« 日本国誕生史の復興・37 | トップページ | 日本国誕生史の復興・39 »

2016年12月24日 (土)

日本国誕生史の復興・38

 井伊家の創設儀式と高尾山古墳(2)

◆このブログは前回の「日本国誕生史の復興・37」の続きである。
 前回のブログで指摘したように、A図の上部に示す龍潭寺(りょうたんじ)が所蔵する『井伊家伝記』は「1010(寛弘7)、井伊家元祖の共保(ともやす)公は八幡宮の御手洗(みたらし)の井戸より出現(出生)す」と記述する。龍潭寺は静岡県浜松市北区の引佐(いなさ)町井伊谷(いいのや)に所在し、井伊家の菩提寺(ぼだいじ)である。
N731
(C) 2016 OHKAWA
 
 A図上部に示すように、井伊家創設儀式がおこなわれた八幡宮の御手洗の井戸は龍潭寺のすぐ傍(そば)の南の地に所在する。
 B図は、2008年に発見された静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳の規模図である。高尾山古墳は東日本最古で最大の前期古墳である。
N732
(C) 2016 OHAKAWA

  わがブログ「日本国誕生史の復興」の2回~15回までにおいて――高尾山古墳は『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に登場する、伊耶那美命と伊耶那岐命が最初に結婚した式場である――ことを証明した。この高尾山古墳における結婚式で伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めると唱えた。この【日本建国の〔愛〕の理念】は、伊耶那美命が倭女王に就任して小国・日本を去るときにも、上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)を砕(くだ)いて表示された。【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす鏡は、B図に示した高尾山古墳の主体部から発掘された。
 C図に示す高尾山古墳から出土した上方作系浮彫式獣帯の破砕鏡(はさいきょう)が、【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。
N733
(C) 2016 OHKAWA
 

前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・37」で証明したように、C図に示す「鹿」「虎」「鳥」「羽人」と注がつく4つの絵柄と[][()]2字は「中国の国土に多数の人民が満ちあふれる」と表現した。したがって、C図の破砕鏡の絵柄と文字は「〔愛〕が尊重されて中国の国土にたくさんの人民が満ちあふれる願い」を表現した。これゆえ、伊耶那美命は上方作系浮彫式獣帯鏡にあった仙人の絵柄の部分を砕いた。彼女は残った4つの絵柄と2字で【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわすことになった鏡を高尾山古墳の主体部に埋めて、地中の精霊に「人民が国土に満ちあふれる平安」を祈願した。
◆前回のブログで証明したように、『井伊家伝記』が伝える井伊家創設儀式はC図に示す静岡県沼津市の高尾山古墳から出土した鏡があらわした【日本建国の〔愛〕の理念】を演出する儀式であった。
 わがブログは、何回も漢字は銀河の各部の形状を図案して作られたことを解明した。この漢字が作られた銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけた。
Ginga

 
  文字作成銀河の各部には名称が無い。ゆえに、わたくしは文字作成銀河の各部に次のごとく名前を付けた。
Photo
(C) 2016 OHKAWA
 
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・37」で具体的に解説した〔歳差〕を利用すると、過去の銀河部の緯度状況を知ることができる。
 文字作成銀河各部の名称図の左上には「オス鹿の横顔に似る銀河」がある。
 D図に示すように、1010年当時、「オス鹿の横顔に似る銀河」は井伊家儀式がおこなわれた北緯3449.5分の八幡宮(御手洗の井戸)の天頂にめぐってきた。
N734
(C) 2016 OHKAWA
 
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・37」で証明したように、井戸の中から共保が出生する井伊家創設儀式がおこなわれた1010年の11日の寅の刻(午前4時ごろ)、「オス鹿の横顔に似る銀河」は東北の地平線から昇らんとしていた。
 E図に示すように、井伊家創設儀式がおこなわれた時刻に地平線から昇らんとした「オス鹿の横顔に似る銀河」は〔両翼をひろげる鳥の姿〕にも相似する。ゆえに、この〔両翼をひろげる鳥の姿〕から[][(カモ)]の金文形が作られた。
N735
(C) 2016 OHKAWA
 
