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2017年11月14日 (火)

真実の日本国誕生史・24

 ●日本国は黄竜2年から起源した(3)
■桂離宮庭園の平面図と黄竜二年パズル・2

◆前々回のブログ「真実の日本国誕生史・22」以来続けて――『古事記』上巻の〔伊耶那岐命と伊耶那美命神話〕冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話の冒頭に、「呉の黄竜二年(230)頃、日本国は誕生した」という1行を加えれば、この神話は歴史に一変する仕組みになっている――この証明を今回もおこなう。
 中国の正史『三国志(さんごくし)』呉書孫権(そんけん)伝は「黄竜二年(230)、将軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(こうし/武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ」と記述する。
 上記の記事が伝えるように、淤能碁呂島聖婚説話は――呉の皇帝・孫権が1万の呉軍を東鯷人(とうていじん)国に遠征を命じた黄竜二年(西暦230)頃、東鯷人国王は208年の赤壁(せきへき)の戦いで2万の呉軍が魏の80万の大軍を一夜にして火攻めで壊滅させた、この40万の魏の大軍に等しい呉の1万の遠征軍と戦っても勝ち目がないと考えて、卑弥呼が統治する隣国の倭国の一員に加わることを決心して防衛軍の派遣を要望した。これゆえ東鯷人国は滅亡して、倭国に属する小国・日本が誕生した。小国・日本の国土(くに)作りを委任された女王に伊耶那美命が選ばれ、呉の遠征軍との戦いを指揮する軍王(いくさのおおきみ)に伊耶那岐命が選ばれて、二人は現在の静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する東日本最大で最古の前期古墳の高尾山(たかおさん)古墳において、紀元前3世紀に秦(しん)の始皇帝に命じられた徐福(じょふく)一行が不老長寿の霊薬が採取できると思い込んだ大海を渡って目指した蓬莱山(ほうらいやま/旧称・足高山、現在の沼津市の愛鷹山)に勝利を祈願する結婚式をおこなった。この結婚式の時に伊耶那美命は国作りの柱を〔愛〕と定めて、日本国が誕生した――と、実際に起きた歴史を語るものであったのである。
 だから淤能碁呂島聖婚説話の冒頭の「ここに天(あま)つ神々と諸々(もろもろ)の命(みこと)は、伊耶那岐命と伊耶那美命に『このただよへる国を修理し固めなすように』と命じて委任した」という記事は――人民たちが“ 血に飢える野蛮な呉軍が襲来する!”と脅(おび)えて大海を漂いさまよう船のごとく国中が動揺する状況を安定させるために、卑弥呼王朝の面々が伊耶那岐命と伊耶那岐命に国土作りを委任した様子を説明するものであったことになる。
 したがって淤能碁呂島聖婚説話は何時(いつ)の出来事であったかは明記していないが、この説話に「日本国は、呉の黄竜二年の呉軍の東鯷人国遠征から起源した」という1行が加われば、この説話は歴史を伝えるものであったと一変する仕組みになっている。

