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2016年11月24日 (木)

日本国誕生史の復興・35

 日本国は〔愛〕の理想の基に誕生した(1)

◆わたくしたち日本国は〔愛〕から始まった。けれども、〔愛〕から始まった誇るべき日本国誕生史を自分のものにすることはできない。
 日本国が〔愛〕をかかげて誕生した事実は、卑弥呼が登場することで有名な『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記述された。また『万葉集』の多くの和歌で証言されている。山上憶良が作った「銀(しろがね)も 黄金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」という和歌は、日本建国の〔愛〕の理念を詠む和歌であった。

新井白石(16571725)以後、学者たちは『魏志』倭人伝と『古事記』上巻にたくさんの〔文献批判〕を加える。このたくさんの〔文献批判〕は実は〔誤読〕である。このたくさんの〔誤読〕から生まれた空論・空想であった意見が、いまや定説あるいは有力説となった。このため、文献の記事を忠実に読む、この初歩的ルールは今日(こんいち)“まともな考え方ではない”と否定される。これが原因で、わたくしたちは〔愛〕から始まった日本国誕生史を自分のものにすることができない。
 2008年に発見された富士山から間近い静岡県沼津市に所在する高尾山(たかお)古墳は、東日本最古で最大の前期古墳である。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の2回~15回で詳細に証明したように――高尾山古墳は『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話の記事に合致する遺跡である。淤能碁呂島の聖婚説話に〔文献批判=誤読〕を1点も加えなければ「230年ころ、伊耶那美命は高尾山古墳にて伊耶那岐命と最初に結婚した時に、小国・日本の国作りの柱を〔愛〕にすると唱えた」と記述されていることが明らかとなる。
 A図は、西日本の倭国と東日本の小国・日本の範囲を示す概略図である。
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(C) 2016 OHKAWA

 『古事記』上巻に日本国が〔愛〕の理想の基に誕生した歴史が記述された点については、各代の天皇はじめ、新井白石より以前の何人かの先人たちは知っていた。というのも、【日本国は〔愛〕の理想の基(もと)に誕生した】という出来事は上古における最も重大な歴史であったゆえ各代の天皇はじめ白石より以前の幾人かの教養人たちは知っていたのである。何人かの天皇たちが和歌山県熊野の熊野那智大社に詣(もう)でしたのは、主祭神の伊耶那美命が〔愛〕を唱えて小国・日本を誕生させた歴史を知っていたからにほかならない。

◆伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念は、皇室を滅亡させる最も危険な思想であると皇室は畏(おそ)れた。というのも、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問神話は――皇祖の天照大御神は、伊耶那美命の没後に倭女王に就任した時、多数の若い青年男女を殺して伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)に埋めて雷神(いかづつがみ)にささげる残酷な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。国家権力より〔愛〕のほうが優ると国民に説いた伊耶那美命を憎んで天照大御神がおこなう徇葬に、伊耶那岐命は立腹して配下の日本軍の兵士と熊野に住む戦士の協力を得て、伊耶那美命の墓から伊耶那美命の亡骸(なきがら)をおさめる棺(ひつぎ)を奪う乱(らん)を決行した。棺を奪って逃走する伊耶那岐命・日本兵一行を追跡してきた倭の大軍は現在の熊野速玉大社の境内にて伊耶那岐命軍と戦って敗北したため、天照大御神は倭女王から失脚した。天照大御神と伊耶那岐命は千引石(ちびきのいわ)つまり現在の和歌山県新宮市磐盾町の神倉(かんのくら)神社のご神体であるごとびき岩の前が空洞となる場所で向かいあった時、天照大御神は「汝の国の日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民たちの母親の産道が狭くなるように呪(のろ)って、その狭い産道で一日に必ず千人ずつ生まれてくる子どもたちの頭を絞め殺す」と誓った。伊耶那岐命は「お前がそうするならば、吾は一日に必ず千五百の産屋が立つようにする」と述べ、亡き伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を受け継ぐと誓った。伊耶那岐命は後に第9代開化天皇となって、日本建国の〔愛〕の理念を受け継ぐ政事(まつりごと)をおこなった。これゆえ、わが国では一日必ず千人死んでも、一日必ず千五百人生まれることになった――と伝えているからである。
 このような伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の解明・証明は、わがブログ「日本国誕生史の復興」の18回・19回でおこなった。
 B図に、伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の舞台となった熊野地方を示した。
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(C) 2016 OHAKAWA

