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2017年9月27日 (水)

真実の日本国誕生史・18

 ●愛、高らかに日本国は誕生した(7)
■淤能碁呂島聖婚説話における日本建国の〔愛〕の理念
 
◆わがブログ「真実の日本国誕生史・12」で『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話を【その一】【その二】【その三】【その四】と四つに分けて、それぞれ現代語訳をおこなった。そのうち、【その三】までの記事のわが現代語訳が史実であることの詳細な解説と証明を、前々回のブログ「真実の日本国誕生史・16」までにおこなった。
 前回では【その四】をA・B・C・Dの4つに分け、【その四のA】の記事を詳細に証明した。今回は【その四のB】の記事の秘密を解明する。
 淤能碁呂島聖婚説話の【その四のB】の書き下し文は、下記のごとくである。
 ――(伊耶那岐命が)(ちぎ)り竟()へて廻る時、伊耶那美命、先に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と言ひ、後に伊耶那岐命「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやしえをとめを)」と言ひ、各(おのおの)言ひ竟へし後、其の妹(いも)に告げて曰()りたまはく、「女人(おみな)の先に言へるは良からず」とのりたまひき。
 上記の【その四のB】の書き下し文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 ――伊耶那岐命が(結婚式において)約束されている廻り逢いの式を終えて伊耶那美命と向かい合い、規則の通りに先に戦勝祈願の口上(こうじょう)を言おうとすると、伊耶那美命が先に「なんとまあ、素晴らしい愛しい男性でしょう」と言った。このため、しかたなく伊耶那岐命は伊耶那美命の後に「なんとまあ、素晴らしい愛しい乙女だろう」と述べた。(この伊耶那岐命よりも先に伊耶那美命が唱えた「あなにやしえをとこを」という言は、「小国の日本の国生みの柱を〔愛〕にしましょう」という伊耶那美命の願いを唱えたことになる。しかし、この結婚式のおいては来襲する呉軍を迎え撃って日本軍が勝利することを神に祈願するための約束(式次第や二人の口上の先と後)が決められていた。このため、規則に違反して、伊耶那岐命よりも先に伊耶那美命が唱えた〔愛〕の宣言は戦勝祈願の占(うらな)いに良からぬ願望を加えたことになる)。このため、二人が口上を述べあった後、伊耶那岐命は「女人が戦勝祈願と別なる願いを先に言うのは良くない」と批判した。
 このように、上記した【その四のB】の記事は日本古代史における最も重大な思想つまり「伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】」を伝えている。この【日本建国の〔愛〕の理念】は『古事記』上巻全体を貫(つらぬ)くテーマであった。

◆わがブログ「真実の日本国誕生史・12」で証明したように、淤能碁呂島聖婚説話冒頭の【その一】の記事は――呉の皇帝孫権(そんけん)が黄竜2(230)1万の水軍を東鯷人(とうていじん)国に遠征しようとした情報をいち早く知った東鯷人国王は、1万の呉軍と戦ってもまったく勝ち目がないと判断して、隣国の倭国に属することを決断して倭女王の卑弥呼に防衛の支援を要望した。これゆえ、東鯷人国は滅亡し、倭の一員となる小国・日本が誕生した。卑弥呼と倭王朝の面々は、伊耶那岐命と伊耶那美命に小国・日本へ赴任(ふにん)して、来襲する呉軍に脅(おび)えて悲嘆(ひたん)する人民たちの苦悩を払拭(ふっしょく)して、人心が安らかになるようにせよと命令した――と伝えるものであった。
 だから伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式は日本軍が呉軍に勝利するために卜占(うらない)で規則(約束)が定められていた。ゆえに、伊耶那美命が伊耶那岐命より先に「あなにやしえをとこを」と称(たた)える口上を述べると、彼女が戦勝祈願の占いに違反して「小国・日本の国作りの柱を〔愛〕にしましょう」と願う情念(おもい)をあらわすことになった。
 伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた結婚式場は――2008年に発見された東日本最古で最大の前期古墳の、静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する、A図に示す高尾山古墳であった。
S451

