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2016年12月 4日 (日)

日本国誕生史の復興・36

 日本国は〔愛〕の理想の基に誕生した(2)
 

◆『魏志』倭人伝の冒頭記事は「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り」である。この文中の「大海」には「玄海灘(げんかいなだ)」が含まれる。
 
A図に、25,800年で一周する北極星の位置図を示した。
N671
(C) 2016 OHKAWA

 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興」の35回で詳細に証明したように、新井白石(16571725)と白石以後の学者たちは北極星で緯度が精確に測量できて、魏・帯方郡と倭の使者は玄界灘を往来できたと思い込む。この思い込みが原因で、倭女王卑弥呼が居住した王国・邪馬台国の位置について〔東〕へ伸びると定める現在の日本地図で考える。しかし、この北極星・現在の日本地図信仰だと、魏・帯方郡そして倭の使者も玄界灘は往来できなかったことになるので空論となる。 
 A図に示すように、北極星が天の北極に最も近づくのは紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から84年後のこぐま座α星である。天の北極を中心に円を描くこの二つの北極星の直径は、約1.5(90/満月の3個分)である。ゆえに、この天の北極に最接近する二つの北極星でも、古代には正確な日付の暦と精確な時刻を示す時計が存在しなかったゆえ、正確な暦と時刻を示す精確に時刻を示す時計が存在する現在でも北極星で緯度を換算できる天の高度を精確に測定できないので、すべての古代において北極星で緯度と子午線を計測する方法では1分の緯度差の測量が求められた玄界灘を渡ることができなかった。
 A図が示すように、卑弥呼や伊耶那美命が生存した3世紀の北極星は天の北極から半径が約10度・600分で円周していた。したがって直径20度・1200分の円を描く北極星で精確に1分の緯度差を測定することは不可能であった。中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して北極星を「太一神」と呼び、神と敬って最も尊重することになった。このため、魏と帯方郡の使者は精確に1分の緯度差を測量できる能力を求められた玄界灘は渡ることができなかった。『魏志』倭人伝は「魏や帯方郡の使者は大海(玄界灘)を往来できないが、倭の使者は大海(玄界灘)を往来できた」と伝える。
 これゆえ学者たちの意見の場合、北極星を神と敬った倭の使者もまた玄界灘を渡ることができなかったことになる。したがって魏と倭は国交を結ぶことができなかったゆえ、魏は倭国についてまったく知らなかったので、『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていなかった白紙であったことになる。約2000字で構成される『魏志』倭人伝から文字が1字も無い白紙、この白紙が“『魏志』倭人伝”であったという意見は空論・暴論である。
 B図の右上に示す[]をキャッチすれば、1度の60分の11分の緯度差の相違と南北の子午線を精確に測定できた。
N672
(C) 2016 OHKAWA
 
 だから倭の使者と船乗りたちは玄海灘を往来できた。玄界灘は「北極星で緯度測量すると渡ることができない。しかし、[]をキャッチすれば往来できる大海」であった。これゆえ、「玄界灘」と呼ばれたのである。
 以上のごとく、正確な暦と精確な時刻を示す時計が無かった古代においては、精確に1分の緯度差を測定できる方法は[]のキャッチ(天頂緯度線と子午線の測定)のみであった。したがって日本列島は〔東〕に伸びると定めることができる北極星の天の北極からのかたよりで緯度と子午線を測量する方法では玄界灘を渡ることはできなかった。ところが、白石以後の学者たちは北極星で天の北極の高度(緯度)が精確にキャッチして玄界灘を往来できたとすっかり思い込んだ。この〔幻想〕から〔誤読〕という子を分娩(ぶんべん)して、この子に〔文献批判〕という名を付けて『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記述された真実の歴史をことごとく葬った。ゆえに、両文献の記述された歴史は学者たちが〔文献批判〕から出産した子(意見)とはまったく異なる。

