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2016年11月 4日 (金)

日本国誕生史の復興・33

 『竹取物語』は権力風刺小説であった(2)

◆『竹取物語』は9世紀末から10世紀中ごろに完成した日本で最初に誕生した小説であり、この小説は風刺(ふうし)小説である。
 『竹取物語』の主題は『古事記』上巻に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】であった。
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・32」で解説したように――6世紀末、推古(すいこ)朝は仏教を興隆(こうりゅう)するため、人民の命と心のよりどころとなった【日本建国の〔愛〕の理念】が邪魔(じゃま)になった。ゆえに『竹取物語』は【日本建国の〔愛〕の理念】の排除(はいじょ)が始まった6世紀末から、『万葉集』の編纂が始まらんとした天然痘(てんねんとう)で藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が没した737年ころまでの出来事を風刺する小説となる。
 9世紀末から10世紀中ごろに『竹取物語』が成立した当時、宮中では『日本書紀』の講義を頻繁(ひんぱん)におこなって【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺(まっさつ)に努(つと)めていた。ゆえに『竹取物語』は、朝廷に逆らって【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために作成された。このため、朝廷の【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺対策を辛辣(しんらつ)に批判することになったので、『竹取物語』は朝廷の強大な権力を笑いとばして風刺する小説となった。

◆前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・32」で証明したように、『竹取物語』のヒロインは伊耶那美命である。『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話の冒頭の淤能碁呂島(おのころじま)の聖婚(せいこん)説話が伝えるように、小国・日本の女王であった伊耶那美命は【日本建国の〔愛〕を理念】を提唱(ていしょう)した。「伊耶那美命」は『古事記』中巻の開化(かいか)天皇紀に記載される「正妃(せいひ)の竹野比売(たかのひめ)」であったゆえ、竹の筒から生まれて「なよ竹のかぐや姫」と名づけられた。
 かぐや姫を養育した竹取の翁(おきな)と媼(おうな)のモデルは、東鯷人(とうていじん)国に住む徐福(じょふく)の子孫であったと考えられる。
 竹取の翁と媼のモデルが徐福の子孫であったことについては、前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・32」でも解説したが――再度、解説すると下記のごとくなる。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話は――ここに天つ神と諸々(もろもろ)の命(みこと)一同つまり倭の卑弥呼王朝は、伊耶那岐命と伊耶那美命に「この漂(ただよ)っている国土を修理(つく)り固めよ」という詔(みことのり)を下された――という記事から始まる。
 「この漂っている」という表現は、230年ころに東鯷人国に1万の呉軍(ごぐん)が遠征してくると噂(うわさ)が広まって東鯷人国はもちろん卑弥呼が治める倭国でもまるで大海で迷い漂って死を待つ人々が乗る船のごとく国中が恐怖と不安に支配されていた状況をあらわす。中国の正史『三国志』呉書孫権(ごしょそんけん)伝は「230年、呉の皇帝の孫権は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(こうし/武装兵)万人をひきいて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(せんしゅう)を求めしむ」と記述する。また中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』の倭伝は「東鯷人(とうていじん)国は二十余国に分かれ、夷州および澶州(せんしゅう)がある」と記す。ゆえに、呉の1万の遠征軍(えんせいぐん)は東鯷人国へ目指したことになる。この呉軍の東鯷人国遠征の22年前の208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いでわずか2万の呉の水軍は40倍の魏の80万の大軍を撃破(げきは)して大勝利をおさめた。だから東鯷人国へ遠征する1万の呉軍は、赤壁の戦いにおける40万の大軍に匹敵(ひってき)した。しかし、230年の1万の呉の遠征軍が台湾沖で8割から9割の兵士を失って壊滅(かいめつ)したことに懲()り、また大軍を東鯷人国へ遠征すれば呉国を守る兵力が足りなくなって魏に滅ぼされる公算が大となったので、呉は東鯷人国への再度の遠征を断念(だんねん)した。
 ところが卑弥呼、東鯷人国王、また倭国と東鯷人国の人民は、再度、呉軍は必ず遠征して来るにちがいないと思い込んだ。というのも当時の中国は魏()・蜀(しょく)の呉の三国が戦争で明け暮れて人口が激減した恐怖時代であったからである。呉の人口は魏の人口の約52パーセントであった。だから東鯷人国遠征の目的は呉の人口を増やすための人狩りであると考えられた。豊富な資料と正確な考証(こうしょう)からなる中国の歴史書『資治通鑑(しじつがん)』は「その民を俘(とりこ)にしてもって衆(しゅう)を益()さんと欲す」と記載し、東鯷人国の遠征の目的は人狩りであったと記述する。

