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2017年8月 7日 (月)

真実の日本国誕生史・13

 ●愛、高らかに日本国は誕生した(2)
■〔塩作り儀式〕と淤能碁呂島聖婚説話
 
現在の学者たちは本居宣長(もとおりのりなが/17301801)が著した『古事記伝』を教科書とする。このため、彼らの意見は誤読の空論、歴史とは無関係の空想・フィクションとなる。『古事記伝』を教科書にするとなぜ誤読の空論になるか、この根拠・理由・経緯について前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・12」で詳細に解説した。だから、このブログに異論を抱く方々は前回のわがブログを読んでいただきたい。端的(たんてき)に言うと『古事記伝』は――『古事記』序が「上巻の随所に〔音〕という注がつく多数の夏音(かおん)文字と夏音文字を表記する楷書は、共に銀河から作られた。この事実を解明しないと、上巻に記述された歴史は解明できない」という警告を無視するゆえ――この致命的な欠陥によって、『古事記伝』を教科書とする学者たちの意見は誤読の空想・フィクションとなる。
 『古事記』序は要するに「『古事記』は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために作成された」と伝えようとした。伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話における淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記述された。前回のブログで、わたくしは『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の記事を『古事記』の序の「漢字は銀河から作られた事実を解明すれば歴史を解明できる」というメッセージに従って【その一】【その二】【その三】【その四】の4ブロックに分けて現代語に訳した。この現代語訳は、学者たちの解釈と全く異なる。

◆わたくしが【その一】とした『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の冒頭文は――ここに天(あまつ)神もろもろの命(みこと)()ちて、伊耶那岐命・伊耶那美命二柱(ふたはしら)の神に、「このただよへる国を修理(つく)り固めなせ」と詔()りて――である。
 上記の【その一】を現代語に訳すると――西暦230年における呉軍の遠征によって独立国であった東鯷人(とうていじん)国は卑弥呼が統治する倭国の一員の小国となり、国名は「日本」と改められた。そして、天(あま)つ神もろもろの命(みこと)すなわち卑弥呼王朝の面々は日本国の軍王に伊耶那岐命を女王に伊耶那美命を任命して「呉軍の来襲に脅(おび)えて生きた心地もなくまるで緯度と方角を見失って大海に漂(ただよ)う船乗りのごとく人民たちが絶望の淵(ふち)を漂う状況を払拭(ふっしょく)して、人民が安心するように防御を堅固(けんご)なものにせよ」と命令した――となる。
 
 呉軍が遠征しようとした東鯷人国は「日本」と国号を改めて、卑弥呼が統治する倭国の一員となった。だから、この戦いは呉国と倭国の戦いとなった。
 この呉国と倭国の戦争は、真っ先に神意にかなう呪的(じゅてき)戦力を手に入れて勝利する方法を占(うらな)っておこなわれた。この勝利の呪的戦力を得る方法であった卜占(うらない)について、『魏志』倭人伝は下記のごとく記述する。
 「倭国の習俗として、行事をおこなうとか行来(こうらい/遠い地に行って帰還する旅行を)するとか、また云為する(うんい/子授け祈願や雨乞いなど、神へ願う)所があれば、骨(鹿の肩甲骨)を灼()いて占い、その吉凶を占う。最初に占いをおこなう人は卜する所(神への願い事)について告げる。その辞(文字とことば)は令亀(れいき/中国の殷代の亀の甲羅に刻んだ甲骨文字・契文の字形やことばの易占)の法に似ており、鹿の肩甲骨(けんこうこつ)の裂け目の兆(きざし)()て占う(判断する)。」
 だから、わが国には中国の紀元前1300年頃の殷代(いんだい)に出現した「令亀の法」つまり甲骨文字に相似する夏音文字が存在した。この夏音文字は、わがブログ「真実の日本国誕生史・3」で詳細に証明したように、紀元前2050年ころに中国からわが国に伝来した。
 紀元前3000年ころの五帝時代初頭の黄帝につかえて倉頡(そうきつ)は漢字作成原理を発明したが、彼は文字が最も強力な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づいた。倉頡はもしも反体制側の人々が文字の学芸知識を手に入れて革命に利用したならば容易に王朝は滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は「書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者」には神罰が下って即刻に死刑に処せられる、またこの犯罪者一族は神が皆殺しにして滅ぼすと定めた。これゆえ中国でもわが国でも夏代(かだい)の文字=夏音文字を書いた資料が出土しないことになり、現在において学者たちが夏代の文字と判断した資料は中国でもわが国でも1点も発見されていない。
 しかし『魏志』倭人伝には、卑弥呼(ひみこ)はじめとする人名・小国名・官職名に楷書で表記された夏音文字が残った。甲骨文字が出現した時代より約750年前の夏代初頭(後期縄文時代初頭)にわが国に伝来して保存されていた3世紀の夏音文字は、字源となる銀河各部の形状を図案する「令亀の法」つまり甲骨文字に相似する絵のような文字であった。
 『魏志』倭人伝は「夏音文字は卜占に用いる文字であった」と記述する。だから、呉の遠征軍との戦いには、真っ先に神意にかなう呪的(じゅてき)戦力を手に入れて勝利する方法が云為(うんい/神に祈願)されて占われることになった。これゆえ、勝利祈願の占いによって日本国の女王の伊耶那美命の夏音名(夏音文字による戦闘名)は「壱与(いよ)」と定められ、日本軍の軍王の伊耶那岐命の夏音名は「載斯烏越(そしあお)」と定められた。