 E図で注目すべきは、高尾山古墳の天頂には「オス鹿の横顔に似る銀河」のうちの「長方形の暗黒天体部のほぼ中央部」が通過したことである。なぜ注目すべきことになるかといえば――D図に示すように井伊家創設儀式がおこなわれた1010年においても、北緯3449.5度の儀式の会場(八幡宮の井戸)の天頂に「長方形の暗黒天体部のほぼ中央部」が通過したからである。したがって、井伊家創設儀式は伊耶那美命が高尾山古墳に【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす鏡を埋めた歴史を演出するものであったことになる。
 井伊家創設儀式がおこなわれた元旦の東北の地平線から昇らんとしていた「オス鹿の横顔に似る銀河」は、C図の高尾山古墳から出土した鏡の「鹿」の絵柄を示した。井伊家創設儀式がおこなわれた「寅の刻」の「寅」は高尾山古墳から出土した鏡の「虎」の絵柄を示した。E図に示す「オス鹿の横顔に似る銀河」は「羽をひろげて空を飛ぶ鳥の姿に似る銀河」ともいえるので、高尾山古墳から出土した鏡の「鳥」と「羽人」の絵柄をあらわした。
 そして、高尾山古墳から出土した鏡の[]は「地宜(ちぎ)」を意味した。「地宜」とは「平面的に図化した地図の形」である。したがって、A図に示した1千万坪の卑弥呼の地上絵が[](大鳥の形をした地宜/)ちぎ)地上絵〕をあらわした。
 だから、井伊家創設儀式は伊耶那美命が高尾山古墳の主体部に埋めたC図の鏡であらわした【日本建国の〔愛〕の理念】を演出する儀式であったことになる。

◆わがブログ「日本国誕生史の復興」の21回~24回で詳細に証明し、また35回と36回でも解説したように――C図に示した鏡の〔「鹿」「虎」「鳥」「羽人」という注が付く4つの絵柄と[][()]2字〕は、F図に示すように「中国の国土に多数の人民が満ちて住む意」を表現するものであった。
N741
(C) 2016 OHKAWA
 
 つまりG図に示すように、「鹿」は〔オス鹿の横顔〕に相似する「山東半島と廟島(びょうとう)列島の地宜(ちぎ)」があらわした。
N742
(C) 2016 OHKAWA
 
 またF図に示す「山東半島の付け根より南の海岸線の地宜」は東シナ海に妊婦のおなかのごとく円く突き出るゆえ〔胎児を出産する時の妊婦のおなか〕に見立てられた。これゆえ〔胎児を出産するするときに母親が発する怒責(どせき/いきみ、きばる行為)の大声はまるで虎が吠える声〕に似ているということで、「山東半島付け根から南の海岸線の地宜」は「虎」をあらわすと定められた。
 また「山東半島とその付け根から南北に伸びる海岸線」は〔両翼を広げて空を飛ぶ鳥の姿〕に相似すると見立てられて「鳥」をあらわすことになった。
 上記の「鳥」に見立てられた「山東半島とその付け根から南北に伸びる海岸線」が「羽人」の[][]は「中国の国土に多数の人民が住む願い」をあらわすことになった。
 「羽人」は[]の金文形と共通した。というのも、[]の金文形上部の[]は「空を飛ぶ味鴨」を図案するものであったからである。古代、空を飛ぶ味鴨の群れの長さは3kmにも及んだ。これゆえ、[]の金文形は「多数の人民が国土に満ちて住む状況」をあらわした。
 H図は、「鹿」「虎」「鳥」「羽人」をあらわす[]つまり「平面的に図化した中国国土地図の形」である。
 I図は、A図に示した卑弥呼の地上絵の鳥の頭部をG図に合わせて東に向ける[(地上絵)]である。
N743
(C) 2016 OHKAWA
 
 I図の卑弥呼の地上絵は、F図にて解説した「鹿」「虎」「鳥」「羽人」に相似すると見立てられた海岸線で包まれる中国国土地図に相似する。ゆえに卑弥呼の地上絵は、伊耶那美命がC図に示した鏡の「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵柄と[]の字をもって【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした歴史を伝える遺跡であった。

◆高尾山古墳から出土した鏡に残った[]の字は、F図が示すように「中国海岸線」をあらわす。いっぽう、卑弥呼の地上絵における「中国の海岸線」をあらわす部分は〔南〕に在る(A図を参照)。ゆえに、「卑弥呼の地上絵の南の境界線」が鏡に残った[]の字をあらわす。
 J図に示すように、八幡宮とA地(卑弥呼の地上絵の経緯度原点地)を結ぶ線を「上」をあらわす南へと延長すると――その延長線は村櫛半島の付け根の地域にある〔内浦〕の東端を貫通する。(内浦は浜名湖の支湖である)
N744
(C) 2016 OHKAWA

