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2017年11月 4日 (土)

真実の日本国誕生史・22

 ●日本国は黄竜2年から起源した(1)
■黄竜2年と開化天皇
 
◆「いつ」、「誰が」、「何を」「どうしたか」、これらが明確であれば「歴史」となる。

 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話は、「いつ」の出来事であったかその年代を記していない。しかし、この説話は――伊耶那岐命と伊耶那美命がおこなった小国・日本の国土生み事業について説明するものであるゆえーー「誰が、何を、どうしたか」については記述するものとなる。
 したがって淤能碁呂島聖婚説話に記述された出来事は「いつ、おきたのか」、この1点を科学的に論証(ろんしょう)して明確にすることができれば、この説話は一変して歴史上の出来事を記述する確かな史料であったことになる。
 淤能碁呂島聖婚説話は――ここに天(あま)つ神諸々(もろもろ)の命(みこと)()ちて、伊耶那岐命・伊耶那美命の二柱の神に「このただよへる国を修理し固めなせ」と詔()りて――という文から始まる。そして、『古事記』序が「字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば、正しい歴史を知ることができる」と解説する歴史解明方法に則(のっと)り、また学者たちが「文献批判」という偽名を使って誤魔化す「誤読」を排除して忠実に読解する方法で研究すれば、上記の文中にある「ただよへる国を修理し固めなせ」という記述は――中国の正史『三国志』の呉書孫権(そんけん)伝における呉の黄竜二年(230)の「将軍衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)に遣(つか)わし、甲士(こうし/武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ」という記事、つまり「1万の呉の遠征軍の来襲に脅(おび)えて、人々が大海を漂いさまよう船人(ふなびと)のごとく死が間近に迫ると悲嘆して国中が大騒ぎになる未曾有(みぞう)の国難に襲われた状況」を表現するものであったことになる。
 上記したように、淤能碁呂島聖婚説話は黄竜2年頃の歴史を語るものであった。
 208年の赤壁(せきへき)の戦いで2万の呉の水軍が魏の80万の大軍を一夜にして火攻めで撃破して劇的な大勝利をおさめた。その魏の40万の大軍に匹敵する1万の呉の遠征軍が来襲する情報をいちはやく知って東鯷人国はじめ隣国の倭国は大騒ぎになって、東鯷人国王は倭女王卑弥呼に防衛の支援を要請して東鯷人国は滅亡し、倭国に属する小国の一国が誕生した。この小国を防衛する女王に伊耶那美命を選び、軍王(いくさのおおきみ)に伊耶那岐命を選び、この小国の封建(ほうけん/東鯷人国に代わる新しい国の創設)を、卑弥呼王朝は伊耶那岐命と伊耶那美命に委任(いにん)した。黄竜2年に台湾沖で1万の呉の遠征軍は8割から9割の兵を失って壊滅したが、卑弥呼王朝に続き卑弥呼の亡き後の倭王朝も再度人狩りに呉の遠征軍が襲来するにちがいないと思い込んだために、10年余もの間、伊耶那岐命と伊耶那美命は封建の任務に就いた――という歴史が明らかとなる。

◆中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「倭は東南大海の中にあり」という冒頭記事から始まり、次に『魏志』倭人伝にも記述される事柄を伝え、次に光武(こうぶ)帝が建武中元二年(57)に倭の奴国の使者に金印印綬(いんじゅ)を授けたと記述され、その次は卑弥呼に関する記事、続いて倭国の様子が説明され、さらに「裸()国・黒歯(こくし)国が卑弥呼の伝言を連絡する使者が来る駅がある最も端(はし)の小国である」と説明する。
 次の『後漢書』倭伝末部となる記事を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
 「呉の浙江省(せっこうしょう)の会稽(かいけい)の海外に東鯷人(とうていじん)国が有る。二十余国に分かれている。また夷州及び澶州(せんしゅう)がある。古くから――秦(しん)の始皇帝(しこうてい/紀元前246-同210在位)の時代、方士の徐福(じょふく)を遣わし、徐福は童男女(若い男女)数千人を将(ひき)いて海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙を求めたが得ることができなかった。徐福は誅(ちゅう/死刑)を畏(おそ)れて帰還せず、ついにこの州に止まった――と伝承される。世々たがいに受け継ぎ、徐福一行の子孫は(卑弥呼が生存した3世紀には)数万家となる。東鯷人国の人民は定期的に呉の会稽に到着して交易をしている。(中略)。東鯷人国は中国から遥(はる)かに遠くにあり、東鯷人たちが往来する大海の道は中国人には途中で絶えて消えてしまうゆえ往来することができない。」
 したがって、呉の遠征軍が黄竜2年に目指した夷州と亶州(=澶州)があり、また紀元前3世紀に徐福一行が神仙(仙人)に力を与える霊薬(れいやく)があると思い込んだ蓬莱山が所在する東鯷人国は、卑弥呼が統治した倭地の端っこにあった裸国・黒歯国よりさらに日本列島の奥に所在したと考えるべきことになる。

