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2017年7月27日 (木)

真実の日本国誕生史・12

 ●愛、高らかに日本国は誕生した(1)
■淤能碁呂島聖婚説話が記した歴史を解明する現代語訳

◆このブログ「真実の日本国誕生史」は、〔愛〕の理念を高らかに掲(かか)げて日本国が誕生した歴史を解明するために作成した。
 この【日本建国の〔愛〕の理念】は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話における淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記されている。
 前々回と前回のわがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回にて、太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』序がきわめて異例な特殊な序であることをあらわして「古事記 上巻 幷(あわ)せて序」と記し、「上巻に用いられる〔音〕という注が付いた夏音(かおん)と夏音文字を表記する楷書は、共に銀河から作られた。この学芸の秘密を解明しないと、『古事記』上巻に記述された歴史はまったく解明できない」と警告(けいこく)した。
 
 にもかかわらず、今日の学者たちは誰一人〔漢字は銀河から作られた秘密〕を研究せず、全員が『古事記』上巻に記述された歴史を誤読し歪曲(わいきょく)して偽りの絵空事(えそらごと)を無責任にも流布(るふ)し続けている。
 現在の学者たちは本居宣長(もとおりのりなが/17301801)が著した『古事記伝』をテキスト(教科書)とする。宣長は30年もの歳月をかけて研究し、1798年に注釈書の『古事記伝』を完成させた。『古事記伝』は「古事記 上巻 幷せて序」にて「夏音文字と楷書は銀河から作られた。この事実を解明しないと、上巻の歴史は解明できない」という警告の存在にまったく気づいていない。ゆえに、宣長は上巻に記述された史実を解明していない。
 『古事記』は「天照大御神は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・敵視(てきし)した。伊耶那美命の没後に、倭女王に選ばれた天照大御神は18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女たちを多数殺す残忍な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮し、徇葬者たちを熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に築いた伊耶那美命の墓に埋めた。これを怒った伊耶那岐命は日本兵と熊野に居住する戦士たちの協力を得て伊耶那美命の棺(ひつぎ)を奪って逃走するクーデターを決行して、追跡してきた倭の大軍を撃破(げきは)して天照大御神を倭女王から失脚させた。伊耶那岐命は伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぎ、開化(かいか)天皇となって春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)で天下を治めた」と伝える反逆の歴史書であった(これについてはわがブログ「日本国誕生史の復興」シリーズの18回と19回で詳細に解説し証明した)

 
◆したがって、『古事記』は危険な思想を養い朝廷への憎悪を生む書物と定められて読む人も少なく人目をはばかってこっそりと隠れて読む禁書(きんしょ)となった。
 6726月に起きた壬申(じんしん)の乱で勝利した天武(てんむ)天皇以来、強大な国家権力を求めた朝廷は天照大御神を最も崇拝する至上神“皇祖(こうそ)”と定めた。というのも、3世紀後半に生存した天照大御神は〔夏音文字の学芸を国作りの柱にして、強大な権力〕を手に入れ統治して大和王朝の基礎を築いたからである。天照大御神は〔伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】よりも徇葬を欲した夏音文字の学芸のほうが勝っている〕と考えた。これゆえ、徇葬を否定した【日本建国の〔愛〕の理念】を激しく憎悪した。
 天照大御神の聖性をいちじるしく汚した7121月に完成した『古事記』と異なって7205月に完成した『日本書紀』は、皇室が献呈(けんてい)を認めやすくするために反逆の思想を薄めて天照大御神の聖性を露骨に汚さないように配慮して作成された。このため、朝廷にとって『日本書紀』は『古事記』に記述された真実の歴史を隠蔽(いんぺい)する作業に好都合な書物となった。朝廷は『日本書紀』が作成された直後から平安時代中期まで頻繁(ひんぱん)に講書(こうしょ/学者たちを参加させる『日本書紀』の講義)を開いて、「古事記 上巻 幷せて序」に記述された「夏音文字と楷書は銀河から作られた」という警告を排除する方法はじめ『古事記』上巻の記事を歪曲して史実を隠蔽する方法を研究して、この偽りを捏造(ねつぞう)する方法を学問としてあつかうように仕向けた。
 朝廷の『日本書紀』の講書による歴史隠蔽工作は江戸時代の国学(こくがく)の学者たちに受け継がれ、そして本居宣長に受け継がれた。だから、宣長は「古事記 上巻 幷せて序」がテーマにして「夏音文字と楷書は共に銀河から作られた事実を解明しないと、上巻に記述された歴史は解明できない」と説いた警告の存在にまったく気づかなかった。
 前述したように、今日の学者たちの解釈や意見は「古事記 上巻 幷せて序」の警告を無視する宣長が著した『古事記伝』を教科書とするゆえ、朝廷の講書による隠蔽工作に自由自在にあやつられる誤読の産物、つまり歴史とは無関係な空想・虚構(きょこう)となった。

