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2016年7月29日 (金)

日本国誕生史の復興・25

 藤原不比等は陰の指揮者ではなかった(1)

◆著名な哲学者で歴史家の梅原猛先生は、文武・元明・元正の3天皇時代(697720)の陰の指揮者は藤原不比等(ふひと)であったと指摘するが――この意見は大きな疑問符が付くと言わざるをえない。
 梅原先生は――当時、不比等が建てた藤原氏の氏寺の興福寺が最大級の寺院であったことに注目し、興福寺の五重塔の最上層からは奈良盆地が一望でき、興福寺は宗教施設であると同時に軍事上の要地であった――などと考える、不比等に迫る様々な著書は世に出した。
 藤原不比等は、乙巳の変で蘇我入鹿を倒した鎌足(かまたり)の第二子であり、大宝律令の選定(せんてい)に携わった一人である。701年に正三位大納言、708年に正二位右大臣となり、720年に63歳で没して太政大臣を追贈された。武智麻呂(むちまろ)ら男の子四人はいずれも高官として天平初年の政界に活躍し、娘の宮子と光明子はそれぞれ文武・聖武(しょうむ)両天皇の夫人および皇后となり、外戚(がいせき)としての地位を固めた。
 梅原先生は――720年に死去した不比等の霊をなぐさめるために一周忌に元正天皇が命じて建てさせた北円堂は広大な興福寺の境内の西の角に位置して、天皇がいる平城宮をもっとも見下ろしやすい場所である――この点に注目して「藤原不比等は天皇との外戚関係を利用する、陰で実質的な権力を握った指揮者であった」と主張する。
 しかし、元正天皇が72183日に興福寺内に北円堂を建てた目的は不比等の霊を慰めるためにではなかった――その目的は天皇が一生涯ただ一人ひたすら愛した舎人(とねり)皇子に不比等の死霊が祟(たた)るのを防ぐためであった。
 だから、梅原先生の論拠は成立しない。

◆当時、天照大御神を崇拝する皇室・高官のグループと伊耶那美命を崇拝する皇族・高官のグループの二つに分かれて、国家権力を強化するのかそれとも日本建国の〔愛〕の理念を重視するのか国の在り方(政治体制)をめぐって争っていた。
 優秀で実力ある皇族・高官たちは伊耶那美命を崇拝するのに対して、天照大御神を崇拝して皇室の国家権力の強化に努力する皇族・高官は次から次へと死去したため、皇室は親(鎌足)の七光の不比等を頼って勢力の強化をはかった。このような政争にあって不比等は権力に敏感にして狡猾(こうかつ)であったゆえ外戚になれたものの、彼は行政手腕も立法能力も劣る虎の威を借りる狐というような小人物であったと考えられる。不比等は人望が薄(うす)くずる賢(かしこ)かったので、伊耶那美崇拝派の人々は最も嫌い、多くの人々に蔑視(べっし)されたにちがいない。
 70183日に完成した大宝律令の選定に、皇族の刑部(おさかべ)親王と高官の粟田真人(あわたのまひと)・下毛野古麻呂(しもつけの の こまろ)とそして藤原不比等が携わった。しかし、伊耶那美命を崇拝する刑部親王と粟田真人が立法能力に優れていたゆえ、おのずと大宝律令は刑部親王と粟田真人が主導的になって作成された。だから不比等は権力の強大化をはかる皇室にとって不都合な律令を刑部親王と粟田真人が組み込まれないための監視役であったと考えられる。
 大宝律令の成立から17後となる718年、元正天皇は不比等に大宝律令の補足と再検を命じた。しかし、養老律令はただちに施行(しこう)されなかった。この原因について、学者たちは不比等の死と指摘する。でも梅原先生が主張するように不比等が当時の陰の指揮者であったならば、当然、養老律令は不比等の死に報いる遺志となって急いで完成させるべき偉業となったであろう。ところが当時の陰の指揮者は舎人(とねり)皇子であり、養老律令は人望がなかった不比等の死に報いる業績とならず放置され無視されることになった。