(C) 2017 OHKAWA
 
 前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・17」で詳細に解説し証明したように――B図に示したごとく、日本国の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命が先に天之御柱(あめのみはしら)を東から西に向かって通過し、伊耶那美命が後に天之御柱の西から東に向かって通過して交差(廻り逢い)を画くように、戦勝祈願の占いによって規則(約束)が定められていた。(注 B図はA図の周溝を取り除く、前方後方墳の平面図の部分だけにした)
S481
(C) 2017 OHKAWA

 この戦勝祈願を占いでは、伊耶那岐命が先に「あなにやしえをとめを」と言った後に、伊耶那美命が伊耶那岐命を「あなにやしえをとこを」と称(たた)える約束になっていた。
 〔淤能碁呂島聖婚説話〕の次に続く〔国生み説話〕は――二人は天神之命(あまつかみのみこと/卑弥呼の没後に就任した倭王朝の大王)のもとに参上して指示を願った。大王は神意を判ずる卜占(うらない)をおこなって「最初の結婚式で、女が先に言ったのが良くない。この結果、倭国は大乱(たいらん)となった。この大乱を鎮めるために、二人は小国・日本を去って倭王朝が命じた新しい淤能碁呂島に戻って、倭の大乱が鎮(しず)まるように願って改めて唱え直せ」と命令した――と伝える。だから、高尾山古墳において伊耶那岐命より先に伊耶那美命が唱えた一件について、倭の大王は「戦勝祈願の卜占の取り決めの規則(約束)に違反する不吉な雑念」と批判したことになる。

2世紀末~3世紀半ばまでのわが国の様子を伝える『魏志』倭人伝は、下記のごとく倭の卜占について記述する。
 「倭の風俗では、挙事(きょじ/事が起きたとき)や遠くの地に行き家に帰って来る旅行について云為(うんい)する(神に願いを云う)ときには、骨を灼()いて占い、もって吉凶を占う。まず卜する所を告げると定められ、その辞(文字とことば)は令亀法(れいきのほう)つまり中国の殷代(いんだい)の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字の卜占のごとくであり、骨を灼いて生ずる裂け目を見て、その吉凶の兆(きざし)を占う」
 上記の記事が示すように「倭の卜占では、まず卜する所を告げると定められていた」ゆえ、高尾山古墳における聖婚でも、まず戦勝祈願を卜すると定められて式次第や二人の口上の前後などが約束されていたことになる。
 『魏志』倭人伝の卑弥呼(ひみこ)はじめとする人名・小国名・官職名に用いられる夏音(かおん)文字と『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて記載される多数の夏音文字は、『魏志』倭人伝に「その辞は令亀法の如く」と記述された甲骨文字に相似する文字であった。これゆえ、卜占に用いられた夏音文字の学芸にもとづいて結婚式が行われたことになる。
 (注 夏音文字は“漢字の始祖”と崇拝される倉頡(そうきつ)が「書いた文字が用済みになったならば、直ちに消さない者また消し忘れた者は神意に背く行為であるゆえ神罰が下って一族もろとも死刑にして滅亡させる」と定めた掟(おきて)を厳重に守る文字であったため、夏音文字を書いた資料は出土・発見されないことになった)
 わがブログ「真実の日本国誕生史・3」で科学的に明確に解説したように、学者たちが「わが国で漢字を最初に習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する定説は完全なる誤読の空論、ウソ八百であることがいとも簡単に証明される。
 太安万侶(おおのやすまろ)が書く『古事記』序の冒頭は「臣安万侶、言(もう)す。それ混元すでに凝()りて、気象未だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」という文で、「紀元前2070~同2050年頃の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に夏音文字が伝来し習得された。夏音文字と夏音文字を表記する楷書は共に、銀河各部の形状から作られた」と証言する。
 前回までのわがブログ「真実の日本国誕生史」にて何度も何度もくりかえしたように――上記した太安万侶の記述が事実であることは、わたくしが「文字作成銀河」と呼ぶ各部の形状をもって科学的に証明した。この「文字作成銀河」の範囲は下記のごとくである。

Ginga

 文字作成銀河の各部には名称が無いので、わたくしは下記のごとく定めた。
Photo

(C) 2017 OHKAWA
 
 前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・17」で証明したように――B図に示した伊耶那岐命と伊耶那美命の高尾山古墳における結婚式における廻り逢いの交差は、C図に示した出産する胎児が産道を通過する時に、その頭が渦を巻くようにして通過する「麻具波比(まぐはひ)」という4文字の夏音文字の語を演出するものであった。
S482
(C) 2017 OHKAWA

