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2016年8月 4日 (木)

日本国誕生史の復興・26

 藤原不比等は陰の指揮者ではなかった(2)

◆哲学者で歴史家で有名な梅原猛先生は様々な著書を出版して――藤原不比等は天皇との外戚(がいせき)を利用して、陰で実質的な権力を握った指揮者であった――と主張する。
 この梅原先生の意見に賛成する諸先生や一部のマスコミによって、不比等は文武・元明・元正の3天皇時代(697720)の陰の指揮者であったと多くの人々が信じるようになった。しかし、この意見は早合点(はやがてん)から生まれた幻想であったことになる。
 というのも、文武・元明・元正・聖武(しょうむ)4天皇時代の陰の指揮者は、明確に舎人(とねり)皇子であったからである。『続日本紀(しょくにほんぎ)』が「舎人皇子は天武天皇の第三皇子」と記すように舎人皇子は「天武天皇の多くの皇子にあって、皇位継承順位が3番目の子」であったが、696710日以降は舎人皇子が天武天皇の子にあって皇位継承が第一位となり、前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・25」で解説したように東海道・東山道の武士たちを束ねた養父の大伴連(むらじ)大国の後継者となる強力な武将であった。
 人望がとぼしく多くの人々に侮蔑された藤原不比等に対し、日本建国の〔愛〕の理念を国家の在り方に組み込もうと挑戦した舎人皇子を元正天皇は独身を貫いて一途に愛したが、持統上皇と文武・元明・聖武の3天皇にとっては皇位を脅(おびやか)かす邪悪な憎い敵であった。だから当時の陰の指揮者は、確実に舎人皇子であった。

7011月、朝廷に忠義を尽くす重臣の大伴御行(みゆき)は没し、武家の名門大伴氏の後継者は御行の弟の安麻呂(やすまろ)となった。安麻呂は御行とちがって伊耶那美命を敬愛して朝廷に反発し、武家の名門大伴家の宗家(そうけ)である大伴連家の後継者となる舎人皇子に忠誠を誓った。前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・25」で解説したように――持統上皇は7021010日から参河に行幸(ぎょうこう)して文武天皇の皇位を脅かす舎人皇子討伐の準備に取り掛かったが、その強行スケジュールが祟(たた)って2ヵ月後の1222日に死去した。
 上皇が亡くなる半年前の702624日、安麻呂は兵部省(へいぶしょう)の長官に任命された。兵部省は武官の人事や兵器の調達管理する役所であった。
 その2ヵ月後の816日、文武天皇は朝廷の軍事で最も頼りとなる石上麻呂(いそのかみのまろ)を都から遥か遠い九州の太宰府の長官・大宰帥(だざいのそち)に任命した。
 これゆえ持統上皇の遺志を継いで文武天皇が朝廷の敵である舎人皇子を討伐しなければならない7031月、朝廷の軍事権は崩壊して舎人皇子を討つどころか朝廷は軍事的にまったく無力であった。ゆえに、天皇は伊耶那美崇拝派の欲求(よっきゅう)に屈服した
 7031月、文武天皇は伊耶那美崇拝派の欲求を飲んで知太政官事を新設して、天照大御神崇拝派勢力の崩壊を必死に食い止めた。この知太政官事に伊耶那美崇拝派の忍壁皇子(おさかべおうじ/刑部親王)の就任を天皇は容認した。忍壁皇子は舎人皇子の異母兄で、天武天皇の子にあって皇位継承順位が第九位、大宝律令の選定に携わった。
 知太政官事は天皇に次ぐ地位で、左大臣・右大臣より地位が高い。〔太政官〕は「政務を総理し、中央の全官庁および諸国を総括(そうかつ)して国家を治める、天皇政治の中心となる役所」である。この〔太政官の長官〕が「太政大臣」で、この「太政大臣の役目と歴史局の総裁を兼務する」のが「知太政官事」であった。
 下記に示す『万葉集』1682番の和歌には「忍壁皇子に献(たてまつ)る歌一首 仙人(やまびと)の形(かた)を詠む」という題詞がつく。題詞に添えられる「仙人の形」というのは「中国の絵画における仙人・老子の像」を意味し、中国の古代絵画における老子像は裘(かわごろも)を着て扇(おいぎ/うちわ)を手に持っている形式で描いたものが一般的であった。
 「とこしへに 夏冬行けや 裘(かはごろも) 扇(あふき)放たぬ 山に住む人」
 上記の1682番は「中国絵画において、仙人老子は絶えず夏と冬とがともに行く蓬莱山の高地に住んだことをあらわして、冬に着る毛皮の服と夏に用いる団扇(うちわ)を手放(てばな)さない形式に描かれる。とうとう忍壁皇子は〔反実仮装(はんじつかそう)〕つまり〔事実に反する記述で真実をあらわす方法〕を考案した老子のごとく、〔反実仮装〕を用いて神代の歴史の真実である日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える歴史局総裁の知太政官事になられた。これはまことに目出度いことよ」と意味した。

