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2017年2月 4日 (土)

日本国誕生史の復興・42

 桂離宮庭園が示す日本国誕生史
 
◆家康が一生追い求めた夢は【日本建国の〔愛〕の理念】の復興であった――これについては、わがブログ「日本国誕生史の復興」の40(前々回)41(前回)にて証明した。
 1608年、30歳の駿府城の作事奉行の小堀正一(まさかず)は科学の才能に恵まれ、また庭園作りの名人であり、さらに芸術の才能に優れていた。さらにさらに、正一は近江の坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)の出身者であった――ゆえに、岡本天皇が作った『万葉集』485番と487番は正一が幼少期を過ごした近江の〔琵琶湖〕を〔空を飛翔(ひしょう)する味鴨(あじかも)の大群〕に見立てて【日本建国の〔愛〕の理念】を詠()む和歌であることを知っていたであろう。というのも岡本天皇が作る487番の初句から3句までは「近江道(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉(いさや)川」であり、「鳥籠の山」は「琵琶湖に浮かぶ最大の島の沖島(おきのしま)」であり、「不知哉川」は「滋賀県彦根市の南限の愛知川(えちがわ)」であるからだ。また、岡本天皇が作った『万葉集』485番の初句から5句までの「神代より 生()れ継ぎ来()れば 人さわに 国は満ちて 味群れ(あじむら)の」という和歌は、「神代より伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重してきたために、空を飛ぶ味鴨の大群のごとく、わが国には多くの人民が満ち満ちて日々を営(いとな)んで〔愛〕が栄える」と表現することを、琵琶湖を見て育った近江の坂田郡小堀村出身の正一は知っていたと思われる。もしも、この二首の和歌の秘密を正一が知らなければ、この秘密を知っていた家康が教えたことになる。
 30歳のとき小堀正一は、家康からA図に示す遠州の卑弥呼の地上絵の研究を命じられた。
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 (C) 2016 OHKAWA 

 
 以後、正一は「遠州」と名のって、卑弥呼の地上絵の作成目的の【日本建国の〔愛〕の理念】と卑弥呼の地上絵に保存される夏音(かおん)文字の研究に没頭(ぼっとう)した。

◆これまでわがブログが証明してきたように、『古事記』上巻初頭部にある淤能碁呂島聖婚(おのごろしま・せいこん)説話の記事は――B図に示す静岡県沼津市に所在する高尾山(たかおさん)古墳で最初に伊耶那岐命と結婚した230年ころに、小国・日本の国作りの柱を〔愛〕にすると定めた――という歴史を伝えるものであった。この「小国・日本の国作りの柱」を、わたくしは【日本建国の〔愛〕の理念】と呼ぶことにした。
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(C) 2016 OHKAWA 

 C図に示す「東日本」が「小国・日本」であった。高尾山古墳は東日本(「小国・日本」の範囲)における最古で最大の前期古墳である。
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(C) 2016 OHKAWA

 D図に示す、2世紀後半(後漢時代)に中国で作られた上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)における不老長寿の仙人の絵柄の部分を砕いた銅鏡が、2008年に発掘調査が開始された沼津市の高尾山古墳の主体部から出土した。
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(C) 2016 OHKAWA

 わがブログ「日本国誕生史の復興・36」で詳細に証明したように、D図の破砕鏡(はさいきょう)における「鹿」「虎」「鳥」「羽人」という注がつく絵柄は、E図に示す中国海岸線の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)をあらわした。だから、D図の破砕鏡における[]という字は、E図の「海岸線で包まれる中国国土地図」を意味した。
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(C) 2016 OHKAWA
 