◆人間の目は鍛錬すると1分の緯度差が測定できる[]の象(ぞう)つまり〔天頂緯度線と子午線の象〕をキャッチできる能力がそなわり、原始から最後の氷河期を経()てそして現代まで人類の脳は[]をキャッチできる本能を有するものであった。
 上記したように、卑弥呼や伊耶那美命が生存した後期弥生時代後半においては玄界灘を往来する方法は、B図に示す〔[]のキャッチ〕だけであった。
 C図の左側に示すように日本列島の西端にある玄界灘に浮かぶ沖ノ島と東端にある神津島は同緯度(北緯3415)である。
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(C) 2016 OHKAWA

 卑弥呼王朝は日本列島の両端の沖ノ島・神津島の気候を注目して、C図右側に示す錯覚の転回日本列島地理を制定した。にもかかわらず学者たちは、“こんな出鱈目はない”と力説して現在の日本地図を引っ張り出す。でも日本列島は〔東〕に伸びると定めることができる北極星では玄界灘を往来できなかったので、学者たちの意見は絵空事・空論となる。
 卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本地理の基点となる沖ノ島と同緯度の神津島からは石器となった良質の黒曜石が産出するゆえ、3万年前の後期旧石器時代から黒曜石が本土に運ばれていた。神津島の黒曜石は関東地方(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、群馬県、栃木県、茨城県、山梨県)、東海西部(愛知県、静岡県)、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布している。神津島の黒曜石は3万年前の旧石器時代、縄文時代、卑弥呼や伊耶那美命が生存した後期弥生時代に利用されていた。神津島から伊豆半島までは30km以上も海で隔てられ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400kmもある。約3万年前の旧石器人たちは[]をキャッチする能力を有していたために海を往来し、北陸の能登半島などの遠い地から旅する人々も神津島の黒曜石を手に入れることができた。
 したがって、人類は原始の時から脳に[]で精密に緯度測定する本能がそなわり、鍛錬すれば1分の精度で[]をキャッチできる神秘的な眼力をそなえることができた。
 だからC図に示すように、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事は3万年前の旧石器人が神津島までの海を往来した[]の神秘的な呪力(じゅりょく)を示すものであり、倭の使者が[]をキャッチして玄界灘を往来した事実を伝え、また卑弥呼王朝が錯覚した転回日本列島地理を伝えることになったのである。さらに卑弥呼王朝は[]のキャッチによってC図の右側に示すように34小国の精確な地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)の知識を有し、各小国の地宜に合致する34小国名を定めた夏音文字と魏・帯方郡・諸韓国が用いた楷書の学芸を有していた。
 D図に示すように、日本列島の西端の沖ノ島では冬に雪が降るが東端の亜熱帯地区の神津島では冬になっても雪は降らず一年中暖かい。これゆえ、日本列島の地理と気候を合体させると〔西冷・東暖〕となる。中国の海岸線地域の北部の気候は冷たく、南部は暖かいので〔北冷・南暖〕となる。だから中国海岸線地域の〔南〕と日本列島の〔東〕は共に暖かい気候で合致するので、『魏志』倭人伝が伝えるように「日本列島の〔東〕は中国海岸線地域の〔南〕の方に伸びる」と、卑弥呼王朝は錯覚したのである。
N674
(C) 2016 OHKAWA
 
 インターネットの「平成261022日の高尾山古墳レポート」は「高尾山古墳の主体部はじめ周溝やその周囲から、地元(東海東部)はじめ北陸や東海西部(尾張・三河・遠江)、近江(滋賀県)、関東などの土器が見つかった」と記載する。つまり、上記した神津島の黒曜石の分布地域と高尾山古墳から発見された土器の分布地域は一致する。ゆえに北陸・近江・東海西部・関東の東部に住む人々は、[]がキャッチできたゆえ遠く離れる高尾山古墳や神津島に到着できたのである。

◆卑弥呼王朝はD図に示す沖ノ島・神津島の同緯度を[]で測量して転回日本列島地理を制定した。したがって日本列島には〔東〕が〔南〕となる強力な地の精霊が棲()んでいることになった。
 ゆえに、伊耶那美命は「日本建国の〔愛〕の理念」をあらわすE図の上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)の破砕鏡(はさいきょう)を高尾山古墳の主体部の地中に埋めて強力な地の精霊に「国土安泰」を願った。
N675
(C) 2016 OHKAWA
 