◆前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・23」で詳細に解説し証明したように――日本国は、呉軍が東鯷人国遠征を決行した黄竜二年(西暦230)直後に誕生した。この『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された歴史を、京都市西京区桂に所在する皇室関連施設である桂離宮の庭園は平面図に詳細に図化した。
 1933年に来日した世界的に有名なドイツの建築家ブルーノ・タウトは桂離宮の庭園を賞賛し、知名度を国際的に高めた。タウトは、桂離宮の建物・庭園を「泣きたくなるほど美しい」「理解を絶する美、すなわち偉大な芸術のもつ美である」と絶賛した。桂離宮の庭園は日本人の尊厳をあらわし、夏音文字の学芸・日本文化の精神性を表現する遺産であった。というのも、前述したように桂離宮の庭園は「『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は日本国誕生史を語る」と証言する学問施設であったからである。
 わが国では紀元前2070頃~同2050頃の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に、夏音文字が伝来し習得した。この夏音文字の学芸は、紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝が研究した〔女性生殖器と子どもの出産〕の研究にもとづいて黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が〔万物のイメージに類似する銀河各部の形状を字源・字形・字義〕と定めて発明した漢字作成方法を保存した。これゆえ、太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』の序で「わが国は、後期縄文時代初頭に夏音文字の学芸を習得した。夏音文字と同様に、6世紀の中国の隋代(ずいだい)に完成した楷書も銀河各部の形状を字源・字形・字義とした」と解説し、「夏音文字と楷書を銀河各部の形状に変換すれば、『古事記』上巻に記述された史実は明確に解明できる」と警告(けいこく)した――このような実際にわが国に存在した〔銀河各部の形状を文字(漢字)とする学術〕をもって『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史】は桂離宮庭園の平面図に設計された。
 夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数現存して実在する。『魏志』倭人伝の卑弥呼(ひみこ)はじめ人名・小国名・官職名にも用いられて、夏音文字は現存して実在する。
 夏音文字と夏音文字を表記する文字と用いられた楷書も、倉頡が発明した漢字作成方法にもとづいて、ともに下の写真で示すわたくしが「文字作成銀河」と名づけた銀河各部の形状を字源・字形・字義と定めた。よって、夏音文字と楷書は銀河各部の形状を字源・字形・字義とする芸術思考の産物であったゆえ、徳川家康は1608年に天才芸術家の30歳の小堀遠州に文字作成銀河から作られた漢字の研究を命じ、1616年に家康は死去した。このため、家康が一生を賭けて実現しようとしたが実現できなかった【『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は日本国誕生史を伝える確かな史料であるという認定を、朝廷から得る事業】を受け継いだ将軍秀忠(ひでただ)と徳川幕府は、小堀遠州に桂離宮の作庭を命じたのである。

Ginga
 ▲文字作成銀河

 文字作成銀河の各部の名称は存在しないゆえ、わたくしは下記のごとく定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称

◆上に示した文字作成銀河における夏の銀河の西南部の東側の「巨龍の銀河からわし座の主星の彦星までの銀河」は、A図に示すように「竜()の姿」に観える。
S78b4
(C) 2017 OHKAWA

 
 下の写真に示すように、夏の銀河の西南部は黄色に輝く。
Photo_2
 ▲黄色く輝く夏の銀河の西南部

 前述したように、3世紀の中国で用いられた楷書も夏音文字と同じく文字作成銀河各部の形状から作成するものであったゆえ、呉の皇帝・孫権は上掲した文字作成銀河各部の名称図の右下にある「黄色く輝く巨龍の銀河」から229年の元号を「黄竜」と定めることにした。
 下に、桂離宮の庭園の平面図を示した。
Photo_3

 ▲桂離宮庭園の平面図

 B図の右図は、桂離宮庭園池の東岸の庭園全域の平面図である。左図は、夏音文字と楷書が作られた文字作成銀河図である。B図右図の卍帝(まんじてい)はB図左図のわし座に相当し、桂離宮の御幸門(みゆきもん)は夏の銀河の西南部の南部に相当する。
S602
(C) 2017 OHKAWA
 
 したがって「御幸門から卍帝までの庭園」は、A図に示した「黄竜」の元号をあらわす。
 なお上掲した文字作成銀河の写真とB図の左図の文字作成銀河の形は同一形ではないが、B図の左図は人間の瞳孔径(どうこうけい/瞳孔の直径)が最大(78mmくらい)に拡大したときの文字作成銀河の形であり、上掲した写真は少し明るい光が視界の中に入った時の瞳孔径と同様の絞りでカメラ撮影した字源・字形・字義が最も明確に見える文字作成銀河の形である。人間の目は、明るさに応じて、自動的に瞳孔径78mm2mmくらいまで拡大・縮小する仕組みになっているので、視界の中に入った光によって形が変わる。現在、街の照明などの「光害」の影響を受け、日本では約7割の人々が肉眼で銀河を見ることができない。
 C図に示すように「天の橋立の築島」は「二つ」であるゆえ「黄竜二年」をあらわす。
S603
(C) 2017 OHKAWA
 
 D図に示すように、西岸の岬の先端に植えられる「住吉の松」と「黄竜二年をあらわす天の橋立のうちの中央の築島」は同緯度となる。
S604
(C) 2017 OHKAWA
 
