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2017年10月 7日 (土)

真実の日本国誕生史・19

 ●愛、高らかに日本国は誕生した(8)
■富士山と愛鷹山と淤能碁呂島聖婚説話
 
◆わがブログ「真実の日本国誕生史・12」で『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話を【その一】【その二】【その三】【その四】と四つに分けて、それぞれ現代語訳をおこなった。その以後、【その三】までのわが現代語訳が史実であるということをわがブログ「真実の日本国誕生史・16」までに詳細に解説し証明してきた。
 さらに、わがブログ「真実の日本国誕生史・17」では【その四】をA・B・C・Dの4つに分け、【その四のA】の記事を詳細に証明した。前回の「真実の日本国誕生史・18」では【その四のB】の記事の秘密を詳細に解説して証明した。
 前回の淤能碁呂島聖婚説話の【その四のB】の書き下し文は、下記のごとくである。
 ――(伊耶那岐命が)(ちぎ)り竟()へて廻る時、伊耶那美命、先に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と言ひ、後に伊耶那岐命「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやしえをとめを)」と言ひ、各(おのおの)言ひ竟へし後、其の妹(いも)に告げて曰()りたまはく、「女人(おみな)の先に言へるは良からず」とのりたまひき。
 上記の【その四のB】の記事は、下記のごとき歴史を伝えるものであった。
 ――伊耶那岐命が(結婚式において)約束のとおりに廻り逢いの式を終えて伊耶那美命と向かい合い、先に戦勝祈願の口上(こうじょう)を言おうとすると、伊耶那美命が先に「なんとまあ、素晴らしい愛しい男性でしょう」と言った。このため、しかたなく伊耶那岐命は伊耶那美命の後に「なんとまあ、素晴らしい愛しい乙女だろう」と述べた。(このように伊耶那岐命よりも先に伊耶那美命が唱えると「日本の国生みの柱を〔愛〕にしましょう」と意味することになった。しかし、この結婚式は来襲する呉の遠征軍を迎え撃つ日本軍の勝利を神に祈願するものであったゆえ、約束とおりに伊耶那岐命が先に口上を述べなければならなかった。このため、約束に違反して先に伊耶那美命が唱えた〔愛〕の宣言は戦勝祈願の占いに良からぬ願望を加えたことになる)。このため、二人が口上を述べあった後、伊耶那岐命は「女人が戦勝祈願と別なる願いを先に言うのは良くない」と批判した。
 上記した【その四のB】は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話における最も重大な記事であった。だから、この【日本建国の〔愛〕の理念】は『古事記』上巻全体を貫(つらぬ)くテーマとなった。さらに、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は日本古代史における最も重大な思想となった。

◆上記の【その四のB】の次の【その四のC】の記事の秘密を、今回は解説して証明する。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話のうちの【その四のC】とした記事は、下記に示す「久美度邇興(くみどにおこ)して」という一語だけである。
 ――然(しか)れども「久美度邇(くみどに)」〔此の四字、音を以てす〕興(おこ)して。
 今回、その秘密を解明する「久美度邇」の4字は夏音(かおん)文字である。
 わがブログ「真実の日本国誕生史」がこれまで幾度となく繰り返して科学的に証明したように、夏音文字は紀元前2070年頃~同2050頃の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国に伝来して習得された。そして、3世紀(280289)に著作された『魏志』倭人伝において卑弥呼(ひみこ)はじめとする人名・小国名・官職名に、夏音文字は用いられている。また、712年に成立した『古事記』の序では夏音文字が習得された歴史と夏音文字は実在する事実が語られ、『古事記』上巻にはその随所に「久美度邇」と4字と同じく「音を以てす」という注が付いて多数の夏音文字が残っている。
 わが国の古代中国文字研究の第一者とされる故・白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)910頁で「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する――このように指摘された最古の漢字音を伝えるのが、『古事記』序の冒頭で「わが国で習得された」と語られる紀元前21世紀にわが国に伝来した夏音文字である。この夏音文字の字音は、いま中国に残されている最古の上古音(紀元前11世紀の西周代初頭の漢字音)よりも古い。