 E図に示す〔山東(さんとう)半島の北側の廟島(びょうとう)列島〕は、F図に示すように「オス鹿の角(つの)〕、〔山東半島〕」は「鹿の横顔」に相似すると見立てられた。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 ゆえに、〔廟島列島と山東半島〕はD図に示した高尾山古墳から出土した銅鏡の「鹿」という注をあらわした。
 E図の〔山東半島〕は「鳥の頭」、〔山東半島の付け根より南北に伸びる海岸線〕は「鳥の羽(両翼)」に相似すると見立てられて、銅鏡の「鳥」という注をあらわした。
 また「鳥の頭と羽」に見立てられた〔山東半島とその付け根より南北に伸びる海岸線〕は中国国土を包みこむゆえ、銅鏡の「羽人」という注をあらわした。
 G図に示す〔山東半島の付け根より南の海岸線〕は〔虎の横顔〕に相似すると見立てられて、D図に示した銅鏡の「虎」という注をあらわした。
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(C) 2016 OHKAWA

 E図に示したように、「鳥の頭と羽」の形のごとくに観える〔山東半島とその付け根より南北に伸びる海岸線〕は中国国土を包みこむ。ゆえに、「羽人」という注は「鳥の頭と羽の形をした海岸線に包まれる中国国土に、空を飛ぶ味鴨の大群のごとく多数の人民が満ち満ちあふれて居住するという意」をあらわした。
 D図左上とE図右上に配した[(かも)]の金文形は「羽人」という注と同じく「中国国土に、空を飛ぶ味鴨の大群のごとく多数の人民が満ち満ちあふれて居住するという意」をあらわした。というのも、[]の金文形の上部の[]は〔空を飛ぶ味鴨の大群〕を図案するものであり、下の[]は〔鳥の頭と羽の形をした海岸線に包まれる中国国土に居住する多数の人民が満ち満ちあふれる状態〕をあらわす図案だからである。現代は見られなくなったが、古代においては飛翔(ひしょう)する味鴨の群れの長さは実に3kmに及んだといわれている。これゆえ、「羽人」という注は「飛翔する味鴨の大群のごとく、中国国土に多数の人民が満ち満ちあふれて居住する状態」を表現することになった。
 結局、D図の高尾山古墳から出土した破砕鏡の「鹿」「虎」「鳥」「羽人」という注がつく4つの絵柄と[]という字は「国土に多数の人民が満ち満ちあふれて居住して〔愛〕が栄える様子」を表現することになった。
 小国・日本の女王であった伊耶那美命は倭女王に就任して小国・日本を去る250年ころ(多分、246年ころであろう)、高尾山古墳の主体部にD図の後漢鏡を埋めて、地の精霊に伊耶那岐命と高尾山古墳で結婚した時に唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】が栄えて日本の国土に多数の人民が満ち満ちあふれて居住することを祈願した。
 したがって、D図に示した高尾山古墳から見つかった破砕鏡(はさいきょう)は――『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の記事は【日本建国の〔愛〕の理念】を語るものであったことが科学的に証明される確かな証拠となる。
 これゆえ、前述したように岡本天皇が作った『万葉集』485番と487番は――H図に示すように、〔北緯357分の高尾山古墳の緯度線が貫通する、日本一大きな琵琶湖の地宜〕は〔空を飛翔する味鴨の大群〕に見立てられて【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした――と表現する和歌であったことになる。

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(C) 2016 OHKAWA


◆I図に示すように、A図に示した卑弥呼の地上絵は中国国土地図を模(かたど)る。
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(C) 2016 OHKAWA

  わがブログ「日本国誕生史の復興・21」で詳細に解説し証明したように、卑弥呼の地上絵は260年頃から作成が始まり、約30年後の290年頃に完成した。
 沼津市教育委員会は、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす銅鏡(D図)が出土した高尾山古墳の主体部は250年頃に作成されたと推定した。したがって、高尾山古墳の主体部が作られた約10年後に、卑弥呼の地上絵は作成されたことになる。
 だから、卑弥呼の地上絵は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために作成された地上絵であったのである。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・34」にて明確に証明したように――わが国には、いま残っている中国の最古の漢字音である上古音(紀元前1046年から始まる西周初期の漢字音)よりも約1000年も古い、紀元前2050年ころに中国から伝来した夏代(かだい)初頭の夏音文字の字音が保存されて残っている。
 だから、わが国に残る夏音文字の字音は、いま残っている最古の漢字音である。
 原初漢字の夏音文字は、『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名などに楷書で表記されて多数残る。「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと、夏音文字の字音となる。したがって、わが国において最初に漢字が伝来して習得されたのは、紀元前2050年ころの夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)であった。
 また、夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数残る。
 A図に示した卑弥呼の地上絵における〔鳥の横顔〕は「夏至の日の出の方角」に向いて「わが国に夏音文字の学芸が伝来した」と今日に伝える。ゆえに【日本建国の〔愛〕の理念】を図化した卑弥呼の地上絵は、夏音文字の学芸を保存する遺跡でもあったのである。
 夏音文字の字源・字形・字義は、下に示す銀河範囲における各部の形状である。
Ginga

