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2016年10月14日 (金)

日本国誕生史の復興・31

 ●『万葉集』完成までの歴史解明(3)

◆前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・30」では――『万葉集』の編纂(へんさん)目的・編纂者・編纂時期などについて、昔からいろいろな説があって定説といったものはなかったのは、舎人皇子の一生の研究が必要にもかかわらず、舎人皇子についてまったく研究されていないのが原因である――ことを証明した。
 『万葉集』研究に不可欠な舎人皇子の一生については、わがブログ「日本国誕生史の復興」は25回~前回の30回まででの6回で随時(ずいじ)解明した。
 編纂者については平安中期以来、橘諸兄(たちばなのもろえ)説が定説であったが、近世の『万葉集』研究の祖とされる契沖(けいちゅう)が大伴家持(おおともやかもち)説を提唱して以来、家持説が有力説となった。しかし、この説には弱点があり、『万葉集』45百首ほどの大量の作品を家持一人で収集(しゅうしゅう)したとするのには個人の力には限界があって無理であると反論される。
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・30」では、諸兄が『万葉集』を編纂したことを証明した。しかし、諸兄が没した以後に生存した家持の作った歌の量は『万葉集』45百首のうちの約10分の1に相当するので、家持も編纂者であったことは否定できない。
 鎌倉中期の権律師仙覚(ごんりっしせんがく)は諸兄・家持の共撰(きょうせん)説を唱えた。したがって権律師仙覚説は正しかったゆえ、定説になるべきであった。

7121月に元明天皇に献上された『古事記』の作成を指揮した舎人皇子(676735)は、伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えることに一生を賭()けた。日本建国の〔愛〕の理念は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話の冒頭の淤能碁呂島(おのごろじま)の聖婚(せいこん)説話に記述された。ゆえに『古事記』上巻は朝廷にとって極めて不都合な真実の歴史を記述する反逆の史書であった。
 『古事記』上巻は(1)淤能碁呂島の聖婚神話で「小国・日本は伊耶那美命が〔愛〕を唱えて誕生した」と記載し、(2)上巻の随所に〔音〕という注を付ける多数の夏音(かおん)文字を記載して、今から約4050年前の後期縄文時代初頭に中国から移住した名門益(えき)氏の王子はじめ若者たちが日本列島にもたらした夏音文字(原初漢字)の字源・字形・字義となる銀河各部の形状を観察すれば上巻・神代の歴史の真相を解明できる仕組みにして、(1)の伊耶那美命が日本建国の〔愛〕を唱えた歴史は真実であることが証明できるようにした。また、この夏音文字の字源・字形・字義となる銀河各部の形状を観察すれば(3)皇室が至上神(しじょうかみ)とする皇祖(こうそ)の天照大御神は(1)の日本建国の〔愛〕の理念を憎悪して伊耶那美命の墓を築造する時に、残虐な徇葬(じゅんそう)を指揮して多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋葬(まいそう)した事実が解明できるようにした。この徇葬を指揮した「天照大御神」の名はそのままでは表記できない。そこで『老子』にて開発された〔反実仮装(はんじつかそう)〕すなわち〔真実に反する偽りの記述をもって真実を伝える方法〕をもって、伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話にて「天照大御神」を「伊耶那美命」と表記した。この方法ならば皇室が欲求する偽書作成に応(こた)えたことになろうと編纂スタッフは考えて、『古事記』献上が認められることを期待した。
 しかし、この3つの歴史は皇室の崩壊を招く危険で不都合な真実であったゆえ、元明天皇は即座に献呈拒絶して『古事記』を御法度禁制(ごはっときんせい)の書物と定めた。
 『続日本紀』に記載されたように、45歳となった舎人皇子は養老4(72)0521日に『日本紀』(後に『日本書紀』という書名になった)を元正(げんしょう)天皇に奏上(そうじょう)した。『日本紀』を元正天皇に献上した様子は、『万葉集』の巻二十冒頭の4293番と4294番の「山村(やまむら)に幸行(いでま)しし時の歌二首」にて詠()まれたように、4293番で元正天皇は「朕(われ)は山人(やまびと/編纂スタッフ)が作った真実の歴史を後世に伝える山の土産(みやげ/『日本紀』)を手に入れた」と詠んだ。舎人皇子は4294番を作って「陛下は山人たち(編纂スタッフ)が、その出来上がりに失望して悲しみ落ち込む心も知らないで喜びはしゃぎますが、この山の土産は『日本紀』と名づけたにもかかわらず日本建国の〔愛〕の理念が後世にまったく伝わらない失敗作である」と表現し、その怒りを元正天皇にぶつけて悲しませた。
 だから舎人皇子が失敗作と断定した『日本紀』は皇室にとって不都合な真実の歴史を隠蔽(いんぺい)することができる使い勝手の良い文献であったので、皇室は正史と定めて書名を『日本書紀』と変えた。
 なお前々回のわがブログ「日本国誕生史の復興・29」で解明したように、『万葉集』117番の舎人皇子が作った和歌と元正天皇が「舎人娘子(とねりのおとめ)」というペンネームで作った118番の和歌は――元正帝が氷高(ひだか)皇女と呼ばれた14歳ころに4歳年上の舎人皇子と恋仲となったが、二人の立場は敵同士(かたきどうし)であると舎人皇子に告げられて元正帝の夫婦になりたいという願いは実現しなかった――ことをあらわす二首であった。
 その後、元正天皇はいちずに舎人皇子を愛し、生涯(しょうがい)独身であった。

