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2017年1月17日 (火)

日本国誕生史の復興・41

 彦根の3千万坪の大鳥の地上絵
 

◆前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・40」で清洲(きよす)同盟を注目して証明したように、織田信長と徳川家康の二人が一生追い求めた夢は伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】の復興であった。
 A図は井伊氏の始祖である建比良鳥命(たけひらとりのみこと)260年~290年頃に作った【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える1千万坪の大鳥の地上絵である。
N821
(C) 2016 OHKAWA
 

 この大鳥の地上絵を、わたくしは“卑弥呼の地上絵”と名づけた。卑弥呼の地上絵を作った建比良鳥命は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部にその名が記載される。したがって、卑弥呼の地上絵は伊耶那美命の死からわずか約15年後に作成が始まった神代に作られた遺跡である。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の37回と38回で解説したように、建比良鳥家は1010年に元祖共保(ともやす)の誕生儀式において【日本建国の〔愛〕の理念】を演出して武家の井伊家を創設した。この儀式では卑弥呼の地上絵とその地名はじめ周辺地域の地名が消滅しないように、武家となって【日本建国の〔愛〕の理念】とその歴史を後世末永く守りつづけると堅く誓う家の掟(おきて)が示された。したがって、井伊氏は神代に作られた卑弥呼の地上絵の守り番であった。

 
◆『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしま・せいこん)説話は「小国・日本の女王に就任した伊耶那美命は伊耶那岐命と結婚した時、小国・日本の国作りの柱を〔愛〕にすると唱えた」と伝える。この「小国・日本の国作りの柱と定められた〔愛〕」をわたくしは【日本建国の〔愛〕の理念】と呼ぶことにした。
 【日本建国の〔愛〕の理念】は、B図に示す静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳で唱えられた。高尾山古墳は東日本における最古で最大の前期古墳である。
N822
(C) 2016 OHKAWA
 
 C図に示す倭国の西方の、東日本が小国・日本国であった。
N823
(C) 2016 OHKAWA

 D図は高尾山古墳の主体部から発掘された、2世紀後半に中国の後漢王朝後期に作られたであろうとされる銅鏡の破砕鏡(はさいきょう)図である。伊耶那美命は、この鏡の一部分を砕いて【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。
N824
(C) 2016 OHKAWA
 
 D図の鏡の「虎」という右上の注は「愛(いと)しい子を無事に出産するためにがんばって母親が、虎がほえるがごとく大声をあげていきみ・きばる怒責(どせき)」をあらわした。ゆえに、「虎」という注は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわすことになった。
 「羽人」という注はD図左上に配した[]の下に[]加える[(かも)]の金文形をあらわした。[]の金文形における[]は「空を飛ぶ味鴨(あぢかも)の大群」をデザインし、[]の下の[]は「空を飛ぶ味鴨のごとく多数の人民が地上に満ち満ちあふれる様子」をあらわすことになった。古代においては空を飛ぶ味鴨の群れの長さは実に3kmにも及んだという。だから、「羽人」と[]の金文形は、後漢王朝の人民が満ち満ちあふれて国が栄える願望をあらわした。ゆえに、わが国では「羽人」は「空を飛ぶ味鴨の大群のごとく、人民が満ち満ちあふれて〔愛〕が栄える」と解釈された。これゆえ、〔愛〕をあらわすと解釈された鏡は日本国内から、現在、50例近くも発見されている。したがって、当時、わが国の人々は〔愛〕をあらわす、この鏡をきそって求めて700面も1000面も中国から輸入したにちがいない。
 以上のごとく、高尾山古墳から出土した破砕鏡の「虎」と「羽人」の絵柄は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。

