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2017年2月24日 (金)

日本国誕生史の復興・44

 絶対に失うことができない歴史

◆絶対に失ってはいけない、決して無くしてはならない歴史がある。
 なんぴとにも排除(まっさつ)されてはいけない、なんぴとにも奪われてはいけない、なんぴとにも害されていけない歴史がある。
 強大な大和朝廷がなんとしても消滅しようとしたが、消滅できなかった歴史がある。
 長年、朝廷に抵抗して先人たちが後世に伝えようとした真理の母なる歴史がある。

3世紀後半以来約1450年間も消滅政策を続けた皇室は、1738年、遂に消滅をあきらめて天皇即位式に用いられた王冠の意匠で真理の母なる歴史をよみがえらせた。しかし、この真理なる歴史を、新井白石以来約290年に及ぶ学者たちは〔文献批判〕を駆使(くし)する方法で捏造(ねつぞう)した妄想(もうそう)をもって葬(ほうむ)った。
 この学者たちが葬った真理の母なる歴史は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記された〔愛〕を掲(かかげ)げて誕生した日本建国史である。
 日本国誕生史は、日本人にとっての真理の母であり、まっさきに自分たちが知っていなければならない歴史である。この歴史を失ったならば、われら日本人のいのちのみなもと、魂のみなもとを知ることもまた学ぶこともできない。
 学者たちは白石以来“誤読大明神”崇拝者となり、日本人が絶対に失うことができない歴史を排除し続けている。彼らは真実・真理にむかって“あかんべえ”をしてウソ八百を押しつけて全日本人を騙(だま)し続けている。
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(C) 2017 OHKAWA  

 ◆多くの国民はすべての学者たちが一致する意見こそが真理とあると思っているかもしれない。しかし、すべての学者たちが一致する意見が真理であると定まってはいない。
 新井白石以後から現在まで290年間の伝統で結集された日本国誕生史に関する全学者たちの意見は、信じられないかもしれないが完全なる誤読から生まれたウソ八百である。
 歴史学における真理は、下記の絶対原理(絶対的方法)によって定まる。
 今から3200年前(紀元前1200年前後)ころにおこったトロイ戦争は、紀元前850年ごろに生存したギリシアの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは〔文献批判〕を用いて『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。したがってホメロスは歴史を伝え、学者たちの〔文献批判〕による意見こそが空想であったと断定された。
 上記のごとく、古代史学には数千年前の過去の出来事が事実であると証明できる絶対原理(絶対的方法)が存在し、この絶対原理によってトロイ戦争は史実であった、逆に学者たちの〔文献批判〕のよる意見こそが偽りの妄想であったと決定された。
 つまり、古代史学には――前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述したとおりの史跡・遺跡・遺物が発見されたならば、前人の記述はなんぴとにも否定できない真実であり、学者たちが文献批判して否定した意見は誤読の空想であり、妄想であったことがなんぴとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が存在する。

◆わがブログ「日本国誕生史の復興・34」で詳細に解説し証明したように、今から約1300年前の712年に完成した『古事記』の序の冒頭は「今から約4050年前の後期縄文初頭に中国から夏代(かだい)初頭の夏音(かおん)文字がわが国に伝来し習得された」と伝える。この後に「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(ぐんぴん)の祖(おや)と為()る」つまり「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命はわが日本のすべての生みの親となったのです」いう文が続く。つまり、『古事記』序は「夏音文字の学芸の秘密を解明しないと、『古事記』上巻・淤能碁呂島聖婚に記述された伊耶那美命が唱え、伊耶那美命の没後に伊耶那岐命が受け継いだ【日本建国の〔愛〕の理念】を知ることはできない」と警告する。そして末部において「楷書の日下(にちげ)は夏音文字の玖沙訶(くさか)と同義、楷書の帯(たい)は夏音文字の多羅斯(たらし)と同義となる、辞理(文字とことばの原理)、すなわち楷書も夏音文字も同一銀河の範囲から作られたという原理が存在する」と解説する。
 上記したごとく、『古事記』序は「夏音文字も楷書も、下記の銀河の各部の形状から作られた」と伝える。この銀河が上記の『古事記』序で語られる「辞理」であり、この銀河をわたくしは「文字作成銀河」と名づけた。
Ginga