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の10回・11回で解明し、また前回(35)でも指摘したように――「伊耶那美命」は人民が敬愛して呼んだ愛称であり、伊耶那美命の夏音文字の学芸で定められた女王名は「壱与(いよ)」であった。
 『魏志』倭人伝の末部には「卑弥呼は以(すで)に死んだ。大きな墓を作る。墓の円墳部の直径は百余歩すなわち約150m。倭王朝は卑弥呼の墓に百余人の奴婢(ぬひ/青年男女)を殺して埋める徇葬(じゅんそう)をおこなった。卑弥呼の後に男王が大王となって継いだが、国中の人々は男王に服従せず残酷な徇葬を憎悪して武器をもって倭王朝軍と戦った。倭王朝軍は反乱者たちを千余人も殺した。また倭王朝は卑弥呼がひきいる巫女(みこ)たちの宗教界を代表する宗女(そうじょ)に選ばれて13歳の時に小国・日本の女王となった壱与を倭女王に就任させると、倭の大乱は遂に定まった」という記事がある。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島説話に1点の〔誤読=文献批判〕を加えないと――壱与・伊耶那美命は小国・日本に封(ほう)ぜられた高尾山古墳の結婚式で、小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた――と伝えていることが明らかになる。
 倭女王に選ばれて小国・日本を去る時に壱与は、倭の国中の人々がE図の上方作系浮彫式獣帯鏡の〔「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の4つの絵柄〕は〔愛〕をあらわすと理解するゆえ、不老長寿の仙人の絵柄を砕いて「日本建国の〔愛〕の理念」をあらわすようにして高尾山古墳の主体部に埋納した。これゆえ、伊耶那美命が唱えた「日本建国の〔愛〕の理念」に憧れて倭の人民たちは厳粛(げんしゅく)な国家儀式である百余人の青年男女を殺して卑弥呼の墓に埋めた徇葬を残虐だと憎悪したが原因で反乱が国中にひろがったと、倭王朝は非難した。だから、壱与・伊耶那美命には倭の大乱を鎮める責任があると難癖(なんくせ)をつけて、倭王朝は伊耶那美命を倭女王に就任させたのである。反乱たちは、小国・日本を去る時に「国土に人民が満ち満ちあふれて〔愛〕が栄える」とあらわす後漢鏡の部分を残して「国土安泰」を願って高尾山古墳に埋めた伊耶那美命が倭女王に就任したならば必ずや徇葬は禁止するにちがいないと信頼して武器を捨てた。だから、倭の大乱は伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念によって遂に定まったのである。
 強大な権力を有する倭王朝が鎮圧(ちんあつ)することができなかった倭の大乱を伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念で終息した出来事によって、〔愛〕は強大な国家権力よりも優ることが示された。
 したがって、日本国誕生期において、〔愛〕は国家権力よりも優るなんて、とんでもない出来事がおきたのである。

◆わがブログ「日本国誕生史の復興」の18回・19回で解明し、前回(35)で概要を述べたように、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話には――卑弥呼の墓を作る時におこなわれた徇葬は、天照大御神が倭女王になって伊耶那美命の墓を作る時にもおこなわれた。というのも天照大御神は〔愛〕よりも王朝と国家の権力のほうが〔愛〕より優らなければならないと考えるものであったゆえ、天照大御神は「権力」を象徴する「徇葬」をもって伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を侮蔑(ぶべつ)にした。だから、徇葬に憤激した伊耶那岐命がクーデターに成功した時、倭女王から失脚した天照大御神は神倉神社のご神体のごとびき岩の前で「日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民の母親たちの産道が狭くなるように呪(のろ)って、その狭い産道で一日に必ず千人ずつ生まれてくる子どもたちの頭を絞め殺す」と誓った――という歴史が記述された。
 伊耶那岐命・開化天皇が没すると、天照大御神・崇神(すじん)天皇母子王朝は日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民を苦しめ、日本建国の〔愛〕の理念の抹殺に躍起(やっき)となった。
 これゆえ「日本建国の〔愛〕の理念」を後世に伝えるために、F図の卑弥呼の地上絵が作成された。
N681
(C) 2016 OHKAWA
 