◆上記した『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話の冒頭の記事は、1万の呉の水軍の東鯷人国への遠征を東鯷人国でも倭国でも知っていたこと示す。というのも倭国においても東鯷人国においても常々(つねづね)人口が激減する中国の獣性(じゅうせい)が支配する状況を気にかけて、いつか巻()き添()えを食()らう日が来るのではないかと心配するものであったゆえ、呉軍の再度の遠征は必ずあるにちがいないと思い込んだのである。
 『後漢書』倭伝は「紀元前3世紀の秦(しん)の始皇帝の時代に、方士(ほうし)の徐福が若い男女数千人を率(ひき)いて海に入り、始皇帝が探して来いと命じた蓬莱(ほうらい)の神仙(しんせん)つまり老子(ろうし)に不老長寿の力を与えた霊薬(れいやく)が発見できなかった。徐福は死刑をおそれて帰国せず、東鯷人国に定住した。卑弥呼が生存した3世紀、徐福一行の子孫は数万軒となる」と記す。
 ゆえに、当時の東鯷人国王は徐福の子孫であったと考えられる。東鯷人国王は再度人狩りのために呉軍は遠征するにちがいないと思い込み、2万の兵で80万の魏の大軍を撃破した無敵艦隊の呉の遠征軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えた東鯷人国王は独立国であることをあきらめて、倭国に属することを決意して防衛を要請(ようせい)した。
 ゆえに東鯷人国は滅び倭国に属する「日本」と名づけられた小国が誕生した。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の2回~15回で証明したように、A図に示す範囲の東国が旧東鯷人国であった小国・日本であった。
N601
(C) 2016 OHKAWA

 
 A図の小国・日本の防衛を、『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話の冒頭記事が示すように卑弥呼王朝は伊耶那美命と伊耶那岐命に命令した。
 だからかぐや姫のモデルが伊耶那美命であったならば、かぐや姫の養い親の竹取の翁と媼のモデルは、蓬莱の神仙=老子に不老長寿の力を与えた薬を探すことができなくて東鯷人国に定住した徐福一行の子孫の徐氏であったにちがいない。

◆『竹取物語』は〔かぐや姫の生い立ち〕〔五人の貴公子たちの求婚〕〔石つくりの皇子(みこ)と仏の御石(みいし)の鉢〕〔くらもちの皇子と蓬莱の玉の枝〕〔右大臣のあべのみむらじと火鼠(ひねずみ)の皮衣(かわごろも)〕〔大納言(だいなごん)大伴のみゆきと龍の頚(くび)の玉〕〔中納言(ちゅうなごん)いそのかみのまろたりと燕(つばくらめ)の子安貝(こやすがい)〕〔御門(みかど)の求婚〕〔かぐや姫の昇天〕〔ふじの山〕とに分かられる話で構成される。
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・32」で証明したように――かぐや姫が求婚者に結婚の条件とした与えた難題の〔仏の御石の鉢〕は古典が伝える〔釈迦(しゃか)が持っていた鉢〕ではなく、〔蓬莱の玉の枝〕も古典が伝える中国の渤海(ぼっかい)の東にある五山の一つの〔蓬莱山に生える木の枝〕ではなく、両者とも【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。同様に〔火鼠の皮衣〕も〔龍の頚の玉〕という難題も【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。5番目の貴公子の〔中納言いそのかみのまろたり〕に与えた難題の〔燕の子安貝〕の〔子安貝〕は安産のお守りとなった美しい貝であるゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわしたことになる。
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・32」で証明したように――1番目の貴公子の〔石つくりの皇子の話〕は〔蘇我大臣家の馬子(うまこ)・蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)の3代の横暴(おうぼう)な権力〕を風刺するものであった。2番目の〔くらもちの皇子の話〕は〔皇太子・中大兄(なかのえの)皇子と藤原鎌足(かまたり)王朝の権力〕を酷評(こくひょう)し、3番目の〔右大臣のあべのみむらじの話〕は〔天武天皇王朝〕を辛辣(しんらつ)に風刺する物語であった。4番目の〔大納言の大伴のみゆきの話〕は〔持統、文武、元明、元正、聖武の5代の王朝の権力〕を痛烈(つうれつ)に風刺するものであった。

