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2016年9月24日 (土)

日本国誕生史の復興・29

 ●『万葉集』完成までの歴史解明(1)

◆わがブログ「日本国誕生史の復興」の25回~前回の28回までの4回は、「藤原不比等は陰の指揮者ではなかった」という副題にして、さまざまな書物を著作して「文武・元明・元正の3天皇時代(697720)における陰の指揮者は不比等であった」と主張する哲学者にして歴史家で有名な梅原猛先生の意見は錯覚・偏見(へんけん)であることを証明した。というのも同時代を生存した舎人(とねり)皇子が陰の指揮者であるにもかかわらず、梅原先生は不比等だけをクローズアップして舎人皇子を無視する、いわゆる〔傲慢(ごうまな単純化)〕という論法を用いるものであったからである。今回は「藤原不比等は陰の指揮者ではなかった」という副題の5回目に相当するが、不比等が死んだ720年以後の事柄が主な話題となるので、副題を「『万葉集』完成までの歴史解明」と変えることにした。

◆前々回のわがブログ「日本国誕生史の復興・27」で証明したように――72083日に藤原不比等が死去した。このとき、元正天皇は不比等の葬儀を他の群臣よりも際立(きわだ)って盛大におこなう勅(ちょく)を思いついた。この葬儀は不比等に尊敬の念を示しておこなうものではなかった。この葬儀は天皇がひたむきに愛する舎人皇子が犯(おか)した重罪に気づいた母元明上皇が処刑を欲しても口出しができなくするための対策(たいさく)であった。天皇は舎人皇子の命をなんとしてもまもろうとして胸が張り裂ける悲嘆のどん底にあって気が動転(どうてん)する中で閃(ひら)いた窮余(きゅうよ)の一策(いっさく)が不比等の葬儀を特別に手あつくする勅であったのである。
 『続日本紀』は不比等の葬儀について「天皇は内殿(ないでん)で悲しみの声をあげる礼をおこない、特別にあつい天皇の勅(ちょく)があった。死者を弔い贈り物をする礼は、他の群臣と異なって盛大であった」と記述する。天皇は内殿で不比等の死を悲しんでいたのではなく、このままでは舎人皇子が処刑されると悲しみの大声をあげて嘆(なげ)くどん底で、神仏に皇子の命をまもってくれと必死に祈願していたのである。
 母の元明上皇は姉の持統(じとう)帝の遺志を受け継ぎ、皇室と国家の権力の強大化政策を推進していた。持統帝は伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を削除(さくじょ)して天照大御神こそ最も偉大な先祖であったと捏造(ねつぞう)する偽書(ぎしょ)の作成を欲求(よっきゅう)した。ところが、舎人皇子を頭領とする王臣たちは持統帝の欲求を拒(こば)み伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を後世に残さんとした。ゆえに持統帝は舎人皇子の討伐を計画する行幸をおこなったが、この強行スケージュルが祟(たた)って命を縮(ちぢ)めた。また息子の文武(もんぶ)天皇は、伊耶那美崇拝派との対立の心労(しんろう)25歳に若さで没した。だから元明帝にとって舎人皇子は姉と息子の命を縮めた憎き敵(かたき)であった。
