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2016年8月 9日 (火)

日本国誕生史の復興・27

 藤原不比等は陰の指揮者ではなかった(3)

◆わがブログ「日本国誕生史の復興」は前々回(25)と前回(26)にて――哲学者で歴史家で有名な梅原猛先生はさまざまな書物を著作して――697720(文武・元明・元正の3天皇時代)の陰の指揮者は藤原不比等(ふひと)であった――と主張するが、この意見は間違っていることを証明してきた。
 梅原先生は――当時、不比等が建てた最大級の寺院であった興福寺(こうふくじ)の五重塔の最上層からは奈良盆地が一望でき、興福寺は宗教施設であると同時に軍事上の要地でもあった。720年に死没した不比等の霊をなぐさめるために一周忌に元正天皇が命じて建てた北円堂は、広大な興福寺の境内の西の角に位置して、天皇がいる平城京をもっとも見下ろしやすい場所である――と注目して「藤原不比等は天皇との外戚(がいせき)関係を利用した、陰で実質的な権力を握った指揮者であった」と主張する。

 しかし、当時の陰の指揮者は舎人(とねり)皇子であった。正史の『続日本紀(しょくにほんぎ)』が「舎人皇子は天武天皇の第三皇子」と記すように、皇子は「天武天皇の多くの子にあって、皇位継承順位が3番目」であったが、6967月以降は大津皇子(第三皇子)・草壁皇子(第一皇子)・最年長の高市(たけち)皇子が死去したゆえ、天武帝の子にあって皇位継承が第一位となった(注 天武天皇は皇位継承順位の2番目の第二皇子を設けなかった)
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・26」で証明したように――舎人皇子は『古事記』の編纂を指揮した。『古事記』が元明天皇に献上された712128日の時点では、37歳の舎人皇子は東海道・東山道の武士たちを束ねる養父の大伴連(むらじ)大国の跡取り息子であったゆえ、皇居に住む皇族ではなかった。舎人皇子は平城京から遠く離れる養父の大国が住んだ片田舎の高屋(たかや/現在の奈良県宇陀郡榛原町高星)で暮らす庶民であった。ゆえに、庶民であった712128日より以前の皇子に関する記事は『続日本紀』には載っていない。皇子はおそらく7122月か3月以後に高屋を引き払い、平城京に居をかまえて宮中勤めをして皇族になったことになる。
 それゆえ『古事記』献呈が失敗してから2年後の71413日、『続日本紀』は「舎人皇子は二品(にほん)となり、封戸(ふこ)二百戸加増された」と記す。この日、常に舎人皇子のかたわらにいて伊耶那美崇拝運動を補佐する異母弟の新田部(にいたべ)皇子も二品となった(注 新田部皇子は天武天皇の子にあって皇位継承順位が第七位)
 7145月、舎人皇子を主君と仰ぐ大伴安麻呂(やすまろ)は大納言兼大将軍正三位で没した。左将軍である長男の旅人(たびと)が後を継ぎ、舎人皇子を主君と仰いだ。

