真実の日本国誕生史・6
●卑弥呼王朝はなぜ創設されたか(1)
◆文字学者の許慎(きょしん)が大著『説文解字(せつもんかいじ)』を帝に上呈(じょうてい)したのは後漢の建光(けんこう)元年(121年)であった。
秦(しん)の始皇帝時代に出現した隷書(れいしょ)は、約300年後の後漢時代には身近な文字と親しまれていた。このため隷書の字形にもとづいて勝手な憶説(おくせつ)が飛び交い、古典に書かれた文が誤読・誤訳され、深奥(しんおう)な真理や真実が理解できない状況となっていた。
前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・5」であつかった紀元前6、5世紀に生存した老子の教えを伝える『老子』は――文字の学芸を反体制側の人々が習得して革命に利用すると容易に王朝が崩壊すると心配して、王朝が「漢字は銀河各部の形状から作られた事実を絶対に暴露(ばくろ)してはならない」と厳重に禁じて即刻に死刑と定めた大罪を犯(おか)して老子が研究した学問を伝える書物であった。この老子が「漢字は銀河から作られた」と伝える学問は、『老子』第1章や第20章などに記述されている。
上記したように当時は誤った字源説が蔓延(まんえん)していたため、五経(ごきょう)などの古典や『老子』の文は誤訳され、王朝が下に示す〔文字作成銀河〕のもとづいておこなう天下の理が否定されることが多々あった。ゆえに、これを憂えて許慎は老子同様に大罪をおかして「漢字は銀河各部の形状から作られた」と伝える『説文解字』を著作した。王朝にあっても文字作成銀河にもとづく天下の理も否定されるほどに深刻な状況であったので、時の安帝(あんてい)は暗愚(あんぐ)であったが後漢王朝をささえる世を憂(うれ)うる高官たちに擁護(ようご)されて『説文解字』は焚書(ふんしょ/書物を焼きすてること)されずに上呈が承認されることになった。
『説文解字』は序で「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂(た)れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識(し)るなり」と記述する。
つまり、『説文解字』の序は「文字作成銀河から作られた漢字は学問と芸術の根本であり、王道政治において“い”の一番・真っ先に必要であり、過去におきた歴史を正しく知ることができる方法である」と述べている。
◆280~289年に著作された『魏志』倭人伝は「倭国における占(うらな)い用いる辞(文字と語)は令亀(れいき)つまり殷代(いんだい)の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字の法のごとくであった」と伝える。
前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・5」まで詳細に証明したように、今から約4050年前の中国の夏代(かだい)初頭に原初漢字の夏音(かおん)文字がわが国に伝来して習得されていた。したがって、今から約3300年前の殷代後半に出現した甲骨文字より約750年前、わが国では夏音文字を習得していたことになる。夏音文字は、漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明した今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した倉頡(そうきつ)が「書いた文字が用済みになったならば、直(ただ)ちに文字を消さない者または消し忘れた者には天罰が下されて即刻に死刑にする」と定めた掟(おきて)を厳重にまもった。これゆえ、中国でもわが国においても学者たちが「夏音文字である」と認めた資料は今までに1点も出土し発見されていない。
