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2017年6月17日 (土)

真実の日本国誕生史・8

 ●日本国誕生直後に作られた〔愛〕の地上絵(1)

◆このブログ初回の「真実の日本国誕生史・1」で指摘したように、日本国は〔愛〕の理想のもとに誕生した。この【日本建国の〔愛〕の理念】は『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)神話初頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に書かれている。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の冒頭は――ここに天(あまつ)神もろもろの命(みこと)一同は、伊耶那岐命と伊耶那美命に「この漂っている国を修理(しゅうり)して固めるようにせよ」と詔(みことのり)を下された――と記述する。
 上記の文は――西暦230年、呉の皇帝孫権(そんけん)が一万の水軍を夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)とに分かれる東鯷人(とうていじん)国に向けて遠征を決行した情報をいちはやく知った東鯷人国王は、呉軍と戦ってもまったく勝ち目がないと判断して倭国に属することにした。倭の卑弥呼王朝(天つ神もろもろの命)は、日本国と改称した旧東鯷人国へ軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命と女王に任命した伊耶那美命に「呉の遠征軍を撃退(げきたい)して、呉軍の来襲に脅(おび)えて生きた心地もなく不安定の精神状態で漂っている倭国と小国・日本の人心を元通りに安定せよ」と命令して、新しく誕生した小国・日本に赴任させた――と意味するものであった。(この証明については、このブログ「真実の日本国誕生史」のテーマであるから、当然、後の回で詳細におこなう。なお、中国の正史『三国志』呉書孫権伝は「呉の黄竜2(230)に、呉の1万の水軍が日本列島にある夷州及び亶州に遠征した」と記述する)
 小国・日本の女王であった伊耶那美命は倭女王に就任した250年頃直後に没したと思われる。小国・日本の軍王であった伊耶那岐命は258年~260年頃に没したと考えられる。
 A図は静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を示す地図の形であり、約1700年後の現在まで残った3世紀の遺跡である。この遺跡は伊耶那岐命の死去した直後の260年頃に着手して30年後の290年頃に完成した【日本建国の〔愛〕の理念】を伝えるために作られた1千万坪の大鳥の地上絵である。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 したがって230年頃に小国・日本が誕生した直後の約30年後に、A図の地上絵は作成が開始されたことになる。
 今年度のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」のヒロイン次郎法師が居住した引佐町(いなさちょう)の南隣が、A図に示した1千万坪の大鳥の地上絵・細江町である。
 A図の大鳥の地上絵は、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と記載された、遠江(静岡県西部)の豪族とその一族によって作成された。
 ゆえに、わたくしはA図の大鳥の地上絵を「建比良鳥の地上絵」と呼んでいたが、20142月以後からは「卑弥呼の地上絵」と名前を変えた。

◆現在まで、B図に示す卑弥呼の地上絵(細江町)7ヵ所と隣の浜松市北区都田(みやこだ)地区の1ヵ所、計8ヵ所の遺跡から10口の銅鐸(どうたく)が出土した。この10口の銅鐸は「近畿式」と「三遠(さんえん)式」とに分類されて「終末期銅鐸」とされ、この終末期銅鐸は「260年~290年に製作され使用された」と指摘される。したがって、卑弥呼の地上絵は260年~290年に作成されたことになる。
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(C) 2017 OHKAWA

 
 中国の正史『三国志』魏書の東夷伝(とういでん)末部にある倭人条がいわゆる「『魏志』倭人伝」と呼ばれる史書であり、『三国志』は280年~289年に著作されたゆえ、『魏志』倭人伝もまた同年に著作されたことになる。上記したように、卑弥呼の地上絵は260年~290年に作成され、『魏志』倭人伝は280年~290年に著作されたゆえ、卑弥呼の地上絵と『魏志』倭人伝は同時代に作成されたことになる。
 C図のごとく、夜間に銅鐸の身(/)に頭を入れてしばらくすると、筒の中の暗闇によって瞳孔径(どうこうけい/瞳孔の直径)が最大(78mm)に拡大されて暗闇でもよく天頂点と重なる銀河部位やこの銀河部位の46秒の軌道となる天頂緯度線が見えるようになる。
S173
(C) 2017 OHKAWA
 