 
C図に、倭女王から失脚した天照大御神とクーデターに成功した伊耶那岐命が向かいあった千引石・現在のごとびき岩を示した。二人が向かいあった千引石の空洞には、現在は神倉神社の社殿が建つ。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 天武・持統・文武・元明の4代天皇王朝は残虐な徇葬をおこなった天照大御神を伊耶那美命よりも優れる最も偉大な先祖であったと伝える偽書の作成を欲求した。そこで編纂スタッフは偽書を作成したと見せかける策略を思いつき「徇葬を陣頭指揮した天照大御神」を「伊耶那美命」と表記した。しかし「伊耶那美命」が「伊耶那美命」でないことを示すために、『古事記』序の初頭に「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(ぐんぴん)の祖(おや)となる」すなわち「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命の二霊が、わが国におけるすべての生みの祖である」とあらわす文を配置して、伊耶那美命のほうが天照大御神よりも偉大な先祖であると警告した。この警告文にもとづいて正しく読解できる人物が“教養人”であるゆえ、「伊耶那美命」は「天照大御神」であった。また、倭女王から失脚した天照大御神と伊耶那岐命が向かい合った千引石をご神体とするC図に示した神倉神社の主祭神は天照大御神ですゆえ、「伊耶那美命」の正体は「天照大御神」であった。『古事記』上巻には多数の仕掛けで「伊耶那美命」は「天照大御神」であると――編纂スタッフは後世に真実の歴史を伝えた。これゆえ、この編纂スタッフの企(たくら)(策略)を元明天皇は見破って即座に献呈を拒絶したため、『古事記』は正史になれなかった。いいかえると、元明天皇が見破った策略すなわち「伊耶那美命」は「天照大御神」であると察知できない白石以後の学者たちの意見は、命がけで真実の歴史を残した編纂スタッフのこの世をさまよう亡霊たちが“そんな出鱈目(でたらめ)ありか!”と悲鳴をあげてとどめなく涙を流して恨(うら)み……頭を抱えこんで落胆(らくたん)する想定外のことであったことになる。

◆『古事記』上巻の淤能碁呂島説話は「伊耶那美命は日本建国の〔愛〕の理念を提唱した」と伝える。しかし皇室が正史と定めた『日本書紀』神代紀にも基本となるオノゴロ島説話と、「一書曰(いわ)く」という十種のオノゴロ島説話が存在するが、この十一種すべてのオノゴロ島説話は高尾山古墳との合致点が少なく、また日本建国の〔愛〕の理念についてまったく記述しない。それというのも、『古事記』上巻は事実を書いたが、『日本書紀』神代紀は日本建国の〔愛〕の理念を伝えない失敗作であった。ゆえに、『日本書紀』の失敗を挽回(ばんかい)するために、日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために愛の和歌集『万葉集』が作成されたのである。
 『古事記』は「日本国は〔愛〕の理想の基(もと)に起源した。皇祖の天照大御神は残虐な徇葬をおこなった」と伝える反逆の史書であったのである。このため、この事実を記述しない『日本書紀』は宮中で講義され正史としてよく読まれたのに対し、『古事記』は危険思想を養い朝廷への憎悪を生む書物と定められましたので読む人も少なく人目をはばかってこっそりと隠れて読む禁書(きんしょ)となった。このため、『古事記』は長年にわたり偽書だと疑われ、白石より後に生まれた賀茂真淵(16971769)は後世の作ではないかと疑った。
 新井白石は西洋の近代合理思考を取り入れて『魏志』倭人伝の記事に多数の〔誤読〕を加える立論方法を開発した。この〔誤読〕を使う方法を白石以後から今日までの学者たちは後生(ごしょう)大事に受け継ぐ。この学者たちの“誤読大明神”信仰によって、わたくしたちは「日本建国の〔愛〕の理念」を自分のものにすることができなくなった。
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(C) 2016 OHKAWA