◆わがブログ「日本国誕生史の復興」の18回・19回で詳細に証明したように――忍壁皇子の知太政官事就任から9年後の712年に元明天皇に献上された『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話では老子が開発した〔反実仮装〕の方法を用いて「多数の青年男女たち殺す徇葬(じゅんそう)を決行して伊耶那美命の墓に埋める事業を指揮した倭女王の天照大御神」を別名を考案して「伊耶那美神命」と記した。この〔反実仮装〕ならば皇室が〔皇祖・天照大御神は伊耶那美命よりも偉大であったと伝える偽書を作成せよ〕という命令に敵(かな)うであろうと理屈をつけ、編纂スタッフは『古事記』を正史にしようと企(たくら)んだ。
 だから、上掲(じょうけい)した1682番の和歌は――忍壁親王が知太政官事に就任した7031月の時点で、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話における徇葬を決行した「天照大御神」は「伊耶那美神命」と表記する――と定まっていた事実を伝えていることになる。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・6」で証明したように、A図に示す静岡県沼津市に所在する東日本最古で最大の高尾山(たかおさん)古墳は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話における伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した式場であった。
 B図は高尾山古墳の規模図である。
N521
(C) 2016 OHKAWA

 
 高尾山古墳の背となる足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)の頂上には桃沢神社が祭られて、足高山は不老長寿の霊薬が採取できると思い込まれたために、日本版の蓬莱山と見立てられた。というのも、中国の正史『後漢書(こかんじょ)』倭伝は「紀元前3世紀の秦の始皇帝の時代に、方士の徐福(じょふく)が若い男女数千人を率いて海に入り、始皇帝が探して来いと命じた蓬莱の神仙つまり仙人・老子の不老長寿の霊薬を発見できなかった。徐福は死刑をおそれて帰国せず、日本国の蓬莱山(つまり富士山の南南東にある沼津市の足高山)がある州、後の東鯷人国(とうていじんこく)の州に定住した」と記述するからであった。
 中国では「桃」は「仙木・仙果」すなわち「老子に不老長寿の力を与えた樹木・果物」とされた。徐福は足高山を老子・不老長寿の霊薬が採取できる蓬莱山と思い込んで目指した。
 230年、呉の1万の水軍は人狩り作戦のために、徐福の子孫が栄える東日本=東鯷人国に目指して遠征したが、台湾沖で8割から9割の兵士を失って壊滅した。というのも、中国では紀元前1世紀に北極星を太一神と崇拝するシナ天文学が完成したため、3世紀になると大海を往来することができる〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)〕を鍛錬する習慣が廃(すた)れたからであった。ところが東鯷人国王と倭女王卑弥呼と倭国・東鯷人国の人民は、呉軍は[]をキャッチできるにちがいないと思い込み、人狩り作戦のために呉軍は再度東鯷人国へ遠征するにちがいないと断定した。このために独立国であった東鯷人国は倭国に属する小国になって国名が「日本」と改まった。中国の人々が真っ先に挙げる東鯷人国に関する情報は徐福の日本列島移住であるゆえ、東鯷人国王も卑弥呼も徐福が蓬莱山と思い込んだ沼津市の足高山に目指して呉軍は遠征してくるちがいないと予想した。だから小国・日本の女王に伊耶那美命が軍王(いくさのおおきみ)に伊耶那岐命が封(ほう)ぜられることになり、二人は足高山・蓬莱山を祭って来襲する呉の遠征軍に勝利することを祈願した封土(ほうど/)盛り土)のB図の高尾山古墳で結婚することになった。
 この高尾山古墳の結婚式にて呉の遠征軍に勝利するために取り決められた式次第を破って、伊耶那美命は伊耶那岐命より先に「なんとまあ、すばらしい男性でしょう」と唱えた。伊耶那美命は戦(いくさ)の大将・軍王はなく伊耶那岐命を「〔愛〕を育(はぐく)む夫」と讃えたのである。この伊耶那美命の式次第破りは、伊耶那美命の小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めるという決意を示すものであった。

