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2017年8月27日 (日)

真実の日本国誕生史・15

 ●愛、高らかに日本国は誕生した(4)
■日本軍の兵士達と淤能碁呂島聖婚説話
 

◆わがブログ「真実の日本国誕生史・3」に――「わが国で最初に漢字を習得したのは5世紀頃あるいは6世紀頃」という定説が完全なる空理空論であることをいとも簡単に証明できる方法を具体的に明確に示した。また、わが国には紀元前2050年頃の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に夏音(かおん)文字が伝来して習得されたが、この夏音文字を書いた資料が現在においても学者たちに1点もなぜ発見されないのか、この明確なる根拠・理由となる“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)の〔3つの掟〕についても解説した。ゆえに、この回のブログの解説や証明に疑問を抱く人、「誤っている」と反論する人はわがブログ「真実の日本国誕生史・3」を読んでいただきたい。
 紀元前3000年頃に生存した倉頡が考案した「結縄(けつじょう)」と名づけられた起源漢字から7世紀の隋代(ずいだい)に完成した楷書(かいしょ)までの全漢字は、銀河から作られた。「漢字は銀河の子、銀漢(ぎんかん)の子」であった。というのも、「銀河」の別名は「銀漢」であり、「漢字」は「銀漢から作られて文字」の略称であったからである。
 夏音文字は2世紀後半から3世紀半ばまでのわが国の様子を記述する『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名に用いられ楷書で表記されて残っている。また、『魏志』倭人伝は「倭の占いに用いられる辞(文字とことば)は令亀(れいき)の法つまり中国の殷代(いんだい)の亀の甲羅に刻む甲骨文字に相似していた」と記述し、「倭の卜辞に用いられた文字は夏音文字であった」と伝える。また『魏志』倭人伝は「卑弥呼が文書に用いる文字は魏の都や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)や諸韓国の楷書と差錯(ささく/相違)する文字であった。倭の小国の伊都(いと)国の港では卑弥呼が用いる夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国の楷書を点検し確認して正しく変換できた」という記事をもって、「卑弥呼が用いた夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国で用いられた楷書は共に銀河から作られたから、伊都国の港では銀河各部の形状を観察して夏音文字と楷書を正しく変換できた」と証言している。
 夏音文字は『魏志』倭人伝の他に、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて楷書で表記されて多数残っている。
 現在の学者たちは本居宣長(もとおりのりなが/17301801)が著した『古事記伝』を教科書とする。このため、彼らの意見は誤読の空論、歴史が解明できない空想となる。
 太安万侶(おおのやすまろ)が書く『古事記』の序は、その冒頭部で「夏音文字はわが国に後期縄文時代初頭に伝来し、前期縄文時代初頭以来約2000年におよんで芸術性豊かな土器・土偶を造った伝統を受け継いだ関東地方の芸術家たちによって習得された」と伝える。また、『古事記』序は末部で「楷書の日下(にちげ)は夏音文字の玖沙訶(くさか)と同義、楷書の帯(たい)は夏音文字の多羅斯(たらし)と同義である」と解説する。要するに、『古事記』序は「上巻だけに記載した夏音文字と夏音文字を表記する楷書は、共に銀河から作られた。この事実を解明しないと、上巻に記述された歴史は解明できない」と警告(けいこく)する。
 この警告を、宣長が著した『古事記伝』は徹底的(てっていてき)に排除(はいじょ)した。だから、これが『古事記伝』の致命的な欠陥となって、『古事記伝』を教科書とする学者たちの意見は歴史とは無関係な誤読の産物となる。

