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2017年5月17日 (水)

真実の日本国誕生史・5

 ●『老子』の秘密と老子の孔子への怒り

◆わが前回のブログ「真実の日本国誕生史・4」で解説したように、今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)は、みずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、反体制側の人々が下に示す銀河の範囲の形状から漢字を作った学芸を習得して革命に利用したならば、王朝は容易に崩壊(ほうかい)するにちがいないと心配した。
 漢字が作られた銀河の範囲を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。
Ginga


 文字の学芸による王朝の崩壊を心配した倉頡は、下に記す〔3つの掟〕を破った者には天罰が下されて直(ただ)ちに死刑に処せられると定めた。
■倉頡が定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた事実を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字作成銀河の各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者また消し忘れた者
 上記した(1)の掟によって、今日、「漢字は文字作成銀河から作られた事実」が知られないことになった。
 上記した(2)の掟のために、現在、文字作成銀河の各部には名称が存在しない。
 (3)の掟によって、五帝時代の漢字、わが国に夏代(かだい)初頭に伝来した夏音(かおん)文字、殷代(いんだい)前半期の漢字を記した資料は、今日において学者たちが「文字である」と認めたものは1点も発見されていない。
 しかし、今から約3300年前の殷代後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む甲骨(こうこつ)文字によって、倉頡が定めた(3)の掟が破られた。だが、倉頡が定めた(1)(2)の掟は厳重に守られた。だから、中国でもわが国でも歴代王朝が最も厳重に〔文字作成銀河から作られた漢字の秘密〕を守ったために、現在の学者たちは〔銀河から漢字が作られた事実〕にまったく気づかない。

◆老子(ろうし)が説いた道教(どうきょう)と孔子(こうし)が説いた儒教(じゅきょう)は中国の二大思想とされる。
 老子は、孔子(紀元前552―同479)とほぼ同時代の人と伝えられる。孔子は老子に教えを受け、老子は孔子より年上であったといわれる。
 現在は疑う学者たちもいるが、中国の五経の第一に挙げられる『易経』を孔子が作ったということは漢や唐の時代には疑う者はいなかった――というのも、次のような事情があったからである。
 孔子の教えと孔子と弟子たちの対話を弟子たちが書き残した『論語(ろんご)』には「子曰く(しいわく)、我に数年を加()し、五十にして以(もっ)て易を学べば、以て大過(たいか)なかるべし」という記述がある。
 上記の文に登場する「易」とは「文字作成銀河各部の形状から作られた漢字の学芸」を意味した。というのも、文字作成銀河各部の形状から作られた漢字の学芸を研究すると直ちに死刑と定められていたゆえ、孔子は「死が近くなる五十歳以後ならば、文字の学問を研究して死刑になったとしても大なる過ちではない」と弟子たちに説いたからである。この孔子の言は「老子のごとく五十歳以前から、銀河から文字が作られた学芸を研究するのは命を粗末(そまつ)にする無茶な愚かな行為である」と批判することになった。
 『老子』は37の章からなる〔上篇(道経)〕と44章からなる〔下篇(徳経)〕に分かれる。
 37の章からなる『老子』の上篇(道経)は――(1)老子が直ちに死刑となる大罪を犯して「漢字は文字作成銀河から作られた」と伝えるものであり、また(2)「五十にして以て易を学べば、以て大過なかるべし」と老子を批判した孔子への反論――とで構成されている。
 孔子は『易経』繋辞(けいじ)下伝に「上古は結縄(けつじょう)して、後世の聖人これに易()うるに書契(しょけい)をもってする」と記述した。ゆえに、この文は「三皇時代には結縄をもって天下を治め、五帝時代は聖人・倉頡が結縄に代えて発明した書契をもって天下を治めた」とあらわしていることになる。ところが「三皇時代初頭の包犧(ほうぎ)氏時代に出現した結縄」は「文字」ではなく「占いに使用するときの記号」であった。
 上記した「結縄」と「聖人・倉頡が考案した書契」について説明した文の少し前で、孔子は「古者(いにしえ)包犧氏の天下に王たるや、仰いでは天象を観()、俯()しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観て、近くはこれを身にとり、遠くはこれを物に取り、ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明(しんめい)の徳に通じ、もって万物の情に類(るい)して結縄を作()した」と書いている。
 この文が示すように、孔子は「三皇時代初頭の包犧氏が天象(文字作成銀河)と地法を観、漢字作成原理の鳥獣の文と地宜(平面的に図化した地図の形)を観て、結縄を作成した」というトンチンカンな記述をおこなった。文中にある「鳥獣の文」は前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・4」で詳細に証明したように、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」を意味した。占いに用いる記号であった結縄を考案したものの包犧氏は「万物の情(イメージ)に類する文字」を考案することができなかった。
 だから、上記した孔子の漢字起源記事は誤っており「五帝時代初頭の黄帝につかえた史官であった倉頡は、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観て、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取り、ここにおいて始めて八卦を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して書契を作った」と改めれば事実を伝える正しい文となる。