◆『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は――ここに天(あまつ)神もろもろの命(みこと)()ちて、伊耶那岐命・伊耶那美命二柱(ふたはしら)の神に、「このただよへる国を修理(つく)り固めなせ」と詔()りて――という文から始める。
 この冒頭文は、わがブログ「真実の日本国誕生史・8」で指摘したように――西暦230年、中国の呉の皇帝孫権(そんけん)1万の水軍を夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に分かれる東鯷人(とうていじん)国に向けて遠征を決行した情報をいちはやく知った東鯷人国王は、中国における戦争史で有名な208年の赤壁(せきへき)の戦いで80万の魏の大軍をわずか2万の呉の水軍が一夜にして撃破した、その1万の呉の水軍と戦ってもまったく勝ち目がないと判断して、卑弥呼は統治する倭国に属することにした。天つ神もろもろの命すなわち倭の卑弥呼王朝の面々は東鯷人国が呉軍に占領されると倭国の背後の脅威(きょうい)となるゆえ東鯷人国王の要望を承諾して東鯷人国を倭に属する小国の一員に組み入れ、旧(もと)東鯷人国の小国名を「日本」と改めた。そして、軍王(いくさのおおきみ)に伊耶那岐命を日本国の女王に伊耶那美命を任命して「呉の遠征軍を撃退(げきたい)して、呉軍の来襲に脅(おび)えて生きた心地もなくまるで緯度と方角を見失って大海に漂(ただよ)う船乗りのごとく人民たちが絶望の淵(ふち)を漂って憂えている苦境を修理・払拭(ふっしょく)して、人心が元通りに安らかになるようにせよ」と命令した――意味するものであった。
 なお、中国の正史『三国志』呉書孫権伝は「呉の黄竜2(230)、呉の一万の水軍が夷州及び亶州に分かれる東鯷人国に遠征した」と記述する。

◆わがブログ「真実の日本国誕生史・1」でも証明したように、A図に示す東日本の東海・関東地方が東鯷人国にして230年ころに倭国に属することになった小国・日本であった。
 A図は現在の方位規定と異なって、180年頃から738年ころまで、わが国で定められていた時計まわりに90度方位規定が転回する小国・日本地理である。
S321
(C) 2017 OHKAWA
 
