日本国誕生史の復興・40
●信長と家康がむすんだ清洲同盟の秘密
◆徳川家康は1616年に没した。その1年前の1615年に、家康は禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定し、その第1条を「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」と定めた。この文中にある「諸芸能」とは「銀河各部の形状を漢字の字源・字形・字義にすることができる芸術の才能」のことであり、「御学問」とは「銀河各部の形状を文字とする学術」であった。したがって、「諸芸能」と「御学問」は「銀河から作られた漢字の学芸」を意味した。家康は「銀河各部の形状を字源・字形・字義とした原初漢字の学芸こそが第一番に大事である」と皇室の【日本建国の〔愛〕の理念】の排除対策を批判し、圧力をかけた。家康は皇室が3世紀以来、抹殺(まっさつ)に躍起(やっき)となる伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を復興することに全情熱をかたむけた。江戸幕府は朝廷に歯向かう【日本建国の〔愛〕の理念】を復興せんとする抵抗勢力であったのである。
漢字は下に示す「秋の銀河の西部と夏の銀河の各部の形状」から作られた。この銀河を、わたしは「文字作成銀河」と名づけた。
『古事記』序の冒頭は「それ混元(こんげん)すでに凝(こ)りて、気象未だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作(な)す」と記述する。この文は「中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義とする原初漢字の夏音(かおん)文字が伝来し、わが国の土器や土偶を作った芸術家たちによって習得された」と、わが国の最初の漢字伝来と習得を証言するものであった。
この「夏音文字の学芸」が上記した家康が制定させた禁中並公家諸法度の第1条に登場する「諸芸能」と「学問」であった。
また『古事記』の序は末部で「『古事記』上巻に用いる楷書と稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦(よ)むところの『古事記』上巻の原典の旧辞(きゅうじ)に用いられた音文字、すなわち夏音文字の両者のあいだには共通する辞理(じり)がある」と指摘する。そして、この文の直後に「楷書の日下(にちげ)は夏音文字の玖沙訶(くさか)と同義、楷書の帯(たい)は夏音文字の多羅斯(たらし)と同義である」と説明する。
そして、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く多数の夏音文字が記載される。
「銀河」の別称は「銀漢(ぎんかん)」。ゆえに「銀漢各部の形状から作られた文字」を略して「漢字」と呼ばれた。「文字作成銀河の各部の形状を文字と理解する能力」は「芸術を理解す能力」で思考(右脳思考)であるゆえ、禁中並公家諸法度では「諸芸能」と記されたのである。楷書も夏音文字もともに文字作成銀河各部の形状から作られた文字であったので、上記した「文字作成銀河の各部の形状が楷書と稗田阿礼が誦習(しょうしゅう)する夏音文字とが共通する辞理(文字とことばの原理)」ということになった。だから、楷書は夏音文字と同じく文字作成銀河各部の形状から作られた文字であった。
『古事記』序の冒頭の「わが国に夏音文字の学芸が伝来した」と伝える文が事実であると証明できる夏代初頭(後期縄文時代初頭)の遺跡が現存する。この遺跡は、秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡と野中堂遺跡である。万座遺跡(直径約48m)と野中堂遺跡(直径約42m)の両遺跡には、夏音文字の学芸が伝来した痕跡(こんせき)が幾つも現在も失われずに残っている。
その一例が、A図に示すように、東の野中堂遺跡と西の万座遺跡の中心を結ぶ線が〔夏至の日没方向(西北29度)〕を指さす秘密である。つまり「夏至」と「夏音文字」における[夏]の一致をもって「夏音文字の学芸が伝来した」と伝えている。
(C) 2016 OHKAWA
◆三河の岡崎城主・松平弘忠(まつだいらひろただ)の長男として生まれた家康の幼名は、竹千代(たけちよ)である。駿河の今川義元(いまがわのよしもと)は、岡崎城主・松平弘忠に6歳となった竹千代を人質(ひとじち)として求めた。竹千代は駿府へ出発したが、途中、略奪されて織田信秀(おだのぶひで/信長の父)のもとへ送られた。竹千代が8歳の時、今川義元の軍師の大原雪斎(たいげんせっさい)を総大将とする7千の今川軍は安城(あんじょう)城を攻め、信長の兄の信広(のぶひろ)を捕らえて、竹千代と信広の人質交換をおこなった。信広は2年後に没した。