  K図に示すように、〔内浦の地宜〕は高尾山古墳から出土した鏡に残った〔「鹿」「虎」「鳥」の絵柄の頭部がない首から胴体部までの形〕に類似する。
N751
(C) 2016 OHKAWA

 したがって共保が出生した八幡宮の御手洗の井戸・経緯度原点のA地と結ばれる〔内浦の地宜〕によって、〔【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす鏡が高尾山古墳に埋められて歴史〕を建比良鳥命家さらに後の井伊家は後世まで正確に伝えることができたのである。
 この“【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える資料”といえば、岡本天皇が作った『万葉集』485番の長歌も後世に【日本建国の〔愛〕の理念】を伝えた。これについては、わがブログ「日本国誕生史の復興」の16回~19回で解説した。
 『万葉集』485番の長歌の5句までは「神代より 生()れ継ぎ来れば 人さはに 国には満ちて 味村の」である。5句目の原文「味村の」は「味群(あぢむら)の」と変換表記されて「味鴨の群れ」と解釈される。
 J図に示したように、内浦は村櫛(むらくし)半島の付け根に所在する。ゆえに「村櫛半島」の「村」は「味村」の「村(味鴨の群れ)」をあらわすものであったにちがいない。
 J図に示したように、村櫛半島は西南の方に伸びる。L図に示すように、琵琶湖も村櫛半島と同じく西南の方へ伸びる。
N752
(C) 2016 OHKAWA

 L図における〔琵琶湖大橋より南の琵琶湖の地宜〕は、〔頭髪を梳()く櫛の形〕に相似する。ゆえに、「村櫛」の「櫛」は「櫛の形に似る琵琶湖大橋より南の琵琶湖の地宜」をあらわすものであったと考えられる。というのも、岡本天皇が作った『万葉集』485番の長歌の反歌(はんか)である487番の短歌の初句と2句は「近江道(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる」と詠むからである。
 だから、「遠江の村櫛半島の、村櫛」の「村」は「味鴨の群れ」、「櫛」は「近江琵琶湖大橋より南の、櫛の形に相似する湖」をあらわすものであったにちがいない。

◆M図に示すように、遠江の内浦と近江彦根城の本丸(内濠に囲まれる丘と麓と彦根城)の地宜は相似する。というのも、内浦の〔東〕は彦根城の本丸の〔南〕に相当するからである。
N753
(C) 2016 OHKAWA


 N図に示すように、彦根城の南には近江八幡市がある。
N754
(C) 2016 OHKAWA

 「八幡」で合致するJ図の北の「八幡宮」をN図の南の「近江八幡市」に見立てると、J図の〔内浦〕はN図の〔彦根城の本丸〕に相当する。K図に示したように〔内浦の地宜〕は「鹿」「虎」「鳥」の絵柄の首・胴体の形に見立てられたゆえ、N図に示す〔彦根城の本丸〕の地宜も「鹿」「虎」「鳥」の絵柄に見立てられたとことになる。したがって、〔近江八幡〕という市名と「八幡宮」は「八幡」で共通するゆえ、「近江八幡」という地名の由来は井伊氏創設儀式がおこなわれた遠江引佐町の八幡宮であったことになる。
 関ケ原合戦の4ヵ月後の1601年正月、遠江引佐町井伊谷を本拠地とした卑弥呼の地上絵の守り番の譜代(ふだい)大名の筆頭であった井伊氏は、徳川家康に近江の佐和山(さわやま)城の移住を命じられた。井伊氏近江藩は佐和山城の西側の金亀(こんき)山に築城することにして、1603年から1622年までの20年の年月費やして3千万坪の大鳥の地上絵を近江の大地に作成した。
 O図に示すように、〔彦根の大鳥の地上絵におけるくちばし・頭〕は〔高尾山古墳から発掘された鏡の「鳥」のくちばし・頭の形〕に相似する。
N761
(C) 2016 OHKAWA