 『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の記事は直接的に結びついていた。このため、白石の誤読の害は皇室滅亡に及びかねない状況となった。皇室は『魏志』倭人伝に記述された――前回(34)の「日本国誕生史の復興」で取り上げた〔夏音文字の学芸〕を尊重して大和朝廷の基礎を築いた天照大御神の事績がゼロとなりやがて皇室の存在理由も失われ元も子も無くなると、皇室は深刻に心配したのである。これゆえ、皇室は3世紀以来約1450年にも及ぶ伝統を廃して180度方向転換する思い切った決断をした。
 『古事記』を長年脅威(きょうい)・危険視し続けた皇室は日本建国の〔愛〕の理念の復興を願う幕府のトップの将軍吉宗の協力を得て、白石の死後から13年後の115代桜町(さくらまち)天皇の元文3(1738)に大嘗会(だいじょうえ)を本格的に復興した。
 D図に、大嘗会における天皇即位式に用いられる王冠を示した。
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(C) 2016 OHKAWA
 

 王冠の下の飾りの〔乳房の形をした水器の蓋(ふた)を模(かたど)る意匠〕で、厳重なタブーとして隠しつづけてきた「日本建国の〔愛〕の理念」を皇室は表示した。この日本建国の〔愛〕の理念を表現する天皇の王冠を頭上高々と掲(かか)げて、今上天皇は即位した。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の10回・11回で証明したように――『魏志』倭人伝の末部に登場する倭女王壱与(いよ)は伊耶那美命であった。「壱与」という名は鬼道の学芸で定められた女王名であり、「伊耶那美命」は「倭に属する小国・伊耶(いや)(丹波)生まれの桃の花のように美しい女王」と意味する人民たちが付けた愛称であり、本名は『古事記』中巻の開化天皇紀に記載される正妃の丹波出身の「竹野比売(たかのひめ)」であった。
 日本最古の小説『竹取物語』、この小説のヒロイン竹の筒が生まれたかぐや姫のモデルは壱与・伊耶那美命・竹野比売であり、『竹取物語』は彼女の復活を願う小説だったのである。
 D図の天皇の王冠における上の飾りは、E図の卑弥呼の地上絵をデザインして(1)天照大御神が夏音文字の学芸を政権基盤にして国家を繁栄させた事績を表現すると共に、(2)日本建国の〔愛〕の理念をも表現するものであった。また下の飾りは母親が愛しい子に乳を授ける乳房を模(かたど)る水器の蓋(ふた)で、日本建国の〔愛〕の理念をあらわした。
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(C) 2016 OHKAWA

 1738年、皇室は日本古代史をふりかえって倫命(りんめい)つまり人として実行すべき使命に目覚めて「愛は強大な国家権力よりも優る」ことを認める決断を下したのである。
 にもかかわらず、白石以後の学者たちの“誤読大明神”信仰によってわれら国民は日本建国の〔愛〕の理念を頭上高々と掲げることができない魂の抜け殻である。
 ◆F図に、わがブログ「日本国誕生史の復興」の16回~19回をもって秘密を解明した2世紀後半頃(後漢時代)に中国で作られた上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)を示した。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 F図に示す上作系浮彫式獣帯鏡の4つの絵柄には、〔「鹿」「虎」「鳥」「羽人」という注が付く。
 G図に示すように、中国の廟島(びょうとう)列島の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は「オス鹿の角(つの)」に見立てられ、「山東半島」の地宜を「鹿の横顔」に相似すると見立てられた。
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(C) 2016 OHKAWA
 

 ゆえに、H図に示すように「オス鹿の横顔に似る地宜」となる「廟島列島と山東半島の地宜」が、上方作系浮彫式獣帯鏡における「鹿」の注となった。
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(C) 2016 OHKAWA

 
H図の「山東半島の付け根より南の円く東シナ海に突き出る海岸線」は「胎児が出産するときの妊婦のおなかに相似する」と見立てられた。「出産時の母親がおこなう怒責(どせき/いきみ、きばる行為)の声はまるで「虎が吠える声」のようだということで、「長江口」は「虎の鼻の孔」、「杭州湾(こうしゅうわん)」は「虎の口」に相似すると定められた。だから、「山東半島の付け根より南の円く東シナ海に突き出る海岸線」は、H図に示すように「虎の横顔に似る」と見立てられて上方作系浮彫式獣帯鏡の「虎」の注となった。
 H図に示すように、「山東半島の地宜」は「鳥の頭」のごとくに観え、「山東半島の付け根から南と北に伸びる海岸線」は「鳥の両翼の形」に相似する。ゆえに、「山東半島の付け根から南と北に伸びる海岸線」は、上方作系浮彫式獣帯鏡の「鳥」という注となった。
 この「鳥」の注となった中国国土を洩れなく包みこむ「中国海岸線とその西側の中国国土」は「羽をひろげる鳥の姿」となるので、「羽人」の注となった。
 I図に示す[()][]が加わる[(かも)]の金文形は、上方作系浮彫式獣帯鏡の「羽人」の注をあらわした。
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(C) 2016 OHKAWA