◆翌715514日、『続日本紀』は――元明天皇が「五兵〔五種の兵器。弓矢・殳(つえぼこ)・矛・戈()・戟(げき)〕」は古くから久しく使用されている。強敵を服従させ、従順なものに手なずけるのも、みな武徳による。しかしながらいま六道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海の各道)の諸国において製造される武器は、充分に使用に耐えられない。このような武器では、いざという時に、どうして役に立とうか。今後は毎年、製造した武器の見本を提出させ、巡察使(じゅんさつし)が出向いた時に、兵士が使用する武器が提出された見本と同じものかくわしく調査せよ」と詔(しょう)した――と記す。
 伊耶那美崇拝派運動を推進する舎人皇子は元明天皇にとって姉(持統帝)と息子(文武帝)の命を縮(ちぢ)めた憎い敵であった。ゆえに元明天皇にとって舎人皇子は上記した文のごとく「服従させるべき六道の強敵」であり、「必ず従順なものに手なずければならない邪悪な敵」であった。ふつうは「六道」ではなく、「七道」という。「六道」に九州の「西海道」を加えると「七道」となる。当時、西海道では隼人(はやと)族が反抗していた。だから元明天皇が「六道の強敵」と怨念(おんねん)をこめて呼ぶ人物は舎人皇子であった。というのも、武家の名門大伴家を継いだ左将軍の旅人は舎人皇子を主君と仰ぎ、伊耶那美崇拝運動の副頭領の新田部皇子はかなりの軍事力を有し、舎人皇子は東海道・東山道の武士たちの頭領の大伴連家の家督者であったゆえ、舎人皇子の軍事力は朝廷軍(天照大御神崇拝派の軍)より優っていたから「朝廷を脅(おびや)かす六道の強敵」ということになった。
 いっぽう、元明天皇がたよりにする朝廷側の強力な武将の左大臣の石上麻呂(いそのかみまろ)76歳の高齢であった。右大臣の藤原不比等は58歳で舎人皇子より18歳年上であり、710年に藤原氏の氏寺とした興福寺も軍事上の要地として役立たなかった。もしも712以前に高屋に住む舎人皇子が反乱を決意して東海道・東山道の武士たちを率いて平城京に目指したならば、興福寺は必ず通過しなければならない交通の要衝(ようしょう)となったゆえ平城京を守る軍事上の要(かなめ)となった。しかし、715年においては舎人皇子と右腕の新田部皇子と左将軍の大伴旅人も宮中勤めをしていたために、舎人皇子側の軍事力は東海道・東山道に限らず山陰・山陽・南海・北陸まで及んでいた。したがって舎人皇子は興福寺を通過せずに都に到着できる軍勢をも有したゆえ、興福寺は平城京をまもることができる要塞(ようさい)にはならなかった。
 上記した7155月の「六道の強敵」に関する詔令は、舎人皇子が侮辱されたと立腹して反乱を準備するようであれば、天皇は即座に皇子を“天下を奪う謀反人!”と呼び、姉の持統天皇が大津皇子を処刑したと同様に強引に抹殺するための策略(さくりゃく)であったと考えられる。また4ヵ月後に、元正天皇は娘の氷高(ひたか)皇女に譲位しているが、舎人皇子を愛する娘に皇子は母が怨(うら)み憎む六道の敵であることをくれぐれも忘れるなと警告するものでもあったことになる。
 2ヵ月後の7月、伊耶那美崇拝派の知太政官事の穂積(ほずみ)皇子が没した。
 前述したように4ヵ月後の9月、元明天皇の娘の氷高皇女に譲位した。これが元正天皇である。娘が舎人皇子を一途に愛して独身を貫いていることを、母の元明天皇は知っていた。だから4ヵ月前の5月の元明帝の「六道の強敵」の詔令は、前述したように娘の元正天皇に舎人皇子は母が憎む仇(かたき)であることを警告して皇子の勝手な振る舞いに娘が同調することを、母は絶対に許さないと釘を刺すものであったことになる。

