷たく、南部は暖かいので〔北冷・南暖〕となる。だから中国海岸線地域の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕は共に暖かい気候で合致するので、『魏志』倭人伝が伝えるように「日本列島の〔東〕は中国海岸線地域の〔南〕の方に伸びる」と卑弥呼王朝は錯覚したのである。

N491
(C) 2016 OHKAWA

◆前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・23」で証明したように、B図に示した卑弥呼の地上絵は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之命の誓約説話末部に記載された遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)とその一族が作成した。彼らはA図の後漢製の破砕鏡に残った〔4羽の鳥の絵柄〕であらわされた「日本建国の〔愛〕の理念」を後世へ伝えとうとして、卑弥呼の地上絵を作成した。その証拠に、A図の破砕鏡に残った[]という字は「地宜(ちぎ)」つまり「平面的に図化した地図の形」をあらわした。だからB図の大鳥の地上絵は、A図の破砕鏡の〔4羽の鳥の絵柄〕であらわされた日本建国の〔愛〕の理念を[]すなわち「地宜」をもってあらわす遺跡であった。 
 結局、B図の1千万坪の卑弥呼の地上絵は「玄界灘」という名の由来と同じく〔北極星では作成することができないが、[]のキャッチならば作成できた大鳥の地上絵〕であった。建比良鳥命はどうしても後世に日本建国の〔愛〕の理念を伝えたかった。だから、卑弥呼の地上絵をたった一つの作成できる方法である――[]をキャッチする方法をもって作成された。この卑弥呼の地上絵には、E図に示した転回日本列島地理と倭の34小国名に用いられ夏音(かおん)文字の学芸の知識が貯蔵された。それというのも夏音文字の学芸を用いれば日本建国の〔愛〕の理念が最も正確に後世に伝えることができたからである。
 D図の右上の〔[]をキャッチする方法〕を研究すれば、おのずと卑弥呼の地上絵の作成に用いられた〔夏音文字の学芸における科学〕が解明できる。3世紀には【科学】という語がなかったが、【科学】の方法で卑弥呼の地上絵が作成されて日本建国の〔愛〕の理念が保存された。後世の人々にとっては【科学】の方法で作成された遺跡からは、たとえ1750年前の神代であっても昨日の出来事のごとく確かな歴史を知ることができる。
 学者たちは神代の歴史を正しく解明できる方法の(1)[]のキャッチ〕と(2)夏音文字についてまったく注目しない。これが原因で、学者たちは『魏志』倭人伝と『古事記』上巻には多数の〔誤読=文献批判〕を加え続けることになった。
 朝廷が皇祖天照大御神の聖性を絶対に汚してはならぬと命令した真実の歴史を、編纂スタッフは『古事記』上巻の随所に夏音文字を挿入(そうにゅう)して、夏音文字を解読すれば真実の歴史が解明できるように企(たくら)んだ。ところが学者たちが尊重して『古事記』研究の参考書とする『古事記伝』を著作した本居宣長(17301801)は夏音文字を排除(はいじょ)して解読しなかった。真実の歴史を解明するには夏音文字の解読は不可欠であったため、宣長の研究は〔誤読の産物〕となった。しかし現在は、高尾山古墳と卑弥呼の地上絵によって、夏音文字の全貌が解明できて『古事記』上巻に記述された神代(3世紀から5、6世紀まで)の真実の歴史が【科学】が成立して証明できるようになった。

◆わがブログ「日本国誕生史の復興・17」で証明したように――中国の五経の第一に挙げられる古典『易経(えききょう)』繋辞(けいじ)上伝は、F図に示した〔北冷・南暖〕の中国海岸線の地宜を「易は天地に準(なぞら)う。ゆえに、能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観、俯()してもって地理を察す」と指摘する。
 上記の文中にある「弥綸す」という語は「つくろいおさめる。洩れなく包み込む」と意味する。F図に示す「中国の海岸線」は〔中国全土を洩れなく包み込み、しかも長江口(ちょうこうこう)から杭州湾(こうしゅうわん)にかけて綻(ほころ)び裂けるがごとくなるが、杭州湾より南方はその綻びが繕(つくろ)いおさまる〕。ゆえに、「弥綸す」という文は「中国の海岸線」をあらわした。
 実はG図に示す〔山東半島〕は〔水鳥のカンムリカイツブリの頭部〕に相似すると見立てられ、〔山東半島の根元(ねもと)から南北へと伸びる海岸線〕は〔カンムリカイツブリの両翼〕に相似すると見立てられて、[]の字源は「水鳥のカンムリカイツブリ」と定められた。ゆえに「カンムリカイツブリの頭と翼の形に相似する中国の海岸線」は[]の字源となった。
N492
(C) 2016 OHKAWA
 
 〔綻び裂ける形状〕に観える「長江口と杭州湾」のうちのH図に示す「杭州湾」は[]の字源「水鳥の鳰(にお/カイツブリ)」をあらわすことになった。H図に示すように、〔杭州湾の地宜〕は「鳰の姿」に相似するからである。
N493
(C) 2016 OHKAWA
 