 「中国国土をもれなく包みこむ中国海岸線」は[]の金文形の字源となった。この[]の字源が「羽人」の絵柄モチーフとなり、「羽人」は「上空をおおって飛翔する味鴨(あじかも)の大群」をあらわした。味鴨は群れをつくって行動し、その昔、飛翔する時の群れの長さは実に3kmに及んだと伝えられる。ゆえに、高尾山古墳から出土したF図の破砕鏡(はさいきょう)4つの絵柄は、H図に示すように「鹿(鹿の横顔の地宜)」・「虎(虎の横顔の地宜)」・「鳥(空を飛翔する鳥の姿に相似する中国国土地宜)」とそして「羽人(空を飛翔する味鴨の大群)」をあらわして、「中国の国土に人民が満ち満ちあふれる様子」をあらわした。
 したがって、わが国の人々は上方作系浮彫式獣帯鏡の「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵柄を「国土に多数の人民が満ちあふれて〔愛〕が栄える」と表現していると解釈したのである。
 上方作系浮彫式獣帯漢鏡は現在まで日本国内から50例も見つかっている。ということは2世紀後半から3世紀前半、この鏡は〔愛〕の鏡ということで大人気となり、おそらく700面あるいは1000面も中国から輸入されて倭国と小国・日本の各地に分布されていたにちがいない。

倭女王に選ばれて小国・日本を去る時、伊耶那美命は上方作系浮彫式獣帯鏡にある不老長寿の仙人の絵柄の部分を砕き、国中の人々が〔愛〕をあらわすと理解する4つ絵柄で前年の高尾山古墳を会場とした結婚式で唱えた日本建国の〔愛〕の理念をあらわし、「国土安泰」を願って高尾山古墳の主体部に埋めた。これゆえ、『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話の後半は――倭女王伊耶那美命が淡路島にて二度目の結婚式をおこなった時にも、現在の「四国」を「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」と名づけ、この四国の総称となった「伊予」という地名の守護神つまり土地神に「愛比売(えひめ)」と名づけて、倭国を治める国作りの柱を日本建国の〔愛〕の理念にすると人民に示した――と記述する。ゆえに、旧国伊予は3世紀からずっと「日本建国の〔愛〕の理念」を伝えて、今日の県名おいても「愛媛(あいひめ)」の2字を『古事記』の「愛比売」と同じく「えひめ」と読むことになった。