 卑弥呼の地上絵は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之命の誓約説話末部に記される、つまり『古事記』が歴史上に生存したと記述した遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖となった建比良鳥命(たけひらとりのみこと)とその一族によって作成された。
 G図に示すように、卑弥呼の地上絵をちょうど1千万坪に作成できた基準緯度線は、卑弥呼の地上絵作成を可能にする経緯度原点地のA地と滝峯不動尊を結ぶ北緯3448分である。この同緯度は、鬼道の学芸が最も重視した[]をキャッチして測量された。
N682
(C) 2016 OHKAWA
 
 G図に示すように、卑弥呼の地上絵の南限は北緯3446.6分である。ゆえに、卑弥呼の地上絵の基準緯度線と南限の緯度差は、1.4(124)となる。この1.4分の緯度差の地域に大鳥の頭と右翼が明確に図化されている。だかから、卑弥呼の地上絵は1分の緯度差を測量できた[]によって作成されたとことになる。いいかえると、当時の天の北極を中心にして約1200分の円を描いた北極星で緯度測量する方法では、経緯度原点地を設定できず、またA地と同緯度の滝峯不動尊も測量できなかったので、卑弥呼の地上絵は作成できない、不可能である。
 このように1千万坪の卑弥呼の地上絵は「玄界灘」という地名の秘密と同じで〔北極星で緯度測定する方法では作成することができないが、[]をキャッチする方法ならば作成できた事実〕を明確に示す。
 伊耶那美命に熱烈に憧れる建比良鳥命は[]のキャッチをもって1千万坪の大鳥の地上絵を作成して後世に「日本建国の〔愛〕の理念」を伝えた。
◆H図は、前方後方墳・高尾山古墳の平面図である。この古墳の後方墳に主体部がある。
N683
(C) 2016 OHAKAWA
 

I図に示すように、沼津市教育委員会は――高尾山古墳の主体部に埋納(まいのう)された日本建国の〔愛〕の理念をあらわす破砕鏡 (E図)のすぐ傍(そば)の約1m離れた東と南の地点から「230年頃の東海西部系土器」が出土した――と発表した。
N684
(C) 2016 OHKAWA
 
 卑弥呼の地上絵が所在する〔遠江〕は「東海西部」の一角である。したがって遠江の建比良鳥命は倭国から派遣された日本兵(小国・日本の防衛隊兵士)にして、おそらく250年頃におこなわれた高尾山古墳の主体部の作成に従事した監督者の一人であったのであるまいか。ゆえに東海西部の遠江の建比良鳥命は、伊耶那美命が鏡を砕いて日本建国の〔愛〕の理念を表現した事実を知っていたことになる。
 E図の破砕鏡の左下の字は[()]に見えるが、高尾山古墳から出土した破砕鏡は全体的に錆(さび)でおおわれており、沼津市教育委員会は50例近くみつかった他の上方作系浮彫式獣帯鏡だと[()]と読み取れるゆえ、[]であったと指摘する。なお[]の字源は「上の面が平らな俎(まないた)」であり、[][]の最初の文字すなわち原字である。
 伊耶那美命は残った4つの絵柄が「日本建国の〔愛〕の理念」を表現するために必要な[]という字を残した。この[]という字の字源は「地宜(ちぎ)」すなわち「俎(まないた)のごとく平面的に図化された中国国土地図」である。前回(35)のわがブログ「日本国誕生史の復興」で解説したように後漢鏡に残った4つの絵柄を、わが国では「宜=中国国土に多数の人民が満ち満ちてあふれて〔愛〕が栄える」と表現するものと解釈された。これゆえ、伊耶那美命は「中国国土地図」を字源とする[]の字を残した。[]の字まで砕くと、4つの絵柄は単に〔「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵〕となり「[]=中国国土に多数の人民が満ち満ちあふれて〔愛〕が栄える」と表現するものではなくなってしまうからである。
 前回(35)のブログ「日本国誕生史の復興」で解説したように――上方作系浮彫式獣帯鏡の〔「鹿」「虎」「鳥」〕という注が付く絵柄は、J図に示した「中国海岸線」をあらわした。
N691
(C) 2016 OHKAWA
 
