日本国誕生史の復興・32
●『竹取物語』は権力風刺小説であった(1)
◆9世紀末から10世紀中ごろに完成した『竹取物語』は、676年に誕生して735年に死去した万葉の反逆児・舎人皇子(とねりおうじ)を武士の鑑(かがみ)と讃(たたえる)える。
『竹取物語』は、日本国誕生史の抹殺(まっさつ)をはかった朝廷や権力者たちの権力をテーマとする日本で最初に誕生した小説である。この小説は風刺(ふうし)小説である。
わがブログ「日本国誕生史の復興」が25回~前回までに証明したように――日本国誕生史を抹殺せんとした歴史の概略は、下記のごとくなる。
6世紀末、推古(すいこ)天皇は仏教を興隆(こうりゅう)するために、仏教を崇拝(すうはい)する政策の方向を示した。この崇仏(すうぶつ)政策の障害になったのが、人民たちが命と心のよりどころとする【日本建国の〔愛〕の理念】であった。ゆえに推古天皇時代から以後、権力の強大化をはかる朝廷は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を排除するようになった。やがて朝廷は大和王朝の基礎を築いた天照大御神を至上神(しじょうがみ)に祭りあげて権力の強大化をはかるようになった。天照大御神は多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋める残虐な徇葬(じゅんそう)を決行した。ゆえに天照大御神がおこなった徇葬の歴史を隠蔽(いんぺい)するために、朝廷は天照大御神と同時代に生存した伊耶那美命の歴史の抹殺をはかって、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることを厳重に禁止した。しかしこの厳重なタブーを破って舎人皇子が作成指揮して712年1月28日に完成した『古事記』は【日本建国の〔愛〕の歴史】を記載(きさい)した。『古事記』を献呈された元明(げんめい)天皇は直(ただ)ちに献呈を拒絶(きょぜつ)して、読むことを厳重に禁止する御法度禁制(ごはっときんせい)の書物とした。ゆえに8年後の720年5月21日に、舎人皇子は『日本紀』を完成させて元明帝の娘の元正(げんしょう)天皇に献上した。しかし、正史にすることに精力をそそいで直接的な表現を避(さ)けた結果、『日本紀』は【日本建国の〔愛〕の理念】が後世の人々に伝わらない失敗作となった。だから『日本紀』は朝廷にとって使い勝手の良い都合の良い文献であったので正史となった。その証拠に『日本紀』は『日本書紀』と書名が変わり、作成されるとすぐその時から10世紀中ころ(平安時代中期の970年ころ)までの間、朝廷では講書(こうしょ)がおこなわれた。「講書」とは「天皇や皇族に学者が書物の内容を講義する研究会」である。
『日本書紀』の失敗を挽回(ばんかい)するために舎人皇子は733年、葛城王(かつらぎのおおきみ)兄弟に【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える和歌を集めた書物の編纂(へんさん)を命じた。この書物は『万葉集』であった。舎人皇子が葛城王兄弟に『万葉集』編纂を命令した様子は、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天平8(733)年11月11日の箇所に記載されている。この記事の末尾にある「万歳(まんさい)の窮(きは)みなく、千葉(せんよう)に相伝(あいつた)へむことを」という文から『万葉集』という書名が生まれた。葛城王は聖武(しょうむ)天皇から母方の橘宿禰(たちばなのすくね)の姓の許可を得て、橘諸兄(たちばなのもろえ)と名乗った。この『万葉集』は巻一から巻十六までを橘諸兄が746年から753年までに編纂した。753年になると諸兄は死期がせまる70歳となったので、36歳の大伴家持(おおとものやかもち)を後継者に選んだ。家持は753年ころから和歌を集め、そして巻十七から巻二十までを759年から編纂に取りかかり778年1月ごろに完成させた。
◆『竹取物語』の骨組み・筋書(すじが)きは、【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺が始まった推古天皇時代から上記した『古事記』・『日本書紀』『万葉集』が作成された時代ころまでの王朝と権力者たちの風刺から成り立つ。