  白石以後から今日までの学者たちは『古事記』序の「わが国は後期縄文時代初頭(4050年前)に夏音文字の学芸を習得した」という指摘を〔文献批判〕を多用して排除し、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀」であると断定する。
 しかし、280年~289年に著作された『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名には原初漢字・夏音文字が用いられ、「卑弥呼の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の字音となる。また712年に完成した『古事記』上巻(序を含む)の随所には〔音〕という注が付いて多数の11音文字の夏音文字が記載されて残った。
 これゆえ、全学者たちが「わが国が初めて漢字を習得したのは5,6世紀である」と断定した定説は〔文献批判〕で真実を排除(はいじょ)した空論・妄想ということになる。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は〔わが国の漢字音〕という記事で「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻(おんいん)学がとり入られ、殊(こと)にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残される字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」と指摘する。
 パソコンで「漢字の字音」と入力すると、いま中国に残っている最古の字音は、A図に示す〔周代(西周)初期の上古音〕であると出力される。ところが、上記した白川静著『字統』が指摘する「最古の漢字音」は、『古事記』序の冒頭が「後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に伝来した」と伝える夏音文字の字音である。だからA図に示すように、中国の周代初期の上古音よりも約1000年も古い夏音文字の字音がわが国には残っている。
N951

(C) 2017 OHKAWA
 
◆上記の事実に呼応して、秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)に、夏代初頭に相当する万座遺跡と野中堂遺跡が存在し、この両遺跡には現在も夏音文字の学芸が習得された痕跡(こんせき)が明確に残っている。
 B図に示すように、野中堂遺跡と万座遺跡の中心部を結ぶ線は〔夏至の日没〕を指さして、両遺跡は夏音文字がわが国に伝来して習得されたと明確に表示する。
N952

(C) 2017 OHKAWA
 
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の21回~24回で詳細に解説し証明したように、C図に示す260年~290年に作成された卑弥呼の地上絵における大鳥の顔は〔夏至の日の出〕の方角に向き、夏音文字の全貌が解明できる遺跡であることを示す。卑弥呼の地上絵は、静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形となって現存する。
N953
(C) 2017 OHKAWA

 卑弥呼の地上絵は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記載された豪族が作った。建比良鳥命は、C図上部の龍潭寺(りょうたんじ)が所在する引佐(いなさ)町の井伊谷(いいのや)に居住した井伊氏の先祖である。NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」のヒロインの氏族の井伊氏は、卑弥呼の地上絵を後世に残すことを家訓とし使命とした。ゆえに、直虎は井伊家の血筋を絶えさなかったのである。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の41回と42回にて解説し証明したように、徳川家康は井伊家がC図の卑弥呼の地上絵の守り番であることを知っていた。だから、家康は井伊家に近江への移住を命じた。近江・井伊藩は1603年から始めて20年後の1622年に、D図の彦根の3千万坪の大鳥(味鴨)の地上絵を完成させた。
N954
(C)2017 OHKAWA 

 その証拠に、彦根市の南限となる愛知川(えちがわ)の河口と彦根城本丸を結ぶ線は〔夏至の日の出の方角〕を指さして「わが国に夏音文字が存在した」と伝える。この夏音文字の学芸遺跡は、現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形となる。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の前々回の42回と前回の43回で解説し証明したように、E図に示す桂離宮の庭園も夏音文字の学芸遺跡である。
N961
(C) 2017 OHKAWA
 
 F図に示すように、桂離宮の御殿より東北の庭園はC図に示した夏音文字の学芸遺跡の卑弥呼の地上絵を模(かたど)るように作られている。したがって、桂離宮の庭園は夏音文字の学芸の秘密を解明できる施設である。
N962
(C) 2017 OHKAWA

