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2017年10月17日 (火)

真実の日本国誕生史・20

 ●愛、高らかに日本国は誕生した(9)
■水蛭子と淡島と葦船と淤能碁呂島聖婚説話
 
◆わがブログ「真実の日本国誕生史」の1219回まで、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話は細かく区分けして逐一(ちくいち)解説し――日本国が誕生した歴史の真相いいかえると伊耶那美命と伊耶那岐命は歴史上の人物であった、学者たちは〔誤読〕を用いて日本人にとって日本民族にとって最も大事な日本国誕生史を抹殺(まっさつ)するものであること――を科学的にかつ詳細に具体的に証明してきた。
 わがブログ「真実の日本国誕生史・17」では【その四】をA・B・C・Dの4つに分け、【その四のA】の記事を詳細に証明した。「真実の日本国誕生史・18」では【その四のB】の秘密を、前回のブログ「真実の日本国誕生史・19」では【その四のC】の秘密を詳細に解説して証明した。
 前回にて詳細に証明した『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話のうちの【その四のC】とした記事は、下記に示す「久美度邇興(くみどにおこ)して」という一語だけであった。
 ――然(しか)れども、久美度邇(くみどに)(おこ)して。
 この「久美度邇興して」という語は、A図の上部に示すように「富士山が静岡県沼津市にある足高(あしたか)山=蓬莱(ほうらい)山=現在の愛鷹(あしたか)山の峰の東のほうに移動する風景」のことである。
 S78a2
(C) 2017 OHKAWA

 つまり[久]は「蓬莱山」の[蓬(ヨモギ)]の字に関連してお灸(きゅう)して療治する時に用いる「艾(もぐさ)」をあらわした。キク科の多年草の蓬(ヨモギ)の葉の裏面には白い綿毛(わたげ)が密生し、この綿毛で灸療治用の「艾(もぐさ)」を作る。したがって、富士山の姿は「お灸する時の艾(もぐさ)の形に相似する」ゆえ、[久]は「富士山」をあらわした。また[久]の字義「ひさしい」にもとづき、富士山を「悠久(ゆうきゅう)なる聖山」、あるいは「永久なる霊峰」と称賛するものでもあったであろう。[]はもちろん富士山を「美しい霊峰」と讃(たた)え、「度邇」は「富士山が東邇(ひがしに)ある山(足高山)の峰に度(わた=渡)る」と意味した。ゆえに「久美度邇」は、上のA図に示すように「日本列島最大で最も重い富士山が東の足高山の峰にくっつくように移動する風景」をあらわした。[] の字源について、白川静著『字統』は「地霊をよび興すことをいう。まず地霊を祀(まつ)る」と解説する。だから「足高山の西にある富士山が足高山の東の峰のほうに渡る風景」は「地霊をよび興す」ことになって「久美度邇興して」と表現されることになったのである。
 わがブログ「真実の日本国誕生史」は1219回をもって、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は――黄竜2(230)、呉の皇帝・孫権(そんけん)1万の水軍に命じた夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に分かれる旧東鯷人(きゅうとうていじん)国=小国・日本への遠征は失敗したが、わが国では孫権はあきらめずに再度行うにちがいないと推断して誕生した小国・日本の歴史――を記述するものであったことを詳細に解説して証明してきた。
 B図の東日本が、卑弥呼王朝から伊耶那美命と伊耶那岐命が来襲してくると思い込んだ呉の遠征軍を防衛するために命じられた小国・日本(旧東鯷人国)であった。
S512
(C) 2017 OHKAWA

 「富士山が東に渡る久美度邇興しての風景」は、伊豆より以東の関東地方の全域で見ることができる。だから、「久美度邇興しての風景」は、日本の軍王(いくさのおおきみ)・伊耶那岐命が全兵士たちに呉の遠征軍を壊滅させる強大な地霊に護(まも)られていることを認識させて勇気を与え、全兵士を一致団結させる手段であったことになる。

