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2016年12月14日 (水)

日本国誕生史の復興・37

 井伊家の創設儀式と高尾山古墳(1)

◆遠江(とおとうみ/静岡県西部)の豪族の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)とその一族は、3世紀後半に伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を後世まで伝えるために、A図に示す1千万坪の卑弥呼の地上絵を作った。この〔卑弥呼の地上絵〕は静岡県浜松市北区細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形となって現存する。
N701
(C) 2016 OHKAWA

 1010(寛弘7)、卑弥呼の地上絵の北隣の引佐町(いなさちょう)に居住して神官の職についていた建比良鳥命家は、武士の井伊家に生まれ変わった。
 この武家の井伊氏創設儀式の様子は、A図の上部に示す井伊家の菩提寺(ぼだいじ)である龍潭寺(りょうたんじ)が所蔵する古文書『井伊家伝記』に記述されている。龍潭寺は静岡県浜松市北区の引佐町の井伊谷(いいのや)に所在する。
 『井伊家伝記』に記述される井伊家創設儀式の記事を現代語に訳すると次のごとくになる。
 「井伊家元祖の備中守(びっしゅうのかみ)の共保(ともやす)公は、六十六代一条(いちじょう)天皇(9861011年在位)の時代の、寛弘(かんこう)7(1010)正月元旦の朝の寅(とら)の刻(こく/午前4)ころ、井戸の中から化現(かげん)した(井戸の中から出現して井伊氏が誕生したことを演じた)人である。遠州(静岡県西部)の引佐郡の井伊保(いいほ/現在の井伊谷)に昔から八幡宮(はちまんぐう/A図の上部参照)があった。この井伊保の八幡宮は、延喜(えんぎ)帝つまり60代醍醐(だいご)天皇が60余州の神社を山城(やましろ)(現在の京都府)吉田(よしだ)へ一括して祭ることになったとき、遠江(とおとうみ)62社のうち引佐郡6社の第一位の宮(一の宮)となった。〔このことは、延喜式(えんぎしき)の神名に記載されている〕。
 八幡宮の神前の瑞籬(みずがき)の傍(かたわ)らには神田があり、この神田の内側に参拝者が手や口を清めるための御手洗(みたらし)の井戸がある。神主(建比良鳥家の頭首)が元日の朝に参詣(さんけい)したときに、忽然(こつぜん)と井戸の中から嬰児(えいじ)が出生するのを目撃し、この子の容貌(ようぼう)はとりわけ美しく麗(うるわ)しかった。神主は不思議なことと思い、そこで龍潭寺の中の自浄院(じじょういん)で産湯(うぶゆ)を掛けることにした。この子は実母がいないと定められた武士となるための子捨(こす)て儀式による赤ン坊であるゆえ産粥(うぶがゆ)をあたえてご養育することにした。このことを吉例(きちれい)として、龍潭寺の住持(じゅうじ)は代々現在にいたるまで、正月の元日の朝の寅の刻に井戸の水を汲み、産湯と古来より言い伝えられている産湯をかけた赤ン坊が食べる産粥を、元祖の共保公のご遺影(いえい)へ献上し読経(どきょう)などをつとめている。この行事は古法の嘉()き慣例である。このような由緒(ゆいしょ)は、共保公より十三代後の井伊信濃守(しなののかみ)直平(なおひら)公が龍潭寺へ寄進(きしん)した書状の一通に記載してあった。」

◆上記の井伊家創設儀式は、B図に示す沼津市の高尾山古墳から出土した鏡であらわされた【日本建国の〔愛〕の理念】を演出するものであった。
N702
(C) 2016 OHKAWA

 
 この儀式では「元祖の共保が引佐町八幡宮の井戸の中から誕生する」というファンタスティックな演出でおこなわれた。このため「井戸の中から人間の子が生まれるなんて話は現実にはありえない空想話だ。歴史を伝えるものではない」などと文献批判されている。ゆえに、『井伊家伝記』に記述された井伊家創設儀式記事は日本国誕生史の秘密を伝える重大な史料であるにもかかわらず、〔文献批判〕の解釈によって無視されることになった。
 〔文献批判〕を全面的に正しいと定める“誤読大明神”信仰の学者たちは“あかんべー”と見得(みえ)を切るが――
2
(C) 2016 OHKAWA

