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2017年4月27日 (木)

真実の日本国誕生史・3

 ●漢字習得の定説は、誤読の空論である
 
◆前々回のわがブログ「日本国誕生史の復興・1」では、新井白石以後の学者たちの意見は約2000字で構成される『魏志』倭人伝には文字が1字も書かれていなかったことになるので完全なる絵空事(えそらごと)・〔誤読の空理空論〕であることを科学的に証明した。
 学者たちは北極星がある方角を〔北〕とする現在の日本地図に則(のっと)って『魏志』倭人伝に記述された「15ヵ所の〔方位〕を書く記事には、誤りがある」と主張して〔誤読=文献批判〕を加える。しかし、当時(23世紀)の北極星は天の北極を中心にして直径約20度・1200分の円を描いていたゆえ、学者たちの意見は直(ただ)ちに〔誤読の空理空論〕となる。
 倭の使節が日本列島の九州から朝鮮半島や中国に渡るには、九州沖の「玄界灘」を往来しなければならない。「玄界灘」という名の意味は「1度の60分の11分の緯度差を測定できないと往来することができない、陸地から遠く離れた波の荒い大海」であった。したがって、約1200分で円周する北極星で天の北極の高度を精確に1分の差で緯度を測定することはまったく不可能であった。したがって、魏と倭は国交を結ぶことができなかったので、魏は倭の様子をまったく知ることができなかったゆえ、『魏志』倭人伝には「卑弥呼」の3字も「邪馬台国」の4字も記入されていない――『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。このように、現在と同じ日本地図にもとづいて立論する学者たちの意見はといとも簡単にあっけなく絵空事になる。ゆえに、学者たちのAとかBとか論証するすべての根拠や理由は一気に無効・ナンセンスということになる。
 「玄界灘」の[]は「天頂緯度線と子午線の精確な測定(キャッチ)」をあらわした。ゆえに、「玄界灘」は「北極星による天の北極の高度で緯度を測定する方法で海に入る人々は1分の緯度差を測量できずに死んだが、[(天頂緯度線と子午線)]を測定すれば1分の緯度差が測量できるので往来できる大海」であったことになる。ゆえに、『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事は〔[]のキャッチ〕に則って考えればすべて合理となって完結するので、1ヵ所も〔誤読=文献批判〕を加える必要がない。
 以上のごとく、上記したように学者たちの現在の日本地図に則って『魏志』倭人伝に多数の〔文献批判〕を加える学者たちの意見はいとも容易にあっけなく絵空事・誤読の空論であることが事実となる。
 だから、学者たちがむやみに使う得意技(とくいわざ)の〔文献批判〕の実体は〔誤読〕である。新井白石(16571725)が〔誤読の方法〕を考案した以来、学者たちが仰山(ぎょうさん)な〔誤読〕を加えて、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記述された日本国誕生史の真実を葬(ほうむ)りつづけている。

◆パソコンで「漢字の字音」と入力して調べると「中国では漢字の発音は今音(現代の音)と古音(古代の音)に分類されています。古音はさらに上古音(西周初期~後漢後期の発音)、前期中古音(南北朝後期~隋~唐初期の発音で隋唐音とも呼ばれています)、後期中古音(唐中期~北宗初期の発音)、近古音(北宗中期~清中期の発音で近世音とも呼ばれています)に分類されています」と出力される。
 上記の文で注目すべきは、〔上古音〕と〔前期中古音〕である。
 A図における紀元前1046年から始まる「周」が、上記の〔上古音〕の始まりとなる「西周初期」となる。(というのも周代は、紀元前1050年~同771年までの西周時代と、紀元前770年~同403年までの東周時代に分けられるからである)
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(C) 2017 OHKAWA