◆太安万侶が『古事記』序でおこなった警告は、「『古事記』は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために作成された」と伝えるためであった。
 伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記述された。
 わたくしは『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話を【その一】【その二】【その三】【その四】と4つに分けて、安万侶の警告に従って現代語に訳した。この現代語訳は、わがブログ「真実の日本国誕生史・12」に記載した。
 当然、わたくしの現代語訳は宣長が著した『古事記伝』を教科書とする学者たちの歴史を解明しない解釈・意見とは別なるものとなり、日本国誕生史の真相はもちろん伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】をも科学的に解明・証明できるものとなる。
 わがブログ「真実の日本国誕生史」は12回~前回の14回まで、【その一】、【その二】、【その三】の冒頭部までを詳細に解説し証明してきた。この要約は下記のごとくなる。

 208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあった。呉の2万の水軍は80万の魏の大軍を一夜にして撃破(げきは)して劇的な勝利をおさめた。
 中国の正史『三国志』呉書孫権(そんけん)伝は「黄竜2(230)、呉の皇帝孫権は1万の水軍を夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に分かれる東鯷人国に向けて遠征させた」と記述する。この情報をいち早く知った東鯷人国王は魏の40万の大軍に匹敵(ひってき)する1万の呉軍と戦ってもまったく勝ち目が無いと判断して、独立国であることにあきらめて倭国に属する一員となること決意して、防衛の援助を倭女王の卑弥呼に願った。ゆえに、東鯷人国は倭国に属する小国となり、国名は「日本」と改まった。卑弥呼王朝の面々に「国中の人民たちが緯度と方位を見失って大海原を漂流する船乗りのごとく絶望の淵(ふち)におちいって憂えている状況を払拭(ふっしょく)して、防衛を堅固(けんご)なものにして人民が久しく安心するようにせよ」と命じられて、伊耶那岐命は軍王(いくさのおおきみ)に、伊耶那美命は女王に任命されて、二人は小国・日本へ封(ほう)ぜられることになった。
 この旧東鯷人国にして新生の小国・日本は、A図に示す東日本であった。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 【その二】の記事においては――小国・日本へ赴任する前、伊耶那岐命と伊耶那美命は〔熱い塩焼き場で辛(つら)い塩作りを体験する儀式〕を行うことになった――という記事をもって、「二人が命じられた小国・日本への赴任は、呉の遠征軍の来襲の防衛に備えるためであった」と語られる。
 前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・14」で詳細に解説し証明したように、B図に示す伊豆半島の付け根の静岡県沼津市の旧称・足高山(現在の愛鷹山)は、中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝が「紀元前3世紀、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)に命令された徐福(じょふく)と数千人の青年男女が大海を渡って蓬莱(ほうらい)の神仙(しんせん)の不老長寿の霊薬が採集できると思い込んで目指した蓬莱山」であった。
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(C) 2017 OHKAWA
  
 また、足高山の南にあって3世紀には富士市吉原・沼津市・三島市東部まで広がっていたB図に示した浮島沼は――司馬遷(しばせん)著『史記』巻百八十に「始皇帝の命を受け、徐福が3,000人の青年男女を従え、東方に船出して、平原広沢(広い平野にして湿地帯)を得た」と記述された――その「平原広沢(へいげんこうたく)」であった。
 『後漢書』倭伝は「徐福と青年男女数千人一行の子孫たちは、3世紀には夷州と澶州(亶州)に分かれる東鯷人国に居住して数万家となっていた」と記述する。
 だから、〔呉軍は沼津市の足高山・浮島沼に目指して襲来(しゅううらい)する〕と推定されることなって、天と蓬莱山(足高山)を祭って神に勝利を祈願する封土(ほうど)が築造された。この封土は、伊耶那岐命と伊耶那美命が小国・日本へ封(ほう)ぜられたことを示す、つまり任務が成就(じょうじゅ)した時に小国・日本を領土として与えられることを示す盛り土であった。また、この封土は二人の結婚式場でもあった。
 この結婚式場について、【その三】の記事の冒頭部は――その島に天降(あも)り坐()して、天之御柱(あめのみはしら)を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき――という書き下し文で説明する。
 日本軍が呉の遠征軍に勝利して撃退(げきたい)すれば、伊耶那岐命と伊耶那美命の任務が成就して天之御柱が立てられ八尋殿が建てられるものであったゆえ――上記した書き下し文は結婚式場について「天之御柱と八尋殿を見立てたまひき」つまり「封土に天之御柱が立ち八尋殿が建造されている心算(つもり)になって」と表現された。したがって、伊耶那岐命と伊耶那美命は天之御柱が立っていない、八尋殿が建造されていない封土において、急ぎ結婚することになった。
 この結婚式場は、2008年に発見されたC図に示す静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳であった。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・14」で証明したように、一般には古墳は墓である。しかし、高尾山古墳は天と足高山を祭って呉の遠征軍との戦いに勝利を祈願する封土であった。高尾山古墳が墓ではなく封土であったことは、この古墳の所在地「東熊堂」の[]が伝えている。つまり、[]の原義は「封土。祭場となる盛り土」であった。 
 前方後方墳の高尾山古墳は、A図に示した東日本における最古で最大の古墳である。

