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2017年3月14日 (火)

日本国誕生史の復興・46

 ●『井伊家伝記』への文献批判説は空論なり 

◆今年(2017)18日から始まったNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」が指摘・説明する歴史に関して幾つかの誤りが存在する。
 ゆえに、これらの誤りを証明することにした。

 201612月頃に京都市の井伊美術館の井伊達夫館長が、通説では女性とされる「井伊直虎」は別人の男性であったと示す史料が新たに確認されたと発表した。しかし、この説は前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・45」にて誤っていることを証明した。
 つまり、井伊達夫氏は「井伊次郎(次郎法師の母方の従兄弟の関口氏経の息子)が井伊直虎であった」と指摘したが、次郎法師直虎の父の井伊直盛は別名を「井伊次郎」と名乗ったことにまったく気づいていない。
 次郎法師直虎が井伊家当主であった当時、井伊氏は駿河の今川氏に支配されていた。ゆえに井伊達夫氏が発見した史料にもとづくと――今川家は関口氏経の息子に井伊家の領地を与えて治めるように命じたと言うことになる。関口氏経の息子は井伊氏が居住する引佐(いなさ)郷を治めることになったので、次郎法師直虎の父である故・井伊直盛の別名が「井伊次郎」であることに注目して、井伊氏と軋轢(あつれき)を避けて和(なご)やかに治めたいという意思を示して「井伊次郎」と名乗ったのではあるまいか。あるいは、1560(永禄3)に今川義元が上洛した途中の桶狭間(おけはざま)で信長の奇襲を受けて義元と共に討ち死にした井伊直盛の別名の「井伊次郎」と名乗れば、井伊氏一同に領主として威厳(いげん)を示すことができるとの考えであったかもしれない。
 いずれにせよ、外戚の井伊次郎(関口氏経の息子)は領主であっても井伊家の当主ではなかったことになる。したがって、井伊家の当主は次郎法師直虎であったことになる。
 井伊達夫氏の「領主・井伊次郎=井伊家の当主」という意見は、井伊家が今川家に支配されていた点と井伊直盛の別名が「井伊次郎」であった点を考慮しない軽率で杜撰(ずさん)な早合点(はやがてん)であった。
 井伊家の菩提寺(ぼだいじ)の龍潭寺(りょうたんじ)が発行する『井伊氏・龍潭寺年表』には、「天文13(1544)1213日、連歌師宗牧(そうぼく)が井伊谷(いいのや)に井伊次郎(直盛)のもとに訪れ一座を開く。翌日十四日、次郎等引馬に向かう宗牧を都田まで送る」〔『東関紀行』〕という記事がある。
 上の『東関紀行』の文が示すように、関口氏経の息子だけでなく、次郎法師直虎の父の井伊直盛の別名も「井伊次郎」であった。
 したがって、娘の直虎は父の別名を継いで「次郎法師」と名乗ったのである。そして、関口氏経の息子は直盛の別名が「次郎」であることを知っていて、領主として「井伊次郎」と名乗ったことになる。
 したがって、京都市の井伊美術館の井伊達夫氏の意見をもって、『井伊家伝記』の「次郎法師直虎は女性であった」と伝える記事は誤っていると否定することはできない。


◆NHKテレビ放送は18日に開始した大河ドラマ「おんな城主 直虎」において、「直虎」を「男の名前」であると指摘した。この意見は誤っている。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・39」で詳細に証明したように、「直虎」の[]の字はA図に示す〔母体(女性)の怒責(どせき)行為〕をあらわした。
N10111
(C) 2017 OHKAWA
 
 しかし「虎」は〔勇猛な男性〕を象徴するということになって、後に〔男性の名〕にも用いられるようになったと考えられる。
 したがって「直虎」の[]の字源は「猛獣のトラ」ではなかった。
 []の字源は「子どもを出産するときの女性(母体)が、トラが吠えるがごとく大きな声をあげていきみ、きばる怒責と称される行為」であった。だから、「直虎」の「虎」は字源「母体のトラが吠えるがごとく大声をあげる怒責行為」をあらわした。したがって、「直虎」は〔女性の名〕にふさわしいことになる。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・39」で解説・証明したように――B図の破砕鏡(はさいきょう)の右上にある「虎」は、上記した字源「母体の怒責行為」をあらわした。
N1012
(C) 2017 OHKAWA
 