◆『古事記』上巻の〔須佐之男命(すさのおのみこと)の啼()きいさち説話〕末部は「伊耶那岐命大神は淡海(おうみ)の多賀(たが)に坐()すなり」と記す。
 この記事が伝えるように、伊耶那岐命は近江・滋賀県犬上郡多賀町多賀604に鎮座(ちんざ)する多賀大社の祭神となる。多賀大社の主祭神は淤能碁呂島聖婚説話の冒頭に登場する伊耶那岐命と伊耶那美命である。
 静岡県東部の沼津市の蓬莱山・足高山(現愛鷹山)の真北の、富士市と裾野市の境に「蓬莱山」という名が付く山がある。この裾野市の蓬莱山は、沼津市の愛鷹山が主峰となる愛鷹連峰に属する。裾野市の蓬莱山の山頂は北緯35度13分39秒である。滋賀県に所在する多賀大社は北緯351332秒である。ゆえに、緯度がわずか7秒しか相違しない裾野市の蓬莱山と多賀大社は同緯度ということになる。
 したがって、愛鷹連峰の蓬莱山が所在する旧国駿河の東部(静岡県東部)は日本列島の奥であるゆえ、『後漢書』倭伝の記事に記述された東鯷人国の一角であったことになる。
 中国では桃の木は仙木・仙果(神仙に力を与える樹木・果物の意味)と呼ばれ、古来より邪気を祓(はら)い不老長寿を与える植物として親しまれる。
 中国の正史で有名な司馬遷(しばせん)が著作した『史記』の巻百十八の「淮南衝山列伝(わいなんしょうざんれつでん)」は――徐福は秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申(ぐしん)し、始皇帝の命令を受け、3,000人の童男童女と百王(多くの技術者)をしたがえ、五穀の種を持って、東方に出帆(しゅっぱん)し、〔平原広沢(へいげんこうたく/広い平原の湿地帯)を得て王となり帰還しなかった――と記述する。
 1万の呉軍が東鯷人国遠征を決行した3世紀前半、愛鷹連峰の蓬莱山の南の伊豆と隣接する駿河東部の端に、A図に示す「浮島沼(うきしまぬま/別名、浮島原)」が存在した。この「浮島沼(浮島原)」は『史記』に登場する「平原広沢(広い平原の一大湿地帯)」に合致する。
S511
(C) 2017 OHKAWA

 浮島沼の北側の沼津市の愛鷹山(旧称・足高山)の山頂には「桃沢神社」が鎮座する。神社名の「桃沢」の「桃」は「蓬莱の神仙(仙人)に力を与える果実の桃」であり、[]は「平原広沢=浮島沼」をあらわした。ゆえに、山頂に桃沢神社が祀られる「沼津市の足高山」は『史記』と『後漢書』倭伝に記述された「徐福一行が不老長寿の霊薬である桃の産地と思い込んだ蓬莱山」であったことになる。というのも、A図の太線で四角に囲った地域内に在る足高山は徐福一行が不老長寿の桃の実が大量に得ることができる産地であると思い込んだ蓬莱山であったゆえ、この地域に伊耶那岐命と伊耶那美命が居住して、3世紀前半の遺跡や前期古墳が密集することになったちがいないからである。
 桃沢神社が鎮座する足高山山頂は北緯3512分、多賀大社が所在する近江滋賀県の琵琶湖に浮かぶ最大の沖島(おきのしま)の最高峰の蓬莱山山頂も北緯3512分である。
 最高峰が蓬莱山である上西下東の沖島の空中写真の形は、下に示すように、A図に示した伊豆半島と3世紀前半の遺跡や前期古墳が密集する地域の空中写真に相似する。
Photo
▲沖島の空中写真