このため『竹取物語』の土台ともいうべき主題は、【日本建国の〔愛〕の理念】である。というのも、上記したように『古事記』と『日本書紀』を作成指揮し、『万葉集』を企画して葛城王(後の橘諸兄)に編纂命令した舎人皇子が全情熱をかたむけて後世に残さんとした願望は【日本建国の〔愛〕の理念】であったからである。
【日本建国の〔愛〕の理念】は『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)説話には記載された。いっぽう、『日本書紀』神代紀の磤馭慮嶋(おのごろしま)説話はほぼ同じ内容であるにもかかわらず、肝心の【日本建国の〔愛〕の理念】が伝える文が存在しない。また、『古事記』上巻の各説話では【日本建国の〔愛〕の理念】を表示されるゆえ、上巻全体は【日本建国の〔愛〕の理念】を一貫(いっかん)して語るものとなる。しかし、『日本書紀』神代紀では強大な権力を手に入れた天照大御神のほうが目立ち、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】が表示されていない。
だから『日本紀(日本書紀)』は失敗作であった。ゆえに、【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える〔愛〕の和歌集『万葉集』が編纂されることになり、またこの歴史を風刺のネタ(材料)にして『竹取物語』が創作された。
上記したように朝廷は『古事記』を読むことあるいは研究することを厳重に禁じ、さらに『日本書紀』が完成した直後から始めた講書によって『古事記』上巻に記述された真実の歴史を歪曲(わいきょく)する方法や正史『日本書紀』の記事が正しく『古事記』の記事を誤りとする曲解(きょっかい)方法など、朝廷は様々な対策を研究して舎人皇子が後世に残さんとした【日本建国の〔愛〕の理念】が復興しないようにした。
資料に残った朝廷で講書に関する記録によると、講書が頻繁(ひんぱん)におこなわれるようになったのは、平安時代初期の弘仁期(こうにんき/820~823年)ころから村上天皇の厚保(こうほ)年間(946~967)までである。このように、伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】が唱えた歴史を消滅させる講書が朝廷で盛んにおこなわれていた当時(9世紀後半から10世紀中ごろ)、朝廷に逆らって【日本建国の〔愛〕の理念】を主題と作成目的にする反権力・風刺小説の傑作(けっさく)、日本最古の小説『竹取物語』が誕生した。
朝廷の講書の研究は近世の国学(こくがく)の学者たちの研究に受け継がれた。上記したように朝廷の厳重な管理によって『古事記』を写本する人は少なく読む人はほとんどいなかったのに対して、『日本書紀』は宮中で講義され正史としてよく読まれた。この違いによって『古事記』は偽書(ぎしょ)であろうという説が出現し、賀茂真淵(かものまぶち/1697-1769)は『古事記』を後世に作られた偽書(ぎしょ)ではないかと疑った。このため『古事記』は疎(おろそか)かにあつかわれるようになり、『古事記』上巻に記載されて存在する【日本建国の〔愛〕の理念】に気づく学者は一人もいなくなった。ゆえに国学において『古事記』上巻には【日本建国の〔愛〕の理念】が書かれていないという観念は既成(きせい)事実となり、真淵を師と仰ぐ本居宣長(もとおりのりなが/1730-1801)の『古事記』研究にも大きな影響を与えた。その証拠に、本居宣長は『古事記』上巻全体を貫(つらぬ)いて語られる【日本建国の〔愛〕の理念】にまったく気づかなかった。したがって、本居宣長が著作した注釈書『古事記伝』から【日本建国の〔愛〕の理念】が削除(さくじょ)された。
この結果、現在の学者たちは宣長の『古事記伝』を基本にして研究するゆえ、一人も『古事記』上巻(日本神話)に【日本建国の〔愛〕の理念】が記述されている事実に気づかない。このため、【日本建国の〔愛〕の理念】が『竹取物語』の主題や作成目的になったことが学者の誰からも指摘されないことになった。
◆新村出編『広辞苑』(岩波書店)は「諷刺・風刺」を「(1)遠まわしに社会・人物の欠陥や罪悪などを批判すること。(2)それとなくそしること。あてこすり。」と説明する。