4番目の貴公子〔大納言の大伴のみゆきと燕の子安貝の話〕の末部は、737年に九州からひろがって都に達した天然痘(てんねんとう)で聖武(しょうむ)天皇の御代(みよ)に藤原4兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が没した物語となる。

◆次の5番目の貴公子の〔いそのかみのまろたり〕は藤原四兄弟の父「藤原不比等(ふひと)」を憎悪するものとなる。だから〔いそのかみのまろたり〕という名は、不比等とともに元明(げんめい)朝をささえた「石上麻呂(いそのかみのまろ)」に不比等の父の名「鎌足(かまたり)」の[(たり)]をつけ足して〔いそのかみのまろたり〕というあだ名にしたことになる。
 藤原不比等の娘の宮子は文武天皇の夫人となり、宮子が生んだ聖武天皇の皇后は不比等の娘の光明子(こうみょうし)であった。だから、〔安産のお守りである子安貝〕で〔娘を道具にして権力を増大(ぞうだい)させた藤原不比等〕を風刺するものであったことになる。

 『続日本紀(しょくにほんぎ)』元明天皇の養老2(709)926日の記事は「藤原房前(ふささき)を東海・東山の二道に遣(つか)わして、関(せき)と柵(さく)を検察(けんさつ)するとともに、人民のならわしを視察(しさつ)させた」と書く。
 ゆえに不比等の次男の房前は東海道の富士山北麓の甲斐(かい/現在の山梨県)を視察して、東鯷人国の歴史と日本国誕生史が詳細に記載されていたと伝えられる『徐福文献』を廃棄(はいき)して偽書(ぎしょ)の『宮下文書(みやしたもんじょ)』の作成を指揮したと思われる。この養老2(709)年は、石上麻呂は左大臣に、藤原不比等が右大臣に就任して2年目であった。房前は『徐福文献』のほとんどの記事を改竄(かいざん)し、偽書の『宮下文書』を残した。この『宮下文書』には「天智十年(671)、中臣藤原物部麿が作り正し宇津須(写す)」という記事がある。房前が甲斐を視察したのは養老2(709)年であるから「天智十年(671)」であるはずがなく、「作り正し宇津須」はまさに「改竄する」と意味した。「中臣藤原物部麿」という記事は「中臣藤原不比等の命令で房前が改竄した」とあらわしていることになる。なお徐福一行が駿河国(A図参照)の浮島原(うきしまはら)に到着したのは中国の古文献だと始皇帝が42歳であった「紀元前217年」であるが、『宮下文書』は「孝霊(こうれい)天皇七四年」であったとまったく出鱈目(でたらめ)な記事を書く。
 ゆえに、『徐福文献』が廃棄されたのは石上麻呂が左大臣・藤原不比等が右大臣であった年(養老二年)であったから両人の名を利用して、不比等のあだ名を〔いそのかみのまろたり〕とした。また、この年に偽書『宮下文書』作成したのは「中臣藤原物部麿」と名乗る藤原房前であったので、『竹取物語』は〔いそのかみの□□たり〕の二つの□□の部分に〔麿(まろ)〕を加えて、不比等のあだ名を〔いそのかみのまろたり〕としたのである。