D図の破砕鏡の絵柄は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした――この事実は天智・天武両天皇の生母の岡本天皇が作った『万葉集』485番の長歌と486番・487番の二首の短歌で証言された。岡本天皇は舒明(じょめい)天皇の皇后の宝(たから)皇女にして後の皇極(こうぎょく)天皇にして斉明(さいめい)天皇である。
 485番の長歌の初句から5句までは「神代(かみよ)より 生()れ継ぎ来()れば 人さはに 国には満ちて 味群(あぢむら)の」である。これゆえ「神代の伊耶那美命は後漢の鏡を砕いて残した絵柄で空を飛ぶ味鴨の大群をあらわしました。この味鴨の大群であらわされた【日本建国の〔愛〕の理念】を人民は尊んで子孫代々受け継いできました。このため、国にはたくさんの人民が満ちあふれています」と表現していることになる。
 487番の短歌の初句から3句までは「近江道(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉川」(いさやがわ)」と詠()む。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 「鳥籠の山」は、上のE図に示す琵琶湖に浮かぶ最大の島の「沖島(おきのしま)」である。というのも、沖島は〔飛ぶ鳥(味鴨)の姿〕に見立てられた〔琵琶湖〕が身籠(みごも)って生んだ子のように観えるから「鳥籠の山」と表現されたことになる。「不知哉川」は河口が沖島に近くにある「現在の愛知川(えちがわ)」である。〔空を飛ぶ味鴨の姿〕に相似すると見立てられた〔琵琶湖〕はわが国最大の湖であるゆえ〔空を飛ぶ味鴨の大群〕をあらわした。
 また、E図に示したように『日本書紀』が「伊耶那美命が葬られた地」と書く花の窟(いわや)神社の経度軸(東経1365)は琵琶湖の東岸を貫通して沖島の東端をこするように通過する。つまり、花の窟は伊耶那岐命が熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)から奪った伊耶那美命の亡骸(なきがら)が葬られた地であった。花の窟の経度線が琵琶湖を貫通するゆえ、〔琵琶湖〕は〔空を飛ぶ味鴨の大群〕に見立てられたのである。
 また、琵琶湖の東方には多賀大社が鎮座する。多賀大社の主祭神は伊耶那美命と伊耶那岐命であり、また多賀大社(北緯35度14分)は高尾山古墳が祭る蓬莱山・足高山の真北の愛鷹山連峰を構成する一角の山峰=蓬莱山
(北緯35度14分と同緯度である。だから、〔琵琶湖〕は〔空を飛ぶ味鴨の大群〕に見立てられることになったのである。

◆『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は――倭女王となった伊耶那美命が伊耶那岐命と兵庫県南部の淡路島(あわじしま)で二度目の結婚した時、現在の愛媛(えひめ)県の小国名を伊予(いよ)とし、伊予の土地神の名を「愛比売(えひめ)」と定めた――と記述する。だから、神代では[]の字音は「え」であった。現在でも愛媛県の[]の字音は「え」である。

 E図において、愛知川(えちがわ)の右岸の斜線の「愛智」と記した地域は明治時代では「愛知郡」であった。この「愛知」も「えち」と読む。三省堂編修所編『コンサイス日本地名事典』は「愛知の古称は愛智(えち)であった」と指摘する。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・39」の後半部で指摘したように、織田信長が生まれ育った名古屋市南区の低地から天白川(てんぱくがわ)河口に至る海岸までの「年魚市潟(あゆちがた)」の「年魚市」の別の綴(つづ)りは「愛智」であった。この「愛智」は「【日本建国の〔愛〕の理念】は智=夏音文字の学芸知識ならば解明できる地」とあらすものであった。これゆえ、愛知川右岸の「愛智」の由来も同じく「【日本建国の〔愛〕の理念】は智=夏音文字の学芸知識ならば解明できる地」であったのである。
 ゆえに、E図に示した「愛知川」(彦根市の南限の川)は「【日本建国の〔愛〕の理念】は智=夏音文字の学芸ならば解明できる」と伝える川であった。

◆関ケ原合戦の4ヵ月後の1601年正月、徳川家康はA図の卑弥呼の地上絵の守り番の井伊家24代当主の井伊直政(なおまさ)に、岡本天皇が『万葉集』485番・486番・487番で『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は事実を伝えると証言した近江に移住して巨大な味鴨の地上絵の作成を命じた。この大鳥の地上絵は、現在の彦根市の行政区域をあらわす地図の形である。
 家康も信長も、そして井伊氏も、朝廷に逆らって【日本建国の〔愛〕の理念】の復興に全情熱をかたむけた。だから、家康・信長・直政が胸に秘めた熱き願望をあらわして、彦根の味鴨の地上絵は1千万坪の卑弥呼の地上絵の3倍の3千万坪に作られた。
 初代彦根藩主となった井伊直政は関ケ原合戦で受けた鉄砲傷が悪化して、16022月に没した。直政の一生の夢であった遺志を継ぐために井伊藩は、3千万坪の味鴨の地上絵の作成を1603年に着手して20年後の1622年に完成させた。家康は彦根の味鴨の地上絵の完成を急がせたが、完成の6年前の1616年に没した。現在の彦根市の地図の形は、家康が幼少期から追い求めつづけた胸に秘めた熱き願いと夢をあらわした。
 
