« 日本国誕生史の復興・27 | トップページ | 日本国誕生史の復興・29 »

2016年8月24日 (水)

日本国誕生史の復興・28

 藤原不比等は陰の指揮者ではなかった(4)

◆わがブログ「日本国誕生史の復興」は前々回(26)と前回(27)で証明したように――「忍壁皇子(おさかべおうじ)に献(たてまつ)る歌一首 仙人(やまびと)の形(かた)を詠()む」という題詞が付く『万葉集』1682番は、7031月に新設された忍壁親王が知太政官事(ちだいじょうかんじ)に就任したことを祝う和歌であった。題詞にある「仙人の形」は、A図に示す「中国の古代絵画の一般的な形(形式)であった、裘(かわごろも)を着て扇(うちわ)を手に持つ老子の肖像画」のことであった。
N551
(C) 2016 OHKAWA
 

 この1682番の和歌「とこしへに 夏冬行けや 裘 扇(あふき)放たぬ 山に住む人」を現代語に訳すると、「絶えず夏と冬とが共に行く蓬莱山の高地に住む老子は、毛皮の服を着て団扇(うちわ)を手放さない。とうとう忍壁親王は、37の章で構成される『老子』という書物の上篇において漢字は銀河から作られたと真実の歴史を後世に伝えた山人の老子のようになれて、真実の日本国誕生史を後世に伝える知太政官事に就任なされた。実に目出度いことよ!」となる。
 『老子』の第33章・第38章・第39章・第44章・第46章には、【知足(ちそく)】という考え方と思想が書かれている。【知足】は『古事記』を作成する方法となり、【知足】は【真実への眼射(まなざし)(真実をとらえることができる考え方)を指した。そして【知足】は、17世紀の初めにデカルトが提唱した近代科学の理論的枠組みの誤り・矛盾・不合理を打破(だは)できる考え方・理論として、1980年代の欧米の科学者や科学論家たちに注目された。
 7031月、【知足】の[]に「太政大臣(だじょうだいじん/太政官の長官)」の役目を兼務する官職」を加えて「知太政官事」という官職が新設されて、忍壁親王が就任した。「太政官」は「政務を総理し、中央の全官庁および諸国を総括して国家を治める、天皇政治の中心となる役所」であり、「太政官の長官」が「太政大臣」である。ゆえに「歴史局の総裁と太政大臣の役目を兼務(けんむ)する」のが「知太政官事」であり、天皇に次ぐ高位で、左大臣・右大臣よりも位は高い。
 上記したように「知太政官事」の[]は老子が説いた【知足】の[]であるゆえ、歴史局の総裁と太政大臣の役目を兼務する「知太政官事」の[]の字には「真実の歴史を後世に伝える歴史局の総裁」という意味が込められていた。
 
 690年頃より持統(じとう)天皇は、天照大御神こそが最も偉大であると事実を曲げる偽書の作成を欲求(よっきゅう)した。この皇室の欲求をはねつけて、7031月の時点において前々から、伊耶那美命と伊耶那岐命の二霊が日本国の生みの親であると記述する真実の歴史を後世に伝える書物(『古事記』)の骨格(こっかく)となる構想が固まっていた。この真実の歴史を後世に残すためには、老子が説いた【知足】という考え方や老子が考案した〔反実仮装〕という表現方法が必要不可欠となった。だから7031月、忍壁親王が就任した「歴史局の総裁」は【知足】の[]の字であらわされることになったのである。