 〔文献批判」は〔後世の人々が文献の記事よりも自分の考えのほうが合理であると主張する主観的な意見〕であるゆえ、必ずしも正しいわけではない。その証拠に〔文献批判〕は〔その文献が伝えている時代の状況や特殊な環境などを一切考慮しない、客観性を排除する誤読、誤訳、偏見(へんけん)の可能性がある意見〕だからである。
 『井伊家伝記』に記された元祖共保が誕生した井戸の名をあらわす「御手洗(みたらし)」は、今日「神社の入り口の近くにあって、参拝する人が手や口を清める所」である。しかし「御手洗」は、元来「身をかがめて、天頂点と重なる銀河部位を水面に映して精密に緯度をキャッチするための鏡、すなわち水鏡」をあらわす語であった。したがって、この時の「身をかがめる」の「かがめる」という行為が「鏡(かがみ)」の語源となった。鑑は“1面”“2面”と数えるが、この数詞の「面」は〔水鏡となる平らな水面〕の「面」であったことになる。ゆえに、「御手洗」という語は、高尾山古墳の主体部から出土したB図の「鏡」を意味した。
 というのも井伊家創設儀式はA図の卑弥呼の地上絵の守り番であった建比良鳥家が〔神官職をやめて武士となり、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えていくための新たなる決意〕を示す儀式であったからである。
 したがって共保誕生儀式における「御手洗の井戸」は、C図の「井戸の正方形の井桁(いげた)形に相似する沼津市の高尾山古墳の後方墳」に見立てるものであったことになる。
N703
(C) 2016 OHKAWA

 D図に示す勾玉(まがたま)は、井戸の井桁の形に相似する高尾山古墳の後方墳の主体部に埋められれていた【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわすB図に示した鏡ともに出土した。
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(C) 2016 OHKAWA

 E図に示すように、高尾山古墳の後方墳から出土した勾玉は胎児の姿に相似する。ゆえに、勾玉も「国土に多数の子どもが生まれる」すなわち【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす遺物であった。
N705
(C) 2016 OHKAWA

 


 伊耶那美命は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす鏡1面と勾玉1点を高尾山古墳の主体部の地中に納めて、地中に潜(ひそむ)む精霊すなわち地霊(ちれい)に「国土安泰と国家繁栄」を祈願した。
 ゆえに井伊家創設儀式は〔高尾山古墳の後方墳の地中から【日本建国の〔愛〕の理念】の精霊が地上にあらわれて、国土にたくさんの子どもが生まれあふれる様子〕を演出するものであった。だから、この儀式における「元祖共保があらわれた井戸」は「【日本建国の〔愛〕の理念】に尊重してたくさんの子どもが生まれる〔広い産道〕」をあらわした。

◆井伊家創設儀式では――〔【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした鏡を埋めた高尾山古墳の後方墳〕を〔井戸〕に見立てて、赤ん坊の共保を井筒(いづつ)の部分から井桁の部分まで吊り上げた。「井筒」は地中に埋まった井戸の胴筒の部分、「井桁」は地上に出た上部の方形の木組みである。真上から井桁と井筒を見下ろすと井桁しか見えないゆえ、井伊家の家紋はF図に示す「平井筒」の形となった。
N706
(C) 2016 OHKAWA

 これゆえ、F図に示した井伊氏の家紋は「真上から見下ろした時に井桁と井筒が重ねる、井戸を平面的にあらわした図案」であった。したがって、井伊家の紋章は「平面的」をあらわしたものゆえ、先頭に「平」の字がつく「平井筒」という名称で呼ばれることになった。
 『古事記』上巻は「伊耶那美命は香山(かぐやま/香久山)の畝尾(うねお)の木()の本(もと)に坐(いま)す、名は泣沢女神(なきさわめのかみ)にて臨終した」と記述する。
 G図に示す奈良県橿原(かしはら)市木之本町(このもとちょう)に所在する哭沢(なきさわ)神社が、伊耶那美命が死去した地とされる。哭沢神社は香久山の頂上より直線距離で約450m西北に離れた地に鎮座する。
N711
(C) 2016 OHKAWA

 
 伊耶那美命の臨終地である証拠に、哭沢神社の祭神は『古事記』に記載された「泣沢女神」である。また、哭沢神社のご神体は玉垣に囲まれる空井戸である。
 ゆえに井伊家創設儀式では元祖の共保が井戸の中から生まれると演出されることになった。だから、井伊家創設儀式は哭沢神社で没した伊耶那美命が生前に高尾山古墳の後方墳に埋めた鏡であらわした【日本建国の〔愛〕の理念】を後世まで伝えるための儀式であったことになる。
 井伊氏の[]の字はC図に示した「【日本建国の〔愛〕の理念】ををあらわす鏡を埋めた高尾山古墳の後方墳」を示し、次の[]はもちろん「伊耶那美命と伊耶那岐命」をあらわした。
 ゆえに井伊家創設儀式によって成立した「井伊」という氏族名とF図に示した「平井筒」の家紋は、高尾古墳の主体部に埋められた鏡で示された【日本建国の〔愛〕の理念】を新たに武家となって守ってゆく固い決意を示す氏族名であり家紋であった。

