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2017年11月19日 (日)

真実の日本国誕生史・25

 日本国は黄竜2年から起源した(4)
■朝廷と徳川幕府の学問上の衝突
 

◆徳川家康は駿府(現在の静岡市)の今川家で人質生活を送った8歳から14歳まで、今川義元の軍師・大原雪斎(だいげんせっさい)が死去するまで、『古事記』上巻と『魏志』倭人伝に記述された〔夏音(かおん)文字の学芸〕を厳しく教育された。この少年期において、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記述された【黄竜二年(230)頃に誕生した小国・日本の歴史】を復興したいという願望を抱くようになり、この願望は家康の生きる原動力となりあるいは天下取りの目標となった。
 1608(慶長13)、家康は科学と芸術の才能に優れる30歳の小堀正一(まさかず)を遠江守(とおとうみのかみ)に取りたてて、遠江(静岡県西部)の豪族・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)とその一族が【日本国誕生史】を後世に末永く保存して伝えるために260年頃から作成を開始して290年頃に完成させた1千万坪の大鳥の地上絵の研究を命じた。ゆえに、この1608年以後、正一は「遠州の1千万坪の大鳥の地上絵の研究」をあらわして自らの号を「遠州」と定めた。小堀遠州が研究した1千万坪の大鳥の地上絵を、わたくしは最初「建比良鳥の地上絵」と称していたが、現在は「卑弥呼の地上絵」と呼んでいる。
 3世紀に1千万坪の大鳥の地上絵を作成した〔建比良鳥命〕は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖である」と記載される。建比良鳥命は今年(2017)18日から始まったNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の井伊氏の先祖である。
 【日本国誕生史】を保存する〔卑弥呼の地上絵〕は直虎が居住した浜松市北区引佐(いなさ)町の南に隣接する〔細江(ほそえ)町の行政区域を示す地図の形〕として現存する。〔卑弥呼の地上絵〕については、わがブログ「真実の日本国誕生史」の8回・9回にて詳細に解説した。
 A図に、【日本国誕生史】を現在に伝える「卑弥呼の地上絵」を示した。
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(C) 2017 OHKAWA

 家康は1616(元和2)に没したが、1年前の1615年に〔禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにしょはっと)〕を制定し、第一条を「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とした。この文中に登場する「諸芸能」と「学問」は共に「夏音文字はじめ6世紀の中国の隋代(ずいだい)に完成した楷書以前のすべての漢字は銀河各部の形状を字源・字形・字義とする学芸」のことであった。というのも「銀河各部の形状を字源・字形・字義とした知識体系は芸術と科学によって組織されるものであり、また日本文化・諸芸能の根本となった」ゆえ、「諸芸能」また「学問」と表現されたのである。また、〔「諸芸能」と「学問」と表現された芸術と科学〕は「天皇政治における権力基盤」でもあった。だから、「天皇」・「天子」という語は「銀河各部の形状を文字とする学芸に精通した大王」と意味した。
 「夏音文字はじめ6世紀の隋代に完成した楷書以前の全漢字が作られた銀河」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけた。下に「文字作成銀河」の写真を掲載した。

Ginga
 ▲文字作成銀河

 漢字が作られた文字作成銀河各部には、名称が存在しない。ゆえに、下記のごとく、わたくしは〔文字作成銀河各部の名称〕を定めた。

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 ▲文字作成銀河各部の名称

1616年に没した家康は、前述した少年期から臨終間際まで抱いた夢、つまり〔『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述されて、また卑弥呼の地上絵に保存された【黄竜二年(230)から始まる日本国誕生史】を復興したいという願望〕は実現しなかった。ゆえに、家康の夢を受け継ぐ将軍秀忠(ひでただ)と徳川幕府は、小堀遠州に桂離宮の庭園作りを命じた。家康の死から7年後の1623(元和9)45歳から遠州は桂離宮の庭作りを着手し、病床に伏す1645(正保2)67歳までの23年の
間、家康の夢を実現するために情熱をかたむけた。この結果、京都市西京区桂に所在する皇室関連施設の桂離宮の庭園の平面図には、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史】を図化された。したがって、今日、【真実の日本国誕生史】を詳細に知ることができるようになった。
 【真実の日本国誕生史】を証明できる桂離宮の庭園の平面図を、下に示した。
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 ▲桂離宮の庭園の平面図