 また舎人皇子は皇室にとって厄介(やっかい)な脅威(きょうい)でもあった。というのも『続日本紀』が舎人皇子を「天武天皇の第三皇子」と記すように、多数の天武天皇の子にあって皇位継承順位が第三番目であったため、当時、舎人皇子は天武天皇の子にあって皇位継承順位が第一位で文武・元明・元正帝に代わって天皇にもなれる高位であったからである。
 そんな舎人皇子を、文武天皇の姉の元正天皇は一途(いちず)に愛していた。
 7173月、元明上皇が最もたよりとした左大臣の石上麻呂(いそのかみのまろ)78歳で没した。この石上麻呂の死後、上皇がたよりにしたのは62歳の藤原不比等とその次男の房前(ふささき)であった。その不比等が翌720年の7月上旬~中旬ころに、重病となった。これゆえ天照大御神崇拝派はこの窮地(きゅうち)を伊耶那美崇拝派に知られまいとして、不比等が病に伏す屋敷の周囲を多数の兵士たちが警護して重病を厳重に隠した。この不比等の重病を隠す怪(あや)しげな行動は、あたかも天照大御神崇拝派が戦争を準備しているように見えた。だから舎人皇子は天照大御神崇拝派が戦争を準備していると思い込み、7月中旬末ころに九州の大宰府(だざいふ)に密使を放った。この密使は812日ごろには征隼人持節(せいはやとじせつ)将軍の大伴旅人(おおともたびと)に面会し、皇子が発した帰京命令を伝えた。ゆえに、征隼人軍は2日から3日にかけての深夜、帰京の途()についた。この舎人皇子の帰京命令は天皇に無断でおこなった重罪であった。81日、不比等の重病が公表された。ゆえに舎人皇子は処刑されるべき大罪を犯したことが明らかになったので、皇子はこの旨(むね)を元正天皇に報告したにちがいない。
 それゆえ舎人皇子が母に処刑の口実(こうじつ)を与える大罪を犯したことを知った元正天皇は、不比等が没した83日に発令した勅にもとづいて母元明上皇と房前が数日間に及ぶ盛大な葬儀に参加している間に、二人が舎人皇子の死刑を口出しできなくするための対策を強行したのである。
 不比等の没した翌日、『続日本紀』が「84日、詔(みことのり)があって舎人親王を知太政官事(ちだいじょうかんじ/天皇に次ぐ高位)に任じ、新田部(にいたべ)親王を知五衛及授刀舎人事(ちごえいおよびじゅとうしゃにんじ/宮廷護衛軍の総活役)に任じた」と記す。このように天皇は不比等の盛大な葬儀の初日に、東海道・東山道の武士たちを統率する武将の舎人皇子に天皇に次ぐ高位の知太政官事と伊耶那美崇拝派の副頭領の新田部皇子(舎人皇子の異母弟)に宮廷の軍事権を掌握(しょうあく)させた。ゆえに、宮廷護衛軍の護衛を失った上皇と房前が天皇の人事に反対すれば、命を失う羽目(はめ)となった。
 『続日本紀』は「812日、征隼人持節将軍の大伴旅人をしばらく入京させる。ただし、副將軍以下の者は、隼人がまだ平定し終わっていないので、留まって駐屯(ちゅうとん)せよ」と記述する。不比等の盛大な葬儀が9日目となって続行していたであろう12日、征隼人軍は平城京の郊外に到着し、入京させた大伴旅人と天皇は征隼人軍の帰京は天皇の命令であったと誤魔化す相談をしたと思われる。また天皇は征隼人軍を平城京の郊外に駐屯させて、征隼人軍の帰京は舎人皇子が命令して大罪を犯したと疑っても上皇と房前の命は風前の灯であることを示して舎人皇子の処刑を求めることができないようにした。
 このように、天皇は不比等の盛大な葬儀を思いつき、その間に舎人皇子が政権と軍事権を掌握するようにして母元明上皇の機先(きせん)を制して、愛する舎人皇子が処刑されない対策を強行した。