 中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝は――702年に中国に渡った遣唐使が「日辺(にちへん)にあるをもって、日本という名にした」、また「日本国は旧(もと)小国」と説明した―-と記述する。また中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は――日本国の遣唐使は「国日の出ずる所に近いゆえ、日本と改名した」と説明した――と記述する。
 そして『旧唐書』倭国日本伝と『新唐書』日本伝は共に――遣唐使が「小国・日本は日本列島の〔東〕にある」と説明した――とは記述しない。この原因は『旧唐書』倭国伝に――遣唐使が「その国(小国・日本)の西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りなし」と説明した――という記事が存在するからである。この記事にある「東界」の「東」は現在方位でいう「北」であった。したがって、遣唐使は現在方位でいう〔北〕を〔東〕と認識するものであったから、東鯷人国=小国・日本は〔東〕に所在すると説明できず、「日辺」または「国日の出ずる所に近い」と説明したのである。
 つまり遣唐使は、A図左下に示す転回方位にもとづいて小国・日本の地理を「西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りなし」と説明した。
 現在の日本地図にもとづくと、「西界」は〔大海〕ではなく静岡県西部の遠江や愛知県となる。ゆえに、『旧唐書』倭国日本伝の「西界は大海に至る」という記事に矛盾する。
 A図の場合、「西界」は「大海の太平洋」、「南界」も「鹿島灘がある大海の太平洋」であるゆえ、『旧唐書』倭国日本伝の「西界南界はみな大海に至り」と述べた遣唐使の説明に合致する。A図の小国・日本の「東界」は「現在方位の北」となるので三国山脈や日光の山々や関東山脈が所在し、「北界」となる「現在方位の西」には富士山や赤石山脈や木曽山脈や南アルプスや北アルプスなどが所在する。ゆえに、『旧唐書』倭国日本伝の「東界北界は大山ありて限りなし」といった遣唐使の説明に合致する。
 だから、8世紀の遣唐使はA図のごとく東西南北を認識していたことになる。

◆B図に示す北極星を注目して、学者たちは上古・3世紀の倭国や小国・日本に居住する人々は「北極星がある方角を北と定めていた」と断定する。
S322
(C) 2017 OHKAWA
 
 したがって、A図の転回方位は実際に存在した地理方位規定であったことを認めない。
 しかし、B図に示すように学者たちの東西南北の基準とする北極星は、3世紀において、天の北極を中心にして半径約10度、直径約20度・1200分の円を描いていた。
 卑弥呼王朝の使節は、1度の60分の11分の緯度差を測定できないと朝鮮半島や中国に到着することができない北九州沖の玄界灘(げんかいなだ)を往来して国交を結んだ。「玄界灘」という名称は「約1200分の円を描いた北極星による緯度測定では往来ができないが、[]をキャッチする方法ならば往来できた、陸地から遠く離れる波の荒い大海」と意味した。
 C図に、天頂点と重なる銀河部の軌道を示した。
S323
(C) 2017 OHKAWA
 
 C図の右上に[]がある。[]とは「天頂緯度線と子午線をキャッチして1度の60分の11分の緯度差を測定する、またはその能力や術」を意味した。
 人間の目は鍛錬すると感覚が研ぎ澄まされて[]をキャッチできる能力がそなわり、この[]をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)能力によって緯度が1分の差まで精確に測定できた。原始の時から、鍛錬すると人間の目には[]をキャッチできる能力がそなわり、脳には[]をキャッチする術が磨かれる本能的能力がそなわっていたのである。
 『魏志』倭人伝には全部で方位名を書く記事が15ヵ所存在する。この15ヵ所の方位記事に1点の批判=誤読を加えなければ、D図に示す日本列島の〔東〕が〔南〕に伸びる転回日本列島地理が成立する。
S324
(C) 2017 OHKAWA
 
 D図の左側に示すように、玄界灘に浮かぶ「沖ノ島」と伊豆諸島の「神津島(こうづしま)」は同緯度・北緯3414分である。上古の人々は「玄界灘」の[]がキャッチできたゆえ、日本列島の西端の沖ノ島と東端の神津島が同緯度であることが測量できた。
 E図に示すように日本列島の西端の沖ノ島は冬に雪が降るゆえ〔西冷〕となり、東端の神津島は冬に雪が降らない亜熱帯地区に所在するから〔東暖〕となる。中国の海岸線地域の北部の気候は冷たいゆえ〔北冷〕となり、南部は暖かいゆえ〔南暖〕となる。したがって、E図に示すように、〔西〕の沖ノ島と〔北〕の中国海岸線地域は〔冷たい気候〕で一致し、〔東〕の神津島と〔南〕の中国海岸線地域は〔暖かい気候〕で一致する。
S325