 B図に、上記の南北朝後期から始まる〔前期中古音〕の時代を示した。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と断定する。この定説にしたがうと、わが国においていま残っている最古の漢字音はB図に示した南北朝時代(420年~589)における〔前期中古音〕であったことになる。
 しかし、この定説は明確に〔誤読の空論〕であることがわかる。
 というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士は著書『字統』(平凡社)の〔わが国の漢字音〕と題する9頁の後ろから3行目~10頁の3行目までは下記のごとく指摘するからである。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻(おんいん)学がとり入れられ、殊(こと)にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残される字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記したように、現在、中国に残っている最古の漢字音は紀元前11世紀の西周時代初期の上古音である。白川静著『字統』は――いま中国に残る最古の上古音(西周初期の漢字音)よりも古い漢字音が、カールグレンが開発した音韻学によって現在までわが国の国語における漢字音として残っていることが証明された――と指摘する。
 定説の場合、わが国に最初に習得した漢字音は中国の上古音の西周初頭より約1500年後となる5世紀ないし6世紀の南北朝中期~南北朝後期の前期中古音であったことになる。だから、定説は白川静著『字統』の科学的な音韻学の成果に反する。
 A図に示すように、西周時代より前が殷代(いんだい)、さらに前が夏代(かだい)である。

わが国には中国の上古音よりも約1000年も古い紀元前21世紀の夏代初頭に、中国から伝来した夏音(かおん)文字が『魏志』倭人伝と『古事記』に記載されている。白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する漢字音は、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に残って現存する夏音文字の字音(A図上部に示す夏音)であったことになる。
 したがって、定説だとわが国の最古の字音は中国の上古音よりも新しい南北朝後期の前期中古音ということになり、定説は明らかに空論・空想である。
 このように、学者たちが決定した漢字習得の定説もまた、いとも簡単にあっけなく絵空事であると証明される。
 上記したように、(1)現在の日本地図に則って『魏志』倭人伝の15ヵ所の方位記事を考える方法と、(2)夏音文字の伝来・習得を排除して、わが国が最初に漢字を習得したのは56世紀であったとする定説はいとも簡単に〔誤読の空論〕であることが証明される。だから、学者たちがむやみやたらに使う〔文献批判〕の実体は〔誤読〕ということになる。

◆千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館)30頁の〔卑弥呼の発音について〕という注は――卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば「ピミカ」になる――と指摘する。つまり「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は、中国漢字の上古音「ピミカ」より古い夏音であった。学者たちは「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むゆえ、彼らは「わが国が最初に習得した漢字は夏音文字であった」と同意すると共に「5世紀あるいは6世紀に初めて漢字を習得した」という定説を間違っていると否定することになる。このような矛盾は実際に夏音文字が存在したゆえに生じる現象なのである。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は――702年に中国に渡った遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習う」つなわち「壬申の乱の後、夏音文字を復興することにした」と述べた――と記す。この遣唐使が中国に渡った年の10年後の712年に成立した『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつく11音文字の多数の夏音文字が残っている。
 だから、わが国には夏音文字が伝来して習得されていた。
 夏音文字は『魏志』倭人伝にも人名・小国名・官職名に用いられて残っている。
 夏音文字が実際に存在することを示すことができる方法は楷書であった。だから、『古事記』上巻と『魏志』倭人伝では夏音文字で表記されることになったのである。
 だから、わが国は今から約4050年前の中国の夏代初頭=わが国の後期縄文時代初頭に夏音文字は伝来して習得されたことが明白なる事実となる。

 このブログ以前におこなったわがブログ「日本国誕生史の復興」の2124回にて、〔『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命神話の末部に記載される建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が作った1千万坪の大鳥の地上絵〕の秘密を解明した。このちょうど1千万坪の大鳥の地上絵を、わたくしは「卑弥呼の地上絵」と呼ぶことにした。
 C図に、卑弥呼の地上絵を示した。卑弥呼の地上絵は、現在、静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形となって残った。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 わたくしは――卑弥呼の地上絵が、D図に示す卑弥呼の地上絵内と浜松市都田(みやこだ)地区の前原Ⅷ遺跡を加えた8ヵ所の遺跡から出土した10口の「三遠(さんえん)式銅鐸」を用いて作成された――ことを証明した。
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(C) 2017 OHKAWA