◆翌72115日、元正天皇は舎人皇子の政権と軍事権の増強をはかって、不比等が没して空席となった右大臣に、伊耶那美崇拝派の長屋王(ながやおう)を就任させた。長屋王は天武天皇の子にあって最年長の高市(たけち)皇子の息子で、妻()の吉備内親王(きびのないしんのう)は上皇の娘・天皇の妹であった。
 53日、娘元正天皇に先手をうたれて伊耶那美崇拝派の勢力は一気に増大したため、元明上皇はうちのめされて病気となり床に伏せた。
 5ヵ月後、『続日本紀』は1013日と3日後の16日に上皇は自らの葬儀について詔(しょう)されたと記述する。1013日の勅令(ちょくれい)で、上皇は自らの葬儀をおこなってはならぬと禁止した。また3日後の16日には「葬儀については一事たりとも先(1013)の勅(ちょく)にしたがい、いささかも相違してはならない。その轜車(じしゃ/棺を乗せる車)や天皇が乗る車の作りは、金玉を刻みちりばめたり、絵具で絵を描き飾ってはならない。彩色(さいしき)しない粗末なものを用い、卑しく控(ひか)えめにいたせ」と詔された。
 この葬儀の勅令は、舎人皇子に恋する天皇への逆襲と天照大御神崇拝派の劣勢(れっせい)を挽回(ばんかい)するための上皇の策略(さくりゃく)であった。
 つまり、このようなみすぼらしい葬儀は舎人皇子がすべての原因であり、そのような悪党・逆賊に恋い狂う元正天皇の親不孝を気づかせるための計略であった。元正天皇は幼少から親孝行を尊ぶ儒教(じゅきょう)を学ぶものであったゆえ、上皇の「みずぼらしく卑しくせよ」という葬儀の勅令は天皇に親不孝であることを気づかせて舎人皇子への思いを断ちきらせるための策略であった。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」・28」の前々回(27)と前回(28)で解説したように――伊耶那美崇拝派が欲求した「知太政官事」の先頭字は【知足(ちそく)】の[]であり、【知足】は『老子』に記載された老子の代表的な考え方や思想をあらわした。【知足】は「足()るを知る者は富()む」(真理を知って満足する者は、貧しくとも富める者以上に富めるものである)の簡略語である。この「足るを知る者は富む」を逆手(さかて)にとって、上皇はみずからの葬儀を「みすぼらしく卑しくせよ」と命令した。というのも、伊耶那美崇拝派の右大臣の長屋王は贅沢(ぜいたく)な生活に溺れる者であったゆえ人々に憎まれていたからである。ゆえに上皇の葬儀の勅令によって長屋王は、8年後の729年に自殺することになり上皇の企みは成功して伊耶那美崇拝派は劣勢となった。多分30数年前の頃であったと思うが長屋王の邸宅跡が発掘されて、贅沢な生活をしていたことが明らかとなった。
 『続日本紀』の7211024日の記事は、天照大御神崇拝派の劣勢を一気に挽回(ばんかい)するために上皇が考えた秘策(ひさく)を下記のごとく記載する。
 「藤原房前は内臣(うちのおみ)となり、内外にわたってよく計り考え、勅にしたがって施行(しこう)し、天皇の仕事を助けて、永く国家の安泰(あんたい)をはかるように。」
 上皇は知太政官事より高位の内臣を新設して、内臣の藤原房前の命令は知太政官事の舎人皇子の命令より勝るものとした。しかし、内臣の房前の命令よりも元正天皇の命令のほうが勝り、また藤原家にあっては房前よりも長兄の武智麻呂(むちまろ)のほうが人望があり実権をにぎるうえに舎人皇子と親密であり、また舎人皇子と親密な不比等の後妻の県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)の意見のほうが房前よりも勝った。だから、上皇の命令は無意味のように思えたが、上皇が没した後は仲天皇と定められた元正天皇は21歳になった皇太子の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)に譲ると決められていたので、皇太子が天皇に即位すれば天照大御神崇拝派の勢力は一気に増大すると見込んだのである。

721127日、元明上皇は崩御(ほうぎょ)した。時に61歳であった。

 翌8日、長屋王と藤原武智麻呂らが葬儀の御装束(ごしょうぞく)のことをとり行い、大伴旅人が御陵造営(ごりょうぞうえい)の役に就任した。元明上皇が伊耶那美崇拝派の3人の王臣に葬儀の大役に選んだのは、伊耶那美崇拝派への復讐(ふくしょう)であった。
 A図に示す元明天皇陵(東経13550)は伊耶那美命の化身(けしん)となる那智の滝(東経13553)のほぼ同経度の地に築造された。
N571
(C) 2016 OHKAWA
 