勝利を祈願する卜占(うらない)に用いられた夏音文字について、太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』の序で首尾一貫(しゅびいっかん)して「上巻の随所に〔音〕という注を付けた夏音文字と夏音文字を表記する楷書は、共に銀河から作られた――この事実を解明しないと上巻に記述された歴史は解明できない」と警告する。
 夏音文字と楷書は、わたくしが「文字作成銀河」と名づけて下に示す銀河範囲の各部の形状から作られた。

Ginga


   〔文字作成銀河の各部の名称〕は、わたくしは下記のごとく各部の名称を定めた。
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(C) 2017 OHKAWA

 『三国志』呉書孫権(そんけん)伝は「呉の皇帝孫権は黄竜(こうりゅう)二年、一万の水軍を夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に分かれる東鯷人国へ遠征させた」と伝える。
 この元号の「黄竜」は、上掲した文字作成銀河の写真と各部名称図の右下にある「夏の銀河の西南部における東側の銀河」を表示するものであったと考えられる。
 A図に示す「巨龍の銀河」は〔黄色に輝く〕ゆえ「黄竜」ということになる。
S331
(C) 2017 OHKAWA
 
 その写真と各部名称図における「夏の銀河の西南部」の上部には、B図に示す「へびつかい座・ヘルクレス座」がある。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 わがブログ「真実の日本国誕生史・9」で証明したように、B図の「へびつかい座・ヘルクレス座は」は東鯷人が呉の会稽(かいけい)で交易するために、C図に示す広大な太平洋を往来する海の道における、1分の緯度の差を精確に測定できる羅針盤であった。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 B図に示す[]の金文の字形となった「へびつかい座・ヘルクレス座」の肉眼で見える多数の星々は南緯21度~北緯42度の地域の天頂にめぐってきた。だから、C図に示した呉の遠征軍の航路はおおよそ北緯24度~北緯35度までであったのでB図の「へびつかい座・ヘルクレス座」内の多数の肉眼星によって1分の緯度差を測定することができた。ゆえに、 呉の遠征軍がB図の「へびつかい座・ヘルクレス座」を羅針盤にすれば台湾→宮古島→硫黄島→小笠原諸島→伊豆諸島を経て北進すれば、呉軍は富士山が見える小国・日本(東鯷人国)に到着した。