 F図に示すように、彦根市北部の地図の形は岡本天皇が作った『万葉集』485番の長歌で詠まれた味鴨の頭部の形に設計された。
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(C) 2016 OHKAWA
 

 愛知川河口と彦根城の本丸を結ぶ線は「夏至の日の出の方角」を向く。この「夏至の日の出の方角」は「夏音文字の学芸」をあらわす。彦根の味鴨の地上絵の東端は羽の根元(ねもと)をあらわすが、多賀大社が所在する東方には羽が図化されていない。だから、彦根の大鳥の地上絵は「未(いま)だ夏音文字の学芸は復興せず」と表現することになった。前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・40」で指摘したように、『古事記』序は「夏音文字の学芸を研究しないと、上巻に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】を解明することができない」と警告する。だから、彦根の大鳥の地上絵は「未だ【日本建国の〔愛〕の理念】は復興せず」ともあらわしていることになる。
 G図の彦根の大鳥の地上絵の内側に、H図に示す琵琶湖南岸の地宜(ちぎ/地図の形)を図示した。
 G図の彦根市・多賀町の境界線となるA(名神高速道路と国道307号線が立体交差するあたり)からa(彦根市・多賀町・甲良町の境界)までの境界線の形は、C(近江八幡市も宮ヶ浜)から日野川河口までの湖岸の形に合致する。このc(宮ヶ浜)から日野川河口まで湖岸は、信長の天下統一の拠点の安土城の西側となる。
N831

(C) 2016 OHKAWA
 

 I図の彦根市の大鳥の地上絵の内側に、J図に示す浜名湖北岸の地宜を図示した。
 I図の彦根市のaからB(愛知川上の彦根市・愛知川町・能登川町の境界)までの境界線は、J図の〔大崎半島先端からD=都田川河口手前までの湖岸〕の形に合致する。徳川家最強の軍団の赤備(あかぞな)えを率いた井伊直政は敵から“赤鬼”と恐れられた。大崎半島先端からD地点までの湖岸の形は〔頭に生える角が長い鬼の横顔〕や〔兜(かぶと)をかぶる勇猛な武将の横顔〕(大崎半島は兜に取りつけられた鍬形/くわがた)に相似する。
 以上のごとく、彦根の大鳥の地上絵における北部の味鴨の頭と胸部を模(かたど)る境界線は家康の【日本建国の〔愛〕の理念】への思いを示すライン、彦根市東端のAからaまでの境界線は信長の【日本建国の〔愛〕の理念】への思いを示すライン、aからBまでの境界線は直政の【日本建国の〔愛〕の理念】への思いを示すラインとなる。
N832
(C) 2016 OHKAWA
 

 なお、彦根市の境界線のAからaまでの信長ラインはaからBまでの直政ラインより短いが、信長ラインの設計モデルとなった近江の宮ヶ浜から日野川河口までの直線距離は直政ラインの設計モデルとなった遠江の大崎半島の先端から都田川河口の手前までの直線距離の約2倍の長さとなる。

◆A図に示した井伊氏が守り番であった1千万坪の地上絵は、夏音文字の学芸における地図作成方法によって図化された。そして、3千万坪の大鳥の地上絵もまた夏音文字の学芸における地図作成方法を用いて図化された。また、家康・信長・直政の【日本建国の〔愛〕の理念】を復興せんとする熱き思いを伝えるために、複雑にグニョグニョと曲がる家康ライン・信長ライン・直政ラインが設計されることになった。このため彦根市の大鳥の地上絵は20年もの長い年月が必要になって、家康は完成を見ることができなかった。現在ならば精密測量器具を用いて彦根の大鳥の地上絵はわずか2,3年で完成することができよう。
 『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載された夏音文字の学芸は、1度の60分の11分の緯度差を測量できる[]のキャッチと三角土地測量法を有した。ゆえに、神代の卑弥呼王朝も大和王朝も地宜つまり平面的に図化する地図の形ならば作成できた。しかし、学者たちはグルになって〔誤読〕を駆使(くし)して夏音文字の学芸が後期縄文時代初頭に伝来した事実を抹殺(まっさつ)したため、神代にそんな高度な科学が発達していたという意見は誰もがにわかに信じがたきことになる……。でも、神代の遺跡・卑弥呼の地上絵にこだわって注目すればするほどに、学者たちの意見は〔誤読を駆使した空論〕であるこ実体がますます明白となり、ウソ八百の出鱈目(でたらめ)であることは否定しがたき事実となる。
 神代に実在した夏音文字の学芸の地図作成方法は、今日、卑弥呼の地上絵と彦根の大鳥の地上絵によって科学的に解明できる。この地図作成方法は、王朝と国家が独占管理して厳重に機密を保持していた。しかし、神代の3世紀後半、井伊氏の始祖の建比良鳥命が見つかったならば一族滅亡を覚悟の上で卑弥呼の地上絵を作成し今日まで残るという、奇跡中の奇跡がおきた。