 
◆正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』は「720(養老4)84日、詔(みことのり)があって舎人(とねり)親王を知太政官事に任じ、新田部(にいたべ)親王を知五衛及授刀舎人事(ちごえいおよびじゅとうしゃにんじ/宮廷護衛軍の総括役)に任じた」と記す。ゆえに、舎人皇子の異母弟の新田部皇子が任命された官職の先頭字の[]も【知足】をあらわした。
 これより3ヵ月前の521日、『続日本紀』は「これより一品(いっぽん)の舎人親王は、勅(ちょく)を受けて日本紀(後の日本書紀)の編纂(へんさん)に従っていたが、この度(たび)それが完成し、紀三十巻と系図一巻を奏上(そうじょう)した」と記載する。
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・27」で証明したように、『日本紀(日本書紀)』の元正帝への「献上」を「奏上」と記された事情は、『万葉集』巻二十の冒頭の4293番には――先の太上天皇(元正帝)が付き添っている王臣に向かって「諸王卿(しょおうけい)らよ、私の歌に和(こた)える反歌(はんか)を詠んで奏(もう)すべし」と仰(おう)せられた――という説明があり、次の4294番には「舎人親王、詔に応(こた)へて和()へ奏(まつ)る歌一首」という題詞が付き、両方の和歌の前にある文には共に[]の字があり、また舎人皇子は天皇の和歌に応えて和歌を作り奏(もう)して『日本紀』を献上した。だから『続日本紀』は舎人皇子の『日本紀』の「献上」を「奏上」と記したのである。
 元正天皇が作った4293番の「あしひきの 山行きしかば 山人(やまびと)の 朕(われ)に得()しめし 山づとそこれ」は『日本紀』を「山の土産(みやげ)」と表現してその完成を喜ぶ様子を詠んでいる。いっぽう、舎人皇子が作った4294番の「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰(たれ)」は「『日本紀』は【知足】の史書ではなく真実の歴史が不明になった失敗作だ」と落胆して嘆く歌であった。
 
 この4293番と4294番の和歌は共に3句目は、上掲(じょうけい)した1682番の題詞にある「仙人(やまびと)」と同じ「山人」である。ゆえに「山人」は「老子」をあらわし――上記したように、「知太政官事」の[]は単に「歴史局の総裁」と意味するものではなく、老子が説いた【知足】の「真実への眼射(まなざし)」の意味が加わるものであった。したがって、「知太政官事」は「〔愛〕の理念が唱えられた日本国誕生史とその後の神代における真実の歴史を後世に残す書物の作成を指揮する歴史局の総裁」と意味した。だから上掲した4293番の和歌で舎人皇子は「『日本紀』は【知足】の史書ではなく、真実の日本国誕生史が不明となった失敗作であった」と落胆して嘆いたのである
 わがブログ「日本国誕生史の復興」で証明してきたように――伊耶那美命が日本建国の〔愛〕を唱えた場所は、B図に示す静岡県沼津市に所在する東日本最古で最大の前期古墳の高尾山(たかおさん)古墳であった。C図の範囲は、伊耶那美命と伊耶那岐命が赴任(ふにん)した「小国・日本」であり、C図より西側の西日本は卑弥呼が治める「倭国」であった。
N552
(C) 2016 OHKAWA
 

 『日本紀』に記載された内容はほとんど倭国の出来事であるが、『日本紀』は小国・日本の高尾山古墳で伊耶那美命が唱えた〔愛〕の理念を後世に伝える――これを第一の作成目的としたゆえ、書名は「日本」が付く『日本紀』(後には『日本書紀』)となったのである。