◆今回は、下記に示す淤能碁呂島聖婚説話の最後の文となる、わたくしが【その四のD】と区分けした記事の秘密を解説し証明する。
 「子の水蛭子(ひるこ)を生む。此の子は葦船(あしぶね)に入れて流し去()りき。次に淡島(あはしま)を生む。是()も亦(また)子の列(かず)に入れざりき。」
 「久美度邇興」の後に「而生子」という3字が続くゆえ、「久美度邇興して生みし子」とも読める。これゆえ、上記の書き下し文を現代語に直訳すると、下記のごとくなる。
 「久美度邇興して生まれた子は、水蛭子(ひるこ)だった。この子は葦船に入れて流すことになった。次に淡島(あわしま)を生んだ。この子もまた、子の数に入れなかった。」
 上記の書き下し文を、淤能碁呂島聖婚説話における全記事との関係を考えて、意味がもう少し明確になるように訳すると下記のごとくなる。
 「伊耶那岐命が日本軍の〔久美度邇興しての霊峰富士を引き寄せる蓬莱山・足高山の地霊〕から生まれた子は、水蛭子だった。この子は葦船に入れて流された。次に、淡島が生まれた。この淡島もまた、卑弥呼王朝が命令した国土(くに)生みに反して生まれた子とされて、葦船に入れて流された。」

 上記したA図の「久美度に興して」の解明図を、再度、ご覧になっていただきたい。
 A図の下部には、北緯357分で同緯度の「大瀬崎(おせざき/静岡県沼津市西浦江梨大瀬)」と「淡島(あわしま/静岡県沼津市内浦重寺)」がある。内浦湾に浮かぶ周囲4㎞の小島の「淡島」は上記の記事(【その四のD】)に登場する「淡島」であるから、この「淡島」が「淡島」であったのである。その証拠に、「淡島」は「久美度邇興して」の「蓬莱山・足高山」の南に所在するゆえ、「久美度邇興して生みし子」ということになる。
 したがって、「水蛭子」は淡島と同緯度の「大瀬崎」であった。
 大瀬崎には古来より駿河湾一帯の漁民たちの信仰を集めた大瀬明神が鎮座(ちんざ)する。
 C図に示すように、大瀬埼の先端部(北部)には海が数mまで接近するにもかかわらず海水がまったく浸透(しんとう)しない「神池(かみいけ)」と呼ばれる、多数の淡水魚が生息する神秘的な真水(まみず)の池がある。
S532
(C) 2017 OHKAWA
 
 駿河湾の北へ突き出る大瀬崎は細長く蛭(ひる)の姿に相似し、神池は蛭が血を吸う吸盤(きゅうばん)の形に相似する。これゆえ、「真水の神池がある大瀬崎」は「真水と蛭」とされて「水蛭子」と表記されることになったのである。
 黄竜2(230)に小国・日本に遠征しようとした呉の水軍について、『三国志』呉書孫権伝は「甲士(こうし)万人」であったと記述する。ゆえに当時の状況から伊耶那岐命は、小国・日本に来襲する呉の遠征軍は1万の兵士で構成されていると推理したと考えられる。この呉の遠征軍との争いでは浮島沼が決戦場になると予想して、伊耶那岐命は日本軍の中心部隊を足高山・浮島沼周辺に配備した。しかし、呉の遠征軍は足高山・浮島沼がある駿河湾に進入せず、東方の相模湾を北上して上陸する可能性もあった。だから、B図に示す関東地方にも、その長い海岸線からして足高山・浮島沼周辺の数より多くの兵士たちを配備しなければならなかったことになる。これゆえ、A図に示した足高山・浮島沼地域に配備できた兵士の総数は、多分、2千足らずであったのではなかろうか。というのも、呉軍と日本軍が戦う決戦場の第一候補と推定した浮島沼に生息するチスイヒルはからだの5倍の人の血を吸うからである。ゆえに、足高山・浮島沼地域における日本軍の兵員数は、2千人足らずであったと推測できる。だから、2千の兵で1万の呉軍の兵士たちの赤い血を吸うすなわち殺すということで、「神池と大瀬崎」は「水蛭子」と称されることになったと考えられる。