◆孔子は「包犧氏が漢字作成原理〔鳥獣の文〕を発明しての万物の情に類する結縄を作った」と誤った漢字起源説を主張した。この孔子の誤りを、老子は立腹(りっぷく)して反論した。
 『老子』第20章で、老子は下記のごとく孔子への怒りをあらわしている。
 「学を絶てば憂(うれ)い無し。唯()と阿()と、相()い去ること幾何(いくばく)ぞ。善と悪と、相い去ること何若(いかん)。人の畏(おそ)るる所は、畏れざるべからず。荒(こう)としてそれ未(いま)だ央()きざるかな。衆人(しゅうじん)は煕煕(きき)として、太牢(たいろう)を享()くるがごとく、春、台に登るがごとし。我れ独(ひと)り泊(はく)としてそれ未だ兆(きざ)さず。嬰児(えいじ)の未だ孩(わら)わざるがごとし。纍纍(るいるい)として帰する所無きがごとし。衆人は皆(みな)余り有りて我れ独り遺(とぼ)しきがごとし。我れは愚人(ぐじん)の心なるかな。沌沌(とんとん)たり。俗人(ぞくじん)は昭昭(しょうしょう)たるも、我れ独り昏昏(こんこん)たり。俗人は察察(さつさつ)たるも、我れ独り悶悶(もんもん)たり。澹(たん)としてそれ海のごとく、飂(りゅう)として止(とど)まる無きがごとし。衆人は皆以(もち)うる有りて、我れ独り頑(がん)にして鄙()に似る。我れ独り人に異(こと)なりて食母(しょくぼ)を貴(たっと)ぶ。」
 上に示した『老子』第20章を現代語に訳すると下記のごとくになる。
 「銀河から文字が生まれた学術の研究をやめてしまえば役人に捕らわれて死刑になる心配は無い。孔子の教えを聞いた者がハイと答えることとアアと生返事して疑ることには、どれほどの違いがあるというのだ、それはどっちもどっちで孔子の教えは大した真理を述べているものではない。孔子の教えにおける善と悪にはどのような違いが存在すると言うのだ。孔子は漢字の学を五十歳以前に研究するべきではないと主張するが、たとえ死刑を畏れても漢字研究は五十歳以前から長年かけて着手しなければならない真理を追求する学である。孔子が五十から始めても十分に間に合うとする漢字研究は荒涼として際限(さいげん)が無く続き、いくら歳(とし)を重ねても完成しない。世の人々は浮き浮きとして、まるで大盤(おおばん)ふるまいを受ける招待客や春の日に高台(たかだい)に登った物見客(ものみきゃく)のごとく日々楽しむ。しかし、我だけはひっそりとして楽しむ兆(きざ)しもなく日々を過ごし、生まれてこのかた未だ笑ったことがない赤ン坊のごとく生きている。まるで元気なく疲れてしょんぼりと暮らす宿無しの野良犬のごとくに生きている。人々の財には余裕(よゆう)があって裕福なのに、我だけは貧乏のどん底にいる。我の心は愚か者の心と同じで、のろまで間抜(まぬ)けだ。世間の人々は迷わずさばさばと生きているのに、我だけは昏迷(こんめい)してうすぼんやりと生きる。世間の人々は日々明快に割り切って生きるが、我だけは日々悶々として生きる。我の人生は暗澹(あんたん)として、荒漠(こうばく)とした海のごとくはてしなく見当がつかず、ヒューッと吹きすぎる風のように止まるところが無い。人々は皆上手(じょうず)に生きる能力を有しているが、我だけは生き方が下手(へた)な頑固(がんこ)な田舎者(いなかもの)に似て夜になるとあたりが真っ暗になって銀河の各部の形状が明白となる世の片隅に隠れて暮らす。我だけは世の人々と異なって、〔銀河の各部の形状から作られたすべての文字を乳で養って育てる乳母(うば/食母)〕すなわち漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕の学を貴(たっと)んでいる。」
 上記した〔倉頡が定めた3つの掟〕の(2)の掟によって上に掲げた文字作成銀河の各部には名称が無い。文字作成銀河の各部には名称が無いと字源を解説するのにとても不便であるゆえ、わたくしは各部の名称を下記のごとく定めた。
Photo
(C) 2017 OHKAWA 

