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2017年2月14日 (火)

日本国誕生史の復興・43

 桂離宮庭園と天皇即位式の王冠

◆わがブログ「日本国誕生史の復興・11」で詳細に証明したように――『古事記』中巻の第9代開化天皇は、『古事記』上巻に登場する伊耶那岐命であった。というのも、『古事記』中巻の開化天皇紀の冒頭記事は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。この天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚された」と記述するからである。開化天皇が住んだ宮殿「伊耶河宮」の先頭2字「伊耶」は「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字と同一である。ゆえに、開化天皇の正妃の「竹野比売」を人民は敬愛して「伊耶那美命」と愛称としたことになる。したがって、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話が「伊耶那岐命と結婚した時、小国・日本の女王となった伊耶那美命は国作りの柱を〔愛〕にすると唱えた」と伝える、この伊耶那美命の本名は「竹野比売」であった。
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・42」で説明したように、1616年に没した徳川家康が一生追い求めた夢は竹野比売・伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を復興することであった。ゆえに、【日本建国の〔愛〕の理念】の復興は江戸幕府が実現しなければならない宿題となった。1623年に京都の伏見奉行に任命された小堀遠州は、江戸幕府から【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を実現するための桂離宮の作庭を命じられた。遠州は1647年に69歳で伏見奉行屋敷にて死去するが、没する2年前の67歳の時に病で床に伏すまでの23年間、桂離宮の庭園作りに情熱をかたむけた。
 A図に、桂離宮の平面図を示した。
N911

(C) 2016 OHKAWA

 A図の上部に示すように、桂離宮庭園南部には丹波街道が隣接する。上記した『古事記』中巻の記事が示すように、丹波街道を進むと竹野比売の出身地の丹波に到着する。丹波街道から桂大橋の手前で左へ曲がると、桂川の右岸の土手道に沿って左手に竹の葉の垣根が約230m続く。この生垣(いけがき)は桂離宮庭園の竹藪(たけやぶ)の小竹を途中から折り曲げて編んだ竹の葉がそのまま壁となる素朴でアイデアに富む。この生垣は「桂垣」または「桂の笹垣」と呼ばれる。この桂の笹垣は〔竹〕で作られるゆえ「竹野比売」が「伊耶那美命」であったことを今に伝えている。桂の笹垣の内側の竹林も、庭園南部に所在する竹林も「竹野比売」が「伊耶那美命」であったことを今に伝えている。 
◆B図に示すように、桂の笹垣を構成する竹林の内側の〔庭園池の東岸の平面図〕は〔夏の銀河像〕に設計されている。
N912

(C) 2016 OHKAWA

  「天の川」の別名は「銀河」あるいは「銀漢」である。「銀漢各部の形状から作られた文字」を略して「漢字」と称したのである。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の9回と10回で詳細に解説し証明したように、漢字は、下に示す銀河範囲における各部の形状から作られた。
Ginga

 漢字が作られた上に示す銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけた。
 文字作成銀河の各部には名称が存在しない。そこで、わたくしは下に示すように、文字作成銀河各部の名称を定めた。
Photo
(C) 2016 OHKAWA

