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2017年9月 7日 (木)

真実の日本国誕生史・16

 愛、高らかに日本国は誕生した(5)
■卑弥呼の地上絵と淤能碁呂島聖婚説話

◆前回(15)のわがブログでも指摘したが――わがブログ「真実の日本国誕生史・3」で指摘したように、「わが国において最初に漢字を習得したのは5世紀頃あるいは6世紀頃」とする定説は完全なる空理空論であるとことが、いとも簡単に証明できる事実が存在する。また、わが国には紀元前2050年頃の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に夏音(かおん)文字が伝来して習得されたが、この夏音文字を書いた資料が現在においても学者たちに1点もなぜ発見されないのか、この明確なる根拠・理由は“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)が定めた〔3つの掟〕が原因していることついても解説した。
 紀元前3000年頃に生存した倉頡が考案した「結縄(けつじょう)」と名づけられた起源漢字から7世紀の隋代(ずいだい)に完成した楷書(かいしょ)までの全漢字は、銀河から作られた。だから「漢字は銀河の子、銀漢(ぎんかん)の子」であった。というのも、「銀河」の別名は「銀漢」であり、「漢字」は「銀漢から作られて文字」の略称であったからである。
 夏音文字は2世紀後半から3世紀半ばまでのわが国の様子を記述する『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名に用いられ楷書で表記されて残っている。また、『魏志』倭人伝は「倭の占いに用いられる辞(文字とことば)は令亀(れいき)の法つまり中国の殷代(いんだい)の亀の甲羅に刻む甲骨文字に相似していた」と記述し、「倭の卜辞に用いられた文字は夏音文字であった」と伝える。また『魏志』倭人伝は「卑弥呼が文書に用いる文字は魏の都や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)や諸韓国の楷書と差錯(ささく/相違)する文字であった。倭の小国の伊都(いと)国の港では卑弥呼が用いる夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国の楷書を点検し確認して正しく変換できた」という記事をもって、「卑弥呼が用いた夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国で用いられた楷書は共に銀河から作られた。だから、伊都国の港では銀河各部の形状を観察して夏音文字と楷書を正しく変換できた」と証言する。
 夏音文字は『魏志』倭人伝の他に、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて楷書で表記されて多数残っている。
 太安万侶(おおのやすまろ)が書く『古事記』の序の冒頭部は「夏音文字はわが国に後期縄文時代初頭に伝来し、前期縄文時代初頭以来約2000年におよんで芸術性豊かな土器・土偶を造った伝統を受け継いだ関東地方の芸術家たちによって習得された」と記述する。この芸術家たちによって夏音文字が習得された東日本(関東地方)に、3世紀、伊耶那美命と伊耶那岐命が赴任して小国・日本が誕生した。この日本国誕生史は夏音文字で伝えられるものであった。ゆえに、太安万侶は東日本における夏音文字の習得の歴史を、『古事記』序の冒頭に記述したのである。それゆえ、『古事記』序は末部で「楷書の日下(にちげ)は夏音文字の玖沙訶(くさか)と同義、楷書の帯(たい)は夏音文字の多羅斯(たらし)と同義である」と解説する。要するに、『古事記』序は「上巻だけに記載した夏音文字と夏音文字を表記する楷書は、共に銀河から作られた。この事実にもとづき字源・原義を解明しないと、上巻に記述された歴史はまったく不明になる」と警告(けいこく)するものであったのである。
 太安万侶の警告は「伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために、『古事記』が作成された」と伝えるためのものであった。
 というのも、『古事記』上巻は天照大御神によって基礎が築かれた大和朝廷にとって極めて不都合な【日本建国の〔愛〕の理念】を伝え、皇祖(こうそ)の天照大御神の聖性をいちじるしく汚す反逆の古文献であったからである。ゆえに、夏音文字と楷書の字源・原義を銀河各部の形状に変換して記事(文字と語)の真義を明らかにして歴史を知る方法(仕掛け)が、『古事記』上巻全体に設けられることになったのである。
 伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記述されている。