 “字書の聖典”と尊重される2世紀初頭に著作された『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「息を外()くなり」と解説する。わがブログ「日本国誕生史の復興・22」でも指摘したように、G図に示す〔山東半島の根元から杭州湾までの海岸線の地宜〕は〔虎の横顔〕に見立てられた。また〔山東半島の根元から杭州湾までの海岸線の地宜〕は〔人の横顔〕に相似すると見立てられた。したがって〔杭州湾〕は〔虎の口〕または〔人の口〕に見立てると定められたゆえ、「杭州湾」は『説文解字』が「息を外()くなり」と解説する[]の字源を示す地宜となった。
 杭州市の南を流れる銭塘江(せんとうこう)は上流から運ぶ土砂を杭州湾へと外()く。ゆえに、「杭州市から河口までの銭塘江」は「杭州湾」と共に[]の字源をあらわす地宜となった。だからH図に示すように[]の字源の「杭州湾」は〔鳰の姿〕に相似するので、「鳰」もまた[]の字源をあらわすことになった。
 鳰は水草の茎を支柱とし、水面に草の葉や茎などで浮巣(うきす)を作る。この「鳰の浮巣の支柱」は[]とされ、〔杭州市から河口までの銭塘江〕の地宜は「嘴(くちばし)ではなく、[]に見立てる」と定義された。だから、〔銭塘江の河口に近い地〕の名は「杭州」となった。なぜ〔杭州市から河口までの銭塘江〕の地宜は〔嘴〕ではないと定義されたかといえば、G図に示す[]の字源「山東半島」には〔嘴〕に相当する地域が存在しないからである。

◆『説文解字』は[]の字源を「賤(いや)しきものなり」と解説するが、この解説は誤っていた。その証拠に、わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)[]の字について「金文にはなお卑賤(ひせん)の用義例はない」と指摘する。したがって、金文が用いられた周代(紀元前11世紀~同8世紀)とそれ以前の[]の字源は、G図に示す「地宜をあらわす低い標高0mの海岸線」または「地宜をあらわす湖岸や川岸の水際(みずぎわ)」であった。その証拠に、「卑湿」という語は「土地が低く、湿気がある」と意味する。だから、[]の字源は「海岸線、湖岸、川岸」であった。
 G図に示す[]の字源は「中国の海岸線」であった。[]の字源は「カンムリカイツブリの頭部と両翼に似る海岸線」であった。[]の字源は「杭州湾」であった。ゆえに「中国の海岸線地域」から倭女王の名は「卑弥呼」と定められた。というのも、彼女はF図にて解説したように「中国の海岸線地域」からE図の転回日本列島地理を立論したからであった。
 『魏志』倭人伝は「倭女王卑弥呼が文書に用いた文字は、魏と帯方郡と諸韓国の文字と差錯(ささく/相違)した」と記載する。この卑弥呼が用いた文字は、わがブログ「日本国誕生史の復興・20」で証明したように、中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に「後稍(のちやや)夏音(かおん)を習う」と記載された夏音文字であった。
 また、I図に示すように卑弥呼の地上絵の顔は「夏至の日の出の方角」を向いて「夏音文字」をあらわした。したがって卑弥呼の地上絵を学術調査すれば、原初漢字の夏音文字が確かに伝来し実在したことが事実となる。
N494
(C) 2016 OHKAWA
 

 夏音文字が実在したことは『古事記』上巻に〔音〕という注が付き楷書で表記されて多数現存する。『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話は「淤能碁呂」の4字に〔音〕という注を付けて夏音文字であると指摘する。わがブログ「日本国誕生史の復興・4」の末部に解説したように、[]の字義は「どろ()」、[]の字義は「能(クマ/)の冬ごもりの巣の横穴と縦穴」、[]はE図右側に示した「転回日本列島地理の基点となる小石のような沖ノ島と神津島」、[]は「沖ノ島と神津島と両島を結ぶ同緯度線」である。ゆえに「淤能碁呂」は「日本列島の地底は海水が流れ込んで淤(どろ)のように柔らかいので、熊の冬ごもりの巣の横穴を縦穴に変換するがごとく沖ノ島・鳴門の渦潮・神津島の緯度軸が経度軸となるように、日本列島の〔東〕は[][][]の字源をあらわす中国海岸線の〔南〕の方に伸びると定義する地理」と意味することになった。だからE図の「転回日本列島地理」は夏音文字の「淤能碁呂」に「列島」の「島」が加わって「淤能碁呂島」と表記された。
 白川静著『字統』は「わが国の漢字音」と題し9~10頁にかけて「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音がいま中国に残されている最古の上古音よりも古いと下記のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にはほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館)の「卑弥呼の発音について」の注は「卑弥呼の文字を中国の上古音で読めば〔ピミカ〕になる」と指摘する。だから、「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むわが国の国語して残される字音は中国の最古の上古音よりも古い夏音文字の字音であった。
 『魏志』倭人伝には伊耶那岐命の夏音文字の名「載斯烏越(ソシアオ)」や伊耶那美命の夏音文字の名「壱与(イヨ)」などの人名や夏音文字を用いる小国名・官職名が記載される。また『古事記』序と上巻には夏音文字が多数記載されて残る。
 だから学者たちが口々に主張する「漢字が最初に習得されたのは5、6世紀であった」という定説は、誤読の産物であったのである。