   文字作成銀河で最も巨大な銀河は〔夏の銀河〕(夏の銀河の東北部・夏の銀河の西南部)である。“夏の銀河”は「夏の星座が漬()かる銀河。または夏に最も長時間見える銀河」のことである。したがって、“秋の銀河”は「秋の星座が漬かる銀河。秋に最も長時間見える銀河」ということになる。
 「文字作成銀河」は〔夏の銀河〕と〔秋の銀河(の西部)〕とで構成される。
 B図に示した夏の銀河像が文字作成銀河写真の夏の銀河像と異なって見えるのは――B図の夏の銀河像は視界の中に光がまったく入らない瞳孔径(どうこうけい/瞳孔の直径)78mmであるのに対して、文字作成銀河写真の場合は少し明るい光が入った瞳孔径が少し縮小された状態の絞りで撮影したために両者の形は異なったのである。桂離宮庭園に設置される24基の石燈籠(いしとうろう)は、瞳孔径の変化(縮小・拡大)によって文字作成銀河各部の形が異なることを示す役目を有している。
 夜になれば銀河は輝いているが、日本各地は地上灯火で夜も明るいゆえ瞳孔径が2mmぐらいまで縮小されるので銀河が見えない。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・34」で詳細に解説して証明したように、今から約4050年前の後期縄文時代初頭に原初漢字の夏音(かおん)文字の学芸が、わが国に伝来して習得された。
 B図に示した夏の銀河像を模(かたど)る庭園池の東岸は、わが国に夏音文字が存在したことを表示している。また、B図の夏の銀河像は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記載された竹野比売・伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は文字作成銀河各部の形状を観察して夏音文字の字源・字形・字義の秘密を知らないと解明できない仕組みを伝えている。夏音文字は書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者は天罰が下って即刻に死刑に処せられると定められる原初漢字であった。だから書いた文字は出土しないことになったが、実際にわが国に伝来し習得されて存在した漢字であった。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・34」の後半で詳細に証明したように、太安万侶(おおのやすまろ)が書く『古事記』序は「文字作成銀河の各部の形状を観察して夏音文字の字源・字形・字義を解明しないと『古事記』上巻に記述された歴史は解明できない仕組みになっている」と警告する。
 夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名に用いられて楷書で表記されて記載される。「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むと、夏音文字の字音となる。また夏音文字は『古事記』上巻の随所にも〔音〕という注が付く11音文字となって楷書で表記されて多数残る。
 いま中国に残っている最古の漢字音は、紀元前1046年から始まる西周初期の上古音である。ところが、わが国の国語として残る最古の漢字音は、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載される紀元前2050年ころに伝来した夏代初頭の夏音文字の字音である。したがってわが国の夏音文字の字音は中国の最古の漢字音の上古音よりも約1000年前の字音となる。
 いままでわがブログ「日本国誕生史の復興」を幾度となく証明したように、C図に示す卑弥呼の地上絵は学術調査すれば夏音文字の学芸の全貌が解明できる遺跡である。『魏志』倭人伝と同じ3世紀後半に作られた卑弥呼の地上絵の大鳥の顔は〔夏至の日の出(29度の東北)〕の方向を向いて「わが国には、夏音文字が存在した」と伝えている。
N913
(C) 2016 OHKAWA
 

◆わがブログ「日本国誕生史の復興」の10回と11回で詳細に解説し証明したように、伊耶那美命・竹野比売の夏音文字の名は「壱与(いよ)」であった。
 この壱与は、『魏志』倭人伝末部の下記のごとく記事に登場する。
 「卑弥呼はすでに死す。大きな墓を作った。その円墳の直径は百余歩(150)。卑弥呼の墓に百余人の奴婢(ぬひ/18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女)を殺して埋める徇葬(じゅんそう)をおこなった。卑弥呼の没後に男王を大王にしたが、残酷な徇葬を憎悪して国中の人民が服従せず、倭王朝軍の兵たちと殺し合って戦った。倭王朝は千余人の反乱者たちを殺した。また倭王朝は、卑弥呼が率いる巫女(みこ)界を代表して13歳のときに小国・日本の女王として赴任させた壱与を倭女王に立てると国中にひろがった大乱は遂に終息した。」
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話が記述しているように――壱与・伊耶那美命は、D図に示す静岡県沼津市の高尾山古墳で伊耶那岐命と結婚したとき、小国・日本の国作りの柱を〔愛〕にすると唱えた。
N921
(C) 2016 OHKAWA
 
 倭王朝は壱与・伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】に憧れたが原因で徇葬に反対する反乱が国中にひろがったと非難し、その責任をとらせるために壱与・伊耶那美命を倭女王に立てたのである。倭女王の壱与・伊耶那美命が説得しても、その説得に怒る反乱者たちは聞き耳をもたず【日本建国の〔愛〕の理念】は絵空事となるにちがいないので、壱与・伊耶那美命を処刑して決着(けっちゃく)すれば【日本建国の〔愛〕の理念】に憧れておきた大乱は夢から覚()め、やがて下火になって鎮圧(ちんあつ)できると倭王朝は予測したのであろう。
 前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・42」で解説したごとく、E図に示す中国の後漢時代に作られた銅鏡の4つの絵柄と[]という字を、倭国の国中の人々は「3kmの長さに及んで空を飛ぶ味鴨のごとく、中国の国土に人民が満ち満ちあふれて〔愛〕が栄える」と解釈していた。
N922
(C) 2016 OHKAWA
 