◆わがブログ「真実の日本国誕生史・15」で詳細に解説した淤能碁呂島聖婚説話の【その三】の記事を現代語に訳すると――伊耶那岐命は結婚する伊耶那美命に「おまえの体はどのようになっているのか」と聞くと、13歳の乙女の伊耶那美命は子を生むことができる体に整っていない状況と呉軍の兵士たちを殺す先頭に立つ魔女(巫女王)になれない気分を「わたくしはだんだん成熟する体となっていますが、まだ整わない所が一ヵ所あります」と表現した。一方、18歳の青年の伊耶那岐命はそのたくましく屈強な体と呉軍を壊滅させる作戦の準備と訓練を早速着手できる日本軍の状況を「わが身はだんだん成熟して、できすぎた所が一ヵ所ある。ゆえに、我の体のでき過ぎた所をもって、お前の体の足りない所に刺し入れて塞(ふさ)いで、国土(くに)を生み成()さんと思う。この国生みの方針はどうであろう」と表現すると、伊耶那美命は「それは結構(けっこう)です」と答えた――となる。
 したがって、この記事に登場する伊耶那岐命が「汝()が身の成り合はざる処に刺し塞ぎで、国土を生み成さむと以為(おも)ふ」と述べた言は、伊耶那美命の「女陰」と伊耶那岐命の「男根」についてのみに限定して表現したものではない。伊耶那岐命の言の「汝が身の成り合はざる処」は「女陰」の他に、D図に示す「浮島沼」をもあらわしていたのである。つまり、伊耶那岐命は「浮島沼」を「女陰」に見立てたことになる。したがって「刺し塞ぎて」はD図に示す「呉軍を袋の中のネズミにして仕留める作戦」すなわち「浮島沼に進入した呉軍の巨大で重い船が多くの箇所が浅瀬となる浮島沼の底に船底がはまって動きがとれず立ち往生するのを、日本軍が包囲して壊滅させる作戦」をあらわしていたことになる。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 D図の浮島沼の海への出入口となる田子の浦を塞ぐと、浮島沼はC図の水蛭子・大瀬崎の「神池」と同じく海への出入口が無いことになる。
 下に「西の富士山と東を指し示す水蛭子・大瀬崎の北端」の写真を示した。

Photo
 ▲西の富士山と東を指し示す大瀬崎

 C図に示すように、水蛭子の北端にある神池は東のほうに寄る。ゆえに、上の写真が示すように、A図の「富士山が足高山・蓬莱山の東の峰に度(わた)る風景」を水蛭子・大瀬崎の神池は指し示す。だから、日本軍が呉軍を壊滅させる「袋の中のネズミ作戦」をあらわした「神池がある大瀬崎」は「久美度邇興して生みし子の水蛭子」であったことになる。
 また、「久美度邇興して=蓬莱山・足高山の山頂」は北緯3512分であり、E図に示すように東京湾の出入口となる「浦賀(うらが)水道」も北緯3512分で同緯度であるゆえ、「久美度邇興して生みし子の水蛭子」は「大瀬崎」であったことになる。
S534
(C) 2017 OHKAWA

 呉の遠征軍が伊耶那岐命の予想の裏をかいて相模湾を進んで東京湾に進入したとき――浦賀水道を塞ぐと、東京湾はC図の水蛭子の神池の形状が示すように呉の遠征軍を日本軍が包囲する「袋の中のネズミ作戦」が形成される状況となる。この「呉軍を袋の中のネズミにして壊滅する作戦」を、伊耶那岐命は[()]という字で表示した。
 『日本書紀』神武(じんむ)天皇紀末部には――むかし、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)がこの国を名づけて「日本は浦安(うらやす/平安)の国、細戈(くわしほこ/精兵)の千足る(ちたる/具備した)国、磯輪上(しわかみ)の袍図莽(ほつまの)国〔秀真国〕と仰せられた――という記事がある。
 F図に示すように、伊耶那岐命は駿河から安房までの磯が輪となる海岸線を上にして小国・日本の北を下にして「磯輪上の袍図莽国」と表現した。
S535
(C) 2017 OHKAWA
 