 『古事記』序の末部に記載されているように――和銅4(711)918日、元明天皇は舎人皇子が率いる伊耶那美崇拝派に挑戦状(ちょうせんじょう)をつきつけた。この挑戦状は「歴史書を完成せよ」という詔令(みことのり)であった。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「稍(やや)夏音(かおん)を習う」と中国王朝に伝えた――という記事がある。この「稍夏音を習う」という語句は「天照大御神が精通していた夏音文字を少しだけ復興して、天照大御神を絶賛する偽書を作成せよと朝廷は欲求した」と意味した。今から約4050年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、わが国に銀河の各部の形状が字源・字形・字義とする原初漢字の夏音文字が中国から伝来し習得されていた。『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字が多数記載されて現存する。編纂スタッフは上巻に記載した多数の夏音文字の字源・字形・字義となる銀河各部の形状を観察すれば、朝廷が後世に伝えることを厳重に禁止する日本国誕生史はじめ神代史の真相が解明できるようにした。
 皇祖・天照大御神は多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋める残虐な徇葬(じゅんそう)を決行した。この徇葬の歴史は『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話に記載され、この説話では「天照大御神」を「伊耶那美命」と表記される。この表記法は老子の教えを説く『老子』に記載される〔反実仮装(はんじつかそう)〕すなわち〔偽りの記事で真実を伝える方法〕を用いるものであった。
 『古事記』上巻は上記した(1)多数の夏音文字と(2)〔反実仮装〕という二つの計略で、伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた日本国誕生史の真相を後世に伝えた。
 元明帝が「歴史書を作成せよ」と詔(みことのり)した711918日における歴史局の総裁と太政(だじょう)大臣を兼務(けんむ)する天皇に次ぐ高位の知太政官事(ちだじょうかんじ)は、伊耶那美命を崇拝する舎人皇子の異母兄の穂積(ほづみ)親王であった。
 『万葉集』3816番には「右の一首は、穂積親王が宴会の日、酒盛りがたけなわになった時に、よくこの歌を口ずさみ、いつも座興(ざきょう)とされていたといわれる」という添え書きが付く。この和歌は「家にありし 櫃(ひつ)に鍵(かぎ)さし 蔵(おさ)めてし 恋の奴(やっこ)が つかみかかりて」と詠み、「浮気をされまいと家に閉じ込めていた妻を不比等の四男の麻呂(まろ)が色仕掛けで誑(たら)しこみ、この恋の馬鹿力によって『古事記』上巻に仕掛けた計略のすべてを漏らしてしまった」と表現するものとなる。
 穂積親王の妻は大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)であった。穂積親王の没後、坂上郎女は藤原麻呂の妻となった。坂上郎女は恋に溺れ、『古事記』上巻に仕掛けた二つの計略を穂積親王から聞き出して麻呂に語り、不比等から元明帝に報告されていた。『古事記』は翌和銅5(712)年1月28日に元明帝に献上された。元明帝は即座に献呈拒否して、『古事記』の写本を厳重に禁止して抹殺に着手した。だから、昨年の元明帝の「歴史書を完成せよ」という詔(みことのり)は、『古事記』の献呈を即座に却下(きゃっか)して抹殺(まっさつ)するための罠(わな)であったのである。
 ゆえに、不比等をあらわす〔いそのかみのまろたり〕の〔まろ〕は(1)「石上麻呂」の「麻呂」、(2)『宮下文書』の改竄者名「中臣藤原物部麿」の「麿」、(3)不比等の四男の「麻呂」をあらわすものであった。