◆伊耶那美命が高尾山古墳の結婚式で唱えた「日本建国の〔愛〕の理念」は、高尾山古墳の主体部から出土したC図に示す後漢時代に作られた「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」の破砕鏡(はいさいきょう)に残った絵柄で表現された(これについてはわがブログ「日本誕生史の復興」の1619回で詳細に証明した)
N522
(C) 2016 OHKAWA
 
 C図に示す鏡の破砕・排除された部分には、蓬莱の神仙・老子の像が浮彫(うきぼり)されていた。
 だから上掲した『万葉集』1682番の「忍壁皇子に献る歌一首 仙人の形を詠む」とい和歌は、高尾山古墳の結婚式で伊耶那美命が日本建国の〔愛〕の理念を唱えた歴史を伝えるともに、道家の祖・老子の教えを説く『老子』上篇(道経)に記載された思想「知足(ちそく)」の[]と「太政大臣」を組み合わせて歴史局の総裁名は「知太政官事」となったと伝えていることになる。「知足」とは「足()るを知る者は富()む」つまり「深く考えて真実を手に入れて足りることを知って満足する者は、たとえ貧しくても富める者ということになる」の略称である。
 37の章で構成される『老子』上篇は「漢字は銀河から作られ、本来の漢字(原初漢字)の字源・字形・字義は銀河各部の形状である」と解説する字書の役割も有した。
 『古事記』序で説明され、上巻の随所に〔音〕という注が付く11音文字は中国の上古文字の音よりも古い、いま残されているもので最古の漢字音である。というのも、わが国には今から約4050年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に中国から夏音(かおん)文字が伝来し習得されたからである。この夏音文字は、『老子』上篇で「本来の漢字の字源・字形・字義は銀河各部の形状であった」と解説される原初漢字であった。これゆえ『古事記』上巻に多数残された夏音文字の字源・字形・字義となる銀河各部の形状によって、神代の歴史の真相を伝えることができた。だから、伊耶那美崇拝派の面々は歴史局総裁の名を「知太政官事」とすることを文武天皇に欲求したのである。
 中国の正史『新唐書』日本伝は――702年に中国に渡った粟田真人を特別大使とした遣唐使は「後稍(のちやや)夏音(かおん)を習う」と中国王朝に伝えた――と記述する。10年後の712年に元明天皇に献上された『古事記』上巻には〔銀河各部の形状〕を〔字源・字形・字義〕とする夏音文字が多数記載され――『古事記』上巻は夏音文字=銀河各部の形状によって神代の歴史の真相を知ることができるように著作された。
 太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』序の冒頭「臣安万侶言(もう)す」の後に続く下記に示す難解な文で「漢字は銀河各部の形状を字源・字形・字義として起源した」と伝え、「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」という文で「前期縄文・中期縄文・後期縄文の首(初頭)までの銀河の形状を神と崇拝して土器・土偶を作った芸術家たちによって、中国から移住した名門益(えき)氏の王子と若者たちがもたらした銀河の形状を字源・字形・字義とした夏音文字が習得された」と伝えた。
 この夏音文字の伝来・習得を伝える文は下記のごとくである。
 「それ混元(こんげん)すでに凝()りて、気象未だ効(あらわ)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化の首を作す。」
 この文の後に続く「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)となる」という文は「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命の二霊がわが国のすべてのものの生みの親となった」と意味する。ゆえに、『古事記』は伊耶那美命が唱え、伊耶那岐命が受け継いだ日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために著作された史書であったのである。
 だから、上掲した「忍壁皇子に献る歌一首 仙人の形を詠む」という題詞がつく『万葉集』1682番の和歌は――(1)伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念は淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話で記述する、(2)夏音文字を随所に記載して銀河各部の形状で神代の歴史の真相が解明できる仕組みにする、(3)老子が考案した〔反実仮装〕の方法で「残酷な徇葬を決行した天照大御神」の名は「伊耶那美神命」と記載する――と、忍壁親王が知太政官事に就任した7031月の時点で、『古事記』上巻における重大な構想(企画・構成)がすでに確定していたことを伝えていることになる。

