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2017年3月 4日 (土)

日本国誕生史の復興・45

 NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」が背負っていた倫命
 

◆今年(2017)18日から始まったNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」における指摘あるいは解説する歴史に関して、また直虎に関する学者や研究者の意見には幾つかの誤りや疑問点が存在する。ゆえに、NHK大河ドラマを楽しく鑑賞していただきたく、NHKの解説、また学者や研究者たちの意見・指摘の誤りを証明することにした。

 2016(平成28)12月に、京都市の井伊美術館の井伊達夫館長が、通説で女性とされる「井伊直虎」は別人の男性であったと示す史料が新たに確認されたと発表した。この史料にもとづき「井伊直虎」とは「井伊次郎」と名乗った今川氏の家臣関口氏経の息子が〈井伊家当主〉であり、「井伊直盛(なおもり)の娘の次郎法師」とは別人であると主張する。しかし、同史料の記述は「井伊次郎」に留まり、「直虎」の文字は見当たらなかったという。
 井伊館長が発見した史料には、「井伊次郎」が「直虎」であったと記されていなかった。だから、「井伊次郎」は「直虎」であったと断定することはできない。
 そして、井伊谷の領地を与えられた「井伊次郎」が井伊家の〈当主〉となったという解釈は間違っている。また、史料にそのような記述があったならば〔誤記〕となる。
 おそらく井伊家を配下とした今川氏真(うじざね)1562(永禄5)における井伊家23代直親(なおちか)の死去後に井伊家の更なる弱体化をはかって今川氏の統治を充実させるために、次郎法師の母方の従兄弟の関口氏経の息子に井伊氏が居住する現引佐町を領地として与えたのであるまいか(井伊氏は引佐町の一角の井伊谷に居住した)。今川家家臣の関口氏経の息子は、井伊谷はじめ現引佐町を領地として手に入れたゆえ「井伊次郎」と名乗った。つまり、領主として引佐郷に居住する井伊氏との軋轢(あつれき)を避けて「井伊次郎」と名乗ったのであろう。したがって、「関口」の血を継ぐ外戚の井伊次郎は引佐町の〈領主〉になれたが、引佐町を本拠地として代々血を受け継いできた元祖共保(ともやす)公直系の本家とその直系分家一同の〈当主(家督者)〉にはなれなかった。
 井伊家23代直親が没した翌年の1563年、次郎法師の曽祖父の井伊家本家一同の精神的支柱であった75歳の井伊家20代直平(なおひら/14891563)が今川氏真の命で出陣の際、飯尾豊前守夫妻がすすめた毒茶を飲んで有玉屋敷で毒死した。
 このため、井伊家本家の血を受け継いだ者で残ったのは井伊家22代直盛の娘の次郎法師(28歳前後)3歳の虎松(直親の子、後の井伊家24代直政)だけとなった。
 1565年、次郎法師が当主となり、直政(なおまさ/虎松)の後見人となった。
 井伊家3代の共直(ともなお)以後現在の41代当主直岳(なおたけ)まで、井伊氏本家当主の名には必ず[]に字が付く。ゆえに、井伊直盛の娘の直虎・次郎法師が井伊家当主あったが、[]の字が付かない井伊次郎は当主ではなかったことになる。
 
◆井伊谷に所在する井伊家菩提寺の龍潭寺が発行する『井伊氏・龍潭寺関連年表』には、下記のような記事がある
 「天文13(1544)1213日、連歌師の宗牧が井伊谷に井伊次郎(直盛)のもとに訪れ一座を開く。翌日14日、次郎等引馬に向かう宗牧を都田まで送る」〔『東関紀行』〕
 上記が示すように、井伊家22代直盛は「井伊次郎」と名乗った。だから、直盛の娘は父が用いた「次郎」という名を受け継ぎ「次郎法師」と名乗ったことになる。
 井伊谷を中心地とする引佐郷を与えられた今川氏真家臣の関口氏経の息子は直盛の別名が「次郎」であることを知っていたので、前述したように領主として井伊氏と上手に穏やかに治めることができるのではないかと考えて「井伊次郎」と名乗ったのであろう。
 だから、井伊谷の領地を与えられた「井伊次郎」が井伊家当主でもあったかのごとく主張する意見は〈領主=当主〉と単純化した誤り・錯覚となる。また、史料にそのような記述があったならば〔誤記〕となる。