 上の沖島の空中写真を平面的に図化した地図の形にすると、B図のごとくになる。
S551
(C) 2017 OHKAWA
 
 沖島の蓬莱山の標高は225m、沼津市の足高山の標高は1,187mであるゆえ両山の標高は大きく相違する。しかし、琵琶湖の西岸の比良山地(ひらさんち)にも蓬莱山があり、この蓬莱山山頂も沖島の蓬莱山と沼津市の足高山の両山山頂と同緯度(北緯3512)である。比良山地の蓬莱山の標高は1,174mであるゆえ、沼津市の足高山との標高差はわずか13mである。だから、沖島と比良山地の二つの「蓬莱山」は「沼津市の足高山は、徐福一行が目指した蓬莱山であった」と後世に伝える役目を有する山であったことになる。

◆『古事記』中巻の第9代開化(かいか)天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた。この天皇が丹波の大県主(おおあがたぬし)で名は由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚して生まれた子は比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)である。また継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚して生まれた子は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと/10代崇神天皇)である」と記述する。
 開化天皇が居住した「伊耶河宮」の先頭2字の「伊耶」は、「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字「伊耶」と合致する。だから、「伊耶那岐命」は「開化天皇」であり、「伊耶那美命」の本名は「正妃の竹野比売」であったことになる。「竹野比売が生んだ比古由牟須美命」が『古事記』上巻に登場する「須佐之男命(すさのおのみこと)」であったことになる。
 伊耶那岐命の継母の伊迦賀色許売命は伊耶那岐命の父親となる第8代孝元(こうげん)天皇とも結婚した。伊迦賀色許売命が生んだ崇神(すじん)天皇は〔三貴子(さんきし)の分治(ぶんじ)説話〕に記述された「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」であった。そして、伊迦賀色許売命は『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話〕に登場する「伊耶那美命」に「」の字を加えた「伊耶那美(いざなみのかみのみこと)」であった。この伊耶那美命・伊迦賀色許売命もまた息子の崇神天皇と同じく「天照大御神」という異名で呼ばれた。
 『古事記』の崇神天皇紀は〔建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆〕の条において「崇神天皇は、建波邇安王を“庶兄(まませ/異母兄)”と呼んだ」と記す。『古事記』の孝元天皇紀は「建波邇安は開化天皇(伊耶那岐命)の異母弟である。天皇と伊迦賀色許売命が結婚して生まれた子は、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)である」と伝える。この比古布都押之信命は建波邇夜須毘古命の異母弟であった。ゆえに、比古布都押之信命は伊耶那岐命・開化天皇の異母弟であったことになる。伊耶那岐命と天照大御神・伊迦賀色許売命が結婚して〔養子〕となって父子の関係が生まれた時に「比古布都押之信命」という名であった崇神天皇は「御真木入日子印恵命」と改名した。ゆえに、崇神天皇の実父は孝元天皇であり、崇神天皇は開化天皇の養子であり異母弟でもあった。3世紀では「養子になって親子の関係が生まれた」ということをあらわして、「開化天皇が伊迦賀色許売命に結婚して生ませた子は御真木入日子印恵命(崇神天皇)であった」と記したことになる。

