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2017年7月 7日 (金)

真実の日本国誕生史・10

 ●『古事記』序の秘密(1)

◆『古事記』の〔序〕は「古事記 上巻 幷(あわ)せて序」と記される。この秘密について学者の誰ひとりも解明しない。でも、この秘密を明らかにしないと『古事記』上巻に記述された真実の歴史がまったく不明となり、いくら努力してもその意見は誤読の空論となる。
 『古事記』は上巻、中巻、下巻の三巻で構成される――一般的な場合、序は『古事記』の上巻・中巻・下巻の全体の序となる。しかし、『古事記』の序は中巻・下巻とは無関係で、上巻だけの〔序〕である。
 要するに〔上巻の随所には夏音(かおん)文字が記載されている。しかし、中巻と下巻には夏音文字が記載されていない。というのも、夏音文字の秘密を解明すれば上巻に秘められた真実の歴史が解明できる仕組〕になっていることを明確に示して、「古事記 上巻 幷せて序」と記された。こんな序は、世界中さがしてもおそらく一つも存在しないであろう。
 このブログ「真実の日本国誕生史・3」に詳細に解説して証明し、それ以後毎回一貫して解説したように――今から約4050年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、わが国に夏音文字が伝来した。
 夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名に用いられて残った。また、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数記載されて、「古事記 上巻 幷せて序」という世にもめずらしい序の原因となった。
 太安万侶(おおのやすまろ)は「古事記 上巻 幷せて序」と記した序の冒頭の文で「真っ先に夏音文字を解明すれば上巻に記述された真実の歴史がすべて解明できる」という信号をおくって警告(けいこく)する。しかし、現在の学者たちはいっせいに、「古事記 上巻 幷せて序」と記した警告を無視して、一人も夏音文字の秘密を解明しない。
 漢字は今から約5000年前の中国の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)によって発明された。倉頡はみずからが考案した漢字が最も強大な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手にいれる方法であることに気づき、反体制側の人々が下に示す〔文字作成銀河〕の各部の形状から漢字を作る学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
Ginga

  ゆえに、倉頡は下に記す〔3つの掟(おきて)〕を破った者には天罰(てんばつ)が下されて即刻に死刑に処せられると定めた。
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた事実を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字作成銀河の各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字をただちに消さない者また消し忘れた者
 (3)の掟は、紀元前1300年から始まる殷代(いんだい)後半の亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨文字によって最初に破られた。以後に出現した金文・篆文(てんぶん)・隷書(れいしょ)2世紀ころから出現した楷書(かいしょ)も、(3)の掟を破った。
 他方、紀元前3000年ころに倉頡が考案した書契(しょけい)はじめ紀元前2070年ころから出現した夏音文字とまた紀元前1600年ころから始める殷代前半の文字は、(3)の掟を厳重にまもったため、書いた文字史料が発見されていない。このため、学者たちは〔紀元前2050ごろにわが国に伝来した夏音文字は存在しない〕と断定する。しかし、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に多数の夏音文字が楷書で表記されて残ったゆえ、「わが国には夏音文字は伝来していない」という意見はまさに空想であり、空理空論となる。

◆わがブログ「真実の日本国誕生史・6」で詳細に解説したように、司馬遷(しばせん)著『史記』夏本紀に記述された禹()帝の後を継いだ益(えき)帝の孫の王子と益氏の若者たちが日本列島に移住した。このため、夏音文字の学芸がわが国に伝来して習得された。
 夏の帝益については、『古事記』序は「名は文命(ぶんめい)よりも高い」という文で表現する。「文命」は「夏の禹帝」であるゆえ、「名は文命よりも高い」は「お名前の高さは益帝のほうが禹帝よりも優(まさ)っている」と意味した。中国では“夏の始祖”と尊ばれる禹帝のほうが益帝よりも名が高いが、わが国では益帝の孫の王子が日本列島に移住したために益帝のほうが禹帝よりも名高いことになったのである。
 日本列島に移住した益帝の孫の王子は、『日本書紀』の神武(じんむ)天皇紀に登場する天祖(てんそ)の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)である。ゆえに、天祖の降臨(こうりん)説話は益帝の孫の王子と益氏の若者たちの日本列島移住の歴史を語るものとなる。
 この名門益氏の日本列島の歴史を書く記事は下記のごとくである。
 「そこで天祖の彦火瓊瓊杵尊は天のいわくらを開き、雲路(くもじ)をおしわけて、つまり天頂緯度線と子午線をキャッチする先払いを立てて、地上に降臨された(日本列島の東北地方に移住した)。このとき移住した東北地方は未開(みかい)にして草昧(そうまい)つまり文字が発明されていなかった。このように文化が低い状況にあって、天祖は移住した東北地方の西の偏(ほとり)でみずから正しい道を養って治めた。」