◆舎人皇子は天武天皇の第三皇子(皇位継承が第三位)であった。皇子は誕生した時から実父の天武帝に捨てられて、都から遠く離れる片田舎の高屋(たかや)=奈良県宇陀(うだ)郡榛原町高星(はいばらちょうたかへ)に住む、東海道と東山道の武士たちを束ねる大伴連(むらじ)大国に育てられた。ゆえに、37歳までの身分は庶民であった。そして7121月に元明天皇が『古事記』を反逆の史書であると見破って献上を拒絶(きょぜつ)したので、37歳になった伊耶那美崇拝運動の頭領となった舎人皇子は712年の夏ころから平城京に居住して宮中勤めをするようになった。ゆえに以後、皇族となった舎人皇子の様子は『続日本紀』の多数の箇所に記されるようになった。
 元正天皇の伯母の持統帝は7021010日から、当時、天武天皇の子において皇位継承順位が最高位となる皇室にとって厄介者(やっかいもの)の舎人皇子の討伐(とうばつ)を準備する行幸(ぎょうこう)を決行した。しかし、その行幸疲れで同年1222日に没した。元正天皇の弟の文武(もんむ)天皇は伊耶那美崇拝派の勢力に脅(おび)える心労のためであろう、25歳の若さで没した。母の阿閉(あえの)皇女は息子の遺志を継ぎ、天皇に即位した。これが、『古事記』を献呈拒否して厳重な禁制の書物とした元明天皇である。元明帝は舎人皇子を姉の持統帝と息子の文武帝の命を縮めた憎い敵(かたち)と怨(うら)んだ。これゆえ、伯母・母・弟が憎悪する舎人皇子と元明帝の長女である元正天皇の関係は敵同士であった。なお元正帝の父は天武天皇の子の第一皇子の草壁(くさかべ)皇子であるゆえ、元正帝より4歳年上の舎人皇子は叔父となる。
 舎人皇子は「朝廷の強大な権力よりも、伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念のほうが優る」という信念の持ち主であった。
 舎人皇子は上記した『古事記』上巻の3つの真実の歴史のうち(2)(3)は不明になっても仕方(しかた)がないが、(1)の日本建国の〔愛〕の理念だけは後世に残す、これを作成目的にして『日本紀』編纂を指揮した。しかし、『日本紀』は失敗作となった。失敗作であることがわかっていたならば『日本紀』を奏上しなければよかったのであるが、当時は天照大御神崇拝派と伊耶那美崇拝派が一触即発(いっしょくそくはつ)の風雲を告げる状況であったゆえ、いざ戦争となれば歴史書作成どころではなくなると考えて舎人皇子は『日本紀』の完成を急がせて失敗した。