『竹取物語』は時の宮中で行われていた講書による【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺(まっさつ)を批判して作成された。その宮中における講書への批判は、過去の【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺せんとした王朝や強大な権力を有した氏族をもって辛辣(しんらつ)に謗(そし)りあてこするものとしたため、おのずと風刺小説となった。だから、物語に登場する人物名はあてこすりの徒名(あだな)である。つまり、『竹取物語』には歴史上に登場した〔阿倍御主人(あべのみうし)〕と〔大伴御行(おおともみゆき)〕の名を捩(もじ)った人物も登場するが、両人とも名のモデルとなった人物を表示するものではなく、前者は〔天武天皇〕を後者〔持統・文武・元明・元正・聖武の五人の天皇〕をあらわす徒名である。
『竹取物語』は〔かぐや姫の生い立ち〕〔五人の貴公子たちの求婚〕〔石つくりの皇子(みこ)の話〕〔くらもちの皇子の話〕〔右大臣あべのみむらじの話〕〔大納言大伴のみゆきの話〕〔中納言いそのかみのまろたりの話〕〔御門(みかど)の求婚〕〔かぐや姫の昇天〕〔ふじの山〕と分けられる骨組みで構成される。
ヒロインの「なよ竹のかぐや姫」のモデルは「伊耶那美命」である。『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話には「伊耶那美命は【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた。小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた」と書いてある。『わがブログ「日本国誕生史の復興・10」で解説して証明したように、「伊耶那美命」は『魏志』倭人伝末部に登場する「倭女王の壱与(いよ)」であり、『古事記』中巻の開化天皇紀に記載される「正妃(せいひ)の竹野比売(たかのひめ)」であった。伊耶那美命の本名は竹野比売であったゆえ、竹の筒から生まれて「なよ竹のかぐや姫」という名になった。『古事記』上巻が記述するように――伊耶那美命は農具のスキやクワの鉄の刃先を作るときに、製鉄炉の火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)が高熱に耐え切れずに爆発した火災事故で火傷(やけど)を負い、天(あま)の香具山(かぐやま)に近い泣沢(なきさわ)神社で臨終(りんじゅう)した――と書く。ゆえに製鉄炉の「迦具(かぐ)」と臨終した泣沢神社近くの山の「香具(かぐ)」から「かぐや姫」と名づけられた。
◆『竹取物語』では、かぐや姫を養育した竹取の翁(おきな)と媼(おうな)が道化役(どうけやく)になって物語を進行させる。この竹取の翁と媼のモデルは『後漢書(ごかんじょ)』倭伝に――紀元前3世紀、徐福(じょふく)は秦(しん)の始皇帝(しこうてい)に不死の薬を探して来いと命じられたが、不死の薬を採取できなかったので死刑をおそれて日本列島に定住した――と記述された「方士・徐福(じょふく)の子孫」であると考えられる。というのも、『竹取物語』最後の〔ふじの山〕の場面で「不死の薬」が登場するからである。
わがブログ「日本国誕生史の復興」の2回~15回で証明したように、『後漢書』倭伝に記述された東鯷人(とうていじんこく)の国王は徐福の子孫であったと考えられる。230年ころ、1万の呉の遠征軍が人狩りのために東鯷人国に遠征してくるという情報に脅(おび)えて東鯷人国王は独立国であることをあきらめて、卑弥呼が統治(とうち)する倭国に属することにした。これゆえ東鯷人国は倭国に属する小国となって、「日本」と名が改められた。この新しく生まれ変わった小国の女王に伊耶那美命が軍王(いくさのおおきみ)に伊耶那岐命が選ばれて、来襲する呉軍を防衛するために日本国に封(ほう)ぜられた。
A図に、旧東鯷人国=小国・日本の範囲を示した。
(C) 2016 OHKAWA
日本軍は呉の遠征軍が入手する東鯷人国(小国・日本)に関する最も代表的な情報について、徐福が不死の薬を採取できると思い込んだ静岡県沼津市に所在する足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)であると推断(すいだん)した。ゆえに、日本軍はB図に示す足高山の南にあると浮島沼(うきしまぬま)を呉軍と日本軍の決戦場と定めた。そして足高山を徐福が目指した蓬莱山(ほうらいさん)に見せかけるために、その高地に大規模な軍事施設を設営することにした。これが、B図の「足高尾上(おのえ)遺跡群」である。この足高山尾上大集落の南に、日本軍が呉軍に勝利することを祈願して、日本国の女王の伊耶那美命と軍王の伊耶那岐命が結婚する式場の高尾山(たかおさん)古墳が築造された。B図に示す沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山古墳は、A図の小国・日本の東日本のおける最古の最大の前期古墳である。高尾山古墳で結婚式をおこなった時に、呉の遠征軍に勝利祈願する式次第の順序を破って伊耶那美命は【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた。