◆今回は、冒頭部の後に続く【その三】の書き下し文が伝える秘密を解明する。
 この【その三】の部分を現代語に訳すると――伊耶那岐命は妻となる伊耶那美命に「おまえの体はどのようにできているのか」と言うと、伊耶那美命は「わたくしはだんだん成熟する体でありますが、まだ整(とと)わない所が一ヵ所あります」と答えた。この返事に対して、伊耶那岐命は「わが身はだんだん成熟して、できすぎた所が一ヵ所ある。ゆえに、吾の身体のできすぎた所をもって、お前の体の足りない所に刺し入れ塞(ふさ)いで、国土(くに)を生もう(つまり国作りをしよう)と思う。この国生みの方針はどうであろう」と言うと、伊耶那美命は「それは結構(けっこう)です」と言って承諾した――となる。
 この「女陰」と「男根」の問答(もんどう)13歳の壱与(いよ)=伊耶那美命の子を生む体に整っていない様子とたくましく屈強(くっきょう)18歳の載斯烏越(そしあお)=伊耶那岐命の体の様子を説明すると共に、伊耶那美命が呉軍の呪的(じゅてき)戦力を奪う魔女としての呪力・気力がまだ整っていない状況を譬(たと)えたものであり、伊耶那岐命が日本軍を構成する兵士たちが集まって整った状況と呉軍を罠(わな)にはめる要衝(ようしょう)の工事に早速着手することを譬えて表現するものであった。
 伊耶那美命の夏音名(呉軍と戦う「日本軍の魔女」をあらわす夏音文字の名)は『魏志』倭人伝の末部に登場する「十三歳の壱与」であり、伊耶那岐命の「日本軍の軍王(いくさのおおきみ)」をあらわす夏音名は「『魏志』倭人伝の末部に記載された「載斯烏越」であった。
 わが国にはそれが事実ならば〔仮名文字の出発点〕となる神代(じんだい)文字で記述される『秀真伝(ホツマツタヘ)』という名の古文献が存在するが、学者たちは「確かな証拠が無い」と断定して〔神代文字の存在〕を全面否定して『秀真伝』を偽書と定める。この神代文字を研究する松本善之助氏が著作した『ホツマツタへ』(毎日新聞社発行)は「『秀真伝』には、イザナミノミコトが長女ワカ姫を生んだ時は三十一歳、イザナキノミコトは四十歳であったと記す」と指摘する。『魏志』倭人伝には「倭では春に耕作する時と秋に収穫する時に一年(一歳)ずつ数える、現在の一年を二年とする二倍暦があった」という注がある。したがって、上記した『ホツマツタヘ』の年齢は、一年を一年とする暦だと伊耶那美命は15.5歳、伊耶那岐命は20歳であった。したがって、伊耶那美命=壱与が13歳の時には、伊耶那岐命=伊耶那岐命は17.5(18)であったことになる。
 注 『魏志』倭人伝の末部の「十三歳の壱与」という記事を二倍暦で「6.5歳の壱与」と考えると、高尾山古墳で結婚式に臨(のぞ)んだ伊耶那美命は結婚できなかった年齢となる。だから、『魏志』倭人伝は二倍暦の注とは別に中国の暦に合わせた壱与=伊耶那美命の年齢が記載されていたことになり、伊耶那美命は中国の暦における13歳の時に高尾山古墳で結婚して小国・日本の女王になったことになる。
 13歳の子どもを生める体に成熟していなかい乙女の伊耶那美命は、呉軍の呪的戦力を奪う魔女としての気力が整っていない状況を「わたくしはだんだん成熟する体でありますが、まだ整(とと)わない所が一ヵ所あります」と表現した。ゆえに、伊耶那岐命は「お前の体の足りない所に刺し入れ塞(ふさ)いで、国土(くに)を生もう(つまり国作りをしよう)と思う。この国生みの方針はどうであろう」と述べた。つまりB図に示した〔浮島沼の駿河湾を出入りする湖口(ここう/現在の田子の浦の箇所)が狭くて呉の遠征軍の艦隊が浮島沼に進入できない状況〕であったので、伊耶那岐命は「浮島沼の湖口の拡張工事を早速着手して国作りを始めようと思うが、どうであろう」と述べたことになる。 
 A図における小国・日本の東日本の沿岸部に、「鹿島(かしま)踊り」という風習が分布する。この鹿島踊りは主に青少年もしくは成人男子たちが踊る集団民俗舞踊である。また、一部地域においては乙女・女子たちが踊る。この鹿島踊りは、石材・木材運搬の担い手たちによって広められたという説がある。ゆえに、石材・木材運搬の担い手の先祖たちは田子の浦の拡張工事に従事したので、日本軍の兵士たちが青少年と成人男子で構成されたこと伝えて、鹿島踊りは東日本の海岸線沿いに分布することになったと推定される。この戦いには乙女の伊耶那美命が呉軍の呪的戦力を奪う魔女として参加するものであったゆえ、一部の地域では乙女と女子たちが集団で踊ることになったのであろう。
 そして、C図の高尾山古墳の墳丘(ふんきゅう)から約2,000点に及ぶ土器が出土したが、これらの土器は地元産の形式以外に、北陸や東海西部、近江(滋賀県)、関東などの土器が見つかった。つまり〔北陸から、東海西部から、近江から、関東地方からやってきた青少年と成人男性たちと地元の東海東部の駿河の青少年と成人男子たちが兵士として高尾山古墳に集合した状況〕を、伊耶那岐命は「わが身はだんだん成熟して、できすぎた所が一ヵ所ある」と表現して「男根」に譬えたことになる。

