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2017年1月 7日 (土)

日本国誕生史の復興・39

 井伊直虎と織田信長の日本国誕生史の知識

◆NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」のヒロインが居住した静岡県浜松市北区の引佐町井伊谷(いなさちょう・いいのや)は、A図の卑弥呼の地上絵(細江町)の上部(北隣)の八幡宮と龍潭寺(りょうたんじ)が所在する地域である。
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(C) 2016 OHKAWA

 直虎の氏族、井伊氏はA図の卑弥呼の地上絵を末永くまもって【日本建国の〔愛〕の理念】を後世まで伝える、これを倫命(りんめい)すなわち「人間として実行すべき使命」とした守り番であった。
 直虎の父は井伊氏の22代直盛(なおもり)、直虎は父直盛の従兄弟(いとこ)23代直親(なおちか)と婚約したと伝えられる。直親の父直満(なおみつ)とその弟の直義(なおよし)が今川義元への謀反の疑いをかけられて自害させられ、婚約者の直親は井伊家の領地から脱出して信濃に逃亡した。このため、直虎が事実上の井伊家の当主を務めた。直虎の生年は定かではないが、1582年に没している。
 織田信長は1534年に生まれ、直虎と同じく1582年に没している。
 したがって、没年が同じ直虎は信長と同時代に生存したことになる。

◆わがブログ「日本国誕生史の復興」がこれまで幾度となく繰り返して解説したように〔緯度の測定方法〕には、(1)北極星のかたよりで天の北極の高度を計算して緯度に換算する方法と、(2)[](天頂緯度線と子午線)をキャッチする、この二つの方法しか存在しない。
 ちょうど1千万坪に作られた卑弥呼の地上絵は3世紀(260年~290年ころ)に作成された。当時、(1)の北極星による緯度の測定方法では、A図に示した大鳥の形をした卑弥呼の地上絵を絶対に作成することはできない。
 したがって1度の60分の11分の緯度差を測定できる(2)[]をキャッチする緯度の測定方法で、卑弥呼の地上絵は作成されたと断定することができる。
 B図は天頂点と重なる銀河部の軌道を示すものであり、右上に[]を配した。
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(C) 2016 OHKAWA
 

「直虎」という名の[]の字源は、B図に示す「1分の緯度差を測定することができる[]をキャッチする条件」をあらわした。つまり、[]の字源は「(1)1分の緯度差を測定できる、精確な緯度測定できる天頂緯度線と直角に交わる視線」であった。
 A図の卑弥呼の地上絵を図化(ずか)することができた経緯度原点A地の緯度(北緯3448)は、B図右上に示した[]をキャッチして測定された。そしてA地と同緯度の滝峯不動尊もまた、[]をキャッチして測量された。したがって、A地と滝峯不動尊が歴然(れきぜん)と証明するように[]をキャッチすれば1分のズレもなく精確に緯度が測定できた。

C図に示すように、人の視線が天頂天頂緯度線と直角に交わると[]がキャッチできる。言いかえると「人の視線が天頂緯度線と直角に交わる」と、[]の字源・字義が成立する。だから、「直虎」の[]の字源は「(1)1分の緯度差を測定できる天頂緯度線と視線が交わる直角。(2)[]がキャッチできる能力」であったことになる。
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(C) 2016 OHKAWA
 

 人間の脳には本能行動として、[]をキャッチできる才能がそなわっていた。また、人間の目は鍛錬すると、[]をキャッチできる不思議な能力を有していた。これゆえ、原始時代において人類はたくましくたくみに生きてゆくことができたので絶滅しなかった。そして『古事記』上巻が語る神代(草創縄文時代から4世紀の古墳時代まで)では、[]をキャッチできる呪力(じゅりょく)が優秀な人物は偉大であると尊敬された。
 この神代における[]のキャッチできる呪力への尊敬は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚を記述する淤能碁呂島聖婚(おのごろしま・せいこん)説話の冒頭における「天神諸々命(あまつかみもろもろのみこと)」という語句で表現された。漢字の字源を解説する“字書の聖典”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は、[]の字源を「天神なり」と解説する。また「天神」の[]の字源を「至高(しこう)にして上なし(最も高く、それ以上の上がない天体部)」と指摘する。B図右上の[]における「天頂緯度線」が[]の字源の「至高にして上なしの天体部」である。したがって「天神(あまつかみ)」は「天頂緯度線」であった。C図は神代において“偉大”と尊敬された大海を渡る人や遠くの地を旅する人が命をまもって家族が待つ家に帰ることができた[]の字源解説図である。だから『古事記』上巻では「神代において偉大な業績を残した人物の尊称」は「みこと」と呼ばれ、天頂緯度線が命をまもる神聖な線であったので「みこと」は[]の字で表記されたのである。