 C図に示した「羽人」の絵柄は〔味鴨の姿〕に似ていない。また「鹿」と「虎」の注が付く絵柄は味鴨の姿に相似するが、その「鹿」と「虎」という注が「味鴨」をあらわさないことになる。しかし、「鳥」の絵柄は〔鳥の味鴨〕をあらわすとともに〔味鴨の姿〕にも相似する。だから、彦根の大鳥の地上絵の〔くちばしと頭〕は高尾山古墳から出土した鏡の「鳥」の〔くちばしと頭〕の形に合致するように設計された。
 井伊家は【日本建国の〔愛〕の理念】を後世まで正確に伝承することに努(つと)めた。これゆえ、井伊家は伊耶那美命が高尾山古墳に埋めた鏡にあった「鳥」の絵柄の細部の形を17世紀初頭まで正確に伝えることになった。だから、彦根の大鳥の地上絵には高尾山古墳の「鳥」の絵柄に相似するくちばしが設計されることになったのである。
 これゆえ、N図に示した〔彦根の大鳥の地上絵〕は〔琵琶湖に浮かぶ味鴨の姿〕に設計されることになったのである。
 P図は、彦根藩井伊氏が先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が作った卑弥呼の地上絵の3倍の大きさ(3千万坪)に作成した大鳥の地上絵である。
N762


 この大鳥の地上絵は、現在の彦根市の行政区域を表示する地図の形となって残る。
 現存する彦根の大鳥の地上絵には羽がない。[]の下に[]に加わると[]うという字になる。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍(のちやや)夏音(かおん)を習う」と中国王朝に告げた――と記載する。だから、N図に示した彦根の大鳥の地上絵の彦根城と愛知川(えちがわ)河口を結ぶ線は「夏至の日の出」を指さして「夏音文字」をあらわす仕組みになっている。
 これゆえ、P図の彦根の大鳥の地上絵は「未だ夏音文字の学芸は習わず(復興せず)」と皇室に抗議する地宜であったのである。また彦根の大鳥の地上絵は「未だ【日本建国の〔愛〕の理念】は習わず(復興せず)」と皇室に欲求する地宜であった。このため、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた伊耶那美命と【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ伊耶那岐命を主祭神として祭る多賀大社がある東方には、羽の形を図化しなかった。
 だから、彦根の大鳥の地上絵の〔くちばしと頭〕
は高尾山古墳から出土した「鳥」の〔くちばしと頭〕と同じ形になるように作られ、琵琶湖に浮かぶ味鴨の姿をあらわすに設計されたのである。

◆井伊家の菩提寺の引佐町井伊谷に所在する龍潭寺発行の『井伊氏・龍潭寺年表』の3頁には、次のような記事がある。
 「正暦(しょうりゃく)年中公家の藤原共資(ともすけ/共保の養父)倫命(りんめい)により遠江国村櫛の郷に下って居住する。〔井伊家伝記〕 ※正暦四年村櫛に志津城(しづじょう)=館を築いて住んだと伝えられる。〔三ケ日町史〕
 1010(寛弘7)、井伊氏祖備中守共保公八幡宮御手洗の井中より化現(出生)す。七歳の時、共資の養子となる。井伊保城山(しろやま)に見立城(みたてじょう)を築き居城。共保公出生の在名(ざいめい)居城の縁に依って井伊を以て御家名(ごかめい)となる。〔井伊家伝記〕」
 三ケ日町は、引佐町と卑弥呼の地上絵(細江町)に隣接して西側に所在する。
 上記の『井伊家伝記』が記載するように、遠江国守に就任した公家の藤原共資は「倫命」すなわち「人として実行すべき使命」のもとに村櫛半島南端(J図を参照)の地に城を築いて慣れない武士となった。なぜ彼は武士となったかといえば、彼は【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸は絶対に人として守らなければならかいと思ったからである。
 8世紀半ばの聖武(しょうむ)天皇が治める天平(てんぴょう)期は律令(りつりょう)体制の最盛期であったと同時に、律令体制の屋台骨が根底から崩壊する時期でもあった。この期を境に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が発令され公地公民(こうちこうみん)主義の大修正がなされ、律令体制は解体の第一歩を踏み出した。
 743年に発令された墾田永年私財法によって、開墾(かいこん)した田地の私有が認められるようになった。すると、寺社や有力貴族は労働力を集め、すぐれた鉄製農具をもって、財力にまかせて開墾するようになった。こうした各地に開墾された田地(墾田)が増加してゆき、寺社や貴族は墾田を経営するため、倉庫や管理所を設置して「荘(しょう)」と呼ぶようになり、やがて荘を中心とする土地全体を「荘」とか「荘園(しょうえん)」というようになった。
 10世紀以後、藤原氏による摂関(せっかん)政治がはじまると、地方の荘園領主たちはきそって摂関家に土地を寄進した。これによって藤原氏の権力と財力は強大となった。
 井伊家が起源した11世紀になると、地方豪族たちは国司(こくし)のもとで実務にあたる役人として地方政治に参加するようになり、荘官(しょうかん)として荘園から利益を得るようになった。また、彼らは他の領主からの侵略をふせぐとともに、所領(しょりょう)を拡大するために一族子弟を家子(いえのこ)とし、配下の名主(なぬし)を郎党(ろうとう)・従者(じゅうしゃ)として武装させて私兵を組織した。
 このような主従関係でむすばれる小規模な武士団が各地に形成されることになった。
 共保の養父となった藤原共資は遠江国守に就任した。当時の遠江の国府は見付(みつけ/現在の磐田市)にあった。しかし、遠江国守の共資は見付から西へ約24km離れた現在の浜松市村櫛半島南端に志津城を築いた。当時の摂関政治は地方政治を担当する国守に大きな権限をあたえて処理させていた。ゆえに、共資は国府がある見付から離れて村櫛の郷に下って遠江を治めても罰せられなかった。
 墾田永年私財法だと開墾した田地は私有地となった。これゆえ、村櫛半島や卑弥呼の地上絵や引佐の郷の原野や山地を武装した侵略者たちに開墾されて私有地にされると、漢字は文字作成銀河から作られた夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】を保存する地名が消滅しさらに卑弥呼の地上絵の境界線をも破壊されることになりかねなかった。ゆえに、共資は南の地から侵入する武士団にそなえて村櫛半島の南端に城を築いた。北から侵入する武士団は建比良鳥命家の人々にまかせて、公家の共資は慣れない武器を持って戦う武士となった。だから、共資が【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸を守った、この行為の原動力は人として実行すべき使命の「倫命」ということになった。
 当時はこのような状況であったので、神官の建比良鳥命家も武家となって卑弥呼の地上絵と地名を守らざるをえないことになった。ゆえに、共資が養父となり共保が養子となって、武士となる子捨て儀式をおこなって井伊氏は起源したのである。
 卑弥呼の地上絵は【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸を保存する遺跡であった。ゆえに【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸をあらわすために、その儀式は井戸の中から共保が生まれるというファンタスティックな演出がなされることになった。

