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2017年4月 7日 (金)

真実の日本国誕生史・1

 ●日本国は〔愛〕の理想の基に誕生した

◆このブログでは、ほんとうの日本国誕生史を解明する。
 あなたが知っている、または思っている日本国誕生史はほんとうではない。
 卑弥呼が登場する『魏志倭人伝』と伊耶那美命(イザナミノミコト)が登場する『古事記』上巻には真実の日本国誕生史が記述されている。
 学者たちは『魏志』倭人伝と『古事記』上巻が伝える真実の日本国誕生史の解明に不可欠な重大な多数の記事に〔誤読〕を加えてウソ八百をデッチ上げ、日本国誕生史を抹殺(まっさつ)しつづけている。
 しかし、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻は真実の日本国誕生史を伝えるものであり――学者たちが「この記事は誤記である」と否定した数々の記事に合致するいくつかの遺跡と遺物が現存する。
 したがって学者たちが「誤記である」と否定した記事は事実を伝えるものであった。したがって、学者たちの「誤記」と批判して立論した意見は、完全なる〔空理空論〕であったことになる。
 だから、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の記事に〔誤読〕を加えないで忠実に読解すれば真実の日本国誕生史は科学的に解明できて取りもどすことができる。

 このブログ「真実の日本国誕生史」シリーズは、すべての日本人にささげます。
 日本人として生きることによろこびとするすべての日本人にささげます。
 日本人は〔愛〕の両腕に抱かれて育ち、日本史もまた〔愛〕の両腕に抱かれて育ったのです。
 このブログを、日本人として生きることに苦しみ悲しむ人に夢と希望をあたえて一人でも多くの人々がよろこんでいただけたならば幸いです。

わたくしたちの国は、富士山の近くで〔愛〕をかかげて誕生した。
 わたくしたち日本人は、富士山の近くで〔愛〕をかかげた歴史から始まった。
 わたくしたち日本人の命は〔愛〕から始まった。
 要するに日本人の本体は[]である。

 日本国が〔愛〕の理想の基に誕生した事実は、『古事記』上巻の伊耶那岐命(イザナキノミコト)と伊耶那美命(イザナミノミコト)神話冒頭の淤能碁呂(オノゴロ)島聖婚説話に記述されている。
 また『万葉集』の多くの和歌が伝える。山上憶良(やまのうえのおくら)が作った「銀(しろがね)も 黄金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも」という和歌は、【日本建国の〔愛〕の理念】を詠()む和歌であったのである。
 でもわたくしたちは〔愛〕から始まった、この重大な日本国誕生史を自分のものにすることはできない。
 というのも、上記したように学者たちは『古事記』上巻に加えるたくさんの〔誤読〕に〔文献批判〕という偽称(ぎしょう)をつけて、「この記事は誤記である」と否定・抹殺するゴマカシの方法から生まれた意見こそが正しいと定めているからである。
 学者が加える〔文献批判〕の実体は〔誤読〕である。したがって学者たちが〔誤読〕をたくさん加えてデッチあげた空論・空想が、こんにちの日本国誕生史説である。
 このため『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の記事に〔文献批判〕を加えずに忠実に読む、この初歩的ルールを「まともな考え方ではない。ナンセンス!」と学者たちは即座に否定する。だから、わたくしたち日本人は〔愛〕から始まった日本国誕生史を自分のものにすることができない。

◆しかし
現在の学問の段階は、学者たちはまったく気づいていないが『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に加えた多数の〔文献批判〕はすべて〔誤読〕であると科学的に証明できる状況となっている――これについては、わがブログ「卑弥呼の逆襲」における〔日本国誕生史の復興〕シリーズの147回をもって証明した。

 わがブログ〔日本国誕生史の復興・2〕で証明したように――『魏志』倭人伝に記載された15ヵ所の全方位記事は「日本列島の東へ伸びず、南へ伸びる」と証言する。
 しかし学者たちは、A図の北極星を注目して「日本列島は南に伸びず、東に伸びる」と断定できると主張する。
S11
(C) 2017 OHKAWA
 
