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2017年3月24日 (金)

日本国誕生史の復興・47

 ●『井伊家伝記』は真実を伝える
 
◆『井伊家伝記』は誤解されている。
 このブログは新井白石(16571725)以後から現在までの学者や研究者たちは仰山(ぎょいうさん)な〔文献批判〕を加えて、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記述された日本国誕生史の真実を葬(ほうむ)ったことを解説し証明してきた。
 この〔文献批判〕の毒牙(どくが)にかかって『井伊家伝記』もまた憑性(しんぴょうせい)が疑われている。しかし、研究者たちの伝家(でんか)の宝刀(ほうとう)である〔文献批判〕の実体は〔誤読〕である。 
 『井伊家伝記』は、1730(享保15)4月に成立し、著者は遠江国井伊谷の龍潭寺(りょうたんじ)の住持の祖山法忍である。
 『井伊家伝記』には井伊氏元祖の井伊共保の出生儀式が記されている。また、著者の祖山が隣村の正楽寺と「元祖共保公が出生した井戸」の権益をめぐって争い、幕府寺社奉行へ訴訟をおこす際に、祖山は彦根藩と与板(よいた)藩の両井伊家に支援を願って勝訴したことが記されている。わがブログ「日本国誕生史の復興・37」にて「寛弘7(1010)正月元旦の寅の刻に元祖共保公が井戸の中から出生した」と記述する記事は、A図に示す銀河状況図にもとづいて行われた儀式であり、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話初頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】を演出する儀式であった。これについては、前回のわがブログ「日本国誕生史の復興・46」でも証明した。
N1031
(C) 2017 OHKAWA
 
 ゆえに「共保公出生の井戸」は【日本建国の〔愛〕の理念】を後世まで伝えるためには欠くことができない重要な施設であった。だから、祖山は彦根藩と与板藩の両井伊家に井伊家が背負う【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えなければならない倫命(りんめい/人間として実行しなければならない使命)を再認識してほしい・忘れないでほしいと願って『井伊家伝記』を作成した。したがって『井伊家伝記』のテーマは【日本建国の〔愛〕の理念】であった。ゆえに細部まで神経を注ぐことに努めずに幾つかの誤記が存在することになったが、とにかく「共保公出生の井戸」に秘められた【日本建国の〔愛〕の理念】を滅ぼしてはならぬという一心・一念で祖山は『井伊家伝記』を作成した。

 B図に示すように井伊谷の南の浜松市北区の細江町(ほそえちょう)は、井伊氏の始祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)とその一族が260年頃~290年頃の約30年間かけて作成した1千万坪の大鳥の地上絵であった。この大鳥の地上絵は【日本建国の〔愛〕の理念】を保存する科学(天文地理学)遺跡である。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 井伊家の始祖の建比良鳥命は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや/祖先)の建比良鳥命」と記されている。B図の1千万坪の大鳥の地上絵を、わたくしは「卑弥呼の地上絵」と名づけた。B図の大三角の一角の「八幡」に「共保公出生の井戸」が所在する。ゆえに、卑弥呼の地上絵にとって「共保公出生の井戸」は欠くことができない重大な基点となる。

 卑弥呼の地上絵は、今から約4050年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国に伝来した原初漢字の夏音(かおん)文字の秘密を保存していた。
 秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)は夏代初頭に相当する。大湯環状列石にはC図に示す野中堂と万座遺跡が所在し、この両遺跡には夏音文字の学芸が習得された痕跡(こんせき)が現在も明確に残っている。
N1033
(C) 2017 OHKAWA
 
 C図に示すように、野中堂遺跡と万座遺跡の中心部を結ぶ線は〔夏至の日没方向〕を指差して、「夏代初頭に夏音文字の学芸がわが国に伝来して習得された」と表示する。
 B図に示す卑弥呼の地上絵の鳥の顔は〔夏至の日の出の方向〕を向き、C図の野中堂遺跡・万座遺跡と同じく「わが国には夏音文字が存在した」と伝える。
 要するにB図の卑弥呼の地上絵は夏音文字の学芸遺跡であり、夏音文字の学芸をもって【日本建国の〔愛〕の理念】を保存する科学遺跡であった。