 『古事記』中巻の開化(かいか)天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。この天皇は丹波(たんば)の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の竹野比売と結婚した。また継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)とも結婚し、彼女の子が崇神(すじん)天皇であった」と伝える。開化天皇が住んだ「伊耶河宮」と「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字は共に「伊耶」であるゆえ、若き日の開化天皇は人民に“伊耶那岐命”、正妃の竹野比売は人民に「伊耶那美命」と愛称された。崇神天皇の生母の第二后の伊迦賀色許売命のあだ名が「天照大御神」であった。伊迦賀色許売命は伊耶那岐命の父の孝元(こうげん)天皇とも結婚して、崇神天皇を生んだ。だから、伊迦賀色許売命は伊耶那岐命の継母であったことになる。開化天皇は崇神天皇の養父であり、二人は異母の兄弟であった。『古事記』上巻に登場する「大和朝廷の基礎を築いた天照大御神」は「伊迦賀色許売命・崇神天皇母子」であった。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――伊耶那美命が没後に倭女王となった伊耶那美命すなわち天照大御神=伊迦賀色許売命は、多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋める八雷神(やぐさのいかづちがみ)にするために残虐な徇葬を決行した。この徇葬を生前の伊耶那美命は最も嫌っていたので、伊耶那岐命はクーデターを決意して天照大御神を倭女王から失脚(しっきゃく)させた――と記述する。このクーデターを怨(うら)む伊迦賀色許売命・崇神天皇母子は、開化天皇=伊耶那岐命から天下を譲られた恩を忘れて開化天皇の陵墓を作らなかった。この証拠に、開化天皇陵(前方後円墳)は関西本線の奈良駅から約500m東北(奈良市油坂町)に所在するが、墳丘規模(ふんきゅうきぼ)から5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推定されている。ゆえに、開化天皇は3世紀後半の天照大御神・崇神天皇朝が築いた陵墓ではない。
 上記した開化天皇が居住した宮殿の伊耶河宮は奈良駅から約500m東方に所在したと考えられている。奈良駅から約1,250m東北東に、不比等が建てた藤原氏の氏寺(うじてら)の興福寺(こうふくじ)がある。寺伝によると、不比等が興福寺を建てたのは『古事記』が元明天皇に献上された2年前の和銅3(710)年であった言う。この和銅3年に、春日大社が創始(そうし)された。奈良駅から約2,500m東方は御蓋山(みかさやま)の麓の深い木立の中に、春日大社は鎮座(ちんざ)する。不比等は藤原氏の氏神とされる常陸国(ひたちのくに)の武甕槌命(たけみかづちのみこと)を勧請(かんじょう)して、平城京鎮護のため春日山麓に祭り、春日の神と称したのが春日大社の創始(そうし)であったと伝わる。
 『古事記』が伊耶那岐命=開化天皇紀が居住した宮殿を「春日の伊耶河宮」と書くように、不比等は「伊耶那岐命」を象徴した「春日」という地名を横取りして興福寺を建て、春日大社を創始させた。当時、伊耶那美命崇拝派の頭領の舎人皇子は奈良県宇陀(うだ)郡榛原(はいばら)町の高屋(たかや/現在の高星)に居住していた。興福寺と春日大社は東海道・東山道の武士たちの棟梁(とうりょう)である強力の武将の舎人皇子が兵を挙げた時に、平城京の中心地の平城宮(へいじょうきゅう)を守る軍事上の要地であったのである。

 『竹取物語』の5番目の貴公子の〔中納言いそのかみのまろたりの話〕は「燕が子を産むときに子安貝ができる」ということで、そのうちの一人が『大炊寮(おおいづかさ)の飯を炊く屋形()の棟(むね)につく穴々に、燕が巣を作っております』と申した」と説明される。
 舎人皇子の第7皇子は大炊王(おおいのおおきみ)であり後の淳仁(じゅんにん)天皇である。
 だから燕の巣がある〔大炊寮〕は〔大炊王〕をあらわし、舎人皇子が兵を挙げる時に備えた軍事施設の〔興福寺〕を〔大炊寮〕とあらわしたことになる。興福寺から西北西約3kmには元明天皇が暮らす平城宮があり、高低差が約25m高い地に興福寺が建つ。だから平城宮を見下ろすことができた〔興福寺〕は〔高屋に住んだ舎人皇子〕、〔舎人皇子の息子の大炊王〕、〔子安貝ができる燕の巣がある大炊寮の館(やかた)の棟〕をあらわした。
 家来(けらい)たちが吊り上げた荒籠(あらこ/目のあらいかご)に乗って〔中納言のいそのかみのまろたり(不比等)〕は、大炊寮の館の棟の燕の巣に手を入れてさぐると、平たい物にさわった。「やったぞ。わしはつかんだ。早くおろしてくれ」と言うので、家来たちは急いでおろそうとしたとき、綱の操作(そうさ)を誤ったために、中納言は大炊寮の竈(かまど)の上にのけざまに落下した。家来たちは竈の上で白い目をむいて横たわる中納言に水を飲ませると、やっと息をふきかえしたので、下におろし「いかがですか」と聞くと、虫の息で「意識は少しあるようになったが、腰は動かない。だが子安貝は握っている。すぐに紙燭(しそく/松の木に先に油を塗って燃やす照明具)を持ってこい。この貝の顔を早く見たい」と言い、御髪(みぐし)をもたげて、手をひろげると、何と燕の糞(くそ)を握っていた。「ああ、貝がない」と中納言が口走ったので、思ったように事が進まないことを「効(かい/)なし」と言うようになった。
 腰を折った病(やまい)とこの失敗を世間の人々が聞いて笑うことを気に病んで床に伏せて重い病(やまい)になった中納言に、かぐや姫は歌を贈った。中納言は「貝はなかったですけれど、お手紙をいただいて骨折ったかいはこの通りありましたのに、思い悩んで死んでゆく命を匙(かい/「さじ」のこと)で救ってくださることはできませんでしたよ」と詠んで、絶命してしまった。藤原不比等は【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺に最も尽力するものであったゆえ、『竹取物語』は不比等を侮蔑(ぶべつ)し嫌悪感(けんおかん)をあからさまにして四人の貴公子と違ってただ一人絶命することにしたのである。