◆『続日本紀』の天平8(736)1111日に、葛城王(かつらぎのおおきみ)兄弟が橘宿禰(たちばなのすくね)の姓の許可を申請した様子が書かれている。この記事は――58歳の舎人皇子は没する2年前の733年に『万葉集』編纂を企画して、葛城王(後の橘諸兄)兄弟に『万葉集編纂を命令した――と説明する。
 日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために編纂する『万葉集』は、朝廷が厳重にとりしまる反逆の書物であった。だから、「『万葉集』編纂」をあらわす暗号が必要になった。この暗号は、上記した『続日本紀』の天平8(736)1111日の終末に記された、下記のごとき書き下し文にある1字であらわされた。
 「願はくは橘宿禰(たちばなのすくね)の姓を賜(たま)はりて、先帝の厚命(こうめい)を戴(いただ)き、橘氏の殊名(しゅめい)を流(つた)へ、万歳(まんさい)に窮(きは)みなく、千葉(せんよう)に相伝(あいつた)へむことを。」
 上記の書き下し文にある「橘宿禰の姓を賜はりて」と「橘氏の殊名を流へ」という両方の箇所に登場する「橘」が「『万葉集』編纂」をあらわす暗号となった。

 聖武天皇から橘宿禰の姓を許可されれば葛城王兄弟の大量の和歌集めが容易になるにちがいないという計画の基(もと)に「『万葉集』編纂」の暗号を「橘」と定め、また『日本紀』が奏上された「五月」の異名(いみょう)は「橘月(たちばなづき)であったので、「『万葉集』編纂」をあらわす暗号を「橘」としたのである。
 葛城王兄弟に母方の橘宿禰の姓が許可されるとなぜ大量の和歌の収集が容易になるかと言えば、藤原不比等(ふひと)と後妻の県犬養(あがたのいぬかいの)橘宿禰との間に生まれた光明(こうみょう)皇后は、葛城王兄弟の妹だったからである。葛城王兄弟の生母は県犬養橘宿禰で父は美努王(みののおおきみ)であった。聖武天皇から許可された橘宿禰の姓は天皇と妹の皇后の威光(いこう)で輝くことになるゆえ、橘氏の姓を名乗る葛城王兄弟の和歌集めを反逆行為であるまいかと怪(あや)しむ目を削()ぐことができる、したがって兄弟は容易に大量の和歌を収集できるにちがいないと計画が練()られたのである。
 『万葉集』編纂は皇室への反逆・背信行為であった。その証拠に、『続日本紀』の天平8(736)1111日の橘宿禰の姓を申請した事情を書く記事の前半には「昧死(まいし)して以聞(いぶん)(死を覚悟して『万葉集』を完成させます)と葛城王兄弟が誓った」という記事が存在することになった。
 上記の『続日本紀』の書き下し文最後の「万歳に窮みなく、千葉に相伝へむことを」という文中にある字の[][]を加えて書名が『万葉集』となった。ゆえに『万葉集』は「日本建国の〔愛〕の理念が万年も幾千年も存続することを願って編纂された和歌集」であった。
 また上記の『続日本紀』の書き下し文にある「先帝の厚命を戴き」には「舎人皇子が元正上皇に『万葉集』を捧(ささ)げる」という真意が秘められていたが、字句とおりだと「元正上皇の厚い命令を戴き」となる。したがって元正上皇は愛する舎人皇子の遺志を継いで『万葉集』編纂を支援したゆえ、『万葉集』は勅撰(ちょくせん)であったことになる。
 しかし聖武(しょうむ)天皇から得る橘宿禰の姓の許可は『万葉集』編纂を許可するものではなかったので、聖武天皇を騙(だま)して編纂する『万葉集』は諸兄・家持による私撰であったことにもなる。
 このように、『万葉集』は勅撰・私撰とも決めかねる特殊な和歌集であった。

735年、『万葉集』編纂を命じた新田部(にいたべ)皇子と舎人皇子が没した。しかし、葛城王兄弟は聖武天皇からいまだ橘宿禰の姓が許可されていなかった。ゆえに兄弟は新田部・舎人の両皇子と『万葉集』編纂を成功させるためには橘宿禰の姓の許可が必要であると熟慮(じゅくりょ)して念入りに計画を立てていたために、『万葉集』編纂が頓挫(とんざ)した。そこで、この頓挫を打開するために兄弟は妹の光明皇后の宮殿にて申請書を提出した。
 『万葉集』1009番の添え書きは「葛城王らは天平8(736)119日に皇后が住む宮殿で、元正上皇・聖武天皇・光明皇后たちが宴会している時に申請書を提出して橘宿禰の姓を願い出た。その8日の17日、天皇は葛城王らに橘宿禰の姓を許可した」と記す。
 かくして葛城王は「橘諸兄」と名乗ることができた。しかし、その翌天平9(737)年に九州に伝わった天然痘(てんねんとう)が都まで達して、政治の中心に立っていた藤原四兄弟(次男の房前、四男の麻呂、長男の武智麻呂、三男の宇合の順で)が没した。天然痘の猛威から逃れることができた公卿(くげ)は、鈴鹿王(長屋王の弟)と橘諸兄だけであった。このため鈴鹿王は知太政官事(ちだじょうかんじ)に、橘諸兄は大納言(だいなごん)より右大臣に、743年に左大臣になって政治の中心に立った。ゆえに『万葉集』編纂は、またもや頓挫した。しかし743年に左大臣に任命された時が諸兄の全盛期で、翌744年の夏になると新しい実力者たちが台頭(たいとう)してきて、橘の姓の許可を得てからおよそ7年と半年が経過してようやく諸兄は『万葉集』編纂に専念することができるようになった。