軍師の大原雪斎は臨済宗(りんざいしゅう)妙心寺(みょうしんじ)派の高僧であり、夏音文字の学芸に精通(せいつう)していた。わがブログ「日本国誕生史の復興・28」で詳細に解説したように、枯山水(かれさんすい)の庭園として世界的に有名な石庭(せきてい)がある龍安寺(りょうあんじ/京都市右京区)は、臨済宗妙心寺派の寺である。龍安寺の石庭を構成する5組・15個の石は、上記した文字作成銀河の各部の形状に相似し適合する仕組みとなる。ゆえに絵画・彫刻やデザインの仕事に従事して右脳思考(芸術思考)に長(た)ける人たちならば、石庭の5組の石組は上記の文字作成銀河の各部の形状に合致することが察知できる。この龍安寺の石庭によって原初漢字の夏音文字の学芸の秘密の全貌が解明できる。したがって、夏音文字が記載される『魏志』倭人伝の卑弥呼が居住した王国・邪馬壱(やまい)国(「邪馬台国」ではない)はじめとする計34小国の位置と範囲や日本列島の〔東〕が〔南〕へと伸びる転回地理の秘密など、『魏志』倭人伝の全文が正確に解釈できる。また、多数の夏音文字が記載される『古事記』上巻が伝える真実の上古史の全貌も明確となる。
臨済宗妙心寺派の基盤教義は『古事記』序に記述された夏音文字の学芸であったのである。義元の人質となった竹千代は雪斎から夏音文字の学芸を学び、義元が天下をとった時の補佐役になるための心得を徹底的に教育された。この幼少の教育期間、家康は伊耶那美命に憧れ、【日本建国の〔愛〕の理念】の復興に一生を賭ける夢を育(はぐ)くんだ。
竹千代は14歳の時に元服し、松平次郎三郎元信(もとのぶ)と名乗った。この年に雪斎が没した。家康(元信)は8~14歳までの7年間、雪斎から夏音文字の学芸の基礎をたたきこまれたために、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の全文を正しく解釈できる学問を修得できた。だから、家康は文字作成銀河の各部が文字となる夏音文字と楷書の学芸に精通する、当時を代表する指折りの学者でもあったことになる。
1558年、家康は17歳の時に元康(もとやす)と改名した。その2年後、19歳になった元康に先鋒(せんぽう)を命じた今川義元は、【日本建国の〔愛〕の理念】を復興せんとして2万5千の大軍を率いて上洛(じょうらく)の途(と)についた。しかし、わずか2千の織田信長の軍が桶狭間(おけはざま)で休憩をとる今川軍を急襲して義元の首を取った。松平軍は故郷の岡崎城をめざして逃げた。元康は岡崎城に近い大樹寺(だいじゅじ)で、伊耶那美命に憧れる夢はやぶれたと悲観して自殺しようとした。しかし、その現場を住職の登誉上人(とよ・しょうにん)に発見され、上人に説得されて思いとどまった。
◆1562年1月、29歳の織田信長と21歳の松平元康は“清洲(きよす)同盟”をむすんだ。
江戸時代の幕臣の木村高敦(きむらたかあつ)が著した『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』は――「和議早速(わぎさっそく)御許諾(ごきょだく)欣然(きんぜん)タリ 此上ハ両旗ヲ以テ天下一統スベシ 今ヨリ水魚ノ思(おもい)ヲナシ互(たがい)ニ是(これ)ヲ救ン事聊(いささか)モ偽リ有(ある)ベカラズ」と書く起請文(きしょうもん)を作った――と記述する。さらに同書は――信長は小さな紙に「牛」という字を書いて、それを三つにちぎり、信長と元康と同盟を斡旋(あっせん)した信元(のぶもと/元康の生母の於大(おだい)の兄)の三人で茶碗の水に浮かべて飲んだ――と記述する。
この「牛」という字を書いた小さな紙を三つにちぎってそれを茶碗に浮かべて三人が飲んだ儀式は、B図に示す熊野三山(熊野那智大社・熊野速玉大社・熊野本宮大社)の牛王宝印(ごおうほういん)の神璽(しんじ)に誓う儀式を演出するものであった。熊野三山に伝わる神璽は、武家のあいだで起請文として用いられた。起請文は牛王の裏面に書いたもので、牛王の紙の一片を違反者に飲ませると血をはくといわれた。
(C) 2016 OHKAWA
熊野三山の牛王の中央にある「日本第一」という4文字は「小国・日本国の女王伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】が第一番目に大切である」と意味した。
夏音文字の学芸に精通した信長は元康同様に熱烈に伊耶那美命に憧れていたのである。
C図示すように、熊野三山は古くから捕鯨で有名な太地町(たいじちょう)の北側に所在する。
(C) 2016 OHKAWA