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(C) 2017 OHKAWA
 
 だから、倭国や小国・日本では――「黄竜」という元号について、日本列島遠征を占って吉と出たゆえ皇帝の孫権が遠征を決行したと示す元号――と解釈していたことになる。

◆倉頡が発明した漢字作成方法は、[][]2字で示された。
 倉頡は――文字作成銀河各部の形状から作られたすべての漢字は、文字作成銀河各部の名称図の左上にある「十字の銀河」を母体にして生まれる。ゆえに、「十字の銀河の子宮」はすべての漢字が生まれる子宮である――と定めた。
 ゆえに、D図の左側の[]の金文形は「十字の銀河」を「腹部が大きくなる女体と子宮に宿る胎児」を図案するもので――すべての漢字を生む母体は「十字の銀河」、すべての漢字が生まれる子宮は「十字の銀河の子宮」である――ことを表現している。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 E図に示すように、「すべての漢字を生む母体の十字の銀河とすべての漢字が生まれる十字の銀河の子宮」は[(べん)」、「十字の銀河から生まれた子」は子どもの姿に相似する「鬼の姿に似る銀河」が見立てられて[]の字源・字形・字義となった。だから[][]が加わる[]は、倉頡が発明した漢字作成原理を今に伝える。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 E図の考えにもとづき、F図に示すように「十字の銀河の女陰」に頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)の生子(せいし/出産児)の顔を〔西〕すなわち[]の字源「鬼の姿に似る銀河」の方に向けたところ、矛盾点が生じた。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 G図に示すように〔実際の娩出期における生子の顔は母体の背側〕を向くが、F図に示した〔生子の顔は母体「十字の銀河」の腹側〕に向くゆえ不合理・矛盾する。
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(C) 2017 OHKAWA

 黄帝や倉頡が生存した五帝時代と夏代においては、H図に示すように北緯32度の揚子江や北緯31度の太湖(たいこ)の天頂に、「十字の銀河の子宮と女陰」がめぐってきた。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 揚子江や太湖がある中国南部は、禾(いね)の生育地である。ゆえに、I図に示すように〔禾の穂〕を「十字の銀河の子宮」から「鬼の姿に似る銀河の口」の方に垂れる状況を想定して「南から西へ90度転回する」をあらわす[()]の字源の合理を成立させた。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 []の下に[]が加わって[]の字が作られ、「十字の銀河」は〔人の姿〕に相似するゆえ人偏に[]が加わる[]の字が作られた。そして[][][]3字は、共に「時計回りに方位を90度転回する」という字義を有することになった。
 司馬遷著『史記』五帝本紀は「黄帝の遠征軍は、南は揚子江に至り、さらに南の湖南省の熊山(ゆうざん)や湘山(しょうざん)に登った」と記す。黄帝の遠征軍は〔無敵の強力な軍〕であったゆえ、揚子江・太湖の地域を生育地とする[]は「軍門(ぐんもん)」を象(かたど)る文字となった。だから、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、[]の字を「いねの象形。また軍門の象形。いねの字は禾穂(かすい)が垂れた形。軍門の字は標木(しめき)に袖木(そでき)をつけた形で、もとの形象は異なるが、のち同形の字とされ、一字にして別義のある字である」と解説する。

 G図に示した〔頭が誕生する娩出期の生子の母体の背側に向く顔〕は、J図に示すように「十字の銀河の陰部」に加えられて[]の字源となった。この[]の字義は「時計回りの逆向きに、方位が90度転回する」を有することになった。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 また[]の字義は「祝祷(しょくとう)を行う」つまり「巫女(みこ)が出産を祝う時、また出産を祈祷する時に巫女が踊って恍惚状態(こうこつじょうたい/エクスタシー)なる」であった。ゆえに[]の原義は「巫女が[](祝祷の土器)を頭上にささげて、祈りながら舞ってエクスタシーとなって、神を楽しませる」となった。J図の生子の顔の向きはE図の「言(ことば)をあらわす記号の文字」を示す[]の字源「鬼の姿に似る銀河」の反対側を向くゆえ、[][]が加わる[]の字義は「あやまり(正しくない)。まどう」となった。
 K図に示すように、[][]の転回方位規定は「十字の銀河の陰部」で相(あい)対立する。また「十字の銀河の西半身」は「西に向いて歩く人の姿」に観え、「十字の銀河の東半身」は「東に向いて歩く人の姿」に観えて、相対立する。これゆえ、「歩く方向」を字義とする[]=之繞(しんにょう)に「禾(いね)の実」の[]が加わる[]の字を『説文解字』は「惑(まど)ふなり」と解説し、字義は「道にまよう」ということになった。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 L図に相対立する[]の「時計の針の反対方向に90度転回する方位規定」と、[]の「時計回りに90度転回する方位規定」を示した。
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(C) 2017 OHKAWA