◆NHk大河ドラマ「おんな城主 直虎」のヒロイン「直虎」という名の「虎」は、D図の破砕鏡(はさいきょう)の注となった「虎」であった。
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(C) 2016 OHKAWA
  
 D図の破砕鏡は、静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳の主体部から出土した。この鏡の[]は「東シナ海を中国国土地図の上にする」と意味した。[()]という字は「地宜(ちぎ)、すなわち平面的に図化した地図の形」を意味した。ゆえに、[][]2字は、E図に示す地図をあらわした。E図に示す「山東半島の付け根から南の東シナ海へ丸くつきでる中国海岸線」が、「直虎」の「虎」をあらわした。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 「虎」の海岸線は「子を出産する母体のおなかのように丸い」。これゆえ「子を出産するときの母体が怒責(どせき/いきみ、きばる行為)であげる大声はまるで虎の吠える」のごとくということで、「山東半島より南の海岸線」はD図の鏡の「虎」の注となったのである。
 だから、おんな大名「直虎」の「虎」という字は女性の名前にふさわしかった。
 F図上図の卑弥呼の地上絵は、下図はE図に示した中国国土地図を模(かたど)る宜=地宜である。
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(C) 2016 OHKAWA

 だから、「直虎」という名は「[]をキャッチして作成された中国海岸線を模る卑弥呼の地上絵」をもあらわすことになった。
 D図の破砕鏡は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された――伊耶那美命と伊耶那岐命が初めて結婚した時に、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。またA図とF図上図に示した卑弥呼の地上絵の作成目的は、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることであった。したがって卑弥呼の地上絵は、『古事記』上巻よりも約450年前に【日本建国の〔愛〕の理念】を伝えるために作成された。
 以上からして、「直虎」という名は伊耶那美命がD図の破砕鏡であらわした【日本建国の〔愛〕の理念】を表示した。だから、直虎は真実の日本国誕生史を知っていたのである。

◆わがブログ「日本国誕生史の復興」の25回までで証明したように、D図に示した鏡が出土した高尾山古墳は沼津市の足高山(あしたかやま/現在の「愛鷹山」)の麓(ふもと)に所在し、足高山を祭るための盛り土・封土(ほうど)であった。
 
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 D図の破砕鏡は2世紀後半ころの中国の後漢(ごかん)時代に作られた。この「鹿」「虎」「鳥」「羽人」という注が付く4つの絵柄と[][]2字を、わが国の人々はE図のごとく解釈した。つまり国中の人々は「中国国土に多数の人民たちが満ち満ちあふれて〔愛〕が栄える」と表現するものと解釈した。というのも「羽人」をE図の右側の[(カモ)]の金文形が示す字源「3キロメートルの長さにも及んで空をおおって飛ぶ味鴨(あじかも)の大群」をあらわすと解釈したからである。だから、D図の破砕鏡の絵柄をわが国では「〔愛〕が栄えて中国国土に多数の人民が満ち満ちあふれる」と解釈していたことになる。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の10回・11回で証明したように、『魏志』倭人伝末部に登場する倭女王の「壱与(いよ)」は夏音文字の名称であり、彼女を人民たちは敬愛して「伊耶那美命」と呼んだ。壱与は『魏志』倭人伝に列記される「小国・伊耶国(いやくに)出身の那(桃の花のように)美しい小国・日本の女王」であったので、これを略して人民たちは「伊耶那美命」と愛称した。「伊耶国」は「旧国の丹波(たんば)」であったゆえ、『古事記』中巻の開化天皇紀に記載された正妃(せいひ)の「丹波出身の竹野比売(たかのひめ)」が「壱与」であり「伊耶那美命」であっことになる。
 倭王朝は、倭国の繁栄を願って百余人の奴婢(ぬひ)を殺して卑弥呼の墓に埋めた徇葬(じゅんそう)を決行した。この徇葬を野蛮すぎると憎悪して、国中に反乱がひろがった。倭王朝は――壱与・伊耶那美命が高尾山古墳で結婚した時に唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】に憧れたが原因で、国中の人民たちが徇葬を野蛮と憎悪して倭の大乱がおきた――と非難した。それゆえ倭王朝は責任を回避(かいひ)して、大乱を鎮(しず)めさせるために壱与・伊耶那美命を倭女王に即位させた。
 かくして倭女王に就任することになった壱与・伊耶那美命は倭国と小国・日本の「安らかな国土(国土安泰)」を地霊に祈願して、国中の人々が「〔愛〕をあらわす」と解釈したD図のごとく鏡を砕いて【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわして高尾山古墳の主体部に埋めた。