◆正天皇が作った『万葉集』の4293番と舎人皇子が作った4294番の「山村に幸行しし時の歌二首」の左隣()には、下記のごとき添()え書きが存在する。
 「右は、天平勝宝五年五月に、大納言(だいなごん)藤原朝臣(あそん)の屋敷にいた時、天皇(聖武天皇の娘の孝謙天皇)に奏(そう)する事に質問している間に、少主鈴(しょうしゅれい)山田史土麻呂(やまだふひとつちまろ)が少納言(しょうなごん)の大伴宿禰家持に語っていうには『昔、このように聞きました』と説明して、その場でこの歌を吟詠(ぎんえい)してくれたものである。」
 添え書きに登場する「大納言藤原朝臣」は「舎人皇子と親密であった藤原武智麻呂(むちまろ)の第2子の仲麻呂(なかまろ)」である。
 『続日本紀』は「養老4(720)年の陰暦521日に『日本紀』は奏上された」と記し、上記した『万葉集』4293番と4294番の二首の添え書きは「天平勝宝5(753)年の陰暦5月、大伴家持は大納言の仲麻呂の屋敷で天皇に奏する事に質問している間に、山田史土麻呂が4293番と4294番の二首を吟詠した」と記す。
 このように偶然にも大伴家持は生前の舎人皇子が親しかった武智麻呂の息子の仲麻呂邸で、『日本紀』が奏上された13年前(720)と同じ陰暦五月=橘月に、『日本紀』が献上された時の元正天皇と舎人皇子が作った和歌の吟詠を聞いていた。
 家持が仲麻呂邸で『日本紀』が奏上された時の歌二首の吟詠を聞いていた天平勝宝5(753)年、橘諸兄は70歳になっていた。聖武上皇・孝謙(こうけん)天皇に怪しまれまいと密(ひそ)かにおこなう『万葉集』編纂は完成の目途(めど)がついていなかった。だから70歳となってもはや死期が間近(まぢか)にせまる諸兄は主君の舎人皇子に「死を覚悟して、必ずやりとげます」と誓った約束をまもるために『万葉集』編纂を受け継がせる人物を一刻も早く決めなければならなかった。
 そこで諸兄は36歳の少納言の大伴家持に白羽(しらは)の矢を立てた。家持が家督(かとく)を継いだ大伴家の宗家(そうけ)は高屋を拠点とする大伴連家であり、舎人皇子は高屋の大伴連家の家督者であった。また舎人皇子は諸兄がつかえる主君であった。また家持は優れた歌人であった。だから、大伴家持は『万葉集』編纂者として最適任者であった。
 しかし、前々回のわがブログ「日本国誕生史の復興・29」で解説したように、72910月に家持の父の旅人(たびと)は内臣(うちのおみ)の藤原房前(ふささき)の権勢に媚()びすりよる書状を送って主君の舎人皇子を裏切った。旅人が房前に送った裏切りの手紙は、『万葉集』810番と811番となり、この手紙は歌物語となる。この父の裏切りで『万葉集』の編纂を受け継ぐ決心ができず躊躇(ちゅうちょ)していたであろう家持は、仲麻呂邸で『日本紀』が奏上された時の様子を伝える『万葉集』4293番と4294番の吟詠を聞いている間に――“朝廷の強大な権力よりも日本建国の〔愛〕の理念のほうが優る”と朝廷に敢然(かんぜん)と抵抗し、反逆の史書『古事記』作成を指揮したが実らず、次に指揮した『日本紀』の失敗にも懲()りず、なおも反逆の『万葉集』編纂を企(くわだ)てて絶対に降参しなかった18年前(735)に亡くなった舎人皇子の姿を思い浮かべた。
 家持は舎人皇子を追憶(ついおく)していると武士として誇りと尊厳(そんげん)が体中にみなぎり、父旅人のように武士道から踏みはずれて惨(みじ)めにはならぬという熱い情念(おもい)がこみあがり、日本人として実行すべき使命をまもり、皇室の逆賊(ぎゃくぞく)となって「昧死して以聞す」つまり「大伴家の没落や滅亡さえも覚悟する必要がある」ところの『万葉集』の編纂を――家持は受け継ぐ決意をした。