◆前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・12」で解説し証明したように、『魏志』倭人伝に記載された全15ヵ所の方位記事に1点の誤読(批判)を加えなければ、M図のごとく転回日本列島地理となる。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 N図に示すように、日本列島の西端の沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候、中国海岸線地域の北部も冷たい気候である。いっぽう、日本列島の東端の神津島は冬に雪が降らない暖かい気候、中国海岸線の南部も暖かい気候である。ゆえに日本列島の〔西冷〕と中国海岸線地域の〔北冷〕が一致し、日本列島の〔東暖〕と中国海岸線地域の〔南暖〕が一致するので、N図に示すように日本列島地理は「東は南へ時計回りに90度方位が転回する」ことになった。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 M図が示すように、「日本列島の東→南に転回」してL図の右側の[]の字源「時計回りに90度方位が転回する方位規定」に合致する。だから、M図は[]の字源を示すものであったゆえ、卑弥呼が統治した国家・国土・王朝の名は「倭」となったのである。

 呉国と倭国は呉と戦うことになったが、今まで解説してきたごとく、易占においても[][]の字は相入れず、その合理性について相対立するものであった。
 そして、N図に示した呉の会稽(かいけい)郡は、塩の産地として有名で会稽郡の塩は呉国に富をもたらすものであった。
 中国の正史の『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部には「東鯷人国の人民、時(定期的)に会稽に至りて市(いち/交易)す」という記事がある。この東鯷人国に、黄竜2(230)、呉の1万の水軍が遠征しようとした。
 M図の左側に示すように、日本列島の東を南に転回させる沖ノ島と神津島(こうづしま)を結ぶ同緯度線(北緯3415)の上に、世界でも最高級の速度であるといわれている塩水が渦を巻く鳴門の渦潮が存在する。
 以上のごとく、呉国と倭国は対立することになり、易占における[][]の字源の合理性は相対立するものであり、鳴門の渦潮は[]という国名を成立させ呉は会稽郡の塩によって富むというぐあいに対立し、さらにC図に示した宮古島・硫黄島間の広大な太平洋の海の道は熱くて辛(つら)い、肌をヒリヒリと刺す塩焼き場のごとくであった。
 これゆえ、上記した【その二】の記事は下記に示すように「伊耶那岐命と伊耶那美命は小国・日本へ赴任する以前、塩作りの儀式をおこなった」と伝えている。

◆上記した淤能碁呂島聖婚説話の冒頭文に続く【その二】の原文の書き下し文は「天沼矛(あめのぬぼこ)を賜(たま)ひて、言依(ことよ)さし賜ひき。故(かれ)、二柱の神、天浮橋(あめのうきはし)に立たして、その沼矛をさし下()ろして画()きたまへば、塩こをろこをろに画き鳴()して、引き上げたまふ時、その矛の末より垂(したた)り落つる塩累(かさ)なり積(つも)りて島となりき。是れ淤能碁呂島なり」である。
 この【その二】の書き下し文を、歴史が理解できるように補足を加えて現代語に訳すると下記のごとくになる。
 【その二】は――伊耶那岐命と伊耶那美命は、「日本列島の地底が泥のようになっている」と卑弥呼が立論した淤能碁呂島理論と関連する「天沼矛」という名の矛を卑弥呼王朝から賜わり、小国・日本の国作りを委任(いにん)された。これゆえ、二人は小国・日本へ赴任するにあたって、淤能碁呂島理論の呪力を用いて呉軍を撃破(げきは)することを誓って、海水を煮沸(しゃふつ)して塩を作る儀式をおこなった。つまり、呉軍に勝って小国・日本に平和をもたらす事績(じせき)は海水を煮て塩を作る時のごとく苦しいゆえ、二人は塩作りをする儀式をおこなうことになったのである。二人は海水を焚()く儀式の会場に設けられた天浮橋に立って、天沼矛を指し下して淤能碁呂島理論を成立させることになった鳴門の渦潮の海水のごとく渦を画()くようにコオロコオロと煮る塩水をかき鳴らして渦を画いて、引き上げた時、その矛の先より垂(したた)り落ちる塩がだんだん重なって積もって島のごとき形となった。だから、淤能碁呂島というのである。
 注 つまり、〔海水を煮沸する湯気が肌をヒリヒリと刺す辛(つら)い塩作り儀式〕は、『魏志』倭人伝に記述された人民が倭の大乱であじわった辛苦(しんく)と、また呉の遠征軍の来襲に脅(おび)える小国・日本の人民の苦しみをもあらわした。ゆえに、矛の先からしたたって重なり積もった塩は倭国の大乱に勝利して人民が安らかに生活することができた転回日本列島地理と、また呉の遠征軍に日本軍が勝利して平安を取り戻す二人の使命をあらわした。だから、淤能碁呂島理論をあらわす「塩作り儀式」は「淤能碁呂島」と表現された。