 B図の破砕鏡は、2008年に発見された静岡県沼津市に所在する高尾山(たかおさん)古墳から出土した。沼津市教育委員会は、高尾山古墳は230年ころ~250年ころに作られたと推定した。高尾山古墳は東日本のおける最古で最大の前期古墳である。
 だから、井伊直盛の娘の次郎法師はB図の「虎」の注にもとづいて「直虎」と名乗った。
 沼津市教育委員会が学者の研究意見にもとづき、B図の破砕鏡に付けた〔注〕の「虎」はわがブログ「日本国誕生史の復興・39」で証明したように――A図に示した「女性(母体)が怒責して健やかで丈夫な子を生むとき、虎が吠えるがごとく挙げる大声」をあらわした。ゆえに、「直虎」の「虎」は女性の名にふさわしい字であったことになる。
 だから、NHKテレビの「直虎は男性名である」という断定もまた誤っている。

 朝日新聞は2月中旬の〔謎多き「井伊直虎」足跡を探して〕と題する記事末部で、編集委員の宮代栄一氏は――東京大学史料編纂所教授の本郷和人さん(中世史)は「当時の様々な文書を見る限り、女性城主の記録はほとんどなく、江戸中期の史料だけが根拠では、直虎が女性だったと言い切ることすら疑念が残る」と指摘する――と報道した。
 上記の東京大学史料編纂所教授の本郷氏が「江戸中期の史料」と指摘した古文献は、『井伊家伝記』である。ゆえに、本郷氏の「江戸中期の史料つまり『井伊家伝記』だけの記事で、
直虎が女性だったと言い切ることすら疑念が残る」という意見もまた、軽率で杜撰な早合点であったことになる。というのも、上記したようにB図に示した高尾山古墳から出土した破砕鏡によって、「直虎」の[]は「子ども出産するときに、母体が怒責して虎が吠えるがごとく挙げる大声」であると証明されるからである。

◆『井伊家伝記』について、朝日新聞の編集委員・宮代栄一氏が取材した記事は前半部分で――直虎が女性だったということを含め、大河ドラマが物語の根幹としているのは『井伊家伝記』という史料だが、これは菩提寺である龍潭寺の住職が、寺と井伊家の関わりを示すため直虎の死後150年後の江戸中期に編纂(へんさん)したもの。ある研究者は「この本にしかないエピソードも多く、全部史実と考えるには無理がある」と話す――と、研究者たちが抱く『井伊家伝記』への不信について報道した。
 上記の「この本にしかないエピソードも多く、全部史実と考えるに無理がある」と批判する記事の一例が、「寛弘七年(1010)正月元旦の寅の刻(午前4)、井伊家元祖共保公は井戸の中から化現(かげん/出生)した」と伝える井伊家創設儀式記事であろう。
 この「井戸の中から元祖の共保公が出生した」と伝える一見奇怪な記事は、わがブログ「日本国誕生史の復興」の37回・38回で詳細に解説し証明したように、正確に史実を伝えていることが科学的に証明することができる。
 「元祖共保公が井戸の中から出生した」と書く『井伊家伝記』の記事は、わがブログ「日本国誕生史の復興・37」で詳細に解説したように、C図の銀河状況図にもとづいて行われた。だから、井伊家創設儀式記事は事実を伝えるものであったことが科学的に証明される。
N1013
(C) 2017 OHKAWA

   C図に示した銀河状況にもとづいて行われた井伊家創設儀式は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話初頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に「伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕にすると唱えた」と記された【日本建国の〔愛〕の理念】を演出する儀式であった。
 言いかえると、井伊家創設儀式記事はB図に示した高尾山古墳から出土した破砕鏡に付く「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の4つの絵柄と[][()]の二つの字があらわす【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える、この使命を井伊家は家訓と定めたと伝えていることになる。
 だから、「元祖共保公が井戸の中から出生した」と書く井伊家創設儀式記事は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に「伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕にすると定めた」と記述された史実を伝えるものであったことになる。
 この史実を伝える遺跡が、D図に示す1千万坪の大鳥の地上絵である。
 要するに『井伊家伝記』に記されている井伊家創設儀式は、D図の地上絵を演出するものであった。というのも、D図の地上絵には『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】が保存されていたからである。
 D図に示すように、井伊氏が居住した現引佐町(いなさちょう/浜松市北区引佐町)の南に隣接する現細江町(ほそえちょう/浜松市北区細江町)1千万坪の大鳥の形をした地宜(ちぎ/地上絵)である。
N1021
(C) 2017 OHKAWA
 