 桂離宮の庭園の東北部には、「遠州」の号となったA図の〔卑弥呼の地上絵の両翼の部分〕を削()いで「復興せず」とあらわす、B図に示す「未だ夏音文字の学芸は習わず、つまり復興せず」と図化した庭園の一画が存在する。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 B図の左図の下部の「天の橋立の二つの築島(つきしま)」は日本国が起源した頃の「黄竜二年」をあらわす。(これについては、前々回と前回のわがブログ「真実の日本国誕生史」の23回・24回で詳細に解説し証明した)
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(C) 2017 OHKAWA
 
 C図の右上に配した桂離宮の庭園下部(北部)から上部の「卍亭(まんじてい)」までの平面図は「夏の銀河の西南部」の形をあらわして「黄竜」の元号をあらわす。というのも、C図の左図の「龍の頭部から尾までの巨龍の銀河がある、夏の銀河の西南部」は、下の写真が示すように「黄色く輝く」からである。だから、呉の元号「黄竜」をあらわした。

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 ▲黄色く輝く夏の銀河の西南部

 D図の左図は、上掲した「文字作成銀河」の全範囲を示している。
 上掲した文字作成銀河の写真とD図の左図の文字作成銀河の形は同一形ではないが、D図の左図は人間の瞳孔径が最大(78mmくらい)に拡大したときの文字作成銀河の形を示し、上掲した文字作成銀河の写真は少し明るい光が視界の中に入った時の瞳孔径と同様の絞りでカメラ撮影した字源・字形・字義が最も明確に見えるときの形である。人間の目は、明るさに応じて、自動的に瞳孔径78mm2mmくらいまで拡大・縮小する仕組みになっているので、視界の中に入った光によって形が変わる。現在、街の照明などの「光害」の影響を受け、日本では約7割の人々の瞳孔径が最小に縮小するため肉眼で銀河を見ることができない。
 D図の右図の「桂離宮の庭園池より東側全域の平面図」は「文字作成銀河図」となる。
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(C) 2017 OHKAWA
 
◆わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で詳細に解説して証明したように――太安万侶(おおのやすまろ)は「古事記 上巻 幷(あわ)せて序」という珍しい表題を思いつき、この『古事記』序で「わが国は、後期縄文時代初頭(今から約4100年前)、つまり中国の夏代(かだい)初頭に夏音文字の学芸を習得した。夏音文字と同様に、中国で6世紀に完成した楷書も文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義とした」と解説し、「夏音文字と楷書を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、『古事記』上巻に記述された歴史を解明することができる」と警告(けいこく)した。
 だから、小堀遠州は太安万侶の歴史解明方法を解説した警告にしたがい、D図に示したように「桂離宮庭園の中央池より東岸の全域平面図」を「文字作成銀河」の形に設計した。
 上掲した〔文字作成銀河各部の名称図〕の左上に「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」がある。この図は天文図の定式の〔右西・左東〕となる。「人の横顔に酷似する銀河」を地図の一般形式〔右東・左西〕にすると、E図の左図のごとくなる。E図が示すように、「桂離宮庭園池の西岸の平面図」は「人の横顔に酷似する銀河」に相似するように図化された。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 F図(注 右西左東の天文図の定式)に示すように、[]の字源銀河の中央部は「人の横顔に酷似する銀河」である。「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」にある「北天の最輝部(さいきぶ/ 国際天文学会で定めた名称)」は「北半球の人々が最も輝いて見える銀河部」である。ゆえに「北天の最輝部」は「最も強烈な夏の陽射し」のイメージとなった。だから、「人の横顔に酷似する銀河」は[]の字源の中央部となった。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 ゆえに、E図の右図の「桂離宮の庭園池の西岸の平面図」は「夏代」や「夏音文字」をあらわすことになった。
 G図に示すように、「夏代」や「夏音文字」をあらわす「桂離宮の庭園池の西岸の平面図」は〔中国の海岸線で囲まれる地図の形〕にも相似する。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 このため、“字書の聖典”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源と字義を「中国の人」と解説する。それというのも、F図に示したように[]の字源中央部は「人の横顔に酷似する銀河」であり、「人の横顔に似る銀河」はG図の右図の「中国の海岸線で囲まれる地図の形」に相似するからである。だから、[]の字源と字義は「中国の人」となったのである。
 G図の左図「桂離宮の庭園池の西岸の平面図」は「中国地図」を表示し、E図では「夏音」と「夏音文字」が連想できるように「桂離宮の庭園池の平面図の下部(南部)は口を開いて音声を出す口の部分」となる。ゆえに、「桂離宮の庭園池の西岸の平面図」は「中国よりわが国に夏音文字の学芸が伝来して習得された」と伝えていることになる。
 夏音文字は『魏志』倭人伝の卑弥呼(ひみこ)3字はじめとする人名・小国名・官職名に用いられて現存し、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数残って現存する。
 以上のごとく、桂離宮の庭園の平面図は太安万侶が『古事記』序で警告したメッセージを図化するものであった。したがって、桂離宮の庭園は家康が少年期から抱いた夢〔『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史】の復興〕を実現するために作られた学問施設であったことになる。