◆次は〔御門(みかど)の求婚の話〕となる。
 かぐや姫に求婚する〔御門〕のモデルは〔聖武天皇〕である。
 帝(みかど)につかえる〔内侍(ないじ)のなかとみのふさこ〕は聖武天皇につかえた〔内臣(うちのおみ)の藤原房前〕をあらわす。
 次は、かぐや姫が月を見て嘆く場面となる。かぐや姫は月の都に帰らなければならないことを竹取の翁に告げた。このかぐや姫の昇天について聞いた帝は、竹取の翁のもとに使者を派遣した。『竹取物語』は「使者に向かって、翁は泣くばかりで、姫が月の都に帰ることがはっきりしてから、翁はヒゲも白くなり、腰もかがまり、目もただれてしまった。翁は齢(よわい)五十歳となったが、もの思いのために、にわかに老いが増した感じである」と記述する。しかし貴公子がかぐや姫に求婚した数年前に翁は「爺(じい)は、もう七十歳を過ぎてしまった。いつまでも命があるかわからない……」と述べている。この矛盾する年齢の記述は誤記によるものではなく、また翁が自分の年齢を二十歳もサバよんだものでもない。
 『竹取物語』は時空(じくう)を越える方法すなわち時間(歴史)の順序とおりに空間(場面)を語らず、時間と空間を自由自在にあやつって巧妙に物語を構成する。
 次の〔かぐや姫の昇天の話〕における「八月十五日の夜中の子()の時(夜呉の十二時ころ)に、とつぜん、満月の光を十倍にしたような明るさになって、大空から天人たちが雲に乗っておりてきて、地上五尺ばかりの高さで立ち並んだ」という場面は、752(天平勝宝4)49日の金色(こんじき)まばゆく鍍金(メッキ)された16m余の東大寺の大仏の開眼供養会(かいがんくようえ)を風刺していることになる。
 かぐや姫の昇天に待ったをかける防衛軍の総大将に任命された〔勅使(ちゃくし)少将の高野のおほくに〕と、後に昇天する直前にかぐや姫が書いた文(ふみ)と不死の薬が入った壺を帝に手渡した〔頭中将(とうのちゅうじょう)の高野のおほくに〕のモデルは、舎人皇子の養父の〔高屋に住む大伴連(むらじ)大国〕であったことになる。(大伴連大国については、わがブログ「日本国誕生史の復興・25」を参照していただきたい)

◆舎人皇子の養父の大伴連大国をモデルとする〔頭中将の高野のおほくに〕の後に〔勅使つきのいはかさ〕が登場する。この最後の〔ふじの山の話〕に登場する〔勅使つきのいはかさ〕は〔舎人皇子〕をあらわす。
 〔つきのいはかさ〕の〔いはかさ〕を漢字で表記すると「岩笠」となる。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の末部において、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を後継(こうけい)することを示して伊耶那岐命が「吾一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」と宣誓した千引石(ちびきのいわ)は、B図左下の和歌山県新宮市に所在する神倉(かんのくら)の御神体の「ごとびき岩」である。
N602
(C) 2016 OHKAWA