 A図に示す元明天皇陵は自然の地形を利用して〔南西〕(/ひつじさる)から〔東北〕(/うしとら)にかけて土を盛って築造された。陰陽道では〔南西〕を〔裏鬼門(うらきもん)〕、〔東北〕を〔鬼門〕の方角として万事に忌()み嫌(きら)った。むかし家の〔東北〕の方向には桃の木を植えて、鬼(災い)が家の中へ出入りしないように心がけた。だから、那智の大滝とほぼ同経度の地に〔南西〕から〔東北〕にかけて土を盛って造られた元明天皇陵は、舎人皇子はじめ伊耶那美崇拝派の面々を祟(たた)り呪(のろ)うものであったにちがいない。
 上記したように万葉歌人で有名な大伴旅人は征隼人持節将軍であった。旅人は、舎人皇子が天皇に無許可で征隼人軍に帰京命令した重罪を誤魔化す片棒(かたぼう)を担(かつ)いだ。このため元明上皇に憎悪された旅人は元明天皇陵の造営の役に選ばれて、元明天皇陵が怨念(おんねん)・祟りの設計になっていることに気づいた。旅人は上皇の死霊が意地悪な聖武天皇と内臣の房前にのりうつり、この祟りによって一生帰京できないことに脅(おび)えた。これゆえ、729107日、旅人は君主の舎人皇子を裏切って房前の権勢に媚()びすりよる書状を作って、都にもどる使者に手渡した。この旅人が房前に送った手紙は、『万葉集』810番と811番に掲載(けいさい)され、両歌は歌物語からなる。
 この歌物語の概要は下記のごとくである。
 ――対馬北方にある結石山(ゆいしやま)に生える桐の孫枝(ひこえ)で作った琴が乙女の姿に変身して旅人の夢枕(ゆめまくら)に立ち、「このまま百年の後、むなしく谷底に朽()ち果()てるのではないかと恐れていたところ、たまたま幸運にも腕の良い工人(たくみ)に遭遇(そうぐう)し、伐採(ばっさい)されずに小さい琴になりました」と語った。この乙女は「いつどんな時になったら、この琴の音色を聞き分けてくださる立派(りっぱ)なお方の膝(ひざ)を枕にすることができましょうか」と詠む和歌(810)を作った。そこで旅人が「もの言わぬ木であっても、すばらしいお方の寵愛(ちょうあい)を受ける琴にちがいあるまい」と詠む和歌(811)を作って、乙女に渡した。すると乙女は「心のこもったお言葉をうけたまわりました。まことにまことに幸いに存じます」と感謝した。目がさめると、夢に出た乙女の言葉に感動し、不幸と凶報(きょうほう)が続く不運にじっと耐えることができなくなり、それで公用の使者にことづけて、ともかく房前公に対馬の結石山に生える桐の孫枝で作った和琴(わごん)一面とこの琴にまつわる夢の物語を記す書状を送ります。賢明でいらっしゃる房前公ですから、「対馬の結石山」と「わが大伴氏の所領(現在の大阪市と堺市)」が同緯度であることにお気づきになり、「和琴」と「乙女」は「房前公にひざまずいて服従する旅人」であることをご理解くださることをご拝察(はいさつ)申し上げます。旅人は帰京したならば貴殿のお膝元(ひざもと)に平伏(ひれふ)し、必ず房前公が爪弾(つまび)(命令する)ままに行動し、以前のように逆らうことは一切(いっさい)いたしません。(注 大伴氏の所領であった現在の大阪市と堺市と同緯度の結石山は、対馬の北端に近い長崎県上県(かみあがた)郡上対馬町にある高さ183mの山)