 ゆえに、学者たちは「『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事には何ヵ所かの誤記があり、すべて正しくない」と文献批判して――北極星がある方向を〔北〕とする現在の日本列島地図にもとづいて卑弥呼が居住した王国の所在地を考える。
 なお、『魏志』倭人伝は卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壱(やまい)国」と表記する。しかし、大半の学者たちは「邪馬壱国は誤記で、邪馬台国が正しい」と決めつける。
 A図に示したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星は天の北極を中心にして半径約10度で円周していた。
 天文地理学の書物には「緯度は天の北極の高度で計測できる」と記述されているが、古代においては――天の北極の高度では、緯度は精密に測定できなかった。ゆえに『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の上古史においては「天の北極の高度で緯度を計測できる」という書物の指摘は、思い切ってウソであると考えるべきことになる。
 A図に示したように、卑弥呼が生存した当時の北極星は天の北極の中心を半径約10度・直径約20度で円周していたゆえ、緯度測量の誤差は約20度・1200分であったことになる。
 B図に示すように、九州南端は北緯31度、北海道北端は北緯4530分である。
S12

(C) 2017 OHKAWA
 
 このように日本列島がスッポリとおさまる当時の直径が約20度・約1200分の円を描いた北極星で天の北極の高度で緯度を換算すると、北緯31度の九州南端の緯度は時には北緯21度、またある時は北緯41度、またある時は37度と計測されて何度がほんとうであるのかまったく分別できなくなるゆえ、絶対に緯度が計測できなかったことになる。
 上古にあって大海を往来する人々は、1度の60分の11分の緯度差が測定できる精度が求められた。
 したがって、緯度1分の精度が求められた大海はB図に示したように当時の北極星で天の北極の高度を計測する方法では絶対に往来することができなかったことになる。
 C図に、天頂を通過する銀河部の軌道を示した。
S13
(C) 2017 OHKAWA
 
 C図の右上に[]がある。[]とは「天頂緯度線と子午線のキャッチ・測定」を意味した。「[]=天頂緯度線と子午線」をキャッチすると、緯度が1分の緯度差が判別できる精度で測定できた。だから、古代においては、大海を渡る人や遠くの地に旅する人が自分の居る場所を正しく知る方法は、〔[]をキャッチする方法〕のみただ一つであったことになる。
 人間の目は鍛錬すると感覚が研ぎ澄まされて[]をキャッチできる能力がそなわり、この〔玄〕をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)能力によって緯度が1分の差まで測定できた。原始の時から、人間には「[]=天頂緯度線と子午線」をキャッチできる眼力がそなわり、脳には[]をキャッチする技(わざ)を磨く本能的能力がそなわっていた。
 だから、3世紀の人々が大海を往来できる方法は1分の緯度差が測定できる[]をキャッチする方法であったことになる。

◆わがブログ〔日本国誕生史の復興・4〕でも解説したように、D図は『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事を正しいと定めて、忠実にあらわした倭地図(日本列島地理)である。
S14
(C) 2017 OHKAWA
 
 D図の左側に示す「玄界灘」は「北極星で天の北極の高度を計測して緯度に換算する方法では往来できないが、[]をキャッチする方法ならば往来できた、陸地から遠く離れた波の荒い海」と今日に伝える大海である。
 その証拠に、D図の左側に示すように、玄界灘に浮かぶ「沖ノ島」と伊豆諸島の「神津島(こうづしま)」は同緯度であり、両島とも北緯3415分である――3世紀の人々は[]がキャッチできたゆえ、日本列島の西端の沖ノ島と東端の神津島が同緯度(北緯3414)であることを測量できた。
S15
(C) 2017 OHKAWA