 銅鐸の筒上部の舞(まい)に開けられた二つの孔(あな)から舞の中央にある垂直に立つ厚さが23mmの薄い板となる鈕(ちゅう)を仰ぎ見ると、その「鈕」は板ではなく細い1本の線(赤黒い影)と化して見える。この線を両手で銅鐸の筒の傾きを操縦(そうじゅう)してゆっくりと調整(ちょうせい)して最も細くなるようにすると、C図のごとく銅鐸の筒はおのずと精確に垂直に立つ。そして、鈕の頂上に取り付けられた「渦巻状双耳(うずまきじょうそうじ)」という名の部分に刻まれる文様は矢を射当てる用具の的(まと)の文様のように同心円形となる。すると鈕影(ちゅうえい)の極細線(ごくぼそせん)を見つめる目の焦点(しょうえん)によって天頂点と重なる銀河部位の軌道=天頂緯度線が鈕影(ちゅうえい)の極細線へと落下する神秘的な現象(げんしょう)が生じ、(1)天頂緯度線・(2)鈕影の極細線・(3)同心円形の的の中心の三者がぴったりと重なって精密に緯度が測定できる。
 だから、銅鐸は「天頂緯度線と子午線」をキャッチする、つまりD図右上に示す[(げん)]をキャッチする道具・呪術(じゅじゅつ)器物であったのである。
S174
(C) 2017 OHKAWA
 
 わがブログ「真実の日本国誕生史」はこれまで一貫して、D図右上にある[](天頂緯度線と子午線)をキャッチできると精確につまり1度の60分の1分が測量できると解説し証明してきた。
 A図とB図に示した卑弥呼の地上絵は、すべての漢字の字源が解明できる地上絵である。ゆえに、すべての字源が解明できる仕組みにした原図のとおりに地上絵を作成するには1分の緯度の狂いもない精密な測量が必要となる。
 E図に示すように、卑弥呼の地上絵はA地点を経緯度原点地と定め、A地点から真東の地点に一等三角本点の滝峯不動尊(たきみねふどうそん)を設置した。A地点と滝峯不動尊は同緯度(北緯3448)1分の狂いもなく精密(せいみつ)に測量されている。
S181
(C) 2017 OHKAWA
 
 そしてA地点と滝峯不動尊で測量した子午線(経度軸)から1分の狂いもなく精密に29度傾く線が交わる八幡宮(はちまんぐう)をもう一つの一等三角本点と定めた。この大三角を基準にして中・小の三角形の網(あみ)や鎖(くさり)を形作って幾つかの三角点を設置してちょうど1千万坪の原図とおりの大鳥の地上絵が作成された。
 E図に示した大鳥の地上絵の作製方法は現在の国土地理院の精密日本列島地図の作製原理と同じである。したがって、B図に示す8つの遺跡から出土した10口の銅鐸はすべての漢字の字源が解明できる精密な地上絵を作成するための天頂緯度線と土地三角測量器物(道具)であったことになる。

◆わがブログ「真実の日本国誕生史・3」で詳細に証明したように、また以後前回まで一貫して解説してきたようにわが国には今から約4050年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に、原初漢字の夏音(かおん)文字が伝来した。夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名に用いられて楷書で表記され、『古事記』上巻の随所にも[]という注が付いて多数の夏音文字が楷書で表記されて残った。
 E図の〔卑弥呼の地上絵の大鳥の横顔〕は「夏至の日の出の方角(29度の東北)」を向き、その「夏至」から「夏音文字」を示して「わが国は夏音文字を習得した」と伝えている。
 夏音文字はじめ、今から約3300年前の殷代(いんだい)後半初頭に出現した亀の甲羅に刻んだ甲骨文字(契文/けいぶん)、今から約3050年前の西周初頭に出現した金文(きんぶん)、今から約2400年前から始まる東周後半・戦国時代に出現した大篆(だいてん)や小篆(しょうてん)、今から約2200年前の秦(しん)代に出現した隷書(れいしょ)、そして約1900年前の2世紀頃の後漢時代後半から出現した夏音文字を表記する楷書――これらすべての漢字の字源・字形・字義は下に示すわたくしが「文字作成銀河」と呼ぶ各部の形状から作られた。
Ginga