 
 その各部の形状が夏音文字の字源・字形・字義となった上に示す銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけた。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・34」で証明したように、太安万侶(おおのやすまろ)が書く『古事記』序は「楷書の字源・字形・字義も、夏音文字と同じく文字作成銀河各部の形状である。だから、文字作成銀河の各部の形状は、夏音文字と楷書を正しく変換できる辞理(じり/文字と語の原理)となった。ゆえに編纂スタッフは上古の実際にあっ出来事(つまり、真実の歴史)を後世に伝えるため、夏音文字を楷書で表記して『古事記』上巻の随所に記載した。われ安万侶は警告する、『古事記』上巻の記事は文字作成銀河の各部の形状で夏音文字の字源・字形・字義を解明すれば真実が解明できる仕組みになっている。言いかえると、文字作成銀河の各部の形状を観察して夏音文字の字源・字形・字義を解明しないと上巻に記述された歴史はまったく解明できない」と解説するものであった。
 これゆえ、A図とI図に示した卑弥呼の地上絵は〔文字作成銀河を辞理にして夏音文字の字源・字形・字義を解明すれば、淤能碁呂島聖婚説話に記述されたとおり、伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた歴史を解明することができる遺跡〕であった。
 だから、文字作成銀河を辞理にして夏音文字の字源・字形・字義をまったく解明しない今日の学者たちの『古事記』上巻に関する意見の実体はすべて空論・空想であったのである。

◆家康は没する1年前の1615年、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定し、その第1条を「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」と定めた。
 上記の文中の「天子」は「天に存在する文字作成銀河各部の形状が夏音文字と楷書の字源・字形・字義となる学芸に精通する帝(みかど)」を意味した。したがって「諸芸能」と「学問」は共に「神代の歴史が正しく解明できる夏音文字の学芸」を意味した。ゆえに「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」という文は「夏音文字の学芸で解明できる【日本建国の〔愛〕の理念】を復興することが、わが国家において最も大事なことである」と表現するものであったゆえ、家康は【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を皇室に欲求するものであったことになる。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・40」で証明したように、徳川家康は814歳までの7年間、今川義元の軍師の大原雪斎(たいげんせっさい)から夏音文字の学芸を厳しく教育された。さらに、その後も【日本建国の〔愛〕の理念】を復興する夢を実現するために夏音文字の学芸を研究した。このため、家康は当時を代表する夏音文字の学芸の学者であった。
 夏音文字の学芸には、文字作成銀河各部の形状を文字(字源・字形・字義)と定めることができる右脳思考(芸術才能)が求められた。ゆえに、家康は当時を代表する芸術家の小堀遠州に卑弥呼の地上絵の研究を命じた。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の37回・38回で証明したように、A図とI図に示した卑弥呼の地上絵を作った建比良鳥命家(たけひらとりのみことけ)は、1010年、【日本建国の〔愛〕の理念】を演出する元祖共保(ともやす)が井戸の中から生まれる儀式をおこなって、武士の井伊家を創設して再出発した。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の40回と41回で証明したように――1562年の清洲同盟(きよすどうめい)で織田信長との誓いを守るために家康は、井伊家24代当主の井伊直政(なおまさ)に岡本天皇が作った『万葉集』485番と487番が詠んだ【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす近江の彦根(H図)への移住を命じた。
 神代の3世紀後半に卑弥呼の地上絵を作成した建比良鳥命の末裔(まつえい)である彦根・井伊藩は、J図に示す3千万坪の大鳥の地上絵(今日の彦根市の行政区域を表示する地図の形)の作成を1603年に始めて20年後の1622年に完成させた。
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(C) 2016 OHKAWA


