真実の日本国誕生史・14
●愛、高らかに日本国は誕生した(3)
■沼津市の高尾山古墳と淤能碁呂島聖婚説話
◆現在の学者たちは本居宣長(もとおりのりなが/1730-1801年)が著した『古事記伝』を教科書にして、宣長は『古事記』序の記事を忠実に読まなかったという重大な誤りをおかしたことにまったく気づかない。このため、宣長の『古事記伝』の注釈は重大な誤りをおかすものではないと主張する意見は誤読の空論、歴史とは無関係の空想・フィクションとなる。
『古事記伝』を教科書にするとなぜ誤読の空論になるか、この根拠・理由・経緯についてわがブログ「真実の日本国誕生史・12」で詳細に解説した。端的(たんてき)に言うと『古事記伝』は――『古事記』序が首尾一貫(しゅびいっかん)して「上巻だけに記載した夏音(かおん)文字と夏音文字を表記する楷書は、共に銀河から作られた。この事実を解明しないと、上巻に記述された歴史は解明できない」という警告を無視するゆえ――これが致命的な欠陥となって、学者たちの意見は誤読の空想・フィクションとなる。この証明は、わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回と11回においても詳細に解説しておこなった。
『古事記』序は「『古事記』は伊耶那美命が伊耶那岐命と小国・日本において結婚した式場で国作りの柱を〔愛〕と定めると唱えた、この【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために作成された」と伝えようとしたのである。伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話における淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記述された。この【日本建国の〔愛〕の理念】についても、学者たちが教科書とする宣長が著した『古事記伝』は明記しない。
わがブログ「真実の日本国誕生史・12」において、「伊耶那美命が小国・日本の国作りの柱を〔愛〕にすると唱えた」と書く『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の記事を『古事記』の序の「漢字は銀河から作られた事実を解明すれば歴史を解明できる」というメッセージに従って【その一】【その二】【その三】【その四】の4ブロックに分けて現代語に訳した――この現代語訳は、宣長が著した『古事記伝』の解釈とまた学者たちの解釈と全く異なる。
◆前々回の「真実の日本国誕生史・12」で【その一】の記事は――『三国志』呉書孫権(そんけん)伝に記述された230年の呉の水軍の日本列島遠征によって「国中の人々が呉軍の来襲に脅(おび)えて生きた心地もなくまるで緯度と方位を見失って大海を漂(ただよ)う船乗りのごとく絶望の淵(ふち)におちいって憂えている状況を払拭(ふっしょく)して、防御を堅固(けんご)なものにして人民が久しく安心するようにせよ」と卑弥呼王朝の面々に、伊耶那岐命と伊耶那美命は命令された――と記述されるものであったことを解説した。
そして伊耶那美命が防衛の女王に、伊耶那岐命が防衛の軍王(いくさのおおきみ)となって封(ほう)ぜられることになった地が、A図に示す東日本=小国・日本であった。
(C) 2017 OHKAWA
前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・13」において、【その二】の記事は「小国・日本に赴任する以前、伊耶那岐命と伊耶那美命は〔海水を煮て塩を作る儀式〕をおこなった。この儀式が〔淤能碁呂島〕であった」と伝えるものであることを証明した。
『魏志』倭人伝にある全15ヵ所の東西南北の方位を書く記事に1点の誤読を加えないと、B図のごとく日本列島の東は南に伸びる転回日本列島地理となる。
(C) 2017 OHKAWA