◆わがブログは3回前の「日本国誕生史の復興・34」にて――漢字は銀河各部の形状から作られたことを証明した。「銀河」の別称は「銀漢」、したがって「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と呼ばれることになったのである。
 わが国に伝来した今から約4050年前に伝来した夏音(かおん)文字、学者たちが最古の漢字とする甲骨(こうこつ)文字、周代に出現した金文、篆文(てんぶん)、後漢時代に出現した楷書(かいしょ)などのすべての漢字の字源・字形・字義は下に示す銀河の各部の形状から成立した。これゆえ、この銀河をわたくしは「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
Ginga

   文字作成銀河の各部には名称が存在しない。これゆえ、わたくしは下図のごとく各部の名称を定めた。
Photo
(C) 2016 OHKAWA

 上記の〔文字作成銀河各部の名称図〕の左上には、わたくしが「オス鹿の横顔に似る銀河」と名づけた銀河がある。
 井伊家創設儀式がおこなわれた1010年の陰暦の11日はグレゴリオ太陽暦で何日となるかを、暦の会編者『暦の百科事典』(新人物往来社)で調べると124日となる。
 H図に示す〔歳差(さいさ)を利用すると、1010年の陰暦11(太陽暦の124)の銀河の状況を再現することができる。
N712
(C) 2016 OHKAWA
  
 H図に示した天の北極とともに春分点もまた、25,800年で黄道の北極(H図の中央)を中心にして一周する。円周は360度である。ゆえに25,800年割る360度は71.666となる。したがって、天の北極と春分点は71.666年ごとに黄道の北極を中心とする円周上を1度ずつ移動している。井伊家創設儀式が行われた1010年は現在(2016)より1006年前である。これゆえ、1006年割る71.666年は14度となる。つまりH図に示したように、現在の天の北極の位置から14度過去の方へ戻した黄道の北極を中心とする円周上の位置が1010年の天の北極の位置となる。また、同様に現在の春分点の位置から14度過去の方へ戻した黄道の北極を中心とした円周上の位置が1010年の春分点の位置となる。だから天の北極と春分点を14度過去の方へ戻せば、1010年の星空図や銀河状況図を再現することができる。
 要するに、その古代は現在から何年前かを計算し、その差額年数を71.666で割れば、その古代の星空図や銀河状況図は再現できる。
 天文の緯度の表示方法はいろいろあるが、そのうちの〔赤緯(せきい)〕を用いるとよい。赤緯は地球の北緯90(北極点)の天頂を+赤緯90度、南緯90(南極点)の天頂を-赤緯90度、赤道の天頂を0度と定める。これゆえ、井伊家創設儀式がおこなわれた北緯3449.5分の引佐町八幡宮の天頂は+赤緯3449.5分となる。このように土地の緯度数と天頂の赤緯の緯度数は同一となるので、赤緯を用いるとその土地の古代における天頂にめぐってきた銀河部を容易に知ることができる。

◆I図は、1010年の陰暦11日の寅の刻(午前4)の銀河状況図である。
N713
(C) 2016 OHKAWA
 

 I図の左上に示すように、1010年の陰暦11日の寅の刻に、わたくしが「十字の銀河」と「長方形の暗黒天体部」と名付けた銀河は東の地平線に接近するも未(いま)だ地下に潜(もぐ)っていた。しかし、「鬼の姿に似る銀河」は地平線上に出現していた。
 やがて、30分過ぎて寅の刻の午前430分になると、「十字の銀河」も「長方形の暗黒天体部」も地平線上に出現した。
 J図に示すように、地平線上に出現した「オス鹿の横顔に似る銀河」は「十字の銀河と「長方形の暗黒天体部」と「鬼の姿に似る銀河」で構成される。
N721

(C) 2016 OHKAWA


 1年の始まりの元旦から、年が新しく生まれる。
 「オス鹿の横顔に似る銀河」が東の地平線から昇りはじめる様子は、「オス鹿の横顔に似る銀河」が東の地平線から生まれる(出生する)ように観()える。そして元日の寅の刻には夜がうす暗くなる薄明時(はくめいじ)がはじまり、一刻(2時間)経過した卯()の刻には太陽が地平線から昇る。だから卑弥呼の地上絵の守り番となる武家の井伊氏の誕生儀式は、建比良鳥家を廃(はい)して新しく井伊家に生まれ変わるにふさわしい「オス鹿の横顔に似る銀河」が地平線から生まれる(昇る)元旦の寅の刻におこなわれた。
 特に注目すべきは「オス鹿の横顔に似る銀河」は、B図の「【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす鏡における〔鹿〕という注が付く絵柄」を示した。だから、井伊家創設儀式は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわすことができる元旦の寅の刻におこなわれたのである。