 ゆえに、D図の緯度線は東鯷人国の人民たちが、E図に示す呉の会稽と東日本・東鯷人国までを往来した大海の道にて精確に緯度測量できたことを伝えていることになる。
S605
(C) 2017 OHKAWA
 
 1万の呉軍が遠征しようとした東鯷人国(日本国)について、中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「会稽(かいけい/呉の浙江省)の海外に東鯷人国が有り、分かれて二十余国となる。また夷州及び澶州(せんしゅう/亶州と同じ)が有り。古来より――秦(しん)の始皇帝(しこうてい/紀元前246-同210年在位)の時代、方士(ほうし)の徐福(じょふく)を遣わし、童男女(若い男女)数千人を将(ひき)いて海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙の不老長寿の霊薬を求めてくるように命じたが得ることができず、誅(ちゅう/死刑)を畏(おそ)れて帰還せず、この州に止(とど)まって定住した――と伝承されている。徐福一行の子孫は世々互いに承()け継ぎ、卑弥呼が生存した3世紀には数万家となる。東鯷人国の人民、時(定期的)に会稽にやってきて交易をしている。(中略)。所在(しょざい)は絶遠(ぜつえん)して往来すべからず、つまり東鯷人国は中国から遥かに遠くに所在するため、東鯷人が往来する大海の道は中国の人々には途中で絶えて消えてしまうゆえ往来することができない」と説明する。
 中国史になくてはならない書とされる『資治通鑑(しじつがん)』は、1万の呉軍の東鯷人国遠征目的について「その民を俘(とりこ)にして以て衆を益()さんと欲す」と記述する。東鯷人国へ遠征して人民狩りをしようとし呉軍は、台湾沖にて8割から9割の兵士たちを失って壊滅(かいめつ)した。帰還した遠征軍の将軍の衛温と諸葛直は“功無(こうな)かりき”という罪状によって誅殺(ちゅうさつ)された。

◆黄竜二年に遠征の途()についた1万の呉軍は、E図に示す台湾→宮古島→火山列島の硫黄島→小笠原諸島→伊豆諸島、そして東日本=小国・日本(東鯷人国)までの『後漢書』倭伝末部が「所在絶遠にして往来すべからず」と記す大海の道を進もうとした。この大海の道を征服するには、1度の60分の11分の差を測量できる眼力と技(わざ)が必要であった。
 東鯷人たちは、F図の右上に示す[(げん)]つまり「天頂点を通過する銀河部位の軌道が重なる天頂緯度線をキャッチできる眼力と技(わざ)」を日々鍛錬する習慣を有していた。
S611
(C) 2017 OHKAWA
 
 つまり「大海の道や遠くの地まで往来する道で迷って死なずにすんだ、天頂緯度線を1分の精度で測定できる[]の技と能力を鍛錬した風習」にもとづき、今日、「日々鍛錬して技術や能力を極める」ことを「道を極(きわ)める」と言うようになったのである。だから、東鯷人たちは1度の60分の11分の緯度差が測定できたので、E図に示した台湾(蓬莱仙島)を通過する東日本~呉の出港間の大海の道を往来することができたのである。
 中国では、紀元前1世紀に北極星を「太一(たいいち)神」と尊重するシナ天文が完成した。黄竜二年当時の北極星は、G図に示すように緯度の高度に換算できる天の北極を中心にして半径約10度・直径約20度・1200分の円を描いていた。この北極星が1200分の円を描く中心となる天の北極の高度が、緯度の数値となった。したがって、1200分の円の中心(天の北極の高度)を、1分の精度で計測することはまったく不可能であった。
S612