◆紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝は〔女性生殖器と出産〕を研究した。
 ところが、黄帝の研究をあらわすことができる文字が未だ作られていなかったので、黄帝につかえていた倉頡は文字作成銀河から万物の情(じょう/イメージ)に類似する漢字作成原理を発明した。したがって、楷書が完成した隋(ずい)代の6世紀以前のすべての漢字体系は黄帝が研究した〔女性生殖器と出産〕を基本にして組織されていた。
 上に示した〔文字作成銀河の各部名称図〕の左上には「長方形の暗黒天体部」がある。
 倉頡は、D図に示すように〔女性生殖器の産道〕を「長方形の暗黒天体部の南部」、〔女性生殖器の膣口(ちっこう)〕を「長方形の暗黒天体部の北部」に見立てると定めた。
S483

(C) 2017 OHKAWA
 
 〔産道〕と見立てられた「長方形の暗黒天体部の南部」は、A図・B図に示した高尾山古墳の前方墳のモデルとなり、その後方墳は〔膣口〕に見立てられた「長方形の暗黒天体部の北部」の形に設計された。したがって、伊耶那岐命と伊耶那美命の高尾山古墳における結婚式は黄帝が研究した〔女性生殖器と出産〕にもとづき、呉の遠征軍に勝利することを神に云為(うんい)し卜(ぼく)して占うものであったのである。
 上掲した〔文字作成銀河の各部名称図〕の左上に「十字の銀河」と「長方形の暗黒天体部」がある。E図に示すように、「長方形の暗黒天体部」の北側には「鬼の姿に似る銀河」がある。「鬼の姿に似る銀河」は「出産する新生児や嬰児(えいじ)」をあらわす[]の字源となった。「十字の銀河」には〔子宮〕に相当する箇所が」あるので「母体」に見立てられた。
S484
(C) 2017 OHKAWA
 
 E図に示す「十字の銀河」は[][]の字源となり、「鬼の姿に似る銀河」は[]の字源となった。そして、「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河のイメージ」から[]の字源が成立した。わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)[]の篆文(てんぶん)形の印象を「後ろに心を残しながら、立ち去ろうとする人の姿を写したものであろう」と解説するが、この解説では「慈(いつく)しむ。親(した)しむ。愛(いと)しい」と言う[]の字義が明確に示されない。[]の篆文形は「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河のイメージ」にもとづき「母親を慕って後ろから乳児が這()い這いして後を追う姿。母親が後を追う子に乳を与えようと思って愛しむ姿。子を思う親心」を図案するものであったのである。
 []の字源銀河における[]の字源は、倉頡が〔産道と膣口〕に見立てると定めた「長方形の暗黒天体部」から誕生すると定められていた。これゆえ、伊耶那美命が伊耶那岐命より先に「あなにやしえをとこを」と唱えると、直接的に[]の字源「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河のイメージ」をあらわすことになった。だから、結婚式において伊耶那美命は伊耶那岐命より先に言ってはならないと禁じられていたのである。
 伊耶那岐命が先に「あなにやしえをとめを」と言えば戦勝祈願の口上が真っ先に成立し、後から伊耶那美命が「あなにやしえをとこを」と唱える言葉は「まあ、なんとすばらしい男(おのこ)の軍王でしょう」と意味することになった。また、そうすれば「倭国」の[]の初文の[]の字源をあらわして、その呪力で伊耶那美命が呉の遠征軍の呪的(じゅてき)戦力を奪う魔女であることをあらわすことになった。
 わがブログ「真実の日本国誕生史・13」で詳細に解説し証明した通り――F図に示すよう、[]の字源は「十字の銀河」を〔((イネ))に見立て、「禾(いね)の穂が鬼の姿に似る銀河の内の口の方角」すなわち「南から西へ90度垂れて、時計回りに[][西]90度転回する」という転回方位の定義によって成立するものであった。
S485
(C) 2017 OHKAWA
 
 G図に示すように、[]の字源は「時計回りと逆方向に方位が90度転回して、〔南〕が〔東〕に転位する」という転回方位の定義によって成立した。
S491
(C) 2017 OHKAWA
 