 
◆京都市の右京区にある臨済宗妙心寺(りんざいしゅうみょうしんじ)派の龍安寺(りょうあんじ)の石庭(せきてい)は、室町時代を代表する庭園美の極致(きょくち)と称賛される。龍安寺の「方丈(ほうじょう)」と呼ばれる建物の南側にある枯山水(かれさんすい)の平庭(ひらにわ)を“石庭”と呼ぶ。
 石庭の東から西に5群の石組が配置され、いちばん東側の第1群は石庭における最大の石と小さい4個の石で組織される。この第1群の大石が石庭全体の主石の役割をはたす。
 石庭の第1群の石は5個、第2群の石は2個、第3群の石は3個、第4群の石は2個、第5群に石の数は3個、合計15個である。しかし、石庭は老子が説いた【知足】を具体的に示すために、どこから見ても石の数は14個しか見えないように工夫(くふう)して作られている。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」は2527(前回)まで、哲学者で歴史家で有名な梅原猛先生はさまざまな書物を著作して――697720(文武・元明・元正の3天皇時代)の陰の指揮者は藤原不比等(ふひと)であった――と主張するが、この意見は間違っていることを証明してきた。当時の陰の指揮者は舎人(とねり)皇子であったからである。
 舎人皇子と藤原不比等の一生を比較してみれば、舎人皇子が陰の指揮者であったことは明瞭(めいりょう)となる。
 梅原先生は「石庭の石の数は14個で間違いがない」とする誤った考え方で立論して「不比等が陰の指揮者であった」と思い込んだ。つまり、梅原先生の考え方には【知足】の「真実への眼射(まなざし)」が欠けている。
 龍安寺の方丈の東北にある蔵六庵(ぞうろくあん)の露地(ろじ)にある手水鉢(ちょうずばち)は「知足の蹲(つくばい)」と呼ばれる。D図は「知足の蹲い」の真上から見た図である。蹲い(手水鉢)の中央の海(うみ/水穴)[]の字にすると、[][][][][][][][][][]の下に[]を加えると[]となるので、「吾唯知足」となる。この「吾唯知足」の4字は「吾(われ)(ただ)()るを知る」と読む。
N553
(C) 2016 OHKAWA
 

 水穴の周囲の4字のうちの[][][]3字はほんとうの字であるが、[]の下にD図左上の[]を加えると[]の字にならない。[]の下部にD図左下の嘘字(うそじ)を加えれば[]となる。D図左上の[]の頭部の[][左へ撥()ねる爪(つめ)]が欠けると、D図左下に配した嘘字となる。(注 D図右図の知足の蹲いの字は嘘字である)。 
 
 この[]の字に[][左へ撥ねる(字を書く向きを変える)]が欠ける嘘字は「石庭の石は全部で15個あることが真実であるが、どこから見ても15個から一(ひとつ)を撥ねる(取り除く)14個に見える数は嘘・幻影をあらわす役割」を有した。
 龍安寺が発行するパンフレットは「禅(ぜん)とは、吾れ唯だ足ることを知る宗教である」と記載する。ゆえに「禅とは老子が説いた【知足】の宗教である」ことになる。
 だから石庭は「石の数は全部で14個であると単に目で見えるだけの数を主張する観察者は、嘘、幻影、思い込み、錯覚などにとりつかれたことになる」ことが容易に理解できるようにして、石庭は15個の石の数で【知足】つまり「真実への眼射(まなざし)」と「真実をとらえることができる考え方」を容易に理解できるようにした。
 それというのも、日本古代史には――朝廷が読むことを禁じた『古事記』の上巻は【知足】の史料であるが、朝廷が正史と定める『日本書紀』の神代紀は【知足】の史料でない――という事実が存在したからである。ゆえに、この事実は日本人の心の根源・魂・思想・哲学・宗教などに欠くことができない極めて重大な基礎知識であったので、龍安寺の石庭は15個の石の数と目に見える14個の石で真実と虚偽が見分けることができるようにしたのである。

◆『古事記』序と上巻は――(1)淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話で、伊耶那美命は伊耶那岐命と最初に結婚したB図に示した高尾山古墳で日本建国の〔愛〕の理念を唱えたと記述し、(2)序において上巻の随所に〔音〕という注を付ける文字は今から約4050年前の後期縄文時代初頭に習得された夏音(かおん)文字であり、夏音文字の字源・字形・字義は下記に示す文字作成銀河(写真)の各部の形状であると解説し、(3)伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話では『老子』で開発された〔反実仮装〕の方法で残虐な徇葬(じゅんそう)を決行した「天照大御神」(崇神天皇の生母)の名を「伊耶那美命」と表記する――真実の歴史を後世に伝える【知足】の史料であった。
Ginga