 前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・4」で解明したごとく、A図に示すように、文字作成銀河の各部の名称図の右上にある――わたくしが「十字の銀河」とその隣にある「鬼の姿に似る銀河」と名づけた銀河から[]の字が作られた。
S81
(C) 2017 OHKAWA

 A図に示した[(べん)]の字源の「十字の銀河」は〔文字作成銀河各部の形状から作られたすべての字が生まれる母体〕をあらわした。また〔すべての文字が生まれる子宮(生殖器)〕と定めた「十字の銀河の子宮」も[]の字源であった。
 “字書の聖典”と尊重された2世紀初頭に成立した『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を、B図のごとく解して「乳するなり(母が生まれた子に乳を与えて育てる)」と解説した。
S82
(C) 2017 OHKAWA
 
 B図に示すがごとく、「十字の銀河の子宮」と重なる銀河部は〔乳房〕に観えるゆえ、『老子』第20章の末部は「十字の銀河」を「食母」つまり「乳母」と表現したのである。

2000字で構成される『魏志』倭人伝に多数の〔誤読〕を加える思考方法は、1725年に没した新井白石(あらいはくせき)から始まった。この方法を受け継ぐ現在の学者たちは『魏志』倭人伝に〔誤読を加える方法〕を「文献批判」と名づけ、この立論方法を最も正しい方法であると主張する。ゆえに、『魏志』倭人伝のすべての文字を忠実に理解する方法は愚かな誤った考え方であると蔑視(べっし)して排除する。
 このため、白石以来現在までおよそ300年もの長い間、学者たちは〔誤読の空理空論〕にとりつかれることになった。
 わがブログ「真実の日本国誕生史・1」で詳細に証明したように、学者たちは北極星がある方角を〔北〕と定める現在の日本地図にもとづいて立論する。そして、C図に示す北極星で天の北極の高度をキャッチする方法で緯度を測定して、魏の使節や魏の出張機関の政庁が所在した朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)の使節、そして倭の使節もまた玄界灘(げんかいなだ)を渡ることができたと空想する。
S83
(C) 2017 OHKAWA
 
 学者たちが主張する天の北極や北極星で地理の〔北〕と定める方法では絶対に玄界灘を渡ることができない。したがって、倭と国交を結ぶことができなかった魏は倭の様子をまったく知らなかったゆえ、『魏志』倭人伝には「卑弥呼」の3字も「邪馬台国」の4字も書かれていなかったことになる。したがって学者たちの説だと『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていない白紙であったゆえ、学者たちがこれこれしかじか何々と色々と挙げる根拠や理由はすべてウソと化して一気にコッケイきわまりない空論・ナンセンスとなる。
 
 「玄界灘」は、その名が明確に示しているように「天の北極の高度で緯度に換算する方法で海に入ると緯度が精確にキャッチできず命を失って死ぬが、1度の60分の11分の緯度差が測定できる[]をキャッチする方法ならば往来できる陸地から遠く離れて波の荒い海」と伝える大海であった。
 D図に、玄界灘を往来できた[](天頂緯度線と子午線)をキャッチする方法を示した。
S84
(C) 2017 OHKAWA
 