『魏志』倭人伝には「魏の都・(魏の出張政庁がある朝鮮半島の)帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が文書に用いる楷書と、卑弥呼が文書に用いる文字は差錯(ささく/相違)していたので、倭の小国・伊都(いと)国の港では点検し、確認をして、間違いが生じないようにしていた」という記事がある。
卑弥呼が文書に書く文字は、夏音文字であった。魏都・帯方郡・諸韓国の文書に書く楷書の字源・文字の原形・原義は文字作成銀河の各部の形状であった。だから、『魏志』倭人伝は「文字作成銀河が夏音文字と楷書を正しく変換できる辞書となった。ゆえに、伊都国の港では夏音文字と楷書を正しく変換することができた」と伝えていたのである。
◆『魏志』倭人伝は「倭国では、もと男子が王であった。七、八十年前(西暦180年ころ)に倭国は乱れ、何年ものあいだ小国たちは互いに攻めて争っていた。そこで、男子を王とした小国群グループと女子を王とした小国群グループは相談して、一人の女子を大王と定めて男王グループと女王グループが共に立つ国家が創設された。この倭女王の名は卑弥呼ということになった。卑弥呼は鬼道(きどう)を事(まつ)って民衆の心を一つにまとめて天下を治めた。」と、卑弥呼王朝が創設された事情を記述する。
司馬遷著『史記』五帝本紀は「黄帝は鬼神(きじん)をまつった」、また夏本紀でも「夏王朝の始祖・禹(う)帝は衣食をうすくして(倹約して)鬼神への供物(くもつ)を豊富にしてまつった」と伝える。卑弥呼は夏音文字の学問に精通したゆえ、五帝時代と夏代の帝たちがまつっていた鬼神の道つまり鬼道をまつっていた。『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「卑弥呼は鬼神の道を事(まつ)る」と書くゆえ、「鬼神の道」=「鬼道」ということになる。
わがブログ「真実の日本国誕生史」の1回で詳細にまた前回の5回で簡単に解説したように、『魏志』倭人伝における「方位」を書く全15ヵ所の記事はA図に示す卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理が実在したことを証言するものであった。
(C) 2017 OHKAWA
前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・5」で証明したように、A図は『老子』第20章の「学絶てば憂い無し」の「学」つまり「文字作成銀河から作られた漢字の学芸」の産物であった。したがって、『魏志』倭人伝は「卑弥呼が立論した〔転回日本列島地理〕は銀河から作られた漢字学の産物であり、この学理によって長い間小国の国々が争っていた倭国の乱は平定されて、卑弥呼王朝が創設された」と伝えていることになる。
◆中国の五経(ごきょう)の第一に挙げられる孔子が著作した古典『易経(えききょう)』の繋辞(けいじ)上伝には「易は天地と準(なぞら)う。ゆえに能(よ)く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観(み)、俯(ふ)してもって地理を察す」という記事がある。
『説文解字』は[易]の字源を「蜥易(せきえき)なり」すなわち「トカゲなり」と解説する。
内田亨(とおる)著作代表『原色現代科学大事典 5―動物Ⅱ』(学習研究社発行)は、トカゲの習性について「かならずもとのすみかにもどるという帰家性がある」と指摘する。ゆえに、[易]の字は「遠くの地に旅する人や大海を渡る人が必ず故郷の家に帰ることができる術」を意味するものであった。
B図右上に示す〔[玄]をキャッチする眼力と技(わざ)〕を鍛えれば、1度の60分の1の1分の緯度差も測定できた。
(C) 2017 OHKAWA
A図左側に記す沖ノ島が浮かぶ「玄界灘」の[玄]はB図の[玄]を示すものであり、[玄]をキャッチできれば日本列島の西端の沖ノ島と東端にある神津島が同緯度(北緯34度15分)であることが測量できた。