   だから『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事に1点の批判=誤読を加える必要がなく、D図そしてE図のごとく日本列島地理の東方は南の方に伸びていることになる。
 卑弥呼王朝は、日本列島の暖かい東端は中国海岸線地域の暖かい南方に伸びているにちがいないと考えて、D図とE図に示した錯覚の転回日本列島地理を制定したのである。
 だから、卑弥呼が統治する倭国の一員となった小国・日本の地理は、A図に示したように卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の方位規定に合致することになったのである。
 D図に示した「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」の名称が「淤能碁呂島」であった。[]の字義は「泥(どろ)」、[]の字義は「熊(くま)」、[]の字義は「碁石(ごいし)」すなわち「碁石の石に見立てられた日本列島の両端にある沖ノ島・神津島」、[]は「沖ノ島と神津島と、この両島を結ぶ同緯度線」をあらわした。ゆえに、[]は「日本列島の地底は泥のように柔らかい」とあらわすことなり、[]は「熊の冬ごもりの巣の横穴を緯度に見立て、縦穴を子午線(経度)に見立てる」と意味することになった。だから、「淤能碁呂島」という語は「地底が淤(どろ)のように柔らかいので、熊の冬ごもりの巣の横穴(緯度)が縦穴(経度)に変わって、碁呂の沖ノ島・神津島を結ぶ緯度線は時計回りに90度転回する日本列島地理」をあらわすことになった。
 だから、D図の「転回日本列島地理」は「淤能碁呂島」と呼称されたことになる。

◆前述したように、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の冒頭文は――ここに天(あまつ)神もろもろの命(みこと)()ちて、伊耶那岐命・伊耶那美命二柱(ふたはしら)の神に、「このただよへる国を修理(つく)り固めなせ」と詔()りて――である。
 この「冒頭文」を【その一】と名づけ、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話をこれから四つに分けて歴史が明解になるように現代語訳することにする。
 上記した冒頭文【その一】の現代語訳を要約すると――西暦230年における呉軍の遠征によって独立国であった東鯷人国は卑弥呼が統治する倭国の一員の小国となり、国名は「日本」と改められた。そして、天つ神もろもろの命すなわち卑弥呼王朝の面々は日本国の軍王に伊耶那岐命を女王に伊耶那美命を任命して「呉軍の来襲に脅えて生きた心地もなくまるで緯度と方角を見失って大海に漂う船乗りのごとく人民たちが絶望の淵を漂う状況を払拭して、人民が安心するように防御を固めよ」と命令した――と伝えるものであった。

 次の記事を【その二】として、容易に歴史が理解できるように補足を加えて現代語に訳すると下記のごとくになる。
 【その二】は――伊耶那岐命と伊耶那美命は、「日本列島の地底が泥のようになっている」と考えるD図の淤能碁呂島理論と関連する「天沼矛(あめのぬほこ)」という名の矛を卑弥呼王朝から賜(たまわ)り、小国・日本の国作りを委任(いにん)された。これゆえ、二人は小国・日本へ赴任するにあたって、倭国の淤能碁呂島理論の呪力(じゅりょく)を用いて呉軍を撃破することを誓って、海水を煮沸(しゃふつ)して塩を作る儀式をおこなった。つまり、戦場のような慌(あわ)ただしく胎児を出産するときの母親の苦しみは海水を煮て塩を作る作業に相似するとされ、同様に呉軍に勝って小国・日本を生む事績(じせき)は海水を煮て塩を作る時の苦しい作業に相似すると見立てられて、二人は塩を作る作業を演ずる儀式をおこなうことになったのである。二人は海水を焚()く儀式の会場に設けられた天浮橋(あめのうきはし)に立って、天沼矛を指し下してD図の左側に示した転回日本列島地理の要因となった鳴門の渦潮の海水のごとく渦を画くようにコオロコオロと煮る塩水をかき鳴らして渦を画いて、引き上げた時、その矛の先より垂(したた)り落ちる塩がだんだん重なって積もって島のごとき形となった。だから、淤能碁呂島というのである。
 注 つまり、〔海水を煮沸する湯気が肌をヒリヒリと刺す辛(つら)い塩作り儀式〕は、『魏志』倭人伝に記述された人民が倭の大乱であじわった辛苦(しんく)と、また呉の遠征軍の来襲に脅える小国・日本の人民の苦しみをもあらわした。ゆえに、矛の先からしたたって重なり積もった塩は倭国の大乱に勝利して人民が安らかに生活することができた転回日本列島地理と、また呉の遠征軍に日本軍が勝利して平安を取り戻す二人の使命をあらわした。だから、淤能碁呂島理論をあらわす「塩作り儀式」は「淤能碁呂島」と表現されたのである。

