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2017年11月 9日 (木)

真実の日本国誕生史・23

 ●日本国は黄竜2年から起源した(2)
■桂離宮庭園の平面図と黄竜二年パズル・1

◆前回のブログ「真実の日本国誕生史・22」で証明したように――『古事記』上巻の〔伊耶那岐命と伊耶那美命神話〕最初の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に、「呉の黄竜二年(230)頃、日本国は起源した」という1行が加わると、この神話は歴史に一変する仕組みになっている。
 というのも、わがブログ「真実の日本国誕生史」は前回まで詳細に解説して証明してきたように、淤能碁呂島聖婚説話の冒頭部は――呉の皇帝・孫権(そんけん)1万の呉軍を東鯷人(とうていじん)国に遠征を命じた黄竜二年(西暦230)頃、東鯷人国王は208年の赤壁(せきへき)の戦いで2万の呉軍が魏の80万の大軍を一夜にして火攻めで壊滅させた、この40万の魏の大軍に等しい呉の遠征軍と戦っても勝ち目がないと考えて、卑弥呼が統治する隣国の倭国の一員に加わることを決心して防衛軍の派遣を要請した。よって東鯷人国は滅亡して、現在の静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する東日本最大で最古の前期古墳の高尾山(たかおさん)古墳において、呉の遠征軍を防衛するために女王に選ばれた伊耶那美命と軍王に選ばれた伊耶那岐命が蓬莱山(ほうらいやま/旧称・足高山、現在の沼津市の愛鷹山)に勝利を祈願する結婚をおこなった。この結婚式の時に伊耶那美命は国作りの柱を〔愛〕と定め、伊耶那岐命は防衛軍備を固めて日本国(小国・日本)が誕生した――と、歴史を語るものであったからにほかならない。
 したがって淤能碁呂島聖婚説話は何時(いつ)の出来事であったかは記述していないが、この説話の先頭に「日本国は、呉の黄竜二年の呉軍の東鯷人国遠征から誕生した」という1行を加えれば、歴史を伝えるものであったと一変するように著作されていたのである。

◆中国の正史『三国志(さんごくし)』呉書孫権伝に「黄竜二年(230)、将軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(こうし/武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ」という記事がある。
 中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は、夷州と亶州について「会稽(かいけい/呉の浙江省)の海外に東鯷人国が有り、分かれて二十余国となる。また夷州及び澶州(せんしゅう/亶州と同じ)が有り。古来より――秦(しん)の始皇帝(しこうてい/紀元前246-同210年在位)の時代、方士(ほうし)の徐福(じょふく)を遣わし、童男女(若い男女)数千人を将(ひき)いて海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙の不老長寿の霊薬を求めてくるように命じたが得ることができず、誅(ちゅう/死刑)を畏(おそ)れて帰還せず、この州に止(とど)まって定住した――と伝承されている。徐福一行の子孫は世々互いに承()け継ぎ、卑弥呼が生存した3世紀には数万家となる。東鯷人国の人民、時(定期的)に会稽にやってきて交易をしている。(中略)。所在(しょざい)は絶遠(ぜつえん)して往来すべからず、つまり東鯷人国は中国から遥かに遠くに所在するため、東鯷人が往来する大海の道は中国の人々には途中で絶えて消えてしまうゆえ往来することができない」と説明する。
 中国史になくてはならない書とされる『資治通鑑(しじつがん)』は、1万の呉軍の東鯷人国遠征目的について「その民を俘(とりこ)にして以て衆を益()さんと欲す」と記述する。東鯷人国へ遠征して人民狩りをしようとし呉軍は、台湾沖にて8割から9割の兵士たちを失って壊滅(かいめつ)した。帰還した遠征軍の将軍の衛温と諸葛直は“功無(こうな)かりき”という罪状によって誅殺(ちゅうさつ)された。
 徐福が不老長寿の霊薬を得ることができると思いこんだ蓬莱山は、A図に太線で四角に囲った3世紀前半の遺物や前期古墳が密集する地域に所在する足高山(現在の沼津市の愛鷹山)であった。
S511
(C) 2017 OHKAWA