◆現在の井伊家本家でも井伊家が最も大事にした、その家訓の継承は絶たれて消滅したにちがいないが――井伊家本家にはどうしても家を存続する重大な倫命(りんめい/人間として実行すべき使命)が存在した。この「倫命」については、わがブログ「日本国誕生史の復興」の37回~41回までの5回で詳細に解説し証明した。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の21回~24回で詳細に解説して証明したように――井伊家の始祖は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に記載される「遠江国造(とうとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」であった。この建比良鳥命とその一族は、260年頃~290年頃まで約30年間かけて、A図に示す引佐町の南に隣接する、細江町の行政区域の地図の形として現存する1千万坪の大鳥の地上絵を作成した。
N991
(C) 2017 OHKAWA


 A図に示した1千万坪の大鳥の地上絵を、2014年以前においてわたくしは「建比良鳥の地宜」または「建比良鳥の地上絵」と呼んでいた。しかし、2014年以後は「卑弥呼の地上絵」と呼ぶことにした。
N992
(C) 2017 OHKAWA
 

 B図は、A図の卑弥呼の地上絵(井伊谷からすぐ南の、現存する浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形)を抜き取り示したものである。卑弥呼の地上絵の全長は約8.5km、翼長は約9kmである。つまり引佐町に隣接する細江町の地図の形=1千万坪の大鳥の形をした卑弥呼の地上絵ということになる。
 “地上絵”といえば、世界遺産の“ナスカの地上絵”が有名である。
N993
(C) 2017 OHKAWA


 C図はナスカの地上絵で“サギ()を図化したものであろう”と言われている最大の鳥の地上絵である。この鳥の地上絵の全長は約300m、翼長は約90mである。
 卑弥呼の地上絵の全長を8.5cm、翼長を9cmに縮小した同倍率で縮小するとナスカの大鳥の地上絵の全長は0.3cm(3mm)、翼長は0.09cm(0.9mm)となる。この同倍率で縮小した二つの鳥の地上絵を一図にあらわすと、D図のごとくなる。
N994
(C) 2017 OHKAWA
 

 D図が示すように、卑弥呼の地上絵はナスカの最大の鳥の地上絵よりも遥かに巨大である。
 上記したように、1565(永禄8)、「直虎」と名乗った次郎法師は引佐郷の領主ではなかった。ゆえに、彼女は井伊氏の当主をあらわすために職名を「地頭」と定めた。
 元祖共保公井伊氏直系の当主たちは、建比良鳥命とその一族が作った卑弥呼の地上絵(260290年に作られた)を後世まで残す、これを倫命(りんめい/人間として実行すべき使命)として背負っていたのである。
 だから、A図の左・B図の右上・D図の卑弥呼の地上絵の右側に記したように、細江町=卑弥呼の地上絵に隣接する浜名湖の支湖は「引佐細江」という名となった。この「引佐細江」は「井伊氏が居住した引佐郷と細江郷(卑弥呼の地上絵)は絶対に分けて考えてはならず、一体化して考えなければならない」と現在に警告していることになる。したがって「引佐細江」は学者や研究者たちやNHKテレビのごとく引佐町と細江町(卑弥呼の地上絵)を分けて考える意見は極めて軽率で無分別な憶測(おくそく)・独断ということになる。
 なお「引佐細江」という入り江は、古代において景勝地として有名で、746年(天平18)~753年(天平勝宝5」までに成立した『万葉集』巻一~巻十六までの巻十四の3429番の和歌で「遠江(とほつあふみ) 引佐細江 水脈(みを)つくし われをたのめて あさましものを」と詠まれている。