 H図に示すように、〔イネの穂〕に見立てられた「十字の銀河」は〔東に向いて歩く人〕または〔西に向いて歩く人〕に観えるゆえ、[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」と[]の字源「時計回りとは逆方向に90度転回する方位規定」が並立(へいりつ)することになった。このため、「行く」を字義とする「之」の之繞(しんにょう)に中国南部の呉地を生育地とする稲のタネの[]を加える[]の字義は「まよう」ということになった。
S492

(C) 2017 OHKAWA
 
 I図に、相対立する下記の「軍門の象形」となった[][]の転回方位規定を示した。
S493

(C) 2017 OHKAWA
 
 F図に示した[]の初文の[]の字源について、白川静著『字統』は「いねの象形。また軍門の象形。いねの字は禾穂(かすい)が垂れた形。軍門の字は標木(しめぎ)に袖木(そでき)をつけた形で、もとの形象は異なるが、のち同形の字とされ、一字にして別義のある字である」と解説する。
 以上のごとく、[]の初文の[]の字は戦(いくさ)に直結する「軍門の象形」であった。だから、日本の軍王の伊耶那岐命が先に〔戦いの魔女である伊耶那美命〕を「十字の銀河」に見立てて「あなにやしえをとめを」と称(たた)えると、「禾()の生育地である呉地から遠征する水軍を迎え撃つ日本軍は勝利する」と表示されることになったのである。

◆『魏志』倭人伝の末部に魏の正始八年(247)の記事に「載斯烏越(そしあお)」という夏音名(夏音文字による戦いの名)の倭の使節の長官が登場する。この記事は「載斯烏越は魏の出張政庁がある朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)へ訪問して、卑弥呼と素(もと)より不和の男王・卑弥弓呼(ひみくこ)が治める狗奴(くな)国との戦況を説明した」と記述するので、載斯烏越は武将であったことになる。
S494
(C) 2017 OHKAWA
 
 J図に示すように、「日輪の銀河」は〔車輪〕に見立てられて[]の字源となり、「十字の銀河」は[]の字源「日輪の銀河」の上に〔のる〕ので「載()る」を意味する[()]の字源となった。「十字の銀河」は「雷が落ちて柝()ける樹木」に見立てられた。「鬼の姿に似る銀河」は〔樹木の近くにいる人に落ちる側撃雷(そくげきらい)〕に見立てられて[()]の字源となった。ゆえに、“字書の聖典”と尊重される『説文解字』は[]の字源となる「帯状の銀河」(「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」をつなげる北と南の「帯状の銀河」)のイメージにもとづき、[]の字源を「柝()くなり」と解説した。この[]の字源解説は「落雷して木が裂けて雷で多数の人が死ぬ」と意味するものであったゆえ「呉の遠征軍の兵士たちを大量に殺すという意」に用いられた。「激流の銀河」は「烏越(あお)い水=青い水」すなわち「日本軍が呉の遠征軍に勝つ呪的戦力をあらわす青い水」をあらわした。208年の赤壁(せきへき)の戦いで2万の呉軍は火攻めをもって80万の魏の大軍を一夜にして撃破(げきは)した。この赤壁の戦いにおいて火攻めで勝った呉軍の呪的戦力を、日本軍は「赤い火」とあらわすことにした。「青い水」は「赤い火」を消滅させて勝てるため、日本の軍王の夏音名には「青い水」をあらわす「烏越(あお/)」が加えられた。「北アメリカ星雲」は〔赤く燃える火焔〕のような形をしているので[]の字源となった。J図に示すように、「烏越」の字源となる「激流の銀河におけるうねりや水の勢い」は〔赤い火〕の「北アメリカ星雲」を一気に飲み込むように観える。だから、「長方形の暗黒天体部」の形に設計されたA図の高尾山古墳は激流の勢いに勝って高く土が盛られることになったのである。
 したがって、「載斯烏越」は「小国・日本の軍王の伊耶那岐命」であったことになる。
 『魏志』倭人伝の末部に倭女王になった夏音名の「壱与(いよ)」が登場する。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 K図に示す「十字の銀河の子宮」は、[][]の字源となった。K図右上の[]の篆文形は[(つぼ)]の中に[]の字を配するがごとく、[]の字源の「十字の銀河の子宮」は「大量の雨が貯まる吉なる壺となる雨雲」をあらわす[][]の字源となった。白川静著『字統』は、[]の字源を「正字は與。上下左右の手で四方からものをもつ舁()と、与とに従う。四方より与をかつぐ形である」と解説する。つまり、K図に示すように、[]の金文形は「十字の銀河」・「鬼の姿に似る銀河」・「激流の銀河」・「東と西の二連菱形(長方形の暗黒天体部の南部にある)」」を「上下左右の手、四方から神輿(みこし)をかつぐ人々」に見立て、[]の金文中央の[][]は「正方形の暗黒天体部の北部の方形の銀河」から図案された。
 []の字源の「十字の銀河の子宮」は〔日照りが続いた時、巫女(みこ)たちが雨乞(あまご)いをする時に仰ぎ見る聖域〕であった。したがって、「壱与」という名は「洪水となる大雨ではなく、恵みの雨を願う巫女、日本軍の勝利を神に云為(うんい)して願う巫女」をあらわした。したがって、[]は「青い水」をあらわし、「青い水」は「激流の銀河」によってもあらわされて、「赤い火の呉軍に勝つ」を示すことになった。
 A図に示した高尾山古墳の周溝から、多数の土器が発見された。これゆえ、「恵みの雨水を貯める土器」をもって呉の遠征軍への憎悪・祟(たた)りをあらわすとともに、周溝から出土した土器は「高尾山古墳が崩壊しない程度の恵みの雨となる青い水の呪的戦力で赤い火の呉軍の呪的勢いを消滅させる」という願望をあらわすものであったと考えられる。
 だから、「壱与」という夏音名が付いた女性は「伊耶那美命」であったことになる。