 ゆえに、伊耶那岐命は――足高山の南の浮島沼(うきしまぬま)に呉の遠征軍を進入させて巨大な呉軍の船が水底の沼地にはまりこむように誘導し、日本軍の兵士たちは敏捷(びんしょう)に動きまわることができて沼にはまらない多数の小船(こぶね)に乗り込み呉の軍船を包囲して壊滅(かいめつ)させる作戦――を考えた。
 『日本書紀』神武(じんむ)天皇紀末部は、伊耶那岐命は日本軍の作戦を「袍図莽(ほつま)と名付けた」と記述する。〔袍図莽〕の[]の字は[]」つまり「衣で作った袋」に[]が加わる字であるゆえ、「呉軍を袋の中のネズミにして滅ぼす」と意味した。この作戦のために、日本軍は沼にはまらない敏捷に動き回ることができる小船を発明した。この軍船の名は、『古事記』上巻の〔神生み説話〕に「鳥之石楠船(とりのいわくすふね)またの名は天鳥船(あめのとりふね)」と記述された。
 黄竜二年の1万の呉の遠征軍は、B図に示す台湾→宮古島→火山列島の硫黄島→小笠原諸島→伊豆諸島、そして東日本=小国・日本(旧東鯷人国)までの『後漢書』倭伝末部が「所在絶遠にして往来すべからず」と記す大海の道を進もうとしたことになる。この大海の道を征服するには、1度の60分の11分の差を測量できる眼力と技(わざ)が必要であった。
S571
(C) 2017 OHKAWA
 
 中国では、紀元前1世紀に北極星を「太一(たいいち)神」と尊重するシナ天文が完成した。黄竜二年当時の北極星は、C図に示すように緯度の高度に換算できる天の北極を中心にして半径約10度・直径約20度・1200分の円を描いていた。この北極星が1200分の円を描く中心となる天の北極の高度が、緯度の数値となった。したがって、1200分の円の中心(天の北極の高度)を、1分の精度で肉眼と技(わざ)で計測することはまったく不可能であった。
S572
(C) 2017 OHKAWA
 
 だからシナ天文が災(わざわ)いして、B図に示す大海の道は、呉の遠征軍には「所在は絶遠して往来すべからず」ということになって征服することができなかったのである。

◆一方、東鯷人たちは、D図の右上に示す[(げん)]つまり「天頂点を通過する銀河部位の軌道が重なる天頂緯度線をキャッチできる眼力と技」を日々鍛錬するものであった。だから、東鯷人たちは1分の緯度差が測定できたので、B図に示した東日本・会稽間の大海の道を往来することができたのである。
S573
(C) 2017 OHKAWA
 
 呉の遠征軍は[]のキャッチをにわか訓練して東鯷人国へ目指したであろうが、短期間では[]をキャッチする眼力と技は取得(しゅとく)できなかったので、呉の遠征軍は台湾沖で壊滅した。孫権は東鯷人たちが有する[]をキャッチする眼力と技の取得は呉の兵士たちには無理であることを知って、再度遠征を命じなかった。
 しかし呉の首都名は、E図に示すように「建業(けんぎょう)」であった。
S574
(C) 2017 OHKAWA