 『井伊家伝記』は井伊家当主となった次郎法師は職名(倫命を背負う職の名)を「地頭」であったと記す。つまり「卑弥呼の地上絵を守る頭首」であったゆえ、直虎は[][]を加えて「地頭」と名乗ったのである。
 当時、現細江町の中川地区西部に刑部城(おさかべじょう)を築いた今川氏が細江町=卑弥呼の地上絵の領主であった。当時、弱体化して今川家の配下であった井伊家は居住地の引佐郷はじめ細江郷(卑弥呼の地上絵)の領主でもなく今川家が領主であったので、井伊家当主として引佐郷に居住した次郎法師・直虎は倫命として背負う遺跡の細江郷(卑弥呼の地上絵)を守るという意志を示して、井伊氏の当主名を「地頭」としたのである。

◆井伊家当主(地頭)の直虎・次郎法師が全情熱を傾けて建比良鳥命・井伊家直系氏族の血を絶やさなかった。彼女は「引佐細江」という入り江の名が今日に伝えているように、後世に科学的に真実の歴史を伝える方法で作られた卑弥呼の地上絵に貯蔵された(1)『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話初頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記述された伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】と(2)『古事記』序が解説する約4050年前の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に中国から名門益氏(夏王朝2代帝王の益の孫の王子と益氏の若者たち)が日本列島に移住して伝来した原初漢字・夏音文字の学芸知識を井伊家24代当主直政へと継承させることを倫命として立ち上がったのである。
 上記のA図の卑弥呼の地上絵における大鳥の頭は「夏至の日の出の方角」を向いて「わが国には夏音文字の学芸が伝来し習得されていた」と現在に伝えている。
 時の天照大御神・大和王朝に見つかったならば直ちに一族滅亡となる大罪を犯して建比良鳥命とその一族が作った卑弥呼の地上絵は、(3)『魏志』倭人伝の全記事は正しいと科学的に証明でき、また『魏志』倭人伝の全貌が明確となる重大な遺跡である。ゆえに、卑弥呼の地上絵は新井白石(16571725)以後から現在までの学者たちが多数の〔文献批判〕を加えて立論した意見は誤読の空論・偽りの妄想であったことが科学的に証明できる遺跡である。

 わがブログ「日本国誕生史の復興」の40回~42回まで詳細に証明したように、徳川家康は8歳の時から今川家の人質になって、今川義元が天下を手に入れ時に補佐役を務めさせるために夏音文字の学芸に精通した臨済宗妙心寺派の高僧大原雪斎(たいげんせっさい/今川義元の軍師)から8歳から14歳まで夏音文字の学芸を厳しく教育された。14歳の時に大原雪斎が没したが、その後も1616年に没するまで学問好きの家康は夏音文字の学芸の研究に専念した。家康は当時を代表する夏音文字の学芸に精通する学者であった。言いかえると、家康は江戸幕府樹立よりも【日本建国の〔愛〕の理念】の復興をより大事とした。ゆえに、彼は【日本建国の〔愛〕の理念】を復興するのに不可欠な夏音文字の学芸の研究に熱中した。
だから家康は、卑弥呼の地上絵の守り番の井伊直政に絶大の信頼を寄せて、徳川四天王の中でも最も高い所領を与えた。
 1575年、家康は夏音文字の学芸遺跡である卑弥呼の地上絵の保存を倫命とする地頭(井伊家当主)の虎松改め当時において万千代と名乗った後の直政に300石を与え、卑弥呼の地上絵の領主と定めて家名井伊氏を再興させた。後年に家康は直政を譜代大名筆頭の地位につけ、関ケ原合戦の4ヵ月後1601(慶長6)正月、石田三成の居城であった近江佐和山城への移住を命じた。直政は関ケ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して、翌1602(慶長7)42歳で亡くなった。
 前述したように、家康が一生追い求めた胸奥深く秘めた心願は、『古事記』上巻に記載された伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】と『古事記』上巻と『魏志』倭人伝に多数記載された夏音文字の学芸を復興することであった。だから、家康が直政に命じた近江移住の目的は京都に居住する皇室に【日本建国の〔愛〕の理念】の復興の承認を要望するための大鳥の地上絵を作成することであった。
 E図に示す3千万坪の大鳥の地上絵を、彦根・井伊藩は1603(慶長8)から着手して20年後の1622(元和8)に完成させた。この地上絵は、現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形となる。
N1001
(C) 2017 OHKAWA
 