◆このような歴史を、『魏志』倭人伝の末部は「魏の正始(せいし)元年(240)頃、卑弥呼は死す。卑弥呼を葬った大きな墓の円墳部の直径は百余歩(150)であった。この卑弥呼の墓には、奴婢百余人を徇葬させた。卑弥呼を継いで倭国を治める大王に男王が就任したが、国中の人々は(野蛮で残酷な徇葬を憎悪して)男王に服従せず、武器をもって倭王朝と戦った。倭王朝は、千余人の反乱者たちを殺した。また倭王朝は卑弥呼が率いる巫女(みこ)界を代表する宗女(そうじょ)に選ばれて13歳で小国・日本の女王となった壱与を倭女王に立てると倭国の国中にひろがった大乱は遂(つい)に定まった」と記述する。
 壱与(伊耶那美命)は後漢鏡にあった不老長寿の仙人の絵柄の部分を砕き――D図の破砕鏡で【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわして地霊に祈願して高尾山古墳の主体部に埋めた。
 これゆえ“倭女王に就任する壱与は【日本建国の〔愛〕の理念】をもって倭国を治めると表明した。だから壱与は野蛮で残酷な徇葬は必ずや禁止するにちがいない”という噂(うわさが倭国の国中にひろがった。このため、反乱者たちは壱与の決意表明を信頼して武器を捨てた。かくして倭王朝の強大な権力で鎮圧(ちんあつ)できなかった大乱を、壱与・伊耶那美命はD図の【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす破砕鏡をもって終息(しゅうそく)させた。
 だから上記した『魏志』倭人伝末部の記事は――強大な倭王朝と国家権力よりも【日本建国の〔愛〕の理念】のほうが勝(まさ)った――歴史を伝えていたことになる。
 また『魏志』倭人伝末部の記事は、D図の高尾山古墳から出土した破砕鏡によって厳然(げんぜん)たる事実であったと証明される。

◆わがブログ「日本国誕生史の復興」の16回~18回をもって詳細に解説したように――D図の高尾山古墳から出土した破砕鏡の絵柄と文字は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした――と伝える和歌が、『万葉集』に収(おさ)められた。この和歌は『万葉集』の485番の長歌と486番・487番の2首の短歌の3首である。この3首は岡本天皇(天智・天武両天皇の生母の宝皇女=皇極天皇=斉明天皇)が作った。
 『万葉集』485番の長歌の初句から6句までは「神代(かみよ)より 生()れ継ぎ来()れば 人さはに 国には満ちて 味群(あぢむら)の 通ひは行けど」であり、「神代の伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えたために、人民たちは【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重して生命(いのち)を継ぐ。このため味鴨の大群が塒(ねぐら)と沼を往来するがごとく、多数の人民が国には満ち満ちあふれている」と意味した。
 だから『万葉集』485番は、D図の高尾山古墳の主体部から発掘された破砕鏡で伊耶那美命があらわした【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む和歌であった。
 『万葉集』の487番の短歌の初句から3句までは「近江道(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉川(いさやかわ)」である。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の19回で詳細に解説したように、H図に示す〔近江の琵琶湖〕は〔空を飛ぶ味鴨の姿〕に相似するので「味群(味鴨の大群)」に見立てられた。ゆえに「鳥籠の山」は琵琶湖に浮かぶ最大の島の「沖島(おきのしま)」、「不知哉川」は現在の彦根市南限の「愛知川(えちがわ)」であった。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 I図に示す「沖島の地宜」は、G図に示した「伊豆半島と足高山・高尾山古墳周辺の沼津市の地宜」に相似する。だから、「琵琶湖が身籠(みごも)って生まれた子のごとく観える沖島」が「鳥籠の山」であったことになる。
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(C) 2016 OHKAWA
  