 伊耶那岐命が「日本は礒輪上の袍図莽国」と述べた「袍図莽」の[]は、衣偏に[]の字で構成される。ゆえに、[]の字は「衣で作った袋で包む」の意をあらわした。
 だから、[]は「袋の中のネズミにして、呉の遠征軍を壊滅する」と意味し、[]は「作戦を図(はか)る」と意味し、[]は「全速力で走る犬」をあらわした。
 ゆえに、F図をご覧になっていただきたい。
 呉の遠征軍が駿河湾に進入せず、もしも相模湾へ針路をとって東京湾に進入したならば――浮島原・蓬莱山や伊豆の大隊が伊耶那岐命と共に箱根山を越えて全速力で走る犬のごとく相模を経過して武蔵に到着するのを確認して、武蔵の一部の兵士たちが下総の海岸線へ移動し、下総の兵士たちが上総に移動して、上総の兵士たちが足高山・蓬莱山と同緯度の浦賀水道を塞いで、呉の遠征軍を袋(東京湾)の中のネズミにして壊滅させる――このような作戦を、伊耶那岐命は「袍図莽」と表現したことになる。

したがって「磯輪上の袍図莽」は東海東部(駿河・伊豆)と相模以東の兵士たちで組織された日本軍の全兵士たちが心を一つにして呉の遠征軍と戦うために考案された作戦であったことになる。
 だから、「久美度邇興しての蓬莱山・足高山の山頂と同緯度の浦賀水道」は、「久美度邇興しての地霊」をあらわす。浦賀水道を塞ぐと「東京湾」は[]の字をあらわすことになり、C図に示した「大瀬崎の神池」も[]の字をあらわした。これゆえ、「大瀬崎」は「久美度邇興して生みし子は、水蛭子」と記述されることになったのである。

◆したがって、「久美度邇興して生みし子の水蛭子(大瀬崎)」は「卑弥呼王朝が伊耶那岐命と伊耶那美命に呉の遠征軍を追い払えと命じた防衛任務」をあらわす。
 水蛭子・大瀬崎と同緯度の東にある淡島は、〔乳房〕のような形をした内浦湾に浮かぶ。わがブログ「真実の日本国誕生史・18」で証明したように、沼津市の高尾山(たかおさん)古墳において結婚式をおこなった時、戦勝祈願の占いによって定められた約束(規約)を破って伊耶那岐命より先に伊耶那美命は「なんとまあ、素晴らしい愛(いと)しい男性でしょう」と称(たたえ)た。これは「小国・日本の国作りの柱を〔愛〕にいたしましょう」と、伊耶那美命の願いをあらわしたことになる。だから、「乳房の形に似る淡島」は「国土生み結婚式で伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】」をあらわした。  
 わがブログ「真実の日本国誕生史・18」で詳細に解説し証明したように、伊耶那美命の夏音(かおん)文字の名(呉の遠征軍の呪的な戦力を奪う魔女名)は、『魏志』倭人伝末部に記載される「壱与(いよ)」であった。伊耶那岐命の夏音名は「載斯烏越(そしあお)」であった。
 『魏志』倭人伝末部の記事は、下記のごとく伝える。
 「載斯烏越(伊耶那岐命)一行が帰還する船団の船に便乗して倭地に到着した魏の出張機関が設置された朝鮮半島にある帯方郡使(たいほうぐんし)の長官の張政(ちょうせい)は檄文(げきぶん)を作って壱与(伊耶那美命)に――魏と魏の出張政庁がある帯方郡と諸韓国と倭国つまり東夷全域の平安のために、徇葬(じゅんそう)を憎悪する人民たちの反乱に乗じて戦争を仕掛けた狗奴(くな)国を討伐する事は正当であり必ずやりとげなければならない事業である――と告げ喩(さと)したが、壱与は狗奴国攻めを同意しなかった。
 これより以前、卑弥呼が没すると百余人の奴婢(ぬひ/18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女)を犠牲(いけにえ)にして殺した徇葬者(じゅんそうしゃ)たちは卑弥呼の墓に埋葬された。卑弥呼の後を継ぐ大王に男王を定めたが、徇葬をおこなった男王に国中の人民たちは服従せず、徇葬を憎悪する反乱が国中にひろがった。ゆえに、倭王朝は千余人の反乱者たちを殺した。また、倭王朝は卑弥呼が率いた巫女界を代表する女性として13歳の時に小国・日本の女王とした壱与を倭国に帰還させて倭女王に就任させると、【日本建国の〔愛〕の理念】に憧れる反乱者たちは壱与が倭女王になったならば必ず徇葬は禁止するにちがいないと信じて戦いを中止したため、遂(つい)に人民たちの反乱は鎮(しず)まった。(前述したように、壱与が狗奴国攻めを拒絶したため)、倭王朝は壱与の代役に天照大御神を選び、天照大御神が二度目の張政の檄文の告喩(こくゆ)に賛成して、狗奴国討伐が決行されて狗奴国は滅亡した。」
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に続く〔国生み説話〕は――卑弥呼の後を継いだ大王は伊耶那美命と伊耶那岐命を倭国に帰還させて、卜占(うらない)をおこなって「伊耶那美命(壱与)が結婚した時に戦勝祈願の約束に違反して唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】に倭国の国中の人民たちが憧れたために反乱が生じ、またこの人民の反乱に乗じて狗奴国が戦争を仕掛けて、倭国は混乱に混乱が重なる大乱となった。ゆえに、伊耶那美命には国中にひろがった倭国の大乱を鎮める責任がある。ゆえに、伊耶那岐命は狗奴国攻撃の指揮をとって壊滅しなければならない」と命令した――と伝える。