前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・5」でも解説した『老子』第1章末部の「玄のまた玄、衆妙(しゅうみょう)の門」という文も、B図に示す[玄](天頂緯度線と子午線)がキャッチできれば遠くの地に旅する人も大海を渡る人も家族が待つ家に帰ることができたと伝えるものであった。
したがって、上記した『易経』繋辞上伝の「易は天地と準う」という文はB図左上の[玄]をキャッチする術、つまり「天頂緯度と観測地点の緯度は同じとする定理」をあらわした。だから、上記したよう『易経』繋辞上伝は「仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」と記述したのである。2世紀から3世紀の倭人たちは[玄]をキャッチすることができたので、A図右側に示したように卑弥呼王朝は倭の34小国の範囲を示す地図を作製して厳重な機密とした。
漢字を発明した倉頡は反体制側の人々が文字作成銀河から作られた漢字の学問を習得して革命に利用すれば王朝は容易に滅亡すると心配して、文字作成銀河各部に名称を付けると直ちに死刑にすると定めた。文字作成銀河各部に名称が無いと字源となった銀河部を解説するのに不便であるゆえ、わたくしは下記のごとく各部の名称を定めた。
(C) 2017 OHKAWA
上の文字作成銀河の左上には、「オス鹿の横顔に似る銀河」がある。倉頡が生存した五帝時代から現在まで、中国とわが国の天頂にめぐってきた銀河部位は時代とともに南下したが、現在においても「オス鹿の横顔に似る銀河の南部」が天頂にめぐってくる。
C図に示すように、[道]の字源は五帝時代から現在まで天頂を通過する「オス鹿の横顔に似る銀河」である。
(C) 2017 OHKAWA
D図に示すように、「山東半島」が〔鹿の横顔〕に類似し、「廟島(びょうとう)列島」が〔鹿の角(つの)〕に見立てられるゆえ、[道]の字源となる地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は「山東半島・廟島列島」である。
(C) 2017 OHKAWA
だから、C図の「オス鹿の横顔に似る銀河」と「山東半島・廟島列島」は上記した『易経』繋辞上伝の「ゆえに能く天地の道を弥綸す」という文のうちの「天地(天と地)の道」をあらわす。高田真治・後藤基巳(もとみ)訳者『易経 (下)』(岩波書店発行)は「弥綸」という語を「つくろいおさめる、洩(も)れなく包みこむ」と訳する。
E図に示すように、「山東半島」を〔鳥の横顔〕に見立てると、「山東半島の付け根から南北に延(の)びる海岸線」は〔両翼の形〕に観える。この〔鳥の形をした海岸線〕は中国のほぼ全土を洩れなく包み込む。ゆえに、「弥綸」は「洩れなく包みこむ」と意味した。
(C) 2017 OHKAWA
〔山東半島の付け根から南に延びる長江口(ちょうこうこう)までの海岸線〕は〔鳥の右翼〕のごとくに観えるが、〔鳥の長い頸(くび)〕にも似ている。この〔鳥の長い頸〕に観えるなだらかな弧(こ)を描く海岸線は長江口と杭州湾(こうしゅうわん)の海岸線で切り裂かれて〔綻(ほころ)ぶ〕ものの、杭州湾南岸から南方の海岸線は〔繕(つくろ)いおさめる形状〕となってなだらかな円弧が続いている。
だから、高田真治・後藤基巳訳者『易経 (下)』は「弥綸」という語を「つくろいおさめる、洩れなく包み込む」と訳したのである。
◆『易経』繋辞上伝にある「易は天地に準う。ゆえに能く天地の道を弥綸す」という文は、銀河から漢字が作られた学問における「天頂緯度=観測地点の緯度の定理」をあらわした。ゆえに、この定理は今日の国土地理院の天頂緯度を測定して日本経緯度原点を設置して精密な地図を作成する方法と共通する。