 次の【その三】は――伊耶那岐命と伊耶那美命は小国・日本において戦場となる可能性が第一番目に予測された蓬莱山(ほうらいやま)が所在する土地に赴任した。その土地には、日本軍の勝利を祈願して天と蓬莱山を祭る封土(ほうど)・盛り土が築かれていた。この盛り土は『説文解字』が「殿なり」と解説するいわゆる「堂(どう)」であった。ゆえに、いずれ数年後に立てられることになる天之御柱(あめのみはしら)を見立てて(想像し)、八尋殿(やひろどの/神社の建物。宮殿)を見立てて(想像して)、結婚式が急ぎおこなわれることになった。というのも、今が今にも呉軍は来襲するかもしれなかったゆえ、封土・盛り土の上に八尋殿を完成させるまで待つなんてことはできなかったからである。
 ここに結婚式場となる盛り土はとにかく完成していたので、二人は早速(さっそく)結婚式をおこなうことにした。18歳の青年である軍王の伊耶那岐命は呉軍の呪的戦力を奪う魔女となる妹()の13歳の伊耶那美命に「おまえの体はどのようにできているのか」と、伊耶那美命は「わたくしがだんだん成熟する体にいまだ整って箇所が一ヵ所あります」と、つまり「子どもが生める体に整っていない状況と魔女としての呪力・気力がまだ整っていない状況」を「女陰」に譬(たと)えて説明した。この返事に対して、伊耶那岐命は「日本軍の精兵(せいへい)が集まって整った状況と呉軍を罠(わな)にはめる要衝(ようしょう)の工事に早速着手して、その罠(作戦」通りにその箇所を刺し塞(ふさ)ぐ軍事演習を同時に開始して、小国・日本を封建する(ほうけん/領地として治める)国土(くに)作りを進めようと思う。この国生みの方針はどうであろう」という意見を、「男根」に譬えて表現した。すると、伊耶那美命は「それは結構(けっこう)でしょう」と答えたーーと説明する。