◆したがって、今日の学者たちの『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に関する研究と意見は、〔誤読〕を自由自在にあやつってデッチあげた荒唐無稽(こうとうむけい)の空理空論ということになる――それというのも、学者たちの研究と意見は真っ先に従うべき太安万侶が『古事記』序で「夏音文字と楷書を文字作成銀河の形状に変換すれば、真実の歴史が解明できる」という警告を徹底的に無視し、『古事記』上巻に記述された真実の歴史は朝廷にとって極めて不都合なであったために朝廷が〔誤読・誤訳〕を用いて捏造(ねつぞう)・隠蔽(いんぺい)した虚偽をそのまま受け継ぐ空理空論だからである。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された歴史の概要は、下記のごとくである。
 (1) いつのことであったか――前述したように、淤能碁呂島説話の冒頭に「呉の黄竜二年(230)頃に、日本国は誕生した」という1行を加えれば、この神話は歴史に一変する仕組みになっている。
 (2) 誰が――黄竜二年に1万の呉軍が遠征しようとした情報をいちはやく知った東鯷人(とうていじん)国の国王は呉軍と戦っても勝ち目がないと考えて、倭国に属する小国の一員になると決断して、倭女王の卑弥呼に倭からの多数の防衛軍の兵士たちの派遣を要請した。これゆえ、東鯷人国は滅亡し、「日本」国が誕生し、卑弥呼王朝は伊耶那岐命を小国・日本国の軍王(いくさのおおきみ)に、伊耶那美命を小国・日本の女王に選んで、日本国の国土(くに)生みを委任した。『古事記』中巻の開化(かいか)天皇紀は「天皇は、春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住した。正妃は、丹波出身の竹野比売(たかのひめ)であった」と記述する。開化天皇が居住した「伊耶河宮」の先頭2字の「伊耶」と「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字の「伊耶」は合致する。したがって、伊耶那岐命は後の第9代開化天皇であり、伊耶那美命は丹波出身の竹野比売であったことになる。
 (3) どこで――わがブログ「真実の日本国誕生史」の1回と12回で証明したように、紀元前3世紀、秦の始皇帝に命じられて日本列島に所在する蓬莱山(ほうらいやま)の神仙の霊薬を求めて大海を渡った徐福(じょふく)と数千人の若い青年男女一行は探すことができなかったので、死刑を畏(おそ)れて帰国せずに東鯷人国に定住した。日本軍は、呉の遠征軍はおそらく徐福一行が目指した静岡県東部・駿河の蓬莱山・足高山(あしたかやま/現在の沼津市の愛鷹山)の麓の浮島沼(うきしまぬま)周辺地域に上陸する可能性が最も高いと予想した。それゆえ、伊耶那岐命と伊耶那美命は勝利を祈願して蓬莱山・足高山を祀る封土(ほうど/盛り土))として築造された高尾山(たかおさん)古墳で結婚することになった。高尾山古墳は静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する。
 H図に示す高尾山古墳は、2008年に発見された東日本最大で最古の前期古墳である。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 (4) 何をしたか――わがブログ「真実の日本国誕生史」の17回・18回で詳細に解説したように、高尾山古墳における伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式は「出産」すなわち「産道を通過するときに、胎児の頭が廻(めぐ)って(回転して)母体の背中のほうに顔の正面を向けて出産する様子」を儀式にして小国・日本の国生みを表現した。この「出産」は「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)」という7字の楷書で表記される夏音文字で示された。現在の学者たちは伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式から「美斗能麻具波比」を「性交」などと連想するが、太安万侶の『古事記』序の警告に則(のっと)って文字作成銀河を用いて字源・原義を調べると「美斗能麻具波比」は「出産」を意味したことになる。
 「美斗能麻具波比」の儀式は「来襲する呉の遠征軍を撃破(げきは)して防衛が成功して日本国が生まれる」と占う易にもとづいておこなわれた。このために、戦いの先頭に立つ軍王の伊耶那岐命が先に伊耶那美命を讃(たた)え、その後から伊耶那岐命を補佐する呉の遠征軍の呪的(じゅてき)戦力を奪う魔女の伊耶那美命が伊耶那岐命を讃えなければならないと厳重に決められていた。というのも、この〔出産儀式〕は淤能碁呂島聖婚説話に「国土生みの儀式」と記述されて定められていたからである。このため、女性のみが子を生めるゆえ伊耶那美命が先に伊耶那岐命を讃えると「子どもたちを生み愛して育てる、この〔愛〕を国作りの柱にいたしましょう」とで宣言することになってしまう。しかし、「美斗能麻具波比」の儀式は戦勝祈願を目的として行われるものであった。このため、「伊耶那美命が先に伊耶那岐命を讃えてはならぬ」と厳重に決められていた。にもかかわらず、伊耶那美命は厳重に禁じられていた約束を破って、先に伊耶那岐命を「なんとまあ、すばらしい男性でしょう」と唱えたのである。先を越された伊耶那岐命は「なんとまあ、すばらしい乙女であろう」と唱えた後に、「女人が先に言うのは良からず」と批判して約束されていたとおりに「なんとまあ、すばらしい魔女であろう」と唱えたことにしたのである。