 J図は1010年において八幡宮の天頂にめぐってきた「オス鹿の横顔に似る銀河」の状況図である。
 J図に示した緯度線は、1010年当時の北緯3449.5分の八幡宮の天頂にめぐってきた「オス鹿の横顔に似る銀河」を貫通した天頂緯度線である。八幡宮の天頂緯度線は、「長方形の暗黒天体部のほぼ中央」を貫通した。
 K図に示すように、八幡宮の天頂にめぐってきた「長方形の暗黒天体部の北半分」は〔高尾山古墳の後方部(C図を参照)〕の形に相似し、「長方形の暗黒天体部の南半分」の形状は〔高尾山古墳の前方部〕の形に類似する。
N722

   K図に示す「長方形の暗黒天体部の北側」は〔井桁(いげた)〕に見立てられて[]の字形となった。「長方形の暗黒天体部の南側」は〔井筒(いつつ)〕に見立てられた。そして、井伊家の[]の字源は〔高尾山古墳〕に見立てられた「長方形の暗黒天体部」であった。
 K図に示した「激流の銀河」は〔水が流れて清く澄む小川や池の箇所〕見立てられた。また、[]の字源となった「長方形の暗黒天体部の北側」は〔天頂点と重なる銀河部がキャッチできる水面つまり水鏡〕に見立てられた。これゆえ、共保が現れた八幡宮の井戸は「御手洗の井戸」と名づけられたのである。前述したように「御手洗の井戸」の「御手洗」は「天頂点が映る水鏡を、身をかがめて見る」とあらわすものであり、その「屈(かが)み」は「鏡(かがみ)」の語源となった。
 K図に示す「鬼の姿に似る銀河の後頭部とアゴにつく両目は、[]の字源・長方形の暗黒天体部の北側をじっと見つめている」ように観える。だから「長方形の暗黒天体部の北側」は〔水鏡〕に見立てられたのである。

K図の右側に、[]の契文(けいぶん/甲骨文字)の字形と金文形を配置した。わが国の古代中国文字研究の第一者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)[]の古代字形について「いくらか膝(ひざ)を屈する形につくる」と指摘する。つまり、[]の古代字形は「人がかがめる側身形(そくしんけい)」であった。だから、[]の契文と金文の字形は「水鏡を見る側身形」を図案するものであったことになる。
 「激流の銀河」は〔羊水〕に見立てられた。羊水は産道を湿潤(ひつじゅん)にして胎児の産道通過を容易にし、産道内の不純物を洗い出す。また「長方形の暗黒天体部」は〔胎児が通過して出産する産道〕に見立てられた。だから、〔誕生した胎児の姿〕に観える「鬼の姿に似る銀河」は〔出産した新生児〕に見立てられたのである。

◆I図に示したように、『井伊家伝記』が伝える寛弘7(1010)の元旦の寅の刻には「オス鹿の横顔に似る銀河」が地平線上から昇らんとしていた。したがって、「オス鹿の横顔に似る銀河」は、B図に示した鏡の「鹿」という注が付く絵柄をあらわした。
 儀式がおこなわれた寅の刻の「寅」は、B図に示した鏡の「虎」という注が付く絵柄をあらわした。
 A図に示した卑弥呼の地上絵は、大鳥の形をしている。ゆえに「卑弥呼の地上絵」は、B図に示した鏡の「鳥」という注が付く絵柄をあらわした。
 「井戸の中から出生した共保」は、B図に示した鏡の「羽人」という注が付く絵柄が示す「たくさんの子どもが生まれて国土に人民が満ちあふれる様子」をあらわした。
 B図の鏡に残された[]は「地宜(ちぎ)」つまり「平面的に図化した地図の形」を意味した。ゆえに、A図の「卑弥呼の地上絵」が[]をあらわした。
 以上のごとく、井伊家創設儀式は伊耶那美命が高尾山古墳の主体部に埋めた鏡であらわした【日本建国の〔愛〕の理念】を守ってゆく決意を示すものであった。
 したがって、「『井伊家伝記』の記事は歴史を伝えるものでない」と否定する〔文献批判〕は〔誤読〕であった。この〔誤読〕は、日本人がほんとうの日本人になれる真実の歴史を抹殺(まっさつ)する、とんでもなく迷惑千万(めいわくせんばん)な過ちといわざるをえない。

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