 桂離宮の庭園は江戸幕府に命令されて小堀遠州が1623年から病に倒れる1647年までの23年間、情熱を傾けて作成した。遠州は30歳のとき(1608)に家康にC図の卑弥呼の地上絵の研究を命じられ、38年間も夏音文字の学芸を研究した。

◆『魏志』倭人伝は夏音文字の学芸の全貌が科学的に解明できる重大な文献であった。皇室は夏音文字の学芸を帝王学にして政権基盤として、その知識を独占管理して厳重に機密保持したゆえ、長い間強大な権力を有することができた。しかし、新井白石によって『魏志』倭人伝に多数の〔誤読(文献批判)〕を加える立論方法が開発された。この結果、夏音文字の学芸が消滅する事態となれば皇室の存在意義はただちに失われて滅亡するにちがいないと、皇室は深刻に心配する事態となった。
 これゆえ、白石の死から13年後の1738年、霊元(れいげん)上皇は大嘗祭(だいじょうさい)を本格的に復興して、115代桜町(さくらまち)天皇の即位式において、G図に示す王冠の意匠で夏音文字の学芸はわが国に伝来して存在したと表示されることになった。
N963


(C) 2017 OHKAWA
 
 天皇即位式に用いられる王冠の上の飾りは、F図に示した卑弥呼の地上絵を模る庭園を表現する意匠である。だから、G図の天皇即位式に用いられる王冠はわが国に夏音文字の学芸が実在したと伝えていることになる。
 以上のごとく、夏音文字は『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に多数記載されて実在し、B図の(1)万座遺跡・野中堂遺跡とC図の(2)卑弥呼の地上絵とD図の(3)彦根の大鳥の地上絵とE図の(4)桂離宮の庭園などの遺跡と、G図の(5)の天皇即位式に用いる王冠はわが国には夏音文字の学芸が習得されたと伝えている。
 だから、上記したように――西欧の学者たちが〔文献批判〕を用いて「トロイ戦争はホメロスが創作した空想であって、歴史ではない」と結論づけた意見は、誤読の空想であったと断定された――この絶対原理にもとづいて、わが国の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は空論・妄想であると断定すべきことになる。

◆上記した霊元上皇による大嘗祭の本格的な復興は、3世紀後半の天照大御神王朝以来約1450年ものあいだ、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して危険思想と定めた伝統を廃(はい)して180度方向転換する思い切った決断であった。『古事記』は【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために作成された歴史書であった。この歴史は、『古事記』序が指摘するように文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする夏音文字を解明すればおのずと明らかになった。だから、C図の卑弥呼の地上絵・D図の彦根の大鳥の地上絵・E図の桂離宮の庭園・G図の天皇即位式に用いる王冠で夏音文字の学芸の秘密を明らかにすれば、おのずと伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は解明できる。
 H図に示す東日本が、伊耶那美命が女王として赴任(ふにん)した小国・日本であった。
N971
(C) 2017 OHKAWA

 伊耶那美命は、I図に示す静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳で伊耶那岐命と結婚したときに小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。高尾山古墳は東日本最古で最大の前期古墳である。
N972

(C) 2017 OHKAWA
 
 J図に示す破砕鏡(はさいきょう)が高尾山古墳の主体部から出土した。2世紀後半~3世紀当時、J図に示す中国の後漢時代に作られた銅鏡が中国から多数輸入された。というのも、その「鳥」「虎」「鳥」「羽人」という注が付く4つの絵柄をわが国の人々は「中国国土に空を飛ぶ味鴨の大群のごとく多数の人民が居住して、〔愛〕が栄える」と解釈したからである。
N973
(C) 2017 OHKAWA

  学者たちの研究によって、J図のごとく砕かれずに残った4つの絵柄には「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の注が付けられた。この「鹿」「虎」「鳥」「羽人」という注は、K図に示す中国海岸線地図の形をあらわした。
N974
(C) 2017 OHKAWA