◆わがブログ「真実の日本国誕生史」の8回・9回で取り上げた、A図の「卑弥呼の地上絵」もまた伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の地上絵】を後世に伝えるために作られた。
  卑弥呼の地上絵は、712年に作られた『古事記』作成よりも約450年前、伊耶那岐命と伊耶那美命が小国・日本で結婚した230年頃からわずか約30年後に作成が開始された。
S211
(C) 2017 OHKAWA
 
 「卑弥呼の地上絵」という名称は、わたくしが付けた。卑弥呼の地上絵は260年頃から作成が開始され約30年後の290年頃に完成したと考えられる。卑弥呼の地上絵は現在の静岡県浜松市北区細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形となって現存する。卑弥呼の地上絵は、今年(2017)のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の遠祖である「建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」とその一族によって作られた。「建比良鳥命」については『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話の末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖なり」と記載される。したがって、建比良鳥命はA図上部に記した「引佐(いなさ)町」に居住した井伊氏の遠祖である。引佐町に居住して血を絶やさずに神官職に就いていた建比良鳥命の氏族の本家は、1010年の1月元旦の寅の刻(午前4)に【日本建国の〔愛〕の理念】と日本国誕生史の伝承を永久に絶やさないと誓って、〔元祖の共保(ともやす)を井戸の中から誕生させる秘儀(ひぎ)〕をおこなって、武家の「井伊氏」を創設した。
 A図の「卑弥呼の地上絵」は両翼を有する鳥の形をしている。要するに、卑弥呼の地上絵は「愛の鳥」の地上絵であった。
 この「愛の鳥」の地上絵は、小国・日本が誕生した呉の黄竜2(230)に決行された呉軍の日本列島遠征の直後となる、その約30年後に作成が着手された。さらに、上記した『魏志』倭人伝は280年~289年頃に著作され、卑弥呼の地上絵は290年頃に完成されたゆえ、『魏志』倭人伝と卑弥呼の地上絵は同時代に作成されたことになる。さらにさらに『古事記』序の「わが国に夏音文字が伝来し、夏音文字と夏音文字を表記する楷書は共に銀河から作られた、この事実にもとづき字源・原義を解明して読めば歴史が解明できる」という警告・メッセージと同様に夏音文字と楷書の字源・原義を銀河各部の形状に変換すると、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は日本国が誕生した歴史を伝えるものであったことが科学的に証明できる理想的な完全なる史料である。

◆中国に正史『三国志』呉書孫権(そんけん)伝は「黄竜二年(230)、皇帝の孫権は一万の甲士(こうし/武装兵)を夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)へ遠征させた」と記述する。この夷州と亶州に分かれる国について、中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「東鯷人(とうていじん)国であった」と記述する。
 これまでわがブログ「真実の日本国誕生史」が幾度もくり返して解説し証明したように、B図に示す東日本が東鯷人国であった。
S412
  (C) 2017 OHKAWA
 
 中国の戦争史で有名な208年の赤壁(せきへき)の戦いで2万の呉軍は80万の魏の大軍を一夜にして撃破(げきは)して劇的な大勝利をおさめた。この魏の40万の大軍に匹敵(ひってき)する1万の呉軍が遠征して来る情報をいち早く知った東鯷人国王は呉軍と戦ってもまったく勝ち目がないと判断して、卑弥呼が統治する倭国に属する小国になることを決意して倭からの防衛軍の派遣を要望した。これゆえ、伊耶那美命が小国・日本の女王、伊耶那岐命が軍王(いくさのおおきみ)に選べられて赴任して、東鯷人国は滅び小国・日本となった。
 しかし、1万の呉の日本列島遠征軍は台湾沖で壊滅した。遠征軍は台湾沖で8割から9割の兵士を失い、残った数千人が帰還するという惨(みじ)めな結果となった。というのも、中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成し、C図に示す北極星を「太一(たいち)」と呼び、太一にはいつも神がいる所と定められたからである。
S413
(C) 2017 OHKAWA
 
 遠征軍が東鯷人国に到着するには、D図の右上の[]における天頂緯度線と子午線をキャッチできる呪的(じゅてき)な眼力と技(わざ)が必要であった。
S414
(C) 2017 OHKAWA
 