 わがブログ「日本国誕生史の復興」の21回で――「三遠式銅鐸」は「終末期銅鐸」と分類され、三遠式銅鐸は260年~290年に製作され使用されたとされる。だから、卑弥呼の地上絵は遠江(とおとうみ/静岡県西部)の豪族の建比良鳥命とその一族が260年~290年までのおよそ30年の年月を費やして完成したことになる。
 山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社)29頁は「『三国志』の成立は、晋(しん)の武帝の太康年間(280289)、陳寿(ちんじゅ)の著作郎(ちょさくろう)時代という以上には限定できない」と指摘する。つまり、陳寿が著作郎(歴史編纂官)であった280年~
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年に正史の『三国志』は成立したことになる。『魏志』倭人伝は『三国志』魏書東夷(とうい)伝の末部の倭人伝であるゆえ、280年~289年に著作されたことになる。ということは、260年~289年に制作された卑弥呼の地上絵と『魏志』倭人伝は同時代(3世紀後半)に作成されたことになる。
 E図に示すように、卑弥呼の地上絵の大鳥の顔の正面は「夏至の日の出の方向」を向いて、A図上部に示した「夏音文字がわが国に存在した」と伝える。
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(C) 2017 OHKAWA

◆「銀河」の別称は「銀漢」である。だから「銀漢から作られた文字」を略して中国文字は「漢字」と名づけられた。これゆえ「天には多数の文字が存在する」ことになったので、この秘密にもとづき「天体・銀河」は「天文」と称されることになった。
 
 ゆえに「天皇」は「天にある銀河各部の形状が字源・字形・字義となる学芸に精通した大王」とあらわすものであったことになる
 夏音文字はじめ甲骨文字・金文・篆文(てんぶん)・楷書(かいしょ)などすべての漢字の字源・字形・字義は下に示す銀河から成立した。
 
 この漢字が作られた銀河を、わたくしは「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
Ginga


  文字作成銀河の各部には名称が存在しない。これゆえ、わたくしは下図のごとく各部の名称を定めた。
Photo
(C) 2017 OHAKAWA

  夏音文字の伝来・習得について、『古事記』序の冒頭は「臣安万侶(しんやすまろ)(もう)す。それ混元(こんげん)すでに凝()りて、気象未だ効(あらわ)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしん)の首(はじめ)を作()す」と難解な文章で伝える。
 前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・2」で解説したように、上記の夏音文字の伝来・習得文を現代語に訳すると「臣下の安万侶は陛下に申しあげます。およそ太古において天頂(てんちょう)にめぐってきた文字作成銀河の部位の形状は混沌(こんとん)として凝固しないありさまでありましたので、前期縄文(今から6000年前~5000年前まで)より以前の天頂緯度線が貫通する銀河部位が示す気の象(かたち)は表現することができませんでした。ゆえに、この時代の天頂にめぐってきた銀河部位には名(名をあらわす文字)も無く、この銀河部位を造化(すなわち芸術)で表現する技(わざ)も存在しませんでした。しかし、前期縄文初頭より以後になりますと[][]に分かれるイメージとなる銀河部位が天頂にめぐってきましたので、(1)前期縄文・(2)中期縄文・(3)後期縄文初頭の天頂にめぐってきた造化の参神(三つの時代の芸術神)を崇拝し、文字作成銀河の各部の形状のイメージにもとづいて土器・土偶を造った前期縄文から後期縄文初頭までのおよそ2000年におよぶ伝統を有した芸術家たちによって、後期縄文の首(はじめ/初頭)に中国から伝来した夏音文字は習得されました」となる。
 わが国の土器・土偶作成における造化(芸術)革命は、前期縄文に関東地方から起きた。中期縄文になると、世界に類をみない豊かな装飾性と高度の芸術性が表現される土器・土偶が山梨県や長野県の地方の高地で造られた。これら土器・土偶は、文字作成銀河の各部のイメージを造形するものであった。夏音文字の字源・字形・字義は文字作成銀河の各部の形状にもとづいて成立するものであったゆえ、夏音文字は夏代初頭・後期縄文時代に芸術家たちによって習得された。
 F図は、〔歳差(さいさ)〕という天文現象にもとづいて再現した(1)前期縄文初頭、(2)中期縄文初頭、(3)後期縄文初頭の北緯36度の天頂緯度線図である。
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(C) 2017 OHKAWA