古代においては、今日のような天頂緯度や土地の緯度や経度を精密に測量できる機器はなかった。しかし、B図に示す[玄]=「天頂緯度線と子午線」をキャッチする眼力と技が鍛錬されていた。この[玄]のキャッチで各地域の経緯度原点地を設置し、次に土地の三角測量をおこなってその地域の地宜を知った。そして、次から次へと経緯度原点地を移動して、その地域毎に三角測量して地図を作った。この方法だと、何百年という長い時間を費やして、E図に示した海岸線地図が完成したことになる。
司馬遷著『史記』五帝本紀は「黄帝軍は中国各地に遠征し、揚子江に到着した。黄帝が崩(ほう)ずると陝西省(せんせいしょう)の橋山(きょうざん)に葬った」と記述する。この陝西省黄陵(こうりょう)県には今も黄帝を祭る廟(びょう)と墓とされる黄帝陵がある。揚子江に遠征した黄帝軍は[玄]をキャッチして天頂緯度と経度を測量して故郷の黄河中流地域(陝西省黄陵県)に帰還した。古今において、精密な地図を最も必要としたのは軍隊である。だから、黄帝軍は南の揚子江へ遠征した時に地図を作成する部隊を編成していたにちがいない。以来、夏代初頭までの歴代帝王は中国海岸線地図作製事業を推進した。というのも、『史記』夏本紀は「帝禹(う)は準(みずもり/水平をはかる道具)と縄(すみなわ/距離をはかる道具)を左手に、規(ぶんまわし/円を描くコンパス)と距(さしがね/角度をはかる分度器)を右手に持って、全土にわたって道路を通じた」と説明する記事があるからである。この帝禹の様子は、彼が地図作製事業に熱心であったことを示唆(しさ)する。
五帝時代初頭の黄帝時代から夏代初頭の帝禹の時代まで約930年間、歴代帝王が中国海岸線作成事業を推進して、精密な中国の海岸線地図が完成された。そして銀河から漢字が作られた学問と同じく、歴代王朝は海岸線地図を最も厳重な機密とした。
『史記』五帝本紀には帝堯(ぎょう/五帝時代における4番目の帝王)時代の四至(しじ/春分・夏至・秋分・冬至)における星空を伝える記事がある。この記事が示す春分点の位置を〔歳差(さいさ)〕という天文現象で調べると、今から約4500年前の春分点であることが明らかとなる。だから、帝堯の初頭時代は今から約4500年前であった。
『史記』五帝本紀は「益氏は堯の時代に挙用(きょよう)された」と記し、また「帝舜(しゅん/五帝時代最後の帝王)の時代に、益氏は虞(ぐ)の職をつかさどることになった」とも記述する。「虞」は「中国海岸線地図を作製する職」であり、益氏は代々幾人かの帝舜が治めた約200年余りのあいだ虞の官職について精密な中国海岸線地図を完成させた。
『史記』夏本紀は「帝禹は崩ずる時に、天下を益にさずけた。禹の三年の喪(も)が終わると、益は帝位を禹の子啓(けい)にゆずって、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)した。」と記す。また『史記』陳杞世家(ちんきせいか)は「益の子孫は、中国のどこの地に封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである」と記述する。
帝禹は五帝時代以来の氏族共同政治体制の継続を強く望んだ。「氏族共同政治体制」とは「国家を創設しないで多数の氏族が共同して治めて、その多数の氏族において最も偉大な人物を帝王に選ぶ体制」であった。しかし、息子の啓は世襲国家政治体制を欲求(よっきゅう)した。「世襲国家政治体制」は「国家を創設し、ある特定つまり禹と啓父子の氏族の子孫が代々の帝王となる体制」であった。このため、禹は禹の政事(まつりごと)を補佐した益に氏族共同体制の継続を遺言して、帝位を益にさずけた。しかし、氏族共同体制を組織した諸侯(しょこう/各氏族の王たち)たちは禹の遺志である氏族共同体制に反対し、啓が唱える世襲国家体制に賛成した。そこで、帝益は啓に帝位をゆずって箕山の南の地に隠居して、帝禹の遺言の氏族共同体制を新天地・日本列島で継続することを決意した。しかし老いた帝益には、大海の荒波を越えて日本列島に渡る体力がなかった。それゆえ帝益の孫の王子と益氏を継ぐ屈強の若者たちによって、禹の遺志を継ぐ日本列島移住事業がおこなわれた。これゆえ益氏を継ぐ王子と若者たちは日本列島に移住したために、『史記』陳杞世家に「益の子孫は、中国のどこの地に封ぜられたか不明である」と記されることになったのである。