 遠征軍は、E図に示す台湾→宮古島→硫黄島→小笠原諸島→伊豆諸島へとつながる海の道を水行(すいこう)しなければならなかった。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 この海の道には、F図に示す約1,650㎞におよんで同緯度(北緯2445)の宮古島・硫黄島を結ぶ太平洋横断の海の道が存在する。
S416
(C) 2017 OHKAWA
 
 C図に示したように、当時(3世紀)の太一神・北極星は天の北極の周囲を半径約10度・直径約20度・約1200分の円を描いていたゆえ、F図の宮古島・硫黄島の同緯度の太平洋は1200分の11分の精度の測量が求められた。だから、1200分の円を描く北極星で緯度に換算する天の北極の高度を1分の精度で測量することができなかったゆえ、F図の太平洋の海の道は横断できなかった。他方、この太平洋は、D図の右上に示した1分の精度で測定できた[](天頂緯度線と子午線)をキャッチできれば征服できた。
 中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して北極星を神と崇拝することになったため、約320年間もの長い間、[]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣が廃(すた)れた。遠征軍がにわかに[]をキャッチする訓練をおこなっても[]をキャッチすることができる眼力と技を備(そな)えることができず、東鯷人たちが往来した宮古島・硫黄島の太平洋の海の道は征服することができなかったのである。
 ところが、倭の卑弥呼王朝も日本軍も呉の遠征軍はF図に示した太平洋の海の道を征服して必ず来襲するにちがいないと考えていた。
 というのも、G図に示すように呉国の首都の名は「建業(けんぎょう)(現在の南京)であったからである。
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(C) 2017 OHKAWA
 
2世紀初頭に成立した文字学者の許慎(きょしん)が著した“字書の聖典”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は「建業」の[]の字源を「朝律(ちょうりつ)を立つるなり」と解説する。つまり、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に登場する「天之御柱(あめのみはしら)」は、H図に示す「地面に直角となって垂直に立つ柱」であった。この天之御柱の先端はD図の上部に示した天頂点を指し示すゆえ、天之御柱を立てておこなう測量によって明らかになる「太陽が地平線の真東から昇る春分の日の朝の様子」を『説文解字』は「朝律を立つるなり」と[]の字源で解説したのである。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 F図において〔硫黄島は宮古島の真東〕にある。ゆえに、宮古島から見ると春分の日の朝に太陽が昇る水平線の、そのかなたに硫黄島が所在する。だから、「宮古島から硫黄島が所在する方向」は「朝律を立つるなり」の[]の字源をあらわした。
 これゆえ、倭の卑弥呼王朝と日本軍は「建業」を首都名とする呉国の遠征軍は同緯度の宮古島・硫黄島を結ぶ太平洋の海の道は通過できるにちがいないと考えたのである。
 この倭の卑弥呼王朝と日本軍の「建業」の[]の字源にもとづいて「呉の遠征軍は、宮古島・硫黄島を結ぶ太平洋を横断できるにちがいない」と考えた意見を、遠江の豪族の建比良鳥命は、I図に示す「経緯度原点のA地点と滝峯不動尊(たきみなふどうそん)を結ぶ同緯度線(北緯3448)で表示した。
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(C) 2017 OHKAWA

経緯度原点のA地点の真東の「滝峯不動尊」は、春分の日に太陽が昇る[]の字源「朝律を立つるなり」をあらわす。「建比良鳥命」の[]は「建業」の[]であり、夏音文字の語「比良(ひら)」は楷書の[(ひら)]であった。D図に示した天頂点と重なる銀河部位の軌道は「46秒間くらい西から東へ平らに移動する天頂緯度線」であるゆえ、[]の字源のうちの「天頂緯度線」が「比良」の語源と[]の字源・原義となった。
 J図に、太陽の二分(にぶん/春分と秋分)と二至(にし/夏至と冬至)の日周弧(にっしゅうこ)をあらわした。夏至の朝において太陽は29度・北東の地平線から昇り、夏至の夕刻には太陽は29度・北西の地平線に没する。冬至の朝において太陽は29度・南東の地平線から昇り、冬至の夕刻には太陽は29度・南西の地平線に没する。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 ゆえに、I図に示した卑弥呼の地上絵の経緯度原点のA地点・滝峯不動尊・八幡宮を結ぶ三角測量の原理は、K図に示すごとく「二分二至」をあらわした。このK図に示した「二分二至の三角測量原理」が、呉国の首都名の「建業」をあらわした。
S425
(C) 2017 OHKAWA
 