[鯨(くじら)]の旁(つくり)は、[京]である。ゆえに、信長は〔京(みやこ)の朝廷〕を〔鯨〕に見立て、〔自分と元康〕を〔鯨を襲って捕食する鯱(しゃち)〕に見立てた。だから信長が起請文に書いた「水魚ノ思(おもい)」という語は「鯱のごとく猛々(たけだけ)しくなって【日本建国の〔愛〕の理念】の復興に全力をそそぐ決意」をあらわしていたことになる。
前回のブログ「日本国誕生史の復興・39」でもしたように、信長が天下統一の拠点とした近江の安土山(あづちやま)に築いた安土城は北緯35度9分、D図に示す伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた静岡県沼津市に所在する高尾山(たかおさん)古墳は北緯35度7分である。安土城と高尾山古墳はわずか2分しか緯度が違わない。また信長と家康(元康)が同盟を結んだ清洲城は、高尾山古墳が面する浮島沼と同様の低湿地に築かれた。
(C) 2016 OHKAWA
清洲城は北緯35度13分である。伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた高尾山古墳が祭る足高山(あしたかやま/現在の沼津市の愛鷹山)の山頂は北緯35度14分である。したがって、清洲城と足高山の緯度差はわずか1分であるゆえほぼ同緯度ということになる。ゆえに、信長と家康が鯱(水魚)の思いをもって結ぶ清洲同盟は天下統一して皇室が葬らんとする【日本建国の〔愛〕の理念】の復興をかたく約束する血盟(けつめい)であった。
清洲城は当時における尾張国の中心であった。1600年の関ケ原の戦いにより天下をほぼ手に入れた徳川家康は、当初第4子の松平忠吉(ただよし)を清洲城の当主とした。忠吉の死後は第9子の徳川義直(よしなお)を清洲城の当主として東海地方をおさえ、大坂方への守りとした。しかし、清洲城は低湿地にあるため水攻めの恐れがあり、また城地も狭かったので、そこから南東約5kmの信長が誕生した那古野(なごや)城の地に新しい城を築くことにした。1610年に築城工事が始まり、天守閣は1612年、2年後に本丸御殿や御門も完成した。この新しい城が今日の名古屋城である。1616年に家康が没すると、徳川義直が清洲から名古屋城に入城し、以後尾張徳川家の居城となった。
この名古屋城の天守閣には、信長が天下統一の拠点とした安土城の天守閣の金箔瓦を敷きつめた屋根の両はしに取りつけた鯱鉾(しゃちほこ)と同じく、鯱鉾が設置された。
E図に示す現在の名古屋城の天守閣にある金の鯱鉾は清洲同盟であらわした信長の「水魚の思い」、【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺に躍起となる朝廷への怒り、ゆえに信長の魂をあらわすものであったのである。
(C) 2016 OHKAWA
◆信長は『古事記』序が解説する夏音文字の学芸に精通したゆえ、『古事記』上巻を正確に解釈できた。ゆえに、信長は当時を代表する漢字学者であった。
現在の学者たちは江戸中期の本居宣長(もとおりのりなが/1730-1801)が著した『古事記伝』を基(もと)に意見を構築する。しかし、宣長は夏音文字の学芸をまったく解明しなかった。このため、『古事記伝』は『古事記』上巻を誤読して偽りの歴史を説明することになった。このように夏音文字の学芸を解明しないで偽りの歴史を伝えた宣長に対して、信長と家康は夏音文字の学芸を研究して『古事記』上巻を正しく理解した。
宣長の研究は夏音文字の学芸をまったく解明しないが原因で誤読の空論となった。この事実は『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話によって明確となる。
夏音文字の学芸を解明すると伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の舞台は、F図に示す熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)から神倉(かんのくら)神社までであったことが明らかとなる。
(C) 2016 OHKAWA
夏音文字の学芸を解明すると『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――伊耶那美神命(いざなみの神のみこと)つまり皇祖の天照大御神は、伊耶那美命の没後に倭女王に就任した。天照大御神は多数の若い青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋める、つまり熊野本宮大社の旧社地の大斎原に多数の青年男女を殺して埋める残酷(ざんこく)な徇葬(じゅんしう)を陣頭指揮した。国家権力よりも〔愛〕のほうが優ると人民に説いた伊耶那美命を憎んで天照大御神がおこなう徇葬に、伊耶那岐命は立腹して配下の日本軍と熊野に住む戦士たちの協力を得て、大斎原から伊耶那美命の亡骸(なきがら)をおさめる棺(ひつぎ)を略奪する反乱を決行した。