 
 養父の大伴連大国と舎人皇子が居住した高屋と千引石は同経度(東経13559)である。千引石の先端は空に突き立つゆえ、3世紀においては、その巨岩の前は何人かの人が立てることができる空間となる(現在は神倉神社の社殿が建つ)。このため、岩はその空間に立つ人の笠のごとく覆(おお)う。だから、千引石と同経度の高屋に住んだ〔舎人皇子〕のあだ名を『竹取物語』は〔岩笠〕と名づけたことになる。
 原文の「つきのいはかさ」を「調(つきの)岩笠」と注釈して表記する書物がある。
 壬申(じんしん)の乱は養父の大伴連大国が皇子の実父の大海人(おおあま)皇子(天武天皇)の苦境を助けたために、吉野方は近江方に大勝利した。この壬申の乱において、大海人皇子につかえる舎人(とねり/護衛する兵)の一員として、調首淡海(つきのおびとあわみ)が従っていた。この調首淡海は、舎人皇子が『日本紀(『日本書紀』)』の編纂を指揮する時に、壬申の乱の資料として日記を提出した。この壬申の乱の功績の褒美(ほうび)に、大海人皇子は生まれたばかりの舎人皇子を大伴連大国に与えた。ゆえに〔つき(調)のいはかさ〕は〔舎人皇子〕をあらわすことになる。
 舎人皇子は『万葉集』117番で「ますらをや 片恋せむと 嘆けども 鬼のますらを なほ恋ひにけり」と詠む。皇子が片恋した〔伊耶那美命〕をあらわす〔かぐや姫〕は〔月の都〕に帰ったので、〔舎人皇子〕のあだ名は〔月の岩笠〕であったことになる。

◆『竹取物語』は、下記のごとく場面で終わる。
 ――帝(みかど)はかぐや姫からいただいた不死の薬を入れる壺と「逢()ふことも 涙にうかぶ 我身(わがみ)には 死なぬ薬も 何にはせむ」つまり「逢うことも二度とない、かぐや姫がいない悲しくてあふれる涙に浮かぶ憂き世のわが身には、不死の薬はまったく必要ではなくなりました」と和歌を書く文(ふみ/手紙)を添えて、御使(おつかい)に手渡した。この御使には月の岩笠(舎人皇子)という人を任命して、駿河の国にあるという山の頂(いただき)に持ってゆくようにと仰(おお)せられた。そして、嶺(みね)でしなければならない方法をお教えになられた。すなわち、帝は文(手紙)と不死の薬を入れる壺をならべて、火をつけて燃やせばならないと指示なされた。その御沙汰(ごさた)をうけたまって、月の岩笠は士(つわども)たちを大勢連れて山に登ったことからして、その山を「ふじ(富士)の山」と名づけた。その焼いた煙が、いまでも雲の中へ立ち上っていると言い伝えられている。
 上記の『竹取物語』最後の場面に登場する〔不死の薬〕とは何かといえば〔親が子に強く抱く愛〕をあらわしていることになる。 
 山の上憶良が作った802番の和歌の序は「釈迦が『愛(うつく)しびは子に過ぎたりといふことなし(子を愛する心に優(まさ)るものはない)』と説いた」と指摘する。憶良は伊耶那美命が説いた【日本建国の〔愛〕の理念】を803番の和歌で「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優れる宝 子にしかめやも」と詠んだ。だから、〔不死の薬〕は〔(1)伊耶那美命が唱えた日本建国理念の〔愛〕と、(2)山上憶良が作った『万葉集』802番の和歌の序に書いた釈迦(しゃか)が説いた〔愛〕、この二つの〔愛〕となる。
 そうすると〔不死の薬を入れる壺〕は帝の聖武天皇が東大寺の大仏を造って願った〔釈迦から起源する仏教の興隆〕をあらわすことになる。
 そして帝が詠んだ和歌を手紙とする〔文(ふみ)〕は、〔『古事記』の焚書(ふんしょ)すなわち『古事記』の抹殺と、宮中でおこなわれた日本書紀』の講義〕であったことになる。
 元明天皇以後、朝廷は『古事記』の抹殺に躍起になった。そして知太政官事の舎人皇子が作成指揮した『日本書紀(『日本紀』)』を元正天皇に献上した時、皇子は『万葉集』4294番となる「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰(たれ)」と詠む和歌を作って「山人たちつまり編纂スタッフ全員が『日本書紀』は【日本建国の〔愛〕の理念】が記述されていない失敗作であると落胆(らくたん)した」と証言する。また、帝の文の和歌は「涙で浮かぶ憂き世にはかぐや姫すなわち伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】が存在しない」と表現して、宮中でおこなわれた『日本書紀』の講書(こうしょ)は【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺するための研究会であったと表現する。だから、〔帝の文〕は〔『古事記』を抹殺する政策と『日本書紀』の講書〕であったことになる。
 ゆえに、『日本書紀』の講書が宮中で頻繁(ひんぱん)におこなわれていた時代に、朝廷に逆らう人々が創作した複数の『竹取物語』が一つにまとめられて現『竹取物語』が成立した。
 〔月の岩笠〕の〔舎人皇子〕は【日本建国の〔愛〕の理念】が後世に伝わることを一生の願望とした。この月の岩笠が不死の薬を入れる壺と帝の文を並べて燃やす使者に任命されたということは――仏教を興隆させて【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺させる政策と『古事記』をこの世から消滅させて『日本書紀』の講書で【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺する、この二つの政策は共に野蛮で最も愚劣(ぐれつ)な政策であるゆえ、月の岩笠の舎人皇子が燃やして消滅させるお役目を仰せつかったことになる。