◆わがブログ「日本国誕生史の復興」の34回と44回で詳細に解説・証明したように、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は、「夏音文字が伝来した」と伝える史料の数々の記事に多数の〔文献批判〕を加えて無視・排除した〔誤読の空論〕である。
 パソコンで「漢字の字音」と入力して調べると「中国では漢字の発音は今音(現代の音)と古音(古代の音)に分類されています。古音はさらに上古音(西周初期~後漢後期の発音)、前期中古音(南北朝後期~隋~唐初期の発音で隋唐音とも呼ばれています)、後期中古音(唐中期~北宗初期の発音)、近古音(北宗中期~清中期の発音で近世音とも呼ばれています)に分類されています。」と出力(指摘)される。
 上記の文で注目すべきは、〔上古音〕と〔前期中古音〕である。
 D図における紀元前1046年から始まる「周」が、上記の〔上古音〕の始まりとなる「西周初期」となる。(というのも周代は、紀元前1050年~同771年までの西周時代と、紀元前770年~同403年までの東周時代に分けられるからである)
N1041
(C) 2017 OHKAWA
 
 E図に、上記の南北朝後期から始まる〔前期中古音〕の時代を示した。
N1042
 
 前述したように、学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と断定する。この定説にしたがうと、わが国においていま残っている最古の漢字音はE図に示した南北朝時代(420年~589)における〔前期中古音〕であったことになる。
 しかし、この定説は明確に〔誤読の空論〕であることがわかる。
 というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士は著書『字統』(平凡社)の〔わが国の漢字音〕と題する9頁の後ろから3行目~10頁の3行目までは下記のごとく指摘するからである。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻(おんいん)学がとり入れられ、殊(こと)にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残される字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記したように、現在、中国に残っている最古の漢字音は紀元前11世紀の西周時代初期の上古音である。白川静著『字統』は――いま中国に残る最古の上古音(西周初期の漢字音)よりも古い漢字音が、カールグレンが開発した音韻学によって現在までわが国の国語における漢字音として残っていることが証明された――と指摘する。
 定説の場合、わが国に最初に習得した漢字音はE図に示す5世紀あるいは6世紀の南北朝中期~南北朝後期の前期中古音であったことになり――定説は明らかに白川静著『字統』が指摘する音韻学の成果に反する。
 D図に示すように、西周時代より前が殷代(いんだい)、さらに前が夏代です。

わが国には中国の上古音よりも約1000年も古い紀元前21世紀の夏代初頭に、中国から伝来した夏音文字が『魏志』倭人伝と『古事記』に記載されている。
 したがって、定説だとわが国の最古の字音は中国の上古音よりも新しい南北朝後期(E図参照)の前期中古音ということになり、定説は明らかに空論ということになる。
 このように、漢字習得の定説はいとも簡単にあっけなく絵空事であると証明される。

◆千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館)30頁の〔卑弥呼の発音について〕という注は――卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば「ピミカ」になる――と指摘する。つまり「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は、中国漢字の上古音「ピミカ」より古い夏音である。
 学者たちは『魏志』倭人伝に登場する「卑弥呼」を「ヒミコ」と夏音で読む。だから、学者たちは心ならずも「わが国には夏音文字が伝来していた」と主張していることになる。
 現在まで、B図の卑弥呼の地上絵(細江町)内の7ヵ所の遺跡から9口の「三遠(さんえん)式銅鐸」と「近畿式銅鐸」が発見された。また、卑弥呼の地上絵の隣りの浜松市の都田(みやこだ)地区の前原Ⅷ遺跡からも前原鐸・1口が出土した。卑弥呼の地上絵は、これらの銅鐸を用いて作成された。わがブログ「日本国誕生史の復興・21」で――「三遠式銅鐸」は「終末期銅鐸」と分類され、三遠式銅鐸は260年~290年に製作され使用されたとされる。だから、卑弥呼の地上絵は遠江の豪族の建比良鳥命とその一族が260年頃~290年頃のおよそ30年の年月を費やして完成したことになる。
 山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社)29頁は「『三国志』の成立は、晋(しん)の武帝の太康年間(280289)、陳寿(ちんじゅ)の著作郎(ちょさくろう)時代という以上には限定できない」と指摘する。つまり、陳寿が著作郎(歴史編纂官)であった280年~290年に正史の『三国志』は成立したことになる。『魏志』倭人伝は『三国志』魏書東夷(とうい)伝の末部の倭人伝であるゆえ、280年~289年に著作されたことになる。だから、260年~289年に制作された卑弥呼の地上絵と『魏志』倭人伝は同時代(3世紀後半)に作成されたことになる。
 前述したように、B図の卑弥呼の地上絵の大鳥の顔の正面は「夏至の日の出の方向」を向いて「夏音文字がわが国に存在した」と伝えて、しかも『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名には夏音が楷書で表記されて残る。

