« 日本国誕生史の復興・29 | トップページ | 日本国誕生史の復興・31 »

2016年10月 4日 (火)

日本国誕生史の復興・30

 ●『万葉集』完成までの歴史解明(2)

◆『万葉集』の編纂(へんさん)目的な何か、誰が編纂したのか、編纂したのは何時(いつ)か。これらについては昔からいろいろな説があるが、定説といったものはない。かつては勅撰(ちょくせん)であると考えられていたが、『万葉集』研究の祖とされる契沖(けいちゅう)が大伴家持(おおともやかもち)私撰説(しせんせつ)をとなえて以来、多くの人々はこの説にしたがう。でも、少数の人々が勅撰説をとなえる。
 編纂者については平安中期以来、橘諸兄(たちばなのもろえ)説が定説であったが、藤原俊成(ふじわらのとしなり)が諸兄編纂説は不確かであると主張した。諸兄が没した後世に生存した大伴家持が作った作品の量は『万葉集』の45百首のうちの約10分の1にあたり、大伴一族についての詳しい記事があるゆえ、上記したように契沖によって家持が『万葉集』全二十巻を編纂したと主張された。ゆえに、現在は家持説が有力説となる。しかし家持編纂説には欠点があり、45百首ほどの大量の作品を家持一人で収集(しゅうしゅう)したとするのは個人の力には限界があるゆえ賛成できないと指摘される。

◆こうした諸問題の秘密は、舎人親王(とねりしんのう)の生きざまが原因となる。
 これゆえ、わがブログ「日本国誕生史の復興」の25回~前回の29回まででのごとく調べた舎人親王の生きざまを基(もと)に、そして『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天平8(736)1111日に記載された葛城王(かつらぎのおおおきみ)兄弟が奉(たてまつ)った上表文(じょひょうぶん)に関する記事との関係を考えると、上記の諸問題の秘密が次から次へと明らかとなる。
 『続日本紀』の葛城兄弟が奉った上表文についての記事を要約すると、下記のごとくなる。
 ――舎人親王が没した去る2年前の天平5(733)、故知太政官事(ちだじょうかんじ)の舎人親王と故大将軍の新田部(にいたべ)親王は、葛城王と佐為王(さいのおおきみ)の兄弟が母の県犬養橘宿禰三千代(あがたいぬかいたちばなすくねみちよ)の橘宿禰の姓(せい)を名乗る許可を聖武(しょうむ)天皇から賜(たまわ)ることを願う上表文についての事情をたずねた。この時、葛城王兄弟は舎人・新田部の両親王に「私たちは本(もと)よりこのような思いを抱いておりましたが、申し上げる手立てがありませんでした。幸いこの度、ありがたい勅に遭遇(そうぐう)しましたので、昧死(まいし)して以聞(いぶん)す、つまり死を覚悟して聞き遂()げますと誓った後――さらに葛城王兄弟は以下のごとく語った。
 まず、兄弟は橘の姓の起源や歴史について語り、母の県犬養橘宿禰が身命をつくして代々の天皇につかえて忠義を尽()くした様子を語った後に、聖武天皇より忠誠の深さを誉()められて酒杯(しゅはい)を浮かべて橘の姓を賜ったことに触()れたにもかかわらず、自分たちが橘の姓を継ぐ意思(いし)を示さないでいると、おそらく有難(ありがた)い聖武天皇の詔(みことのり)の意図(いと)を無駄(むだ)となりましょう。このような次第(しだい)ですから、このような意見を進言(しんげん)申し上げているのも、みだりに公卿(くぎょう)の末席(まっせき)に連なる自分たちが天皇に忠義を尽くそうと志(こころざ)しているからですと述べた。

 そして、兄弟は「そもそも天皇が王親(おうしん)に姓を賜り、氏(うじ)の名を定めるのは、遠い由来(ゆらい)があることですから、臣下の葛城らは、願わくは橘宿禰の姓を賜わり、先帝(元正上皇)の厚い命令をいただき、橘氏という格別な名を後世に伝え、万世まで窮(きわ)まることなく、千代(ちよ)に相(あい)伝えたいと」と述べて、橘宿禰の許可を願い出た旨(むれ)について締()めくくった。