 「銀河」の別名は「銀漢(ぎんかん)」であり、「銀漢から作られた字」を略して「漢字」と称されることになった。したがって、「漢字」という語は「漢字を発明した倉頡(そうきつ/今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した)が考案した書契(しょけい)はじめ、夏音文字、契文(甲骨文字)、金文、篆文(てんぶん)、隷書、そして楷書など、すべての文字は文字作成銀河の各部の形状から作られた」と伝えていることになる。
 世界中さがしても、すべての漢字が作られた文字作成銀河の各部には名称が無い。それゆえ、わたくしは下記のごとく各部の名称を定めた。
Photo
(C) 2017 OHKAWA
 
 文字作成銀河の北半分(「人の横顔に酷似する銀河」より以北の銀河)は、F図のごとく「人の頭上を鳥が翼をひろげて飛翔(ひしょう)する」かのごとくの形状となる。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 ゆえに、G図に示す〔卑弥呼の地上絵の東部〕は〔翼をひろげる大鳥の形〕に設計された。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 G図の卑弥呼の地上絵の中央を流れる都田川(みやこだがわ)の沖積(ちゅうせき)平野の地宜(ちぎ/地図の形)は、F図の〔鳥の胴体〕に見立てられる「鬼の姿に似る銀河」に相当する。というのも、H図に示すように、〔都田川の沖積平野の地宜〕は〔頭が誕生した娩出期(べんしゅつき)の胎児(たいじ)の姿〕に相似し、F図の「鬼の姿に似る銀河」は〔娩出期の胎児〕に見立てられて[][]などの字源・字形・字義となったからである。
S184
(C) 2017 OHKAWA
 
 G図に記入したように、卑弥呼の地上絵の西部は「象の顔と鼻の形をした地宜」である。
 I図に示すように「北アメリカ星雲」は、F図に示した「鬼の姿に似る銀河」に隣接する。この「北アメリカ星雲」は〔象の顔と鼻の形〕に見立てられて、[]の契文形(甲骨文字の字形)となった。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 J図に、文字作成銀河の南半分を示した。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 J図に示すように、「夏の銀河の西南部」は〔巨大な象の顔の形〕に相似し、「巨龍の銀河の頭部から尾(わし座α星・彦星)までの銀河」は〔巨大な象の鼻の形〕に相似する。だから、G図に示した卑弥呼の地上絵の西側の地宜は、〔大きな象の顔と鼻の形〕に設計された。
 J図の「胎児の姿に似る銀河」は、G図の〔娩出期の胎児の姿に見立てられた都田川の沖積平野の地宜〕に符合(ふごう)する。また、「銀河の中心」より西側の「飛ぶ鳥の形をした銀河」は、G図の〔卑弥呼の地上絵東部の両翼をひろげる大鳥の形〕に設計された。
 文字作成銀河における「人の横顔に酷似する銀河」(F図の下部参照)と同様に、K図に示すように、〔村櫛(むらくし)半島の湖岸〕と〔「引佐細江(いなさほそえ)」という名の入り江より西側の湖岸〕は〔人の横顔〕に相似する。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 K図の引佐細江の西岸となる〔寸座岬(すんざみさき)〕は〔人の鼻〕の形に相似し、〔寸座岬より南北の湖岸〕が〔人の横顔〕に相似する。〔村櫛半島の西岸〕は〔長い人の横顔〕に相似する。K図をL図のごとく180度転回させると、〔村櫛半島の東岸〕もまた〔長い人の横顔〕に相似する。
S194
(C) 2017 OHKAWA
 
 L図に示すように、〔人の横顔に相似する(1)村櫛半島と(2)引佐細江より西側の湖岸〕は、卑弥呼の地上絵と隣接する。
 以上のごとく、〔卑弥呼の地上絵と、隣接する(1)村櫛半島と(2)引佐細江より西岸の湖岸〕は〔文字作成銀河におけるすべての銀河の形状〕をあらわす仕組みとなる。だから、卑弥呼の地上絵と隣接地域の各地に付けられた地名がヒントになって、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に用いられた夏音文字と楷書のすべての字の字源を解明することができる。
 したがって、卑弥呼の地上絵は『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記述された歴史を解明することができる字書・字典であった。