7055月、知太政官事の忍壁皇子が没した。
 4ヵ月後の9月、伊耶那美崇拝派の舎人皇子の異母兄の穂積(ほづみ)皇子(天武天皇の子にあって皇位継承順位が第五位)が知太政大臣を受け継いだ。
 7076月、伊耶那美崇拝派の勢いに脅える心労(しんろう)のためであろう、25歳の若さで文武天皇が没した。天皇は生母の阿閉(あえの)皇女が天皇に即位することを願った。阿閉皇女は息子の遺志を継ぎ、天皇に即位した。これが元明天皇である。
 舎人皇子が33歳となった7083月、元明天皇は天照大御神崇拝派の勢力を立て直して姉(持統上皇)と息子(文武天皇)の仇(かたき)を討つために、石上麻呂(いそのかみのまろ)を左大臣に、藤原不比等を右大臣に就任させた。
 この708年、不比等の長男の武智麻呂(むちまろ)が図書頭(ずじょのかみ)に就任した。『古事記』を作成するための史料は、武智麻呂が長官となった図書寮に保管されていた。ゆえに7121月に『古事記』が完成した背後には、武智麻呂の協力があったことになる。興福寺の東方の春日大社に祭る藤原氏の氏神(うじがみ)は四神いるが、そのうちの常陸国鹿島の武甕槌命(たけみかづちのみこと)と下総国香取の経津主命(ふつのぬしのみこと)は、伊耶那美命が赴任して国作りの柱を〔愛〕と定めた小国・日本に居住した先祖であった。というのも、D図に示すように、常陸国鹿島も下総国香取も小国・日本(旧東鯷人国)の範囲であったからである。
N523
(C) 2016 OHKAWA
 
 これゆえ、父親・不比等の天照大御神崇拝は日本建国の〔愛〕の理念を重んじた氏神(先祖)たちの霊魂を汚して侮辱することになった。だから、武智麻呂は藤原氏の勢力を拡大するために伊耶那美命を崇拝した先祖の誇りを捨てて天照大御神を崇拝する父不比等と次男・房前(ふささき)、三男・宇合(うまかい)、四男・麻呂(まろ)の弟たちを恥知らずと苦々(にがにが)しく思っていたことになる。武智麻呂は先祖を敬い伊耶那美命を崇拝していた。ゆえに、武智麻呂は舎人皇子の窮地を幾度となく救っている。後年、舎人皇子の息子の大炊王(おおいおう/後の淳仁天皇)が武智麻呂の息子の仲麻呂=後の恵美押勝(えみのおしかつ)の娘婿となったのは、武智麻呂が舎人皇子を尊敬した親友の間柄であったからである。
 後宮(こうきゅう)で隠然たる勢力をもっていた県犬養三千代(あがたのいぬかいみちよ)を不比等は後妻にむかえ、彼女のあと押しによって娘宮子を文武天皇の夫人とした。この後妻の県犬養三千代もまた、武智麻呂と同様に舎人皇子の抵抗運動に加担する伊耶那美命の崇拝者であった。7331228日、すでに亡くなった県犬養橘宿禰(たちばなのすくね/三千代の姓は橘であった)に従一位を贈る使者の正使は舎人皇子、副使は義理の息子の武智麻呂であったのは、この三人は共に伊耶那美命を崇拝して親密であったからである。不比等の前の夫の美努王(みぬおう)と県犬養橘宿禰の間に生まれた息子は橘諸兄(たちばなのもろえ)である。『続日本紀(しょくにほんぎ)』の7361111日の記事は――生前(733)の舎人皇子が、聖武天皇を説得して葛城王(かつらぎおう/後の橘諸兄)に母方(県犬養三千代)の橘の姓を与えるように手配する。これは先帝(元正天皇)の厚命を戴(いただ)き、橘氏の殊名を流(つた)え、万歳(まんさい)に窮(きわ)みなく、千葉(せんよう)に相伝えん、つまり舎人皇子は「元正天皇が編纂を命令したことにして、聖武天皇を騙(だま)して日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える『万葉集』編纂」をあらわす暗号を「橘」と定めて、葛城王(橘諸兄)に『万葉集』編纂を命令した――と記載するものであったのである。橘諸兄は舎人皇子を主君と仰ぎ忠誠を誓って『万葉集』編纂に努力した。この諸兄の『万葉集』編纂は不比等の後妻となった母橘宿禰の日本建国の〔愛〕の理念を尊重せよという遺志を継ぐものであった。
 このように藤原不比等は長男と武智麻呂と後妻の県犬養橘宿禰に尊敬されずむしろ軽蔑されていたゆえ、冒頭で紹介した梅原猛先生の「不比等は陰の指揮者であった」という意見は明らかに間違っている。
 当時の陰の指揮者は、武智麻呂と県犬養橘宿禰が尊敬した舎人皇子であったのである。