◆第44代の元正天皇の諱(いみな)は、氷高皇女(ひだかのひめみこ)。第40代天武天皇の第一皇子で第41代持統天皇から生まれた草壁皇子と第43代元明天皇との間に生まれ、第42代文武天皇の姉である。甥(おい)の第45代聖武天皇の成人を待つ間、仲天皇として9年在位したとされるが、母元明天皇が憎い敵の舎人皇子に皇位を奪われないために政争の生贄(いけにえ)にした役割もあった仲天皇であった。元正天皇は舎人皇子を一生愛するゆえ独身のまま、748年に69歳で死去した。
 舎人皇子は天武天皇の第三皇子(『続日本紀』)である。ゆえに、元正天皇の叔父となる。元正天皇より4歳年上。舎人皇子は皇居で育てられず、3738歳頃まで庶民として藤原京と平城京より遥か東方の片田舎の高屋(たかや)、現在の奈良県宇陀(うだ)郡榛原(はいばら)町高星(たかへ)に居住した。養父は大伴朴本連(おおともえのもとのむらじ)大国である。
 672624日の朝、大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)は近江方が戦争準備を整えていることを察して東国へ逃れて、壬申(じんしん)の乱が始まったとされる――その日の朝、大伴連大国が猟師20人余りと美濃国の王(美濃国の豪族)を率いて駆けつけてお供に加わった。実は大伴連大国は東海道・東山道の兵士たちを統率する強力な武将であった。大伴連大国が束ねる東海道・東山道の兵士たちは伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を取り入れる国作りを大海人に期待して、いちはやく日をおうごとに続々と吉野方に集結した。ゆえに乱の直前までまったく無計画であったにもかかわらず、吉野方は大伴連大国を頭領とする東海道・東山道の兵士たちの参加によって勝利した。
 翌673年に大海人は即位して天皇となり、ただちに皇室と国家の権力の強大化をはかって天照大御神を崇拝する中央集権体制を整えた。したがって日本建国の〔愛〕の理念を取り入れる新政権の樹立を期待した大伴連大国が裏切られたと怒って負けた近江方の残党と共に挙兵すれば、天武方は敗戦して新政権は崩壊する可能性があった。ゆえに、即位してから3年後の676年、天武天皇は誕生したばかりの舎人皇子に第三皇子と高い地位を与えて大国に与え、大国が天武政権へ参加することを催促(さいそく)して、日本建国の〔愛〕の理念を旗印にして立ち上がる反乱をふせいだ。ところが伊耶那美命を崇拝する大国は天武政権に参加せず、高屋で庶民として一生をすごした。これゆえ大国の養子となった舎人皇子は、元明天皇が『古事記』の献上を拒絶した37(712)頃まで高屋に住む庶民であった。
 『古事記』の献呈が拒否されると舎人皇子は皇居で政務に就()き、文武・元明・元正・聖武の4天皇時代の陰の指揮者となり、718年に一品(いっぽん)という高い地位となり、720年に天皇に次ぐ高い地位の知太政官事(ちだいじょうかんじ)に就任した。同年に『日本書紀』編修の総裁をつとめた。というのも、知太政官事は太政大臣と歴史局の総裁を兼務するものであったからである。舎人皇子は676年に生まれ、735年に60歳で没した。