◆わがブログ「日本国誕生史の復興・38」で指摘したように、K図の浜松市の内浦の地宜と彦根城の本丸の地宜は類似する。
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(C) 2016 OHAKAWA
 
 L図に示すように浜松市の内浦の地宜は、D図に示した高尾山古墳から出土した破砕鏡にある「鹿」「虎」「鳥」という注が付く絵柄に相似すると見立てられた。
N841
(C) 2016 OHKAWA
 
 M図に示すように、井伊氏が武家創設儀式をおこなった八幡宮と卑弥呼の地上絵の経緯度原点A地を結ぶ延長線は内浦の東端を通過して村櫛(むらくし)半島を貫通する。
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(C) 2016 OHKAWA
 

 N図に、内浦の地宜に類似する彦根城本丸と近江八幡市を示した。
 O図は、M図の南北を反転した上南下北図である。
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(C) 2016 OHAKAWA
 

 N図の〔彦根城本丸〕をO図の〔内浦〕に見立てると、N図の〔近江八幡市〕は井伊家の武家創設儀式(元祖共保公出生儀式)がおこなわれた〔八幡宮〕に相当する。ゆえに〔八幡宮〕に相当するから「近江八幡」という地名が生まれた。
 近江八幡市の宮ヶ浜から日野川河口までの湖岸の地宜は、彦根の大鳥の地上絵の信長ラインの設計モデルとなった。新村出編『広辞苑』(岩波書店)は【八幡】という語を「(八幡宮に祈誓する意。本来は武士の誓言)すこしもいつわりのない場合などにいう語。断じて。決して。全く。」と説明する。
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・40」で注目した清洲同盟において、信長は「和議早速御許諾欣然タリ 此上ハ両旗ヲ以テ天下一統スベシ 今ヨリ水魚(すいぎょ)ノ思(おもい)ヲナシ互(たがい)ニ是(これ)ヲ救(すくわ)ン事(こと)(いささか)モ偽(いつわ)リ有(ある)ベカラズ」という起請文(きしょうもん)を作った。この起請文末部の「聊モ偽リ有ベカラズ」という文は武士が八幡宮に祈願して誓うときの言葉【八幡】に合致する。だから、「近江八幡」の【八幡】は清洲同盟における起請文で信長が誓った「絶対に偽らない」と意味する「八幡」をあらわすものであったのである。
 清洲同盟における起請文の「水魚ノ思」の「水魚」は「鯱(しゃち)」であった。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・39」で解説したように、P図に示す琵琶湖に浮かぶ最大の島の〔沖島の地宜〕を信長は最初に〔鯨を襲って捕食する鯱の姿〕に相似すると見立て、次に頭が虎で体が魚の鯱鉾(しゃちほこ)を発案して安土城の屋根の両端に設置した。この信長が発案した安土城の鯱鉾が、現在の名古屋城の金の鯱鉾に継承された。
N844
(C) 2016 OHKAWA
 

 彦根の大鳥の地上絵の東端の信長ラインと直政ライン(AからBまで)のグニョグニョと曲がる境界線に注目していただきたい。このAからBまでの境界線は、信長が発案した鯱鉾の背にあるトゲをあらわすものでもあったことになる。したがって、鯱鉾の背のトゲをあらわす境界線は信長が清洲同盟の起請文で示した【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺せんとする皇室への怒り・憎悪をもあらわした。