久美度邇興し」という語の秘密を解明するために、淤能碁呂島聖婚説話の冒頭部から前回までの記事を要約すると、下記のごとくなる。
 ――230年頃、西日本は卑弥呼が統治する「倭」国と呼ばれ、その隣国の東国は「東鯷人(とうていじん)」国と呼ばれていた。当時、人狩り作戦のために無敵艦隊の1万の呉の水軍が東鯷人国を襲来するという情報をいち早く知った東鯷人国王は、呉の遠征軍と戦ってもまったく勝ち目がないと判断して独立国であることをあきらめ――東鯷人国王は倭国の一員の小国になることを決意して、倭女王卑弥呼に防衛を要望した。これゆえ230年頃に東鯷人国は滅亡し、国名は「日本」と改名された。卑弥呼王朝は小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)に伊耶那岐命を、小国・日本の女王に伊耶那美命を選び、「二人は結婚して小国・日本の防衛を堅固(けんご)にして、呉軍の来襲に脅(おび)えてまるで大海を漂流する舟の乗員のごとく死の恐怖に支配される人心を払拭(ふっしょく)して安らかにせよ」と命令した。
 伊耶那岐命と伊耶那美命が小国・日本において呉軍と日本軍の決戦場になるにちがいないと予想された地に到着するのを待って、戦勝祈願の結婚式がおこなわれた。
 夏音文字は卑弥呼王朝の政権基盤であり、この夏音文字に則(のっと)る卜占(うらない)によって――二人の結婚式における口上の順序が定められていた。この卜占では伊耶那岐命が先に「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやしえをとめを/なんとまあ、素晴らしい愛しい乙女だろう)」と唱え、その後に伊耶那美命が「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを/なんとまあ、素晴らしい愛しい男性でしょう)」と唱えれば、呉の遠征軍に勝利する祈願が約束された。ところが前述したように、夏音文字の卜占の規則に違反して伊耶那美命が先に唱えると、その言は「小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めて、〔愛〕の国生みをいたしましょう」と述べたことになるので、禁じられていた。これゆえ、伊耶那岐命は「女人が先に言うのは良くない」と批判した。

◆しかしながら、〔愛〕の建国理念が唱えられた小国・日本では全兵士たちが心を一つにして戦うために「久美度邇(くみどに)」と称する地霊が呼び興(おこ)され、この地霊によって伊耶那岐命の統率のもとに兵士たちが一致団結して呉の遠征軍と戦う軍事組織が年々堅固(けんご)になって、小国・日本は倭国にも勝るほどの強大な軍事力が有するようになった。
 中国の正史『三国志』呉書孫権(そんけん)伝における呉の黄竜2(230)には、次のような記述がある。
 「将軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(こうし/武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ。」
 呉の1万の水軍が遠征に向かった夷州と亶州について書く『後漢書(ごかんじょ)』倭伝末部の記事の一部を省略して現代語に訳すると、次のごとくなる。
 「会稽(かいけい/呉国の浙江省)の海外に東鯷人有り。夷州と澶州(せんしゅう=亶州)に二分され、また二十余国に分かれていた。秦(しん)の始皇帝(紀元前246-同210在位)は方士の徐福(じゅふく)を遣わし、童男女(若い男女)数千人をひきいて海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙(しんせん)の霊薬を採取するように求めたが手に入れることができず、死刑を畏(おそ)れて徐福一行は帰国せず、遂にこの州に止(とど)まって定住した。(1万の呉の水軍が遠征した3世紀当時)徐福一行の氏族は、数万軒となっていた。東鯷人国の人民たちは、時(定期的)に呉の会稽に到着して交易をしていた。(中略。1万の呉の遠征軍が台湾沖で8割~9割の兵士を失って壊滅したように、東鯷人たちが往来できても)、所在(しょざい)は絶遠(ぜつえん)して往来す可()からず、つまり中国の人々にとっては東鯷人国が所在する日本列島は遥かに遠く、その大海の道は途中で絶えており往来することはできない。」
 中国の正史の司馬遷(しばせん)が著作した『史記』の百十八の「淮南衝山列伝(わいなんしょうざんれつでん)」は――徐福が秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申(ぐしん)し、始皇帝の命を受け、3000人の童男女と百工(多数の技術者)を率いて、五穀の種(たね)を持って、東方に船出し、「平原広沢(へいげんこうたく/広い平野となる湿地帯)」を得て、王となって帰国しなかった――と記述する。
 わがブログ「真実の日本国誕生史・14」で詳細に解説し証明したように、徐福一行が目指した不老不死の霊薬を採取できると思い込んだ神仙(仙人)が住む蓬莱山(ほうらいやま)は、静岡県沼津市に所在する足高山(あしたかやま/現在の愛鷹山)であった。『史記』が記述する「平原広沢」は、A図に示す沼津市から富士市吉原に広がる「浮島沼(うきしまぬま/別称「浮島原」)であった。ゆえに伊耶那美命と伊耶那岐命が結婚した式場は、2008年に発見された東日本最古で最大の前期古墳の高尾山古墳であった。
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(C) 2017 OHKAWA