  学者たちはこぞって本居宣長(もとおりのりなが/17301801)が著作した注釈書『古事記伝』を基(もと)にして考えるが、この学者たちが信頼する『古事記伝』は上記した(1)(2)(3)についてまったく解明していない。ゆえに『古事記伝』は【知足】の参考書ではなく、重大な真実を排除した信頼できない注釈書ということになる。
 龍安寺の石庭は、上記した『古事記』序と上巻に記述された(1)(2)(3)の事実を伝えるように作られている。石庭から(2)(3)の知識を有すれば、『古事記』上巻や『万葉集』などから(1)の伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を知得(ちとく)することができる。
 このため(3)の『老子』が説く〔反実仮装〕の表現方法を知るためには、老子の「真実をとらえることができる考え方」の【知足】が必要となった。つまり、『古事記』序はその初頭で「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(ぐんぴん)の祖(おや)となる」という文で「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命の二霊がわが国の生みの親である」とあらわし「天照大御神よりも伊耶那美命と伊耶那岐命のほうが偉大である」と示すゆえ、上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話における残虐な徇葬(じゅんそう)をおこなった「伊耶那美神命」は老子が説く【知足】(15個の石の数が真実で、14個の石の数は虚偽・幻影となる)で考えれば「天照大御神」であると読解(どっかい)しなければならないようにした。
 E図は、石庭全体の主石となる第1群の大石を正面から見た図である。この大石は上掲した文字作成銀河(写真)のうちの右下の銀河(夏の銀河の西南部)の形状に相似する。また、E図に記したように大石の形は〔天頂緯度線の[]をキャッチする禅僧の横顔の形〕となる。F図の右上に示すように、「天頂緯度線と子午線」をあらわす漢字は[(げん)]である。
N554
(C) 2016 OHKAWA
 

 今から6000年前から現在まで、上掲した文字作成銀河の左上の銀河(秋の銀河の西部や夏の銀河の東北部)が中国とわが国の天頂を通過した。
 E図の第1群の大石は石庭の東端にあり、文字作成銀河における中国とわが国の天頂にめぐってきた東端の秋の銀河の西部をあらわす。また上記したように、第1群の大石は西端の夏の銀河の西南部の形に相似する。だから第1群の大石は夏音文字の字源・字形・字義となった文字作成銀河の全域(秋の銀河の西部、夏の銀河の東北部・西南部)に見立てて――わが国には文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義とした夏音文字が伝来し習得された――と、[]をキャッチする禅僧の横顔に相似する第1群の大石であらわした。
 なお、石庭の5群の石組は文字作成銀河の各部分の形状に相似するゆえ文字作成銀河の全域をもあらわして〔漢字は文字作成銀河から作られた事実〕を今日に伝える。

◆G図は、3個の石で構成される石庭の第5群の大石図と西端の小石の石組図である。
 G図上図の石庭に横たわって伏せる石組の形は、第1群の大石と同じく天頂を仰いで〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)〕をあらわす人の横顔の形となる。人の横顔に似る第5群の大石の西端と重なる小石は〔鬼の頭に生える角(つの)〕」に見えるので、G図の第5群の石組は〔鬼の横顔〕となる。ゆえに、この〔鬼の横顔〕は『魏志』倭人伝にある「卑弥呼は鬼道(きどう)を事(まつ)る」という記事の「鬼道」をあらわす。
 G図上図を90度転回して「西上・東下(西側を上・東側を下)」にすると〔鬼の横顔〕となるが、G図下図のごとく西端の小石を削(けず)ると第5群の大石は〔人の横顔〕となる。
N561
(C) 2016 OHKAWA
 
 『魏志』倭人伝には方位を記す箇所は全部で15ヵ所あるが、この全15方位記事に一点の〔誤読=文献批判〕を加えなければ、H図のごとく日本列島は90度転回してG図右下図と同じく「西上・東下(西の九州が上・東の近畿・東海西部地区が下)」となる。この転回日本列島地理は、わがブログ「日本国誕生史の復興」の4回・5回・11回・20回・22回・23回・24回にて卑弥呼王朝が制定した地理であることを証明した。この「錯覚の日本列島地理」にもとづいて、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した場所の名は「淤能碁呂島」となった。
N562