 このような次第で、伊耶那岐命は防衛軍事による国生みに努力し、伊耶那美命は〔愛〕を最も尊重する国土生みに努力することになった。
 伊耶那美命と伊耶那岐命が赴任した小国・日本(旧東鯷人国)の範囲は、I図に示す東海東部と関東地方であった。
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 高尾山古墳が所在する駿河の隣接する伊豆以東より関東地方では、J図に示すように蓬莱山・足高山の西にある富士山が、足高山の尾根がある東方に移動しているかのごとくに見える。伊耶那岐命は、この〔巨大な富士山が足高山の尾根の東側に移動する風景〕を「日本軍が呉の遠征軍に勝利を約束する守護神の地霊」と定めた。この地霊を伊耶那岐命は「久美度邇(くみどに)」と名づけ、また「呉軍を日本軍が包囲して袋の中のネズミにして壊滅する作戦」を「袍図莽(ほつま)」と名づけて日本軍の兵士たちの戦闘意欲を高めた。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 伊耶那岐命が日本軍の守護神と定めた地霊について、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の末部は「久美度邇興(くみどにおこ)して」と記述する。上のJ図に示すように沼津市の足高山(あしたかやま/現在は「愛鷹山」と表記される)は蓬莱山であった。「蓬莱山」の[蓬(よもぎ)]の葉の裏面の白い綿毛(わたげ)から作られる艾(もぐさ)は、お灸(きゅう)して療治する時に用いられる。つまり[久]は[灸]の原字(最初の文字)であった。「富士山」は「灸」に見立てられて[久]ということになり、また[久]の字義「ひさしい」にもとづき、「富士山」は「悠久(ゆうきゅう)なる聖山」、あるいは「永久なる霊峰」と称賛する意味もこめられていたであろう。[久]に続く[]はもちろん「富士山を「美しい霊峰」と讃(たた
)えていることになる。「度邇」はJ図上部の矢印で示したように「蓬莱山・足高山の西にある富士山が蓬莱山・足高山がある東邇(ひがし)(わた)る=渡る・移動する」と意味した。次の「興して」の[]の原義は「地霊を呼びおこす」である。ゆえに「久美度邇興して」という語は「蓬莱山・足高山の西にある日本一巨大で重い富士山を、なんと蓬莱山・足高山の地霊が自分のほうに引き寄せて東の蓬莱山・足高山の峰の後ろに移動させる神秘的な風景」をあらわすことになった。
 足高山の南の沼津市西浦に所在する大瀬崎(おぜざき)は、伊耶那岐命が考えた「袍図莽作戦」をあらわした。というのも、K図に示すように、大瀬崎の北端には真水をたたえる円形の「神池(かみいけ)」があり、「神池」を「呉の遠征軍」に見立てると、「神池の周囲の岸辺」は「呉の遠征軍を日本軍が包囲して袋の中のネズミにして壊滅させる作戦」をあらわすことになったからである。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 K図に示すように、「神池」は「人間の血を吸うチスイヒルの吸盤」に見立てられて、「大瀬崎」は「蛭(ひる/チスイヒル)の姿」に見立てられ、また“呉軍の兵士たちの血を奪って殺す”をあらわし、また神池は真水をたたえるため、伊耶那岐命の袍図莽作戦をあらわす「大瀬崎」は「水蛭子(ひるこ)」と名づけられた。
 大瀬崎の真東に位置する内浦湾に浮かぶ淡島は女性の乳房の形に相似する小島である。ゆえ、淡島は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。
 したがって足高山・蓬莱山の南に在る大瀬崎と淡島について、淤能碁呂島聖婚説話の末部は「久美度邇興しての子として水蛭子(大瀬崎)を生み、また子の淡島を生んだ」と記述する。
 さらに、この説話は「伊耶那岐命と伊耶那美命が委任された小国・日本の国作り事業が中途半端(ちゅうとはんぱ)に終わった状況」を「水蛭子と淡島は葦船(あしぶね)に入れて流し去ることになり、子の数に入れなかった」と表現した。
 というのも、わがブログ「真実の日本国誕生史・20」で詳細に解説・証明したように――230年~240年の間に死去した卑弥呼の後を継いだ男王が統治する倭王朝は、卑弥呼の墓に百余人の奴婢(ぬひ/18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女)を殺して埋める徇葬(じゅんそう)をおこなった。この徇葬を憎悪する人民たちが武器を持って戦う反乱が国中に拡大し、この反乱は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】に憧れて起きたと、倭王朝は非難した。さらに、徇葬を憎悪する人民たちの反乱に乗じて、倭国の敵国の狗奴(くな)国が戦争を仕掛けたために、二重の混乱によって倭国は大乱した。これゆえ、倭王朝は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛」の理念】が原因となって倭国は大乱したと主張して、伊耶那美命と伊耶那岐命に倭国に帰還して大乱を鎮圧するように命じた。このような経緯を、淤能碁呂島聖婚説話は「水蛭子と淡島は葦船に入れて流し去ることにした」と説明したのである。