 E図の彦根市南限の愛知川(えちがわ)の河口と彦根城を結ぶ線はA図の卑弥呼の地上絵と同じく「夏至の日の出の方角」を指して「我が国に夏音文字の学芸が存在した」と証言する。また、「愛知川」は「日本建国の〔愛」の理念を知る川」の略称である。
 だからこそ、E図に示した鳥の翼の部分(伊耶那美命と伊耶那岐命を祭る多賀大社周辺地域)が失われた彦根市の3千万坪の大鳥の形をした地図の形は「未だ夏音文字の学芸は復興せず」「未だ【日本建国の〔愛〕の理念】は復興せず」と表現して皇室に夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を願った地上絵遺跡であったのである。

◆井伊家本家の当主は夏音文字の学芸と伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える卑弥呼の地上絵を消滅させないことを倫命として背負っていた。
 A図に示すように、次郎法師・直虎は卑弥呼の地上絵(細江郷)に隣接する引佐郷に居住して日々夏音文字の学芸を学んだゆえ、卑弥呼の地上絵は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を表現する秘密を知っていた。
 ところが今川氏家臣の関口氏経の息子の井伊次郎は卑弥呼の地上絵から遠く離れた地に住み、日々夏音文字の学芸を学ぶものではなかったので、卑弥呼の地上絵が【日本建国の〔愛〕の理念】を表現する地上絵であることを知らなかった。だから、井伊次郎は建比良鳥命を始祖とする元祖共保公直系井伊家の当主ではなかったことになる。
 A図に示すA地点は卑弥呼の地上絵を作成することができる経緯度原点である。そしてA地点は滝峯不動尊と同緯度(北緯3448)である。
 A地点・滝峯不動尊の緯度線は春分の日の朝、地平線から出現する太陽を指差す。“字書の聖典”と尊重される2世紀初頭に成立した『説文解字』は、卑弥呼の地上絵を作った建比良鳥命の[]の字源を「朝律を立つるなり」と解説する。だから、「A地点・滝峯不動尊の緯度線」は「朝律を立つるなり」と解説される[]の字源をあらわす。建比良鳥命の「比良」の意味は「平面的に図化された地図の形」である。だから、A図・B図・D図に示した「卑弥呼の地上絵」が「比良」をあらわす。そして、「大鳥の形をした卑弥呼の地上絵」は[]をあらわす。したがって、卑弥呼の地上絵は「建比良鳥」と表現する地上絵でもあった。

F図の右上に示す[]の字源を構成する〔天頂緯度線〕をキャッチする、この方法ならばA地点・滝峯不動尊のごとく1度の60分の11分の誤差もなく精確に緯度測定できる。
N1002
(C) 2017 OHKAWA
 
 したがって、直虎の[]の字源は、G図に示す「天頂緯度線と直角に交わる、緯度測量する人物の視線。つまり、人が1分の誤差もなく精確に緯度測定できる視線」であった。ゆえに、井伊家当主名には3代共直以後現在の直岳氏まで、G図に示す[]の字が必ず付いた。
 E図に示した彦根城本丸東部にある「玄宮園(げんきゅうえん)」は彦根城が築かれた当時に作られた接客饗応(きょうおう)のための施設である。この「玄宮園」の[]はF図右上の1分の精度で正確に測定できる方法の[]と、G図の[]の字源をあらわした。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・39」にて詳細に解説し証明したように――直虎の[]の字はH図に示す「子を出産するとき、怒責(いきみ、きばる行為)がおきて母体がまるで虎が吠えるがごとく叫ぶ大声」であった。
N1003


 
 ゆえに、「直虎」という名は「女性にふさわしい名」であって、今年(2017)18日から始まったNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」が「直虎は男の名前」と指摘するのは明らかに先入観や常識から生れた錯覚であり誤解である。