 A図が示すように、元正天皇陵は約300mの西側(奈良市奈良坂町弁財)に所在し、その真南に黒髪山神社がある。舎人皇子から若き日(14歳ころの乙女)の元正天皇=氷高(ひだか)皇女は結婚できないと別れを告げる『万葉集』117番の和歌を手渡された時、舎人娘子(とねりのをとめ)というペンネームで「嘆きつつ ますらをのこの 恋ふれこそ 我が結()う髪の 漬()ちて濡れけれ」と詠む『万葉集』118番の和歌を作って「わたくしの黒髪は伊耶那美命の精霊の那智の滝の飛沫(しぶき)に濡れて伊耶那美命を崇拝するようになりましたから、どうかわたくしをあなたの妻にしてください」と懇願(こんがん)したがかなえられなかった。だから、黒髪山神社の「黒髪」は『万葉集』118番の「舎人娘子・元正天皇の黒髪」をあらわすものであったにちがいない。元正天皇は那智の滝の精霊の伊耶那美命や伊耶那美崇拝派の面々に祟る母の怨霊(おんりょう)の呪力(じゅりょく)を滅ぼして、死んでも舎人皇子を愛することはやめないと母と絶縁する陵墓の築造を決意した。ゆえに、元正天皇陵の真南に黒髪山神社が祭られることになった。『続日本紀』は元正天皇が死去した翌日(748422)について「従(じゅ)三位の三原王・従四位上の石川王・船祖(ふねど)王・従四位下の紀朝臣飯麻呂(きのあそんいいまろ)・吉備(きび)朝臣真備(まきび)を山作司(やまつくりのつかさ/天皇陵を作る係)に任命した」と記す。この山作司の長に任命された三原王は、舎人皇子の息子である。ゆえに元正天皇は三原王に黒髪山神社を祭るように遺言した。したがって「黒髪山神社」の「黒髪」は「舎人娘子・元正天皇の黒髪」であり、「山」は「元正天皇の陵墓」を意味するものであったにちがいない。だから元正天皇陵と黒髪山神社は元明天皇陵の祟りを滅ぼすために造られたと考えるべきことになる。
 元明天皇陵は江戸時代に付近から出土した碑石(ひせき)によって、元明天皇の陵墓と考証された。元明天皇陵は祟り・怨念(おんねん)の陵墓であったゆえ、忌み嫌われて墓の主(あるじ)の名はいつしか不明となったのであろう。

7211213日、元明上皇の亡骸(なきがら)は上記したA図に示す奈良県奈良坂養老ガ峰に所在する陵墓に葬られた。『続日本紀』の721(養老4)1013日・16日に記載された上皇の詔(みことのり)にしたがって、葬儀はおこなわなかった。上皇の霊魂はこの世に留まって舎人皇子はじめ伊耶那美崇拝派の面々を怨(うら)み祟るために、霊魂が天に昇る儀式の葬儀を拒否したのである。
 翌72211日、元正天皇は母の死を悼(いた)む詔を発した。この詔で天皇は「親に孝行をつくしたくとも、それがかなわぬ大変な苦しみに出会い、母を慕い悲しむ心がつきまとって、正月を祝う気持ちになれないので、朝廷の儀式をすべて停止する」と述べている。
 また同年1129日の詔でも親不孝を嘆いて「たちまち一周忌が近づいてきた。太上天皇の大きな愛のご恩にむくいようと思っても、もはや手立てもなく、真実の教えを仰いで、太上上皇の冥路(めいろ)の助けとなろう」と述べている。
 このように元明帝の策略は成功し、上記の1129日から半月後の1213日の『続日本紀』の記事が示すように、天皇は舎人皇子を愛したことを母親の真実の教えに背(そむ)く親不幸と後悔し、母親の遺志を継いで天照大御神を崇拝する律令(りつりょう)体制の完成を目指す決意を国民に示した。この決意を示す『続日本紀』の記事は下記のごとくである。
 「天皇は詔勅(みことのり)を下して、浄御原宮(きよみはらのみや)で天下を治められた天武天皇のために弥勒像(みろくぞう)を造らせ、藤原宮で天下をとられた持統天皇のために釈迦像(しゃかぞう)を造り、その造像(ぞうぞう)の本願の縁起(えんぎ)は、金泥(こんでい/ニカワでといた金粉)で描き写し仏殿に安置(あんち)した。」
 72424日、元正天皇は皇太子に譲位した。これが、聖武(しょうむ)天皇である。
 729年、元号は「天平(てんぴょう)」と改まる。この「天平」という万葉時代を代表する年号は、B図の右上に示す「[]のキャッチにおける天頂緯度線」をあらわす。天頂緯度線は「観測者が46秒ぐらいでキャッチする、西から東へ伸びる平らな線」である。“字書の聖典”と尊重される『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし」と解説する。B図に示すように「天頂緯度線は至高すなわち最も高くてそれ以上の上が無い天体部」である。したがって、「天平」という年号は「原始から人間の頭脳にそなわる本能的能力の[]のキャッチによって測定された天頂緯度線」をあらわす年号であったことになる。
N572
 