◆「銀河」の別称は「銀漢」である。だから「銀漢から作られた文字」を略して「中国文字」は「漢字」と名づけられた。これゆえ「天には多数の文字が存在する」ことになったので、「天体・銀河」は「天文」と称されることになった。ゆえに「天皇」は「天にある銀河各部の形状が字源・字形・字義となる学芸に精通した大王」とあらわすものであったことになる。
 わがブログ「日本国誕生史の復興・10」で解説し証明したように、夏音文字も楷書はじめ甲骨文字・金文・篆文(てんぶん)などすべての漢字の字源・字形・字義は下に示す銀河から成立した。この漢字が作られた銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
Ginga

 夏音文字の伝来・習得について、『古事記』序の冒頭は「臣安万侶(しんやすまろ)(もう)す。それ混元(こんげん)すでに凝()りて、気象未だ効(あらわ)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしん)の首(はじめ)を作()す」と記述する。
 上記の夏音文字の習得文を現代語に訳すると「臣下の安万侶は陛下に申しあげます。およそ太古において天頂にめぐってきた文字作成銀河の部位の形状は混沌(こんとん)として凝固しないありさまでありましたので、前期縄文(今から6000年前~5000年前まで)より以前の天頂緯度線が貫通する銀河部位が示す気の象(かたち)は表現することができませんでした。ゆえに、この時代の天頂にめぐってきた銀河部位には名(名をあらわす文字)も無く、この銀河部位を造化(すなわち芸術)で表現する技(わざ)も存在しませんでした。しかし、前期縄文初頭より以後になりますと[][]に分かれるイメージとなる銀河部位が天頂にめぐってきましたので、(1)前期縄文・(2)中期縄文・(3)後期縄文初頭の天頂にめぐってきた造化の参神(三つの時代の芸術神)を崇拝し、文字作成銀河の各部の形状のイメージにもとづいて土器・土偶を造った前期縄文から後期縄文初頭までのおよそ2000年におよぶ伝統を有した芸術家たちによって、後期縄文(中国の夏代)の首(はじめ/初頭)に中国から伝来した夏音文字が習得されました」となる。
 要するに、上記の『古事記』序の冒頭文は「今から約4050年前の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に夏音文字の学芸が伝来し習得された」と伝えていることになる。
 この夏音文字の学芸の習得を伝える末部の「参神造化の首(はじめ)を作()す」という文の後には「陰陽斯(ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」という文が続く。この文は「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命はわが日本のすべての生みの親となりました」と意味する。したがって、この文は「【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた伊耶那美命と【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ伊耶那岐命のほうが、朝廷が最も崇拝する天照大御神よりも偉大である」と主張していることになる。
 また、冒頭の夏音文字の学芸習得文と伊耶那美命と伊耶那岐命が日本のすべての生みの親と称(たた)える文は「『古事記』上巻の随所に〔音〕という注を付けた夏音文字の字源・字形・字義となった文字作成銀河各部の形状を解明すれば、楷書の字源・字形(字形の原形)・字義も文字作成銀河の各部の形状であるゆえ、『古事記』上巻に記述された真実の歴史が解明できる」と、『古事記』上巻における歴史解明方法を説明していることになる。
 『古事記』序の説明と同様に、B図の卑弥呼の地上絵もまた夏音文字の学芸で【日本建国の〔愛〕の理念】を保存する仕組みとなっている。