◆『魏志』倭人伝の末部は、「壱与・伊耶那美命について」下記のごとく記述する。

「載斯烏越・伊耶那岐命一行が帰還する船団の船に便乗して倭地に到着した帯方郡使長官の張政(ちょうせい)は檄文(げきぶん)を作って壱与・伊耶那美命を、(東夷諸国、すなわち朝鮮半島と倭国の平安のために、徇葬を憎悪する人民たちの反乱に乗じて戦争を起こした卑弥呼と不和であった狗奴国を滅亡させる事は正当であると)告げ喩(さと)したが、伊耶那美命は狗奴国攻めに同意しなかった。
 
卑弥呼は以(すで)に死す。大きな冢(ちょう/)を作る。墓の円墳部の直径は百余歩(150)。卑弥呼の墓には百余人の奴(/18歳くらいの青年)と婢(/13歳くらいの乙女)の徇葬者(じゅんそうしゃ)たちが埋められた。卑弥呼の後を継ぐ倭国の大王に男王を定めたが、この倭の大王に人民たちは服従せず、倭王朝を攻撃して互いに殺し合う戦争が国中にひろがった。倭王朝は千人の反乱者たちを殺した。また、倭王朝は卑弥呼が率いる宗女(そうじょ/宗教界つまり巫女界を代表する女性)として13歳の時に小国・日本の女王に就任した壱与(伊耶那美命)を倭女王と為()すと、国中にひろがった徇葬を憎悪する反乱は遂に定まった。(前述したように、伊耶那美命が狗奴国攻めを拒絶したため)、倭王朝は壱与の代役に天照大御神を選び、天照大御神が二度目の張政の檄文の告喩(こくゆ)に応じて、狗奴国は滅亡した。壱与(の代役の天照大御神)は、倭の率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)等二十人一行を魏に派遣する船に便乗させて、任務が終わった張政たちを帯方郡に帰還させた。」