 J図に示すように、彦根の大鳥の地上絵より東部地域には羽()の形が存在しない。そして、愛知川河口と彦根城本丸を結ぶ線は「夏至の日の出の方角」を指す。ゆえに、彦根の大鳥の地上絵は「未だ夏音文字の学芸は復興せず」、あるいは「未だ【日本建国の〔愛〕の理念】は復興せず」と表現していることになる。
 彦根の大鳥の地上絵は琵琶湖上に羽をやすめて浮かぶ味鴨の姿を模(かたど)っている。
 また、彦根の味鴨の地上絵は織田信長と徳川家康と井伊直政が一生追い求めた夢である、【日本建国の〔愛〕の理念】を復興せんとした三人の心願(しんがん)をあらわしている。

◆彦根の味鴨の地上絵が完成した1622年、30歳のときに家康に命じられて卑弥呼の地上絵を15年間研究していた小堀遠州は、彦根の味鴨の地上絵にそそぎこまれた夏音文字の学芸知識を井伊氏から伝授されるために近江奉行に任命された。この伝授の際、井伊氏は上記した1010年における井伊家創設儀式の秘密を語った。
 この井伊家創設儀式において、K図の左下に示す八幡宮(引佐町井伊谷)に所在する「御手洗(みたらし)の井戸」の中から井伊家元祖の共保公が誕生するという、ファンタスティックな儀式がおこなわれた(わがブログ「日本国誕生史の復興」の37回・38回を参照)
 この井伊家創設儀式は、D図の高尾山古墳から出土した鏡があらわす【日本建国の〔愛〕の理念】を演出するものであった。井伊家創設儀式で元祖共保公が生まれた「御手洗の井戸」の「御手洗」は「身をかがんで手をあらう水鏡(みずかがみ)」を意味した。この「御手洗」という語における「身をかがむ」の「かがむ」が「鏡(かがみ)」の語源とされる。ゆえに「御手洗」という語はD図の「高尾山古墳から出土した鏡」をあらわした。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 L図に示す〔彦根城本丸と近江八幡市〕の位置関係は、K図の〔内浦と八幡宮〕の位置関係に符合して高尾山古墳から出土した鏡をあらわす仕組みとなる。つまり〔八幡宮〕と〔近江八幡市〕は〔八幡〕で合致するので、〔内浦〕は〔彦根城本丸〕に符合する。この〔内浦=彦根城本丸〕の符合が〔高尾山古墳から出土した鏡〕をあらわした。
 というのもM図に示すように、〔内浦の地宜〕は、高尾山古墳から出土した「鹿」「虎」「鳥」の絵柄の首・胴体の形に類似するからである。
 N図に示す〔彦根城本丸の地宜(平面図)」は、〔内浦の地宜〕に類似する。だから、〔彦根城本丸〕は〔高尾山古墳から出土した鏡〕をあらわすことになり、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を絶対に失うことはできない、“愛、あざやかに永遠であれ”という祈りと願いをあらわす聖域となった。
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(C) 2016 OHKAWA
 