121年に成立していた“字書の聖典”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』の序には「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という一文がある。この文は「文字作成銀河各部の形状が文字(字源・字形・字義)となる学芸は経(学術)と芸(芸術)の根本であり、王道政治において“い”の一番(真っ先)に必要な学芸であり、前人が作成した文献に書かれた歴史を後人が正しく知ることができる最良の方法である」と伝えるものであった。
 『魏志』倭人伝には「倭の占いに用いる卜辞(文字と語)は、令亀(れいき/亀の甲羅にに刻む甲骨文字)の如く」という文がある。また、『魏志』倭人伝には「魏の都と朝鮮半島の帯方郡や諸韓国が文書に用いる楷書と倭女王卑弥呼が文書に用いる文字(すなわち夏音文字)は差錯(ささく/相違)していたので、倭の伊都(いと)国の港では点検し確認して間違いがないようにしている」という文がある。
 上の文が伝えているように、伊都国の港では文字作成銀河を辞理(じり/文字と語の原理)すなわち今日の字書のごとくあつかって楷書と夏音文字を正しく変換していたのである。
 わがブログ「日本国誕生史の復興」の10回と11回で詳細に解説したように――漢字はD図に示す今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官の倉頡(そうきつ)が漢字作成原理「鳥獣(ちょうじゅう)の足跡」を発明して起源した。夏音文字も楷書も、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則(のっと)って作られた。だから、夏音文字と楷書の字源・字形・字義は文字作成銀河の各部の形状となった。
 倉頡は自らが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、反体制側の人々が文字作成銀河から文字を作られた学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。ゆえに、倉頡は下に
列記する〔3つの掟〕を破った者には天罰が下されて即刻に死刑に処せられると定めた。
■倉頡が定めた3つの掟
 (1)
 文字作成銀河の各部のから形状から文字が作られた事実を暴露した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字作成銀河の各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字をただちに消せない者または消し忘れた者
  
上記の(1)の掟によって、()漢字が文字作成銀河の各部の形状から作られた秘密と()倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」が『魏志』倭人伝に記載され、この二つの秘密は『古事記』序でも記述された――この重大な学芸の存在を新井白石以後の学者たちは〔文献批判=誤読〕を用いて排除し葬った。白石以前の各代の天皇と多数の先人たちは、夏音文字は倉頡が定めた〔3つの掟(おきて)〕を厳重に守る原初漢字であることを知っていたゆえ、()文字作成銀河から漢字が作られた秘密と()漢字作成原理「鳥獣の足跡」の学芸の秘密をも知っていた。上記の(2)の倉頡の掟によって、現在も文字作成銀河の各部には名称が存在しない。上記の(3)の倉頡の掟によって、五帝時代の漢字・夏音文字・殷代(いんだい)前半期の漢字を記した資料は、中国において1点も発掘されていない。また、わが国においても夏音文字の文字資料は出土していない。
 しかし、約3300年前から出現した亀の甲羅に刻む甲骨文字によって(3)の掟は破られた。ゆえに、甲骨文字以後に出現した楷書は書いた文字を消さなくてもよい文字と定められるものであったため、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の随所に記載された多数の夏音文字は楷書で表記された。だから、夏音文字は実在する文字であった。
 『古事記』上巻においては〔音〕という注が付く11音文字が夏音文字である。白石以後から現在までの学者たちは『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状を観察してまったく解明しない。このため、彼らは両文献が証言する()夏音文字の伝来と習得はじめ()倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の秘密も解明できず、さらに()両文献に記述された真実の歴史をまったく解明できない。彼らは伝家の宝刀である〔誤読〕に“文献批判”にという偽名(ぎめい)をつけ、この〔文献批判=誤読〕を駆使(くし)して、空論・空想・暴論を国民に押し付ける。

◆紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は紀元前850年ごろに生存したギリシャの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは〔文献批判〕を用いて『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。この発見によって、学者たちの〔文献批判〕による意見こそが空想であったと証明された。
 シュリーマンのトロイ遺跡発見が明確に示すように、古代史学には過去の出来事を事実であると証明できる絶対原理(絶対方法)が存在する。
 