 “字書の聖典”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は、「建業」の[]「の字源を「朝律(ちょうりつ)を立つなり」つまり「[]をキャッチして、1分の誤差もなく精密に天頂緯度を測量して春分の朝に太陽が昇る〔東〕を測定する」ことであった。[]の字源は「春分点の測量にもとづく宮殿や廟(びょう)を建造して建国する事業」であった。このため、卑弥呼と卑弥呼没後の倭王朝の面々は、首都「建業」から出発する呉の遠征軍は[]をキャッチできるゆえ、呉の遠征軍は来襲するにちがいないと思い込んだ。よって、伊耶那岐命と伊耶那美命は10数年余のあいだ小国・日本を建国する事業に努力することになった。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話末部の記事を、現代語に訳すると下記のごとくなる。
 「しかしながら久美度邇興(くみどにおこ)して、伊耶那岐命の袍図莽作戦をあらわす子として「水蛭子(ひるこ)」という名がつく岬が生まれた。この子すなわち伊耶那岐命の軍事任務の国土(くに)生みは倭王朝から倭国への帰還を命じられたために成就せず、葦船(あしぶね)の中に入れて流し去ることになった。つまり、倭王朝は伊耶那岐命の小国・日本の国土生み事績(じせき)を認めなかった。次に伊耶那美命が結婚式に唱えた〔愛〕を柱とする国作りをあらわす子として、「淡島(あわしま)」という名の島が生まれた。この子すなわち伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】の国土生み事績も倭王朝は認めず、伊耶那美命に倭国の帰国を命じたため、葦船の中に入れて流し去ることになった。」
 わがブログ「真実の日本国誕生史・20」で詳細に解説したように――「久美度邇興して」は、A図に示した沼津市も足高山が、前述したように「紀元前3世紀に徐福一行が不老長寿の霊薬を採取できると思い込んだ蓬莱山であったこと」を伝える語であった。“字書の聖典”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は、[]の字源を「後よりこれを灸(きゅう)す」と解説し、[久]は「お灸」の[灸]の原字(最初の文字)であったと伝える。「蓬莱山」の[蓬]の字は「キク科の多年草のヨモギ」を意味し、お灸に使う艾(もぐさ)は蓬(ヨモギ)の葉の裏面の白い綿毛(わたげ)から作られた。したがって、富士山の姿は〔お灸する時に用いる艾(もぐさ)の形に相似する〕と見立てられたことになる。ゆえに、[久]は「富士山」をあらわした。[久]に続く[]はもちろん「美しい富士山」と讃(たた)えていることになる。「度邇]は「西にある富士山が東邇(ひがしに)度(わた)る=移動する」を意味する。[興]の字源について、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は「地霊をよび興すことをいう。まず地霊を祀(まつ)る」と解説する。「
 だから、F図に示すように「足高山の西にある富士山が足高山の東の峰の後(うし)ろに渡る(移動する)風景」、また「日本一巨大な富士山を蓬莱山・足高山の峰の後ろに引き寄せる地霊」は「久美度邇興して」と表現されることになったのである。
S78a3
(C) 2017 OHKAWA
 
 この「久美度邇興して」という語があらわした「足高山・蓬莱山の西にある日本一巨大な富士山を、足高山が東南の峰のほうに移動させる状況」は、伊豆以東の関東地方(小国・日本」の全域で実際に目撃できる。ゆえに、この足高山の呪的(じゅてき)地霊のほうが一夜にして魏の80万の大軍を壊滅させた呉軍の呪的戦力よりも遥(はる)かに勝ることを、関東地方の兵士たちに示すことができた。だから、伊耶那岐命は「久美度邇興して地霊(風景)」によって呉の遠征軍が上陸する東海東部(駿河・伊豆)から関東地方までの日本国海岸線全域に配置した全兵士たちの心を一つに団結させて袍図莽作戦を徹底させることができた。
A
 ▲富士山が足高山(現在の愛鷹山)の東の尾根の後ろに移動する伊豆・駿東郡清水町の風景

◆F図の下部に示すように、蓬莱山・足高山の南には沼津市西浦に所在する「大瀬崎(おせざき)」がある。
 G図に示す「大瀬崎」の地図の形は「浮島沼に生息する蛭(ひる/チスイヒル)の姿」に相似するゆえ「水蛭子」と名づけられた。大瀬崎北部は数mすぐ外が海でありながら、その中央に蛭の吸盤のような形をした真水の池が所在する。この池は、今日「神池(かみいけ)」と呼ばれる。「神池の円形に囲む岸辺」を[()]や「呉軍の軍船を包囲する日本軍の天鳥船」に見立てると「神池」は「呉の遠征軍の船を浮島沼の中に進入させて袋の中のネズミにして壊滅させる袍図莽(ほつま)作戦」をあらわした。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 H図に示すように、北には「久美度邇興しての富士山を引き寄せる地霊を有する蓬莱山・足高山」が所在し、その南には「久美度邇興しての子の水蛭子・大瀬崎と内浦(うちうら)湾に浮かぶ淡島(沼津市内浦重寺)」が所在する。この大瀬崎と淡島は同緯度(北緯3501)である。
S581
(C) 2017 OHKAWA
 
 H図下部の水蛭子・大瀬崎と同緯度の淡島の北側には、伊耶那美命と伊耶那岐命が結婚した高尾山古墳がある。
 前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・22」で解説したように、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話が「水蛭子と淡島を葦船に入れて流し去った」と記述した「葦船」は「高尾山古墳の後方墳中央に設けられた主体部施設」であった。
 I図に、「葦船」つまり「高尾山古墳の主体部施設」を示した。この「葦船の中」には、呉軍が東鯷人国への遠征を決行した黄竜二年(230)頃の東海西部系土器が納められていた。ゆえに、発掘された時に高尾山古墳の主体部の埋納施設から見つかった板状の木片と木目状の痕跡(こんせき)は、地中で腐ってバラけた天鳥船の残骸(ざんがい)であったと考えられる。
S582
(C) 2017 OHKAWA
 