7173月、元明上皇が最もたよりとした左大臣の石上麻呂が78歳で没した。老獪(ろうかい)な左大臣の石上麻呂と右大臣の藤原不比等の二人が手を組むからこそ、伊耶那美崇拝派と対等であった元明上皇の権力は一気にぐらつきだした。
 いっぽう、伊耶那美崇拝派は舎人皇子を頭領とし、副頭領の新田部皇子、辣腕(らつわん)政治家の長屋王(ながやおう/天武天皇の子で最年長の高市皇子の子)、左将軍の大伴旅人の若手で組織されていた。
 この伊耶那美崇拝派と対立する天照大御神崇拝派は元明上皇と藤原不比等・房前(ふささき/不比等の次男)・宇合(うまかい/不比等の三男)・麻呂(まろ/不比等の四男)であった。
 そして元正天皇は伊耶那美崇拝派であり、前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・26」で解説したように不比等の後妻の県犬養橘宿禰(あがたのいぬかいたちばなすくね)と長男の武智麻呂(むちまろ)は舎人皇子と親密で伊耶那美崇拝派に加わっていた。
 ところが、舎人皇子が45歳となった720年の3月、元正天皇は不用意にも戦争の引き金になりかねない勅令(ちょくれい)を発した。この勅令は大伴旅人を征隼人持節(せいはやとじせつ)将軍に任命して、九州大宰府(だざいふ)に赴任させるものであった。18年前の7028月、石上麻呂を大宰府の長官に赴任させたため朝廷の軍事力は無力と化し、文武天皇の命は風前の灯となった。ゆえに、翌7031月に文武天皇は屈服して伊耶那美崇拝派の欲求とおりに知太政官事(ちだじょうかんじ)を新設して忍壁(おさかべ)皇子の就任を容認した。だから大伴旅人の大宰府の赴任は圧倒的に優勢な伊耶那美崇拝派の兵力が削減(さくげん)されて、劣勢を挽回(ばんかい)する手立てが無く耐える天照大御神崇拝派にとって思い切って活路を開く好機が到来したことになり一気に不穏(ふおん)な状況となった。
 旅人の九州赴任を一触即発(いっしょくそくはつ)の風雲を告げる状況になったととらえた舎人皇子は、戦争となったならば歴史書作成どころではなくなると危機感を抱いた。旅人の大宰府派遣の2ヵ月後の521日、舎人皇子から『日本紀(にほんぎ)』が元正天皇に奏上(そうじょう)された。『日本紀』は後年に書名が『日本書紀』と改められた。
 『続日本紀』は『日本紀』が元正天皇に奏上された様子を、下記のごとく記載する。
 「これより一品(いっぽん)の舎人親王は、勅(ちょく)をうけて日本紀の編纂に従っていたが、この度(たび)それが完成し、紀(編年体の記録)三十巻と系図一巻を奏上した。」
 『続日本紀』が「献呈」ではなく「奏上」と記したのは、『万葉集』の最終の巻二十の冒頭の4293番と4294番の「山村(やまむら)に幸行(いでま)しし時の歌二首」によって明らかとなる。4293番の和歌の前には――先の太上天皇(元正天皇)が付き添っている王臣に向かって、「諸王卿(しょおうけい)らよ、私の歌に和(こた)える反歌(はんか)を奏(まを)すべし」と仰せられた――という説明があり、次の4294番の題詞は「舎人親王、詔(みことのり)に応(こた)へて和()へ奏(まつ)る歌一首」である。だから、4293番の説明と4294番の題詞には共に[]の字があるから、『続日本紀』は「奏上」と記載したのである。
 元正天皇が作った4293番の和歌は下記のごとくである。
 「あしひきの 山行きしかば 山人(やまびと)の 朕(われ)に得()しめし 山づとそこれ」
 現代語に訳すると「皇居から出て山村に出かけると、仙人(やまびと)の老子を尊重する諸王卿らが『日本紀』を完成させて朕に献上した、これは朕にとっていちばんうれしい土産(みやげ)です!」となる。
 舎人皇子が作った4294番の和歌は下記のごとくである。
 「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰(たれ)
 この和歌は「この山村に行幸して手に入れた諸王卿が作った『日本紀』を山づとと呼んで陛下は落胆(らくたん)する王卿たちの心も知らないで喜んでいますが、この『日本紀』は仙人の老子が作った書物『老子』と違って後世に真実の歴史が伝わらない失敗作です! ここには蓬莱の神仙の仙人と呼べる人物は誰一人もいません」となる。
 舎人皇子は元正天皇の不用意な大伴旅人の大宰府派遣によって戦争はもはや避けられなくなったと深刻に思い込み、(1)日本建国の〔愛〕の理念が不明となり、(2)天照大御神が残酷な徇葬(じゅんそう)を決行した歴史も削除(さくじょ)された失敗作の『日本紀』を仕方なく献上する事態となった状況を嘆き、この怒りを元正天皇にぶつけたのである。