上記した『古事記』上巻の〔国生み説話〕に登場する天神之命・卑弥呼の後を継いだ大王は、卜占をおこなって「壱与・伊耶那美命が前年の聖婚において戦勝祈願の約束に違反して唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を倭国の国中の人民たちが憧れたために反乱が起きた。この反乱に乗じて、狗奴国が戦争を仕掛けてきたために倭王朝は崩壊しかねない状況となった。ゆえに、伊耶那美命には国中にひろがった人民の反乱と狗奴国の反乱の両方を鎮める責任がある」とこじつけたのである。
 倭王朝軍に千余人も殺されてもなおも戦いつづける人民は伊耶那美命が倭女王に就任することを知って、伊耶那美命ならば残忍な徇葬は禁止するにちがいないと信じて武器を捨てた。だから、『魏志』倭人伝は「壱与が倭女王に就任すると、国中にひろがった徇葬を憎む人民たちの反乱は遂に定まる」と記述する。
 そして、載斯烏越・伊耶那岐命が狗奴国攻めを指揮することになったが、壱与・伊耶那美命は帯方郡使の張政が檄文で告喩する狗奴国攻めに頑(がん)として拒絶した。このため、倭王朝が壱与の代役に立てた天照大御神が張政の檄文の告諭を承諾し、伊耶那岐命が倭軍と日本軍を指揮して狗奴国を滅亡させた。
 狗奴国滅亡後、倭王朝の大王はじめ面々は「伊耶那美命の狗奴国攻めの拒否は無責任だ。倭女王を退位すべきである」と迫ったが、人民たちが伊耶那美命を信じて武器を捨てた様子と狗奴国攻めの愚劣さを知った伊耶那岐命は、伊耶那美命こそが正しい判断をしたと考えを改めた。ゆえに伊耶那岐命は「倭王朝こそ、倭女王伊耶那美命の命令に服従しなかった大罪を犯す! 我の狗奴国攻めは根本的に間違っていた。伊耶那美命こそが正しかった。ゆえに、伊耶那美命は絶対に倭女王を退位すべきではない」と倭王朝を非難し、退位しようとする伊耶那美命を退位してはならないと諭して、兵庫県淡路市多賀に所在する伊弉諾(いざなぎ)神宮において、伊耶那岐命は伊耶那美命と二度目の淤能碁呂島の聖婚をおこなった。だから、伊弉諾神宮には伊耶那岐命と伊耶那美命が祭られることになった。
 『古事記』上巻の〔国生み説話〕は――淡路島=淡道之穂之狭別島(あわぢのほのさわけのしま)における二度目の淤能碁呂島聖婚において伊耶那岐命と伊耶那美命は、現在の四国を「伊予二名島(いよのふたなのしま)と名づけ、その「伊予」という語は〔愛〕の女神すなわち「愛比売(えひめ)」であると示して、小国・日本と併合(へいごう)させた倭国の国作りの柱を【日本建国の〔愛〕の理念】に定めた――と伝えている。
 わたくしは前年に「日本が滅びる」シリーズ1回~167回を作成した。そのうちの141回~146回において、〔国生み説話〕に記述された四国生み(四国の四つの小国名と各国の祭神名)について、四国の名称となった「伊予」とそして旧国・伊予=愛媛県の「愛媛」こと「愛比売」もまた共に【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわすことを詳細に解説し証明した。

◆このブログ「真実の日本国誕生史」では1回から何回も繰り返して、伊耶那岐命と伊耶那美命が赴任した小国・日本の範囲は、L図に示す東国であることを科学的に証明した。
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(C) 2017 OHKAWA
  
 L図は、『万葉集』の最終巻の巻二十に収められる東国の防人(さきもり)たちが作った出身国の範囲をも示す。ただし、甲斐・伊豆・安房の出身の人々の和歌は収められていない。
 巻二十の防人歌には、L図右下の「遠江」の人々の作品も収められている。しかし、遠江は小国・日本に属さず、卑弥呼が治めた倭国の小国の「不呼(ふこ)国」であった。わがブログ「真実の日本国誕生史」の6回と16回で詳細に証明したように、遠江の豪族の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)とその一族は、260年~290年に、M図にわたくしが「卑弥呼の地上絵(別名、建比良鳥の地上絵)」と名づけた1千万坪の大鳥の形をした地上絵を作成して、【日本建国の〔愛〕の理念】が後世に伝わるようにした。この卑弥呼の地上絵の影響で遠江では【日本建国の〔愛〕の理念】が尊重された。これを察知した朝廷は、遠江の人々にも防人の任務を命令した。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 L図に示した東国と遠江の人民たちは朝廷に反逆して天照大御神が憎悪し敵視した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重したために、筑紫・壱岐・対馬などの北九州の守備にあたる兵士、つまり防人の任務を命じられた。
 元明天皇が献呈を拒否した『古事記』は禁制の書物となったため、『古事記』に代わる勅撰(ちょくせん)和歌集の編纂(へんさん)が伊耶那美命崇拝派の皇族・貴族たちによって企(くわだ)てられ、皇室が抹殺(まっさつ)に躍起(やっき)になる【日本建国の〔愛〕の理念】を後世の人々に伝えるために『万葉集』が作成された。ゆえに、3世紀から8世紀における国民の大多数は天照大御神よりも伊耶那美命のほうがより偉大であると敬愛したことを示さんがために、『万葉集』には〔愛〕を題材に詠()む国民のあらゆる階層の作者の和歌が収められた。
 『万葉集』巻二十に収められる小国・日本と遠江の防人たちが作った和歌は、4321番から4436番までの116首である。この116首の和歌は【日本建国の〔愛〕の理念】を詠むものであるゆえ、大多数の和歌は防人たちが故郷の妻子や両親や恋人などを思い気づかう愛の歌である。彼らは皇室や国家のためにではなく、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重して妻や子どもや両親や恋人のために兵役につとめていたのである。
 116首のうちの4336番の大伴家持(おおともやかもち)が作った「防人の 堀江漕ぎ出()る 伊豆手舟(いずてぶね) 梶(かじ)取る間()なく 恋は繁(しげ)けむ〔堀江を漕ぎ出る伊豆で作られた手漕ぎ舟の梶を取る間がないように、防人たちは絶えず故郷を恋しく思っているだろう」と詠む和歌は「伊豆から駿河にかけてひろがる浮島沼に、伊耶那美命と伊耶那岐命は赴任した」と伝えるものだったにちがいない。(「浮島沼」は、N図に示した)
S503