 E図に示すように、日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降るゆえ〔西冷〕となり、日本列島の東端の神津島は冬に雪が降らない亜熱帯地区であるから〔東暖〕となる。そして中国の海岸線地域の北部の気候は冷たいゆえ〔北冷〕となり、南部は暖かいゆえ〔南暖〕となる。したがって、沖ノ島の〔西冷〕と中国海岸線地域の〔北冷〕は〔冷たい気候〕で一致し、神津島の〔東暖〕と中国海岸線地域の〔南暖〕は〔暖かい気候〕で一致する。
 ゆえに卑弥呼王朝は、日本列島の暖かい東端は中国の海岸線地域の暖かい南の方に向かって伸びているにちがいないと考えて――D図の右側にように「日本列島の東端は中国海岸線地域の南の方に伸びる」と考える錯覚の転回日本列島地理を制定した。
 だから、『魏志』倭人伝の15ヵ所の全方位記事は実在した卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理を今日に伝える重大な記事であったことになる。
 
したがって、「日本列島は東へ伸びる。南に伸びるなんていうことは、当時の人々が北極星を見れば察知できる」という常識に訴える文献批判をもって、現在の日本列島地理にもとづいて立論する学者たちの意見は〔誤読の空理空論〕であったことになる。
 『魏志』倭人伝の冒頭文を現代語に訳すると「倭人は朝鮮半島の帯方(たいほう)郡の東南の大海中にあり、山や島によって国や邑(むら)を作っている。古くは百余の小国に分かれていた。漢の時代に天子に拝謁(はいえつ)する者もいた。今、使訳(通訳)をともなった使者が訪問する倭人国は三十ヵ国に分かれている」となる。
 F図に示すように、倭の使節は漢の時代も今(三国時代)[]をキャッチして帯方郡の東南にある大海すなわち玄界灘を往来していた。
S21
(C) 2017 OHKAWA

 『魏志』倭人伝には「その道里を計るに会稽(かいけい)・東治(とうじ)の東に在るべし」という文がある。
 F図に示すように、転回日本列島地理は『魏志』倭人伝の文のとおりに会稽・東治の東にあって合理となるが、学者たちが立論基盤とする実際の日本列島地図は会稽・東治の東北にあるゆえ矛盾する。このように、この記事は学者のごとく文献批判すると〔誤読の空論〕になると明確に示す。
 前述したように、学者たちは〔天の北極・北極星〕がある方角を〔北〕と定める実際の日本地図を立論基盤とするが、この〔天の北極・北極星〕で緯度を計測すると倭の使節は大海・玄界灘を渡ることができなかったことになる。実際は[]をキャッチできた倭の使節が玄界灘を往来するものであったゆえ、倭国の様子を中国の魏王朝は知ることができた。だから、『魏志』倭人伝が著作されて今日まで残ったことになった。
 したがって、学者たちの立論方法だと倭の使節は玄界灘を渡ることが出来なかったので魏の出張機関の帯方郡政庁に訪問できず、また魏都にも到着できず国交を結ぶことができなかったことになる。それゆえ、『魏志』倭人伝は著作されずこの世に存在するものではなかったことが事実となるゆえ、『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。だから、学者たちが取り挙げるAとかBとか色々と提示する理由や根拠のすべては一気に無効・無意味となる。学者たちの言い分だと、『魏志』倭人伝には「卑弥呼」の3字も「邪馬台国」の4字も書かれていない、まったくの白紙であったことになる。白紙ではいかなる理由も根拠を提示してもまったくムダ、何にもないゼロ・空白の状況となるので完全なる空理空論・デタラメとなる。
 以上のごとく、卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理を非科学的な文献批判もって否定・排除して現在の日本地図を立論基盤とする学者たちの意見は誤読の空理空論であったと明確に証明される。

◆前述したように、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話における淤能碁呂(おのごろ)島説話に記述されている。
 D図に示した「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」は「淤能碁呂島」と名づけられたのである。
 []の字義は「泥(どろ)」、[]の字義は「熊(クマ)」、[]の字義は「碁石の石」すなわち「碁石の石に見立てられた日本列島の両端にある沖ノ島・神津島」、[]は「沖ノ島と神津島を結ぶ同緯度線」をあらわした。ゆえに、[]は「日本列島の地底は泥のようになっている」とあらわすことになり、[]は「熊の冬ごもりの巣の横穴を緯度に見立て、縦穴を経度に見立てる」と意味することになった。つまり、「淤能碁呂島」はD図に示した「地底が淤(どろ)のように柔らかいので、熊の冬ごもりの横穴(緯度)を縦穴(経度)にとって変わることができて、沖の島・神津島を結ぶ緯度線で90度転回する日本列島地理」をあらわした。
 中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝は――702年に中国に渡った日本国の遣唐使は「日辺(にちへん)にあるをもって、日本という名にした」、また「日本国は旧(もと)小国」、「その国の西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし」と説明した――と記述する。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は――日本国の遣唐使は「国日の出ずる所に近いゆえ、日本と改名した」と説明した――と記述する。
S22
(C) 2017 OHKAWA
 