(C) 2016 OHKAWA
前述したように、『竹取物語』の最後の〔ふじの山〕の場面で「徐福が日本列島に渡って探してくることになった不死の薬」が登場し、伊耶那美命が封ぜられた小国・日本は徐福の子孫が国王となって治めた東鯷人国であったゆえ、かぐや姫を養育した翁と媼のモデルは「徐氏(徐福の子孫)」であったと考えられる。
東鯷人国が伊耶那美命と伊耶那岐命が封ぜられた小国・日本であった事実を詳細に明確に記載した『徐福文献』という古文献が存在したと伝承されるが、天照大御神が基礎を築いた大和朝廷にとってきわめて不都合な書物であったため抹殺(まっさつ)されて現存しない。
徐福の子孫として秦(はた)氏、波多氏、羽田氏、畑氏等を名乗る人々が各地にいることが知られているが、家譜(かふ)または家系図を持っている者は聞かない。『徐福文献』の抹殺に脅えて、徐福の子孫は家譜や家系図を作成せず、徐姓を名乗らなかったのである。徐福の子孫は大和王朝が抹殺に躍起(やっき)になった伊耶那美命が〔愛〕の理念を国作りの柱にした日本国誕生史を最も知っていたからである。大和王朝の長年にわたる厳しい監視や迫害から逃れて平穏(へいおん)な生活を送るため、彼らは徐姓を名乗らず、家系図を作成せず、大和王朝に服従する姿勢を示さなければならなかった。徐氏の人々は大和王朝に媚(こ)びあるいは取り入ったりして出世する人々、あるいは抜け目なく朝廷を騙(だま)したり欺(あざむ)く人々、あるいは熊野地方の徐氏のごとく神倉神社のお燈(とう)祭り・那智の扇祭り・花の窟(いわや)神社のお綱かけ神事・熊野那智大社の例大祭などをもって伊耶那美命の歴史をまもり育てる養(やしな)い親などになったりして、さまざまな生き方をした。
したがって竹取の翁と媼とかぐや姫に求婚する五人の貴公子たちと交わす滑稽(こっけい)なやりとり、御門(帝)に媚びへつらう竹取の翁と媼の様子は、家系図を作らずに改姓したが時と場合には徐福の子孫を名乗って臨機応変(りんきおうへん)にたくましく世渡りした、徐氏・徐家の様々な身の処し方を表現して演じさせるものであるにちがいない。
◆かぐや姫に求婚する1番目の貴公子「石つくりの皇子(みこ)」のモデルは、強大な権力を手に入れた「蘇我(そが)大臣家の馬子(うまこ)・蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)」である。推古天皇2(594)年、天皇は聖徳太子(しょうとくたいし)と蘇我馬子に「三宝(さんぽう)を興隆(こうりゅう)」と詔(しょう)し、積極的な崇仏(すうぶつ)政策の方向を示した。この政策によって、馬子の権力は強化され蝦夷・入鹿の代には朝廷を脅(おびや)かすことになった。
〔石つくりの皇子の話〕は――大和国十市郡(とうちのこおり)にある山寺に、賓頭廬(びんずる)の前にある、真っ黒に墨(すみ)がついた鉢(はち)をとってきて、錦(にしき)の袋に入れ、造化(つくりばな)の枝に結びつけて、石つくりの皇子はうやうやしく姫の家に持ってきた――と説明する。
この話における「造花」は「桃の花の造花」はあらわし、貴公子の名に用いられる「石つくり」は「桃原墓(ももはらのはか)」のあてこすりである。「桃原墓」は現在「石舞台古墳」と呼ばれているので、「石舞台古墳」から「石つくり」という名を思いついたことになる。
