« 日本国誕生史の復興・33 | トップページ | 日本国誕生史の復興・35 »

2016年11月16日 (水)

日本国誕生史の復興・34

 漢字習得の定説は、誤読の空論である

◆今回のブログから、「日本国誕生史の復興」はいよいよ後半部となる。
 そこで、これまでの前半部の33回におよぶ「日本国誕生史の復興」を今回とその後2回か3回で、一旦(いったん)まとめることにした。前回まで、このブログは新井白石(16571725)以後の学者たちが仰山(ぎょうさん)な“文献批判”を使って、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記述された日本国誕生史の真実を葬(ほうむ)ってきた事実を証明してきた。この学者たちの伝家(でんか)の宝刀(ほうとう)である“文献批判”の実体は〔誤読〕である。 だから、彼らの〔仰山な“文献批判”から生まれたご意見〕、いわゆる“学説”や“学者たちのご意見”はちょっときつい言葉で言わせていただくと〔誤読の空論〕と言うことになる。

◆パソコンで「漢字の字音」と入力して調べると「中国では漢字の発音は今音(現代の音)と古音(古代の音)に分類されています。古音はさらに上古音(西周初期~後漢後期の発音)前期中古音(南北朝後期~隋~唐初期の発音で隋唐音とも呼ばれています)、後期中古音(唐中期~北宗初期の発音)、近古音(北宗中期~清中期の発音で近世音とも呼ばれています)に分類されています。」と出力(指摘)される。
 上記の文で注目すべきは、〔上古音〕と〔前期中古音〕である。
 A図における紀元前1046年から始まる「周」が、上記の〔上古音〕の始まりとなる「西周初期」となる。(というのも周代は、紀元前1050年~同771年までの西周時代と、紀元前770年~同403年までの東周時代に分けられるからである)
621
(C) 2016 OHKAWA
 

 B図に、上記の南北朝後期から始まる〔前期中古音〕の時代を示した。
622_2

(C) 2016 OHKAWA
 
 学者たちは自信をもって「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と断定する。この定説にしたがうと、わが国においていま残っている最古の漢字音はB図に示した南北朝時代(420年~589)における〔前期中古音〕であったことになる。
 しかし、この定説は明確に〔誤読の空論〕であることがわかる。
 というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士は著書『字統』(平凡社)の〔わが国の漢字音〕と題する9頁の後ろから3行目~10頁の3行目までは下記のごとく指摘するからである。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻(おんいん)学がとり入れられ、殊(こと)にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残される字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記したように、現在、中国に残っている最古の漢字音は紀元前11世紀の西周時代初期の上古音である。白川静著『字統』は――いま中国に残る最古の上古音(西周初期の漢字音)よりも古い漢字音が、カールグレンが開発した音韻学によって現在までわが国の国語における漢字音として残っていることが証明された――と指摘する。
 定説の場合、わが国に最初に習得した漢字音は中国の上古音の西周初頭より約1500年後となる5世紀ないし6世紀の南北朝中期~南北朝後期の前期中古音であったことになる。だから、定説は白川静著『字統』の科学的な音韻学の成果に反する。
 A図に示すように、西周時代より前が殷代(いんだい)、さらに前が夏代(かだい)です。

わが国には中国の上古音よりも約1000年も古い紀元前21世紀の夏代初頭に、中国から伝来した夏音(かおん)文字が『魏志』倭人伝と『古事記』に記載されている。白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する漢字音は、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に残って現存する夏音文字の字音(A図上部に示す夏音)ということになる。
 したがって、定説だとわが国の最古の字音は中国の上古音よりも新しい南北朝後期の前期中古音ということになり、定説は明らかに空論・空想である。
 このように、漢字習得の定説はいとも簡単にあっけなく絵空事であると証明される。

◆千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館)30頁の〔卑弥呼の発音について〕という注は――卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば「ピミカ」になる――と指摘する。
 つまり「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は、中国漢字の上古音「ピミカ」より古い夏音であった。
 このブログ「日本国誕生史の復興」の2124回にて、〔『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命神話の末部に記載される建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が作った1千万坪の大鳥の地上絵〕の秘密を解明した。このちょうど1千万坪の大鳥の地上絵を、わたくしは「卑弥呼の地上絵」と呼ぶことにした。
 C図に、卑弥呼の地上絵を示した。卑弥呼の地上絵は、現在、静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形となって残った。
623
(C) 2016 OHKAWA