この転回日本列島地理は実在した卑弥呼王朝が制定した錯覚の地理であり、この「転回日本列島地理」の名が「淤能碁呂島」であった。淤能碁呂島=転回日本列島地理における「東が南となる、時計回りに90度転回する方位規定」が[倭]の字源であり、C図の右側に示した。だから、卑弥呼が統治する国家・国土・王朝の名は「倭」であった。いっぽう、C図に左側に示すごとく「南が東となる、時計の針の逆方向に90度転回する方位規定」が[呉]の字源であった。
(C) 2017 OHKAWA
呉の皇帝孫権が命じた呉軍の日本列島によって倭と呉は戦うことになり、[倭]と[呉]の字源成立の合理性もまたC図に示すように相(あい)対立しあうものであった。これゆえ、【その二】の記事が伝えるように――呉の遠征軍との戦いに勝利を祈願して、伊耶那岐命と伊耶那美命は日本国に赴任する前に、〔塩作りの儀式〕をおこなうことになった。B図の左側にある沖ノ島・神津島の北緯34度15分の緯度線上に世界でも最高級の速度で潮(海水)が渦を巻くといわれる〔鳴門の渦潮〕がある。この〔鳴門の渦潮〕は転回日本列島地理=淤能碁呂島を成立させた要因となって、[倭]の字源とその呪力(じゅりょく/神秘的な力)をあらわした。[呉]の「時計回りの逆方向に90度方位が転回する」という字源の呪力に対抗して、[倭]の字源「時計回りの方向に90度方位が転回する」の呪力で勝利するために、『古事記』は「伊耶那岐命と伊耶那美命は卑弥呼王朝から賜(たまわ)った天沼矛(あめのぬぼこ)を指しおろして渦を画(か)き塩コヲロコヲロと画き鳴らした」と伝える。したがって「天沼矛で画き塩コヲロコヲロと画き鳴らした儀式」は〔鳴門の渦潮〕の形状を表現するものであったことになる。また、呉の遠征軍との戦争では二人は辛く苦しむことになるゆえ、前もってその戦争の辛さに見立てられた熱くて辛い塩作りを二人はおこなうことになったのである。
◆今回のブログでは、『古事記』の淤能碁呂島聖婚説話における【その三】の冒頭文だけに限って、その秘密について解明する。残る【その三】の記事の秘密の解明は次回におこなう。
【その三】の冒頭文は、「その島に天降(あも)り坐(ま)して、天之御柱(あめのみはしら)を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき」である。
この記事は「伊耶那岐命と伊耶那美命は結婚式場と定められた土地(島)に到着した。二人は日本軍の勝利祈願をするため、天と蓬莱山(ほうらいやま)を祭る封土(ほうど)・盛り土となる結婚式場に両人の任務が成就した時に立つ天之御柱と建造される八尋殿(宮殿)を見立てて(想像して)、二人の結婚式は急ぎおこなわれることになった。というのも、今が今にも呉軍が来襲するかもしれず緊迫(きんぱく)した状況にあったので、八尋殿を完成させるまで待つことはできなかったからである」と伝えていたのである。
【その三】の記事における冒頭に登場する「その島」は、D図に示す静岡県沼津市中心街の北側に存在した一大湿地帯の浮島沼(うきしまぬま)であった。
(C) 2017 OHKAWA
現在の浮島沼は3世紀よりずっと小さくなっているが、現在も地名は地図上に存在し、『古事記』の記事に合致して「島」がついて「浮島沼」と呼ばれる。桜田門外で井伊大老が殺された1860年の冬に刊行された『東海道分間図』は浮世絵師の歌川貞秀(さだひだ)によって精密に描かれ、当時の浮島沼は上のⅮ図とほぼ同じ面積(三島市西部・沼津市・富士市東部の吉原までの地域)であったことが画かれている。【その二】における卑弥呼王朝から伊耶那岐命と伊耶那美命が賜った「天沼矛(あめのぬぼこ)」と「浮島沼」は「沼」で合致する。ゆえに、「天沼矛」は伊耶那岐命と伊耶那美命が封(ほう)ぜられることになった「浮島沼」の「沼」をあらわすものであったことになる。
浮島沼は富士山の雪解け水が湧出(ゆうしゅつ)する水深が浅い湖であり、至るところが沼となり――3世紀、浮島沼の南の砂礫州(されきす/砂丘)は粘土層や砂礫、葦の根の腐食層が載っていたことが、沼津市教育委員会がおこなった発掘調査で明らかとなった。