逃走する伊耶那岐命一行を追跡した倭王朝の大軍は、現在の熊野速玉大社の境内で伊耶那岐命軍と戦って敗北した。このため、倭女王から失脚した天照大御神と伊耶那岐命は千引石(ちびきのいわ)つまり現在の和歌山県新宮市磐盾町(いわたてちょう)の神倉神社のご神体のごとびき岩の前が空洞となる場所で向かいあって、二人は次のごとく誓いあった。天照大御神は「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民たちの母親の産道が狭くなるように呪(のろ)って、この狭い産道で一日に必ず千人ずつ生まれてくる子どもたちの頭を絞(し)め殺す」と誓った。一方、伊耶那岐命は「お前がそうするならば、吾は一日に必ず千五百の産屋(うぶや)が立つようにする」と述べ、亡き伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐと誓った。――と伝えていることになる。
だから夏音文字の学芸に精通した信長と家康の解釈と夏音文字の学芸を解明しなかった宣長の解釈と現在の学者たちの意見はまったく異なる。現在の『古事記』上巻を伝える全書物は「天照大御神が徇葬を陣頭指揮した」と解釈しない。
◆7世紀から8世紀初頭に生存した天武・持統・文武・元明の4天皇の王朝は残虐な徇葬を決行した天照大御神の事績を排除して、天照大御神は伊耶那美命よりも優れて最も偉大な先人であったと伝える偽書(ぎしょ)の作成を欲求(よっきゅう)した。
そこで『古事記』編纂スタッフは偽書を作成したと見せかけた策略を思いつき、「徇葬を陣頭指揮した天照大御神」を「伊耶那美神命」と表記することにした。編纂スタッフは「伊耶那美神命」が「伊耶那美命」でないことを示すため、上記した『古事記』序の夏音文字の学芸の伝来を記述する文の最後「参神造化の首(はじめ)を作(な)す」という語句の直後に、「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為(な)る」という文を続けた。この文は「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命の二霊が、わが国におけるすべての生みの親である」と意味する。これゆえ『古事記』序は上巻を正しく理解する読書の方法について「随所にある〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた伊耶那美命のほうが徇葬を陣頭指揮した伊耶那美神命つまり天照大御神よりも偉大であることが解明できる」と警告(けいこく)していることになる。
また天照大御神が〔愛〕の日本建国理念を呪い祟(たた)ると誓った千引岩(ごとびき岩)をご神体とする神倉神社(社殿は天照大御神と伊耶那岐命が向かいあって誓った場所に建つ)は、天照大御神を祭る。だから、残忍な徇葬を陣頭指揮した「伊耶那美神命」は神倉神社の祭神の「天照大御神」であった。
ゆえに、編纂スタッフの陰謀を元明(げんめい)天皇は見破って即座に献呈(けんてい)を拒否した。したがって『古事記』は皇室から憎悪・敵視されることになった。
『古事記』は「日本国は〔愛〕の理想のもとに建国された。皇祖の天照大御神は残虐な徇葬をおこなった」と事実を伝える反逆の史書であった。このため、事実を記述しない『日本書紀』は宮中で講義され正史のごとくあつかわてれてよく読まれたのに対し、『古事記』は危険思想を養い朝廷への憎悪を生む書物と定められたので読む人も少なく人目をはばかってこっそりと隠れて読む禁書(きんしょ)となった。
だから学者たちによる『古事記』上巻の研究においては(1)夏音文字の学芸をまったく解明しない、(2)『古事記』の記事を忠実に読解(どっかい)してはならないという鉄則(てっそく)が確立された。この学問の鉄則を受け継いだ本居宣長の研究は(1)夏音文字の学芸をまったく解明しない、(2)朝廷が『日本書紀』神代紀で真実の歴史を歪曲(わいきょく)して隠蔽(いんぺい)した工作にあやつられて偽りの歴史を説くことになったのである。
◆清洲同盟を結んだ家康は、信長の補佐役となって【日本建国の〔愛〕の理念】を復興する夢に再度挑戦できるようになった。ゆえに、家康は信長に幾度も煮え湯を飲まされる仕打ちを受けながら、ついに一度も信長を裏切らず、大名たちに“律儀(りちぎ)な人よ”と皮肉られて陰口(かげぐち)をたたかれた。家臣たちには信長に卑屈(ひくつ)に従うと思われても気にとめず、愚直(ぐちょく)にひたすら20年ものあいだ信長の補佐役に徹(てっ)した。このように家康が我慢(がまん)強かったのは、信長が自分と同じ夢を抱くと確信でき、また8歳から14歳の7年間において補佐役に徹して忠義をつくす心得を雪斎から厳(きび)しく受けていたからである。