◆紀元前2070年か同2050年頃(夏代初頭・後期縄文時代初頭)に、“夏の始祖”の帝禹()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と益氏の若者たちが日本列島に移住した。秋田県北秋田市に所在する国の特別史跡の伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡と秋田県鹿角(かづの)市に所在する大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)は、夏代初頭・後期縄文時代初頭の遺跡である。この両遺跡には、益氏の日本列島に移住して夏代初頭の医学と天文地理学と夏音文字を根付(ねづ)かせた痕跡(こんせき)が残っている。
 そして、太安万侶は――益氏移住の報を聞きつけた関東地方に住む芸術家たちが東北地方に旅して夏音文字の学芸を益氏から伝授された歴史――を『古事記』序の冒頭に記述した。
 大湯環状列石は、秋田県鹿角市花輪町大湯の中通りに所在する。県道をはさんで、西側は中通り小字万座(まんざ)の直径が48mの万座遺跡、東側は小字野中堂(のなかどう)の直径42mの野中堂遺跡である。
 L図に示すように、東側の野中堂遺跡の中心・その日時計組石(ひどけいくみいし)と万座遺跡の中心・その日時計組石を結ぶと、その線は29度・北西の夏至の日没方向を指差す。
S426
(C) 2017 OHKAWA
 
 野中堂遺跡と万座遺跡の特殊組石の「日時計組石」は、最初、「日時計」すなわち〔太陽の光線で投じられる影で時刻を計る時計〕と考えられた。しかし、日時計組石では時刻が計ることができないことを証明されて、「日時計説」は否定された。
 L図に示した万座遺跡の中心に天之御柱が立ち、すべての漢字が作られた文字作成銀河の各部位の高度を[]の字源となった「支(ささ)え棒」と天之御柱と交わる角度で測量した。この支え棒が地面と接する方角を示す装置が、円形分度器となる日時計組石であった。
 だから、M図の右図の万座遺跡の外帯(がいたい)東側平面図は、M図の左図の「文字作成銀河図」に相似して、約4000年後の現在も「文字作成銀河図」であった痕跡が残っている。なお、わたくしは「すべての漢字が作られた銀河」を「文字作成銀河」と呼ぶが――M図左図の「文字作成銀河図」は、明暗の条件によって拡大・縮小する瞳孔(どうこう)の直径が最大に拡大する暗闇(くらやみ)で見た時の形である。
S431
(C) 2017 OHKAWA
 
 注 M図の中央の京都市に所在する桂離宮離宮(かつらりきゅう)の庭園池の東岸平面図は、1608年、徳川家康に卑弥呼の地上絵の研究を命じられた小堀遠州が作成した。1616年に家康が没すると、家康の一生の夢であった【日本建国の〔愛〕の理念】の復興の遺志を受け継いだ徳川幕府は、後水尾(ごみずのお)天皇に【日本建国の〔愛〕の理念】の復興の承諾を願い出るために、桂離宮に夏音文字の学芸をあらわす庭園を作成することにした。1623年、幕府は卑弥呼の地上絵を研究した小堀遠州に桂離宮の庭園作りを命令した。以後、遠州は病床に伏して庭園作りができなくなるまでの23年間、桂離宮の庭園作りに情熱を傾けた。遠州は桂離宮の庭園の池の東側全面の平面図を「文字作成銀河」の形に設計した。
 司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀は、日本列島に移住した名門・益氏が歴史上始めて登場する五帝の内の4番目の帝王・堯(ぎょう)の時代における二分二至の天文図(現在の星図)を説明する。この天文図において、北斗七星で最も光が強い第5星の1.8等のε星は「鳥」という名であったと記す――なお、シナ天文の漢名では、「鳥」は「衡(こう)」または「玉衡(ぎょくこう)」と呼ばれる。
S432