 上記した事情から、呉の遠征軍と日本軍が争う決戦場は「平原広沢の浮島沼」にちがいないと予想された。このため、蓬莱山・足高山の中腹には精兵が集結する一大軍事集落が設営された(注 この一大軍事集落は「足高尾上(おのえ)遺跡群」と名づけられている)。また、浮島沼の周辺各地に軍事施設や兵士たちが配置されたため、今日、当時(3世紀)の遺跡や前期古墳が浮島沼周辺に密集することになった。
 中国において桃は蓬莱の神仙つまり仙人に力を与える樹木・果実とされ、昔から邪気を祓い不老長寿を与える植物と親しまれていた。だから、足高山の山頂には桃沢神社が祭られ、その神社名に配される[]は司馬遷著『史記』が「徐福が王となった」と記述した「平原広沢」の「浮島沼」をあらわした。

◆B図に、旧東鯷人国=小国・日本の範囲を示した。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 A図に示した蓬莱山・足高山と浮島沼は、B図の駿河国の東端にして隣の伊豆との境界線近くに所在する。
 日本軍の軍王の伊耶那岐命は、おそらく浮島沼の東端に近い伊豆の三島市の三嶋大社付近に日本軍の本陣を構えたと考えられる。
 問題なのは、女王・伊耶那美命と軍王・伊耶那岐命が浮島沼附近の駿河・伊豆に居住すると、相模以東の小国・日本の人々が女王と軍王の二人に守られていないと不安を抱くことであった。そこで、この不安を払拭するための工夫がなされ、またこの対処方法が作戦にも取り入れられた。
 伊耶那岐命は若き日の第9代開化(かいか)天皇であった。
 『古事記』中巻の開化天皇紀は、下記のごとく伝える。
 「天皇は春日(かすが)の伊耶河(いざかわのみや)に居住して天下を治めた。この天皇は、丹波の大県主(おおあがたぬし)で名は由碁理(ゆごり)という方の娘であられる竹野比売(たかのひめ)と結婚した。」
 開化天皇が居住した宮殿名「伊耶河宮」の先頭2字と伊耶那美命・伊耶那岐命の先頭2字は共に「伊耶」で合致する。だから、開化天皇は伊耶那岐命、正妃・竹野比売が伊耶那美命であったことになる。
 伊耶那美命(竹野比売)の出身国の丹波(現在の京都府中部と兵庫県の一部)は、『魏志』倭人伝に列記される、C図右下にある小国「伊邪=伊耶(いや)国」であった。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 「伊耶国出身の那(桃の花のように)美しい女王」の愛称は略して「伊耶那美命」となる。「伊耶国出身の女王と結婚した那(桃沢神社を祭る)の岐(山の支れ道でつながる足高山・愛鷹山連峰)で象徴される軍王」の愛称は略して「伊耶那岐命」となる。ゆえに、仙人に力を与える桃の実を求めて日本列島に渡った徐福族の子孫が数万軒となる新生の小国・日本の人民たちに、愛称で「伊耶那美命」と「伊耶那岐命」と呼ばせるようにしたと思われる。というのも、その愛称に配する[]の字で竹野比売は「桃の仙人の呪力(じゅりょく)を有する女王」、後の開化天皇は「桃の仙人の呪力を有する軍王」とあらわすことになったゆえ、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話が「このただよえる国」と表現した呉の遠征軍の来襲に脅える地元・旧東鯷人国の人心を安定することができたからである。