◆織田信長は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に【日本建国の〔愛〕の理念】が記述されていることを知っていた。
 信長は、京都に近く、畿内と東海・北陸を結ぶ交通の要所にあたる、J図に示す近江の安土山に壮大な城を築いて、天下統一の拠点とした。しかし、158262日未明におきた本能寺の変の後に安土城は焼け、現在では石垣しか残っていない。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 K図に、安土山の地宜を示した。
 L図左図の信長が生まれて育った旧国・尾張(現在の愛知県西部)の地宜は、右図の安土山の地宜に相似する。ゆえに、信長は安土山の地宜が尾張の地宜に相似することを注目して、安土山の頂上に天下統一の城を築いたにちがいない。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 M図に示すように安土山の北が左側になるように転回すると、〔安土山の地宜〕は〔人の足の形〕に相似する。ゆえに〔安土山の地宜〕を「足」、〔安土城を築いた安土山の頂上〕は高いので「高」となる。ゆえに、〔「足」「高」となる安土山〕は沼津市の「足高山」という山の名に合致する。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 伊耶那美命は足高山の麓にある高尾山古墳の主体部に、D図の【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす鏡を埋めて、「安らかな国土」を地霊に祈願した。「安らかな国土」を省略すると「安土」となる。高尾山古墳は北緯357分、安土山は北緯359分、両者の緯度差はわずか2分しか違わない。ゆえに、信長は〔安土山〕もまた沖島と同じく「鳥籠の山」であると考えて、安土山に天下統一の居城を築いたと考えられる。
 なぜ、信長は真実の日本国誕生史を知っていたのであろうか。
 信長は、現在の名古屋城が「那古野城」と称されていた、名古屋城の前身の城で生まれた。
 三省堂編修所編『コンサイス日本地名事典』によると、信長が生まれて育った名古屋市南区の低地から天白川(てんぱくがわ)河口に至る海岸は、万葉時代において「年魚市潟(あゆちがた)」と呼ばれたという。この年魚市潟と沼津市の高尾山古墳は同緯度(北緯357)である。年魚市潟と高尾山古墳が同緯度であることを、信長は知っていたにちがいない。そして「年魚市」の別綴(べつつづり)の「愛智」であるのは――年魚市潟が【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす鏡が埋められた高尾山古墳と同緯度であるゆえ、智慧をしぼって「愛智」と表記した――という秘密も、信長は知っていたにちがいない。この「愛智」から現在の県名「愛知」という表記になった。
 小学館発行の『日本語源大辞典』は「あゆ」は「鮎」または「年魚」と表記し、「淡水魚のアユであり、アユの寿命はふつう一年であるから【年魚】と記した」と指摘する。また、中国では「鮎」の字は「ナマズ」の意であったとも指摘する。伊耶那美命が赴任する以前の小国・日本は「東鯷人国(とうていじんこく)」という名であった。「東鯷人国」の[]の字義も「ナマズ」である。高尾山古墳と同緯度の年魚市潟に生息する主(ぬし)の魚は2030cmのアユは似つかわしくなく、体長が50cmくらいのナマズがふさわしい。また、G図に示した沼津市浮島沼(高尾山古墳が面する一大低湿地帯)の主もナマズのほうがふさわしい。
 そして信長は浮島沼と同じ低湿地の清洲城(きよすじょう)に居住した。北緯3513分の清洲城は足高山の山頂(北緯3514)よりわずか1分しか緯度が違わない。だから、「年魚」と表記した語は〔智慧(ちえ)、すなわち「鮎」を中国の字義で解釈する妙案・隠語(いんご)〕で、「ナマズ」を意味したと考えるべきことになる。
 『日本語源大辞典』は【東風】も「あゆ」と称されたと指摘する。【東風】の[]は尾張東方の小国・日本をあらわした。したがって【東風】は「伊耶那美命が住んだ小国・日本から尾張に吹いてくる風」を意味したことになる。
 『日本語大辞典』は【年魚市】の語源について「チは風を表す意。アユチは、めでたいものをもたらす風の意で、尾張の風や潮の流れから蓬莱(ほうらい)の仙鏡が夢想されたものか〈海上の道=柳田国男〉。」と解説する。
 I図に示したように、伊豆半島の地宜に相似する沖島の最高峰は「蓬莱山」である。わがブログ「日本国誕生史の復興」の2回や19回などで詳細に解説したように――山頂が北緯3514分の沼津市の足高山が「蓬莱山」であること伝えるために、緯度がわずか1.5分しか違わない沖島の最高峰(北緯3512.5)は「蓬莱山」と名づけられた。その証拠に、足高山の山頂には桃沢神社が鎮座する。中国において桃は蓬莱山に住む仙人に不老長寿の力を与えると樹木・果実であると信じられていた。だから、足高山は蓬莱山であった。
 そうすると、上記の柳田国男説の「尾張の風や潮の流れから蓬莱の仙境が夢想されたか」という指摘は誤りで、「蓬莱山・足高山からめでたい東風が尾張に吹く」が【年魚市(アユチ)】の語源であったことになる。
 信長は【年魚市(アユチ)】の語源(由来)から蓬莱山・足高山の秘密や【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす鏡の秘密を知ったのである。