 『続日本紀』は「天平元年210日、左京の住人の従七位の塗部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)の無位の中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)らが『左大臣の長屋王は密かに左道(さどう)を学んで国家の転覆をはかっています』と密告した」と記述する。この記事に登場する「左道」は「君主やその子どもを殺さんとする呪(まじな)いや呪(のろ)い」を意味した。
 昨年(728)年の9月、聖武天皇の2歳の子(皇太子)が死去した。だから、「長屋王が学んだ左道」は「2歳の皇太子を殺した呪い」を指した。
 密告があった翌日、聖武天皇は舎人皇子と新田部皇子や藤原武智麻呂はじめ重臣たちに長屋王の邸(やしき)に遣(つか)わし、その罪を追及させて尋問(じんもん)させた。長屋王の左道は冤罪(えんざい)ではなく、事実であった。というのも、30余年前ころに発掘された長屋王の邸宅から多数の木簡(もっかん)が出土し、そのうちの一つの木簡に「厭用糸(えんよういと)」という文字が記されていたからである。「厭用糸」は「厭(まじない)に用いる糸」と意味した。
 前述したように、元明上皇は自らの葬儀を「みすぼらしく卑しくせよ」と命令して、老子が説いた【知足】つまり「真実への眼射(まなざし)を得るならば、貧しくても富んだ者よりも優る」を掲(かか)げる伊耶那美崇拝派の中心的メンバーの長屋王が贅沢三昧(ぜいたくざんまい)の生活をする矛盾をついて亡くなった。その元明上皇の陵墓は伊耶那美崇拝派を怨み祟るように設計され、また元正帝が聖武天皇に譲位したために内臣の房前の権力のほうが君主の舎人皇子よりも勝ることになったことに脅(おび)えて、長屋王は密かに左道を学んだ時に間が悪いことに2歳の聖武天皇の子が死んだ。
 長屋王の左道は事実であったゆえ、舎人皇子も新田部皇子とそして舎人皇子と親密な藤原武智麻呂も弟の房前の陰謀と問い詰めることができず長屋王の命を助けることができなかった。
 212日、長屋王を自殺させた。その妻の吉備内親王と息子たちはみずからの首をくくって死んだ。前述したように、吉備内親王は元正上皇の妹である。
 この事件を「長屋王の変」という。元明帝は娘の吉備内親王とその子たちに忌まわしい災いが及ぶことを承知で藤原房前を知太政官事の舎人皇子よりも地位が高い内臣にした。この母が企んだ策略と伊耶那美崇拝派への怨霊が原因で、長屋王は処刑された。なぜ母は娘と孫たちの命を助けようとしなかったのかと元正上皇に疑惑が生じて、長屋王の変の裏には母元明帝の冷酷(れいこく)な策略を感じるようになった。それゆえ元明天皇陵は伊耶那美崇拝派を祟るための陵墓であることに気づき、自分は母の策略にあやつられて自分は親不幸を後悔しているのではないかと思うようになった。そして、元正上皇は2ヵ月後に起きた太政官処分(だじょうかんしょぶん)で母に騙(だま)されたのだと確信した。