 K図に示す〔山東半島と北の列島(廟島列島)〕は〔オス鹿の横顔〕に相似すると見立てられて、「鹿」という注になった。〔山東半島より南の海岸線〕は〔虎の横顔〕に相似すると見立てられて「虎」という注になった。〔山東半島とその付け根の南北の海岸線〕は〔鳥の頭と羽(両翼)〕に相似すると見立てられて「鳥」という注になった。〔鳥の頭と羽〕の海岸線は中国国土を包みこみゆえ、〔中国国土に多数の人民が満ち満ちあふれて居住する意〕をあらわして「羽人」という注になった。「羽人」は[(かも)]の金文形と同義となって、「3kmの長さに及んで空を飛ぶ味鴨の大群のごとく、中国国土に多数の人民が居住する様子」をあらわすことになった。
 ゆえに、前述したように「鳥」「虎」「鳥」「羽人」という注が付く4つの絵柄を、わが国では国中の人々が「中国国土に空を飛ぶ味鴨の大群のごとく多数の人民が居住して、〔愛〕が栄える」と解釈することになった。
 倭女王に就任することになった伊耶那美命は、後漢鏡にあった不老長寿の仙人の絵柄を砕いて、国中の人々が「愛」をあらわすと解釈する「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵柄を残して【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわして地の精霊に「国土安泰」を祈願して、高尾山古墳の主体部に埋納(まいのう)した。
 だからL図に示す井伊直虎が必死に守った卑弥呼の地上絵は、J図の高尾山古墳から出土した破砕鏡の「鹿」「虎」「鳥」「羽人」という注があらわした中国国土地図を模ることになった。したがって、伊耶那美命の死から約10年後に作られた卑弥呼の地上絵は【日本建国の〔愛〕の理念】を後世伝えるために作られた遺跡であったことになる。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 J図の高尾山古墳から出土した破砕鏡が【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわすことは、7世紀に生存した岡本天皇(天智・天武両天皇の生母の宝皇女/舒明天皇の皇后/後の斉明天皇にして皇極天皇)が作った『万葉集』485番の長歌と487番の短歌が明確に伝える。
 『万葉集』485番の初句から5句までは「神代より 生()れ継ぎ来()れば 人さはに 国には満ちて 味群(あじむら)の」であり、5句の「味群れの」は「味鴨の大群」を意味するからである。また、『万葉集』487番の短歌の初句から3句までの「近江道(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉川(いさやかわ)」が示すように、「鳥籠の山」はD図に示す彦根市の西側にある琵琶湖に浮かぶ最大の島の「沖島(おきのしま)である。「不知哉川」は彦根市南限の「愛知川」である。
 この岡本天皇が作った和歌を注目した家康は、C図に示した卑弥呼の地上絵の守り番であった井伊氏を引佐町井伊谷の本拠地から近江への移住を命令した。ゆえに、D図に示した現在の彦根市の地図の形は【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を皇室から承諾を得るために井伊藩が1603年~1622年に完成させた3千万坪の味鴨の地上絵であったのである。
 井伊氏は卑弥呼の地上絵を守って【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える役目を家訓・倫命(りんめい/人間として実行すべき使命)と定めた。だから、NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」のヒロイン(井伊直虎)は【日本建国の〔愛〕の理念】を守る井伊氏の血筋を絶やさないために全情熱を傾けることになったのである。