◆上記した『続日本紀』の736(天平8)1111日の記事を要約した文末部の「臣下の葛城らは~千代に相伝えたいと」までの原文(書き下し文)は、以下のごとくである。
 「臣葛城等、願はくは橘宿禰の姓を賜はりて、先帝の厚命(こうめい)を戴(いただき)き、橘氏の殊名(しゅめい)を流(つた)へ、万歳(まんさい)に窮みなく、千葉(せんよう)に相伝へむことを。」
 この上記の書き下し文には(1)『万葉集』を編纂するについて「死を覚悟してやりとげます(昧死して以聞す)」と誓わなければならない秘密と、また(2)「『万葉集』は元正帝に捧げる和歌集であった」という秘密が隠されていた。
 
 上記の書き下し文の「万歳に窮みなく」の[]に、「千葉に相伝へむことを」の[]の字を加えると「万葉」となる。だから、舎人皇子と新田部皇子は県犬養橘宿禰の息子の葛城王(後の橘諸兄)兄弟に『万葉集』編纂を命じたことになる。だから葛城兄弟は「昧死(まいし)して以聞(いぶん)(死を覚悟して、聞きとげます)」と誓って、両親王に並々ならぬ覚悟と決意を示すことになったのである。
 ゆえに葛城王兄弟が述べた「願はくば橘氏宿禰の姓を賜はりて」と「橘氏の殊名を流(つた)へ」という語句の中に登場する「橘」は「『万葉集』編纂」をあらわす暗号であった。(「橘」が「『万葉集』編纂」の暗号となった秘密には、別の理由もある。これについては、このブログの後半でも説明する)
 
 上記した『続日本紀』の天平8年の1111日の橘氏賜姓に関する記事が伝える舎人皇子・新田部皇子・葛城兄弟の4人の様子は、皇室が厳重に禁止する日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える大量の和歌をスムースに収集するために考えたパフォーマンスであったのである。このパフォーマンスによって葛城王兄弟が橘という姓を聖武天皇から賜ったことは元正上皇はじめ王臣たちや庶民まで知れ渡って公認となるので、『万葉集』編纂するために大量の和歌の収集活動が容易になる。だから「橘氏賜姓」は「『万葉集』編纂」をあらわす暗号と、そしていかなる困難・障害をも乗り越えて必ず『万葉集』を完成する約束事となった。この『万葉集』は日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える、これを作成目的とした。したがって『万葉集』編纂は朝廷への反逆行為であったゆえ、「昧死して以聞す(死を覚悟して、両親王の企画を聞き遂げ完成します)」と誓わなければならないことになったのである。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」は25回~前回の29回までの5回で証明したように、舎人皇子は伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える歴史書作成に情熱をかたむけた。ゆえに「日本建国の〔愛〕の理念が、万年まで窮まることなく幾千年も相伝えるために作られた和歌集」であったゆえ、『万葉集』という書名になったのである。
 元明帝が厳重に読むことを禁止した反逆の史書の『古事記』の序は「上巻 幷(あわ)せて序」と記す。
 ゆえに、わがブログ「日本国誕生史の復興」は2528回までの4回で証明したように、『古事記』の序と上巻はセットとなって、(1)伊耶那岐命と伊耶那美命神話の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)説話にて日本建国の〔愛〕の理念を伝え、(2)上巻の随所に〔音〕という注を付けて多数の夏音(かおん)文字を記載して、夏音文字の字源・字形・字義となる銀河各部の形状を観察すれば神代の歴史の真相を知ることができる仕組みにし、(3)皇室が至上神(しじょうかみ)とする皇祖(こうそ)の天照大御神が残酷な徇葬(じゅんそう)を指揮して多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋葬(まいそう)した歴史は、『老子』に用いられた〔反実仮装(はんじつかそう)〕すなわち〔真実に反する記述をもって真実を伝える方法〕をもって、伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話にて「天照大御神」を「伊耶那美神命」と表記して、3つの真実の歴史を伝えた。