 前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・12」で証明したように、上記した【その二】の記事末部の「淤能碁呂島」は、まさにM図に示した「転回日本列島地理」を「淤能碁呂島」と称するものであった。ゆえに【その二】の文中に登場する「塩こをろこをろに画き鳴()して」は、M図の左側にある「鳴門の渦潮」の形状を表現するものであったことになる。
 C図に示した〔呉の遠征軍が目指した海の道〕には、その途中にO図に示す宮古島と硫黄島を結ぶ北緯2445分の約1,650㎞にも及ぶ遥かに遠い太平洋横断の海の道がある。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 【その二】の記事中の「その矛の末より垂(したた)り落つる塩累(かさ)なり積(つも)りて島となりき」という文は、O図の「宮古島・硫黄島間の海の道の状況」を表現するものとなる。つまり「宮古島・硫黄島間の海の道の状況」は、O図の中央部に記したように〔塩焼き場のごとく陽射しがきつく肌を刺す海の道〕であるからである。
 また、「その矛の末より垂(したた)り落つる塩累(かさ)なり積(つも)りて島となりき」という文末部は「島なりき」であるゆえ、C図に示した「宮古島・硫黄島、そして小笠原諸島・伊豆諸島の島々」を表現するものであったにちがいない。

◆黄竜2年の1万の呉の遠征軍は、N図に示した台湾沖で8割から9割の兵士を失って壊滅した。というのも、中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して、P図に示す北極星は「太一(たいいち)」と呼ばれて〔神〕と定められて崇拝されていたからである。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 P図に示すように、当時(3世紀)の太一神・北極星は半径約10度=直径20度・1200分の円を描くものであったゆえ、O図に示した宮古島・硫黄島間の北緯2445分の同緯度の海の道を征服することができなかった。シナ天文によって、中国ではQ図に示す〔[](天頂緯度線と子午線)のキャッチを鍛錬する習慣〕が約320年の長い間廃(すた)れた。このため、急ぎ[]のキャッチを訓練し大海の道を征服しようとした呉の遠征軍は、B図に示した大海の天頂を覆(おお)う羅針盤「へびつかい座・ヘルクレス座」の星々で〔[]のキャッチ=1分の緯度差を精確に測定できる呪的眼力〕と技(わざ)と航海知識と経験を失っていた。
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 だから、台湾沖で1万の呉の遠征軍は8割から9割の兵士を失って壊滅した。中国の正史『後漢書』倭伝は呉の遠征軍が目指した東鯷人国について「紀元前3世紀、秦の始皇帝の命令で青年男女数千人を率いる徐福が蓬莱(ほうらい)の神仙の霊薬を求めて海に入ったが、発見できず死刑を畏(おそ)れて徐福一行が定住した国である」と伝える。
 東鯷人国の「蓬莱の神仙の山」を目指して遠征した呉軍は台湾沖で壊滅したゆえ、N図に示すように「台湾」は中国語では「蓬莱仙島」と呼ばれることになったのではあるまいか。
 『後漢書』倭伝にある東鯷人国の記事末部の文は「所在は絶遠にして往来すべからず」である。この文は「東鯷人国が所在する日本列島までの海の道は、東鯷人には往来できても、中国の人々には途中の台湾(蓬莱仙島)の沖で絶え、遥かに遠いゆえ、往来することができなかった。したがって、呉の遠征軍も往来できなかった」と伝えるものであったのである。
 東鯷人が呉の会稽と蓬莱の神仙がある日本列島を往来した海の道は[]をキャッチできれば科学の事実(1分の緯度差で測定できた事実)によって往来できたが、太一神・北極星で緯度測定する方法では科学の事実(当時の北極星は1200分の円を描くゆえ、1分の緯度差が測定できなかった事実)によって往来することができなかったのである。だから、呉の皇帝の孫権は再度日本列島遠征を命じなかったが、[]をキャッチする習慣が栄えていた倭や小国・日本では[]のキャッチは生きてゆくために絶対に不可欠のものであったために中国でこの習慣が廃絶(はいぜつ)されという事実を信じなかった。

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(C) 2017 OHKAWA

  これゆえ、呉軍は再度必ず東鯷人国=小国・日本へ遠征するにちがいないと信じて、来襲するはずもない呉の遠征軍を待ち構えていたことになる。

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