B図に示した高尾山古墳の背となる足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)の山頂には、桃沢神社が祀(まつ)られる。この桃沢神社の「桃」は「蓬莱(ほうらい)の神仙(しんせん)と呼ばれた老子に不老不死(長寿)の力を与えた桃」をあらわす。秦の始皇帝に命令された徐福が数千人の若い男女を率いて不死の薬となる桃が採集できると思い込んで、駿河(するが)の富士山の南東にある足高山を目指した。この歴史に因(ちな)んで、足高山の山頂には桃沢神社が祀られている。『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話には、倭女王天照大御神を失脚させた伊耶那岐命が決行したクーデターに参加した「日本兵と熊野に住む戦士たち」を「桃の子三箇(みみつ)」と表記する。クーデターに成功した伊耶那岐命は桃の子三箇に「すべての生ある人々が苦しい目にあって悲しみ悩むような時に助けるがよい」と告げて、自らは伊耶那美命の遺志を継いで【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する国政をおこなうと誓った。だから「桃」は「伊耶那岐命が伊耶那美命から受け継いだ【日本建国の〔愛〕の理念】」をあらわした。
山上憶良(やまのうえのおくら)は『万葉集』の802番の「子等(こら)を思う歌一首」とその反歌(はんか)の803番を作った。802番の和歌には〔序〕があり、この〔序〕は――釈迦如来(しゃかにょらい)は「衆生(しゅしょう)を平等(びょうどう)に思うことは、わが子ラゴラを思うのと同じだ」、また「愛執(あいしゅう)は子に優(まさ)るものはない」とも言った。こんな無上の大聖人でさえ、やはり子に愛着(あいじゃく)する心がおありなのだ。ましてや世間一般の人々で、誰が子を愛さないなんていうような人物が存在するであろうか――と記す。次の803番は憶良の代表作の「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」である。この802番の序と803番は『竹取物語』の主題と作成目的となった【日本建国の〔愛〕の理念】を明確にあらわした。
かぐや姫は石つくりの皇子に求婚を承諾する条件として「仏(ほとけ)の御石(みいし)の鉢(はち)」を探してくるという難題(なんだい)を与えた。「仏の御石の鉢」は『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』やその他の古典が「釈迦が持っていた鉢」と伝える。だがら、石つくりの皇子がかぐや姫の前に差し出した大和国十市郡にある山寺の十六羅漢(じゅろくらかん)で第一の位とされる白頭(はくとう)・長い眉(まゆ)の賓頭廬の木像だか石像だか知らないが、その像の前にある真っ黒に墨がついた鉢は仏の御石の鉢であるはずがない。
『日本書紀』推古(すいこ)天皇紀は「蘇我馬子は桃原墓に葬った」と記す。ゆえに〔石つくりの皇子の話〕は巨石でおおう盛土(もりつち)が失われて偽物(にせもの)の古墳となった、“馬子の墓”といわれる奈良県高市郡明日香(あすか)村島ノ庄(しょう)にある石舞台古墳をもって、馬子・蝦夷・入鹿3代の蘇我家の横暴(おうぼう)な恥知らずの権勢(けんせい)を風刺していることになる。
◆2番目の〔くらもちの皇子の話〕は「中大兄(なかのおおえの)皇子(後の天智天皇)とその奸智(かんち)に長(た)けた権勢」をおちゃらかす話である。中大兄皇子が蘇我氏を滅亡させて、645年、叔父の孝徳天皇が即位し中大兄皇子が皇太子となって新政府を発足(ほっそく)させた。この時、阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだのいしかわまろ)を右大臣に任命した。ゆえに左右の大臣の名は「倉(くら)の字を持つ」ゆえ、「中大兄皇子(後の天智天皇)」のあだ名は「くらもちの皇子」となった。
〔くらもちの皇子の話〕は――策略に秀(ひい)でる皇子は、朝廷には「筑紫国の温泉まで、湯池(とうち)に行かせていただきます」と休暇願を申請し、かぐや姫の家には「今からあなたのおっしゃる蓬莱の玉の枝(え)を取りにいきます」と伝えておいて、難波(なにわ)まで出かけたのを、見送りの人々にはまるで筑紫まで旅立つかのように見せかけて、三日ばかり経(た)ってから、こっそりと帰ってきた――という説明から始める。