 A図とB図に示す「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」は〔東〕の地平線から昇り、子午線通過するときは最も〔南〕に位置し、〔西〕の地平線に没して、地中では〔北〕に位置するときもある。ゆえに、銀河から作られた漢字の学問では、〔北極星〕で方位規定を一つにする定理は成立しなかった。卑弥呼王朝の政権基盤となった銀河から作られた漢字の学問では、天(銀河)の運行にもとづいて「方位規定は彷(さまよ)う」という定理が確立されていた。行人偏(ぎょうにんべん))[]が加わって[]の字が作られ、[]の字は「方位規定は単独一つではなく、銀河の運行にもとづいてさまよう」と意味することになった。
 『魏志』倭人伝には〔方位〕を書く記事が全部で15ヵ所ある。この全15ヵ所の方位記事に〔文献批判=誤読〕を1点も加えないと、E図に示すように〔東〕に伸びる日本列島は〔南〕に伸びていることになる。
S85
(C) 2017 OHKAWA
 
 E図に示すように、玄界灘に浮かぶ沖ノ島は日本列島の西端にある。日本列島の東端には伊豆諸島の神津島(こうづしま)がある。卑弥呼王朝はじめ倭の人々は[]をキャッチして1分の緯度差を測量できた。だから、日本列島の西端と東端にはるかに遠く隔てて所在する沖ノ島と神津島は同緯度(北緯3415)であることが測量できていたことになる。
 F図に示すように、玄界灘に浮かぶ沖ノ島の気候は冬に雪が降る冷たいゆえ〔西冷〕となり、伊豆諸島の亜熱帯の神津島の気候は冬に雪が降らず暖かいゆえ〔東暖〕となる。中国の海岸線地帯において、その北部の気候は冷たいゆえ〔北冷〕、南の海岸線地帯の気候は暖かいゆえ〔南暖〕となる。
S91
(C) 2017 OHKAWA
 
 日本列島と中国海岸線地帯では〔西冷=北冷〕というぐあいに冷たい気候区で合致したゆえ、日本列島の西端の沖ノ島は中国海岸線地帯の〔北〕に位置すると考えられることになった。そして〔東暖=南暖〕からして暖かい気候で合致する日本列島東端の神津島は中国海岸線地帯の〔南〕の方に所在すると考えられることになった。だから、F図に示すように卑弥呼王朝は気候にもとづいて「日本列島の東端は、中国海岸線地帯の南の方に伸びる」という錯覚の転回日本列島地理を制定したのである。

◆卑弥呼王朝は銀河から漢字が作られた夏音文字の学芸を政権基盤とした。
 夏音文字の学芸は、D図に示した[]のキャッチを基軸にして組織されていた――この事実を『老子』第1章が語っている。
 『老子』第1章は、下記のごとくである。
 「道の道とすべきは常の道に非(あら)ず。名()の名とすべきは常の名に非ず。天地の始めには名は無し。万物の母にて名有り。ゆえに無欲にしてもってその妙(みょう)を観()、常に有欲(ゆうよく)にしてもってその徼(きょう)を観る。この両者は同じく出でて名を異(こと)にし、同じく之(これ)を玄と謂()う。玄のまた玄、衆妙の門。」
 「人々が常識とする道は人や車などが行き来する道路であるが、この道路はほんとうの道では非ず、古代の人々が道とした天頂にめぐってきた銀河がほんとうの道である。常識とする様々な物につく名はほんとうの名では非ず、ほんとうの名は物の名をあらわす文字となった銀河の形である。天と地が始まった原始には名は無かったが、聖人(倉頡)が万物の名をあらわすことができるように銀河各部の形状から文字を作る原理を発明したときにすべての文字を生む母(A図の十字の銀河)を定めた。この万物の母が確立されて以後、文字で名をあらわすことができるようになって万物に名が存在することになった。ゆえに産道を通過するときの胎児のごとく無欲になって天頂緯度線をキャッチすれば、[]すなわち不思議なことに精確に緯度が測定できるが、必ず天頂緯度線をキャッチすると欲を有すると[]すなわち道に迷って死んで雨や河川の岸辺の水に晒(さら)される白骨死体となった。[][]の両者の字源銀河は同じであるが、名(字義)は異なる。[][]に分かれる、つまり生と死に分かれる天頂緯度線をキャッチできる、この日々鍛錬して眼力の感覚を研ぎ澄ますと得られる生きる術(すべ)[]という。西にある[]の字源となる銀河が子午線通過すると間もなく東にある[]の字源銀河もまた子午線を通過するが、この二つの[]の字源銀河は[]をキャッチできた人々に命を与える不思議な装置の[]をあらわす字源銀河となった。」