◆わがブログ「真実の日本国誕生史・2」で詳細に解説して証明したように、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕は――伊耶那美命の墓つまり熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に、倭女王天照大御神(伊耶那美)は残虐な徇葬(じゅんそう)を指揮して多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋めた。これを怒った伊耶那岐命は配下の日本軍兵士とともに大斎原の陵墓の玄室(げんしつ)から伊耶那美命の亡骸(なきがら)が納まる棺(ひつぎ)を略奪するクーデターを決行した。伊耶那岐命一行は現在の熊野速玉大社の境内を目指して夜の熊野路を逃走し、速玉大社の境内で待機する日本軍と熊野に居住する戦士たちの本陣と合流した。伊耶那岐命軍は速玉大社の境内で、天照大御神が逃走する伊耶那岐命一行の追跡を命じた千五百之黄泉軍(ちいほのよもついくさ/倭王朝の大軍)を撃破した。また倭女王・天照大御神は“夫憎し”と執念深く夜の熊野路を歩き続けて捕らわれて、現在の和歌山県新宮市磐盾(いわたて)町の神倉(かんのくら)神社のご神体となる千引石(ちびきのいわ/現在名は“ごとびき岩”)の前で伊耶那岐命と対面し、天照大御神は離縁を言い渡された。これゆえ、神倉神社の祭神は天照大御神となった――天照大御神を祭る神倉神社は「伊耶那美命」の正体は「天照大御神・伊迦賀色許売命」であったと伝える。
 千引石の前で倭女王から失脚した天照大御神は「あなたがこんな無法をおかすならば、わたくしはあなたの国の人民の母親の産道が狭くなるように呪(のろ)い祟(たた)って、必ず一日に千人ずつの子どもたちを絞(くび)り殺す」と誓った。
 伊耶那岐命は「お前がそうするならば、吾は一日に必ず千五百の産屋(うぶや)が立つようにする」と唱え、亡き伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いで多数の子どもたちが生まれ愛(いつく)しみ育てられる政策をおこなうと誓った――と記述する。
 ゆえに、伊迦賀色許売命・天照大御神は倭女王から失脚し、伊耶那岐命が天下を手に入れて開化天皇となった。だから、伊迦賀色許売命は開化天皇の后(きさき)という戸籍を失ったため、崇神天皇の曽祖父となる第7代孝霊天皇の長女の「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」という名を継いだ。このため、『日本書紀』崇神天皇紀の〔四道将軍〕の条では「倭迹迹日百襲姫命は天皇の姑(おば/祖父の長女・大伯母)」と記す。
 倭迹迹日百襲姫命・崇神天皇の天照大御神母子は(1)伊耶那美命と【日本建国の〔愛〕の理念】、(2)伊耶那岐命・開化天皇、(3)山陰出雲に居住した伊耶那美命の息子の須佐之男命、(4)伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民たちを憎悪した。要するに、倭迹迹日百襲姫命・崇神天皇母子は〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部に記述されたように「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する母親たちの子たちの頭を一日に千人ずつ狭い産道で絞()め殺す」と呪(のろ)い祟(たた)る政策をおこなって、強大な権力を手中におさめる王朝を創設して大和王朝の基礎を築いた。
 この様子を伝えて、『日本書紀』の〔崇神天皇の六年〕の記事は下記のごとく記述する。
 「人民(百姓)が流離(りゅうり)するものたち、あるいは反逆するものたちがあり、その勢いは徳をもって治めようとしても困難であった。それゆえ朝夕、天皇は天神と地祇(ちぎ)に祈った。これより先に天照大御神と倭大国魂(やまとのおおくにたま)の二柱の神を、天皇の御殿の内にお祀(まつ)りした。ところが二柱の神は、それぞれの神の勢いを畏(おそ)れ、ともに一社殿で祭られることを嫌った。そこで、天照大御神には豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)をお付けになって、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀ることにして、「磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろき)」つまり「天皇が居住する宮殿・磯城(しき)の瑞籬宮(みずかきみや)を守護する祭場」を造った。また、日本大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)には、渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)をお付けになって祀った。ところが渟名城入姫命は、髪がぬけ落ち、身体が痩()せ細って祀ることができなかった。」
 崇神天皇は天照大御神を熱心に祀っていたゆえ「天照大御神」と呼ばれ、生母の伊迦賀色許売命も天照大御神を尊び祀るものであったゆえ「天照大御神」と呼ばれることになったのである。崇神天皇の生母・伊迦賀色許売命は神倉神社のご神体の前で【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・恨み・呪詛(じゅそ)した。ゆえに、彼女が祀る天照大御神は呪詛・祟りの神となった。崇神天皇は御殿で天照大御神を祀ると王朝に呪詛・祟りの危害が及ぶと心配して、御殿の外の磯堅城の神籬で天照大御神を祀ることにしたのである。
 だから「倭大国魂神」は「倭地の山陰・出雲に居住した須佐之男命を呪い祟るための神」であった。これゆえ須佐之男命の後継者となった出雲王朝の王は「大国主神」と名乗ることになった。「日本大国魂神」は「出雲に住む須佐之男命、伊耶那岐命の後に小国・日本を治めた王、そして【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する小国・日本はじめ倭国の人民を呪い祟るための神」であったゆえ、日本大国魂神を祀る巫女の渟名城入姫命は毒を盛られたのであろう、髪が抜け落ち体が痩せ細って祀ることができないことになったのである。