(C) 2017 OHKAWA
 
 だからシナ天文が災(わざわ)いして、E図に示した大海の道は、呉の遠征軍には「所在は絶遠して往来すべからず」ということになって征服することができなかったのである。呉では[]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣が約240年間も廃(すた)れていたゆえ、呉の遠征軍は[]のキャッチをにわか訓練して東鯷人国へ目指したであろうが、短期間では[]をキャッチする眼力と技を身につけることができなかった。したがって、呉の遠征軍は台湾沖で壊滅した。孫権は東鯷人たちが有する[]をキャッチする眼力と技の取得は呉の兵士たちには無理であることを知って、再度遠征を命じなかった。
 しかし、卑弥呼と卑弥呼没後の倭王朝の面々は、態勢を整えて呉軍は再度遠征するにちがいないと思い込んだ。このため、伊耶那岐命と伊耶那美命は10数年余のあいだ小国・日本を建国する事業に努力することになったのである。
 このように上のD図に示した〔住吉の松と天の橋立中央の築島を結ぶ緯度線〕は1万の呉の遠征軍が台湾沖において壊滅した原因を示すものであり、わが国の上古史には重大な【科学・[]のキャッチ】が存在したことに、現在のわが国の学者たちは誰一人も気づかない。しかし、【[]のキャッチ】は天皇はじめ家康や多くの夏音文字の学芸を学んだ先人たちが幼少の時に学んで理解した夏音文字の学芸における基本原理であった。
 だから、小堀遠州は幼少時に真っ先に学ぶ夏音文字の学芸の基本原理〔[]のキャッチ〕を用いれば、時の後水尾(ごみずのお)天皇は将軍と幕府が願い出る要件を察知するにちがいないと考えた。つまり、遠州は〔[]のキャッチ〕をあらわす〔住吉の松・天の橋立中央の築島の緯度線〕で、将軍と幕府が天皇に願望する要件を表現したのである。
 黄竜二年に呉国の港を出帆した1万の呉の遠征軍E図の左側に示す「台湾」の沖で壊滅したためであろうか、中国では古くから「台湾」を「蓬莱仙島」と呼ぶ。ゆえ、D図に示す〔「黄竜二年」をあらわす役割を有した天の橋立中央の築島南面の「蓬莱山の岩」〕は「蓬莱仙島・台湾」をあらわす役目をも有し、「東鯷人国へ遠征しようとした1万の呉軍が蓬莱仙島の沖で壊滅した、黄竜二年頃に日本国は誕生した」と示していることになる。
 この「蓬莱山の岩」の写真を、下に示した。

Photo_4

 ▲天の橋立中央の築島南面の「蓬莱山の岩」

 この「蓬莱山の岩」をイラストにすると、H図のごとくになる。
S613
(C) 2017 OHKAWA
 
◆徳川家康は駿府(現在の静岡市)の今川家で人質生活を送った8歳から14歳まで、今川義元の軍師・大原雪斎(だいげんせっさい)から、『古事記』上巻と『魏志』倭人伝に記述された〔夏音文字の学芸〕を厳しく教育された。この少年期において、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【黄竜二年(230)から始まる小国・日本が誕生した歴史】を復興したいという願望を抱くようになり、この願望は家康の生きる原動力となって臨終間際まで願い続けた。しかし、この家康の夢は実現しなかった。ゆえに、家康の夢を受け継いだ将軍秀忠と徳川幕府は小堀遠州に桂離宮の庭園作りを命じ、家康の死から7年後の1623年から遠州は作庭を開始した。だから、桂離宮の庭園は夏音文字の学芸施設であったことになる。
 遠州が作庭を開始した時の天皇は、学問・詩歌に関心が深い後水尾天皇(16111629年に在位)であり、 162911月から上皇となった。幕府の干渉(かんしょう)と抑圧(よくはつ)に反発する上皇は抵抗して、遠州が存命中、桂離宮に一度も御行幸(みゆき)して庭園を見学しなかった。上皇は遠州より長寿で、1680年・85歳で崩御した。
 小堀遠州は、京都市の伏見奉行屋敷にて1647年に69歳で死去した。
 遠州没後――後水尾上皇が指示して京都市左京区修学院の比叡山山麓の高台に所在した仏刹(ぶっさつ)の修学院跡に、1653(承応2)から1655(承応4)に離宮を造営するや、すかさず将軍・家綱(いえつな)と徳川幕府は1655(明暦元)から造営直後の修学院離宮の広大な敷地内に強引に上御茶屋(かみのおちゃや)と下御茶屋(しものおちゃや)の庭園の造営を開始して1659(万治2)に完成させ、家康が少年期から抱いた夢の実現を図った。
 
I図に修学院離宮の庭園平面図を示したが、その内の中御茶屋(なかのおちゃや)1668(寛文8)に後水尾上皇が造営した朱宮(あけのみや)御所で、上皇の死後に林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められた。
S614
(C) 2017 OHKAWA
 