◆皇室は上記の3つの真実の歴史は絶対に伝えてはならないと厳重に禁止し、天照大御神は伊耶那美命よりも優って偉大であったと歪曲(わいきょく)する偽書(ぎしょ)の作成を欲求した。これゆえ、元明天皇は上記の3つの真実の歴史を伝える『古事記』を献呈拒否した。というのも、上記の(1)(3)の真実が明らかになると天照大御神を皇祖とする皇室の土台が崩壊することになり、(2)の文字(漢字)は銀河各部の形状から作られた事実は中国の王朝でもわが国の王朝でも独占管理して厳重な機密であったからである。というのも文字作成原理の学芸知識が反体制側に習得されて革命に利用されると王朝は容易に崩壊すると警戒されていたからであった。
 7205月、舎人皇子は上記の3つの真実の歴史を曖昧(あいまい)にして元正天皇の背後にいる元明上皇が正史にしようと許可するように作った歴史書の書名に「日本」と冠すれば、この書物でもとにかく日本建国の〔愛〕の理念だけはなんとか後世に伝わるにちがいないと期待して作成した『日本紀』(後の『日本書紀』)を元正天皇に奏上(そうじょう)した。しかし『日本紀』は、当然、舎人皇子の期待に反した一生を賭()けた夢が叶(かな)わない失敗作であった。
 だから733年に三度目の挑戦(ちょうせん)を決意した舎人皇子は、『古事記』上巻の(2)(3)の真実の歴史を残すことはあきらめて、『日本紀』の失敗を挽回(ばんかい)するために(1)の日本建国の〔愛〕の理念だけを後世に伝える『万葉集』の編纂を企画して、葛城王兄弟に命じたのである。したがって、前述したように『万葉集』編纂は皇室が厳重に禁止する事業であったので葛城王兄弟は「死を覚悟して、やりとげます」と誓ったのである。

◆上記したように、『続日本紀』は――葛城王兄弟は「そもそも天皇が王親(おうしん)に姓を賜り、氏(うじ)の名を定めるのは、遠い由来があることですから、臣下の葛城らは、願わくは橘宿禰の姓を賜りて、先帝の厚命(こうめい)を戴(いただき)き、橘氏という殊名(しゅめい)を流(つた)え、万歳に窮みなく、千葉に相伝えんことを」と述べて――橘氏の賜姓(しせい)の願いを締めくくったと記す。
 この願いの際に、葛城王兄弟は舎人皇子と新田部皇子の二人に「昧死して以聞す」と誓った。だから、上記した葛城王兄弟が〔橘氏賜姓〕の上表文に関しておこなった説明には、舎人・新田部の両親王に「『万葉集』編纂事業は必ずやりとげます」と並々ならぬ決意を示す秘密が隠されていたことになる。
 この葛城王兄弟が願いの主旨(しゅし)を締めくくった言葉の中で「先帝の厚命を戴き(元正上皇の厚い命令をいただき)」と述べている。しかし、元正上皇は『万葉集』編纂を葛城王兄弟に命令していない。だから、事実と異なる「先帝の厚命を戴き」という言葉は暗号のごとくあつかうべきで、この言葉の裏には別の意味が隠されていた。
 『続日本紀』は「養老4(720)521日、これより先に一品(いっぽん)の舎人親王は、勅(ちょく)をうけて『日本紀』の編纂にしたがっていたが、この度それが完成し、紀(編年体の記録)三十巻と系図一巻を奏上(そうじょう)した」と記す。