◆歌人で大学教授の木俣修(きまたおさむ)氏が著作した『万葉集』(NHKブックス/日本放送出版協会発行)21頁と22頁は下記のごとく指摘する。
 「編纂は一時にされたものではなく、大体3回にわたってなされたものであるという説もある。それによると第1回は、巻一から巻十六までで、天平18(746)から天平勝宝5(753)までの間に成立、第2回は、巻十七が天平宝字3(756)6月から8年正月までに成立、同時に旧十六に手入れを加え、第3回は、全二十巻に宝亀(ほうき)8(777)1月から91月にかけて手入れを加えて成立したものであるという。」
 上記した編纂状況説で注目すべきは、巻一から巻十六までの第1回の編纂が終わった年の〔天平勝宝五年〕である。この〔天平勝宝五年〕は『万葉集』巻二十冒頭の「山村に幸行しし時の歌二首」である4293番の元正天皇が作った歌と4294番の舎人皇子が作った歌の後ろにある添え書きに登場する。
 したがって、746(天平18)から家持が『万葉集』編纂の引継ぎを決意した753(天平勝宝5)までの巻一から巻十六までの第1回の編纂は、橘諸兄がおこなったことになる。
 753年に編纂を引き継いだ家持は諸兄が編纂した巻十六に手を加えて、巻十七以後を759(天平宝字3)6月から746(天平宝字8)正月までに編纂した。その後、777(宝亀8)1月から翌778(宝亀9)1月までに、家持は全巻に目を通して修正を加え、『万葉集』を完成させた。
 だから『万葉集』の編纂者は橘諸兄と大伴家持であったのである。

◆諸兄が編纂した巻十六までの歌は合計3889首である。家持が編纂した巻十七から巻二十までの歌は合計627首であるゆえ、全4516首のうちのわずか14パーセントにすぎない。ゆえに、なぜ諸兄が集めた86パーセントの巻十六の3889首で満足せず、『万葉集』は完成しないことになったのであろうか。 
 それは諸兄が編纂した巻十六までの和歌では舎人皇子が願った日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える作成目的が完成していなかったからである。だから、家持が後を受け継いで作成目的を明確にするために巻二十まで編纂することになった。
 家持が編纂を受け継いてから2年後の755(天平勝宝7)年においても、諸兄は生存していた(2年後の75716日に没した)。二人は『万葉集』編纂目的が達成できる最良の方法は東国の防人(さきもり)たちが作る和歌であると考えたにちがいない。
 その755(天平勝宝7)2月、家持は交替する防人を校閲(こうえつ)する業務で難波(なにわ)に赴任した。この時、各国の部領使(ぶりょうし)に引率(いんそつ)された東日本の各地から徴集(ちょうしゅう)された防人たちが難波に集結した。この時に部領使に頼みこみ、この部領使の指示によって防人たちが和歌の提出に応じたために、家持は一挙に多数の防人歌を手に入れた。この東国の防人たちの和歌は、『万葉集』巻二十の4321番から4436番までの116首となった。
 A図は『万葉集』巻二十の4321番~4436番までの116首の防人歌の作者の出身国図である。B図は、わがブログ「日本国誕生史の復興」の4回、7回、8回、11回、12回、20回、23回、26回、28回などで『後漢書』倭伝に記載された小国・日本以前の「東鯷人(とうていじんこく)」の範囲にして、『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に登場する伊耶那岐命と伊耶那美命が赴任した小国・日本国の範囲であったことを証明した。A図とB図の範囲は同一である。だから、防人が徴集された東国は小国・日本であったことになる。
N581
(C) 2016 OHKAWA

  A図の左下にある遠江(静岡県西部)は小国・日本ではなく、倭国に属する小国・不呼(ふこ)国であった。しかし3世紀後半に制作されたC図に示す「卑弥呼の地上絵」は、日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために作成された遺跡であった。朝廷は一族滅亡の大罪を犯す卑弥呼の地上絵の存在に気づいていなかったが、遠江の人々が日本建国の〔愛〕の理念を尊重することについては察知していたので防人の兵役(へいえき)を命じたのである。
N582
(C) 2016 OHKAWA
 