  卑弥呼王朝は、I図に示すように――日本列島の西端の玄界灘に浮かぶ沖ノ島は冬に雪が降るゆえ〔西冷〕、沖ノ島と同緯度の東端の伊豆諸島の神津島(こうづしま)は一年中暖かいゆえ〔東暖〕とし、中国の海岸線地域の冷たい気候の北部を〔北冷〕、暖かい気候の南部を〔南暖〕とした。暖かい気候区は中国海岸線地域では南、日本列島では東となる。ゆえに、卑弥呼王朝は日本列島の東は中国海岸線地域の南の方に伸びる――と錯覚したのである。このように、「卑弥呼王朝が制定した日本列島地理=淤能碁呂理論」は歴史上の事実であった。だから、この事実を石庭は第5群の石組であらわした。
 ところが新井白石(16571725)とそれ以後の邪馬台国説学者たちはこぞって、北極星を注目してF図の〔[]のキャッチによる緯度の測定方法〕を無視して、『魏志』倭人伝に記述されたH図に示す卑弥呼王朝が錯覚の転回日本列島地理を制定した事実を排除する。邪馬台国説学者たちは3世紀、F図に示す〔[]のキャッチする方法〕ならば緯度が1分の精度まで測定できたゆえ玄界灘を往来できた事実に気づかず、玄界灘を往来することができない北極星を注目して「日本列島の東は南になるはずがない」と断定する。このような北極星を注目する考え方だと、魏と帯方郡(たいほうぐん)と倭の使節は玄海灘を渡ることができず、魏と倭は国交を結ぶことができなかったゆえ、約2000字で構成される『魏志』倭人伝には文字が1字も書かれていなかったことになり、事実にまったく反する空理空論となる。このように〔[]のキャッチによる緯度測定〕と〔北極星の緯度測定〕とを比較すれば学者たちが〔北極星の緯度測定〕で玄界灘を往来できたと錯覚した虚偽が明確となるので、白石から現在まで約290年間も続く学者たちの意見は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメであったことがただちに簡単明瞭に証明される。

◆以上のごとく、龍安寺の石庭は【知足=真実の眼射】を有すれば『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記述された真実の歴史を知ることができる遺跡であったのである。
 要するに白石が最初に取り入れたデカルトから始まる西欧近代科学には、致命的な【傲慢(ごうまん)な単純化】という誤った考え方が存在した。西欧近代科学に【傲慢な単純化】という誤った考え方が存在することは、1949年に日本人最初のノーベル賞を受けた湯川秀樹博士が先駆者(せんくしゃ)となって1980年代において欧米の科学者や科学論家たちが老子の考え方を注目してすでに証明して確実なことになり、幾つかの国際会議を開いて警告された。
 つまり【傲慢な単純化】とは、梅原先生がおこなった〔舎人皇子を排除して藤原不比等だけを注目する考え方〕を指している。
 また、前述したように〔緯度の測定方法〕は〔北極星による緯度測定〕と〔[]のキャッチによる緯度測定〕と二つの方法が存在するにもかかわらず、前者の方法でしか考えない思考方法が【傲慢な単純化】である。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の215回で証明したように沼津市の高尾山古墳は『古事記』の淤能碁呂島の結婚記事にすべて合理となって【科学】が成立して事実となる。にもかかわらず、本居宣長の『古事記伝』はそのように記述していない、また多数の学者の意見に反するとして、高尾山古墳は伊耶那美命が日本建国の〔愛〕の理念を唱えた場所ではなかったとする考え方が【傲慢な単純化】である。
 わが国には『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名や『古事記』上巻に〔音〕という注が付く多数の夏音文字が現存する。にもかかわらず、学者たちが〔誤読〕を用いて夏音文字を排除した事実が明確に存在するにもかかわらずその学問の伝統を認めない意見もまた【傲慢な単純化】による空想・幻影ということになる。

|

« 日本国誕生史の復興・27 | トップページ | 日本国誕生史の復興・29 »

学問・資格」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

ヒエログリフ(聖刻文字)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 日本国誕生史の復興・27 | トップページ | 日本国誕生史の復興・29 »