◆D図の1千万坪の大鳥の地上絵を、わたくしは「卑弥呼の地上絵」と名づけた。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・21」にて――卑弥呼の地上絵は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとういのくにのみやつこ)の祖(おや/祖先)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記された豪族とその一族が260年頃~290年頃に作成した――と証明した。
 ゆえに、建比良鳥命は井伊家の始祖であった。建比良鳥命は『古事記』上巻の淤能碁呂島説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために卑弥呼の地上絵を作成した。『古事記』は712年に成立したゆえ、建比良鳥命は『古事記』成立よりも約450年前に【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えようと決意したのである。

卑弥呼の地上絵は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える科学遺跡(天文地理遺跡)であり、B図の破砕鏡の「鳥」と「羽人」と[]の秘密が解明できる地宜(平面的に図化した地図)遺跡である。
 これゆえ、D図の卑弥呼の地上絵によって『井伊家伝記』の「元祖共保公が井戸の中から出生した」と書く井伊家創設儀式記事は真実の歴史を伝えるものであったことが【科学】の成立によって証明される。したがって「人は井戸の中から生まれない! 史実を伝えるものではない」と批判する意見は直(ただ)ちに空論ということになる。
 1010年正月元旦の寅の刻におこなった井伊家元祖共保公が井戸の中から出生する儀式は、神官職に就いていた建比良鳥命家を廃して、嫡子の共保が武士となる子捨て儀式つまり井戸の中に赤ン坊(共保公)を下(おろ)して引き上がる儀式を行って、新たに武家の井伊氏を創設して【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に残す決意を示すものであった。
 したがって、井伊家創設儀式は決意を新たにしてD図に示す卑弥呼の地上絵が失われないように後世まで残すと誓う儀式であったことになる。
 D図の左下にある「引佐細江」という入り江の名は、「『井伊家伝記』に記述された歴史を研究するときには、必ず引佐郷と細江郷は一体化して考えなければならない」と警告する役目を有していた。
 したがって、「引佐細江」という入り江名を無視して「『井伊家伝記』が伝える元祖共保公の井戸の中から出生したという記事は史実とは言いがたく不確かな伝承である」と批判する学者や研究者たちの意見は、前述したように記事の表層をつまみ食いして捏造(ねつぞう)した空論・空想であったことになる。
 以上のごとく、『井伊家伝記』を批判する学者や研究者たちは軽率で杜撰な早合点や偏見(へんけん)あるいは空論などで立論する産物であるゆえ、『井伊家伝記』について「誤伝や史実ではない内容も多い史料である」と貶(おとし)めるのは間違っている。

◆井戸の中から出生した井伊家元祖共保には、養父がいる。この養父は遠祖が藤原不比等の藤原共資(ともすけ)である。
 龍潭寺発行の『井伊氏・龍潭寺関連年表』は――正暦(しょうりゃく)年中(990995)公家の藤原共資、倫命(りんめい)により遠江国村櫛(むらくし)の郷に下って居住する。〔井伊家伝記〕※正暦四年村櫛に志津城()を築いて住んだと伝えられる。〔三ケ日町史〕――と記す。
 上記した『井伊家伝記』の文中にある「倫命」という語は「人間として実行しなければならない使命」と意味する。
 藤原共資は「卑弥呼の地上絵が失われないように守って、【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるのは人間として実行しなければならない使命である」という思いを「倫命」と表現した。だから、共資は村櫛半島南部の地に志津城を築いて住んだ。
 結局、「倫命」という語は――卑弥呼の地上絵を調査すれば、『古事記』上巻の淤能碁呂島説話と『井伊家伝記』の井伊家創設儀式記事は日本国誕生史の真実を伝えていることが科学的に証明できる――と今日に明確に告げる伝言(メッセージ)となる。
 藤原共資は遠江国守に就任した当時、遠江の国府は見付(みつけ/現在の静岡県磐田市)にあった。しかし、共資は見付から西へ約24㎞離れた現在の浜松市村櫛半島南部に志津城を築いた。当時の摂関(せっかん)政治は地方政治を担当する国守に大きな権限をあたえて処理させていた。ゆえに、共資は国府がある見付から村櫛の郷に下って遠江を治めても罰せられなかった。
 E図に「村櫛」と記した地に、共資は志津城を築いた。
N1022
(C) 2017 OHKAWA
 