 I図の葦船(高尾山古墳の主体部施設)から発掘された33点の鉄の鏃(やじり)2点の鉄製の槍(やり)は武器であるゆえ、伊耶那岐命が努力した国土生みの水蛭子事業をあらわした。この葦船から発掘された1面の銅鏡と1点の勾玉(まがたま)は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】の国土生みの事業をあらわす遺物であった。

◆わがブログ「真実の日本国誕生史・4」において――紀元前3000年の五帝時代初頭に生存した黄帝は〔女性生殖器と子どもの出産〕を研究したが、この研究をあらわすことができる文字が未だ作られていなかったので、黄帝につかえた史官の倉頡(そうきつ)が銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成原理を発明した。したがって、楷書が完成した隋代(ずいだい)6世紀より以前のすべての漢字は、倉頡が考案した銀河各部の形状を字源・字形・字義とする方法と漢字作成原理に則(のっと)って作成された。倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡(またの名は、鳥獣の文)」と称され、黄帝が研究した〔女性生殖器と子どもの出産〕にもとづくものであった――ことを、詳細に解説した。
 それゆえ「文字を作る」を「文字を生む、文字が生まれる」と表現された。この秘密を伝えて、『古事記』上巻の「国土生み、あるいは国生み」は「倉頡の漢字作成原理にもとづいて、銀河の形状に合致する優れた国家や小国の名称を考案する」と意味し、「神生み」は「優れた発明や工法や技術や作品を発明する」と意味した。
 前回のわがブログで幾度も繰りかえしたように――倉頡の発明にしたがって6世紀より以前の全漢字が生まれた銀河各部の形状範囲を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけた。
 この「文字作成銀河」の範囲は、下記の写真のごとくである。

Ginga

   文字作成銀河の各部の名称は存在しないゆえ、わたくしは下記のごとく定めた。
Photo
(C) 2017 OHKAWA

 わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で詳細に解説して証明したように――太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』序の冒頭で「がわが国に紀元前2070年から同2050年頃の夏代(かだい)初頭に夏音(かおん)文字が伝来して習得された」と証言する。また、その末部にて「楷書の日下(にちげ)と夏音文字の玖沙訶(くさか)は同義、楷書の帯(たい)と夏音文字の多羅斯(たらし)は同義である」と解説する。この夏音文字は失われず、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数残り、『魏志』倭人伝にも卑弥呼(ひみこ)はじめ人名・小国名・官職名に用いられて夏音文字は現存する。

◆上記した文字作成銀河における夏の銀河の西南部の東側の「巨龍の銀河からわし座の主星の彦星までの銀河」は、J図に示すように「竜()の姿」に観える。
S78b3
(C) 2017 OHKAWA
 
 下の写真に示すように、夏の銀河の西南部は黄色に輝く。「黄色く輝く龍の姿が観える夏の銀河の西南部」から、呉の皇帝・孫権は229年の元号を「黄竜」と定めたのである。
Photo_2
 ▲黄色く輝く夏の銀河の西南部

 下に京都市西京区桂に所在する皇室関連施設の桂離宮庭園の平面図を示した。

Photo_3
 ▲桂離宮庭園の平面図

 1933年に来日した世界的に有名なドイツの建築家ブルーノ・タウトは桂離宮の庭園を賞賛し、知名度を国際的に高めた。タウトは、桂離宮の建物・庭園を「泣きたくなるほど美しい」「理解を絶する美、すなわち偉大な芸術のもつ美である」と絶賛した。桂離宮の庭園は日本人の尊厳をあらわし、夏音文字学芸・日本文化の精神性を表現する遺産であった。というのも、桂離宮の庭園は「『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は日本国誕生史を語る」、この事実を皇室から承認を得るために作成された庭園であったからである。
 桂離宮庭園は当時の天才芸術家の小堀遠州によって作成された。
 K図の右図は、上に示した桂離宮庭園池の東岸庭園全域の平面図である。左図は、文字作成銀河図である。K図右図の卍帝(まんじてい)はK図左図のわし座に相当し、桂離宮の御幸門(みゆきもん)は夏の銀河の西南部の南部に相当する。
S584