 わたくしは――卑弥呼の地上絵が、D図に示す卑弥呼の地上絵内と浜松市都田(みやこだ)地区の前原Ⅷ遺跡を加えた8ヵ所の遺跡から出土した10口の「三遠(さんえん)式銅鐸」を用いて作成された――こと証明した。
631

(C) 2016 OHKAWA


 わがブログ「日本国誕生史の復興」の21回で――「三遠式銅鐸」は「終末期銅鐸」と分類され、三遠式銅鐸は260年~290年に製作され使用されたとされる。だから、卑弥呼の地上絵は遠江(とおとうみ/静岡県西部)の豪族の建比良鳥命とその一族が260年~290年のおよそ30年の年月を費やして完成したことになる。
 山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社)29頁は「『三国志』の成立は、晋(しん)の武帝の太康年間(280289)、陳寿(ちんじゅ)の著作郎(ちょさくろう)時代という以上には限定できない」と指摘する。つまり、陳寿が著作郎(歴史編纂官)であった280年~290年に正史の『三国志』は成立したことになる。『魏志』倭人伝は『三国志』魏書東夷(とうい)伝の末部の倭人伝であるゆえ、280年~289年に著作されたことになる。ということは、260年~289年に制作された卑弥呼の地上絵と『魏志』倭人伝は同時代(3世紀後半)に作成されたことになる。
 E図に示すように、卑弥呼の地上絵の大鳥の顔の正面は「夏至の日の出の方向」を向いて、A図上部に示した「夏音文字がわが国に存在した」と伝えている。
632
(C) 2016 OHKAWA
 

「銀河」の別称は「銀漢」である。だから「銀漢から作られた文字」を略して中国文字は「漢字」と名づけられた。これゆえ「天には多数の文字が存在する」ことになったので、この秘密にもとづき「天体・銀河」は「天文」と称されることになった。ゆえに「天皇」は「天にある銀河各部の形状が字源・字形・字義となる学芸に精通した大王」とあらわすものであったことになる。
 
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の10回で解説し証明したように、夏音文字も楷書はじめ甲骨文字・金文・篆文(てんぶん)などすべての漢字の字源・字形・字義は下に示す銀河から成立した。この漢字が作られた銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
Ginga


   文字作成銀河の各部には名称が存在しない。これゆえ、わたくしは下図のごとく各部の名称を定めた。
Photo
(C) 2016 OHKAWA
 
 夏音文字の伝来・習得について、『古事記』序の冒頭は「臣安万侶(しんやすまろ)(もう)す。それ混元(こんげん)すでに凝()りて、気象未だ効(あらわ)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしん)の首(はじめ)を作()す」と記述する。
 上記の夏音文字の伝来・習得文を現代語に訳すると「臣下の安万侶は陛下に申しあげます。およそ太古において天頂(てんちょう)にめぐってきた文字作成銀河の部位の形状は混沌(こんとん)として凝固しないありさまでありましたので、前期縄文(今から6000年前~5000年前まで)より以前の天頂緯度線が貫通する銀河部位が示す気の象(かたち)は表現することができませんでした。ゆえに、この時代の天頂にめぐってきた銀河部位には名(名をあらわす文字)も無く、この銀河部位を造化(すなわち芸術)で表現する技(わざ)も存在しませんでした。しかし、前期縄文初頭より以後になりますと[][]に分かれるイメージとなる銀河部位が天頂にめぐってきましたので、(1)前期縄文・(2)中期縄文・(3)後期縄文初頭の天頂にめぐってきた造化の参神(三つの時代の芸術神)を崇拝し、文字作成銀河の各部の形状のイメージにもとづいて土器・土偶を造った前期縄文から後期縄文初頭までのおよそ2000年におよぶ伝統を有した芸術家たちによって、後期縄文の首(はじめ/初頭)に中国から伝来した夏音文字は習得されました」となる。
 わが国の土器・土偶作成における造化(芸術)革命は、前期縄文に関東地方から起きた。中期縄文になると、世界に類をみない豊かな装飾性と高度の芸術性が表現される土器・土偶が山梨県や長野県の地方の高地で造られた。これら土器・土偶は、文字作成銀河の各部のイメージを造形するものであった。夏音文字の字源・字形・字義は文字作成銀河の各部の形状にもとづいて成立するものであったゆえ、夏音文字は夏代初頭・後期縄文時代に芸術家たちによって習得された。
 F図は、〔歳差(さいさ)〕という天文現象にもとづいて再現した(1)前期縄文初頭、(2)中期縄文初頭、(3)後期縄文初頭の北緯36度の天頂緯度線図である。
633
(C) 2016 OHKAWA