◆【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸は、王朝と国家が独占管理する最も厳重な機密であった。このため、【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸を保存する卑弥呼の地上絵は一氏族が私有することは王朝と国家を転覆する大罪と定められた。だから遠江国守の共資が実行すべき任務は朝廷・摂関政権に報告して王朝と国家に反逆する大罪を犯す卑弥呼の地上絵を破壊することであった。しかし、共資は先ず人として倫命を重んじた。共資の遠祖は藤原不比等(ふひと)であった。不比等は【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸の抹殺(まっさつ)・消滅に最も熱心であった。ゆえに、多くの先人たちは不比等を最も卑劣・悪党と批判して憎悪した。その不比等の子孫である共資は井伊氏元祖の養父となって、卑弥呼の地上絵を庇護(ひご)した。このような遠祖の不比等の名誉を汚して共資が朝廷・国家に歯向かった謀反(むほん)もさることながら、王朝と国家が最も厳重な機密とした【日本建国の〔愛〕の理念】を正確に伝える巨大な地上絵が神代において一氏族によって作られたという事実は起きるはずがない“奇跡”であった。ゆえに倫命に突き動かされた共資によって国家反逆罪の卑弥呼の地上絵が消滅せずにこの世になおも残ったことに、朝廷も藤原摂関家もまったく気づくはずがなかった。藤原共資の職務よりも倫命を重んじた行為によって、卑弥呼の地上絵は後世まで残ることになったのである。
 現在の学者たちは『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に加える〔誤読〕を「文献批判」と呼んで【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸を削除(さくじょ)する。だから、共資が倫命を重んじて守った世界的に第一級の「文字は銀河から作られた」という真実を伝える遺跡にして、日本人にとって重大な【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える遺跡の卑弥呼の地上絵は学者たちの〔文献批判〕によって存在しないことになった。
4
(C) 2016 OHKAWA

 だから学者たちの文献の記事を忠実に読まなければならない学問の基本ルールを無視する“誤読大明神”信仰は、まさに人として実行すべき倫命に反する行為といえよう。また“誤読大明神”信仰は日本人を心底(しんてい)から侮辱する行為であるとわたくしには思えてならないが、あなたはどのように考えますか?

|

« 日本国誕生史の復興・37 | トップページ | 日本国誕生史の復興・39 »

学問・資格」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

ヒエログリフ(聖刻文字)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 日本国誕生史の復興・37 | トップページ | 日本国誕生史の復興・39 »