 ゆえに小国・日本を去るとき、壱与・伊耶那美命は不老長寿の仙人の絵柄がある部分を砕き、〔愛〕をあらわす「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の4つの絵柄と[]の字を残して【日本建国の〔愛〕の理念】を表示して高尾山古墳の主体部に埋めて地の精霊に「国土安泰」を祈願した。この情報はたちまち倭国の国中にひろがり、『魏志』倭人伝が記述しているように反乱者たちは壱与・伊耶那美命が倭女王になったならば必ず残酷な徇葬を禁止するにちがいないと信頼して武器を捨てた。
 だから、倭王朝の予測に反して夏音文字の学芸と国家体制の威厳よりも【日本建国の〔愛〕の理念】のほうが勝るという、とんでもない歴史上の大事件がおきたのである。

◆伊耶那美命の没後、天照大御神が倭女王に選ばれた。天照大御神は、『古事記』中巻の第9代開化天皇紀に「天皇の継母にして第二后」と記載された伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)であった。伊迦賀色許売命から生まれた10代崇神(すじん)天皇は、伊耶那岐命・開化天皇の父の第8代孝元(こうげん)天皇の子であった。したがって、崇神天皇は伊耶那岐命・開化天皇の養子にして異母弟であった。伊迦賀色許売命・崇神天皇母子が、夏音文字の学芸を政治基盤とする大和朝廷の基礎を築いた天照大御神であった。
 伊迦賀色許売命は夏音文字の学芸こそが最も勝るものでなければならないと考え、強大な権力を有する国家体制を目指した。だから、夏音文字の学芸と国家体制の威厳をうち砕いた、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を伊迦賀色許売命は憎悪し敵視した。
 ゆえに、わがブログ「日本国誕生史の復興」の18回と19回で証明したように、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話は――倭女王に就任したときに皇祖の天照大御神(伊迦賀色許売命)は、夏音文字の学芸の威厳を示して多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋めて雷神にささげる残酷な徇葬を陣頭指揮した――と記述する。
 『古事記』は「日本国は〔愛〕を掲(かか)げて誕生した。皇祖の天照大御神は残虐な徇葬をおこなった」と記述する反逆の史書であった。このため、この事実を記述しない『日本書紀』は宮中で講義され正史としてよく読まれたのに対し、『古事記』は危険思想を養い朝廷への憎悪を育(はぐく)む書物と定められたゆえ読む人も少なく人目をはばかってこっそりと隠れて読む禁書(きんしょ)となった。

1725年に没した新井白石は近代合理思考を取り入れて『魏志』倭人伝の記事に多数の〔誤読(文献批判)〕を加える立論方法を開発した。『魏志』倭人伝と『古事記』上巻は夏音文字の学芸を共に記載して直接に結びついていた。このため、白石の誤読の害は『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載された夏音文字の学芸を尊重して大和朝廷の基礎を築いた皇祖天照大御神の事績(じせき)がゼロとなり、やがて皇室の存在理由も失われ元も子もなくなって滅亡するであろうと、皇室は深刻に心配した。これゆえ、皇室は3世紀以来約約1450年にも及ぶ伝統を廃して180度方向転換する思い切った方針を断行した。
 『古事記』を長年脅威(きょうい)・危険視し続けた皇室は【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を願う幕府のトップの将軍吉宗の協力を得て、白石の死から13年後の115代桜町(さくらまち)天皇の元文(げんぶん)3(1738)に大嘗会(だいじょうえ)を本格的に復興した。
 F図は、大嘗会における天皇即位式に用いられる王冠図である。
N923