この冒頭部の「難波まで出かけたのを、見送りの人々にはまるで筑紫に旅立つように見せかけて、三日ばかり経ってから、こっそりと帰ってきた」と滑稽(こっけい)な表現は――(1)大化の改新があった645年12月に孝徳天皇は難波の長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)に遷都(せんと)したが、653年に皇太子の中大兄皇子は天皇が反対するのを無視して皇極(こうぎょく)上皇・間人(はしひと)皇后・大海人(おおあま)皇子を率いて大和の飛鳥河辺行宮(あすかのかわらのかりみや)に都を遷(うつし)た、また(2)中大兄皇子が軍事を指揮して朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で日本軍は唐軍と新羅(しらぎ)軍に敗れ、百済(くだら)王は高句麗(こうくり)へ逃亡し、王族・貴族の大半はわが国へ亡命し、663年に百済は滅亡した――、この二つの出来事を重ねて風刺していることになる。
また上記の〔くらもちの皇子の話〕の初頭の説明は――(3)唐軍の侵攻を心配して中大兄皇子は、百済からの亡命技術者に命じて対馬・北九州・瀬戸内海・河内などに城を築いて防備を固めるとともに、天照大御神が憎悪して祟(たた)った【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重するA図の小国・日本の東国の人々に防人(さきもり)の兵役(へいえき)を命じて対馬・壱岐・対馬に配置した――国防の様子をも一緒に混ぜ合わせて風刺するものとなる。
かぐや姫は「東の海に蓬莱という山あり、銀を根とし、金を茎(くき)とし、白き玉を実として立てる木があります。その木の一枝をください」と言って、くらもち皇子に〔蓬莱の玉の枝〕という結婚の条件を与えた。わがブログ「日本国誕生史の復興」の18回・19回で証明したように、B図に示す「東海地方にある足高山」は「蓬莱の山」であった。だから、蓬莱山=足高山の山頂に祭られる桃沢神社の「桃の木」が「白き玉を実として立てる木」であった。したがって、上記した山憶良の代表作である『万葉集』803番の「銀も 金も玉も」と詠む和歌に因(ちな)んでかぐや姫が「銀を根とし、金を茎とする蓬莱の玉の枝」と説明した「蓬莱の玉の枝」は、秦の始皇帝と徐福がわが国の東海の駿河の蓬莱山・足高山に生えていると思い込んだ不死の薬となる「桃の木の枝」であったことになる。
このように憶良が作った『万葉集』の802番の序と803番の和歌をヒントにして〔仏の御石の鉢〕と〔蓬莱の玉の枝〕の正解を手本にすれば、天皇・王朝・権力者などの実名や五人の貴公子に与えられた難題が芋(いも)づる式に解明できる仕組みになっている。
だから、上記したように「仏の御石の鉢」は古典が伝える「釈迦が持っていた鉢」ではない。また同様に「蓬莱の玉の枝」は中国の古典が伝える「蓬莱」の地に生える木の枝ではなく、徐福が沼津市の足高山に群生(ぐんせい)していると思い込んだ桃の木の枝であった。
要するに『竹取物語』は憶良が作った『万葉集』802番の序と803番の短歌にもとづく「仏の御石の鉢」と「蓬莱の玉の枝」の正解は、共に『古事記』上巻に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】であったことになる。
〔くらもちの皇子の話〕は――かぐや姫が与えた難題は「蓬莱の玉の枝」であったにもかかわらず、偽(にせ)の玉の枝を長櫃(ながびつ)に入れて覆(おお)いで隠して運んでくると、国防に何にも犠牲(ぎせい)をはらわずに優雅に暮らす都の人々は「くらもちの皇子は優曇華(うどんげ)の花を持って帰った」というデマを流して騒(さわ)いだ――と説明する。
「蓬莱の玉の枝」はB図の「徐福が足高山の山麓に群生すると思い込んだ、蓬莱の神仙の老子に不老長寿の力を与えた桃の木の枝」であるゆえ神仙的な宝物である。いっぽう、「優曇華」は3000年に一度金輪王(こんりんおう)が世に出る時に咲く花であるゆえ仏教の宝物であるゆえ、「蓬莱の玉の枝」ではない。ゆえに〔くらもと皇子と蓬莱の玉の枝〕は「中大兄皇子はわが国に侵攻してくると騒いだ唐軍はまったく襲来せず、この国防のために大変の負担をかけて人民を苦しめた」と風刺するものとなる。
かぐや姫のモデルとなった3世紀に生存した伊耶那美命は1万の呉軍が遠征して来るという思い込みと噂(うわさ)による国防のために小国・日本の女王となった。この出来事に相似して7世紀に生存した中大兄皇子の唐軍が襲来するという思い込みと都の人々の噂によって国防する騒ぎとなった。
だから〔くらもち皇子の話〕では――都の人々の「くらもちの皇子は優曇華の花を持って都に帰ってくる」というデマを聞いて、私(伊耶那美命)と中大兄皇子は似た者同士だと思い込んだ伊耶那美命の分身であるかぐや姫は「どうも皇子に負けたようです」と言って、胸はつぶれてもの思いにふけった――と説明する。