◆前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・4」で解説したように、〔歳差(さいさ)〕という天文現象にもとづくと、G図に示すように、今から約5000年前の倉頡が生存した五帝時代初頭の中国の天頂にB図に示した「乳するなり」の字源解説図における「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」がめぐってきた様子が再現できる。
S92
(C) 2017 OHKAWA
 
 H図は、『老子』第1章冒頭に登場する、ほんとうの[]の字源銀河となった「オス鹿の横顔に似る銀河」である。
S93
(C) 2017 OHKAWA
 
 []の字源「オス鹿の横顔に似る銀河」の主要部は「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河(この一部が鬼の横顔に似る銀河)」とそして「長方形の暗黒天体部」から成る。老子と孔子が生存した紀元前6世紀~同5世紀、G図における北緯3536分の黄帝陵の天頂緯度線は南下して「十字の銀河の子宮」のあたりを貫通し、北緯31度の太湖南岸の天頂緯度線は「長方形の暗黒天体部」を貫通していた。
 I図は、前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・4」でも解説した[]の字源解説図である。
S94
(C) 2017 OHKAWA
 
 I図に示すように、「長方形の暗黒天体部」は女性生殖器の「膣口(ちつこう)」と「膣(ちつ/産道)に見立てられた。[]の上部[(しゅう)](三合(さんごう)の下にある[]は「子宮口と膣口の中間の産道」をあらわし、[(せつ)]は「産道を通過する胎児」をあらわした。
 「長方形の暗黒天体部」に隣接する「激流の銀河」は〔神に祈るときに手や口を清めるための、沙上(さじょう/砂地の上)を流れる川の水〕に見立てられ、〔膣口〕に見立てられた方形の「長方形の暗黒天体部北部」は〔手と口を清める場所つまり「御手洗(みたらし)」〕にも見立てられた。〔沙上を流れる川の水〕の[]の右側の[]は「砂」を図案するものであったゆえ、[]の字義は「砂」となった。ゆえに、〔膣口〕の女性生殖器から偏の[]が成立し、〔沙上を流れる川の水〕の[][]が加わって[]の字が作られた。
 また「激流の銀河」は〔大雨が降って水が激しく流れる洪水〕や〔雨が降った後の川の水〕や〔御手洗となる場所の沙上を流れる水〕に見立てられた。[]の行人偏は「旅行く人」をあらわし、[]は「雨に打たれ、あるいは河川の岸辺の水に洗われる白骨死体」をあらわした。ゆえに、[][]の字源は共に「激流の銀河・長方形の暗黒天体部北部」であった。これゆえ、『老子』第1章は「妙と徼は同じく出でて名を異にする」と表現した。
 J図は、[]における[]の字源「産道を通過する胎児」をあらわす。
S95
(C) 2017 OHKAWA
 
 産道を通過する胎児は、死産する子と命を手に入れて誕生する子に分かれる。だから、〔膣口〕と〔産道〕に見立てられた「長方形の暗黒天体部」は〔胎児が生と死に別れる場所と状況〕をあらわすことになった。
 K図は、[][]の生と死に分かれる天頂緯度線をキャッチする術となった[]の字源解説図である。[]の上部の[(とう)]は「天頂緯度線・子午線」の図案であり、下部の[(よう)]は「無事に産道を通過して誕生した新生児」の図案である。ゆえに、『説文解字』は[]の字源を「小なり。子の初生(しょせい/膣口から頭が出る、無事に誕生したときの子)の形に象(かたど)る」と解説する。
S96
(C) 2017 OHKAWA
 