◆『竹取物語』は「月の岩笠が士(つわども)多数連れて山に登ったことから、その山を〔ふじ(富士)の山〕と名づけた。その煙は、いまだ雲の中へ立ち上っていると言い伝えられている」という文で終わる。
 この最後の文は「朝廷が抹殺せんとした【日本建国の〔愛〕の理念】は多数の武士たちの命のみなもととなって不滅のものとなり、ふじの山の雲の中へ立ち上る煙になったと言い伝えられている」と表現していることになる。このように、『竹取物語』の結末は「人間にとって永遠の願望である〔不死〕よりも、また誰もが手に入れることを夢見る〔強大な権力〕よりも、日本人にとっては舎人皇子が後世に伝わることを願望した【日本建国の〔愛〕の理念】のほうが優っている」と力説して終わっている。
 それゆえ、わがブログ「日本国誕生史の復興」の21回~24回で証明したようにーー3世紀後半に建比良鳥命(たけひらとりのみこと)とその一族によってC図に示す「卑弥呼の地上絵」が作られ、1010年にC図上部に示す細江町に住む建比良鳥命一族の子孫が武家の井伊家を創設して守ることにしたので、『竹取物語』の最後の文のごとく現在まで日本地図上に保存されて残ることになった。
N603
(C) 2016 OHKAWA

 
 また『竹取物語』の終わりの文のごとく――織田信長と徳川家康とそして井伊家が願った【日本建国の〔愛〕の理念】の復興は、D図に示す3千万坪の大鳥の地上絵に設計されて1602年に着工され20年後の1622年に完成した。この武士たちの熱烈な願いを伝えるD図の大鳥の地上絵は彦根市の行政区域を表示する地図の形となって現在の日本地図上に残る。
N604
(C) 2016 OHKAWA
 
 また天才芸術家にして科学の才能にもめぐまれた小堀遠州は、武家政権の徳川幕府に命令されて1623年から病床に伏す1645年までの23年間、E図に示す【日本建国の〔愛〕の理念】を設計する桂離宮(かつらりきゅう)の庭園の作成に情熱に傾けた。
N611
(C) 2016 OHKAWA

 さらに、皇室は【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺をあきらめて、1738年に皇室最大の神事である大嘗会(だいじょうえ)における天皇即位式に用いる王冠の菅蓋(かんがい)の意匠を、F図のごとくの上下の飾りで【日本建国の〔愛〕の理念】と定めた。今上陛下も、この天皇の王冠を頭上高々とかかげて天皇に即位なされた。
N612

 それだけでは終わらなかった。つい最近の2008年、静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳が発見された。わがブログ「日本国誕生史の復興」の2回~19回までで証明したように、高尾山古墳とその周辺の3世紀前半の多数の遺跡や出土物によって富士山・足高山(愛鷹山)・大瀬(おせ)岬・淡島は『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に記述された日本国誕生史の舞台であったことが科学的に証明できる。
 したがっていまや『竹取物語』の終わりの文の「その煙、いまだ雲の中へ立ち上るぞ、言ひ伝へたる」のごとき状況となった。つまり、いまや高尾山遺跡はじめ、C図の卑弥呼の地上絵、D図の彦根市の地図の形、E図の桂離宮の平面図、F図の天皇即位式の王冠の意匠によって【日本建国の〔愛〕の理念】が事実と証明できるようになった。そのためには従来の学者たちのごとく自由自在に〔誤読=文献批判〕を加える方法で立論するのを止めて、今後わたくしたちは『竹取物語』末部の士(つわども)の志(こころざし)を受け継いで『古事記』上巻を忠実に読解すれば【日本建国の〔愛〕の理念】は明確に事実となる。したがって、この事実を従来の学界の権威に気がねせずに訴えれば良いだけとなった。
 

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