【その三】の冒頭の記事に登場する「八尋殿」の[尋]は「水の深さを測る単位」であり、「一尋(いちひろ)」は「約1.82m」、「八尋」は「約14.56m」となる。浮島沼と駿河湾を出入りする湖口、現在の田子の浦となった湖口の深さが八尋であったのではなかろうか。というのも、日本軍は浮島沼に進入した呉の遠征軍を包囲して撃滅(げきめつ)しようと作戦を立てるものであったにちがいないから、八尋殿の「八尋」は戦いの要衝(ようしょうとなる浮島沼への入口の水深をあらわしていたと推測されるからである。
◆D図に示すように、浮島沼の東側に下記の写真に示す高尾山(たかおさん)古墳がある。
2008年に、高尾山古墳は沼津市教育委員会によって発掘調査された。
高尾山古墳は東日本における最古で最大の前期古墳である。
E図に示すように、高尾山古墳は前方後方墳である。
(C) 2017 OHKAWA
後方墳中央の主体部の埋納(まいのう)施設から250年頃のものと考えられる土器と、250年頃のものと考えられる土器や鉄製品が一緒に出土した。これゆえ、沼津市教育委員会は墳丘(ふんきゅう)内から出土した土器は約2000点に上ったが、西暦230年頃より新しいもの(250年頃のもの)は含まれていなかったゆえ「墳丘は西暦230年頃に完成した」と推測した。そして、埋納施設から出土した230年頃の土器はわずかであり、同じ種類の土器はほとんど埋葬施設の外(墳丘上)で出土していることから、それらの土器は、墳丘が完成した際の祭祀(さいし)で墳頂部(ふんちょうぶ)に供えられた土器が、後で混じり込んだ可能性が高いと考えて、主体部の埋納施設が作られたのは埋納された品・おもに鉄の鏃(やじり)が示す250年頃と推定した。
これゆえ、沼津市教育委員会は「230年頃に墳丘が完成し、後方墳の主体部の埋納施設が作られて遺物を埋納したのは250年頃」と推測したことになる。
沼津市教育委員会の高尾山古墳の築造推定年代は230年(黄竜2年)の呉の東鯷人国遠征と、『魏志』倭人伝末部に登場する魏の正始(せいし)八年(247)の記事に登場する「載斯烏越(そちあお)」と「壱与(いよ)」の記事に合致する。この「載斯烏越」は「伊耶那岐命」の夏音名(夏音文字の名前)であり、「壱与」は「伊耶那美命」の夏音名であった。
F図に示す[呉]の金文形について、わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は「人が一手をあげて祝祷(しゅくとう)の祭器をささげ、巫女(みこ)が身をくねらせて舞う形」であると解説する。[呉]の上部の[口]が「祝祷の祭器」となる。
(C) 2017 OHKAWA
高尾山古墳の墳丘内から出土した約2000点に上る230年頃の土器は、[呉]の上部の[口]の「祝祷の祭器」であったと、わたくしは推定する。ゆえに、「高尾山古墳から出土した約2000点の230年頃の土器」は、呉国の巫女たちが祈祷(きとう)に用いる祭器(土器)をささげて舞って与えた呉軍の呪的(じゅてき)戦力が消滅して発揮できないようにするために、日本軍の兵士たちが墳丘のミゾに投げ込み廃棄(はいき)しまた主体部の棺の周辺に廃棄し埋めて呪(のろ)い、呉軍の呪的戦力を奪うための器物であったと推定される。したがって、主体部の埋納施設に埋められていた230年頃の土器は「230年に呉軍が遠征した」と告げる土器で、後で混じり込んだものではなかったと考えられる。
高尾山古墳の主体部に埋められていた250年頃の鉄鏃(てつぞく)は、『魏志』倭人伝の末部に登場する夏音名(戦いの魔女)をあらわす壱与であった伊耶那美命が倭女王に選ばれ、武将の載斯烏越(そしあお)であった伊耶那岐命は倭女王卑弥と不和であった敵国・狗奴(くな)国征伐を指揮するために小国・日本に封ぜられなくなったために、小国・日本を去る祭儀をおこなった時の遺物であったとわたくしは推定する。
◆したがってE図の高尾山古墳の後方墳は、八尋殿を建造する予定の敷地であったことになる。だから、古墳は一般的には墓であるが、高尾山古墳は墓ではなく「八尋殿が建造される土台と境内」となる「封土」の「堂」であったことになる。