(C) 2017 OHKAWA
 
 したがって「御幸門から卍帝までの庭園」はJ図に示した「黄竜」の元号をあらわした。
 なお上掲した文字作成銀河の写真とK図の左図の文字作成銀河の形は同一形ではないが、K図の左図は人間の瞳孔径(どうこうけい/瞳孔の直径)が最大(78mmくらい)に拡大したときの文字作成銀河の形であり、上掲した写真は少し明るい光が視界の中に入った時の瞳孔径と同様の絞りでカメラ撮影した字源・字形・字義が最も明確に見える文字作成銀河の形である。人間の目は、明るさに応じて、自動的に瞳孔径78mm2mmくらいまで拡大・縮小する仕組みになっているので、視界の中に入った光によって形が変わる。現在は世界の人口の8割以上が街の照明などの「光害」の影響を受け、約3分の1は銀河を肉眼で見ることができなくなっていることが欧米の研究チームの分析で明らかとなった。日本では約7割の人々が肉眼で銀河を見ることができない。
 K図の右図中央の「天の橋立の二つの築島(つきしま)」は、J図の「黄竜の銀河(巨龍の銀河)」がある東側に寄って作られる。
 このため、L図に示すように「天の橋立の東側の二つの築島」は「黄竜二年」をあらわすことになった。
S585

(C) 2017 OHKAWA
 
 M図に示すように、西岸の岬先端に植えられる「住吉の松」と「黄竜二年をあらわす天の橋立中央の築島」は同緯度である。ゆえに、この緯度線は東鯷人たちがB図に示した大海の道を往来することができたのは、D図に示した〔[]の天頂緯度線〕をキャッチできたことを現在に伝えていたことになる。
S591
(C) 2017 OHKAWA

  ◆M図の左側の「住吉の松」を植える「亀の尾」という名の岬の南には、月波樓(げっぱろう)がある。月波樓の天井板をはらない屋根裏の梁(はり)に、額が立てかけられている。この額の図柄はすっかり風化して茶色になっているが、「南蛮船(なんばんせん)」の絵であることは現在でもわかる。この額は近くの神社に奉納された「南蛮船の絵馬(えま)」であったと伝えられている。タウトが「理解を絶する美」と絶賛した建築美・庭園美に反して、このような芸術性が劣る「南蛮船の絵馬」を用いた原因は、他でもない。『古事記』の淤能碁呂島聖婚説話初頭に「このただよへる国を修理し固め成せ」と記述されたように、国中が不安と恐怖に支配されて脅(おび)えた「呉の遠征軍の船」をあらわすことができたからである。また、「皇室が淤能碁呂島聖婚説話は歴史を語ると認定すること」は人民たちの願いでもあると表現して「通俗的な南蛮船の絵馬」が飾られることになったのである。
 「月波」という樓の名称は、白楽天(はくらくてん)が作った「春題湖上」という漢詩にある「月は波心(はしん)に点ず」という句にある「月」と「波」から付けられた。この漢詩は呉を代表する名勝地の〔西湖(さいこ)の春の様子〕を表現するものである。だから、月波樓の額の「南蛮船」は「呉の遠征軍」をあらわすものであったことになる。
 「月波樓」という名称になった由来となった漢詩の題「春題湖上」の「春」によって、M図における「住吉の松」の真東の「天の橋立中央の築島」は、前述した[]の字源「朝律を立つなり」つまり「[]をキャッチして、1分の誤差もなく精密に天頂緯度を測量して春分の日の朝に太陽が昇る〔東〕を測定する」をあらわすことになる。この「天の橋立中央の築島」はL図で「黄竜二年」をあらわすと指摘したうちの片方の築島である。
 この中央の築島の南面には、下の写真に示す岩がある。この岩を「蓬莱山の岩」と名づけることにした。
Photo_4

▲天の橋立中央の築島南面の「蓬莱山の岩」

 上の岩の色はよく見ると黄色をおびており、向かって右側下部は黄色に輝き、上掲した「黄竜」の元号をあらわす「夏の銀河西南部の巨龍の銀河の頭部周辺」の黄金色に相似する。
 N図は、上に掲載した「黄竜」の元号をあらわす「蓬莱山の岩」のイラストである。
S592
(C) 2017 OHKAWA
 