710310日、平城京に遷都(せんと)した。
 『古事記』序の後半に記載されているように、711918日、元明天皇は舎人皇子が率いる伊耶那美崇拝派に挑戦状をつきつけた。この天皇の挑戦状は「歴史書を完成せよ」という詔令(みことのり)であった。
 詔令から4ヵ月後の翌712128日、『古事記』が元明天皇に献上された。
 元明天皇は『古事記』が反逆の史書であることを見抜き、ただちに献呈を拒絶して抹殺にとりかかった。だから元明天皇の『古事記』抹殺の命令にもとづいて、正史『続日本紀』は『古事記』の編纂・完成・献呈などについて記載しなかった。このため『古事記』は長年にわたり偽書ではないかと疑われるようになり、賀茂真淵は後世の作ではないかと指摘した。
 上掲した『万葉集』1682番の「忍壁皇子に献る歌一首 仙人の形を詠む」の次は、下記の1683番と1684番の「舎人皇子に献る歌二首」である。
 「妹(いも)が手を 取りて引き攀()ぢ ふさ手折(てお)り 我がかざすべく 花咲けるかも」(1683)
 現代語に訳すると「舎人皇子は『古事記』作成を指揮し、吾を大事にあつかってくださり、皇子は木の枝から折った花を奥方の頭に刺すがごとく、伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を伝える『古事記』の頭に刺す序文を作るように抜擢(ばってき)してくださった」となる。
 「春山は 散り過ぎぬとも 三輪山(みわやま)は いまだ含(ふふ)めり 君待ちかてに」(1684)

 1684番の和歌は「高屋の里にお住みになられる皇子が作成を指揮した〔春山の花〕つまり『古事記』は散ってしまいましたが、高屋から西の三輪山よりさらに西方の〔多(おお)神社に咲く花〕つまり『多氏(おおのうじ)古事記』はいまだ蕾(つぼみ)のままで世に出ていません。この『多氏古事記』を利用して新しい歴史書を作成しようではありませんか。われ多()安万侶は主君舎人皇子のご到来を切に切にお待ち申し上げています」と意味した。
 1683番の和歌に詠まれた〔花〕は〔『古事記』〕であった。また、〔花〕は〔桃の花〕をもあらわした。
N531