◆I図右下の[]の契文形の〔象とその鼻の図案〕は「人為(じんい)」つまり「人が手を加える、人が頓智(とんち)を加える」を意味した。L図に示した〔寸座岬〕は、〔象の鼻の先端〕(G図参照)に見立てられた。これゆえ、〔寸座岬=象の鼻先から強力な息を卑弥呼の地上絵の右の翼(南の翼)に吹きかける〕という楽しい頓智=[]の字義をもって卑弥呼の地上絵の向きを変える仕組みになっている。この頓智(アイデア)にしたがって、象の強力な息を吹きかけるとM図の上図のごとく卑弥呼の地上絵の〔南の翼〕は90度転回して〔東の境界線(東の翼)〕に変ずる。
 このように[]のアイデアによって、M図の上図の〔卑弥呼の地上絵の東の境界線〕は、M図の下図の〔中国の海岸線の形〕をあらわす。
S201
(C) 2017 OHKAWA
 
 前々回のわがブログ「真実の日本国誕生史・6」の末部で解説し証明したように、N図のごとく「中国の海岸線」は[][][]3字の字源をあらわす。
S202
(C) 2017 OHKAWA
 
 ゆえに、前述したように1千万坪の大鳥の地上絵の名前を「建比良鳥の地上絵」から「卑弥呼の地上絵」に、わたくしは変えることにした。
 このブログ「真実の日本国誕生史・8」の冒頭であつかった『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に登場する伊耶那美命と伊耶那岐命が結婚した式場は、2008年に発見された静岡県沼津(ぬまづ)市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する、O図に示す高尾山(たかお)古墳であった。高尾山古墳は一般的用途の墓ではなく、所在する地名「熊堂」が伝えるとおり呉の遠征軍に勝利するために伊耶那岐命と伊耶那岐命が結婚して日本軍の呪的戦力を高めるための堂つまり封土(ほうど/盛り土)であったことになる。
S203
(C) 2017 OHKAWA
 
 というのも、高尾山古墳はじめその周辺の遺跡や前期古墳や地名・名所・や祭・民族的資料など様々な史料が淤能碁呂島聖婚説話の記事に合致し、しかも高尾山古墳は東日本(旧東鯷人国=小国・日本/東海・関東地方)における最古で最大の前方後方墳であるからである。
 P図に示すように、高尾山古墳の後方墳の主体部から2世紀後半頃(後漢時代後半)に中国で作られたとされる破砕鏡(はさいきょう)が発掘された。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 この破砕鏡の名は「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」であり、この鏡は日本国内にこれまで50例近くも発見されている。この50例という多数の発見からして、当時(2世紀後半から3世紀半ば)、わが国では700あるいは1000面も超えるほど多数の上方作系浮彫式獣帯鏡が輸入されたにちがいない。というのも、高尾山古墳から出土した鏡は「不老長寿の仙人の絵柄」の部分が砕(くだ)かれ、残った絵柄と文字は「国土に人民が満ち満ちあふれて、〔愛〕が栄えよ」と中国の人々の願いが表現するものであったからである。したがって、この鏡は“愛をあらわす”と大人気となり多数輸入されて倭国や小国・日本の各地に分布されることになったと考えられる。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島説話は「伊耶那美命は伊耶那岐命と結婚したとき、来襲(らいしゅう)する呉の遠征軍の呪的戦力を奪(うば)って日本軍が勝利するため、文字作成銀河の形状を注目して小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めると唱えた」と記述している。
 倭女王に就任することになった伊耶那美命は小国・日本を去る時、伊耶那岐命と結婚した時の式場であった高尾山古墳から出土した鏡が物語るように〔不老長寿の仙人の絵柄〕を砕き、倭や小国・日本の人々が〔愛〕を表現すると解釈する絵柄と文字を残して、P図が示すように高尾山古墳の後方墳に埋納(まいのう)した。だから、高尾山古墳から出土した破砕鏡は伊耶那美命が結婚式で唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を今日に伝える遺物であった。
 わが国では上方作系浮彫式獣帯鏡が多数輸入されて各地に分布されていた。このため、伊耶那美命が上方作系浮彫式獣帯鏡のうちの〔愛〕を表現する絵柄と文字を残して駿河(するが)にあるお堂・封土(ほうど)に埋めたという情報は国々の隅々まで一気にゆき渡った。この歴史が、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の記事となったのである。