◆上記したように、彦根の味鴨の地上絵が完成した1622年、近江奉行を命じられた小堀遠州は彦根城本丸が高尾山古墳の破砕鏡・【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす仕組みになっている秘密の詳細を井伊氏から教授された。
 翌1623年、小堀遠州は京都の伏見奉行に任命され、1616年に没した家康の夢【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を実現させるための施設作りを江戸幕府から命じられた。
 この施設が京都府に所在する“日本一、美しい庭園”と評される桂離宮の庭園であった。
 桂離宮に関する史料『桂御別業之記(かつらごべつぎょうのき)』の冒頭は「庭園は小堀遠州政一(まさかず)が伏見奉行であったときに毎々参上してことごとく作った」と記述する。遠州は1647年に69歳で伏見奉行屋敷にて死去するが、没する2年前の67歳の時に病で床に伏すまでの23年間、桂離宮の庭園作りに情熱をかたむけた。家康から卑弥呼の地上絵の研究を命じられてから38年間、人生の大半を遠州は夏音文字の学芸にたずさわった。
 家康は一生かけても【日本建国の〔愛〕の理念】を復興する夢は実現しなかった。ゆえに、【日本建国の〔愛〕の理念】の復興は江戸幕府が実現しなければならない宿題となった。このため桂離宮の作庭のテーマは、もちろん、高尾山古墳から出土した鏡があらわす【日本建国の〔愛〕の理念】であった。それというのも、【日本建国の〔愛〕の理念】は“絶対に失うことはできない 永遠に栄えよ”という信念と祈願となって卑弥呼の地上絵に受け継がれ、さらに井伊氏・織田信長・徳川家康の夢と願望をあらわす彦根の味鴨の地上絵にも受け継がれたからである。
 【日本建国の〔愛〕の理念】が解明できる方法の夏音文字の学芸は卑弥呼の地上絵と彦根の味鴨の地上絵が示すように、地宜すなわち平面的に図化した地図の形で表示された。
 だから桂離宮庭園における夏音文字の学芸は、O図に示す平面図に表示された。
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(C) 2016 OHKAWA
 
◆桂離宮庭園の西岸は、P図に示すように中国海岸線地図の形を模(かたど)るように設計される。ゆえに、P図はI図に示した卑弥呼の地上絵の秘密をあらわした。
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(C) 2016 OHKAWA
 

また、P図はE図に示した「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の形に見立てられた中国海岸線地図をもあらわす。また、P図はD図の高尾山古墳から出土した鏡の【日本建国の〔愛〕の理念】をもあらわすことになる。
 Q図に示すように、桂離宮庭園の西岸の東隣にある二つの島の名は「神仙島」(「中島」ともいう)である。この島の名は、伊耶那美命が後漢鏡を砕いた部分に彫られていた「不老長寿の仙人」と同義の「蓬莱の神仙」にもとづいて「神仙島」と名づけられたことになる。この神仙島における西側の築島は〔空を飛ぶ味鴨の大群=琵琶湖〕を、また東側の築島は〔水に浮かぶ味鴨の形となる彦根市の味鴨の地上絵〕を表現するように設計されている。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 結局、〔二つの島からなる神仙島〕は、L図の〔琵琶湖と彦根の味鴨の地上絵〕を示して【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。
 また、R図に示すように庭園の西岸に近い〔神仙島〕は「近江」をあらわす。
 他方、R図に示すように庭園の西岸から遠い〔天橋立(あまのはしだて)とその北側の庭園〕は「遠江」をあらわすことになる。
N893
(C) 2016 OHKAWA
 
 S図に示す〔天橋立とその北側の庭園の平面図〕は〔遠江の卑弥呼の地上絵〕に相似する。この庭園部は〔彦根の味鴨の地上絵〕に共通して、〔羽の無い卑弥呼の地上絵〕の形となる。ゆえに、この庭園部は遠江の卑弥呼の地上絵と近江彦根市の味鴨の地上絵の合体形ということになる。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 〔羽の無い卑弥呼の地上絵の庭園〕の直ぐ南、〔神仙島〕の東方には、T図の下側に示した松琴亭(しょうきんてい)茶室前の流れ手水(ちょうず)がある。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 この流れ手水は“遠州好みの桂三景の一つ”とされて有名である。
 流れ手水は飛び石の上に跨(またが)って、身をかがめて行う「鏡」の語源をあらわす御手洗(みたらし)すなわち水鏡である。だから、遠州好みの流れ手水は高尾山古墳の主体部に埋められた鏡をあらわす。その証拠に、T図に示す流れ手水の北側にある天橋立の三つに折れる東端の築島(つきしま)の地宜の形は、松琴亭がある庭園部の東岸に沿って平行するように設計されて方形(四角形)の辺が察知できる。したがって、天橋立の東端の築島は、U図に示す高尾山古墳後方墳の方形が連想できるように設計されている。高尾山古墳の方形の後方墳から、D図に示した【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした鏡が出土した。
N896
(C) 2016 OHKAWA
 