白川静著『字統』は[堂]の字について「土壇(どだん)。土壇を築いて祠所(ししょ)を設けるところを堂という」と解説する。『説文解字』は[堂]の字源を「殿なり」と解説するが、この解説は誤りで「殿(宮殿)が建造される土壇」が[堂]であった。
高尾山古墳が所在する地名は「東熊堂(ひがしくまんどう)」であり、東熊堂の西隣は「西熊堂」である。したがって、高尾山古墳は「熊堂」に所在する。伊耶那美命は熊野那智大社の祭神であり、伊耶那岐命は熊野速玉大社の祭神であり、伊耶那美命の陵墓は熊野本宮大社の旧社地の大斎原であった。「熊野」という地名は「熊堂」と同じく[熊]の字がつく。「淤能碁呂島」の[能]の字義は「熊」、[能]は「熊が冬ごもりする巣の横穴に見立てられる緯度(横)が縦穴に見立てられた経度(縦)になるように転回する」を意味した。だから、高尾山古墳は墓ではなく、殿(八尋殿)が建造されていない「堂」(熊の堂)であったことになる。
2015年8月30日、沼津市市民文化センターにおいて、高尾山古墳の発掘に後半から携(たずさ)わったNPO法人古代邇波(にわ)の里・文化遺産ネットワーク理事長の赤塚次郎氏が講演をおこなった。この講演において赤塚氏は開口(かいこう)一番「わたくしがこれから始める話は物語です」と語った後に「物語ですから、まともな質問や正当な反論には確かな意見で答えることはできません」と述べた。その理由を赤塚氏は「高尾山古墳はスルガ王の墓、足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)山麓に結集した山の民の王の墓であったと考えるが、高尾山古墳と同時代に足高山中腹に作られた足高山尾上(おのえ)遺跡群の住居が、崖のごとく切り立った急坂の上の空地にどうして・なぜ作られたのか理解できない。高尾山古墳の墓と足高山尾上遺跡群住居との整合性・合理性がどうしても成立しない。だから、わたくしの意見は合理が成立するものではなく、物語である」と述べた。
このように「高尾山古墳は墓であった」とする説は、古墳は一般的に墓であるから墓であると考えたもので、高尾山古墳が墓であったと伝える古文献は存在しない。足高尾上遺跡群はじめ浮島沼周囲にある同時代のいくつかの遺跡群コンプレックス(複合体)と高尾山古墳を墓とする説には、赤塚氏が疑問を抱いたように矛盾や疑問が生ずる。他方、高尾山古墳とコンプレックス(複合体)遺跡群は『古事記』上巻の淤能碁呂島の記事に矛盾せず合理となる。
◆足高尾上遺跡群を代表して、下に示す「八兵衛洞(はちべえぼら)」という名がつく遺跡が所在する。
▲八兵衛洞遺跡図
高尾山遺跡の所在地は沼津市東熊堂の字北方(あざきたかた)である。「八兵衛洞」という遺跡の名は、「北方」と同じくある地域から子分かれする字(あざ)の名である。その「八」は「八尋」の[八]に合致し、「兵」は「兵士」の[兵]であり、「衛」の字源・原義は「防衛する。衛(まも)る」であり、「洞」は「切り立った崖や急坂の上にある空地」であった。だから、「八兵衛洞」の住居址(あと)は「駿河湾上にあらわれる呉軍の船影(せんえい)を見張る防衛兵が立てこもる急坂の上の空地の洞に作った砦(とりで)」であったことになる。
足高山中腹に位置する3世紀の八兵衛洞遺跡は、1978年に沼津市教育委員会によって発掘調査されて、三つの尾根上に84軒の竪穴住居址が発見された。しかしながら、遺物の量は少なく、器形復原できるような資料は極めて少なかったが、1点の青銅製の銅鏃(どうぞく)が住居址から発見された。ここは日本軍の精兵が集まる軍事集落であり、蓬莱山の一角であった。だから、当時、銅鏃は金のごとく高価であり、鉄鏃も貴重であり、また鏃(やじり)以外の器物は不老長寿の吉なる兆(きざし)を示すものであったので人々が喜んで持ち去ったために遺物量は少なく器形復原できる資料が極めて少なくなったと考えられる。