◆前述したように――呉の遠征軍と日本軍の決戦場となると予想された浮島沼は、小国・日本の西端に所在する。このため、軍王伊耶那岐命と精兵部隊が常時居住するようになる駿河・伊豆に住む人民たちは安心できるが、呉の遠征軍が上陸する相模以東の海岸線沿いの武蔵・下総・上総の人民たちは遠く離れているために不安で心配でならないことになる。
 ゆえに、夏音文字「久美度邇」と称される地霊を呼び興して相模以東の海岸線諸国の人心の不安を取り除く対策をおこなうと共に、「久美度邇」という語をもって日本軍の全兵士たちに一致団結して戦う方針つまり軍王・伊耶那岐命のモットーが示されることになった。
 このブログ「真実の日本国誕生史」では繰り返して、銀河各部の形状が夏音文字の字源・字形・字義となった事実を証明したが――「銀河各部の形状から作られた夏音文字の学芸」が革命に利用されると王朝は容易に崩壊すると心配するために「夏音文字は銀河各部の形状から作られた」という秘密は厳重に漏洩(ろうえい)してはならない、漏らした者はもちろんその一族にも神罰が下って皆殺しと定まっていた。
 これゆえ、夏音文字の4字「久美度邇」の字源となる銀河各部については暴露されなかったが、文字を知らない大多数の兵士たちが目で目撃できて理解できるようにして広められた。つまり[]は「蓬莱山」の[蓬(ヨモギ)]の字と関連し、お灸(きゅう)して療治する時に用いられる「艾(もぐさ」」をあらわした。蓬(ヨモギ)はキク科の多年草で、葉の裏面には白い綿毛(わたげ)が密生する。この綿毛で灸療治用の「艾(もぐさ)」を作る。したがって[久]は「艾(もぐさ)の形に相似する富士山」をあらわした。また[久]の字義は「ひさしい」ゆえ、富士山を「悠久(ゆうきゅう)なる聖山」と称賛するものでもあったであろう。[美]はもちろん富士山を「
美しい霊峰」と讃(たた)え、「度邇」は「[莱]の字に相当する山(足高山)の峰に渡る」と意味するものであったことになる。
 「久美度邇興して」のうちの楷書[]の字源について、白川静著『字統』は「地霊をよび興すことをいう。まず地霊を祀(まつ)る」と解説する。
 富士山は蓬莱山(足高山)の西側に位置する。なんと、この巨大な富士山は不動であらず、びっくり仰天 東へと移動する。   

Photo_2

  東名高速道路の沼津インターチェンジとつながるバイパスを南下すると駿河・沼津市から伊豆・駿東郡清水町に変わる、その境界線となる黄瀬川付近の地点から北を見ると――「久美」の富士山は蓬莱山・愛鷹山の西に所在しない、なんと愛鷹山(蓬莱山)の東側の峰のほうに度(わた/渡)って移動している。
 D図は、伊豆の西端から起見える「久美度邇興し」の図である。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 下の写真は、沼津市の東隣の清水町で撮影した「久美度邇興し」をあらわす――富士山が蓬莱山・愛鷹山(旧称足高山)の東側の峰の背後に度(わた)る風景写真である。