◆3番目の貴公子〔右大臣のあべのみむらじ〕は天武朝につかえていた実在人物の「阿部御主人(あべのみうし)」の「主人」を「連(むらじ)」に変えて「みむらじ」とふざけて捩(もじ)ってこしらえたあだ名である。阿部御主人は近江朝を裏切って壬申(じんしん)の乱で勝利した天武天皇につかえた。天武天皇の権力は絶大で、天皇は神格化された。このような天武朝を〔右大臣のあべのみむらじと火鼠(ひねずみ)の皮衣(かわごろも)〕でおちょくる。
この話は――右大臣のあべのみむらじは財産家で、かぐや姫に唐土(もろこし)にある火鼠の皮衣というものを買ってきてほしいと言われたその年に、唐土船(もろこしぶね)に乗って交易に来て、今は唐土に帰国している王けいという人物のもとに、文(ふみ)を書き、仕える人々の中で心確かな者を選び、小野のふさもりという人物をつけて派遣した云々(うんぬん)――と始まる。
この話に登場する「唐土船」は「遣隋使船(けんずいしせん)」あるいは「遣唐使船(けんとうしせん)」をあらわす。ゆえに、「唐土船」は――(1)「王けい」は唐ではなく大唐=隋(ずい)の外交官の名「鴻臚卿(こうろけい)」をもじったものであり、「小野のふさもり」は『日本書紀』に記載される推古天皇の時(607年)の遣隋使の「小野妹子(おののいもこ)」に似せてこしらえた名である。また(2)702年6月29日に九州の港から出帆(しゅっぱん)した執節使(しっせつし/特別大使)の粟田真人(あわたのまひと)と最下位の幹部が山上憶良であった第7回遣唐使――を一緒くたにして表現するものとなる。わがブログ「日本国誕生史の復興・20」で詳細に解説したように、第7回遣唐使の様子は中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝と『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に記述されている。
〔右大臣のあべのみむらじと火鼠の皮衣の話〕の末部は――世間の人々は「右大臣が火鼠の皮衣を持ってきて、かぐや姫と結婚した」と噂するかと思えば、あるいは「皮衣を火に入れると、めらめらと焼けてしまったので結婚できなかった」と噂(うわさ)した。この阿部右大臣の一件から「あべ」をもじって「あへなし」というようになった――という記事で終わる。
上記の「火鼠の皮衣」は「第7回遣唐使が九州を出帆した年の翌703年1月、文武(もんむ)天皇は舎人皇子を頭領とする伊耶那美崇拝派が欲求する知太政官事(ちだいじょうかんじ)に忍壁(おさかべ)皇子の就任を容認した出来事」をあらわし、上記の「あへなし」という語は「天武天皇の血を受けついだ天皇は707年6月に没した文武天皇(天武帝の孫)で絶えた」と風刺するものとなる。
わがブログ「日本国誕生史の復興・28」で証明したように――「忍壁皇子に献(たてまつ)る歌一首 仙人(やまびと)の形(かた)を詠む」という題詞がつく『万葉集』1682番の「とこしへに 夏冬行けや 皮衣 扇(あふき)放たぬ 山に住む人」という和歌は「中国の古代絵画では、絶えず夏と冬とが共に行く蓬莱山の高地に住む仙人の老子は皮衣と団扇(うちわ)を手離さない形で描かれる。とうとう忍壁皇子は漢字が銀河から作られた真実を後世に伝えた老子と同じく、日本国が〔愛〕の理念を掲げて誕生した真実の歴史を後世に伝える『古事記』を作る知太政官事業になられた。これは実に目出度いことよ」と意味した。
C図は、中国の古代絵画における仙人・老子の形をあらわす。
知太政官事は歴史局の総裁と太政(だじょう)大臣を兼務する天皇に次ぐ高位であった。
〔右大臣のあべのみむらじ〕の難題〔火鼠の皮衣〕の「火鼠」は「火のように熱い夏」をあらわしてC図の老子が手に持つ夏に用いる「うちわ」に相当する。その証拠に、知太政官事を新設した文武天皇は、707年の炎暑(えんしょ)たえがたき陰暦6月に没している。
705年5月に忍壁皇子は死去したために『古事記』の完成に立ち会っていないが、712年1月28日に『古事記』は元明天皇に献上された。しかし、『古事記』は皇室が絶対に後世に伝えてはならないと禁止する【日本建国の〔愛〕の理念】を記述する反逆の史書であったので、天皇は即刻『古事記』を火に燃やして消滅しまうかのごとく廃棄(はいき)した。
したがって〔火鼠の皮衣〕もまた『古事記』上巻と『竹取物語』のテーマとなった【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわしていると考えるべきことになる。