清洲同盟から9年後の1571年、信長は比叡山(ひえいざん)を焼き打ちにして山上山下(さんじょうさんげ)の僧侶から老若男女まで数千人を殺した。天台宗の本山の比叡山は【日本建国の〔愛〕の理念】を消滅せんとした皇室の政策に最も積極的に協力した。つまり、徇葬を決行した皇祖の天照大御神は天台宗の本尊の大日如来(だいにちにょらい)であると本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)をとなえて、真実の日本国誕生史の抹殺(まっさつ)を協力した。この本地垂迹説によって、天台宗比叡山は皇室から多大な庇護(ひご)を受けてわが国の宗教界に君臨(くんりん)した。ゆえに、真実をまもるべき宗教が真実の歴史を葬って自らの利益を貪(むさぼ)る所業(しょぎょう)はあまりにも醜悪(しゅうあく)と怒る信長の怨念(おんねん)はすさまじく、鯨を襲う獰猛(どうもう)な鯱と化して比叡山を容赦なく焼き打ちした。
1582年6月2日の未明、本能寺の変で信長は明智光秀(あけちみつひで)に討たれた。光秀は信長の命令に従って比叡山を焼き打ちした。その後、光秀は比叡山東方の坂本城(滋賀県大津市)を居城としたため、日々、坂本城から比叡山を眺めていたことになる。
光秀が本能寺を急襲した時、信長は弓を引き槍(やり)を取って奮戦(ふんせん)した。この最中(さいちゅう)に、信長は光秀の謀反(むほん)を決意した原因は比叡山の焼き打ちにちがいないと推理したであろう。ところが幾人かの学者や研究者たちは――光秀は警護が手薄となった信長のスキを天下取りの好機到来と思って謀反をおこした――と指摘する。
信長はついに力がつき、火を放った。その燃え上がる火炎は信長の伊耶那美命への熱い情念を示すものであったかもしれない。『古事記』は「伊耶那美命は農具の鉄製の刃先(はさき)を作る精錬炉(せいれんろ)すなわち火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の火災事故で火傷(やけど)を負って死去した」と記述するからである。
信長は燃え上がる火炎、つまり伊耶那美命の懐(ふところ)に抱かれるかのごとく49歳の生涯を閉じた。
◆信長の命が本能寺でつきた時、家康は堺に滞在していた。家康は信長が亡くなったとの情報を聞いて激しいショックを受け、「手勢(てぜい)で明智光秀と一戦を交えて斬り死する!」と半狂乱になって従う家臣たちを困らせた。三河譜代(ふだい)の股肱(ここう)の老臣、酒井忠次(さかいただつぐ)が家康を諌止(かんし)して説得し、家康は茶屋四郎次郎や伊賀者などに助けられ、伊賀越えの間道(かんどう)を通って三河岡崎に帰還した。
信長を失った家康にとって【日本建国の〔愛〕の理念】の復興は、みずからが天下統一して実現しなければならないことになった。この決意の実行は、信長の死から約5ヶ月後の井伊直政(なおまさ)の抜擢(ばってき)から開始された。
井伊直政の先祖は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に記載された建比良鳥命(たけひらとりのみこと)であった。
G図は、建比良鳥命とその一族が『古事記』上巻より約450年前の260年~290年頃に【日本建国の〔愛〕の理念】を伝えるために作成した卑弥呼の地上絵である。1010年に武家となった井伊氏は卑弥呼の地上絵の守り番であった。
直政はその井伊家の24代当主である。1月8日から始まったNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」のヒロイン(直虎)は直政の養母である。
本能寺の変があった1582年の10月、家康は甲斐(かい/山梨県)に進軍した。ところが、徳川軍は信州(長野県)から南下してきた北条氏直(うじなお)の軍と甲斐で遭遇した。そこで家康は、北条軍との講和(こうわ)の使者に小姓組(こしょうぐみ)の一員としてつかえる弱冠22歳の井伊直政を任命した。直政は家康の期待にこたえて、講和の使者という大任を見事にやりとげた。この手柄を待っていた家康は、直政に武田家の遺臣(いしん)47騎と坂東武者(ばんどうむしゃ)43騎を与えた。これが徳川軍最強の軍団と敵から恐れられた、深紅(しんく)の武具をまとって戦場を疾駆(しっく)した“井伊の赤備(あかぞな)え”である。
卑弥呼の地上絵の守り番の直政を大将とする井伊の赤備えは、信長の遺志を継いで天下統一を決意した家康が【日本建国の〔愛〕の理念】の復興へ挑戦したことをあらわす軍団であったのである。
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