(C) 2016 OHKAWA

 
 というのもE図右側に示す舎人皇子が住む高屋(現在の奈良県宇陀郡榛原町高星)は、F図上部の熊野速玉大社と同経度(東経13559)だからである。『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――〔熊野速玉大社〕は「黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本」、〔伊耶那岐命軍の日本兵と熊野に住む戦士たち〕は「桃の子三箇(みみつ)」と記し、桃の子三箇は速玉大社の境内で〔倭王朝の大軍〕すなわち「千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)」を撃破した――と記述する。ゆえに、〔速玉大社と同経度の高屋〕は〔『古事記』〕と〔桃の花〕をあらわした。
 上掲した『万葉集』1683番と1684番の「舎人皇子に献る歌二首」は、『古事記』の序を書いた太()安万侶が作った歌であったのである。
 『多氏古事記』は現存しないが、『日本書紀』の注釈書における最古の『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』が引用する『土左(とさ)国風土記』の逸文(いつぶん)は「『古事記』とは別書の『多氏古事記』が存在した」と記述する。ゆえに、『多氏古事記』は後年に『日本書紀』に作り変えられたことになる。
 太安万侶は多氏一族であったとされ、多神社の祭神の神八井耳命(かむやいみみのみこと)は、E図左上の多神社(奈良県磯城郡田原本町多) のあたりに住んでいたといわれる。
 『古事記』は多()安万侶が書いた序の末部に元明天皇に献上された日を「和銅五年正月廿八日(712年の陰暦128)」と記す。この和銅五年の陰暦128日をグレゴリオ暦換算すると現代暦の「318日」に相当する。318日には桃の花は咲いていない。したがって、1684番の初句と二句の「春山は 散り過ぎぬとも」は「『古事記』の元明天皇の献上は失敗した」と意味した。318日頃、桃の花は蕾である。ゆえに1684番の三句と四句の「三輪山は いまだ含めり」は「いまだ世に出ていない『多氏古事記』」をあらわした。


◆『続日本紀』は翌713(和銅6)52日の箇所で「(1)畿内・七道諸国の郡郷の名に好字(よきじ/好きな字を2字で表記)を著()け、(2)郡内の物産の品目のリストを書き上げ、(3)農地の肥沃か否かの状態と、(4)山川原野などの地名の由来と、(5)古老たちが伝える古伝承や珍しい話を、史籍に載せて言上(ごんじょう)せよと元明天皇が命令した」と伝える。
 『古事記』が献上された翌年に元明天皇が全国に命令した「史籍」は『風土記』の作成であった。この全国規模の『風土記』作成は――『古事記』上巻に記述された伊耶那美命と伊耶那岐命とそして天照大御神が徇葬をおこなった歴史を伝える(4)の地名と(5)の古老たちの伝承や珍しい話を消滅させて、『古事記』抹殺を示す命令であった。
 その証拠に、G図上部の八幡宮や龍潭寺(りょうたんじ)が所在する井伊谷(いいのや)712年までの地名は「渭郷(いごう)」または「蟾郷(せんごう)」であった。[]の字義は「ひきがえる」である。F図に左下の神倉神社のご神体の巨岩「ごとびき岩」の「ごとびき」は「ひきがえる」を意味した。ごとびき岩の前で伊耶那岐命は天照大御神に離縁を言い渡し、怒った天照大御神(崇神天皇の生母)は「日本建国の〔愛〕の理念を尊重する母親たちの産道が狭くなるように呪(のろ)って、必ず一日に千人の胎児の頭を狭い産道で絞()めて殺す」と誓い、伊耶那岐命は「お前がそうするならば、吾は必ず一日に千五百の産屋を立てるように国民に説く政事(まつりごと)をおこなう」と亡き伊耶那美命の遺志を受け継ぐと誓った場所であった。
N532

   したがって、「ひきがえるの郷(さと)」の「蟾郷」は「ごとびき岩の郷」と意味した。ゆえに元明天皇の命令に背いて改名しなければ――朝廷が派遣した討伐軍に『古事記』上巻が伝える真実の歴史を証明できるG図の卑弥呼の地上絵が発見されると、一族は滅亡し、また卑弥呼の地上絵は破壊され消滅した。だから『風土記』作成が命令された713年、「蟾郷」は好字の2字で「渭伊」と改められた。
 713年に日本建国の〔愛〕の理念の歴史を伝える「蟾郷」が「渭伊郷」と改名されたごとく、元明天皇が命令した「史籍を言上せよ」という命令は全国に『風土記』を作って『古事記』上巻に記載された神代の歴史を伝える地名や伝承を消滅して、『古事記』上巻に記載された歴史の消滅をはかる対策であった。
 だから元明天皇は71352日に『風土記』作成を命令をして、後世の人々には気づかれないように当時の人々には気づく方法で『古事記』の抹殺を命令したことになる。

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