A
 
 この「久美度邇興し・富士山が東へ移動する景色」は自然現象で生じるものゆえ、現在も、伊豆の西端以東の東海東部・関東地方のどの地点からも見える。だから、前述したように夏音文字「久美度邇」の4字の字源と楷書[興]の字源については厳重な機密とされたゆえまったく語られなかったが、文字を知らない大多数の兵士たちにも「日本一巨大で重たい富士山が東にある足高山(愛鷹山)の峰に度(わた/渡)る、その神秘的な地霊の呪力(じゅりょく)は目で目撃できて理解できた。この「久美度邇興しての風景」は、呉の遠征軍が上陸する伊豆の西端以東から上総・安房までの海岸線地帯を守る兵士たちは日常的に見ていた。だから、軍王・伊耶那岐命から遠く離れた地に住む兵士たちは“絶対に動かすことができない巨大な大山(富士山)を蓬莱山が東の峰に動かす「久美度邇興し」の、呉の遠征軍よりはるかに勝る強大な呪力を有する地霊(地の神)に自分たちは護(まも)られている”と実感できたので――勇気百倍! 心を一つにして防衛に当たることができたことになる。
 
呉の遠征軍が上陸する小国・日本の海岸線は駿河から安房まで東西に遠く隔たって広がる。このため、呉の遠征軍が上陸する可能性が最も高い小国・日本の西端にある浮島沼周辺に兵力を最も集中して、しかも相模以東の兵士たちの戦闘意欲を持続させ、さらに兵士たちに勇気を与えて一致団結して防衛するためには、小国・日本には「久美度邇興し」の地霊が棲()むことを認識させる必要があった。
 「伊耶那美命・伊耶那岐命」の先頭字の[]の字源は「尹・神聖な杖(つえ)で山岳地帯を歩く山人(やまびと)」である。『万葉集』巻九の1682番の和歌には「忍壁皇子(おさかべのみこ)に献(たてまつ)る歌一首 仙人(やまびと)の形(かた)を詠む」という題詞が付き、「山人」は「仙人」を意味したと伝える。だから[]は「桃で呪力を与えられた仙人」をあらわしたゆえ、足高山の桃の実を求めて日本列島に渡った徐福一行の子孫が数万軒となった旧東鯷人国=小国・日本の兵士や人々にとって、蓬莱山・足高山が巨大な富士山を東へ移動させる「久美度邇興し」の景色はまさに呉の遠征軍を壊滅できる自信と勇気を与える地霊となり、また[]の字を名の先頭に配する伊耶那美命と伊耶那岐命は徐福のごとく親近感を覚える女王と軍王となったのである。