◆夏音文字の学芸体系は、これから解説する[]を基軸にして組織されていた。この[] を注目すると、白石以後の学者たちの意見は荒唐無稽(こうとうむけい)の出鱈目(でたらめ)であることが容易に理解できる。
 C図に示した卑弥呼の地上絵における経緯度原点A地と滝峯(たきみね)不動尊は、北緯3448分で同緯度である。このように卑弥呼や伊耶那美命や伊耶那岐命が生存した3世紀、〔[]をキャッチ〕する習慣が栄えていた。このために1度の60分の11分の緯度差を測定することができた。
 学者たちは『魏志』倭人伝に記された全15ヵ所の方位記事を、北極星がある方向が〔北〕と定める現在の日本地図を基(もと)にして立論する。このように北極星を基準にして日本列島地理を立論する方法だと、C図に示した経緯度原点A地と滝峯不動尊の同緯度が測量できないことになる。さらに、また、倭の使節が魏の都や魏の出張機関があった朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)が玄界灘(げんかいなだ)を往来することができなくなる。
 魏や魏の出張機関があった朝鮮半島の帯方郡の使節が倭地に到着するには、1分の緯度差の測量が求められた玄界灘を渡ればならなかった。
 緯度は天の北極の高度であるから、簡単な方法は北極星の天の北極からのかたよりを計算すればよい。しかし、北極星で緯度測量する方法だと1分の緯度差が測定できなかった。
 M図に示すように、3世紀の北極星は天の北極から半径が約10度・600分で円周していた。したがって、直径20度・1200分の円を描く北極星のかたよりで天の北極の高度を1分の誤差内におさめて精確に測定することは不可能であった。
N981
(C) 2017 OHKAWA
 
 中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して北極星を「太一神」と呼び、神と敬って最も尊重することになった。このため、魏と帯方郡の使節は正確に1分の緯度差を測量できる能力を求められた玄界灘を渡ることができなかった。「魏や帯方郡の使節は大海(玄界灘)を往来できないが、倭の使節は玄界灘を往来できたこと」は『魏志』倭人伝に記述されている。
 シナ天文と同じく北極星を重視して現在の日本地図で考える学者たちの意見だと、北極星を神と敬った倭の使節もまた玄界灘を渡ることができなかったことになる。したがって、魏と倭は国交を結ぶことができなかった。だから、魏では倭国について“知らぬ権兵衛(ごんべえ)”つまりまったく知らなかったことになるゆえ『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていなかったことになる。約2000字の『魏志』倭人伝が1字も文字が書かれていない白紙に化ける、こんなキツネにつままれるびっくり仰天(ぎょうてん)真っ白けとなる事態に対して“なるほど、そうだったのか”と呑気(のんき)に感心して学者たちの意見に賛成するわけにはいかない。約2000字は北極星で“パッ”と白煙があがって文字が1字も無くなる白紙、この白紙が『魏志』倭人伝であったなんていう事実は絶対にあるはずがない。

◆N図の右上に示す[](天頂緯度線と子午線)をキャッチすれば、1分の緯度差の相違が精確に測定できた。
N982
(C) 2017 OHKAWA
 
 したがって、倭の使者と船乗りたちは玄界灘を往来することができたのである。玄界灘は「北極星で緯度測量すると渡ることができない。しかし、[]をキャッチすれば往来できる大海」であった。ゆえに、「玄界灘」と呼ばれることになったのである。
 人間の目は鍛錬すると1分の緯度差が測定できる[]の象(ぞう)つまり〔天頂緯度線と子午線〕をキャッチできる能力がそなわり、原始から最後の氷河期を経て現代まで人類の脳は[]をキャッチできる本能を有するものであった。
 O図の左側に示すように、日本列島の西端にある玄界灘に浮かぶ沖ノ島と東端の神津島(こうづしま)は北緯3415分で同緯度である。卑弥呼王朝は日本列島の両端の沖ノ島・神津島の気候を注目して、O図の右側に示す錯覚の転回日本列島地理を制定した。
N983
(C) 2017 OHKAWA