◆司馬遷著『史記』夏本紀は「禹帝は会稽(かいけい)に葬られた」と書く。この禹帝が葬られた会稽は、『魏志』倭人伝に記述された浙江省(せっこうしょう)の「会稽」ではない。この『魏志』倭人伝の記事とは「禹帝から数えると夏王朝の7代目の皇帝の少康(しょうこう)の子が会稽に封(ほう)ぜられた」である。
 『史記』が書く「禹帝が葬られた会稽」は現在の中国の首都の北京(ぺきん)あるいは北京の東の天津(てんしん)市であったと推測される。『魏志』倭人伝の「夏王朝・少康帝の王子が封ぜられた」という会稽は、北緯40度の北京よりはるか南の北緯30度の浙江省の会稽(現在の紹興市)であったゆえ、二つの「会稽」は同じ地ではなかった。
 上記した天祖一行は日本列島を北上して禹帝が葬られた会稽であった北京(北緯40)あるいは天津(北緯3913)と同じ緯度となる、A図の左下に示す船越(ふなこし)水道南端の秋田県潟上(かたがみ)市の天王町(てんのうまち)に上陸したと考えられる。
 そして、天祖一行は天王町北側の三種町(みたねちょう)の琴丘町(ことおかまち)の中心の鹿渡(かど)に定住したと思われる。
S251

(C) 2017 OHKAWA


 この「琴丘町鹿渡」は、B図に示すように『日本書紀』神武天皇紀に「天祖が降臨した(東北地方の)西の偏」と記述された地に合致する。
S252
 (C) 2017 OHKAWA

             
 A図に示したように、船越水道と八郎潟の合流地点から夏至の日の出の方角にして米代川(よねしろがわ)上流に国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)が所在する。益氏は〔船越水道と八郎潟の合流地点から夏至の日の出の方角〕は〔夏音文字の学芸〕をあらわす神聖な方角と尊重して、米代川上流の花輪(はなわ)盆地の一角の鹿角(かづの)市大湯の地に環状列石・ストーンサークルを作成した。また、緯度が精確に測定できる天頂緯度線となる=天頂点と重なる銀河部位が地平線から昇る方角(東北45)の鷹巣(たかのす)盆地の一角に伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡を作った。

◆大湯環状列石と伊勢堂岱遺跡は、天祖と益氏の若者たちが日本列島に移住した夏代初頭=後期縄文時代初頭に作られた遺跡である。
 C図に示す大湯環状列石の万座(まんざ)遺跡と野中堂(のなかどう)遺跡の各部には現在も夏音文字の学芸知識の痕跡(こんせき)が明確に残っている。
S253
(C) 2017 OHKAWA
 
 D図に示すように、野中堂遺跡と万座遺跡の中心部を結ぶと〔夏至の日没方向〕を指差し、〔夏至の日没方向〕と〔夏音文字の学芸〕の両者における「夏」の一致をもって「夏音文字の学芸がわが国に伝来した」と示す。このように男鹿半島・米代川文化圏には夏音文字の学芸が伝来した足跡が存在するゆえ、天祖つまり益帝の孫の王子と益氏の若者たちは男鹿半島・米代川文化圏に移住して夏音文字の学芸をひろめたことになる。
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(C) 2017 OHKAWA  

◆太安万侶が書く『古事記』序の冒頭の文は、上記した『日本書紀』神武天皇紀に記述された天祖=益帝の孫の王子と益氏の若者たちが定住した東北地方における夏音文字の学芸の伝来を説明するものではない。夏音文字の学芸をいちはやく習得して、その恩恵(おんけい)を受けた小国・日本(東日本)における夏音文字の学芸の伝来について表現する。というのも、『古事記』作成目的は〔伊耶那美命が女王となって赴任(ふにん)した小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた、この【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えること〕であったからである。だから、安万侶は『古事記』序の冒頭記事を〔小国・日本における夏音文字の学芸の伝来と習得〕について記述した。
 中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝は小国・日本について「その国日辺(にちへん)にあり、(中略)、日本は旧(もと)小国」と記し、また中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は「国日の出ずる所に近い」と書く。ゆえに、小国・日本はE図に示す日本列島の東端=日辺=日の出ずる所に近い東海・関東地方の通称“東日本”であった。
S261
(C) 2017 OHKAWA
 