 上掲した「黄竜」と元号となった〔黄色く輝く夏の銀河の西南部のカラー写真〕を図にすると、J図のごとくなる。
S615
(C) 2017 OHKAWA
 
 J図は〔右西・左東〕となる天文図の定式図であるので、地図の一般形式の〔上北・下南にして左東・右西〕にすると、K図のごとくなる。K図は上皇が住む「京都御所(皇居)」を「「内裏(だいり)」という、その語源の秘密「内側を裏返しにする」をあらわすものである。
S616
(C) 2017 OHKAWA
 
 修学院離宮の上御茶屋は、巨大な人工池の浴竜池(よくりゅうち)を中心とした壮大な庭園である。L図に示すように左図と右図の形は一見相似しないように見えるが、「浴竜池」いう名は「巨龍の銀河の竜が浴びる池」と表示するゆえ、「浴竜池の平面図」は「黄竜二年」をあらわす「黄色く輝く夏の銀河の西南部」を模(かたど)るものであった。
S621
(C) 2017 OHKAWA
 
 ゆえに、M図に示すように「浴竜池の平面図」はD図に示した「天の橋立中央の築島南面の蓬莱山の岩」=H図の「蓬莱山の岩」の東西を180度転回して「内裏」という語をあらわす形にも相似するように設計されている。
S622
(C) 2017 OHKAWA
 
 このため、L図に示した〔浴竜池の平面図〕は〔夏の銀河の西南部〕の形との相似性が弱まったのである。したがって、徳川幕府は「黄竜二年頃に日本国は誕生した」と設計する浴竜池を中心とした上御茶屋を造営して家康の夢の実現を図(はか)ったのである。
 その証拠に、上御茶屋が造営中であった1658(万治元)に上皇は桂離宮に初めて御幸(みゆき)なされている。上御茶屋が完成した4年後の1663(寛文3)3月と11月にも、上皇は桂離宮に御幸なされている。この3回の御幸で、上皇は修学院離宮の「浴竜池の平面図」は桂離宮の「蓬莱山の岩」に相似させるために「夏の銀河の西南部」の形との相似性が弱まったことを確かめ、「浴竜池」は「黄竜二年」を表現する秘密を察知したのである。

◆L図の左図の下部に示したように、浴竜池の東南には隣雲亭(りんうんてい)がある。上御茶屋の中で最も高い浴竜池と標高差が10mの所に建つ「隣雲亭」には、D図左側の「月波樓(げっぱろう)」の[]つまり「高い所から見下ろして庭園の平面図を注目する」と示す役目があった。
 前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・23」で指摘したように、月波樓の屋根裏の梁(はり)には近くの神社に奉納された「南蛮船(なんばんせん)の絵馬(えま)」が立てかけられている。この「南蛮船の絵馬」は「黄竜二年の1万の呉の遠征軍」をあらわした。
 「月波」という樓の名称は、白楽天(はくらくてん)が作った「春題湖上」という漢詩にある「月は波心(はしん)に点ず」という句にある「月」と「波」から付けられた。この漢詩は呉を代表する名勝地の〔西湖(さいこ)の春の様子〕を表現するものである。だから、月波樓の額の「南蛮船」は「呉の遠征軍」をあらわすものであったことになる。
 「月波樓」という名称になった由来となった「春題湖上」という漢詩の初頭は「湖上 春来れば 画図(がと)に似たり 乱峰囲繞(らんぽういじょう)して 水 平らかに舗()く」と表現する。ゆえに、修学院離宮の「隣雲亭」と桂離宮の「月波樓」は「池の平らな水のごとき画図、つまり庭園各所の平面図は絵画のごとく造形して、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された黄竜二年頃に日本国が誕生した歴史を表現した」とあらわす建物であったことになる。
 前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・23」で詳細に証明したように、N図に示す「赤色の長橋」は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の末部に登場する「水蛭子(ひるこ)」をあらわす。
S623
(C) 2017 OHKAWA
 