 前期縄文~後期縄文初頭までにおいては、最も芸術性豊かな土器・土偶は山梨県・長野県の高地や新潟県信濃川流域で造られた。この地域における中央部の緯度は北緯36度である。ゆえに、F図は北緯36度の天頂緯度線であらわした。
 F図の(1)(2)(3)の天頂緯度線は、時代が新しくなるごとに南へ南へと下った。したがって、(1)の天頂緯度線より北側は前期縄文初頭より以前の早期縄文、草創期縄文の天頂緯度線が貫通したことになる。ゆえに、(1)の天頂緯度線より北側のわたくしが「最北の輪の銀河」という名をつけた、その〔混沌として凝固せず、気の象が未だあらわれない、何に類似するのかイメージが湧()かないゆえ土器や土偶でその形状が表現されなかった銀河の形状〕を、『古事記』序は「それ混元既に凝りて、気象未だ効(あらわ)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰か其の形を知らむ」」と表現した。また、(1)の天頂緯度線が貫通する、「三つ輪の銀河」を「天」、人の姿に酷似する「十字の銀河」は人が住む[]に見立てて、『古事記』序は「しかれども乾坤(天地)初めて分かれて」と表現したことになる。
 『古事記』上巻の〔創世の神々〕において、序の「参神造化」は「(1)天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)(2)高御産巣日神(たかみむすひのかみ)(3)神産巣日神(かむむすひのかみ)であった」と書く。
 だからF図に示す(1)前期縄文初頭~中期縄文時代初頭の天頂緯度線は天之御中主神、(2)中期縄文初頭から後期縄文初頭の天頂緯度線は高御産巣日神、(3)夏代初頭=後期縄文初頭の天頂緯度線は神産巣日神をあらわした。
 (1)(2)(3)の天頂緯度線は、「三つ輪の銀河」を貫通する。
 (1)の前期縄文初頭の天頂緯度線は「三つ輪の銀河のほぼ中央」を貫通したので、名に「御中」の2字が配されて「天之御中主神」と称されることになった。(2)の天頂緯度線は「三つ輪の銀河」は「鳥が卵をを上から見た形」や「円形の輪」に観え、(3)の天頂緯度線よりも緯度がいので、その名は「高御産巣日神」となった。(3)の天頂緯度線も「鳥が卵を」や「輪の形」に観える「三つ輪の銀河」を貫通するので、その名は「神産巣日神」となったのである。

◆このように、太(おおの)安万侶は『古事記』序の冒頭で「夏音文字は今から約4050年前の中国の夏代初頭・わが国の後期縄文時代の初頭において中国から伝来し、文字作成銀河から土器・土偶を造った縄文の芸術家たちによって習得された」と伝えている。
 『古事記』序の末部で安万侶は「夏音文字と楷書を正しく変換できる辞理(じり)すなわち文字()と言葉()の原理があった」と語る。つまり「夏音文字の字源・字形・字義と楷書の字源・字形の原形・原義の辞理は文字作成銀河であった」と語っていることになる。
 だから、「辞理」の直後の記事は「楷書の日下 (にちげ)は夏音文字の玖沙訶(くさか)と同義、楷書の帯(たい)は夏音文字の多羅斯(たらし)と同義である」と解説する。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の10回と11回で詳細に解説したように――漢字はA図に示す今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官の倉頡(そうきつ)が漢字作成原理「鳥獣(ちょうじゅう)の足跡」(『易経』は「鳥獣の文」と記す)を発明して起源した。夏音文字も楷書も、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則(のっと)って作られた。だから、夏音文字と楷書の字源・字形・字義は文字作成銀河の各部の形状となった。
 夏音文字は倉頡が定めた〔3つの掟(おきて)〕を厳重に守る原初漢字であった。倉頡は自らが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、反体制側の人々が文字作成銀河の各部の形状から文字を作った学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。ゆえに、倉頡は下に
列記する〔3つの掟〕を破った者には天罰が下されて即刻に死刑に処せられると定めた。
■倉頡が定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部のから形状から文字が作られた事実を暴露した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字作成銀河の各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字をただちに消せない者または消し忘れた者
  