 この『日本紀』(後の『日本書紀』)の出来に失望(しつぼう)して、舎人皇子は〔日本建国の〔愛〕の理念が不明となる失敗作〕と定めた。この『日本紀』に代わって――日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えることを作成目的とした『万葉集』を舎人皇子が先帝(元正上皇)に捧(ささ)げる――この秘密を、葛城王兄弟は「先帝の厚命に戴き」と表現したのである。だから、『万葉集』は舎人皇子が元正帝に捧げる書物であったことになる。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・27」で証明したように――舎人皇子が『日本紀』を元正天皇に奏上した時の様子は、『万葉集』の最終の巻二十の冒頭の4293番と4294番の「山村(やまむら)に幸行(いせま)しし時の歌二首」によって示された。4293番の和歌の前には――先の太上天皇(元正天皇)が付き添っている王臣に向かって、「諸王卿(しょおうけい)らよ、私の歌に和(こた)える反歌(はんか)を奏(もう)すべし」と仰せになられた――という説明があり、次の4294番の題詞(だいし)は「舎人親王、詔(みことのり)に応(こた)えて和()え奏(まつ)る歌一首」である。
 元正天皇が作った4293番の和歌は「あしひきの 山行きしば 山人の 朕(われ)に得()しめし 山づとそこれ」であり、「皇居から出て山村に出かけると、仙人の老子を尊重する諸王卿らが真実の歴史を後世に伝える『日本紀』を完成させて朕に献上した、これが朕にとっていちばんうれしい土産(みやげ)です!」と意味した。
 舎人皇子が作った4294番の和歌は「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰(たれ)」であり、「この山村で手に入れた諸王卿が作った『日本紀』を山づとと呼んで陛下は失敗作だと落胆(らくたん)する王卿たちの心も知らないで大喜びですが、この『日本紀』は仙人の老子の教えを説いた『老子』と違って後世に真実の歴史が伝わらない失敗作です! ここには〔愛〕の理念を掲げて日本国が建国された真実の歴史を残した歴史家と呼べる人物は誰一人もいません」と意味する。この和歌があらわしているように、舎人皇子は『日本紀』は失敗作と悔()やみ元正天皇に怒りをぶつけて悲しませた。
 だから、舎人皇子はいちずに愛してくれた元正帝に日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える『万葉集』を捧げることにしたのである。これゆえ、橘氏賜姓に関する記事末部の締めくくり文の中にある「先帝の厚命を戴き」という語句は「元正帝に『万葉集』を捧げる」と意味する暗号文であったことになる。
 また橘氏賜姓に関する記事末部の締めくくり文の「橘氏宿禰の姓を賜はりて」と「橘氏の殊名を流(つた)へ」という語句の中にある「橘」が「『万葉集』編纂」をあらわす暗号となった秘密には、別なる理由もあった。それは、失敗作の『日本紀』が元正天皇に奏上されたのが13年前の養老4年の陰暦五月であったからである。「陰暦五月」の別称は「橘月(たちばなづき)」であったゆえ、「橘」は「『万葉集』編纂」の暗号となったのである。