◆上記したように、『魏志』倭人伝末部と『古事記』上巻の〔国生み説話〕は「卑弥呼の後を継ぐ大王は――伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】に憧れた倭の国中の人民たちは徇葬を憎悪して反乱をおこし、この反乱に乗じて狗奴国が戦争を仕掛けた――と考えて、伊耶那岐命と伊耶那美命に倭国への帰還を命じた」と伝える。
 これゆえ『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の末部に記述された〔伊耶那美命と伊耶那岐命の倭国への帰還〕は「この子(水蛭子)は葦船に入れて流し去りき」、また「是(/淡島)もまた、子の数に入れざりき」と表現されることになったのである。
 「水蛭子」は「卑弥呼に命じられた伊耶那美命と伊耶那岐命の呉の遠征軍を撃退(げきたい)させる防衛任務」をあらわした。そして、「淡島」は「倭王が倭国の大乱の原因と指摘した伊耶那岐命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】」をあらわした。
 したがって「水蛭子と淡島」は「伊耶那美命と伊耶那岐命が努力した小国・日本の国土生み事業」をあらわした。ゆえに、「葦船に入れて流し去りき」は「二人の小国・日本の国土生み事績は認められず、流産(りゅうざん)した」と意味したことになる。というのも後ろの「子の数に入れざりき」という文は「伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】が原因となって倭国は大乱することになったと倭王は非難して、伊耶那美命と伊耶那岐命に大乱を鎮圧(ちんあつ)するように倭国への帰還を命じた」ということになるからである。
 伊耶那美命と伊耶那岐命の小国・日本における結婚式場は、2008年に発見された静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する、東日本における最古で最大の前期古墳である、G図に示す高尾山(たかおさん)古墳であった。
S541
(C) 2017 OHKAWA
 
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は「天之御柱(あめのみはしら)を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき」と記述するゆえ、もちろん、高尾山古墳には天之御柱は立っておらず、八尋殿も建造されていなかったことになる。つまり、伊耶那美命と伊耶那岐命の国土生みの事業が成しとげられた時に天之御柱は立ち、八尋殿は建造されることになっていた。
 G図の高尾山古墳の後方部の中央に設けられた主体部の埋納施設は、H図に示すように緯度軸(東西軸)に対してほんのわずか、東端が北へ寄って斜(なな)めとなっていた。
S542
(C) 2017 OHKAWA
 

発掘調査時には遺物を納めて埋めた箱(沼津教育委員会は「棺(ひつぎ)」とする)は残っていなかったが、板状の木片や木目状の痕跡(こんせき)が見つかった。また、この箱は舟の形をしていたと推測された。この箱の長さは5.053m、最大幅は1.252mであった。
 I図に示す「垂直に立つ天之御柱」を、『古事記』は「葦」と表現したと考えられる。
S543
(C) 2017 OHKAWA
 
 このI図の「天之御柱」の「葦」にH図の舟の形をした箱の「船」が加えると「葦船」となる。
 天之御柱の先端は1分の誤差もなく精確に緯度が測定できる天頂点を射()って垂直に立つが、遺物を納めた舟形の箱は緯度軸に対してわずかに外(はず)れているゆえ、「流し去りき」と表現されたと考えられる。だから、H図の沼津市教育員会が「木棺」と指摘した「遺物を入れた箱」は「葦船の中に入れて流し去りき」とあらわすものであったにちがいない。