名門益氏は日本列島に移住したため、日本列島に夏音文字が伝来し、益氏は帝舜時代約200年間も「虞」という官職に就(つ)いて精密な中国海岸線地図を完成させたゆえ、当時における最も精密な中国海岸線地図がわが国に伝来することになった。
益氏の王子と若者たちの日本列島移住は、『日本書紀』神武(じんむ)天皇紀初頭部の天祖(てんそ)の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)の降臨(こうりん)記事となって伝えられる。したがって、「天祖」は「帝益の孫の王子」であった。「益氏は荒波が逆巻(さかま)く大海を越えて日本列島に移住した男子たち」であるから、これを省略した日本語が「益荒男(ますらお)」である。万葉時代には「益荒男」は「大夫(ますらを)」と表記された。そして『魏志』倭人伝は「古(いにしえ)より以来、その使(し)が中国に詣(いた)るに皆(みな)自らを“大夫”と称す」という記事で、「昔から倭の使者は中国に到着すると、皆が自ら“大夫”と称した」と伝えている。倭の使者たちは「天祖・益氏の王子のごとく荒波逆巻く大海・玄界灘を越えてきた」と自慢して、皆が皆自分を“大夫”と称(たた)えた。だから、万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読むことになり「益荒男」を意味することになったのである。
◆〔歳差〕という天文現象で調べると、倉頡が漢字を発明した五帝時代初頭(今から約5000年前)、F図に示すように中国の天頂に「十字の銀河」がめぐってきたことが証明される。
(C) 2017 OHKAWA
G図の左側に示すように、「十字の銀河の西半分」は〔女体の形〕に相似し、「十字の銀河の東半分」は〔弓・刀を左手に持つ黄帝遠征軍の将軍や兵士たちの姿〕に観える。ゆえに黄帝軍の遠征の歴史にもとづき下記のごとく「十字の銀河の西半分の形状」を注目すると、益氏が日本列島へもたらした〔中国海岸線地図〕を知ることができ、また密(ひそ)かに保存することもできた。
(C) 2017 OHKAWA
G図のごとく「十字の銀河の右手」を〔山東半島〕に類似すると見立てて、妊婦の姿に似る「十字の銀河の胸部や腹部」の輪郭線(りんかくせん)を円形にして膨(ふく)らませると、G図の右側に示す〔中国の海岸線地図の形〕に相似する。ゆえに、わが国では益氏が日本列島に移住してから約2300年後の卑弥呼時代にあっても、夏音文字の学芸を有する人々は「十字の銀河の西半分の形状」を注目して〔中国の海岸線地図の形〕を知っていたのである。
H図に示すように、「鬼の姿に似る銀河」の西隣は「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」である。この「人の横顔に酷似する銀河の形状」も下記のごとく〔中国の海岸線地図〕に相似するものと認識されていたことになる。
(C) 2017 OHKAWA
G図の右側の〔中国の海岸線地図〕における「長江口」を〔人の鼻(鼻孔)〕に見立てると「杭州湾」は〔人の口〕に観えるのでH図の「人の横顔に酷似する銀河」と同様に、〔中国の海岸線の形〕は〔人の横顔〕に相似することになった。
『説文解字』は[呼]の字源を「息を外(は)くなり」と解説する。この『説文解字』の字源解説は「杭州湾」を〔人が息を吐(は)く口〕と見立てたとあらわすものであった。つまり、「杭州湾」は『説文解字』が「息を外くなり」と解説する[呼]の字源地宜となった。
I図に示すように、[呼]の字源となった「杭州湾」(上南下北図)は「鳰(にお/カイツブリ)」という小鳥(水鳥)の姿に相似する。
(C) 2017 OHKAWA
だから、「杭州湾」と「鳰」も[呼]の字源をあらわした。