 E図に示したように、高尾山古墳から出土した上方作系浮彫式獣帯鏡には「上」という字も残された。
 ゆえに「上」は、K図に示すように「鳥=羽人の注をあらわす中国海岸線を上にする」ということであったと考えられる。というのも、K図のごとく考えると「中国海岸線は空をおおって飛翔する大鳥の羽根(両翼)」をあらわしてK図右上の[]の金文形における[]を示し、「中国国土」は「人民が満ち満ちあふれる陸地」となって[]の金文形における[]を示して、「羽人」を明確に示すことになるからである。
N692
(C) 2016 OHKAWA
 
 前回のブログ「日本国誕生史の復興」で解説したように――「羽人」は、K図の右上に示す[(かも)]の金文形の字源「空をおおって飛翔する味鴨の大群」をあらわした。その昔、空を飛翔する味鴨の群れの長さは3kmにも及んだという。だから、高尾山古墳から出土した破砕鏡の4つの絵柄は「宜=中国国土に人民が満ち満ちて〔愛〕が栄える」とあらわすことになった。
◆L図は[]=〔後漢鏡の「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵柄があらわす、多数の人民が満ち満ちあふれる中国国土地図〕である。
N693
(C) 2016 OHKAWA
 
 M図は[]=〔後漢鏡の「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵柄があらわす、多数の人民が満ち満ちあふれる中国国土地図を模(かたど)る卑弥呼の地上絵〕である。
N694
(C) 2016 OHKAWA

 倭女王となり小国・日本を去る伊耶那美命は、E図の破砕鏡の「国土に人民が満ち満ちて〔愛〕が栄える」と表示する〔「鹿」「虎」「鳥」「羽人」と[][]の字〕で「高尾山古墳にて伊耶那岐命と最初に結婚した時に唱えた日本建国の〔愛〕の理念」をあらわした。
 したがって建比良鳥命は「[]=中国国土の地宜(L図)を図化する1千万坪の大鳥の宜(M図)を作成すれば、伊耶那美命が破砕鏡であらわした日本建国の〔愛〕の理念を後世に正確に伝えることができる」と思いついたのである。
 M図の右上に示すように、卑弥呼の地上絵の頭と山東半島の向きはあわない。しかし、F図に示したように、卑弥呼の地上絵の顔()は「夏至の日の出」の方向を向いて「わが国には夏音文字が存在する。卑弥呼の地上絵は夏音文字の学芸の産物である」とあらわすことになる。前々回(34)のブログ「日本国誕生史の復興」で証明したように、わが国には『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に多数記載されて現存するゆえ確かに夏音文字は存在したことになる。
 M図に示す〔東〕にある卑弥呼の地上絵の〔頭〕を時計回りに90度転回すると、N図(現在の地図上における地宜の形)のごとく卑弥呼の地上絵の〔頭〕は〔南〕に存在する。だから、卑弥呼の地上絵は日本列島の〔東〕は〔南〕へ伸びると錯覚した卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理をもあらわす。
N695

   以上のごとく上古・神代においては、上方作系浮彫式獣帯鏡の〔「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵柄と[][]の字〕は中国国土地宜(地図)をあらわすものであったために厳重な機密とされたが、この秘密を知っている夏音文字の学芸を有する教養人たちが人民に〔愛〕をあらわす鏡であると教えたゆえ、この知識は国中にひろがったのである。
 これゆえ、夏音文字の学芸に精通していた遠江の建比良鳥命は中国国土地図を模る卑弥呼の地上絵を作って「日本建国の〔愛〕の理念」をあらわした。
 しかし長い年月が過ぎて大嘗会が本格的に復興された1738年になると、卑弥呼の地上絵すなわち日本建国の〔愛〕の理念をあらわすと解釈することは困難となった。
 これゆえ、前回(35)のわがブログ「日本国誕生史の復興」でも指摘したように、天皇即位式において天皇の頭上に高々と掲(かか)げられる王冠の下の飾りは「母親が子に乳を与える乳房」の形を模る水器の蓋(ふた)の意匠をもって「日本建国の〔愛〕の理念」を明確に示した。水器の蓋は乳房を模り、水を入れる容器は胎児が宿る子宮や妊婦のおなかを表現し、容器に入れる水は胎児の命をまもる羊水をあらわたので――水器は胎児が無事に出産する祈願あるいは国土に人民が満ち満ちあふれる願いを示す「日本建国の〔愛〕の理念」をあらわす神具であった。