◆Q図の「北緯357分の線」と同じく、沼津市の高尾山古墳は北緯357分である。
N845
(C) 2016 OHKAWA
 

 Q図に示すように、【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした「空を飛ぶ味鴨の姿」は、北緯357分より北部の琵琶湖の地宜に相似する。『万葉集』485番の長歌は「味鴨の群れ」を「味村」と記す。ゆえに、「北緯357分より北部の琵琶湖の地宜」は「味村」の[]をあらわす。また、「北緯357分より南部の琵琶湖の地宜」は〔頭髪を梳()く櫛〕の形に似ているので「櫛」をあらわす。結局、「琵琶湖の地宜」は、M図とO図に示した浜松市にある半島の名「村櫛」をあらわした。
 浜松市北区引佐町井伊谷に所在する井伊家の菩提寺(ぼだいじ)の龍潭寺(りょうたんじ)が所蔵する『井伊家伝記』は「正暦(しょうりゃく)年中公家の藤原共資(ともすけ)倫命(りんめい)により遠江国村櫛の郷に下って居住する」と伝える。正暦年間は990995年までである。ゆえに、10世紀末にはQ図に示した「琵琶湖の地宜」を「村櫛」とあらわした浜松市の半島の名は存在していたことになる。藤原共資が井伊家元祖共保の養父となった。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・38」で解説したように、公家の藤原共資は村櫛半島南端に志津城(しづじょう)を築き、慣れぬ武器をもって卑弥呼の地上絵を消滅するのを必死に食い止めた。というのも、743年に発令された墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)によって、開墾(かいこん)した田地の私有が認められるようになったからである。ゆえに、村櫛半島や卑弥呼の地上絵や引佐の郷の原野や山地を武装した侵略者たちに開墾されて私有地にされて破壊されると、【日本建国の〔愛〕の理念】や夏音文字の学芸が消滅する。この消滅を憂えて遠江国守・藤原共資の侵略者たちと戦う姿を見て、建比良鳥命家は武士になって卑弥呼の地上絵を守る決意をして井伊家を創設した。
 【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸は、皇室と国家が独占管理する最も厳重な機密であった。このため【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸を保存する卑弥呼の地上絵を建比良鳥命家が私有することは王朝と国家を転覆する大罪であった。だから遠江国守の共資が実行すべき任務は都に報告して卑弥呼の地上絵を破壊することであった。しかし、共資は職務よりも「倫命」すなわち「人として実行すべき使命」を重んじた。城を築き武器を持って侵入者と戦って排除して【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸が滅びないように守る、これを共資は「倫命」と表現した。
 
 だから、Q図の「村櫛」をあらわす〔琵琶湖の地宜〕は「倫命」をあらわした。またQ図の空を飛ぶ味鴨の群れは【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわし、F図に示したように彦根の大鳥の地上絵も【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。
 これゆえ、彦根の大鳥の地上絵は皇室の【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺に加担した比叡山を焼き打ちした信長の行為は倫命にもとづく行為であったと、今に伝えているものかもしれない。

◆R図に示すように、高尾山古墳の主体部に埋められた【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした破砕鏡より約1mはなれた東と東南の地点から〔230年頃の東海西部系土器〕が出土した。
N851

  信長が生まれ育った尾張と家康の出身地の三河と直政の本拠地の遠江も、東海西部地域である。だから尾張と三河の先人と遠江の建比良鳥命は高尾山古墳の主体部の作成を担当した。このため、彼らは後世末永く【日本建国の〔愛〕の理念】を伝えると決意する事態になったにちがいない。
 『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話は――【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・敵視する大和の天照大御神王朝を倒して須佐之男命王朝を創設するクーデターが計画された。この天照大御神王朝を倒すクーデターは五人の王と宗像(むなかた)王の天菩比命(あめのほひのみこと)によって計画された。宗像王は7人の建比良鳥命を率いていた。そのうち、5番目の建比良鳥命は伊自牟国国造(いじむむのくにのみやつこ)の先祖であり、6番目の建比良鳥命は津島県直(つしまのあがたのあたい)の先祖であり、最後の7人目の建比良鳥命は遠江国造の先祖である――と記述する。
 ゆえに、5番目の伊自牟国造の先祖の建比良鳥命は尾張に居住し、6番目の津島県直の先祖の建比良鳥命は三河に居住していたのであろう。
 クーデター計画を知った臨終間際の父伊耶那岐命は須佐之男命を枕辺に呼び寄せて「お前は、母(伊耶那美命)が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を背いてまでも反乱を決行するのか」と問いつめた。このため、須佐之男命が天照大御神との不戦の誓いを決意したがためにクーデターは失敗した。
 それゆえ“天照大御神王朝憎し”とクーデター計画に参加した遠江国造の先祖の建比良鳥命は「なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、こうなってしまうのだ」と悲嘆して、卑弥呼の地上絵の作成を決意した。同様に、深く傷ついて悲嘆する尾張と三河の建比良鳥命もまた後世末永く【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える決意をした。
 だから尾張の信長と三河の家康と遠江の直政は、神代の建比良鳥命の叫びを聞き【日本建国の〔愛〕の理念】を復興する倫命に命を賭()けることになったのではあるまいか。

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