 『古事記』の序の冒頭の文は、E図に示した東日本における夏音文字の学芸の伝来・習得について下記のごとく記述する。
 「臣(しん)安万侶言(もう)す。それ混元(こんげん)すでに凝()りて、気象は未(いま)だ効(あらわ)れず、名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()し、陰陽ここに開けて、二霊群品(ぐんぴん)の祖(おや)と為()る」
 上記の文を現代語に訳すると「臣下の太安万侶が陛下に申し上げます。およそ太古において文字作成銀河のうちの天頂にめぐってきた銀河部位の形状は混沌(こんとん)として凝固(ぎょうこ)しないありさまでありました。このため、前期縄文(今から6000年前~5000年前まで)より以前の天頂緯度線が貫通する銀河部位が示す気の象(かたち)に名前をつけることができませんでした。ゆえに、前期縄文より以前の早期縄文や草創期縄文において天頂にめぐってきた銀河部位には名前が無く、この銀河部位のイメージを土器や土偶(どぐう)を造って表現する技(わざ)も方法もありませんでした。しかし、前期縄文初頭以後になりますと[][]のイメージをあらわす銀河部位が初めて天頂にめぐってきましたから、(1)前期縄文、(2)中期縄文、(3)後期縄文初頭に天頂にめぐってきた造化の参神(三つの時代の芸術の神々)に名前をつけることができました。また、前期縄文から後期縄文初頭までの約2000年におよんで文字作成銀河から土器・土偶を造った伝統を継いだ小国・日本の地に住んだ芸術家たちは、後期縄文の首(はじめ/初頭)に中国から伝来した夏音文字の学芸をいちはやく習得して、その恩恵をうけました。そして、関東地方=小国・日本に赴任した陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命の二霊はわが国のすべての生みの親となりました。」となる。
 上記した『古事記』序の冒頭文末部は「参神造化の首(はじめ)をなす。陰陽ここに開けて、二霊群品の祖となる」という文の後半の「陰陽ここに開けて、二霊群品の祖となる」は「小国・日本」をあらわした。つまり「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命が小国・日本に赴任した」ゆえ、「小国・日本」をあらわすことになったからである。だから、安万侶は「後期縄文時代初頭に伝来した夏音文字の学芸は、後世に伊耶那美命と伊耶那岐命が赴任して『小国・日本』と名づけられた地域でいちはやく習得された」と表現するために、「参神造化の首をなす。陰陽ここに開けて、二霊群品の祖となる」という文にしたことになる。

◆わが国の土器・土偶作成における造化(芸術)革命は、前期縄文時代に、E図そしてF図に示す伊耶那美命と伊耶那岐命が赴任した小国・日本であった関東地方から起きた。
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(C) 2017 OHKAWA

 中期縄文になると、世界に類(るい)をみない豊かな装飾性(そうしょくせい)と高度の芸術性が表現される土器。・土偶が山梨県(F図の甲斐)や長野県(F図の信濃)の高地や新潟県の信濃川流域で造られた。これらの土器・土偶は、上掲(じょうけい)した〔文字作成銀河〕から造られた。そして〔夏音文字の字源・字形・字義〕は〔文字作成銀河の各部の形状〕であったゆえ、文字作成銀河から芸術的に優れる土器・土偶を造った関東地方の芸術家たちは男鹿半島・米代川文化圏に旅して益氏の教えを受けて夏音文字の学芸を習得することができた――この歴史を、安万侶は『古事記』序の冒頭に記述したことになる。
 文字作成銀河の各部には名称が存在しないゆえ、わたくしは下図のごとく名称を定めた。
Photo
(C) 2017 OHKAWA

   G図は、〔歳差(さいさ)〕という天文現象にもとづいて再現した(1)前期縄文初頭、(2)中期縄文初頭、(3)後期縄文初頭の北緯36度の天頂緯度線図である。(注 文字作成銀河の形状から芸術性に富む優れた土器・土偶が作られた山梨県・長野県の高地・新潟県信濃川流域における中央部は北緯36度であるゆえ、北緯36度の天頂緯度線とした)
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(C) 2017 OHKAWA
 