(C) 2016 OHKAWA
 
 この王冠の上の飾りはC図に示した〔卑弥呼の地上絵の意匠〕であり、下の飾りは〔乳房(ちぶさ)の形をした水器(すいき)の蓋(ふた)を模(かたど)る意匠〕である。〔卑弥呼の地上絵〕は【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える遺跡であり、〔乳房の形をした水器の蓋〕もまた厳重なタブーとして皇室が隠しつづけてきた【日本建国の〔愛〕の理念】を表示する。
 この【日本国の〔愛〕の理念】を表現する天皇の王冠を頭上高々と掲げて、今上天皇は即位した。
 家々の神棚にある神具の水器を手の平に載せると、水器の蓋は母乳が出る乳房の模り、容器は胎児がやどる妊婦のおなかの形、容器に入れる水は胎児の命をまもる羊水(ようすい)をあらわすことが察知できる。
 桂離宮の庭園は、108代天皇であった後水尾(ごみずのお)上皇に【日本建国の〔愛〕の理念】を復興する承諾(しょうだく)を得るために幕府が小堀遠州に作らせた施設であった。しかし、幕府の願望を受け入れて【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を承諾すると、皇祖・天照大御神の聖性を汚すことになり、皇祖・天照大御神が残虐な徇葬を決行した歴史が明らかになるのではないかと畏(おそ)れた後水尾上皇は幕府の要求を頑(がん)として受け入れなかった。
 遠州が桂離宮の庭園を作ったとき、後水尾上皇の叔父にあたる八条宮(はちじょうのみや)家の智仁(としひと)親王が桂離宮を所有していた。白石が没した当時は、112代天皇であった霊元(れいげん)上皇の孫の家仁(いえひと)親王が桂離宮を所有していた。
 白石から13年後の1738年の大嘗祭の復興は、霊元上皇の思い切った決意によって断行されることになったのである。
 この大嘗祭における天皇即位式に用いられる王冠の意匠は、【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を願う幕府が遠州に作らせた桂離宮の庭園の東北部と西南部の設計から決定された。

◆今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官(しかん/記録官)であった倉頡(そうきつ)は漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を考案して漢字を発明した。
 当時、G図に示す「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」が中国(黄帝陵や太湖など)の天頂にめぐってきた。(「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は上記した〔文字作成銀河各部の名称図〕における左上にある)
N931

(C) 2016 OHKAWA
  
 G図に記したように、「十字の銀河の西側半身」には〔乳房〕に相似する部分と〔子宮〕に相当する箇所があるゆえ、“漢字の始祖”と崇拝された倉頡は「十字の銀河」を文字作成銀河各部の形状から作られたすべての文字を生む母体と定めた。
 H図に示すように、[]の金文形はすべての文字を生む母体と倉頡が定めた「十字の銀河」を「妊婦と子宮に宿る胎児」に見立てて図案された。
N932
(C) 2016 OHKAWA

 
 I図に示すように、「十字の銀河」は[(べん)]の字源、「鬼の姿に似る銀河(鬼の横顔に似る銀河・鬼の身に相当する銀河)」は[]の字源となって、[]の金文形は作られた。
N933
(C) 2016 OHKAWA

 倉頡は「十字の銀河の子宮」を〔文字作成銀河各部の形状から作られたすべての文字が生まれる子宮〕と定めた。ゆえにI図に記したように、わたくしは「十字の銀河の子宮」を漢字作成原理の名称と同じく「鳥獣の足跡」と名づけた。
 H図の[]とI図の[]の字源解説図は――文字作成銀河各部の形状から作られたすべての文字は「十字の銀河の子宮」から生まれる――という倉頡が考案した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕の基本モデルとなる。
 だから、「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての図案」は「文字」と呼ばれることになったのである。

◆J図に示すように、桂離宮の御殿がある西岸は人の横顔を模る。西岸の東側の神仙島は人の横顔の目の辺に相当する。桂離宮の庭園が造られた当時から現在まで、御殿と神仙島の天頂に「人の横顔に酷似する銀河の目の辺」がめぐってきた。
N934
(C) 2016 OHKAWA
 
 K図に示すように、御殿の東北には羽の無い卑弥呼の地上絵を模る庭園が所在する。
N935

(C) 2016 OHKAWA
 

 F図に示したように、天皇即位式に用いる王冠の上の飾りは卑弥呼の地上絵を模るものである。だから、そのモデルはK図の卑弥呼の地上絵を模る庭園であったことになる。
 “字書の聖典”と尊重される2世紀前半の後漢時代に完成した字源を解説する『説文解字(せつもんかいじ)』は、I図に示した[]の字源を「乳(にゅう)するなり」と解説する。
 L図に、『『説文解字』の[]の字源解説「乳するなり」すなわち「乳児が母親の乳房を嘗()めて飲む」を示した。
N936