 G図に示す東国は、遣唐使が説明したとおり「日辺にある小国」であり、「日の出ずる所に近い小国」である。だから、G図の東国(東海・関東地区)が「小国・日本」であり、伊耶那美命が女王に選ばれて赴任して、軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命と結婚した小国・日本であったことになる。G図は、現在の方位規定の小国・日本地図である。
S23

 H図はD図に示した淤能碁呂島=転回方位規定の小国・日本地図である。
 G図の現在方位の小国・日本地図だと「西界」は大海ではなく静岡西部の遠江や西隣の愛知県となる。ゆえに、『旧唐書』の「西界は大海である」という記述に矛盾する。
 H図の転回方位の小国・日本地図だと「西界」は「大海の太平洋」、「南界」も「鹿島灘がある大海の太平洋」であるゆえ、『旧唐書』の「西界南界はみな大海にいたる」という記述に合致する。H図の小国・日本の東(現在の北)界には三国山脈や日光の山々や関東山脈があり、北(現在の西)界には富士山と赤石山脈がある。ゆえに、『旧唐書』の「東界北界は大山ありて限りなし」という記述にも合致する。
 だから、702年の遣唐使は卑弥呼王朝が制定した淤能碁呂島=転回日本列島地理にもとづいて小国・日本の方位を説明していたことになる。
 学者たちは、[]の字義は「現在方位の東」に限定されると思い込んでいるが、本来は言いかえると字源における字義においてはD図やH図が示すように[]は「現在の南」となり、「現在の北」は[]にも変位できるものであった。
 C図に示した[]の字源・字義となった「天頂緯度線と重なる銀河部」は地平線・水平線から昇る時には〔東(東北)〕にあり、地平線・水平線に没する時には〔西(西北)〕にあり、地に没すると見えなくなり〔北〕をめぐって地平線・水平線の〔東(東北)〕昇ってくる。このように、すべての銀河部はじめ天体部は円周運動しているので方位・方角は一定ではなく彷徨(さまよ)うことになる。
 だから「彷徨」の[][]の両字の字義は「さまよう」であり、[][]の字源は「方位は一つと止まって定まるものでなく、気候や道理などの別の条件で変位することができると考える定理」をあらわした。だから、D図とE図で解明したように〔中国の海岸線地域の南北と日本列島の東西の端の気候〕を比較して、卑弥呼王朝は〔東〕が〔南〕に為()る転回日本列島地理を制定したのである。
 中国では紀元前1世紀にシナ天文を完成させて北極星を「太一(たいいち)」と名づけ、[][]の字源を廃(はい)して方位は彷徨(さまよ)って変位するものではなく、現在と同じく「東は東、西は西、南は南、北は北」に定まると改定した。
 738(天平10)に聖武(しょうむ)天皇は、わが日本ではシナ天文を取り入れて彷徨う方位規定を廃する国郡図作成の命令を下した。しかし、この命令は旧習によってほとんど普及しなかった。これゆえ、半世紀余りの796(延暦15)の桓武(かんむ)天皇も、国郡図の修正を命令して彷徨う方位規定を廃絶(はいぜつ)することにした。
 結局、『魏志』倭人伝に記述されて『古事記』上巻に「淤能碁呂島」と記された卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理が廃絶されたのは796年以後であった。