◆前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・26」で証明したように――『万葉集』1682番の「忍壁(おさかべ)皇子に献(たてまて)る歌一首 仙人(やまびと)の形(かた)を詠む」という題詞の和歌「とこしへに 夏冬行けや 裘(かはごろも) 扇(あふき)(はな)たぬ 山に住む人」は、703(大宝3)120日に天皇に次ぐ高位の歴史局の総裁と太政大臣を兼務する「知太政官事」が新設されたことを伝えている。
 この和歌では中国の思想家老子を「山人」と呼ぶ。『老子』という書物には老子が「真実への眼射(まなざし)」を「知足(ちそく)」と呼んだと記される。「知足」とは「足()るを知る者は富む」の略称である。「足るを知る」とは「真理を知る」と意味する。ゆえに、「知足」は「真理を知って満足する者は、たとえ貧しくとも富める者ということになる」と意味した。この「知足」の[]に「太政大臣」を加えて「知太政官事」がいう官職名が作られた。
 だから、上掲(じょうけい)した元正天皇が作った4293番と舎人皇子が作った4294番に詠まれた「山人」はもちろん「老子」と「知足=真実への眼射」を意味した。
 元明天皇に献上を拒絶された『古事記』は――(1)伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に記述し、(2)夏音文字を随所に記載して銀河各部の形状で『古事記』上巻の神代の歴史の真相が解明できる仕組みにし、(3)老子が考案した〔反実仮装〕の方法で「残酷な徇葬(じゅんそう)」決行した天照大御神〕の名は「伊耶那美命」と記載する。だから『古事記』は後世に真実を伝える「知足」の史書であった。
 しかし、元正天皇に奏上された『日本紀(日本書紀)』は舎人皇子が一生を賭けて後世に伝えようとした日本建国の〔愛〕の理念が不明となる、舎人皇子にとっては偽書と言ってもよい不出来な失敗作であった。だから、上掲した4294番は舎人皇子が「『日本紀(日本書紀)』は失敗作だ!」と悲嘆し落胆(らくたん)したことを示す和歌であったことになる。
 上掲した『万葉集』4293番と4294番の和歌で注目すべきは、元正天皇が『日本紀』の献上を7205月に承認したことになるゆえ、元正天皇はこの時点で舎人皇子が歴史局の総裁の知太政官事に就任することを内諾(ないだく)したことになる。
 そして、もう一点注目すべきは前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・26」でおいて取り上げた『続日本紀』の736(天平8)1111日の聖武天皇が葛城王に「橘」に姓を賜ることになった上表文の一件である。この上表文には「ここをもちて、臣葛城等、願わくは橘宿禰の姓を賜りて、先帝の厚命(こうめい)を戴き、橘氏の殊名を流(つた)へ、万歳(まんさい)に窮(きわ)みなく、千葉(せんよう)に相伝(あいつた)へむことを」と記されていた。末尾の「万歳に窮みなく、千葉に相伝へむことを」という文は『万葉集』という書名となった。文中の「先帝」は「元正天皇」である。だから、舎人皇子は7205月に『日本紀』は失敗作だと立腹して元正帝を悲しませたことを後悔して、元正帝に皇子が一生を賭けた日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える和歌集(『万葉集』)を捧(ささ)げることにしたのである。この元正帝に『万葉集』を捧げる情念(おもい)を、皇子は「先帝の厚い命令を戴き」と表現した。そして『日本紀』の奏上は5月であったので、「五月」は「橘月(たちばなづき)」とも言ったので舎人皇子は「聖武天皇を騙(だま)して賜る橘姓を利用して『万葉集』を編纂する」とあらわす暗号を「橘」と定め、葛城王に橘(『万葉集』の編纂)を命令した。