 G図に示すように、(1)(2)(3)の北緯36度の天頂緯度線は時代が新しくなる毎に南へ南へと下がった。したがって、前期縄文時代初頭より以前(小国・日本における芸術革命以前)の早期縄文、草創期縄文の天頂緯度線は、(1)の天頂緯度線より北側を貫通したことになる。ゆえに、(1)の天頂緯度線より北側の「最北の輪の銀河」を、安万侶は「混沌として凝固せず、気象未だあらわれない、何に類似するのかまったくイメージが湧()かないゆえ造化芸術の神の名をつけることができなかった銀河」と表現したのである。
 また、(1)の天頂緯度線が貫通する「三つ輪の銀河」を「天」、人の姿にソックリの「十字の銀河」は人が住む「地」に見立てて、安万侶は「しかれども乾坤(天地)初めて分かれて」と表現したことになる。

安万侶が書く『古事記』の序の冒頭の文に登場する「参神造化」は、『古事記』上巻冒頭の創世の神々説話にて「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かむむすひのかみ)の三つの造化すなわち芸術の参神」であったと記述する。
 ゆえに、G図に示す(1)前期縄文初頭~中期縄文初頭までの天頂緯度線が貫通した銀河は「天之御中主神」、(2)中期縄文初頭~後期縄文初頭までの天頂緯度線が貫通した銀河は「高御産巣日神」、(3)名門益氏の若者たちが日本列島の男鹿半島・米代川文化圏に定住して夏音文字の学芸を伝授した夏代初頭=後期縄文初頭における天頂緯度線が貫通した銀河に、関東地方の芸術家たちは「神産巣日神」という名をつけたことになる。
 (1)(2)(3)の天頂緯度線は「三つ輪の銀河」を貫通する。
 (1)の前期縄文初頭の天頂緯度線が貫通した「三つ輪の銀河」は前述したように「天」に見立てられ、また「三つ輪の銀河のほぼ中央」を貫通したゆえ、「天」と「御中」の3字が配されて「天之御中主神」という名になった。
 (2)の天頂緯度線が貫通する「三つ輪の銀河」は「鳥が卵を産む巣を上から見た形」や「円形の日輪」に相似し、(3)の天頂緯度線よりも緯度が高いゆえ「高御産巣日神」と名づけられた。
 (3)の天頂緯度線が貫通する「三つ輪の銀河のうちの中央の輪の銀河」も「鳥が卵を産む巣」や「日輪の形」に観えるということで、「神産巣日神」という名になった。

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(C) 2017 OHKAWA

というのも、H図に示すように「三つ輪の銀河のバックとなる銀河」は〔鳥の羽〕のごとくに観え、「十字の銀河」は〔鳥の首〕に相当する。ゆえに、「高御巣産日神」と「神産巣日神」という名には「鳥が卵を産む巣」をあらわす「産巣」の2字が配されることになった。

◆I図に、山梨県東八代郡御坂(みさか)町の花鳥山遺跡から出土した前期縄文時代に造られた深鉢(ふかばち)の図を示した。器面全体は主要文様モチーフである渦巻文(うずまきもん)で構成される。この「渦巻文」は「三つ輪の銀河における渦巻文」を表現するものであったゆえ、I図の深鉢は「天之御中主神」をあらわす造化(造形)であったことになる。
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(C) 2017 OHKAWA

 
 J図の左図は中期縄文時代に造られた深鉢図で、山梨県東八代郡御坂町桂野遺跡から出土した。この深鉢の胴部全面は大・中・小の渦巻文がほどこされて装飾されている。
 J図の右図は中期縄文時代に造られた新潟県信濃川流域で造られた火炎土器(かえんどき)様式の土器図である。火炎土器の口縁部(こうえんぶ)から大きな把手(とって)は渦巻く火炎のごとき形に造られる。
 だから、J図の土器は「中期縄文の高御産巣日神」を表現する造化(造形)であった。
S266
(C) 2017 OHKAWA
 
 K図の左側に示す〔前期・中期の土器の輪郭(りんかく)の形〕は、上掲した文字作成銀河各部の名称図の左上に示した「オス鹿の横顔に似る銀河」の輪郭の形に相似する。
S271
(C) 2017 OHKAWA
 