◆『古事記』の開化天皇紀の末部は「御陵(みはか)は伊耶河の坂の上()に在り」と記す。
 この開化天皇陵は奈良市油坂町に所在する全長が約105mの前方後円墳である。この開化天皇陵は、墳丘(ふんきゅう)規模から、5世紀末から6世紀初頭の時期に築造されたと推定されている。というのも、開化天皇はおそらく260年より直前ころに没したであろうが、崇神天皇は養父伊耶那岐命・開化天皇を激しく憎悪するものであったゆえ、開化天皇陵を築造しなかったことになる。だから、開化天皇陵は5世紀末から6世紀初頭の時期に築造されることになったのである。
 『古事記』上巻の〔三貴子の分治説話〕は「伊耶那岐命は養子の天照大御神・崇神天皇を後継者に選んで、天下を譲った」と記す。というのも、伊耶那岐命は伊迦賀色許売命を憎悪してクーデターを起こし、伊迦賀色許売命と息子の崇神天皇はこのクーデターを怨(うら)んで復讐を誓うものであったゆえ、この憎悪の連鎖(れんさ)を断ち切るために伊耶那岐命は崇神天皇を後継者に選んだことになる。だから、崇神天皇は復讐の怨念(おんねん)を断って開化天皇陵を築造しなければならなかったのであるが、復讐の炎を消すことができずなかった崇神天皇は開化天皇陵を築造しなかったのである。
 学者たちは「崇神天皇紀からは歴史と言える。しかし開化天皇陵は3世紀に築造されるものでないから、開化天皇紀は歴史を伝えるものではない」と主張する。しかし、開化天皇は伊迦賀色許売命と崇神天皇に激しく憎悪されるものであったゆえ、この点を注目すれば一変して「開化天皇紀は明確に歴史を伝えている」ことになる。

◆『日本書紀』は「伊耶那美命は花の窟(いわや)に葬られた」と記す。花の窟神社は東経13605分の三重県熊野市有馬町に所在する。
 上掲したA図とB図を再度、参照してください。B図の下部に示すように、花の窟の経度軸は沖島の東岸を擦(こす)るように通過する。B図の沖島の地図の形は、A図の伊豆半島と駿河東部(四角に囲む地域)の地図の形に相似する。ゆえに、沖島の最高峰の蓬莱山と同緯度の足高山・蓬莱山は伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した場所について、A図に示した足高山の南にして浮島沼の東岸の高尾山古墳であったと示す。というのも、高尾山古墳はB図の沖島の地図の形に相似するA図における伊豆半島・駿河東部内の太線で囲った地域内に所在するからである。
 東日本最大で最古の前期古墳の高尾山古墳は墓と考えられているが、一般の用途と異なり墓ではなかった。この古墳が所在する「熊堂(くまんどう)」という地名が歴史を伝えて、高尾山古墳は伊耶那岐命と伊耶那美命が呉軍との戦いの勝利を祈願して結婚した足高山・蓬莱山を祭る堂(どう)=封土(ほうど/盛り土)であったことになる。
 C図に示す高尾山古墳にはもう一つの用途があった、それは歴史を伝える役目であった。
S552
(C) 2017 OHKAWA
 
 C図に示すように、高尾山古墳の後方墳中央に〔主体部〕がある。
 D図に主体部に埋納された破砕鏡(はいさいきょう)230年=黄竜2年頃に作られた東海西部系の土器の状況を示した。
 古墳の構築年代について、調査にかかわった研究者たちは検討を重ねた結果、西暦230年説と250年頃説との2つの意見に分かれた。というのも、主体部から230年頃のものと考えられる土器と、250年頃のももと考えられる土器が破砕鏡や鉄製品と共に出土したがために、2つの意見に分かれた。そこで年代をしぼり込むための根拠を得ることを目的として、平成26年度に追加の発掘調査が行われた。その結果、墳丘内から出土した土器は約2,000点に上ったが、西暦230年頃より新しいもの=250年頃のものは含まれていなかった。これによって、主体部を除く墳丘は230年頃に完成したという結論になった。そして、主体部に埋納された遺物(主に鉄の鏃)/やじり〕は250年頃のものと推定されたゆえ、主体部は250年頃に作られたと沼津市教育委員会は定めた。
 これゆえ、高尾山古墳の墳丘年代の決め手となった、D図に示す破砕鏡から約1m東と東南にあった「230年頃の東海西部系土器」によって、淤能碁呂島聖婚説話は黄竜2年・西暦230年頃の歴史を語るものであったと証明することができる。言いかえると、250年頃に主体部を作った人々は「小国・日本は黄色竜2(230)頃に誕生した」と示すために「230年頃に作った東海西部系土器」を主体部に納めたのである。このため、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話末部には「葦船(あしぶね)に入れて流し去りき」と記述されることになった。D図の主体部から板状の木片(もくへん)や木目状の痕跡(こんせき)が発見されたことから、沼津市教育委員会は主体部を「舟形(ふながた)木棺」と推定した。高尾山古墳は墓ではなかったゆえ、主体部は「葦船」であったことになる。
S553
(C) 2017 OHKAWA