 天橋立の東側にある洲浜(すはま)に至る、その北側手前の通路となる石橋は「海辺の景」と名付けられた庭園部が下に見えるように高く架()かっている。この高い石橋からはきれいな玉石を敷く州浜・その向こうに天橋立・天橋立の松越しに茅葺(かやぶ)きの松琴亭が見える。この箇所は、桂離宮の中で、最も美しく、“海辺の景”と呼ばれている。
 だから海辺の景は【日本建国の〔愛〕の理念】が唱えられた高尾山古墳を連想するために、庭園で最も美しく作られたのである。流れ手水は高尾山古墳に埋納された【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす鏡をあらわすので、「かがみ」の語源となった御手洗(水鏡)であったのある。
 “海辺の景”の真ん中となる天橋立中央の築島の南側には、V図に示す「蓬莱山(ほうらいさん)」を模る岩がある。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 W図は“日本に現存する蓬莱山図の逸品(いっぴん)”と評される「蓬莱山蒔絵袈裟箱(まきえけさばこ)(東京国立博物館蔵 法隆寺献納宝物 平安時代作成)の「蓬莱山図」である。
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(C) 2016 OHKAWA
 
 D図に示した高尾山古墳から出土した銅鏡には蓬莱山に住む仙人の絵柄が彫られていた。ゆえに、「仙人」は「蓬莱の神仙」ともいう。中国において桃は仙人(蓬莱の神仙)に力を与える樹木・果実とされたゆえ、「仙木」「仙果」と呼ばれた。
 B図に記した沼津市の足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)は愛鷹山連峰の南端に所在し最高峰でもないにかかわらず、連峰を代表する山峰となる。その理由は、伊耶那美命が生存した3世紀、「足高山」は「蓬莱山」と呼ばれていたからにちがいない。というのも、足高山
山頂には蓬莱の神仙(仙人」に力を与える仙果の「桃」の字が付く桃沢神社が祀られ、この理由で連峰を代表する山峰になったと指摘されている。また、愛鷹山連峰の一角には「蓬莱山」(標高1,296m)と呼称される山峰が所在する。この愛鷹山連峰のうちの蓬莱山の真南に沼津市の足高山があり、足高山の麓の高尾山古墳にて伊耶那美命と伊耶那岐命は結婚した。そして、愛鷹山連峰の蓬莱山山頂の緯度(北緯3514)と近江・滋賀県の多賀大社(北緯3514分」は同緯度である。ゆえに、多賀大社には伊耶那美命と伊耶那岐命が祭神となって祀られることになった。
 琵琶湖に浮かぶ最大の島である沖島の地宜は、空中写真が示すようにB図に示した伊豆半島の地宜に相似する。
Photo

 
 X図に、沖島の地図を示した。
N903
 
 沼津市の蓬莱山・足高山の山頂は北緯3512分、沖島の最高峰の蓬莱山は北緯3512.5分である。したがって桃沢神社が鎮座する足高山山頂と沖島の蓬莱山の緯度差はわずか0.5分(30秒」
であるゆえ、同緯度ということになる。
 H図中央上部に記したように、沖島の真西となる北緯3512.5分には比良(ひら)山地の一角となる蓬莱山の山頂がある。足高山の標高は1187m、沖島の蓬莱山の標高は225m、比良山地の蓬莱山の標高は1174mである。ゆえに、足高山は沖島の蓬莱山よりはるかに高いが、足高山と比良山地の蓬莱山の標高差はわずか13mである。だから、3世紀において「足高山」は「蓬莱山」と呼ばれていたために、足高山と同緯度の沖島の最高峰と比良山地の一角をなす山は「蓬莱山」と名づけられ、後世の人々が【日本建国の〔愛〕の理念】を解明できる糸口となったにちがいない。
 