『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「紀元前3世紀、徐福(じょふく)は秦(しん)の始皇帝に命じられて蓬莱(ほうらい)の神仙(しんせん)の霊薬を求めてくるように命令されて、数千人の青年男女を率いて海に入ったが、手に入れることができなかったので死刑になることを畏(おそ)れて帰国しなかった。この徐福一行の子孫は3世紀には数万家となって、東鯷人国に居住していた」と記述する。この東鯷人国の国王が呉軍と戦ってもまったく勝ち目がないと判断して倭国に属することになって、小国名が「日本」となったのである。だから、「徐福が目指した蓬莱の神仙の不老長寿の霊薬がたくさん採れると思い込んだ蓬莱山」は「足高山」であったことになる。
G図は、法隆寺献納宝物「蓬莱山蒔絵袈裟(まきえけさ)箱」の蓬莱山図を模した絵である。
(C) 2017 OHKAWA
この蒔絵袈裟箱は日本に現存する蓬莱山図を代表する傑作とされる。G図が示すように蓬莱山の住居は、切り立った崖の上の洞(空地)に作られる。したがって、足高山尾上遺跡群は住居を蓬莱山の住居のごとく作って呉の遠征軍を浮島沼に誘い込んで壊滅させる作戦を成功させるための軍事集落(高尾山古墳コンプレックス)であったことになる。
司馬遷(しばせん)著『史記』の巻百八十は「徐福は秦の始皇帝に長生不老(不老長寿)の霊薬があると具申(ぐしん)して、3000人の青年男女を従えて、東方に船出し、〔平原広沢〕を得て、王となりながら帰国しなかった」と記述する。この「平原広沢」は「平原となる広い沢」すなわち「広い湿地」であると解釈されている。平原となる沼の湿地帯の浮島沼は広い沢となる。『説文解字(せつもんかいじ)』は[沢]を「光潤(こうじゅん)なり」とし、その〔玉篇〕で「水停(とど)まるを沢といふ」という語を加える。白川静著『字統』は[沢]の字について――〔風俗通、山沢〕に「水草交錯(こうさく)の處(ところ)」とし、水の発源(はつげん)の地をいう――と解説する。
前述したように、浮島沼は富士山の雪解け水が地下水となって湧出して様々な水草が交錯して繁茂する湖であった。また、あちこちの水底には源泉すなわち水が発源・湧出する泉があった。この水底の源泉の水は源泉の周囲ではまるで停(とど)まっているかのように見えた。ところが、辺りを見渡すと日光に浴びて水面はキラキラと光沢(こうたく)を発して波立つ音を発してざわつき水は激しく流れている。だから、「浮島沼」は「平原広沢」であったことになる。
現在、浮島沼の南東にある駿東郡清水(しみず)町には、3世紀の浮島沼と同じ富士山の雪解け水が地下水を流れて湧出する“東洋一の湧水量を誇る柿田川(かきたがわ)湧水泉群”が所在する。柿田川公園のあちこちにある源泉から湧く水は源泉周囲では停まっているかのように見えるが、湧水泉群から少し離れた公園の南側は水がざわついてキラキラと光沢を発して波立って激しく流れている。この柿田川公園の[沢]の字源に合致する光景は、徐福が到着した紀元前3世紀と伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した3世紀当時の浮島沼の[平原広沢]の光景を目撃していることになる。
▲清水町の富士山の写真
◆上の写真は清水町からの富士山の写真であるが、富士山の手前にある山が足高山である。
足高山(現愛鷹山)の山頂には愛鷹明神を祭る「桃沢神社」が鎮座(ちんざ)する。神社名に用いられる「桃」は中国において「蓬莱の神仙、つまり仙人に呪力を与える樹木・果実」であるゆえ「仙木・仙果」と呼ばれた。「桃沢」の[沢]は上記した通り「浮島沼」であった。
日本軍は足高山が徐福が到着した不老長寿の霊薬を求めて目指した蓬莱山であることを示して足高山中腹の洞に住居を建造すれば、呉の遠征軍は足高山を目指す蓬莱山であると察知するにちがいないと企んで、平原広沢の浮島沼で呉の遠征軍を包囲して壊滅する作戦を立てたのである。