◆L図とM図が明確に示すように、3世紀後半に生存した建比良鳥命は[]の字源である「平面的に図化する中国国土地図」の知識を有していた。
 前述したように、C図の倭34小国名は各小国の宜(平面的な地図の形=範囲)を示し、【科学】が成立してまったく矛盾点が存在せずすべて合理となる。『魏志』倭人伝に記述されたとおり、上古には錯覚の転回日本列島地理を成立させた夏音文字の学芸が確かに存在した。だから、卑弥呼の地上絵には、C図に示した転回日本列島地理と倭の34小国名を成立させた夏音文字の学芸知識、いいかえると当時の最高レベルの学芸知識が貯蔵された。
 前々回(34)のブログ「日本国誕生史の復興」で証明したように、わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、6世紀であるとする定説は明らかに誤読の空論である。わが国にはいま残っている中国漢字の最古の上古音(西周初頭の漢字音)よりも約1000年も古い夏音文字の字音(夏音)が『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に多数記載されている。定説だとわが国の最古の漢字音は、中国漢字の上古音よりも約1500年も新しい前期中古音(南北朝の漢字音)ということになるので、定説は誤読の空論・暴論であった。
 また、白石以後の学者たちが〔東〕に伸びると定める日本地図で卑弥呼が居住した王国を立論した意見は約2000字で構成される『魏志』倭人伝には文字が1字も書かれていなかった真っ白けの白紙であったことになるゆえ、紛(まぎ)れもなく〔誤読の空論〕である。
 だから(1)[]のキャッチと(2)わが国の最古の漢字音、この二つの視点によって白石以後の学者たちの意見は〔誤読の空論〕であったことになる。

 「玄界灘」の「玄」つまり〔[]をキャッチ〕にもとづくと、卑弥呼の地上絵に貯蔵された〔夏音文字の学芸における科学〕が解明できる。3世紀には【科学】という語は無かったが、【科学】から生まれた[]すなわち中国国土地図を利用して卑弥呼の地上絵が作成されて日本建国の〔愛〕の理念が保存された。これゆえ【科学】の方法で作成された遺跡からは、たとえ約1750年前の神代の出来事であっても確かな歴史を知ることができる。
 3世紀、わが国には中国国土地図の知識が確かに存在したゆえ、高度の夏音文の学芸が存在した。白石以後の学者たちは〔誤読〕を駆使(くし)して3世紀には高度の夏音文の学芸はまったく存在しなかったと立論した。この結果、白石以後の学者たちの〔誤読の空論〕によって『古事記』上巻に記述された神代の出来事は絵空事になったのである。
 〔文献批判〕を1点も加えずに忠実に読解すれば『古事記』上巻の全記事は夏音文字の学芸が基軸とする[]の【科学】によって真実の歴史が芋づる式に解明できる仕組みになっていた。だから、白石以後の[]を最も重視した夏音文字の学芸を排除して〔文献批判〕を多用する意見はおのずと〔誤読の空論〕となったのである。

時の天照大御神・大和王朝が独占管理して厳重に機密保持する学芸を一氏族が私有することになる卑弥呼の地上絵の作成は絶対に許されない大罪であり、氏族が皆殺しとなる国家転覆罪となる反逆であった。それでも伊耶那美命・壱与・竹野比売(本名)に熱烈にあこがれる建比良鳥命とその一族は大和朝廷の厳しい監視の目を盗んでまんまと出しぬいて卑弥呼の地上絵を完成させた。
 このような快挙が3世紀において実際に存在したのである。
 したがって、有名な作家深沢七郎氏は「生まれることは屁()と同じ」と箴言(しんげん)(のたまわ)ったが、[]とわが国に残っている最古の漢字音を伝える夏音文字によってわたくしたち日本人の命は〔愛〕から生まれると反論することができるようになる。

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