◆舎人皇子が54歳であった72943日、太政官処分が発令された。
 『続日本紀』は、太政官処分について下記のごとく記す。
 「舎人親王が朝堂(ちょうどう)に入る時、諸司(しょし)の官人は親王のために座席をおりて、敬意をあらわすに及ばない。」
 上記の太政官処分の文中に登場する「朝堂」は「平城京の大内裏(だいだいり)の政庁(せいちょう)で、天皇政治の中心となる八省百官が政務を執行(しっこう)するところ」である。ゆえに太政官のトップの長官である知太政官事の舎人皇子は勤務するときには朝堂を出入りした。
 聖武天皇と内臣の房前は、太政官が発令する処分をもって、八省百官のすべての役人たちが朝堂に入る舎人皇子に向かって座席をおりて敬意を示さず侮蔑せよと命令した。天皇と房前は国家権力に逆(さか)らうといかに惨(みじ)めになるか骨の髄(ずい)まで思い知らせて舎人皇子が長屋王と同じく自殺するか、あるいは太政官処分を撤回(てっかい)してくれと自分たちにすがりついて懇願する惨めな姿を期待した。しかし、このような卑劣(ひれつ)な方法でさらし者になっても、皇子は屈服(くっぷく)するような人物ではなかった。天皇と房前は太政官処分で舎人皇子が降参(こうさん)するにちがいないと考えたが、皇子は378歳まで片田舎の高屋(たかや/現在の奈良県宇陀郡榛原町高星)に住んで庶民であったゆえ役人たちの侮蔑には慣れていた。このため、皇子は役人たちに蔑(さげす)まれる仕打ちにへこたれる軟弱(やわ)な人間ではなかった。太政官処分で実質的に失脚(しっきゃく)した皇子は、役人たちに嘲笑(ちょうしょう)され蔑視(べっし)されても元来(がんらい)自分は身分が卑しい庶民であるといっこうに気にとめず、天皇と房前が期待したように鬱病(うつびょう)になって狂って自殺するような状況にならず、また二人にすがりついて太政官処分の撤回を願うこともしなかった。
 日本建国の〔愛〕の理念をまもるために、伊耶那美命を崇拝した養父の大伴連大国が鍛(きた)えに鍛えて育てた皇子は“絶対に降参しない(ネバーギブアップの)鬼の武士(ますらお)”であった。
 だいいち滑稽(こっけい)なのは、天皇と房前であった。庶民であったが武家の名門大伴連家・大伴家の宗家(そうけ)の家督者であった大伴連大国の跡取り息子の舎人皇子は、東海道と東山道の武士たちを束ねる頭領であった。ゆえに怒った皇子が反乱をおこした場合には天皇と房前は自分たちの命が真っ先に狙(ねら)われるにちがいないと脅(おび)えて、天皇は勅令で処分するのも怖い、房前は内臣として命令するのも怖いということで、「太政官処分」すなわち「太政官の役人たちの総意(そうい)で皇子を処分する」という卑劣な一手を思いついたのである。
 太政官処分は舎人皇子を追いつめるための策略であったが、天皇と房前も追いつめられることになった。母に騙されたと気づいた元明上皇は聖武天皇を厳(きび)しく問いつめ、舎人皇子と親密な不比等の後妻の県犬養三千代と不比等の長兄の武智麻呂は藤原家を牛耳(ぎゅうじ)って房前を愚弄(ぐろう)するようになったからである。
 太政官処分から4年後の733年、舎人皇子は日本建国の〔愛〕の理念に後世に残すため、一生愛しつづけてくれた元正帝に捧(ささ)げる『万葉集』編纂を決意した。
 このように『万葉集』は舎人皇子が元正帝に捧げられた和歌集であった秘密の解説と証明は、次回にておこなう。

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