733年、舎人皇子と新田部皇子は「橘氏賜姓」を「『万葉集』編纂」をあらわす暗号にして葛城王兄弟に命じた。しかし、735年になっても聖武天皇は橘宿禰の許可をしなかった。この735年に新田部皇子が没し、続いて舎人皇子が死去した。ゆえに『続日本紀』の天平8(736)1111日に記述されたように、橘氏賜姓は正式に許可されず『万葉集』編纂を着手できなくなった。これゆえ葛城王兄弟は、あらためて聖武天皇に願い出ることにしたのである。
 葛城王兄弟の橘宿禰の許可申請について、『万葉集』1009番の添え書きは、下記のごとく記す。
 「葛城王らは舎人皇子の一周忌前の天平8(736)119日に皇后が住む宮殿で、元正上皇・聖武天皇・光明皇后たちが宴会している時に申請書を提出して橘宿禰の姓を願い出た。その8日後の17日、天皇は葛城王らに橘宿禰の姓を許可した。」
 
 かくして葛城王は「橘諸兄」と名乗ることができ、舎人皇子の遺志を継いで『万葉集』編纂に着手することができるようになった。
 しかし、九州に伝わった天然痘(てんねんとう)がしだいに広がり、737(天平9)年には都に達して猛威(もうい)をふるった。天然痘は政治の中心に立っていた藤原氏4兄弟におそいかかり、同年4月に内臣の不比等の次男の房前、7月に参議となった不比等の四男の麻呂と右大臣の不比等の長男の武智麻呂、8月に不比等の三男の宇合(うまかい)がつぎつぎと没した。
 天然痘の猛威が去った8月半ばには、公卿(くぎょう)の中で生き残ったのは鈴鹿王(長屋王の弟)と橘諸兄だけであった。ただちに人事の補充(ほじゅう)がおこなわれ、鈴鹿王は知太政官事に、橘諸兄は大納言より右大臣に、743(天平15)年には左大臣になった。
 藤原氏にかわって諸兄が政治の中心に立ったため、諸兄は時々和歌を収集することはできても元正上皇が期待する『万葉集』編纂は手つかずの状態となった。
 橘諸兄は743年に左大臣に任命されたが、このころが諸兄の全盛期で、745年の平城京還都(かんと)以後は勢力が衰えた。というのも745年には、諸兄にかわって新しい実力者として僧玄昉(そうげんぼう)と吉備真備(きびのまきび)が現れたからである。これゆえ、744年の夏、ようやく諸兄は主君・舎人皇子に誓った『万葉集』編纂に着手することができた。
 『万葉集』4056番から4058番までの3首は、744年に橘諸兄が『万葉集』編纂に本格的に取りかかかることになった状況を元正上皇に伝えたことを示す和歌である。
 4056番の題詞にある「元正上皇が難波(なにわ)の宮におわした時」は「上皇が諸兄らと難波に滞在した744(天平16)の夏」であった。この舎人皇子が死去して9年後の744年の夏に諸兄が作った4056番の和歌は下記のごとくである。
 「堀江には 玉敷(たまし)かましを 大君(おおきみ)を み舟漕()がむと かねて知りせば」
 〔堀江には、御足(みあし)がよごれないように玉砂利(たまじゃり)を敷いておくべきでした。大君は舟を漕いでわざわざお訪(たず)ねくださると、かねて知っておりましたならば〕
 この4056番に対して元正上皇が作った4057番と4058番は下記のごとくである。
 「玉敷かず 君が悔いて言ふ 堀江には 玉敷き満てて 継ぎて通(かよ)はむ」
 〔玉砂利を敷かなかったと、左大臣の諸兄が悔やんで言う堀江にはわたくしが玉砂利を敷きつめて、通いつづけましょう。舎人皇子が残した遺志の『万葉集』編纂が成就するならば、老いて疲れたなんて言っておれません。『万葉集』編纂を支援するために、わたくしは何度も続けて舟を漕いで通いつづけます。4057番〕
 「橘の とをの橘 八()つ代()にも 我は忘れじ この橘を」
 〔枝にたわわに実ったこの庭の橘の光景を、わたくしはいつまでも忘れない。橘諸兄はこの日のたわわに実る橘のように『万葉集』がいずれ完成すると約束するゆえ、わたくしはこの日の光景をいつまでも忘れない。舎人皇子がわたくしに捧げてくれた『万葉集』をあらわす橘がたわわに実る、この光景をいつまでも忘れない。4058番〕
 橘氏賜姓を願った時に諸兄が「先帝の厚命を戴き」と述べた、この言の真意は「舎人皇子が元正帝に『万葉集』を捧げる」であった秘密を、諸兄はこの時に元正上皇に説明した。だから、元正帝はこの秘密をはじめて知った。だから4058番は3回も「橘」という語を繰()り返して、この日の橘が実る光景を「我はいつまでも忘れない」と表現して舎人皇子をいちずに愛した人生が報(むく)われた喜びにあふれる和歌となったのである。