38代天智天皇(668671年在位)40代天武天皇(673686年在位)の生母であった35代皇極天皇(642645年在位)37代斉明天皇(655661在位)であった岡本天皇は、伊耶那美命が高尾山古墳の主体部に埋納した破砕鏡で「日本建国の〔愛〕の理念」を表示した神代(3世紀)の歴史を知っていた。この知識を岡本天皇は『万葉集』485番の和歌で詠んだ。
 岡本天皇が作った『万葉集』の485番の長歌の初句から6句目は「神代より 生()れ継ぎ来()れば 人さわに 国にはみちて 味群(あじむら)の 通ひは行けど」である。この部分は「神代より人民たちは伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を尊重して生き、命を継いで守ってきた。このために、国土には人民が満ち満ちて、空をおおって飛翔する味鴨の大群が朝には塒(ねぐら)を離れて沼に行き夕方また塒に帰ってゆく」と意味する。
 このように485番の長歌は、伊耶那美命が高尾山古墳から出土した上方作系浮彫式獣帯鏡の破砕鏡で「日本建国の〔愛〕の理念」をあらわしたと証言する。だから、学者たちのように〔文献批判〕を用いる主観論を主張して「伊耶那美命は〔愛〕を国作りの柱にした」という記述を理解しない解釈は〔誤読〕となる。
 学者たちは“所詮(しょせん)神話は作り物である”という先入観を抱きあるいは憶測(おくそく)して、『古事記』上巻が伝える実際におきた歴史をことごとく葬った。
 要するに(1)『古事記』上巻の淤能碁呂島説話・(2)高尾山古墳から出土した破砕鏡・(3)『万葉集』485番の長歌・(4)『魏志』倭人伝末部の壱与が倭国の大乱を終息させたという記事、そして(5)卑弥呼の地上絵(すぐ後ろに登場する)を一つに結ぶと、歴史は明確に蘇(よみがえ)る。したがって学者たちの神話解釈は〔誤読の空論〕であり、『古事記』上巻と『魏志』倭人伝は〔誤読=文献批判〕を不要とする歴史を伝える文献であったことになる。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の21回~24回で証明したように、卑弥呼の地上絵は260年頃に作成が開始されて約30年後の290年頃に完成した。沼津市教育委員会は高尾山古墳の墳丘は230年頃に完成し、主体部は250年頃に作られたと推定した。ゆえに、卑弥呼の地上絵は高尾山古墳の主体部が完成したわずか約10年後に作成が着手された。したがって、卑弥呼の地上絵は高尾山古墳の主体部が完成したわずか約10年後に作成が着手されたことになる。
 E図に示した浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域をあらわす地図の形として現存する「卑弥呼の地上絵」は、『古事記』が完成される約400年前にすでに、「日本建国の〔愛〕の理念」を後世に伝えるために作成された。だから上記した岡本天皇が作った『万葉集』485番の和歌と同じく、卑弥呼の地上絵は「日本建国の〔愛〕の理念」をあらわす遺跡である。これについては次回(36)の「日本国誕生史の復興」のブログでおこなう。
 これゆえ前述したように、D図の天皇即位式に用いられる天皇の王冠の上の飾りの卑弥呼の地上絵は「日本建国の〔愛〕の理念」をあらわす意匠となる。

◆新井白石以後、学者たちは『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に自由気ままに多数の誤読を加え、この「誤読」に「文献批判」という名札(なふだ)をつけて、文献批判は学者たちがこぞって正しいと考えるゆえ正しいのだと主張する。
 しかし学者たちの意見は誤読の空論であることが単純明快に証明できる決定的な理由・証拠が存在する。白石以後から現在までの学者たちは、J図に示す北極星を基準にして3世紀の人々が緯度を精確に測量できたゆえ玄界灘を往来できたにちがいないと錯覚する。
N662
(C) 2016 OHKAWA
 
 『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7(学習研究社)は「緯度の測定」と題して〔J図の北極星で緯度測定する方法では玄界灘を渡れなかった事実〕と〔後に説明する天頂緯度線と子午線をキャッチできる[]ならば玄界灘を往来できた事実〕を下記のごとく説明する。
 「緯度は天の北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の天の北極からのかたよりが計算できるので、精密ではないが天の北極の高度で緯度を換算することができる。もっと精密に測る方法は、天頂緯度線と子午線による測定である。」
 J図に示すように、天の北極の位置は25,800年で一周する。このうち北極星が天の北極に最も近づくのは紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から84年後のこぐま座α星である。天の北極を中心に円を描くこの二つの北極星の直径は、約1.5(90/満月の3個分)である。ゆえに、この二つの北極星でも、古代には正確な日付の暦と時刻を示す時計が無かったので、上記のごとく「日付・時刻を決まれば」という条件を適える正確な暦と時刻を示す時計がある現在でも精確に緯度を測量できなかったゆえ、すべての古代において北極星では1分の緯度差の測量が求められた玄界灘を渡ることができなかった。
 J図に示すように、卑弥呼や伊耶那美命が生存した3世紀の北極星は天の北極から半径が約10度・600分で円周していた。したがって直径20度・1200分の円を描く北極星で精確に1分の緯度差を測定することは不可能であった。中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して北極星を「太一神」と呼び、神と敬って最も尊重することになった。このため、魏と魏の朝鮮半島の出張政庁である帯方郡(たいほうぐん)の使者は精確に1分の緯度差を測量できる能力を求められた玄界灘は渡ることができなかった。「魏や帯方郡の使者は大海(玄界灘)を往来できないが、倭の使者は大海(玄界灘)を往来できたこと」は『魏志』倭人伝に記述されている。
 シナ天文と同じく北極星を重視して現在の日本地図で考える学者たちの意見だと、北極星を神と敬った倭の使者もまた玄界灘を渡ることができなかったことになる。したがって魏と倭は国交を結ぶことができなかった。だから、魏では倭国について“知らぬ権兵衛(ごんべえ)”つまりまったく知らなかったことになるゆえ『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていなかったことになる。約2000字の『魏志』倭人伝が1字も文字が書かれていない白紙に化ける、こんなキツネにつままれるびっくり仰天(ぎょうてん)真っ白けとなる結果に対して、“なるほど! そうだったのか”と呑気(のんき)に感心して学者たちの意見に賛成するわけにはいかない。約2000字が北極星で“パッ”と白煙があがって綺麗(きれい)さっぱりと文字が1字も無くなる白紙、この白紙が“『魏志』倭人伝”であったなんていう事実はいくらお人よしでも絶対に信じられない。
 K図の右上に示す[]をキャッチすれば、1度の60分の11分の緯度差の相違と南北の子午線を精確に測定できた。だから倭の使者と船乗りたちは玄海灘を往来することができた。玄界灘は「北極星で緯度測量すると渡ることができない。しかし、[]をキャッチすれば往来できる大海」であった。ゆえに、「玄界灘」と名づけられた。
N663
(C) 2016 OHKAWA