上記の(1)の掟によって、()漢字が文字作成銀河の各部の形状から作られた秘密と()倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」が『魏志』倭人伝に記載され、この二つの秘密は『古事記』序でも記述された――この重大な学芸の秘密を新井白石以後の学者たちは〔誤読〕して葬った。白石以前の各代の天皇と多数の先人たちは、()文字作成銀河から漢字が作られた秘密と()漢字作成原理「鳥獣の足跡」の学芸の秘密を知っていた。上記の(2)の倉頡の掟によって、現在も文字作成銀河の各部には名称が存在しない。上記の(3)の倉頡の掟によって、五帝時代の漢字・夏音文字・殷代(いんだい)前半期の漢字を記した資料は、中国において1点も発掘されていない。また、わが国においても夏音文字の文字資料は出土していない。
 しかし、約3300年前から出現した亀の甲羅に刻む甲骨(こうこつ)文字によって(3)の掟は破られた。ゆえに、甲骨文字以後に出現した楷書は書いた文字を消さなくてもよい文字であったため、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の随所に記載された多数の夏音文字は楷書で表記されて現存することになった。
 『古事記』上巻においては〔音〕という注が付く11音文字が夏音文字である。白石以後から現在までの学者たちは『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の夏音文字の字源・字形・字義をまったく解明しない。このため、彼らは両文献が証言する()夏音文字の伝来・習得はじめ()具体的に表示された倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の秘密も解明できず、さらに()両文献に記述された真実の歴史をまったく解明できない。彼らは伝家の宝刀である〔誤読〕に“文献批判”にという偽名(ぎめい)をつけ、この〔文献批判=誤読〕を駆使(くし)して、空論・空想・暴論を国民に押し付ける。
 編纂スタッフは『古事記』上巻に多数記載した夏音文字の字源・字形・字義を解明すると、真実の歴史を解明できる仕組み(構造)にした。だから、白石以後から現在の学者たちが“誤読大明神”と信仰する文献批判を多用する意見は空論となった。
4

(C) 2016 OHKAWA

 上記した倉頡が定めた(3)の掟によって、原初漢字の夏音文字は中国でもわが国でも書いた文字資料が出土しない、文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義とする文字であった。
 『魏志』倭人伝には「倭の占いに用いる辞()つまり言葉と文字は、令亀(れいき)の法のごとくである」という記事がある。倭の占いに用いた文字は「令亀」すなわち「紀元前1300年の殷代後半初頭に出現した亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字のごとく」であった。
 また『魏志』倭人伝は「魏の都・帯方郡・諸韓国の文書に用いる楷書と卑弥呼が文書に用いる文字すなわち夏音文字は差錯(ささく/相違)していたので、倭の伊都(いと)国の港では点検し、確認して誤りが生じないように正しく変換していた」とも記述する。伊都国の港では、夏音文字の字源・字形・字義と楷書の字源・字形の原形・原義が文字作成銀河各部の形状である――この文字と語(ことば)の原理すなわち辞理(じり)を知っていたので、卑弥呼が用いる夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書を正しく変換できたのである。
 前述したように、『魏志』倭人伝には倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」について語る記事がある。このブログでは具体的に解明しないが――()『魏志』倭人伝の34小国名によって文字作成銀河から漢字が作られた秘密と、()漢字作成原理「鳥獣の足跡」の秘密が解明・証明することができる。また、「又侏儒(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又裸()国・黒歯(こくし)国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋五千余里可(ばか)り。」という記事は漢字作成原理「鳥獣の足跡」の秘密を伝える。この記事の中にある「人の長三、四尺」という文は「小人(こびと)の丈(たけ)が三、四尺」と語っているのでなく、「漢字作成原理で重大な要素の[]の字源となる銀河の見かけの長さが、三尺(三度)から四尺(四度)である」と証言するものである。また、末部の「周旋」は「360度の円を描くようにめぐる」ではなく、「漢字作成原理で重大な[(出産する子)]が産道を巴(ともえ)状にめぐって、結局、90度の旋回となる」と意味するものであった。だから、『魏志』倭人伝は倭女王卑弥呼が統治した「倭国」の正式名は、[][]が加わる「倭人国」であると記述した。