(C) 2017 OHKAWA

 L図に示した野中堂遺跡における日時計組石は、「鳥」を利用して「午前零時」を計る円形分度器であった。
 太陽が地平線に沈んで姿を消しても、まだ空は真っ暗にならないので、銀河や星を見ることができない。このうす暗い頃を「薄明時(はくめいじ)」といい、太陽が地平線の下18度のところまで沈むと、ようやく薄明時が終わって、空が真っ暗となり、銀河の象(かたち)が見え星たちの姿が出そろうことになる。
 だから、太陽が地平線に没する時、銀河の象もほとんどの星も見えない。しかし、薄明時において、N図に示した1.8等の光が強い「鳥」は天の北極がある北側中央の空で輝く。
 O図に示すように、標石(ひょうせき)がある「真北」は、地平線に没した太陽が円弧を描いて至る「北」のポイントを示し、この「北」に太陽が位置する時に「午前零時」となる。
S433
(C) 2017 OHKAWA
 
 したがって、O図に示すように、太陽が没した方角を日時計組石の縁(へり)か縁に隣接する地面に印(しるし)をつけ、同様にその時の「鳥」の方角をも印(しるし)すると、太陽の位置が午前零時となるまでの角距離(角度)と「鳥」が移動した角距離とを等しくすれば「午前零時」が測定できる。
 P図に示す天之御柱の真北にいる人が柱の後ろに太陽が隠れる姿を見た時が、「正午」となる。L図に示した野中堂遺跡の中心に天之御柱を立てて、その日に天之御柱と[]の字源の支え棒が交わった角度で測量した太陽の南中高度(正午の太陽の高度)を、午前零時における銀河天文図(天球上)における真南の銀河部(天体部)のどの位置となるかを点検調査(観測)して記録する作業を日課にすれば、「黄道(こうどう)」が明らかとなる。
S434
(C) 2017 OHKAWA
 
 「黄道」は「天球上において太陽が一年間に通過する道(大円の軌道)」である。この測量に用いられた円形分度器の組石は「午前零時を測定する役割の時計」であった。これゆえ、日(太陽)が一年間に天球上を通過する道=黄道を測量するための組石は「日時計」と名づけられた。だから、「日時計組石」は「午前零時を測定するための時計」であって、いわゆる「中央に立つ石の柱が太陽に照らされてできる影の方向で時刻を知る仕掛けの時計」ではなかった。
◆呉国の首都名の「建業」の[]の字源・原義は、N図・O図・P図で解説した「黄道を測量する作業」であった。この[]の字源・原義の「黄道を測量する作業」によって、「二分」すなわち「春分と秋分の朝、太陽が地平線から昇る方角」と「二至」の「夏至と冬至の朝、太陽が地平線から昇る方角」を精確に知ることができた。
 したがって、前述したようにK図の「経緯度原点のA地点と同緯度の滝峯不動尊」は[]の字源を示し、K図の三角測量は[]の字源をあらわした。だから、I図の「経緯度原点のA地点・滝峯不動尊・八幡宮を結ぶ三角測量」は、呉国の首都名「建業」をあらわした。
 わがブログ「真実の日本国誕生史・13」で詳細に解説し証明したように――Q図の左図に示す[]の字源は「時計の針が進む逆回りに、方位が90度転回する定式」によって成立する。Q図の右図に示すように、[]の字源は「時計回りに、方位が90度転回する定式」によって成立する。
S435

(C) 2017 OHKAWA
 
 A図とI図に示した卑弥呼の地上絵の頭部がある〔南〕を[]の転回方位「南→東」に転回すると、R図の上図となる。ゆえに、この[]の字源に従って〔南〕にあった卑弥呼の地上絵の頭部を〔東〕に向けた両翼の境界線は、R図の下図の〔中国の海岸線の形〕に相似する。また、R図の上図に示すように、〔鳥の頭部〕に見立てられた中国の山東半島は〔東〕を向き、〔鳥〕の形に設計された卑弥呼の地上絵の頭部は〔北〕を向く。この〔鳥の頭部の東→北への転回〕は、[]の字源・原義に合致する。
S441
(C) 2017 OHKAWA