 蛭(ヒル)すなわち「チスイヒルのごとく日本兵は呉の遠征軍の兵士たちの赤い血を吸って殺す」をあらわして、O図に示す富士山の南南東に所在する〔沼津市の大瀬崎(おせざき)の地図の形はチスイヒルの姿に相似する〕ゆえ「水蛭子」と名づけられた。
S78a4
(C) 2017 OHKAWA

 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の末部の記事を要約すると「日本軍が呉の遠征軍に勝利する地霊である久美度邇興(くみどにおこ)しての子として、北緯3501分の同緯度の水蛭子(大瀬崎)と淡島(沼津市内浦に所在する小島)が注目された」ということになる。
 「久美度邇興し」とは、O図の上部に示すように「足高山(あしたかやま/現在の沼津市の愛鷹山)の西にある富士山が、伊豆以東では足高山の東の峰の背後に移動して見える風景」である。この「久美度邇興しての風景」によって「日本国の大地に巨大な富士山を東に移動させる地霊が棲()む」と示すことになり、この地霊は日本軍の兵士たちにとって「日本軍が呉の遠征軍に勝利する守護神」となった。
 なおわがブログ「真実の日本国誕生史・22」で詳細に解説して証明したように、「足高山」は上記した『後漢書』倭伝末部に記述された「徐福一行が不老長寿の神仙の霊薬となる桃の実が大量に採集できると思い込んだ蓬莱山」であった。
 「久美度邇興しての地霊」の呪力(じゅりょく)を有する子となった北緯3501分の水蛭子・大瀬崎と淡島では、富士山は足高山・蓬莱山が在る真北に移動して見える。
 P図の下部に示す「赤い長橋」は「水蛭子・大瀬崎」をあらわすゆえ、「天の橋立中央の築島とその南面の蓬莱山の岩」が「淡島」を示す。
S625

 だから、P図の「赤い長橋と天の橋立の築島」の真北(P図の上部)の桂離宮庭園の平面図は「富士山の形」に設計されている。また「赤い長橋」の西側にある「神仙島」は「徐福一行が神仙の霊薬があると思い込んだ蓬莱山は足高山」であったと示している。
 なお、N図に示した「朱色(赤色)の長橋」は「水蛭子」をあらわしたゆえ、後水尾上皇が1668(寛文8)に造営した御所は「朱宮(あけのみや」と名づけられたにちがいない。
 後水尾上皇はK図とM図で語源を解説した「内裏」すなわち「京都御所」に住んでいた。京都御所は北緯3501分であるゆえ、沼津市の水蛭子・大瀬崎と淡島と同緯度である。

 以上のごとく、桂離宮の庭園は――『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に、「呉の黄竜二年(230)頃、日本国は誕生した」という1行を加えれば、この神話は歴史に一変する仕組みになっている――と現在に伝えている。
 桂離宮庭園は、『古事記』序で太安万侶(おおのやすまろ)が「『古事記』上巻の随所に〔音」という注が付く夏音文字と6世紀の隋代に完成した楷書は共に文字作成銀河各部の形状から作られた」と解説する、わが国に実際に存在した古代学問の秘密を伝える。
 つまり、「天皇」と「天子」という語は「漢字は文字作成銀河から作られた学問に精通した大王」と意味するものであり、この「漢字は文字作成銀河の各部の形状から作られた学術」は朝廷の権力基盤となった帝王学であった。このため、この帝王学が反体制側に習得されて革命に利用されると朝廷は容易に崩壊すると、朝廷は心配した。このため、この学芸知識は朝廷と国家が独占管理して徹底的に厳重に機密保持されたため、あたかも存在しないかの状況となったのである。
 『古事記』序を書いた安万侶は朝廷が厳重に禁ずる掟を破って「文字作成銀河から漢字が作られた学芸を用いれば『古事記』上巻に記述された真実の歴史は解明できる」と警告(けいこく)した。しかし、1725年に没した新井白石以後から今日までの学者たちは、『古事記』序に記述された歴史解明方法の警告を西欧近代科学の合理思考の致命的欠陥の傲慢(ごうまん)な単純化を用いて排除(はいじょ)・無視して〔誤読」を自由自在にあやつって空理空論・ウソ八百を学術意見として確立させた。だから、白石以前の先人たちが知っていた『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史】は、白石以後の学者たちの〔誤読論〕によって抹殺(まっさつ)されることになったのである。 

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