 防人は主に小国・日本と遠江を含む東国に住む人々が徴発(ちょうはつ)された。彼らは遠い筑紫・壱岐・対馬と北九州の守備にあたった。不思議なのは、なぜ筑紫・壱岐・対馬と北九州に近い西日本の人々が中心になって防人を務めなかったのであろうか?
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話末部に登場する黄泉比良坂(よもつひらさか/現在の和歌山県新宮市に所在する神倉神社の参道)を塞(ふさ)ぐ神倉神社のご神体の千引石(ちびきのいわ/ごとびき岩)の前で伊耶那岐命に離縁を言い渡された倭女王の天照大御神(伊耶那美神命)は「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日に千頭絞(ちがしらくび)り殺さむ」と誓った。この一日に必ず千人ずつ殺すと天照大御神に「呪(のろ)われた汝の国の人草」が「小国・日本の人民」であった。だから大和朝廷の基礎を築いた天照大御神の祟(たた)りにもとづき、皇室は東国の人々に防人の任務を与えたのである。

◆巻二十にある防人歌の多くの和歌は〔妻子や両親や恋人を詠む愛の歌〕で占められる。ゆえに、小国・日本の地域であった東国に住む防人たちは伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念をまもって、妻や子どもや両親や恋人のために兵役をつとめていたことになる。
 116首のうちの4370番の「霰(あられ)降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍士(すめらみくさ) 我は来()にしを」は「鹿島の神に祈りつづけて、天皇の兵士として、おれは来たのだ」と解釈でき、4373番は「今日よりは 顧(かへり)みなくて 大君(おおきみ)の 醜(しこ)のみ楯(たて)と 出で立つ我は」は「今日からは振り返らないで、大君天皇陛下につたない護りとして行くのだおれは」と解釈できる。しかし、この二首は天皇への尊敬を詠む和歌と解釈すると誤りとなろう。この二首は「小国・日本に住むゆえ悲しいことに天皇の命令に背くことができずに防人に任務につくが、でも鹿島の神に祈って家族が待つ家に必ず帰還する」と詠む苦しみをあらわす和歌であろう。また、この二首について確かに言えることは鹿島の地が小国・日本の範囲であったと伝えている。
 D図に示す駿河(静岡県沼津市)に所在する足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)を背にする高尾山(たかおさん)古墳は東日本最古で最大の前期古墳である。
N583
(C) 2016 OHKAWA
 

 わがブログ「日本国誕生史の復興」の215回で、高尾山古墳は『古事記』淤能碁呂島の聖婚説話の舞台となる伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した式場であり、この高尾山古墳で伊耶那美命は日本建国の〔愛〕の理念を提唱したことを証明した。伊耶那美命はB図に示した小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定め、人民に〔愛〕を尊重するように熱心に説いた。
 駿河(するが)の高尾山古墳から、E図に示す2世紀後半の後漢時代に造られたと推定される「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」の破砕鏡(はさいきょう)が出土した。
N584

 
 わがブログ「日本国誕生史の復興」が1619回で証明したように――岡本天皇(宝皇女・後の皇極天皇と斉明天皇)が作る『万葉集』485番の長歌は、上に示したE図の破砕鏡の絵柄は伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を表現するものであったと証言する。
 485番の和歌の初句から6句までは「神代より 生()れ継ぎ来()れば 人さはに 国は満ちて あぢ群(むら)の 通(かよ)ひは行けど」であり、「神代の伊耶那美命が小国・日本で、後漢の鏡を砕いて残した4羽の味鴨(あぢかも)の絵柄で日本建国の〔愛〕の理念を表現しましたので、人民はこの世に多数満ち満ち、味鴨の群れが塒(ねぐら)と沼と往来するがごとく多数の人民が愛睦(むつ)まじく私の目の前を何度も往来します」と意味する。
 116首の防人歌のうちの4337番~4346番は、駿河国の防人たちが作った歌十首である。このうちの4337番は「水鳥(みづとり)の 発()ちの急ぎに 父母に 物言()ず来()にて 今や悔(くや)しき」と詠んで「防人に出発する時のあわただしさは群がる水鳥が飛び立つごとくであったので、父母に物言わずに来てしまって今は後悔している」と表現する。この和歌の初句の「水鳥」は高尾山古墳から出土した破砕鏡の絵柄の「味鴨」であったと解釈できる。というのも「水鳥の」は「群がる鴨が飛び立つ時の騒がしい羽音」をあらわすとされるからである。したがって「水鳥」は「味鴨」であったと考えるべきことになる。
 以上のごとく『万葉集』巻二十のすべて116首の防人歌は――妻子や両親や恋人を思い気づかう歌はじめ天照大御神を崇拝する朝廷の強大な権力に苦しんで悲しみ憂(うれ)う和歌などで日本建国の〔愛〕の理念をあらわし、また東日本各地の地名で小国・日本の範囲を示し、4337番のごとく『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に関連する和歌などで――〔愛〕が掲げて誕生した小国・日本をあらわす和歌で占()められる。
 以上のごとく、116首の防人歌は諸兄と家持が「昧死して以聞す」と覚悟して臨(のぞ)んだ『万葉集』編纂目的を達成できる最良の方法であった。だから116首の防人歌は、舎人皇子が願った日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝える役目があった史料となる。