(C) 2016 OHKAWA
 
 M図の上図のごとく西岸の庭園を〔乳児の横顔〕に見立てると、下図に示すように「乳するなり」の[]の字源解説は西南部の庭園の設計に合致するように作られている。
N941
(C) 2016 OHKAWA
 
 つまり、下図の「乳するなり」と字源解説をあらわす「十字の銀河の北の南の乳房の形をした銀河部」は上図の〔大山島の西岸の北と南は乳房の形〕に合致し、上図の〔乳児の横顔に似る庭園の南部〕は下図の「鬼の横顔に似る銀河の乳を飲む乳児の口〕に合致する。
 だから、F図に示した天皇の即位式に用いられる王冠の下の飾りは〔乳房を模る水器の蓋〕をデザインするものであったことになる。
 N図に示すように、「十字の銀河」は大字形であるから[]の字源銀河であり、「乳するなり」の帯状の銀河は〔乳児が母親の乳房を嘗()める様子〕を示す[]の字源であった。
N942

 
 だから、I図の[]の字源「十字の銀河と鬼の姿に似る銀河」は「大嘗祭」をあらわした。
 大嘗祭(大嘗会)は、天皇が即位した礼の後、初めておこなう新嘗祭(にいなめさい)である。新嘗祭は毎年11月に、天皇がおこなう収穫祭で、その年の新穀(しんこく)を天皇が天照大御神と天地の神にささげ、天皇みずから食す祭儀である。当初は「大嘗祭」と新嘗祭は区別していなかったが、後に即位後初めてのおこなう新嘗祭は大規模に執()りおこなうことになり、「践祚(せんそ)大嘗祭」と呼ぶようになった。
 7世紀に生存した皇極(こうぎゃく)天皇の頃から、大嘗祭は起源した。前述したように、当時は大嘗祭=新嘗祭であり践祚大嘗祭との区別はなかった。
 皇極天皇はE図に示した高尾山古墳の主体部から出土した銅鏡の4つの絵柄と[]の字を題材にして『万葉集』485番を作った岡本天皇である。この和歌の初句から5句までは「神代より 生()れ継ぎ来()れば 人さはに 国には満ちて 味群(あじむら)の」と詠んで、E図の破砕鏡の4つの絵柄と[]の字は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわしていると明確に伝える。
◆以上のごとく、桂離宮庭園の平面図は――『古事記』上巻の記事は〔文献批判〕をいっさい加える必要もなく真実を伝えるものである――と明確に示す。
 というのも『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載された夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状を観察して明らかにすれば、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】はじめ天照大御神が残虐な徇葬をおこなった歴史やその他の歴史も事実であったと証明できたからである。
 だから、学者たちの意見は〔誤読〕で真実をねじ曲げた空論・空想であったことになる。
 かの有名な世界的名著『ドン・キホーテ』の前篇・第2篇の第9章で、著者のセルバンテスは〔歴史〕とは下記のようなものであると述べている。
 「真理の母こそ歴史であって、歴史は時の競争者であり、あらゆる行為を貯える蔵(くら)であり、過去の目撃者であり、現在の模範でもあり、よきいましめでもあり、同時に今後のための警告であったし、またあったはずである」(会田由訳・筑摩書房発行)
 わが国の先人たちは、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】こそが最も大事な真理の母であると定めた。だから、皇室は3世紀以来約1450年にも及んで『古事記』を脅威・危険視して隠し続けてきた【日本建国の〔愛〕の理念】を、天皇即位式の王冠の意匠で表示することにしたのである。この大嘗会が本格的に復興された1738年、『日本書紀』に代わって真実の歴史を記述した『古事記』こそが正史であると皇室は認めたのである。
 ところが、学者たちは相変わらず真実の歴史を記述しなかった『日本書紀』を正史であると思い込んでいる。また、学者たちは夏音文字の学芸をいっさい解明せず、白石以来約290年ものあいだ〔誤読〕の空論を続けて、先人たちが真理の母とした日本国誕生史を葬っている。もしもその途中の半ばで夏音文字の学芸が研究されていれば、【日本建国の〔愛〕の理念】に背(そむ)く太平洋戦争は防げたかもしれない。

 このように〔誤読〕の空論で真理の母なる歴史を失っていると、よきいましめも失い先人たちの警告に耳を貸すことができない日本国は近い将来おそらく滅亡するのではあるまいか。

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