   116首のうちの4370番の「霰(あられ)降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍士(すめらみくさ) 我に来()にしを〔鹿島の神に祈りつづけて、天皇の兵士として、おれは来たのだ〕」という一首と4373番の「今日(けふ)よりは かへりみなくて 大君(おおきみ)の 醜(しこ)のみ楯(たて)と 出で立つ我は〔今日からは、故郷のほうを振り返らないで大君・天皇陛下のつたない護りとして、おれは防人に行くのだ〕」と詠む和歌は、一見(いっけん)すると天皇への尊敬をあらわしているように解釈できる。しかし、この2首は天皇の兵士となる憂鬱(ゆううつ)を詠む和歌であったと考えられる。つまり、この2首は皇室への尊敬を見せかける方法で実は皇室への抵抗を示し、胸に秘めた【日本建国の〔愛〕の理念】への憧れを表現する技巧的な作品であったと考えられる。
 というのも『万葉集』巻二十の防人歌は、禁書となった反逆の史書『古事記』上巻のテーマとなった伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を伝えるものであり、したがってL図に示す東国こそが小国・日本であったと後世に伝える役目を有していたからである。
 だから、116首のうちの4370番と4373番の2首だけが天皇への尊敬を示す和歌であったとは考えられず、『万葉集』の作成目的【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む作品であったと解釈されたから巻二十の防人歌に収められたと考えるべきことになる。
 『万葉集』803番の山上憶良(やものうえのおくら)が「銀(しろがね)も 黄金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも」と詠んだ和歌は、もちろん伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を表現する作品であったのである。
 山上憶良は702年に派遣された第7回遣唐使における最下位の幹部であった。
 中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝は、山上憶良が加わっていた第7回遣唐使について――遣唐使は「日本国と倭国は別種である。(中略)。倭国という名は雅(みやびやか)でないと人民たちが悪(にく)むので、日本と国名を改めた。日本国は旧(もと)小国だが、倭国の地を併(あわ)せた」と説明した――と記述する。
 L図に示した東国が小国・日本であり、小国・日本は伊耶那美命が〔愛〕を唱えて誕生した。他方、倭国は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺に躍起になり、また卑弥呼が没した時と伊耶那美命が没した時に国家権力の強大さを誇示するために多数の青年と乙女を殺す残虐な徇葬をおこなったゆえ人民たちは倭国は雅(みやびやか)ではないと憎んだ。だから、遣唐使は「日本国と倭国は別種である」と中国の王朝に伝えたのである。また、狗奴国の王と話し合いで平和的に解決すべきと主張して狗奴国攻めを拒絶した伊耶那美命を無責任と非難する倭王朝の面々に応えて倭女王退位を決意する伊耶那美命を、伊耶那岐命が説得したがために小国・日本と倭国の地が併合された。ゆえに、遣唐使は「日本国はもと小国、倭国の地を併せた」と中国王朝に伝えたのである。

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