  
淤能碁呂島聖婚説話末部の【その四】は――そこで伊耶那岐命は「それならば、我とおまえは天之御柱が立つと予定される地点を行き(通過し)廻(めぐ)り逢()って、呉軍に勝利するための聖なる結婚式をしよう」と述べた。このように約束して、伊耶那岐命は「おまえは右から廻って逢いなさい。我は左から廻って逢おう」と指示し、式次第の約束とおりに伊耶那美命と巡り逢って対面した時、この戦勝祈願の厳粛な結婚式の規定に違反して伊耶那美命のほうが先に「なんとまあ、すばらしい愛(いと)しい男性でしょう」と唱え、後に伊耶那岐命が「なんとまあ、すばらしい愛らしい乙女よ」と唱え、おのおの唱え終えたのち、伊耶那岐命はその妻に向かって「女人(にょにん)が先に唱えたのはよろしくない」と述べた。
 この戦いに勝つための聖婚における規定では、女性の伊耶那美命が先に述べると「〔戦い〕よりも夫を愛して多数の子ども生む〔愛〕を優先すべきである。小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定める」と唱えたことになった。つまり、伊耶那美命が伊耶那岐命より先に述べた「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなやしえをとこを)」の〔音〕という注が付く10字の夏音文字を「なんとまあ、すばらしい愛しい男性でしょう」と訳した言(ことば)は、国中の夏音文字の学芸の知識者たちによって“〔戦い〕よりも〔愛〕が勝る”と解釈されることになった。ゆえに「伊耶那美命は【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた」とい意見は国中にひろがり、万葉時代には確かな歴史的事実となった。その証拠に、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を万葉歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)は「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも」という和歌を作って表現した。
 この聖婚の後、二人は小国・日本の「久美度邇(この4字は夏音文字)」興(おこ)しての呉軍の来襲にそなえる防衛に努力し、日本軍の作戦をあらわす子すなわち祭神の水蛭子(ひるこ)を生んだが、この水蛭子は二人が小国・日本を封建したと示す祭神には成れず、そのまま放置される(葦の船に入れて流し捨てる)ことになった。次に日本軍の一大軍事基地があった蓬莱山を祀る祭神として淡島をも生んだが、この淡島もまた二人が小国・日本を封(ほう)じて治めた事績を示す祭神として数えられず放置されることになった。というのも、聖婚で伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】が原因とされた変事(へんじ)が起きたため、二人は小国・日本を去ることになったからである。
 伊耶那美命の夏音名(夏音文字の名)は『魏志』倭人伝末部に登場する倭女王・壱与(いよ)であった。伊耶那岐命の夏音名は『魏志』倭人伝末部に記載される、朝鮮半島の一角の帯方郡を訪問して倭国と敵国狗奴(くな)国の攻防の様子を報告した武将の載斯烏越(そしあお)であった。『魏志』倭人伝は伊耶那美命・壱与について「240年ころ、卑弥呼がすでに死んで巨大な墓を作られた。この時おこなわれた百余人の奴婢(ぬひ/18歳ころの青年と13歳くらいの乙女)を殺して卑弥呼の墓に埋めた徇葬(じゅんそう)に憎悪して、国中の人民たちは卑弥呼の後を継ぐ男の大王に服従せずに武器を持って戦った。ゆえに、倭王朝は反乱者たちを千余人も殺した。また倭王朝は、卑弥呼の宗女(そうじょ)つまり卑弥呼が率いる巫女(みこ)界を代表する巫女の壱与、十三歳で(小国・日本の)王となった彼女を倭国に帰還させて倭女王に即位させると、国中に広がった大乱は遂に定まった」と記述する。
 卑弥呼没後の倭王朝の面々は〔徇葬には責任はあらず、聖婚儀式において〔愛〕を唱えた伊耶那美命・壱与に倭の大乱という変事をおこした責任がある。なぜならば、倭国の国中の人民たちは壱与が唱えた〔愛〕に憧れて倭の大王に逆らって大乱をおこしたからである。ゆえに、壱与が倭女王に就いて大乱を鎮(しず)めなければならない〕と倭王朝は主張して、倭国に属した小国・伊邪(いや/旧国の丹波)国出身の壱与を帰還させた〕と『魏志』倭人伝は伝えているからである。
 したがって、倭王朝は伊耶那美命・壱与と伊耶那岐命・載斯烏越の防衛の労に報(むく)いず、小国・日本を領土にして治める封建を認めなかったことになる。

◆次回では、【その一】の記事に登場する「ただよえる国」は「呉の遠征軍の来襲に脅えて人民たちが絶望の淵を漂う東鯷人国=小国・日本」であったことを、【その二】の記事をもって証明する。また、続いて回を追う毎に【その三】と【その四】の現代語訳を詳細に解説して事実であったことを証明して、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話が【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える確かな史料であったことを証明する。

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