7205月下旬に『日本紀』が奏上されてから間もなくして、藤原不比等が重病になった。この不比等の重病は天照大御神崇拝派の劣勢がさらに深刻となるため、伊耶那美崇拝派に絶対に知られたくなかった。ゆえに不比等の命令か次男房前の指図かはわからないが、舎人皇子と親密な後妻の県犬養橘宿禰にも長男武智麻呂にも不比等の重病は知られないように徹底的に秘密にしたにちがいない。このように厳重に不比等の重病を隠す房前と天照大御神崇拝派の人々の慌(あわ)ただしく怪しげな動静は、あたかも不比等と房前が大伴旅人の大宰府への赴任を好機と捕らえて戦いを準備しているように見える。
 それゆえ舎人皇子は密使を九州に放った。密使は82日ごろに大伴旅人と面会し、舎人皇子の帰京命令を伝えた。
 81日、不比等が重病であることが公表された。これによって元正天皇に報告せずに無断でおこなった征隼人軍持節将軍の大伴旅人の帰京命令は舎人皇子の判断ミスであったことが明らかになった。
 ゆえに舎人皇子が軍事命令違反の大罪を犯したことを知った元正天皇は、母元明上皇が立腹して舎人皇子をただちに処刑すると受け止め、なんとしても舎人皇子の命をまもろうと必死に考えた。
 83日、不比等が没した。不比等の死について『続日本紀』は下記のごとく記述する。
 「不比等が薨(こう)じた。天皇は深く悼(いた)み惜しまれた。この日は政務につかず、内殿(ないでん)で悲しみの声を上げる礼をおこない、特別に手あつい天皇の勅(ちょく)があった。死者を弔い贈り物をする礼は、他の群臣と異なって盛大であった。」
 天皇は舎人皇子の命をまもる楯(たて)になるために自分は生きているのだと必死に気丈(きじょう)に振る舞うものの心は砕けて暗い淵(ふち)に突き落とされて神・仏に助けを求めて泣き叫びながら、その悲嘆(ひたん)の淵から見えた希望の灯となった結論が――母元明天皇がよろこぶように不比等の葬儀を他の群臣よりも際立って盛大にして母の怒りをまず静めることにする考えであった。不比等の葬儀を盛大にすれば、不比等の重病を隠して舎人皇子を罠にはめたと房前は喜ぶにちがいなく舎人皇子へ向ける怒りや憎しみを忘れて葬儀に専念すると、天皇は企んだのである。天皇は舎人皇子を一途に愛するものであったから、皇子に幾度となく騙(だま)した狡猾(こうかつ)な不比等を軽蔑して尊敬する念はいささかも抱かなかったにちがいないが、盛大な不比等の葬儀の勅は舎人皇子の命をなんとしても救わんと思いつめた窮余(きゅうよ)の一策(いっさく)であったのである。
 その証拠に不比等の葬儀が行われた翌日、早速――『続日本紀』が「84日、詔(みことのり)があって舎人親王を知太政官事に任じ、新田部親王を知五衛及授刀舎人事(ちごえいおよびじゅとうしゃにんじ/宮廷護衛軍の総括役)に任じた」と記すように――天皇は舎人皇子と新田部皇子に朝廷の軍事権を掌握させ、母上皇と房前の命は風前の灯にして舎人皇子の処刑を口に出すことができないように先手を打った。
 『続日本紀』の記事は82日、812日、83日と日付の順序が2日と3日の中間に挿入(そうにゅう)して乱れている。812日の記事は「隼人を征討(せいとう)する持節将軍の大伴宿禰旅人はしばらく入京させる。ただし、副将軍以下の者は、隼人がまだ平定し終わっていないので、留まってそのまま駐屯(ちゅうとん)せよ」と記述する。ゆえに大伴旅人が率いる征隼人軍は2日と3日の間の深夜に九州を出発し、そして12日に征隼人軍は洛外に到着したが、天皇は将軍の旅人だけしばらく入京させて副将軍以下の兵士は平城京の外に留まって駐屯するように対処したことになる。この対処もまた、元明上皇と房前が舎人皇子の処刑を口に出さないようにするために、副将軍以下の征隼人軍の兵士たちを洛外に待機させて朝廷の全軍事権を舎人皇子が掌握するようにして天皇は舎人皇子の命をまもったのである。

◆翌72183日、不比等の一周忌に元正天皇は興福寺の境内の西の角に北円堂を建てさせた。これも不比等を敬うものでなく、死んだ不比等の怨霊(おんりょう)が舎人皇子を祟(たた)らないようと祈願するものであったにちがいない。
 滋賀県犬上郡多賀(たが)町に所在する多賀大社の主祭神は、伊耶那岐命と伊耶那美命である。わがブログ「日本国誕生史の復興・16」で証明したように、A図に示す静岡県沼津市の足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)の山頂には伊耶那岐命が信仰した仙人に力を与える仙果(せんか)「桃」を祀る桃沢神社が鎮座する。ゆえに、足高山の山頂と同緯度(北緯3514)の多賀大社は伊耶那岐命の霊廟(れいびょう)となった。
N541
(C) 2106 OHKAWA
 