足高山(愛鷹山)の標高は1,187m、愛鷹山連峰の主な山岳の標高を北から列記すると黒岳が1,087m、越前岳が1,504m(最高峰)、前岳が1,336m、蓬莱山が1,296m、呼子岳が1,310m、位牌岳が1,458m、大岳が1,262m、袴腰岳(はかまこしだけ)が1,248mである。愛鷹山連峰にあっては愛鷹山・足高山は連峰最高峰ではなく上記した山岳にあって8番目の高さにかかわらず、連峰を代表する山となった。というのも、足高山の山頂には山頂に桃沢神社が鎮座して――徐福一行が目指した蓬莱の神仙(仙人)の呪力となる不老長寿の霊薬の桃の実がたくさん採れる名産地と思い込んだ蓬莱山――であったからである。
その証拠に、桃沢神社が所在する北緯35度12分・東経138度48分28秒の沼津市の足高山・愛鷹山の2度北のほぼ真北(わずか28秒西側)の北緯35度14分の鋸岳も「愛鷹山」と呼ばれる。この鋸岳・愛鷹山の西隣の北緯345度14分・東経135度48分の標高1,296mの山岳の名は、上記したごとく、また地図に記されているようになんと「蓬莱山」(富士市と裾野市の境)である。
また、富士市と裾野市の境にある愛鷹連峰の蓬莱山と滋賀県犬上郡多賀(たが)町多賀に所在する多賀大社も同緯度の北緯35度14分である。多賀大社には伊耶那岐命と伊耶那美命が祭られている。
さらに、徐福一行が蓬莱山と思い込んだ北緯35度12分の沼津市足高山山頂と滋賀県の琵琶湖に浮かぶ最大の沖島(おきのしま)の最高峰の蓬莱山山頂も北緯35度12分である。
さらにさらに最高峰が蓬莱山である上西下東の沖島の空中写真の形は下に示すように、上のD図に示した沼津市の蓬莱山(足高山)・浮島沼・高尾山古墳と富士市の田子の浦が所在するまでの地域と伊豆半島の空中写真にソックリである。
▲沖島の空中写真
沖島の蓬莱山の標高は225m、足高山の標高は1,187mであるゆえ両山の標高は大きく隔たる。しかし、琵琶湖の西岸の比良(ひら)山地の蓬莱山の山頂は沼津市の桃沢神社を祀る足高山山頂と沖島の蓬莱山山頂とも同緯度(北緯35度12分)である。比良山地の蓬莱山山頂は標高1,174mであるゆえ、同緯度の沼津市の足高山山頂と標高の差はわずか13mである。だから、沖島と比良山地の「蓬莱山」は山頂に桃沢神社を祀る沼津市の足高山が徐福一行が目指した「蓬莱山」であったことを現在に伝えていることになる。
H図に、上西下東の沖島の地図の形を示した。この「上西下南」の地図の形は、上に示したB図の「淤能碁呂島の転回方位規定」に合致する。ということは、C図の右図の[倭]の字源の「時計回りに90度転回する方位規定」にも合致する。
わがブログ「真実の日本国誕生史・2」で解説したように、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話は「伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)に倭女王の天照大御神は残酷な徇葬(じゅんそう)を指揮して多数の青年男女を殺して埋めた。これを怒った伊耶那岐命は配下の日本軍兵士とともに玄室(げんしつ)から伊耶那美命の亡骸(なきがら)が納まる棺を略奪(りゃくだつ)するクーデターを決行して、伊耶那岐命と日本軍兵士たちは夜の熊野路を逃走した」と伝える。
『日本書紀』は「伊耶那美命は花の窟(いわや)に葬られた」と記す。ゆえに、大斎原に築造された伊耶那美命陵の玄室から奪った伊耶那美命の棺は花の窟(三重県熊野市有馬町)に埋葬されたことになる。花の窟は東経136度05分であり、H図の下部に示すように花の窟の経度線は沖島の東岸を擦(こす)るように通過する。だから、前述したように、沖島の最高峰の蓬莱山と同緯度の山頂に桃沢神社が鎮座する足高山は徐福一行が目指した蓬莱の神仙の不老長寿の霊薬が採集できると思い込んだ蓬莱山であり、この蓬莱山の南一帯にひろがる浮島沼は司馬遷著『史記』が「平原広沢」と記した湿地帯であったことになる。
以上からして、高尾山古墳は墓ではなかった。『古事記』の淤能碁呂島聖婚説話に「天之御柱を見立て、八尋殿を見立てた」と記述された、天之御柱が立っていない八尋殿も建造されていない「堂」の「封土・盛り土」であったことになる。
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