◆以上のごとく、桂離宮庭園は――(1)人の横顔に模る桂離宮離宮庭園の西岸、(2)神仙島、(3)羽が無い卑弥呼の地上絵を模る庭園、(4)遠州好みの流れ手水、(5)天橋立中央の築島南側の「蓬莱山」を模る岩――をもって、伊耶那美命が高尾山古墳から出土した鏡で【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした歴史を表示している。
 だから、D図に示した破砕鏡によって『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話における「伊耶那美命は高尾山古墳で伊耶那岐命と結婚したときに、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた」という記述は確かな歴史上の事実であったことになる。
 学者たちが主張する定説は淤能碁呂島聖婚説話を――伊耶那美命と伊耶那岐命は天の雲の上で結婚し、雲の上から二人は矛(ほこ)を地上に指しおろして地上の海水をコオロコオロとかき鳴らして幾つかの国々を生んだ――と説明するものとする。ゆえに、この説話はまったく歴史とは無関係な物語とする。
 しかし、D図の高尾山古墳から出土した鏡によって――230年ころ、伊耶那美命と伊耶那岐命は小国・日本に赴任するにあたって倭地の一角(つまり、R図とT図に示した天橋立/京都府宮津市北部)で矛を持って海水をコオロコオロとかき鳴らすと演出する儀式をおこなって『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事が伝える〔南〕に伸びる卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理をあらわした。そして、伊耶那美命は女王として伊耶那岐命は軍王(いくさのおおきみ)として小国・日本に赴任して、二人は蓬莱山・足高山の麓の高尾山古墳にて結婚した。この結婚の際に、伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めると唱えた。その後、倭女王となった伊耶那美命は『魏志』倭人伝に記述された残忍きわまりない徇葬(じゅんそう)をあらわす諸国の名を嫌って【日本建国の〔愛〕の理念】や豊かな食料に恵まれるとあらわす国々の名を考えた(生んだ)-と淤能碁呂島聖婚説話は歴史を記述するものであったことが証明される。
 学者たちは『古事記』序が「夏音文字の学芸を解明すれば、『古事記』上巻に記述された歴史を正しく解明できる」と指摘する警告をいっさい無視し、誰ひとり夏音文字の学芸の秘密を解明しない。そして学者たちは記事のとおりに解釈しない〔誤読〕に〔文献批判〕と名づけ、その多数の〔誤読〕を駆使(くし)して『古事記』上巻に記述された真実を排除(はいじょ)する。
 だから、学者たちの意見の実体は〔誤読〕で真実をねじ曲げた科学に反する空論・空想であったのである。
 わが前回のブログ「日本国誕生史の復興・41」で詳細に解説して証明したように――J図に示した彦根の味鴨の地上絵には、夏音文字の学芸に精通した織田信長と徳川家康と井伊直政の三人の夢と心願が設計され、三人の胸に秘めたその思いは『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】の復興であったことが明確に示されている。学者たちが主張するように伊耶那美命は雲上に住む存在でこの世に住む人間ではなかったことが事実であったならば、信長も家康も直政も【日本建国の〔愛〕の理念】の復興をなんとしても実現せんと決意して一生を賭()けるようなことはしない。しかし、伊耶那美命は歴史上の人物であったために、伊耶那美命に熱烈にあこがれる三人は【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を胸深く秘めて一生を賭けたのである。
 だから、学者たちの意見の実体は多数の〔誤読〕で真実を排除した空論・空想・ウソ八百であったことになる。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は「伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めると唱えた」という実際におきた歴史の事実を記述した。だから、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える高尾山古墳、卑弥呼の地上絵、彦根の味鴨の地上絵、桂離宮離宮の庭園という遺跡が存在することになった。
 したがって、学者たちは『古事記』序の警告を無視して夏音文字の学芸についてまったく研究しない横着(おうちゃく)を決めこみ、記事の表層だけをつまみ食いした多数の〔誤読〕で真実をねじ曲げて科学に反する空想・空論・ウソ八百を国民に押しつけて騙(だま)していることになる。

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