◆中国の五帝時代の「結縄」という名の始原漢字から7世紀の隋代に完成した楷書以前の全漢字は、すべて下に示す銀河の範囲の各部の形状から作られた。この銀河範囲を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけた。

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 〔文字作成銀河の各部の名称〕を、わたくしは下記のごとく定めた。

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(C) 2017 OHKAWA

 D図は中国の山東省の莒県(きょけん)に所在する大汶(だいもん)文化の遺跡である陵陽河(りょうようが)遺跡から出土した「石斧(せきふ/石でできた斧)」の図書である。これと同じ「石斧」の図書が、山東省の諸城県(しょじょうけん)に所在する諸城県前寨(ぜんさい)遺跡からも出土した。また、この遺跡からは石斧が発掘された。この遺跡は紀元前2500年事に相当する遺跡であるゆえ、大汶文化の遺跡である。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 D図の「石斧」の図書のおける「斧(おの)の刃の部分」は、E図に示すように――上の〔文字作成銀河各部の名称図〕の左上にある「十字の銀河の子宮」の形に相似すると見立てられて、「石斧」の図書となった。「石斧の柄()=柯()の部分」は「帯(十字の銀河の子宮から鬼の横顔に似る銀河の口まで垂れる箇所)の銀河」が見立てられた。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 「十字の銀河の子宮」は「戉(まさかり)の刃」の形に相似するので、[(えつ)]の字源にもなった。
 F図の左側の[]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)について、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は「斤(おの)を両手でさしあげている形」と解説し、また『字統』は[]の字は「兵器の意であるが、のち戦う人をもいう」と解説する。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 F図の中央の[]の金文形について、『字統』は「戉(えつ)=鉞(まさかり)の刃(じん)部を下におく形」と解説し、H図の右側の[]の金文形について『字統』は「鉞の刃部を下にしておく形。その大なるものが王である」と解説する。したがって、[]の金文形は「小さい戉の刃部を下にしておく形」ということになる。
 これゆえ、[][][]の字源はE図の「十字の銀河の子宮」であった。