2008年、富士山から間近い静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳が発見された。
 この古墳は、G図に示す東日本における最古で最大の前期古墳である。所在地の東熊堂の西隣は「西熊堂」であるが――この「熊堂」という地名の「熊」は「淤能碁呂島」の[]と同義の「クマ」であり、[]の字は高尾山古墳は「墓」ではなく[]の字源が「土壇(どだん/天と山を祭るために造った盛り土)」であったと伝えるものであった。
 墓ではなく盛り土の「堂」であった高尾山古墳は――『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の記事に合致する遺跡である。言いかえると、高尾山古墳は『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚は真実の日本国誕生史を後世に伝えていると科学的に証明できる遺跡であり、現在の学者たちが両書に加える〔文献批判〕の実体は「誤読」であり、学者たちの意見は誤読の空理空論であると証明できる遺跡である。これについては、わがブログ「卑弥呼の逆襲」における〔日本国誕生史の復興〕シリーズの2回~15回までをもって詳細に証明した。
 淤能碁呂島聖婚説話は「230年ころ、伊耶那美命は高尾山古墳にて伊耶那岐命と最初に結婚した時に、小国・日本(東日本)の国作りの柱を〔愛〕にすると唱えた」と伝える。
 でも上記したように、学界は淤能碁呂島聖婚説話の記事を絶対に忠実に読解してはならない、〔文献批判=誤読〕を仰山(ぎょうさん)多数加える意見こそが正しいと定める。それゆえ、〔文献批判〕を1点も加えずに『古事記』の淤能碁呂島聖婚説話を忠実に読んで「日本国は〔愛〕の理想の基に誕生した」と解釈する意見を、学界は名誉にかけて間違っていると否定して受け入れ拒否する。
 けれども『古事記』上巻に日本国が〔愛〕の理想の基に誕生した歴史が記述された点について、各代の天皇はじめ新井白石(16571725)より以前の何人かの先人たち、たとえば織田信長と徳川家康は知っていた。新井白石は今から約290年前に死去した。【日本国は〔愛〕の理想をかかげて誕生した】という出来事は上古における最も重大な歴史であったゆえ、当然、白石より以前の各代の天皇はじめ幾人かの知識人たちは知っていた。
 わが国の〔文献批判〕は新井白石から起源し、現在において古代史学の主流となる。このため、今や学者の誰一人も『魏志』倭人伝と『古事記』上巻を忠実に読む研究がなされなくなり、両書に記述された真実の日本国誕生史は排除され、学者たちは自分たちが〔誤読を操(あやつ)る偽(にせ)学者〕であることにまったく気づいていない。
 
 上記したように、信長と家康は『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)聖婚説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】の復興に一生をささげた。多くの人々が信長と家康を研究していながら、胸奥に秘め燃えさかる炎のごとく熱かった両人の夢が【日本建国の〔愛」の理念】であったことにまったく気づかない。この原因は、研究者たちが学者たちに騙(だま)されて『魏志』倭人伝や『古事記』上巻はじめとする古文献に多数の〔誤読〕を加える〔文献批判〕という立論方法が正しいと思い込んでいるからにほかならない。なお、先日におこなったわがブログ「日本国誕生史の復興」の39回・40回・41回で、信長と家康が一生をささげた夢が【日本建国の〔愛」の理念】の復興であったことを科学的に証明した。
 先人が残した古文献の記事を忠実に読んで理解することはーー歴史学における一丁目の一番地の“イロハのイ”である。
 学者たちの頭脳は〔誤読〕でデッチあげたウソで満杯(まんぱい)となっているので、真っ先に学者たちが絶対視する〔文献批判〕は完全なる〔誤読〕を証明しなければならない。ゆえに、このブログ「真実の日本国誕生史」では、真っ先に白石以後の学者たちの意見は完全なる〔誤読の空理空論」であることを証明する。このため、このブログ「真実の日本国誕生史」では、たぶん10回ころから『古事記』序の記事を忠実に読む方法で真実を明らかにした後に、テーマとする『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の記述された事柄は実際に3世紀におこった出来事であったことを証明する。この証明は、3世紀に生存して名前が『古事記』上巻に記載されて残っている、この先人が作って現存する遺跡
をもっておこなう。 

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