◆上記の4057番と4058番の二首の和歌を作った744年から4年後の748421日、舎人皇子を愛して独身をつらぬいた元正上皇は皇居の寝殿(しんでん/正殿)で報じた。
 天武・持統・文武・元明・元正・聖武の6人の天皇の時代を生きた反逆児の舎人皇子は元正上皇より13年前の7351114日に没した。
 『続日本紀』は「舎人皇子の葬儀に、皇族の男女すべてを参列させた」と記す。というのも聖武天皇は舎人皇子のごとく皇室に逆らえば、高い地位の皇族とてその死は侮辱(ぶじょく)されて惨(みじ)めとなることを皇族たちに知らしめるために全員を葬儀に参列させたのである。聖武天皇は舎人皇子の墓の築造を許可しなかった。この処置は皇室に反逆した者が当然受けるべき罰(ばつ)であると、すべての皇族に葬儀に出席させて思い知らせるようにしたのである。
 また舎人皇子の墓の築造を許可することができない理由があった。
 というのも皇子の墓にそなえられる墓記(ぼき)によって、聖武天皇は日本国誕生史の真相が後世に知られることをおそれたからであった。舎人皇子の墓記には「皇子の実父は天武天皇なり。養父は菟田(うだ)の高屋(たかや)の住人大伴朴本連大国(おおともえのもとのむらじおおくに)なり。皇子は誕生以来、高屋に住み云々」と記されることになる。この墓記が示す庶民にして天皇に即位できるほどの高位の皇族であったというドラマチックな舎人皇子の人生は、後世の多くの歴史家たちが興味を抱き研究するにちがいなかった。この研究によって、わがブログ「日本国誕生史の復興」の25回~前回の29回までで明らかにした舎人皇子の生きざまによって――国民は日本建国の〔愛〕の理念を唱えた伊耶那美命を敬愛し、残酷な徇葬(じゅんそう)を決行した天照大御神を憎悪したため、皇室は強大な権力で日本国誕生史の真相を抹殺(まっさつ)しようとした――歴史が暴露(ばくろ)される。だから、聖武天皇は舎人皇子の墓の築造を許可しなかった。したがって、舎人皇子の墓は後世に残るような規模では築造されなかったゆえ墓記は存在せず、舎人皇子の屍(しかばね)は庶民と同様に野の土の中に埋もれて朽()ち果()てた。
 しかし、元正上皇が舎人皇子の墓を題材にして作った和歌が『万葉集』の1636番と1637番の二首となって残った。1636番の題詞は「舎人娘子(とねりのをとめ)の雪の歌一首」、次の1637番の題詞は「太上天皇(おほきすめらみこと)の御製歌」である。1636番の「舎人娘子」は元正上皇(太上天皇)のペンネームである。ゆえに1636番と1637番は元正帝が作った二首であったことになる。
 「舎人娘子」という筆名で元正上皇が作った1636番の雪の歌は下記のごとくである。
 「大口(おほくち)の 真神(まかみ)の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに」
 〔大きな口をした真神(オオカミ)が生息する荒野に降る雪よ。どうかひどく降りつもらないでおくれ。わたくしが愛した武士(ますらお)はオオカミの屍(しかばね)ように雪が降りつもる野の地中に埋まっています。大雪の地下はさぞや寒くてつらいでしょうから、雪よ、どうかもう降らないでおくれ……。お願いだから。〕注 初句の「大口の」は「真神」の枕詞(まくらことば)。「真神」は「狼(おおかみ)」の異名である。
 次の1637番の元正上皇が作った和歌は、下記のごとくである。
 「はだすすき 尾花逆葺(おばなさかふ)き 黒木(くろき)もち 造れる室(むろ)は 万代(よろづよ)までに」
 〔すすきの尾花を逆さに葺いたみすぼらしい屋根を黒色のか細い木の枝を柱でささえる粗末な仮廬(かりほ)の墓(/むろ)に永眠する、朝廷の方針に逆らって野に朽ち果てることになった、無鉄砲で無骨(ぶこつ)で宮廷勤めに馴染(なじ)めずに野を疾駆(しっく)するオオカミのような、愛しいあなた。あなたが万代まで残さんとした『万葉集』は完成するように努力いたしますから……〕
 普通は尾花(/かや)の本(もと)が下に・穂が上になるように葺くが、簡単に作る仮廬の場合は本を上に・穂を下になるように葺いた。ゆえに、2句目の「尾花逆葺き」は「朝廷の強大な権力と対決した反逆児の舎人皇子の粗末な墓」をあらわしていることになる。
 以上のごとく、元正帝が作った1636番と1637番の二首は「舎人皇子の亡骸はオオカミの死に場所のような人里離れた野の地中に埋まり、カヤの屋根を葺いた粗末でみすぼらしい無縁仏(むえんぼとけ)のような墓であった」と証言する。

◆以上のごとく、橘諸兄は舎人皇子の死から9年後の744年の夏から『万葉集』編纂に本格的に着手した。だから、『万葉集』は橘諸兄によって編纂された。しかし、『万葉集』には諸兄の後に死去した大伴家持の作品が約10パーセントも存在する。だから、『万葉集』は大伴家持も編纂したことになる。この秘密は、次回で解明する。この解明によって、おのずと『万葉集』は何時(いつ)編纂されたかが明確となる。

|

« 日本国誕生史の復興・29 | トップページ | 日本国誕生史の復興・31 »

学問・資格」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

ヒエログリフ(聖刻文字)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 日本国誕生史の復興・29 | トップページ | 日本国誕生史の復興・31 »