◆J図に示すように、I図上部の卑弥呼の地上絵北部の境界線で包まれる引佐(いなさ)町の金指(かなさし)・井伊谷(いいのや)の地宜は〔鳰と浮巣の形〕に相似する。
N501
(C) 2016 OHKAWA
 

 J図において金指の地宜の鳰の嘴の部分は[]と見立てられた鳰の浮巣の支柱となる水草の茎の形に観えるように途中で切断される。だから、卑弥呼の地上絵は「金指と井伊谷の地宜」で上記した[]の字源の「鳰」を示し、また「杭州」と地名の由来をあらわした。
 K図に示したように、「引佐細江の湖岸」は[]、「細江の南と東の境界線」は[]、「引佐町の金指・井伊谷の境界線」が[]の字源をあらわす。
N502
(C) 2016 OHKAWA
 
 したがって、わがブログ「日本国誕生史の復興・22」でも解説したように、L図はM図の[][][]の字源となった「中国の海岸線」をあらわすものとなる。にわかには信じがたいかもしれないが、卑弥呼の地上絵は3世紀のわが国には正確な中国海岸地図が保存されていた事実を伝える。
N503
(C) 2016 OHKAWA

 司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀は「五番目の舜(しゅん)帝の時代に益(えき)氏の王が正確な中国海岸線地図を作成する官職の虞()についた」と記述し、また『史記』夏本紀は「夏王朝の始祖の禹()帝の後に益氏の王が帝となった」と記述し、また『史記』陳杞世家(ちんきせいか)は「帝益の子孫はどこに封ぜられたか不明である」と記述する。さらに、『日本書紀』神武天皇紀の初頭記事には「帝益の孫の王子(天祖)一行がわが国の男鹿半島・縄文文化圏に移住した」と書く記事があり、秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡と野中堂遺跡には現在も明確に夏音文字の学芸が伝来した足跡が明確に残っている。
 したがって正確な中国海岸線地図作成に約200年間も従事した名門益氏一行が、夏代初頭にわが国の東北地方に移住したことは事実であった。だから、L図とM図が明確に示すように3世紀に生存した遠江の豪族の建比良鳥命は正確な中国海岸線地図を利用して大鳥の地上絵を図化した。ということは、遠江の建比良鳥命の以外にも卑弥呼はじめ多くの夏音文字の知識人たちは正確な中国海岸線地図を秘蔵していたことになる。
 来年の1月から始まるNHKテレビの日曜ドラマのヒロインは、J図の井伊谷に居住した井伊家22代の家督者の直盛(なおもり)の内室であった直虎(なおとら)である。この「直虎」の[]は、G図にて解説したとおり「山東半島の根元から杭州湾までの海岸線」を「虎の横顔」に見立てた由来をあらわした。「山東半島の根元から杭州湾までの海岸線」は〔出産期における妊婦のおなか〕に見立てられ、〔胎児を出産する時に母体がいきみ・きばる怒責(どせき)はまるで虎が吠える声のごとく〕ということで、「山東半島の根元から杭州湾までの海岸線」は「虎の横顔」と見立てられることになった。だから、井伊家23代家督者の代理を務めた女性の名に付く[]は夏音文字の学芸知識にもとづくものであったのである。
N504

  なお、N図に示すように[]の字源はD図右上に配した「[]の天頂緯度線と直角に交わる観測者の視線」であった。井伊家は3代共直(ともなお)以来現在の直岳さんまで家督者の名に[]の字がつく。[]の字源の秘密を簡単に明確にあらわす字が、N図を字源とする〔[玄]をキャッチするための基本原則〕をあらわす[]の字であった。卑弥呼の地上絵は北極星をキャッチする緯度測定方法では絶対に作成することはできない。卑弥呼の地上絵つまり1千万坪の大鳥の地宜は精密に1分の緯度差を測量できる〔[玄]をキャッチする方法〕で作成された。この〔[玄]のキャッチ〕を端的(たんてき)にあらわす字が、N図に示す[直]であった。だから、現在の井伊家ではその襲名理由が不明になっているかもしれないが、卑弥呼の地上絵を作成した方法の[玄]を[直]と定めて3代以後の井伊家の家督者たちは[]1字を襲名することになったのである。
 以上のごとく、2008年に発見された高尾山古墳と卑弥呼の地上絵によって(1)[]のキャッチ〕が立論基盤となり(2)夏音文字の研究は不可欠となるゆえ、学者たちが様々な誤読を用いて排除した日本国誕生史は【科学】が成立して真実を復興することができるようになった。

|

« 日本国誕生史の復興・23 | トップページ | 日本国誕生史の復興・25 »

学問・資格」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

ヒエログリフ(聖刻文字)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 日本国誕生史の復興・23 | トップページ | 日本国誕生史の復興・25 »