◆中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』の日本伝には――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習う」すなわち「壬申の乱の後、稍(やや)少々夏音文字を復興することになった」と中国王朝に告げた――と記述する文がある。
 この10年後に完成した『古事記』の上巻には夏音文字が多数記載された。というのも朝廷は「夏音文字の学芸を稍少々復興して、天照大御神は夏音文字の学芸に精通して偉大であったと伝える偽書を作成せよ」と欲求した。この欲求を、『古事記』編纂スタッフはこれ幸いと喜んだ。というのも、朝廷の強大な権力も形を変えることができない・永久に形が変わらない銀河各部の形状が字源・字形・字義となる夏音文字を多数記載すれば、後世に真実の歴史を伝えることができたからである。だから編纂スタッフは朝廷の「稍々(やや)」という欲求に反して、『古事記』上巻に多数の夏音文字を記載して真実の歴史を伝えた。
 銀河各部の形状で夏音文字の字源・字形(銀河部の形状)・字義を解明すると、()淤能碁呂島(おのごろしま)説話に記述された伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念、()伊耶那美命は『魏志』倭人伝末部に記載された13歳で小国・日本の女王にして247年頃に倭女王に就任した壱与(いよ)であることが解明できる(わがブログ「日本国誕生史の復興」の10回・11回において、「伊耶那美命」は「壱与」であることを証明した)
 秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の、G図に示す万座遺跡と野中堂遺跡は夏代初頭に相当し、その両遺跡の各部には現在も夏音文字の学芸の痕跡(こんせき)が表示されて残っている。
634_2
(C) 2016 OHKAWA
 

 その証拠に、H図に示すように万座遺跡と野中堂遺跡の中心部を結ぶと夏至の日没方向を指さして、両遺跡は夏音文字の学芸遺跡であることを示す。
635
 
 前述したように、わが国にはいま中国に残っている最古の漢字音の上古音よりおよそ1000年も古い夏代初頭に習得された夏音文字の字音が『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載されて残った。しかし、学者たちは〔誤読〕を多用して断定した定説だと中国の上古音よりも約1500年も新しい56世紀の前期中古音がいまわが国に残っている最古の漢字音であると言い張る。この矛盾も甚だしい空論・暴論のために、日本国誕生史の真実と漢字は文字作成銀河から作られた重大な事実が全然(ぜんぜん)解明できないことになった。
 そして学者たちは、自分たちが断案を下した定説を無視して「卑弥呼」の3字を夏音で「ヒミコ」と読む。これゆえ、おそらく――文献の記事を忠実に読解するのは初歩的・基本的ルールであるからして、この真っ先に守るべき鉄則を守らない意見は出鱈目(でたらめ)であるのは当たり前だ! 簡単に騙(だま)される国民どもが悪いのだ“あかんべー”と言わんばかりに開きなおって、学者たちは嘯(うそぶ)いてわれらを軽蔑しているしか思えない。というのも、上記したようにわが国の漢字習得の定説は優秀な学者たちの頭脳を必要としないくらいにあっけなく誤読の空論であると証明できるからである。
1
(C) 2016 OHKAWA

|

« 日本国誕生史の復興・33 | トップページ | 日本国誕生史の復興・35 »

学問・資格」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

ヒエログリフ(聖刻文字)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 日本国誕生史の復興・33 | トップページ | 日本国誕生史の復興・35 »