 わがブログ「真実の日本国誕生史・11」において、『古事記』序の末部に登場する「楷書の日下(にちげ)は夏音文字の玖沙訶(くさか)と同義、楷書の帯(たい)と夏音文字の多羅斯(たらし)は同義」という説明の秘密を詳細に解説し証明した。
 G図に示す太陽の形に観える「三つ輪の銀河」が[]の字源であり、「十字の銀河」が[]
をあらわした。「三つ輪の銀河」は[]の字源、「十字の銀河」が[]の字源となって、[][]が加わる[]の字が成立した。「十字の銀河の全身の輝き」は〔夜の月光に輝く沙(すな)の輝き〕に見立てられて[]の字源となった。
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(C) 2017 OHKAWA 
 
 H図に示すように、[][]は「言う言葉すなわち音の記号となる夏音文字」をあらわし、E図で「石斧の柄()=柯」に相当する「帯の銀河」が[]の字源であった。ゆえに[]に[可]が加わる[]の字源が成立した。
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(C) 2017 OHKAWA
 

I図に示す「十字の銀河」は〔文字作成銀河の各部の形状から作られた文字を生む母体〕と定まるゆえ「多い」の[]の字源となった。「十字の銀河全体にある緯度線と子午線(経度線)の網」は[(もう/あみ)][]の字源となり、「十字の銀河の子宮」と「M39」の散開星団は[(すい/小鳥)]の字源となり、「羅針盤」の[]の字源が成立した。「帯の銀河」が「多羅斯」の[]の字源であった。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 以上からして、女体に観える「十字の銀河の子宮」を「子宮」と見立てるのは容易である。しかし、「十字の銀河の子宮」を[][]の字源となる「斧の刃、戉の刃」に見立てるのは難(むずか)しい。この点と「日本」と「日下」の語源は同じ、伊耶那岐命の夏音名「載斯烏越」に配される[]の字源は「帯の銀河」であったことを、太安万侶は注目して「日下」・「玖沙訶」と「帯」・「多羅斯」の同義語を選んで「漢字が文字作成銀河の各部の形状から作られた事実」を解説するモデルに選んだと考えられる。