◆わがブログ「日本国誕生史の復興」の37回・38回で詳細に解説し証明したように――井伊家20代当主の直平が1560519日以後から直平が没した1563918日までの間に作った書状を龍潭寺に寄進して『井伊家伝記』に記載された元祖共保公が井戸に中から出生したという井伊家創設儀式は「卑弥呼の地上絵を絶対に消滅してはならない」と示す井伊氏が背負う倫命を表現するものであった。というのも、前述したように卑弥呼の地上絵は朝廷が厳重に機密保持した国家転覆の大罪と定めた【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸を科学的に明確に伝える遺跡であったからである。したがって、井伊家弱体期における井伊直平が書いた井伊家創設儀式記事は井伊家滅亡をおそれる文章となったために意味深長な抽象的な真実を知るには深い思索を要する表現となった。ゆえに卑弥呼の地上絵を排除して考える学者や研究者たちの「元祖共保公が井戸の中から出生したと伝える『井伊家伝記』の記事は史実とは言い難い」という意見・指摘は空理空論・妄想ということになる。
 古文書『龍潭寺文書』は「嘉永4(1851)65日、彦根藩13代藩主(井伊家36代当主)井伊直弼(なおすけ)、初のお国(近江彦根)入りの途中に井伊谷を来訪し、龍潭寺を参詣、続いて井戸(元祖共保公が出生した井戸)や八幡宮などに参詣した。そして、井伊家元祖出生の井戸で――わきいずる 岩井の水の 底きよみ くもりなき世の 影ぞ見えつつ――という歌を詠まれた」と記す。
 当時は幕末動乱期であり、直弼はその歌の「底きよみ くもりなき世の 影ぞみえつつ」の部分で「元祖共保が出生した井戸の底の水は清み、いまなお神代における真実にして真理である【日本建国の〔愛〕の理念】の影がくもりなく鮮やかに見える」と動乱の世相を嘆いて表現したのである。だから直弼は、卑弥呼の地上絵が【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸を保存する遺跡であることを知っていたことになる。
 7年後の1858(安政5)に直弼は大老に就任し、1860(万延元)33日に直弼は桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。同年の428日に、井伊直憲(なおのり)が彦根藩14代藩主となるが、この幕末の混乱期のどさくさが原因で、近江彦根から遠く離れる遠江の卑弥呼の地上絵が【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸を保存する遺跡である秘密は直弼から家憲へと伝えられなくなり途絶えたにちがいない。

◆以上のごとく、『井伊家伝記』の記述は正確であった。一方、学者や研究者たちの意見・指摘は「引佐細江」という名の入り江が「引佐町と細江町=卑弥呼の地上絵は絶対に切り離しては考えてはならず」と警告しているにもかかわらず、この警告に反して卑弥呼の地上絵についてまったく考慮しない粗雑な意見である。彼らは先入観や文献史料の表層だけをつまみ食いした軽率な意見あるいは多数の誤読・誤解を重ねて『井伊家伝記』を怪しみ疑う空想・妄想を得意げにひけらかして国民をすっかり騙(だま)し誑(たぶら)かしている。
 NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」はまったく指摘も説明もしないが、「引佐細江」という入り江の名が現在に明確に示しているように、直虎は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話が「伊耶那美命が唱えた〔愛〕の理想の基に日本国は誕生した」と伝える、この日本国誕生史を科学的に保存した卑弥呼の地上絵を今川家から取り戻すために立ち上がったのである。これゆえ、卑弥呼の地上絵の秘密を生かすならばドラマは一層深遠となり、ヒロイン直虎の活躍を崇高な行為となるゆえ、見応えがある稀(まれ)にみる大傑作となったにちがいない。
 ところが現状の「おんな城主 直虎」は卑弥呼の地上絵をまったく取り上げないために退屈となり、また日本人の命と魂のみなもとである【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺するものとなるゆえ、回を追うごとに平俗な無意味なドラマとなってしまうのではあるまいか。

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