◆P図に示すように、【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える破砕鏡のわずか約1m東と東南から、〔230年頃の東海西部系の土器〕が出土した。
 前述したように、『三国志』呉書孫権伝は「呉の黄竜(こうりゅう)2(230)1万の呉の水軍が小国・日本の夷州と亶州に遠征した」と記述した。ゆえに、〔230年頃の東海西部系土器〕は、230年の呉軍の小国・日本遠征をあらわして埋めた遺物であったと考えられる。
 卑弥呼の地上絵は〔東海西部の遠江〕に所在する。だから、卑弥呼の地上絵を作った建比良鳥命は倭国から派遣(はけん)された日本防衛軍の兵士であり、おそらく250年ころにおこなわれた高尾山古墳の主体部の作成に従事した監督者の一人であったのではなかろうか。ゆえに、東海西部の遠江の建比良鳥命は、伊耶那美命が上方作系浮彫式獣帯鏡を砕いて【日本建国の〔愛〕の理念】を表現した事実を知っていたことになる。
 だから、呉軍が小国・日本へ向かって遠征したものの台湾沖で大海を渡れずに8割から9割の兵士を失って壊滅(かいめつ)した230年からわずか30年後の伊耶那岐命の死の直後に、建比良鳥命は【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるための卑弥呼の地上絵の作成を着手した。この事業は、時の天下を治める天照大御神王朝に見つかると即座に建比良鳥命とその一族は皆殺しになる大罪を犯(おか)すものであった。というのも、卑弥呼の地上絵作成事業は厳重に禁じられた文字作成銀河から作られた漢字の学芸の秘密を暴露(ばくろ)することになったからである。しかし、なんとしても建比良鳥命は【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えたかったゆえ、大罪を犯して卑弥呼の地上絵を作成した。
 G図に示す卑弥呼の地上絵中央の〔都田川の沖積平野の地宜〕は、H図に示したように〔出産する新生児の姿〕に相似するゆえ【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。
 したがって卑弥呼の地上絵を漫画的に表現すると、Q図のごとくになる。
S205

   Q図に示すように、卑弥呼の地上絵は【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える遺跡であった。この卑弥呼の地上絵は〔すべての漢字が文字作成銀河から作られた事実を絶対に漏()らしてならないと禁じた卑弥呼王朝と天照大御神王朝とその後の朝廷の政権基盤となった学芸〕を用いて作成された。
 だから、沼津市の高尾山古墳と卑弥呼の地上絵によって『魏志』倭人伝と『古事記』上巻は真実の歴史を伝えていることが科学的に証明される。また同時に、1725年に没した新井白石以後から現在までの学者たちが『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に多数加えた〔文献批判〕の実体は〔誤読〕であったことが証明される。

◆新井白石以後から現在までの学者たちが夏音文字を記載する『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の加えた〔文献批判〕は〔誤読〕であったと証明された世界的に有名な事例がある。
 紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は約350年後の紀元前850年ごろに生存したギリシヤの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。学者たちは〔文献批判〕を用いて「『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想である」と決めつけて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。したがって、学者たちの「文献批判による意見こそが空想であった」と証明された。
 この事例が明確に示すように、古代史学には過去の出来事を事実と証明できる基本原理が存在する。
 つまり、古代史学には――前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の多数の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判しても、その文献に記述したとおりの遺跡・遺物が発見されたならば、前人の記述はなんびとにも否定できない真実であり、学者たちがこぞって文献批判して否定した意見は誤読の空想であり、妄想(もうそう)であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような基本原理が存在する。
 沼津市の高尾山古墳は、呉軍の日本列島遠征がおこなわれた230年に合致する遺跡である。卑弥呼の地上絵は呉軍の日本列島遠征がおこなわれた約30年後に作られる、高尾山古墳で唱えられた【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える遺跡であり、同時代に著作された『魏志』倭人伝の全記事に合致する。高尾山古墳の主体部作成から約460年後の712年正月に完成した『古事記』上巻の淤能碁呂聖婚説話の記事と高尾山古墳と周辺の遺跡や前期古墳や史跡・地名や民族的資料などの多くの史料は合致する。
 だから、白石以後の学者たちが『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に加えた〔文献批判〕は〔空想〕であり〔妄想〕であったことになる。学者たちは白石没後約290年後になっても文献史料に〔誤読〕を加える方法で〔ウソ八百〕を日本国民に押し付けている。
 上記したように古代史学の基本原理にもとづくと――学者たちの〔文献批判説〕を排除(はいじょ)して『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の記事を忠実に読解(どっかい)して立論される意見は、高尾山古墳と卑弥呼の地上絵に合致する。ゆえに、この証明こそが真実をとらえているもので、学者たちの意見は完全なる妄想であった――と断定すべきことになる。

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