◆N図に示すように、高尾山古墳の主体部に埋められた【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす破砕鏡からわずか約1m離れた東と南から、230年頃に作られた東海西部系の土器が発掘された。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 信長が生まれ育った尾張は東海西部である。したがって伊耶那美命が生存した3世紀後半に共に生きた尾張の人々は高尾山古墳主体部の作成に関わっていた。このため、その先祖たちが語った【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす鏡の話が後世へと受け継がれ、「年魚市」という地名の由来となった。
 約30年前にわたくしはテレビを見ていた時、ある古代史研究家が――信長は琵琶湖に浮かぶ沖島を模(かたど)る飾りを発案して、この飾りすなわち鯱鉾(しゃちほこ)を安土城の天守閣の屋根に取りつけた――と指摘していた。そのとき、うっかりその古代史研究家の名前を書き留めなかった。
 現在の彦根市の地宜(行政区域を表示する地図の形)は、1603年から20年後の1622年に完成した。この都市計画に、家康は第4子の松平忠吉(ただよし)をはじめ、彦根近隣の7ヵ国12大名に動員を命じて完成させた。当時、松平忠吉は信長が居住した清洲城の主(あるじ)であった。彦根の都市計画に動員された松平忠吉の没後、松平家康の第9子の徳川義直が清洲城の主(あるじ)となった。この義直が清洲から名古屋城に入城し、以後尾張家の居城として名古屋城は明治まで続いた。
 名古屋城のシンボルは、O図右図の金の鯱鉾である。
N795

  O図左図の沖島の地宜は、体形がずんぐりとして頭が丸い海獣のシャチ()に相似する。名古屋城の金の鯱鉾の頭は虎、からだは魚の形をしている。高尾山古墳から発掘された破砕鏡の「虎」があらわす【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺(まっさつ)せんとする朝廷への信長の怒りは吠える虎のごとく、またクジラを襲って捕食する時の鯱のごとく荒荒(あらあら)しかった。ゆえに信長は沖島から鯱を連想し、朝廷への怒りを吠える虎であらわして、安土城の天守閣に鯱鉾を取りつけた。外観5層内部7階であった安土城の天守閣は金箔瓦を頂いていたという。したがって、安土城の鯱鉾も金で作られていたことになる。だから名古屋城の金の鯱鉾は名古屋城(那古野城)で生まれ清洲城を居城とし安土城を天下布武(てんかふぶ)の拠点とした信長の朝廷への怒りを表示し、また信長の魂をあらわすものであったことになる。
 以上のごとく、信長は真実の日本国誕生史を知っていた。信長が〔愛〕の理想の基に日本国が誕生した歴史を知っていたことは、1562年に信長と家康が結んだ清洲同盟でも証明できる。次回は、この清洲同盟について解説する。
  

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