◆わがブログ「真実の日本国誕生史」は「漢字は銀河の子、銀漢(ぎんかん)の子。銀河つまり銀漢の子であるから漢字と名づけられた。だから、漢字は銀漢各部の形状から作られた」、この事実をこれまで幾回もくりかえして科学的に証明した。
 『古事記』の序は冒頭で「紀元前2070年ころ~同2050年頃の夏代(かだい)初頭(わが国後期縄文時代初頭)、わが国に銀河各部の形状を字源・字形・字義とする夏音文字が伝来し習得された」と記述し――上巻の随所に〔音〕という注を付けて多数の夏音文字が記載されて現存することになった。『魏志』倭人伝にも卑弥呼(ひみこ)はじめとする人名・小国名・官職名に用いられて、銀河各部の形状を字源・字形・字義とした夏音文字は現存する。
 わがブログ「真実の日本国誕生史・17」で詳細に解説し証明したように――「国土生み」の[]の金文形は、J図に示す「長方形の暗黒天体部」から生まれた(作られた)
S544

   この[]の字源銀河の「長方形の暗黒天体部」が、3世紀、日本列島の天頂にめぐって来た。ゆえに、G図の高尾山古墳は「長方形の暗黒天体部」の形に設計されて伊耶那美命と伊耶那岐命の結婚は「小国・日本の国土生み」のためにおこなわれたと表示する。その証拠に、高尾山古墳の主体部がある後方墳は「長方形の暗黒天体部の北部」の「方形」に設計されている。
 []の旧字は[]。「外の囲(かこ)み」の[()]に「武装した城邑(じょうゆう)」つまり「多数の防衛施設が作られて、武装する」をあらわす[(わく)]が加わって、[]の字が作られた。
 「防衛」の[]の字は、[]の中央に[()]を配する。
 “字書の聖典”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は、[][]が加わる[()]の字源について「守るなり。囗に従ひ、韋聲」と解説する。
 []に草冠を加えると[]となる。だから、高尾山古墳の後方墳は[][][][]などの字源をあらわすことになったゆえ、この後方墳の主体部におけるH図に示した遺物を納めた箱は「葦船」と表現されることになったにちがいない。
 これゆえ「卑弥呼王朝が伊耶那美命と伊耶那岐命に命じた小国・日本を守る防衛任務を途中で切り上げさせて、倭王が二人に命じた倭国への帰国」は「葦船の中へ入れて流し去りき」と表現されることになったのである。

 これをもって、『古事記』上巻の淤能碁呂島説話の全記事を正しく理解する解釈を詳細に解説し証明する作業は終了した。
 以上のごとく、わがブログ「真実の日本国誕生史・1」で約束したように――『古事記』序の「漢字の字源・字形。字義を銀河(文字作成銀河)各部の形状に変換すれば、『古事記』上巻に記述された歴史は解明できる」という警告に従えば、歴史はおのずと解明できる仕組みになっている。しかし、1725年に没した新井白石以後の学者たちは西欧近代科学の合理主義の致命的欠陥である傲慢(ごうまん)な単純化に憑(と)りつかれるため、『古事記』序の警告をいっさい無視して論ずる。さらに、白石以後の学者たちは『日本書紀」が成立した720年直後から10世紀半ばの平安時代まで朝廷が頻繁(ひんぱん)におこなった講書(こうしょ)つまり反逆の史書『古事記』上巻に記述された歴史を消滅するために研究した誤読・誤訳の思考方法の伝統を受け継ぐため、〔誤読〕を自由自在にあやつって論ずる荒唐無稽(こうとうむけい)のウソ八百作りに夢中になる。だから、われら日本人は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された日本人の命と魂の源泉となった〔愛〕をかかげた日本国誕生史を知ることができないことになった。この【日本建国の〔愛〕の理念】は現憲法における三大原則の一つである「日本人としての基本的人権」の形成要素となるゆえ、われらは真の日本人として生きる尊厳を
奪われているにひとしい状況となる――この事実を証明した。

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