 『古事記』中巻の開化天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた」と記述する。開化天皇が居住した宮殿の「伊耶河宮」と「伊耶那岐命」の先頭2字は共に「伊耶」であるので、伊耶那岐命は後の開化天皇であった。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話に記述されたように、伊耶那岐命・開化天皇はクーデターを決行して第二后であった倭女王天照大御神=伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと/崇神天皇の生母)に、B図左下に示す神倉神社(和歌山県新宮市)のご神体のごとびき岩の前で離縁を言い渡して天下を奪った。
N542


   開化天皇は250年~260年頃に死去したが、天照大御神・崇神天皇母子は憎み復讐して開化天皇の陵墓を築造しなかった。その証拠に、奈良市油坂町に全長約105mの前方後円墳の開化天皇陵が存在するが、その墳丘規模(ふんきゅうきぼ)から5世紀末から6世紀初頭に築造されたとされる。このように天照大御神・崇神天皇は開化天皇陵を築造しなかったために、3世紀後半から5世紀末頃において、小国・日本の軍王の伊耶那岐命の精霊が棲むと信仰された桃沢神社が鎮座する沼津市の足高山の山頂(A図参照)と同緯度の近江の多賀大社が伊耶那岐命・開化天皇の霊廟となったのである。

(注 なお 開化天皇陵は元正天皇が建てさせた興福寺の北円堂から直線距離で約500m西方に所在する)
 近江の多賀大社のお守りと知られるお多賀杓子(たがしゃくし)は――元正天皇が養老年間、多賀大社の神官たちが天皇の病の平癒(へいゆ)を祈って強飯(こわめし)を炊き、シデの木で作った杓子を添えて献上したところ、天皇の病が全快したため、霊験あらたかな無病長寿の縁起物(えんぎもの)として信仰を集めた――と伝承される。
 『続日本紀』で調べると、多賀大社の〔お多賀杓子〕の伝承と異なり養老年間(717723)に元正天皇は病気になっていない。しかし、不比等の盛大な葬儀と北円堂の建造について舎人皇子は天皇が心変わりしたと疑って離れていき、また母元明帝には舎人皇子の命を必死に守る行為を厳しく責め立てられたうえに、老いて死が近づいた母に同情した天皇はその母がその同情を利用して裏切るものであったことに気づいて精神的にズタズタになっていた。多賀大社の神官たちは不比等の盛大な葬儀や北円堂の建造はじめとする一連の行動は元正天皇が舎人皇子の命をまもるための必死の行為であることを察して、シデの木を添えて献上してなぐさめた。多賀大社は不老長寿の霊薬が採取される蓬莱山と見立てられた沼津市の足高山と同緯度であるゆえ、お多賀杓子は無病長寿の縁起物となった。元正帝時代ころのお多賀杓子のお玉(カップ)の部分は大きく窪(くぼ)み、柄は湾曲していたと伝わる。この形は、前方後円墳の開化天皇陵に相似する。
 B図に示した伊耶那岐命が天照大御神に離縁を言い渡した神倉神社のご神体の巨岩「ごとびき岩」の「ごとびき」は「ヒキガエル」を意味し、「ヒキガエルの幼生」は「オタマジャクシ」と呼ばれる。したがって「お多賀杓子」は「お玉杓子」の語源になり、「ごとびき岩」と「お玉杓子」から「オタマジャクシ」と言われるようになったと思われる。
 以上のごとく、冒頭で紹介した梅原猛先生の「不比等の霊をなぐさめるために一周忌に元正天皇が建てさせた北円堂は広大な興福寺の境内の西の角に位置する。これは、天皇がいる平城宮をもっとも見下ろしやすい場所である。だから、不比等は天皇との外戚関係を利用して、当時において実質的な権力を握る指揮者であった」という意見は、真実を伝える多数の確かな史料を排除し無視する方法から生まれた空想であったことになる。

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