◆東海道・東山道の武士たちを束ねる大伴連大国の跡継ぎ息子の舎人皇子は強力な軍事力を有する武将であり、天武天皇の第三皇子であったゆえ、持統天皇の愛孫にして元明天皇が生んだ文武天皇を武力で倒せば天皇に即位することができる脅威(きょうい)となった。
 686年、『日本書紀』が「天武天皇の第三皇子」と記す大津皇子が謀反(むほん)を企てたということで逮捕され、逮捕された翌日(103)に処刑された。この大津皇子事件について多くの人々が――息子の草壁皇子を押しのけて大津皇子が天皇の位につくことを心配した持統天皇が陰謀を企てて抹殺(まっさつ)した――と指摘する。
 689年、天武天皇と持統天皇の間に生まれた第一皇子(元正天皇の父)の草壁皇子が没した。
 696710日、天武天皇の子にあって最年長の高市(たけち)皇子が没した。
 天武天皇は第二皇子の地位を設けなかった。これゆえ、高市皇子が死去した696710日以降は21歳の舎人皇子が天武天皇の子にあって皇位継承順位が第一位となった。このため舎人皇子は、持統天皇にとって大津皇子と同じく天皇の位を脅(おびや)かす存在となり、ただちに処刑したい邪魔者・憎い敵となった。だが高屋に住む舎人皇子は強力な武将であったので、大津皇子同様に簡単に抹殺することはできなかった。
 そこで早速翌697216日に、持統天皇は愛孫の皇太子・軽(かるの)皇子に譲位して舎人皇子の天皇即位の芽を摘()んだ。これが、文武天皇(元正天皇の弟)である。
 舎人皇子は持統上皇に狙(ねら)われる自分の命をまもるために、また養父大国の無念を晴らさんとして持統上皇・文武天皇政権を武力で倒して天下を奪うことをしなかった。舎人皇子は天皇の位を欲せず、ただひたすら日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える歴史事業に一生を賭()けた。このような舎人皇子の信念こそ、生()さぬ父・大国と強い絆(きずな)で結ばれていた、養父・大国の遺志を継ぐものであったにちがいない。
 ゆえに、舎人皇子は文武・元明・元正・聖武の4天皇時代における政争の主役となって陰の指揮者となった。
 壬申の乱(672624)の朝、大海人皇子は女性と子供と舎人(とねり/護衛の兵)をふくんでわずか50人足らずで吉野を出発して東国へ逃れた。A図に示す甘羅村(かんらむら/榛原駅の辺り)の要衝(ようしょう)で大海人一行は大国一行と合流した。大国は高屋(現在の榛原町高星)に住んでいた。この高屋は、B図に示す『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉(よみのくに)国訪問説話に登場する「黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本(熊野速玉大社の境内)とまた黄泉比良坂(神倉神社の参道)と同経度(東経13559)である。
N511
(C) 2016 OHKAWA
 

 わがブログ「日本国誕生史の復興・18」の前半部で証明したように――伊耶那岐命の第二后の天照大御神は、伊耶那岐命の正妃の伊耶那美命が死去すると倭女王となった。天照大御神は伊耶那美命が最も嫌った多数の青年男女を殺す徇葬(じゅんそう)を指揮して、伊耶那美命の墓に埋めた。これを怒った伊耶那岐命はクーデターを決行した。天照大御神をまもる千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)すなわち王朝軍の大軍は、現在の速玉大社の境内(黄泉比良坂の坂本)で伊耶那岐命が指揮する桃の子三箇(みみつ/日本軍と熊野に住む戦士たち)に撃破された。クーデターに成功した伊耶那岐命は速玉大社の境内で桃の子三箇に「葦原中国(あしはらのなかつくに)の人々が苦しい目にあって憂い悩む時に助けなければならない」という使命を与えた。捕虜となった天照大御神は、神倉神社の参道(黄泉比良坂)を塞(ふさ)ぐ千引石(ちびきのいわ/神倉神社のご神体のごとびき岩)の前で伊耶那岐命に離縁を言い渡された。天照大御神は「かくなせば、汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日に千頭絞(ちがしら くび)り殺さむ」、すなわち「こんな無法をおこなうならば、私はあなたたちの日本建国の〔愛〕の理念を尊ぶ母親たちの産道を狭くなるように呪(のろ)って、一日に千人ずつの胎児の頭を狭い産道で絞め殺す」と誓う祟(たた)りを述べた。伊耶那岐命は「汝(いまし)しかせば、吾(あれ)一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」、つまり「お前がそのように祟るならば、吾は一日に千五百の産屋を建てるように人民に説く政事(まつりごと)をおこなう」と述べ、亡き伊耶那美命(伊耶那岐命の正妃)の遺志である日本建国の〔愛〕の理念を継承すると誓った。
 なお編纂スタッフは『古事記』を正史にするために一計を企み、「天照大御神」を「伊耶那美神命」と表記した。