◆E図に高尾山古墳の主体部「葦船」から出土した、2世紀後半に中国の後漢時代に作られた「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」と呼ばれる破砕鏡に残った絵柄を示した。

S554
(C) 2017 OHKAWA

 F図は、淤能碁呂島聖婚説話に登場する伊耶那岐命を主祭神とする熊野速玉大社(和歌山県新宮市新宮)の牛王神璽(ごおうしんじ)の図である。
S555
(C) 2017 OHKAWA
 
 F図の右側に拡大して飛び出させた八咫烏(やたがらす)の絵柄を、G図の上図にした。E図の右下の「鳥」の絵柄を、G図の下図にした。両者の鳥の尾の形はほぼ同形である。
S561

(C) 2017 OHKAWA
 
 H図に示す熊野三山の牛王神璽中央の「日本第一」の「日本」は、淤能碁呂聖婚説話冒頭の「このただよへる国を修理し固め成せ」の国が「小国・日本」であったと伝えていることになる。したがって、黄竜2年に1万の呉軍が遠征しようとした夷州と亶州(澶州)に分かれていた東鯷人国は、伊耶那岐命と伊耶那美命が卑弥呼王朝に封建を委任された小国・日本であったことになる。
S562

(C) 2017 OHKAWA

 I図に示す「新宮市の市街図」の左上に、伊耶那岐命を主祭神とする熊野速玉大社がある。速玉大社から約1㎞南に、伊耶那岐命に離縁された時に天照大御神が「汝の国の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)(くび)り殺さむ」と【日本建国の〔愛〕の理念】を尊ぶ人民たちを怨み憎しみ呪い祟ると誓った神倉神社と千引石(ごとびき岩)が所在する。
S563
 
 神倉神社の東方の浮島の森は「新宮藺沢浮島(しんぐういのさわうきしま)植物群落」であり、小さな沼に浮かぶ島が雨で増水すると島全体が浮上して沼津市の浮島沼に見立てることができる。さらに、東方には沼津市の足高山を神仙の霊薬がある蓬莱山と思い込んだ徐福の墓があり、その北の阿須賀(あすか/飛鳥)神社のご神体は蓬莱山である。
 だから、G図に示した絵合わせが示すように――黄竜2年における1万の呉軍の遠征によって東鯷人国は滅んで小国・日本が誕生した歴史は、2008年に発見された高尾山古墳によって証明されて、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚によって日本国が誕生した歴史を語るものであったことになる。
 以上のごとく、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話には「いつ」の出来事と記載されていないが――淤能碁呂島聖婚説話は1万の呉軍が日本列島遠征を決行した黄竜2年頃に日本国が誕生した歴史を記述するものであったことになる。

 さらに、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は黄竜2年頃の出来事であったと後世に確実に伝える方法が存在した。この【日本国誕生史】を確実に伝える方法は、太安万侶(おおのやすまろ)が『古事記』序に書いた「文字作成銀河各部の形状を文字とする方法」であった。これゆえ、この方法によって先人たちは呉の黄竜2年頃に伊耶那美命が〔愛〕を国作りの柱にすると唱えた歴史を失わず、日本人としての尊厳を抱きつづけることができた。またこの方法によって、日本国が誕生した3世紀以後から遠く隔たる17世紀の先人たちも、黄竜2年頃に日本国は誕生した歴史を失わなかった。ゆえに、17世紀の先人たちが〔文字作成銀河各部の形状を文字とする学術」を用いて作成した遺跡によって、現在にあっても『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は黄竜2年頃に日本国が誕生した歴史を記述するものであったことが科学的に証明することができる。
 次回は、『古事記』序に記述された〔文字作成銀河各部の形状を文字とする学術」を用いれば日本国誕生史を正確に伝えることができた、この秘密を解明する。

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