 人間の目は鍛錬すると1分の緯度差が測定できる[]をキャッチできる能力がそなわり、原始から最後の氷河期を経()てそして現代まで人類の脳は[]をキャッチできる本能を有するものであった。
 L図の左側に示すように日本列島の西端にある玄界灘に浮かぶ沖ノ島と東端にある神津島は同緯度(北緯3415)である。卑弥呼王朝は日本列島の両端の沖ノ島・神津島の気候を注目して、L図に示す錯覚の転回日本列島地理を制定した。にもかかわらず学者たちは北極星を重視して、“こんな出鱈目(でたらめ)があるか”と力説して北極星を基準にして〔東〕に伸びる現在の日本地図にもとづいて考える。
 しかし、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事に1点の文献批判を加えなければ、L図の転回日本列島地理になることは――現代の学者たちも認める。
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◆ 卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本地理の基点となる沖ノ島と同緯度の神津島からは、現在も良質の黒曜石が産出する。黒曜石は火山活動によってできた“黒いガラス”とされ、上手に刃をつけると石槍や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(石器)として利用された。神津島の黒曜石は良質であったために、関東地方(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、群馬県、栃木県、茨城県、山梨県)、東海西部(愛知県、静岡県)、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布する。なんと神津島の黒曜石は約3万年前の後期旧石器時代から使用されていることが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼や伊耶那美命が生存した後期弥生時代の3世紀まで本土に運ばれて利用されていた。神津島から伊豆半島までは30km以上も海で隔てられ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400kmもある。約3万年前の旧石器人たちはK図に示した[]をキャッチする能力を有していたために海を往来し、北陸の能登半島などの遠い地から旅する人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
 この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが、その実態は未だ謎のベールに包まれて不明とする。人類は原始の時から、脳に[]で精密に緯度測定する本能がそなわり、鍛錬すれば[]をキャッチできる神秘的な眼力をそなえることができた。だから、この神秘的な[]をキャッチできる呪力(じゅりょく)によって、日々食料を求めて旅する原始の生活にあっても、日々自分たちの位置(緯度)を知り今日から明日への旅の方角を定めて“迷った! 死ぬ”という恐怖を取り除いて種を保存したため生存を続けたゆえ人類は滅亡しなかった。(なお神津島の黒曜石の歴史が約3万年前から起源することは、インターネットで「神津島」と入力すれば知ることができる。)
 したがって、L図の転回日本列島地理は3万年前の旧石器時代からずっと人々が命をまもってきた[]のキャッチにもとづいて卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理であったのである。白石以後の学者たちのごとくに北極星を基準にして〔東〕に伸びる日本地図で『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事を考えると、『魏志』倭人伝の実体は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。だから、学者たちの意見に“イエーイ”と歓声をあげてハイタッチ賛同するわけにはいかない。

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