◆だから、B図に示す速玉大社と神倉神社の同経度のA図の高屋に居住した大伴連大国は、近江朝に狙われて命が風前の灯であった大海人皇子を桃の子三箇の使命の基に助けるものであった。また大国は大海人皇子(天武帝)が日本建国の〔愛〕の理念を採用する新王朝を築くことを期待していたことになる。
 他方、実父の天武天皇は大国が日本建国の〔愛〕の理念を掲げて旗揚げする反乱をふせぐためにわが子(舎人皇子)を大国に与えた。また、もしも将来東海道・東山道の武士たちが反乱をおこした時、大国の後継者となって強力な武将となったわが子が武士たちを説得するか、説得できなければ強引に反乱を武力で制圧するちちがいないと目論(もくろ)むものであったにちがいない。
 しかし、大伴連大国に育てられた舎人皇子は成長すると、実父天武帝の目論見(もくろみ)は大誤算となり、皇室と天照大御神を皇祖と定めて国家権力の強大化をはかる律令体制に楯(たて)つく日本古代史上における希代(きたい)の反逆児となった。
 下記に示す『万葉集』117番の「舎人皇子の御歌(みうた)一首」と題する和歌は、皇子が多分18歳ころに作ったと思われる。
 「大夫(ますらを)や 片恋(かたこひ)せむと 嘆けども 鬼(おに)の益卜雄(ますらを) なほ恋ひにけり」
 現代語に訳すると意味は「武士たるもの、片恋するなんてみっともないが、吾(われ)は上古の伊耶那美命が恋しくてならぬ。吾は鬼道(おに)の武士(ますらお)ゆえ、日本建国の〔愛〕の理念の復興に命を賭けるのだ」となる。 

 舎人皇子が作った117番の次の118番の題詞は「舎人娘子(とねりのをとめ)の和(こた)へ奉(まつ)る歌1首」である。この「舎人娘子」は元正天皇(氷高皇女)のペンネームであった。『万葉集』には舎人娘子が作った和歌は118番の他に、61番と1636番の三首が収録される。 舎人皇子より4歳年下の氷高皇女(元正帝)が作った118番は下記のごとくである。
 「嘆きつつ 大夫の 恋ふれこそ 吾結(わがゆ)う髪の 漬()ちて濡()れけれ」
 現代語に訳すれば「片恋したと嘆く武士(ますらお)のあなたが憧(あこが)れる伊耶那美命に、私も憧れます。その証拠に、我が結う髪(くろかみ)は黒神(くろかみ)の那智の大滝の飛沫(しぶき)に浴びるかのごとく黒く濡れています。私はどうしてもあなたの妻になりたいのです。どうか、私を高屋に連れていってください」となる。
 4句目の「吾結う髪の」の「髪」は「黒髪」をあらわし、「黒髪」は「黒神」つまり「黒い頁岩(けつがん)の岩壁を落下する那智の大滝の精霊の伊耶那美命」をあらわした。
 伊耶那美崇拝派の頭領である舎人皇子は氷高皇女の伯母の持統天皇と母の阿閉(あえの)皇女(後の元明天皇)にとって憎い邪悪な敵であった。ゆえに、結婚したという氷高皇女の願いは実現不可能な無理難題であった。
 したがって上記の舎人皇子が作った117番は「吾は伊耶那美命に熱烈に憧れるゆえ、あなたを妻にすることはできない」と説得する和歌であったのである。