 O図は、“日本に現存する蓬莱山図の逸品(いっぴん)”と評される「蓬莱山蒔絵袈裟箱(ほうらいやままきえけさばこ)(東京国立博物館蔵 法隆寺献納宝物 重要文化財 平安時代作成)を模写したイラストである。
S593
(C) 2017 OHKAWA

 M図の[]の字源をあらわす緯度線の下の、二つの築島の名は「神仙島」である。上記したように、『後漢書』倭伝は「徐福一行は蓬莱の神仙を求めて日本列島に渡った」ゆえ、〔天の橋立中央の築島南面の岩〕は「蓬莱の神仙」、また「蓬莱山」をあらわすことになる。
 M図の[]の字源をあらわす緯度線は〔[]のキャッチ〕と、H図の下部の〔水蛭子・大瀬崎と淡島の北緯3501分の緯度線〕をもあらわす。
 現在はタウトの絶賛に反して芸術性に劣り粋(いき)ではないゆえ排除されることになったが、P図に示すように、元来、紅葉の馬場から松琴亭(しょうきんてい)に渡る中間に、赤色に塗った欄干(らんかん)のついた長橋が架かっていた。これゆえ、「赤色の長橋」には〔人間の赤い血を吸うチスイヒル〕を連想して「水蛭子」を察知するための役目があった。
S594
 
 以上のごとく、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は【黄竜二年(230)頃に、伊耶那岐命と伊耶那美命は高尾山古墳で結婚して日本国が誕生した歴史】を記述するものであった。ところが『古事記』上巻は「皇室が至上神と崇拝する皇祖・天照大御神は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民たちを弾圧(だんあつ)して苦しめ、伊耶那美命の墓を作る時に多数の青年と乙女たちを殺して犠牲(いけにえ)にする残酷な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した」と記述するものであったゆえ、この歴史を皇室はどうしても隠しとおして、【日本建国の〔愛〕の理念】を記述する『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は史実であったことを皇室は認定するわけにはいかなかった。このような事情から【淤能碁呂島聖婚説話は日本国が誕生した歴史を記述するという認定】を皇室から得ることは、徳川家康が幼少から胸の奥に秘めて追い求めるものであったが、至難な事業となって家康が一生を賭(か)けても実現することができなかった。これゆえ、この事業は将軍秀忠(ひでただ)と江戸幕府が達成する宿題となった。このため、将軍秀忠と江戸幕府は家康が一生追い求めた夢を実現するために、小堀遠州に桂離宮の庭園の作成を命じたのである。

 このブログの冒頭で指摘したように――『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に「呉の黄竜二年(230年」頃から、日本国は起源した」という1行を加えれば、この神話は歴史に一変する。
 J図に示した黄色く輝く「巨龍の銀河がある夏の銀河の西南部」は「黄竜」という元号をあらわす。そして、N図の桂離宮庭園における「天の橋立中央の築島南面の蓬莱山の岩」は「蓬莱山」をあらわし、L図の「天の橋立の二つの築島」は「黄竜二年」をあらわす。だから淤能碁呂島聖婚説話に登場するF図に図示した「久美度邇興して」という語は、J図の「夏の銀河の西南部」と「蓬莱山」の両方をあらわした。したがって、「日本一巨大で重い富士山を自分のほうに引き寄せる蓬莱山・足高山の風景」は現在も伊豆以東の地域で実際に目撃できるゆえ、黄色く輝く「巨龍の銀河がある夏の銀河の西南部」を表示して「黄竜二年頃、日本国は起源した」と現在に伝えていることになる。
 以上のごとく徳川幕府が作成した桂離宮の庭園をもって証明できるように、現在の学者たちの意見の実体は完全なる〔誤読の空理空論〕であったのである。太安万侶は『古事記』序で「文字作成銀河各部の形状を文字とする学術を用いれば、『古事記』上巻に記述された真実の歴史を知ることができる」と解説した。ところが、1725年に没した新井白石以後の学者たちはこぞって西欧近代科学の合理的思考の致命的欠陥である傲慢(ごうまん)な単純化を用いて『古事記』序の解説をいっさい排除(はいじょ)・無視して、荒唐無稽(こうとうむけい)な空想をあつかましくも「学術的成果である」と主張する。
 次回もまた、桂離宮の庭園は【淤能碁呂島聖婚説話は文字作成銀河各部の形状を文字とする学術を用いて日本国誕生史を伝えていた事実を、皇室が認定する決断】を得るために作成された施設であった証明をおこなう。

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