◆前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・14」において証明したように、【その二】の末部に登場する「淤能碁呂島」は、J図に示す卑弥呼王朝が制定した「転回日本列島地理」であった。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 『魏志』倭人伝には、〔地理の方位〕を記す箇所は全部で15ヵ所あり、この15ヵ所の〔方位記事〕に1点の〔誤読(批判)〕を加えないと、J図のごとく日本列島の西端にある北九州沖の玄界灘(けんかいなだ)に浮かぶ沖ノ島と同緯度(北緯3415)の日本列島の〔東の端〕にある神津島(こうづしま)は〔南〕のほうに所在することになる。この「90度時計回りに転回して〔東〕が〔南〕になる方位規定」が[]の字源であった。だから、「日本列島の〔東〕は〔南〕へ伸びる」と立論した淤能碁呂島=転回日本列島地理を制定した卑弥呼王朝の名は「倭」となり、国家と国土も「倭」と名づけられたことになった。
 上のJ図の左側に淤能碁呂島=転回日本列島地理の基準となった沖ノ島と神津島の同緯度の状況を、現在方位にもとづき、K図に図示した。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 L図の左図の神津島の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は、転回方位にもとづく。L図の「十字の銀河の子宮」は天文図の〔右西・左東〕の定式ではなく、地理の〔右東・左西〕の定式にもとづく形を示すものである。両者の図が示すように、「転回方位にもとづく神津島の地宜」は「十字の銀河の子宮の傾き」に合致し、また「神津島の地宜」と「十字の銀河の子宮」の形は相似する。ゆえに、「神津島の地宜」は前述した〔斧の刃部〕や〔戉の刃部〕に見立てられた[][][]の字源(E図とF図参照)を示すことになった。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 J図に示したように、淤能碁呂島=転回日本列島地理の場合、神津島は〔西南〕に位置する。ゆえに、伊耶那岐命は「神津島」を〔文字作成銀河各部の名称図〕で〔西南〕に位置する「夏の銀河の西南部」に見立てたことになる。
 M図に示すように、「夏の銀河の西南部」の東部にはわたくしが「巨龍の銀河」と名づけた〔巨龍の顔〕の部分が漬()かり、「わし座α星(彦星)の西隣の銀河」は「巨龍の銀河」の〔尾の部分〕となる。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 「夏の銀河の西南部」は金色に輝くゆえ[]の字を示し、「巨龍の銀河」は[]をあらわすゆえ、呉軍が日本列島へ遠征した年の「黄竜」という元号をあらわした。したがって、淤能碁呂島説話における【その三】では「神津島」は「夏の銀河の西南部」に見立てられたことになる。M図に示したように、「夏の銀河の西南部と巨龍の銀河の合体形」は「男根」にソックリである。だから、伊耶那岐命は「日本軍の軍王である自らと日本軍の兵士たち」を【その三】の書き下し文における「我()が身は成り成りて成り余れる処(ところ)一処(ひとところ)在り」という文が示すように、M図の「男根に似る銀河」に譬えたのである。

◆現在も神津島からは良質の黒曜石(こくようせき)が産出する。黒曜石は火山活動によってできた“黒いガラス”とされ、上手に刃をつけると石斧はもとより皮はぎや肉切り用や禾(/穀物となる草の穂)を刈()る石包丁や、石槍(いしやり)や鏃(やじり)として利用された。神津島の黒曜石は良質であったために、関東地方、東海西部(尾張・三河・遠江)、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。なんと、神津島の黒曜石は約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼や伊耶那美命が生存した後期弥生時代の3世紀まで本土に運ばれて利用されていた。神津島から伊豆半島までは30km以上も海で隔てられ、神津島から石川県能登半島まで直線距離で約400㎞もある。約3万年の旧石器人たちは、N図右上の[(げん)]の字源となる「天頂緯度線と子午線」をキャッチする能力を有していたために大海を往来し、北陸の能登半島などの遠い地から旅する人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
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(C) 2017 OHKAWA 
 
 この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが、その実態は未だ謎のベールに包まれて不明とする。人類は原始の時から、脳に[]の「天頂緯度線と子午線」で精密に緯度を測定するきる本能がそなわり、鍛錬すれば[]をキャッチできる神秘的な眼力をそなえることができたのである。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動する原始の生活にあっても、“道に迷った! 死ぬ”と一気にパニック状態におちいって絶望して集団自殺をしないですみ、人類は[]をキャッチして滅亡しなかったのである。
 J図の左側の沖ノ島は、玄界灘(げんかいなだ)に浮かぶ。「玄界灘」という名は「北極星で天の北極の高度を計って緯度を換算する方法では命を失って死ぬが、[]をキャッチすれば往来できる陸地から遠く離れる波が荒い大海」と意味した。だから、当然、[]をキャッチできると日本列島の西端と東端にはるか遠く離れる沖ノ島と神津島が同緯度であることを測定することができた。卑弥呼王朝の面々は[]をキャッチできたから、日本列島の〔東〕は〔南〕のほうに伸びていると断定し淤能碁呂島地理を制定したのである。夏音文字の学芸は[玄]のキャッチを基軸にして組織され、夏音文字を知らない人々も原始から受け継がれた[玄]のキャッチをもって生計(くらし)を立て命を保持するものであったゆえ、淤能碁呂島地理は真理であると信じられることになったのである。