 つまり、古代史学には――前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は誤記である、信用してはならない」と批判し否定しても、その文献に記述したとおりの遺跡・遺物が発見されたならば、前人の記述はなんびとにも否定できない事実であり、学者たちが文献批判して否定した意見は誤読の空想であり、妄想であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が存在する。
 
 『井伊家伝記』の「元祖共保公が井戸の中から出生した」という井伊家創設儀式記事によって『古事記』上巻の淤能碁呂島説話が真実の歴史を記述することが証明される。この真実の歴史は、A図に示した儀式が行われた1010年正月元旦の寅の刻の銀河状況図を再現すれば科学的に証明され、、またB図に示した卑弥呼の地上絵によって科学的に証明される。
 ゆえに、トロイ遺跡発見で決定されたように、『井伊家伝記』は真実の歴史を伝える書物である。細部の誤記にこだわって真実の歴史に視線を逸()らして排除する〔文献批判〕は『井伊家伝記』の価値を貶(おとし)める〔誤読の空論〕ということになる。

◆天照大御神とその後の朝廷は夏音文字の学芸を政権基盤として独占管理して厳重な機密とした。また天照大御神とその後の朝廷は【日本建国の〔愛〕の理念】を利用しておこす革命を恐れ、【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺に躍起になった。建比良鳥命家、後の井伊氏のごとく【日本建国の〔愛〕の理念】を保存する施設(卑弥呼の地上絵)を私有することは朝廷と国家を転覆する大罪と定められ、この大罪を犯す一族は皆殺しとされた。
 712年に成立した『古事記』上巻の淤能碁呂島説話に象徴的な表現方法で「日本国は〔愛〕の理想の基(もと)に起源した」と記述された。したがって、『古事記』は【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える反逆の史書であった。これを察知した元明(げんめい)天皇は『古事記』献呈を拒否して正史と認めなかった。このため、【日本建国の〔愛〕の理念】について記述しない720年に成立した『日本書紀』は正史としてよく読まれたのに対し、『古事記』は危険思想を養い朝廷への憎悪を育(はぐ)む書物と定められたため読む人も少なく人目をはばかってこっそりと隠れて読む禁書となった。このため、『古事記』は長年にわたり偽書だと疑われ、賀茂真淵(16971769)は後世の作ではないかと疑った。
 朝廷は『日本書紀』が作られた直後ころから講書(こうしょ/書物の講義)をおこなって、『古事記』上巻の記事を歪曲(わいきょく)し捏造(ねつぞう)する対策(解釈方法)を研究して史実の隠蔽(いんぺい)を謀(はか)った。この朝廷の講書でおこなわれた捏造と隠蔽の工作を受け継いだ本居宣長(17301801)が研究して著した注釈書『古事記伝』は、『古事記』が【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える目的で作成された歴史書であることに気づかなかった。また、宣長は『古事記』序が真実の歴史を解明する方法を説明していることに気づかなかったため、上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字の秘密を解明すれば真実の歴史を知ることができる仕組みを発見できなかった。この宣長が著作した『古事記伝』を現代の学者たちはテキストとするため、今日の『古事記』上巻の記事は歴史を伝えるものではないと定められ、天照大御神が最も崇拝されることになり、【日本建国の〔愛〕の理念】と夏音文字の学芸に気づく学者は一人も存在しない。
 これゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】が解明できる「井伊氏元祖共保公の出生の井戸」と卑弥呼の地上絵の保存の継続を彦根藩に願うために著作された『井伊家伝記』は、白石以後の〔文献批判〕の実体は〔誤読の空論〕であったことが明確に証明される史料となる。というのも前述したトロイ遺跡発見で決定されたように、『井伊家伝記』の「共保公が井戸の中から出生した」と伝える記事と卑弥呼の地上絵によって『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】が史実となるからである。したがって、『井伊家伝記』は日本国また日本人にとって極めて重大な歴史が証明できる史料となる。

◆この47回をもって「日本国誕生史の復興」シリーズを終了することにしました。
 4月からは、「真実の日本国誕生史」と題して【日本建国の〔愛〕の理念】の証明がさらに充実するように、またコンパクトになるように、より核心をつくように努力することにしました。ですからわがブログ「真実の日本国誕生史」をご期待お願い申しあげます。

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