 だから、上記した『老子』第1章にある「無欲」という語には「[]をキャッチするときには、産道を通過する胎児のごとく無欲になれ」という心得が秘められていることになる。
 また、『老子』第1章は「玄のまた玄」と表現するように、[]の字源銀河部は2ヵ所存在する。
 L図に示すがごとく、前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・4」で解説した[][]の字源銀河は2ヵ所存在する。[(けい)][]が加わって[][][]が加わって[]となる。
S101
(C) 2017 OHKAWA
 
 M図に示すがごとく、L図に示した2ヵ所の字源銀河の形を[]の字形のごとくデザインできる、この2カ所が衆人すなわち人々が[]をキャッチする「門」の字源となった。
S102
(C) 2017 OHKAWA
 
 だから、N図に示す「門」は、M図に示す[]の字形に合致する。白川静著『字統』は[]の字形について「卜文(M図の契文)・金文の字形は、両戸の上に一横木をわたした形のものが多い」と指摘する。
 M図の右下が「両戸(両扉)の上に一横木をわたした形」となる[]の契文(卜文)の字形である。
S103


  M図の右上の[(けい)]の初文(最初の文字)[]である。『説文解字』は[]の字源を「邑外(ゆうがい)これを郊と謂()ふ。郊外これを野と謂ふ。野外これを林と謂ふ。林外これを冂と謂ふ。遠界に象(かたど)るなり」と解説する。つまり『説文解字』は――[]の字源「長方形の暗黒天体部」の外にある「十字の銀河」は「郊外」をあらわすとともに「野」と「林」の字源となり、「林」の字源「十字の銀河」の外にある林外=「長方形の暗黒天体部」は「冂」の字源となった。そして「遠界に象るなり」とは「[]は、遠くの地に旅する人が家族が待っている邑(村里)に帰還するために、村を出入りする場所に設けた天頂緯度を測定する[]を象っている」と意味した。
 以上のごとく、「玄のまた玄、衆妙の門」という文で終わる『老子』第1章は「文字作成銀河から作られた漢字の学問体系は[]を基軸にして組織された」と証言する。
 
だから、白石以後に学者たちのごとく天の北極や北極星で〔北〕を定める日本地図にもとづいて約300年もの長い間考えつづける意見は絵空事(えそらごと)・幻想・空理空論であったことになる。

◆『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名に用いられた夏音文字の学問体系の基軸は、D図の右上に示した[]であったのである。
 卑弥呼王朝は銀河の外にある天の北極・北極星からは文字が作られなかったゆえまったく関心がなく、[]を基軸にして組織される夏音文字の学芸を政権基盤とした。これが原因で、E図に示すように錯覚の転回日本列島地理を制定することになったのである。
 前述したように、新井白石以降から現在までの学者たちは卑弥呼王朝が無視した北極星がある方角を[]と定める現在の日本地図で立論するため、15ヵ所の方位記事に何ヵ所かの〔誤読〕を加える。この方法だと魏と帯方郡と倭の使節は玄界灘を渡れなかったことになるため、『魏志』倭人伝は文字が1字も書かれていなかった白紙であったことになる。『魏志』倭人伝が白紙に化けてしまうというふざけた話を学者たちは信じろとわれわれに押しつけるが、いくら人が良くてもハイとかアアとか生真面目(きまじめ)に返事して信じるわけにはいかない。
 『老子』第1章によっても、白石以後から現在までのおよそ300年の学者たちの伝統的意見はコッケイきわまりない〔誤読の空理空論〕であることがハッキリと証明される。

 なお、わがブログ「真実の日本国誕生史」シリーズでは今回以後から――『易経』繋辞下伝にて孔子が誤って伝えた漢字起源記事を「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して文字を作った」と改めた文――この文を、「漢字起源記事」と定めて使用することにする。 

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