7361117日に橘宿禰の姓が許可された諸兄は、737年ころから和歌を集め始めたであろう。この和歌集めは大伴家持も受け継いだ。だから諸兄と家持の長い期間にわたっておこなわれた大量の和歌の収集はやがて噂(うわさ)となり、朝廷に逆らう書物を編纂するための歌集めではないかと次第に怪しまれることになったにちがいない。
 これゆえ、大伴家持は〔朝廷に逆らって、謀反にかかわっているのではないか〕と3度も疑われて処罰(しょばつ)された。
 その最初は、763年4月におきた藤原良継(よしつぐ)たちの恵美押勝(えみのおしかつ/藤原仲麻呂)殺害計画が発覚し、家持はこの計画に加わったと疑われた。しかし、あやうく処刑されるのをまぬがれて、薩摩守(さつまのかみ)に左遷(させん)された。二度目は、782年正月に因幡守(いなばのかみ)の氷上川継(ひかみのかわつぐ)が謀反をおこし、これに連座(れんざ)した嫌疑(けんぎ)で家持は官を解()かれ、居住地を京外(けいがい)に移された。家持は7858月に陸奥按察使持節征東(みちのくあんさつしじせつせいとう)将軍に任命されて都から遠く離れる東北地方の多賀城(たがじょう)にて68歳で没した。その20日後に大伴継人(つぐひと)・大伴竹良(ちくら)等が藤原種継(たねつぐ)を殺害した。これが三度目の受難(じゅなん)となり、家持はこの殺害計画に加わったと疑われて越前国加賀郡の百余町などを没収(ぼっしゅう)された。家持の子・永主(ながぬし)は流罪(るざい)となった。
 上記したように712年1月28日に元明天皇に献上された『古事記』の上巻は(1)伊耶那美命は日本建国の〔愛〕の理念を提唱し、(2)わが国には銀河各部の形状を字源・字形・字義とした原初漢字の夏音(かおん)文字が伝来して保存され、(3)大和王朝の基礎を築いた天照大御神は残忍な徇葬(じゅんそう)を決行したと、3つの重大な真実の歴史を伝える史料であった。C図の卑弥呼の地上絵は、『古事記』上巻の3つの真実の歴史を現在に明確に伝える3世紀後半に作成された遺跡である。720521日に元正天皇に奏上された『日本書紀』は(1)の日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えようとしたが失敗した。しかし77811日ころに完成した『万葉集』は舎人皇子の遺志となった(1)の日本建国の〔愛〕の理念を後世に残すことに成功した。
 皇室は日本建国の〔愛〕の理念を消滅しようとしたが、日本人として生きる信念をつらぬく人々の抵抗にあって、消滅しようとした『古事記』は不滅の書物となった。また日本建国の〔愛〕の理念を伝える多数の和歌を集めた『万葉集』は現存し、C図の卑弥呼の地上絵も失われずに現在まで保存された。そして、2008年にはD図に示す高尾山古墳が発見されて、日本建国の〔愛〕の理念は確かに真実であると【科学】が成立して証明できるようになった。
 日本建国の〔愛〕の理念は、先人たちの命の深い底でマグマのごとく熱い魂の叫びとなった。だから、強大な朝廷の権力でも日本建国の〔愛〕の理念は消滅することができなかったのである。

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