◆氷高皇女と別れた舎人皇子は当麻山城(たいまのやましろ)という女性と結婚して彼女との間に池田王、船王、守部王、大炊王(おおいおう/後の淳任天皇)などが生まれ、名前不明の女性との間に三島王、三原王などの息子を得ている。
 7021010日から持統上皇は、駕籠(かご)に乗って参河(みかわ)に行幸して舎人皇子討伐の準備・計画をした。したがって、この時、舎人皇子は当麻山城と結婚して独身ではなかった。氷高皇女(後の元正天皇)は「私は舎人皇子の妻になりたかった、私こそ舎人皇子のほんとうの妻だ」という思いで、筆名を「舎人娘子」としたのではあるまいか。
 『万葉集』57番の題詞は「二年壬寅(7021010)、太上天皇(おほきすめらみこと/持統上皇)、参河国に幸(いでま)す時の和歌」であり、この行幸に随伴(ずいはん)した皇女や皇子が作った和歌が58番から61番まで続く。この最後の61番は23歳となった氷高皇女が「舎人娘子」という筆名で作った和歌であり、下記のごとくである。
 「ますらをの さつ矢手挟(やたばさ)み 立ち向かふ 射る的形(まとかた)は 見るにさやけし」
 現代語に訳すると、「武士(ますらお)が矢を手にはさみ、日本建国の〔愛〕の理念を復興しようとして朝廷に立ち向かい、その的である伊勢神宮に祭られる天照大御神を射る姿は、見るからにすがすがしい。私が愛する武士(ますらお)は伯母上に討伐されて絶対に死ぬようなことはないわ。絶対に討伐されないわ……」となる。
 C図に示す伊勢神宮の内宮は皇大(こうたい)神宮と呼ばれる。皇大神宮に天照大御神を恒常(こうじょう)的に祭るようになったのは698年とされる。
N512
 
 したがって、C図に示すように氷高皇女は参河の〔渥美(あつみ)半島の伊良湖岬(いらごみさき)〕を〔矢の鏃(やじり)の先端〕に、また〔矢を射る的〕を〔皇大神宮の祭神の天照大御神〕と見立てて、61番の和歌を作った。だから、61番は持統上皇の行幸に参加して〔舎人皇子が討伐されないよう〕にと胸しめつけられて必死に祈った氷高皇女の思いを詠んだ和歌であったことになる。
 持統上皇は1010日の参河から尾張、美濃、伊賀と行幸して舎人皇子が束ねる東海道・東山道の武士や国司に位階や禄(ろく)を与えて朝廷の味方につくように説得して、1125日に参河に帰還された。この強行スケジュールによる行幸は上皇の老体に疲労がたまり、藤原京にもどるや重病となって1222日に死去した。
 だから翌7031月、舎人皇子討伐計画が失敗した上に上皇を失った文武天皇は舎人皇子を頭領とする伊耶那美命を崇拝する皇族・高官・歴史書編纂スタッフに屈服した。伊耶那美崇拝派は『古事記』を編纂するために天皇に次ぐ地位で左大臣・右大臣よりも位が高い〔知太政官事(ちだいじょうかんじ)〕の新設を欲求(よっきゅう)した。文武天皇は天照大御神崇拝勢力の崩壊を必死に食い止めるために、伊耶那美崇拝派の皇族・刑部親王(忍壁親王)の知太政官事就任を認めた。
 7031月の忍壁(おさかべ)親王の知太政官事の就任によって、『古事記』上巻の重要な企画・構成が確定された。つまり『古事記』上巻において――(1)伊耶那岐命と伊耶那美命神話の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話にて日本建国の〔愛〕の理念を記載し、(2)多数の夏音文字を記載して、夏音文字の字源・字形・字義となる銀河各部の形状を観察すれば神代の歴史の真相を知ることができる仕組みにし、(3)皇室が至上神とする皇祖の天照大御神が徇葬(じゅんそう)を指揮して多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋葬した歴史は、『老子』にて用いられた〔反実仮装(はんじつかそう)〕すなわち〔事実に反する記述をもって真実を伝える方法〕をもって、伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話にて「天照大御神」を「伊耶那美命」と表記して記述する――これらの企画・構成は忍壁親王が知太政官事に就任した、この時にすでに決まっていた。この証明は次回でおこなう。

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