 E図に示すように、共保が出生した井戸がある八幡宮とA地点(卑弥呼の地上絵が作成できる経緯度原点地)と結ぶ延長線は内浦の東端を貫通して、共資が築いた志津城がある村櫛半島南端を通過する。この貫通線の東側の村櫛半島の地宜(地図の形)は〔人の横顔〕に相似しているように見立てられた。
 さらに、E図を180度転回するとF図に示すように、〔内浦〕が〔人の口〕のごとくに観える。ゆえに、〔村櫛半島〕は〔人の横顔〕に見立てられた。
N1023

(C) 2017 OHKAWA

 
 F図の卑弥呼の地上絵は〔あたかも空を飛翔する大鳥の姿〕に観え、B図に示した沼津市の高尾山古墳から出土した破砕鏡の[][](地宜、すなわち平易面的に図化した地図の形)と「羽人」をあらわすことになった。というのも、空に〔羽〕をひろげて飛翔する大鳥の下の卑弥呼の地上絵に〔人〕が住むからである。B図における「羽人」の絵柄は「伊耶那美命が唱えた〔愛〕を尊重して多数の人々が満ち満ちあふれて生活する」と表現するものとされることになったのである。

ゆえに、卑弥呼の地上絵(細江町)と村櫛半島が【日本建国の〔愛〕の地上絵】を伝える重大な土地であることを察知した藤原共資は、【日本建国の〔愛〕の理念】をなんとしても守ると決意した。というのも、天照大御神以来朝廷は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する反体制側の革命をおそれて、【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・敵視し続けて抹殺(まっさつ)せんとしたからである。3世紀後半の1738(元文3)まで約1450年間、朝廷は【日本建国の〔愛〕の理念】を脅威(きょうい)し、危険視し続けた。これについては、わがブログ「日本国誕生史の復興・42」にて証明した。

このように朝廷は【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺するものであったゆえ、藤原共資はなんとしても守ると決意した。この動機を、共資は「倫命」と表現したのである。

◆『井伊家伝記』には「寛弘(かんこう)七年(1010)、井伊氏祖備中守共保公八幡宮御手洗(みたらし)の井中より化現(かげん/出生)す。七歳の時、共資の養子となる。井伊保城山に見立城を築き居城。共保公出生の在名居城の縁に依って井伊を以て御家名となる」という記事もある。
 この記事は、藤原共資が倫命により村櫛半島南部に志津城を築いて居住した事情は、【日本建国の〔愛〕の理念】を保存する遺跡の卑弥呼の地上絵を守るためであったと伝えている。
 上記の文中に登場する「井伊保」は「現在の井伊谷」である。713年以前、井伊保は「渭郷(いごう)」または「蟾郷(せんごう)」という名であったが、713年に「渭伊郷(いいごう)」と改めた。したがって、「渭伊郷」は共保公が八幡宮の御手洗の井戸の中から出生した儀式が行われた1010年正月元旦に、「井伊保」と改まったことになる。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・37」で詳細に解説して証明したように――井伊家創設儀式によって「井伊保」の[]は「(1)八幡宮の御手洗の井戸はじめ、(2)井桁(いげた/地上に出た上部の方形の木組み)の形に相似する、【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす破砕鏡(B図)を埋めたG図に示す高尾山古墳の後方墳、(3)H図に示す伊耶那美命が臨終した哭沢(なきさわ)神社のご神体の空井戸(からいど)」をあらわした。「井伊」の[]は「【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた伊耶那美命と、彼女の死後に【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ伊耶那岐命」をあらわした。
N1024


 『古事記』上巻は「伊耶那美命は泣沢女神(なきさわめのかみ)で臨終した」と記す。泣沢女神は、H図に示す奈良県橿原(かしはら)市の木之本(このもと)町に所在する哭沢神社とされた。その証拠に、哭沢神社の祭神は『古事記』に記載された「泣沢女神」である。哭沢神社のご神体は玉垣に囲まれた空井戸である。
 以上のごとく、「井伊氏元祖共保公が井戸の中から出生した」と伝える記事は『井伊家伝記』の「共保公出生の在名居城の縁に依って井伊を以て御家名となる」と伝える儀式であったことになる。
 ゆえに、文献批判を加えて「元祖共保公は井戸の中から出生した」と伝える記事から藤原共資が村櫛の郷に下った「倫命」という語と「井伊」という家名の秘密をまったく解明しない軽率な杜撰な意見で、『井伊家伝記』の価値を貶(おとし)める研究者たちの意見は、【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺して日本人として実行すべき使命を踏みにじる空理空論であると言わざるをえない。

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