  にもかかわらず学者たちは北極星を重視して“こんなデタラメはない”と力説して、現在の日本地図にもとづいて立論する。しかし、『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の方位記事に1点の〔文献批判〕を加えなければ、O図の転回日本列島地理になることは――現在の学者たちは認める。
 卑弥呼王朝が錯覚した転回日本列島地理の基点となる沖ノ島と同緯度の神津島からは、良質の黒曜石(こくようせき)が産出する。黒曜石は火山活動によってできた“黒いガラス”とされ、上手に刃をつけると石槍(いしやり)や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(石器)として利用された。神津島の黒曜石は良質であったために、関東地方、東海西部、近江・滋賀県、北陸地方(石川県能登半島)まで広範囲に分布した。なんと神津島の黒曜石は約3万年前の後期旧石器時代から使用されていることが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼や伊耶那美命が生存した後期弥生時代の3世紀まで本土に運ばれて利用されていた。神津島から伊豆半島までは30km以上も海で隔てられ、神津島から北陸・能登半島までは直線距離で約400kmも離れている。約3万年前の旧石器人は[]をキャッチする能力を有していたために30km以上もある海を往来し、北陸の能登半島などの遠い地から旅する人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
 P図に示す日本列島の西端の沖ノ島では冬に雪が降るが、東端の亜熱帯地区の神津島では冬になっても雪は降らず一年中暖かい。これゆえ、日本列島の地理と気候を合体させると〔西冷・東暖〕となる。中国の海岸線地域の北部の気候は冷たく、南部は暖かいので〔北冷・南暖〕となる。だから、中国海岸線地域の〔南〕と日本列島の〔東〕は共に暖かい気候で合致するゆえ、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事が伝えるように「日本列島の〔東〕は中国海岸線地域の〔南〕の方に伸びる」と、卑弥呼王朝は錯覚したのである。
N984

  ◆上記したように、『魏志』倭人伝は――わが国には文字作成銀河の各部の形状を文字(字源・字形・字義)として、書いた文字が用済みになると必ず消すという厳しい掟(おきて)を有する夏音文字の学芸が実在した。この夏音文字の学芸はN図に示した1分の緯度差を精確に測定できる〔[]のキャッチ〕を基軸にして組織されていた。このため、卑弥呼王朝は日本列島の〔東〕を〔南〕と考える錯覚の転回日本列島地理を制定した――と歴史上におきた事実を伝える文献であった。
 ところが、学者たちは北極星がある方角を〔北〕と定める日本地図を引っ張り出して立論する。この方法だと、前述したように『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていない真っ白けの白紙となるゆえ、学者たちの意見は完全なる空論・妄想ということになる。
 さらに学者たちは「わが国が初めて漢字を習得したのは56世紀である」と主張する。前述したように、この定説は――()『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に夏音文字が記載されている事実に反する。また()B図の万座・野中堂両遺跡はじめC図の卑弥呼の地上絵やD図の彦根の大鳥(味鴨)の地上絵やE図の桂離宮の庭園やG図の天皇即位式に用いられる王冠など夏音文字が実在したと科学的に証明できる遺跡・遺物が存在するゆえ空論・妄想ということになる。というのも、前述したようにトロイ戦争はホメロスの創作であると断定した学者たちの〔文献批判〕は空想・妄想であったからである。
 以上のごとく、白石以後の学者たちが〔文献批判〕を多用して『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記述された夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】を排除する意見は古代史学の絶対原理に違反する誤読の空論・妄想であった。
 日本人にとって【日本建国の〔愛〕の理念】は真理の母であった。このために、3世紀後半以来、皇室は強大な権力でなんとしても消滅しようとしたが消滅することができなかった。ゆえに、日本人のいのちと魂のみなもとである【日本建国の〔愛〕の理念】を、1738年に180度の方向転換をして大嘗会を本格的に復興して天皇即位式の王冠であらわした。
 この真理の母なる歴史を、白石以後の学者たちは〔文献批判=誤読〕崇拝で抹殺する。
 こんな理不尽を、絶対に許してよいはずがない。
 われわれは、天皇の王冠となった真理の母なる歴史を取りもどしてこそ始めて“日本人”と呼べるようになる。だから、だから、だから、だから【日本建国の〔愛〕の理念】は絶対に取りもどさなければならない。

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