「低い地にして湿気がある」と意味する「卑湿(ひしつ)」という語が示すように、「卑弥呼」の[卑]の原義は「低い地、つまり標高0メートルの海岸線」であった。
したがって、J図に示す「中国の海岸線」は[卑]の字源となる。
(C) 2017 OHKAWA
上掲(じょうけい)したE図で解説したように、J図における〔山東半島とその付け根から北と南の長江口北部まで延びる鳥の横顔・両翼に相似する海岸線〕は「弥綸す」の[弥]の字源となる。
上記したように、「杭州湾」は[呼]の字源となる
したがって、上のJ図に示したように「中国海岸線」は[卑][弥][呼]の3字の字源をあらわした。だから、倭女王の名は「卑弥呼」と定められたのである。
◆わがブログ「真実の日本国誕生史」の1回と5回(前回)にて、K図をもって下記のごとくなると詳細に解説した。
日本列島の西端にある沖ノ島と東端の神津島は同緯度(北緯34度15分)であり、K図に示すように西の沖ノ島は冬になると雪が降る冷たい気候区であるから〔西冷〕、東の神津島は冬になっても雪が降らない暖かい亜熱帯気候区であるから〔東暖〕となる。中国の海岸線地域の北部は冷たい気候区であるから〔北冷〕、中国の海岸線地域の南部は暖かい気候区であるから〔南暖〕となる。ゆえに、〔西冷〕の沖ノ島は中国海岸線の〔北冷〕と合致するゆえ沖ノ島は〔北〕の位置し、〔東暖〕の神津島は中国の海岸線の〔南暖〕に合致するゆえ神津島は中国の海岸線の〔南〕のほうに位置することになる。だから、このブログのA図に示したごとく――『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事が明確に示すように卑弥呼は「日本列島の東へ伸びる」という錯覚の転回日本列島地理を立論した。
また、「卑弥呼」という倭女王名は「北冷・南暖の中国海岸線」をあらわした。
上記したように、『魏志』倭人伝は「西暦180年ころに倭国では何年ものあいだ国々が争っては乱れたが、一人の女子を大王と定めて国家を創設し、倭女王の名を卑弥呼と定めて大乱を平定させた」と卑弥呼王朝が創設された事情を記述する。この倭国の大乱はA図に示す転回日本列島地理によって平定された。
銀河から漢字が作られた夏音文字の学芸の産物であるA図の転回日本列島地理によって、倭国の大乱は神の意思に反していることが明確に示されることになった。ゆえに、戦争に明け暮れる小国の王たちは神の怒りを畏(おそ)れて倭国を平定させることにした。上記したように『説文解字』の序にある「王政の始め」という文は「王道政治には“い”の一番、真っ先に銀河から作られた漢字の学問が必要である」と指摘する。ゆえに、「王政の始め」と表現された銀河から作られた漢字の学問にもとづいて転回日本列島地理を立論した卑弥呼が倭女王に選ばれ、転回日本列島地理を政権基盤にした倭国が創設されたのである。
もしも学者たちが「わが国が最初に漢字を習得したのは5、6世紀である」と主張する定説の通りであったならば、漢字を知らなかった卑弥呼は倭女王に選ばれず、卑弥呼王朝も樹立(じゅりつ)されなかったことになる。しかし、『魏志』倭人伝は「卑弥呼は楷書と異なる差錯文字つまり夏音文字に精通していた」と証言するゆえ、『説文解字』の序にある「王政の始め」という文の通り、卑弥呼は倭女王に就任し、倭国は創設され、王朝は樹立されることになったのである。だから、白石以後の学者たちの意見は多数の〔誤読〕を用いてデッチあげた〔空理空論〕であったことになる。
“文献批判”という名がつく〔誤読〕で頭脳が満杯(まんぱい)となった現在の学者たちは、誰一人も倭国の大乱を平定させることになった原因の夏音文字の学芸の秘密を解明してくれない。それゆえ、次回も『魏志』倭人伝に記述された夏音文字の学芸の秘密について解明することにする。
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