L図に示すように、K図に示した「鬼の姿に似る銀河」は〔土器を作る右手〕、「長方形の暗黒天体部」を〔土器の材料の粘土〕、「激流の銀河」を〔粘土を造る水〕に見立てると、「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」は〔土器を作る人の横顔〕のイメージとなる。
 だから、K図の左側に配した〔前期・中期の縄文土器の器形〕は「オス鹿の横顔に似る銀河」の輪郭を模(かたど)ることになったにちがいない。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 M図は、G図に示した「十字の銀河の子宮図」である。「十字の銀河の子宮の輪郭」はK図に示した〔前期・中期の土器の輪郭の形〕に相似する。ゆえに、K図左側に配した〔前期・中期の縄文土器の器形〕は、「オス鹿の横顔に似る銀河」にも「十字の銀河の子宮」にも相似するように造形されることになったにちがいない。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 上掲した文字作成銀河の写真を撮影した藤井旭(あきら)氏は、わが国の天体写真家の第一人者とされる。藤井旭著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社発行)115頁は、N図に示す「夏の銀河の西南部」の形状について下記のごとく記述する。
S274

 「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる。」
 上記した藤井旭氏の文が示すように、N図の「夏の銀河の西南部」は「銀河の中心=銀河系の中心」を中心とする〔燃え盛る火炎のごとく金色に輝く、迫力に満ちた巨大な渦巻〕である。ゆえに、J図の左図に示した口縁部から把手にかけて金色に輝く火炎のごとく複雑な形をした火炎土器は〔夏の銀河の西南部〕をも表現するものであったにちがいない。
 また、K図の左側に配した前期縄文と中期縄文の深鉢の胴部全面にほどこされた渦巻文もまた、N図の「夏の銀河の西南部の巨大な渦巻」をも表現するものだったにちがいない。
 というのも、T・R・ブレークスリー著/大前研一訳編『右脳革命』(プレジデント社発行)9頁で――左脳は語学の専門家として言葉を用いて思考するだけでなく、語学の基礎となっている「一度に一つずつ進んで行く系統的論理思考」にも長けている。右脳は感覚(イメージ)で考えるから、複雑な視覚パターンの認識や処理にいちじるしく優れている――と記述するからである。
 安万侶が書く『古事記』序の冒頭にある「参神造化」の「造化」は「芸術」を意味した。
 左脳思考では芸術的土器を創造することはできないが、右脳思考は土器などの芸術を創造する源泉力となる。ゆえに、右脳思考に長()けた関東地方の縄文の芸術家たちは文字作成銀河における「三つ輪の銀河」と「夏の銀河の西南部」に共通するパターン(類型)は〔渦巻〕であると認識し、〔渦巻〕の図案を用いれば「三つ輪の銀河」と「夏の銀河の西南部」はともに表現できることに気づき、さらに〔渦巻文〕で土器の器面全体にほどこせば「三つ輪の銀河から夏の銀河の西南部までの文字作成銀河全体」が表現できることにも気づいた。
 したがって学者たちのごとく右脳で創造された土器の「渦巻文」の秘密について注目しないで、上記した「一度に一つずつ進んで行く系統的論理思考」の語学の基礎となる左脳思考をもって『古事記』序の冒頭文を解釈すると理解不可能となる。
 上記したように右脳思考すれば――I図とJ図に示した土器の器面全体にほどこされた「渦巻文」は、上掲した「文字作成銀河全体の形状」(左上の三つ輪の銀河から右下の夏の銀河の西南部までの全体の形状)を表現するものであったと確信できる。

◆以上のごとく、縄文前期と縄文中期において東日本=小国・日本で造られた右脳思考の産物である土器は文字作成銀河全体を造形表現するものであった。だから、上記した『古事記』序の冒頭の「臣安万侶言(もう)す」から「参神造化の首(はじめ)をなし、陰陽ここに開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)となる」までの記事は「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命が赴任した小国・日本にて文字作成銀河各部の形状を字源・字形・字義と定めた夏音文字の学芸が習得された」と表現するものであったことになる。
 次回はわが国の最古の国宝土偶「縄文のビーナス」(中期縄文時代の土偶)を注目して、上記した安万侶が書いた『古事記』の序の冒頭文は「小国・日本に、夏音文字の学芸が伝来し習得された」と表現するものであったことを証明する。
 この証明によって、『古事記』序の末部にある夏音文字と楷書で表記された語が文字作成銀河の形状によって同義となる秘密が自動的に解明できる。

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