◆上記した淤能碁呂島聖婚説話に記述された様々の事柄は、L図に示す桂離宮の庭園部の平面図となって図化された。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 L図の左端中央の月波樓(げっぱろう)の屋根裏に額(がく)として立てかけられる「南蛮船の絵馬」は「呉の遠征軍」をあらわし、池に浮かぶ「神仙島」は「紀元前3世紀、日本列島の蓬莱の神仙の霊薬を求めて中国を出帆した徐福一行」や「蓬莱山」をあらわすことになり、庭園北部の富士山の形に設計された平面図は淤能碁呂聖婚説話に登場する「久美度邇興して」という語句をあらわした。したがって、富士山の形をした庭園部の南にある「赤い長橋」は〔赤い人間の血を吸うチスイヒル〕に見立てられて「水蛭子」をあらわし、「黄竜二年」をあらわす「天の橋立中央の築島」と「その南面の蓬莱山の岩」は「淡島」を表現することになった。 
 そして、L図の右端の庭園東端となる「桂の笹垣(ささがき)」は、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた伊耶那美命は「第9代開化天皇の正妃の丹波出身の竹野比売であった」と示していることになる。その証拠に、上掲した〔桂離宮庭園の平面図〕の上部は桂離宮の庭園の南限に隣接する「旧丹波街道」であるからである。この「丹波」が連想できる「旧丹波街道」から左に折れて桂川の土手道を進むと、左手に竹藪(たけやぶ)の小竹(こたけ)を折り曲げて編んだ竹の葉がそのまま垣根となる素朴で美しい生籬(いけがき)が続く。これを「桂垣」または「桂の笹垣」と称する。したがって、小堀遠州が考案した「桂の笹垣」は「竹」がヒントになって「丹波出身の開化天皇の正妃の竹野比売」をあらわす装置であったのである。