 ゆえに、[]の字源をあらわすR図の上図の卑弥呼の地上絵は「鳥の頭が向く方にある小国・日本へ呉軍が遠征しようとした」という歴史を伝えるものであったことになる。
 わがブログ「真実の日本国誕生史・9」で詳細に解説し証明したように――I図に示した経緯度原点のA地点は、S図に示す呉国の名勝地として有名な西湖(さいこ)に見立てられた。西湖の南東部は、水鳥の鳰(にお/カイツブリ)の形に相似する。鳰は〔水草の茎(くき)を支柱(しちゅう)として、水面に草の葉や茎などで浮巣(うきす)を作る習性〕がある。〔浮巣の支柱となる水草の茎〕を「杭(くい)」に見立てて、「杭州(こうしゅう)」という地名が成立した。杭州市の中心街は西湖の東北となる。
S442
(C) 2017 OHKAWA
 
 ゆえに、卑弥呼の地上絵の経緯度原点のA地点の東北にある引佐町の金指(かなさし)・井伊谷(いいのや)地区の地宜(平面的に図化した地図の形)は、T図に示すように鳰と浮巣の形に設計された。そして、鳰と浮巣の形をした金指・井伊谷地区は、S図に示す杭州市中心街をあらわした。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 A図やI図の上部に示すように、引佐町の金指・井伊谷の地宜における杭(水草の茎)をくわえる鳰の嘴(くちばし)の形は〔西〕にあるが、S図に示した西湖の鳰の嘴は〔東〕にある。この関係を、U図に示した。
S444

    U図中央に配する〔西湖〕に見立てられた〔経緯度原点のA地点〕を、西湖の鳰の嘴にもとづいて〔東(滝峯不動尊がある東)〕に配置すると、〔引佐町の中心地の金指・井伊谷地区〕は呉国の首都「建業」に見立てることができる。というのも地図で調べればわかるように建業(現在の南京)の東南に西湖が所在し、これと同じくU図の「建業」に見立てる「金指・井伊谷」の東南には「西湖」に見立てられた「経緯度原点のA地点」が存在するからである。
 だから、K図に示した「二分二至における三角測量原理」が「建業」をあらわした点からしても、「引佐町の金指・井伊谷地区」は呉国の首都「建業」をあらわす共に「杭州」をもあらわしたことになる。
 U図に示した「建業」をあらわす「経緯度原点のA地点と滝峯不動尊の東西を内側に裏返しにする作業と智慧(ちえ)」を「内裏(だいり)」という。この「内裏」は「天皇の御殿。皇居。禁裏(きんり)」を意味した。
 M図の左図の「文字作成銀河図」の下部は〔南〕であるが、M図の中央の「文字作成銀河図」に設計された桂離宮庭園池の東岸平面図の下部は〔北〕である。この中央図(桂離宮庭園)と左図「文字作成銀河図」の南・北が合致して同一の形となるには――裏側が透けて見える薄い紙で中央図(桂離宮庭園)の輪郭(りんかく)を鉛筆などで描き、この図(桂離宮庭園)の〔下部の北〕を左図の「文字作成銀河図」の〔上部の北〕に合わせて180度転回しただけでは同一の形にならない――透けて見える裏側の輪郭線の絵ならば「文字作成銀河図」と同一の形となる。このように、中央の桂離宮庭園池の東岸平面図が実際の左図の「文字作成銀河図」の南・北と合致するには、「裏返し」つまり「内裏」の語源の作業が必要である。

◆現在の学者たちは本居宣長(もとおりのりなが/17301801)が著した『古事記伝』を教科書とする。このため、学者たちの意見は誤読の空論、空想となる。
 なぜならば宣長が著した『古事記伝』は、太安万侶が『古事記』の序に「夏音文字と夏音文字を表記する楷書は、共に銀河各部の形状から作られた。この字源・原義の秘密を必ず解明すれば上巻に記述された歴史を知ることができる」と説くメッセージ・警告を徹底的に無視して、銀河各部の形状を観察した字源・原義についての注釈をいっさいおこなっていないからである。

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