 前期縄文~後期縄文初頭までにおいては、最も芸術性豊かな土器・土偶は山梨県・長野県の高地や新潟県信濃川流域で造られた。この地域における中央部の緯度は北緯36度である。ゆえに、F図は北緯36度の天頂緯度線であらわした。
 F図の(1)(2)(3)の天頂緯度線は、時代が新しくなるごとに南へ南へと下った。したがって、(1)の天頂緯度線より北側は前期縄文初頭より以前の早期縄文、草創期縄文の天頂緯度線が貫通したことになる。ゆえに、(1)の天頂緯度線より北側のわたくしが「最北の輪の銀河」という名をつけた、その〔混沌として凝固せず、気の象が未だあらわれない、何に類似するのかイメージが湧()かないゆえ土器や土偶でその形状が表現されなかった銀河の形状〕を、『古事記』序は「それ混元既に凝りて、気象未だ効(あらわ)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰か其の形を知らむ」」と表現した。また、(1)の天頂緯度線が貫通する、「三つ輪の銀河」を「天」、人の姿に酷似する「十字の銀河」は人が住む[]に見立てて、『古事記』序は「しかれども乾坤(天地)初めて分かれて」と表現したことになる。
 『古事記』上巻の〔創世の神々〕において、序の「参神造化」は「(1)天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)(2)高御産巣日神(たかみむすひのかみ)(3)神産巣日神(かむむすひのかみ)であった」と書く。
 だからF図に示す(1)前期縄文初頭~中期縄文時代初頭の天頂緯度線は天之御中主神、(2)中期縄文初頭から後期縄文初頭の天頂緯度線は高御産巣日神、(3)夏代初頭=後期縄文初頭の天頂緯度線は神産巣日神をあらわした。
 (1)(2)(3)の天頂緯度線は、「三つ輪の銀河」を貫通する。
 (1)の前期縄文初頭の天頂緯度線は「三つ輪の銀河のほぼ中央」を貫通したので、名に「御中」の2字が配されて「天之御中主神」と称されることになった。
 (2)の天頂緯度線は「三つ輪の銀河」は「鳥が卵を産む巣を上から見た形」や「円形の日輪」に観え、(3)の天頂緯度線よりも緯度が高いので、その名は「高御産巣日神」となった。
 (3)の天頂緯度線も「鳥が卵を産む巣」や「日輪の形」に観える「三つ輪の銀河」を貫通するので、その名は「神産巣日神」となったのである。

◆このように、太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』序の冒頭で「夏音文字は今から約4050年前の中国の夏代初頭・わが国の後期縄文時代の初頭において中国から伝来し、文字作成銀河から土器・土偶を造った縄文の芸術家たちによって習得された」と伝えている。
 『古事記』序の末部で安万侶は「夏音文字と楷書を正しく変換できる辞理(じり)すなわち文字()と言葉()の原理があった」と語る。つまり「夏音文字の字源・字形・字義と楷書の字源・字形の原形・原義の辞理は文字作成銀河であった」と語っていることになる。
 だから、「辞理」の直後の記事は「楷書の日下 (にちげ)は夏音文字の玖沙訶(くさか)と同義、楷書の帯(たい)は夏音文字の多羅斯(たらし)と同義である」と解説する。
 このブログ「真実の日本国誕生史・3」の初頭のA図に示したように、漢字は今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官の倉頡(そうきつ)が漢字作成原理「鳥獣(ちょうじゅう)の足跡」(『易経』は「鳥獣の文」と記す)を発明して起源した。夏音文字も夏音文字を表記した楷書もまた、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」に則(のっと)って作られた。だから、夏音文字と楷書の字源・字形・字義は文字作成銀河の各部の形状となった。

 秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の、G図に示す万座遺跡と野中堂遺跡は夏代初頭に相当し、その両遺跡の各部には現在も夏音文字の学芸の痕跡(こんせき)が表示されて残っている。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 その証拠に、H図に示すように万座遺跡と野中堂遺跡の中心部を結ぶと夏至の日没方向を指さして、両遺跡は夏音文字の学芸遺跡であることを示す。
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 このブログ初頭において証明したように、わが国には現在中国に残っている最古の漢字音の上古音よりおよそ1000年も古い夏代初頭に習得された夏音文字の字音が『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載されて残った。しかし、学者たちは〔誤読〕を多用して中国の上古音よりも約1500年も新しい56世紀の前期中古音が現在わが国に残っている最古の漢字音であると断定する。このような不合理きわまりない空論・暴論のために、【日本建国の〔愛〕の理念】の歴史と漢字は文字作成銀河の各部の形状から作られた重大な事実がまったく解明することができないことになった。
 以上のごとく、このブログの初頭で証明したように「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は誤読の空論・ナンセンスであったのである。

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