◆ 『日本書紀』神武(じんむ)天皇紀末部には――むかし、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)がこの国を名づけて「日本は浦安(うらやす/平安)の国、細戈(くわしほこ/精兵)の千足る(ちたる/具備した)国、磯輪上(しわかみ)の袍図莽(ほつまの)国〔秀真国〕と仰せられた――という記事がある。
 E図に示すように、伊耶那岐命は駿河から安房までの磯が輪となる海岸線を上にして小国・日本の北を下にして「磯輪上の袍図莽国」と表現した。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 それというのも、「上」とした南の海上には、F図に示す伊豆諸島の神津島(こうづしま)が所在するからである。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 わがブログ「真実の日本国誕生史・15」で詳細に解説したように、北緯3412分に位置する物忌奈命(ものいみなのみこと)神社の[]の字源を“字書の聖典”と尊重された『説文解字(せつもんかいじ)』は「憎悪するなり」と解説する。したがって、物忌奈命神社は「来襲する呉の遠征軍を憎悪する」ために祀られることになったにちがいない。
 現在も神津島からは良質の黒曜石(こくようせき)が産出する。黒曜石は火山活動によってできた“黒いガラス”とされ、上手に刃をつけると石斧はもとより皮はぎや肉切り用や禾(/穀物となる草の穂)を刈()る石包丁や、石槍(いしやり)や鏃(やじり)として利用された。神津島の黒曜石は良質であったために、関東地方、東海西部(尾張・三河・遠江)、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。なんと、神津島の黒曜石は約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼や伊耶那美命が生存した後期弥生時代の3世紀まで本土に運ばれて利用されていた。神津島から伊豆半島までは30km以上も海で隔てられ、神津島から石川県能登半島まで直線距離で約400㎞もある。約3万年の旧石器人たちは、G図右上の[(げん)]の字源となる「天頂緯度線と子午線」をキャッチする能力を有していたために大海を往来し、北陸の能登半島などの遠い地から旅する人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
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   この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが、その実態は未だ謎のベールに包まれて不明とする。人類は原始のときから、脳に[]の「天頂緯度線と子午線」で精密に緯度を測定するきる本能がそなわり、鍛錬すれば[]をキャッチできる神秘的な眼力をそなえることができた。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動する原始の生活にあっても、“道に迷った! 死ぬ”と一気にパニック状態におちいって絶望して集団自殺をしないですみ、人類は[]をキャッチして滅亡しなかった。
 注目すべきは、上記した神津島の黒曜石の分布地域と高尾山古墳から発見された土器の分布地域は一致することである――神津島の黒曜石は倭国の北陸・近江・東海西部(尾張・三河・遠江)と小国・日本の東海東部(駿河・伊豆)と関東地方に分布し、高尾山古墳から発見された土器もまた倭国の北陸・近江・東海西部と小国・日本の東海東部・関東地方に分布する土器であった。
 ゆえに、倭国の北陸・近江・東海西部・関東に住む男子たちは、G図に示した[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして東海東部の駿河・伊豆の境に所在する高尾山古墳に到着した。だから、日本軍は倭国に住む北陸・近江・東海西部と小国・日本に住む東海東部・関東に住む男子たちで構成されていたことになる。
 桃沢神社が鎮座する沼津市の蓬莱山・足高山の山頂は北緯3512分である。したがって、蓬莱山山頂の桃沢神社はF図に示した神津島の北緯3412分の物忌奈命(ものいみなみこと)神社のちょうど1度北となる。この〔桃沢神社と物忌奈命神社のちょうど1度の差〕は偶然がなすことではなく、当時、G図の右上に示した〔[]のキャッチする眼力を技(わざ)〕を日々鍛錬する習慣が栄えていたため、呉の遠征軍に勝利するために物忌奈命神社から1度隔たる北の蓬莱山山頂に桃沢神社が祀られたことになったのである。
 上記したように、伊耶那岐命が「日本は礒輪上の袍図莽国」と述べた「袍図莽」の[]は偏が「衣」であるから[]の字は「衣で作った袋で包む」をあらわすことになった。[]は「作戦を図(はか)る」と意味し、[]は「全速力で走る犬」をあらわした。
 ゆえに、E図をご覧になっていただきたい。
 呉の遠征軍がもしも相模湾から東京湾に進入したならば――浮島原・蓬莱山や伊豆の大隊が伊耶那岐命と共に箱根山を越えて全速力で走る犬のごとく相模を通過して武蔵に到着するのを確認して、武蔵の一部の兵士たちが下総の海岸線へ移動し、下総の兵士たちが上総に移動して、上総の兵士たちが東京湾の出入口の浦賀水道を塞(ふさ)いで、呉の遠征軍を袋(つまり、東京湾)の中のネズミにして壊滅させる――このような作戦を「袍図莽」と表現するものであったことになる。

したがって、原始(後期旧石器)のときから神津島から産出する黒曜石を使用した倭地から駆()けつけた兵士たちと東海東部・関東地方の旧東鯷人の兵士たちで組織された日本軍の全兵士たちが心を一つにして呉の遠征軍と戦うために、前述した「久美度邇興して」の地霊・守護神と「磯輪上の袍図莽作戦」が考案されて小国・日本の国土生み事業はなされたことになる。

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