◆前述した神津島の黒曜石の分布地域と高尾山古墳から発見された土器の分布地域は一致する。つまり、神津島の黒曜石は倭国の北陸・近江・東海西部(尾張・三河・遠江)と小国・日本の東海東部(駿河・伊豆)と関東地方に分布し、高尾山古墳から発見された土器もまた倭国の北陸・近江・東海西部と小国・日本の東海東部・関東地方に分布する土器であった。
 ゆえに、倭国の北陸・近江・東海西部・関東に住む青年と成人男子たちは、東海東部の駿河・伊豆の境に所在する高尾山古墳に到着して、その周溝に呉の遠征軍への呪いの土器を放り込むことができたのである。したがって、倭国に住む北陸・近江・東海西部と小国・日本に住む東海東部・関東に住む青年と成人男子たちが日本軍の兵士たちであったことになる。
 伊耶那岐命がM図の「男根に似る銀河」に譬えた神津島の標高572mの天上山と神津島の海からの遠景は、高尾山古墳の側面形と瓜二(うりふた)つ・ソックリである。 
 桃沢神社が鎮座する沼津市の蓬莱山=足高山の山頂は北緯3512分であるゆえ、L図に示した神津島の北緯3412分の物忌奈命(ものいみなみこと)神社はちょうど1度南となる。[]の字源について、“字書の聖典”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は「憎悪するなり」と解説する。ゆえに、式内社の物忌奈命神社の祭神は「来襲する呉の遠征軍を憎悪する神」であったことになる。祭神の物忌奈命は三嶋明神の長男で、神津島の開祖とされる。
 現在、J図の左上の玄界灘に浮かぶ沖ノ島には、O図に示すように宗像(むなかた)大社の三女神のうちの沖津宮(おきつみや)、宗像市の大島には中津宮(なかつみや)、宗像市田島には辺津宮(へつみや)が祭られる。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 ところが、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話には「宗像」を「胸形(むなかた)」と表記し、「中津宮は宗像市田島に鎮座し、辺津宮は宗像市の大島の鎮座した」と伝え、現在の中津宮と辺津宮の所在地は相(あい)異なる。
 『古事記』上巻は、P図に示すように胸形(宗像)三女神は「十字の銀河」の各部に配置されたと伝えるものであったと考えられる。
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(C) 2017 OHKAWA

 3世紀、Q図に示すように辺津宮が鎮座していた宗像市の神湊(こうのみなと)海岸沖の大島の地宜(地図の形)は、三嶋明神の長子の神津島の地宜にソックリである。また、胸形の大島と神津島の地宜は、E図にて「石斧」と見立てられた「十字の銀河の子宮」にも相似する。
S405

   ゆえに、神津島は日本軍の兵士たちが呉の遠征軍を憎悪して呪った三嶋明神の長男となり、神津島より北へ10㎞離れる式根島(しきねじま)が次男、さらに式根島から近い北のある新島(にいじま)が三男となったと考えられる。したがって、三嶋明神の三男神は神津島、式根島、新島であったことになる。
 以上のごとく、斧や戉の刃となった良質な黒曜石が産出した神津島の地宜が「十字の銀河の子宮」の形に相似し、神津島は淤能碁呂島地理において西南に位置するゆえ「黄竜」の元号となった「夏の銀河の西南部」に見立て、「夏の銀河の西南部」とわし座α星付近の銀河部まで伸びる「巨龍の銀河」との合体形を、伊耶那岐命はM図に示した「男根に似る銀河」に見立てた。だから、伊耶那岐命は「自らと日本軍の兵士たち」を「男根」に譬えたことになる。

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