『日本書紀』は「天武天皇10(681)年3月、川島皇子・忍壁皇子等12人に命じて『帝紀(ていき)及び上古の諸事(しょじ)を記定(きてい)』させた」と記述する。この「上古の諸事を記定」のうちの[古]と[事]と[記]の3字は『古事記』という書名になる。
だから〔右大臣のあべのみむらじと火鼠の皮衣〕は、天武朝の権力を風刺するものであったことになる。
◆4番目の貴公子〔大伴のみゆきの大納言の話〕は――大伴のみゆきは家来全員を集めて「龍の頚(くび)に五色に光る玉がある。それを取ってきた者には、願いをかなえてやる」という――と始まる。ゆえに、この話における「五色に光る玉」は「持統・文武・元明・元正・聖武の五代の天皇の権力」を風刺するものとなる。〔大伴のみゆき〕の名の基(もと)となった大伴御行(おおともみゆき)は701年1月に没し、天武・持統朝に仕えた重臣であった。
『古事記』序には「飛鳥(あすか)の浄御原(きよみはら)の大宮で天下を治めた天武天皇の御世(みよ)に至りまして、潜龍(せんりょう)元(げん)を体(たいし)し」という文があり、この文は「天皇は皇太子の時にすでに天子たるべき資質(ししつ)をそなえておりましたが」と意味する。この文中にある「潜龍」から〔龍の頚の玉〕が発案(はつあん)され、かぐや姫が〔大納言大伴のみゆき〕に与えた難題となった。
〔大納言大伴のみゆきと龍の頚の玉の話〕では、(1)舎人皇子の討伐を準備する行幸(ぎょうこう)疲れで持統上皇が702年12月22日に没した出来事、(2)721年12月7日に没した元明上皇が素寒貧(すかんぴん)の貧乏人と同様に葬儀をいっさいおこなわない方法で舎人皇子に呪(のろ)って復讐(ふくしゅう)した様子を痛烈(つうれつ)に風刺する。この風刺は「元(もと/元明)の奥方は、腸(はらわた)がちぎれるほどに嗤(わら)う。かぐや姫を迎えるために、きれいに飾り立てた屋形(やかた)も、トビやカラスが巣を作って全部こわしてしまった」と表現する。
だから、前述したように――(3)舎人皇子が【日本建国の〔愛〕の理念】が後世に伝わらないから失敗作であると断定した『日本書紀(『日本紀』)もまた「トビやカラスが巣を作って全部こわしてしまった」と表現されたシロモノであったことになる。
上記したように山上憶良が作った『万葉集』803番「銀も 金も玉も 云々」と詠む和歌にある「玉」は〔龍の頚の玉〕の〔玉〕である。ゆえに、〔龍の頚の玉〕は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわしていることになる。5番目の貴公子に与えられた難題は〔燕(つばくらめ)の子安貝(こやすがい)〕である。子安貝は安産のお守りとなった。ゆえに、上記の3人の貴公子の難題と5人目の貴公子の〔燕の子安貝〕という難題もすべて【日本建国の〔愛〕の理念】であらわすゆえ、4番目の貴公子に与えられた難題の〔龍の頚の玉〕もまた【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわすと考えるべきことになる。
〔大納言大伴のみゆきと龍の頚の玉の話〕の最後には、杏(すもも)が登場する。この「杏」は聖武天皇が治めていた737年に九州からひろがった都に達した「天然痘(てんねんとう)」をあらわす。この天然痘で藤原4兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が没した。
だから、〔大納言大伴のみゆきと龍の頚の五色に光る玉の話〕は、持統・文武・元明・元正・聖武の五代の王朝の権力を風刺していることになる。
5番目の貴公子の〔中納言いそのかみのまろたり〕は「藤原不比等(ふひと)」を風刺し憎悪するものである。4人の貴公子は「死んだ」と記述されない。しかし「藤原不比等」をあらわす〔中納言いそのかみのもろたり〕だけは「死んだ」と説明して憎悪される。
風刺され謗(そし)られる4人の貴公子は個人ではなく、氏族・王朝をあらわす組織である。しかし5人目は個人の藤原不比等だけを風刺するゆえ、『竹取物語』は〔大納言大伴のみゆきの話〕までの前半と〔中納言いそのかみのまろたりの話〕の後半に分かれる構成になっている。ゆえに、次回のブログは〔中納言いそのかみのまろたりの話〕から風刺の秘密を解説する。
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