M図の上部に示す「御舟屋がある池」は「鉞(まさかり)の刃の形」に作られている。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)[]の契文(けいぶん/甲骨文字)と金文の字形を「鉞の刃部を下にしておく形」と解説する。M図の〔御舟屋がある池の鉞の刃の形を下にする〕と〔人の横顔に似る池より西側の岸の平面図の頭上に鉞の刃を打ち下ろすこと〕になる。ゆえに、鉞の刃部を上に向けて「御舟屋がある鉞の刃の形に似る池」で[]の字源を示して、M図の「御舟屋がある池と中央の庭園池より西側の岸の平面図」は「開化天皇」をあらわすことにしたのである。
 上記したように、『古事記』中巻の開化天皇紀は「天皇は伊耶河宮に居住した。丹波出身の竹野比売を正妃とした」と説明するゆえ、桂離宮の庭園池より東岸にある「桂の笹垣」は「伊耶那美命は丹波出身の竹野比売であった」とあらわし、「御舟屋がある池と庭園池の西岸」は「開化天皇は伊耶那岐命であった」と表現していることになる。

◆桂離宮の「御幸門(みゆきもん)」や「御幸道」は時の「後水尾(ごみずのお)上皇が桂離宮の庭園を御訪問するための門と道」であった。学問・詩歌に関心が深い後水尾上皇の天皇在位期間は1611年から1629年までであり、 162911月から上皇となった。幕府の干渉(かんしょう)と抑圧(よくはつ)に反発する上皇は抵抗して、遠州が存命中、桂離宮に一度も御行幸して庭園を見学しなかった。上皇は遠州より長寿で、1680年・85歳で崩御した。
 小堀遠州は、京都市の伏見奉行屋敷にて1647年に69歳で死去した。
 遠州没後――後水尾上皇が指示して京都市左京区修学院の比叡山山麓の高台に所在した仏刹(ぶっさつ)の修学院跡に、1653(承応2)から1655(承応4)に離宮を造営するや、すかさず将軍・家綱(いえつな)と徳川幕府は1655(明暦元)から造営直後の修学院離宮の広大な敷地内に強引に上御茶屋(かみのおちゃや)と下御茶屋(しものおちゃや)の庭園の造営を開始して1659(万治2)に完成させ、家康が少年期から抱いた夢の実現を図った。(注 承応4年は1655412日までであり、翌日から明暦元年となった)
  
修学院離宮の上御茶屋は、巨大な人工池の浴竜池(よくりゅうち)を中心とした壮大な庭園である。前回のわがブログ「真実の日本国誕生史・24」で指摘したように、N図の左図と右図の形は一見相似しないように見えるが、「浴竜池」いう名は「巨龍の銀河の竜が浴びる池」と表示するゆえ、「浴竜池の平面図」は「黄竜二年」をあらわす「夏の銀河の西南部」を表現するものであったことになる。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 そして、O図に示すように「浴竜池の平面図」は「天の橋立中央の築島南面の蓬莱山の岩」の形にも相似するように設計されている。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 したがって、家康の夢を実現するために、徳川幕府は「黄竜二年頃に日本国は誕生した」と設計する浴竜池を中心とした上御茶屋を造営したことになる。
 その証拠に、上御茶屋が造営中であった1658(万治元)に上皇は桂離宮に初めて御幸なされている。上御茶屋が完成した4年後の1663(寛文3)3月と11月にも、上皇は桂離宮に御幸なされている。この3回の御幸で、将軍と徳川幕府は「『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は歴史上の事実であった」という承認を上皇から得るために、修学院離宮と桂離宮の両庭園を作成したということを上皇は理解したのである。

◆わがブログ「真実の日本国誕生史・2」で詳細に証明したように、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話に登場する「伊耶那美神命(いざなみのかみのみこと)は「伊耶那美命」ではなく、その正体は朝廷が最も偉大な先祖と崇拝する「皇祖の天照大御神」である。この説話は――天照大御神は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を敵視し憎悪し、伊耶那美命の墓を作る時に多数の青年男女を殺して犠牲(いけにえ)にする残酷な徇葬を陣頭指揮した。このため、伊耶那岐命はクーデターを決意して日本軍の兵士と熊野に住む戦士たちの協力を得て、伊耶那美命の墓を守っていた倭王朝の大軍を現在の熊野速玉大社の境内で敗走させた。倭女王の天照大御神は捕虜となり、現在の和歌山県新宮市に所在する神倉(かんのくら)神社のご神体の千引石(ちびきのいわ/現在のごとびき岩)の前で伊耶那岐命から離縁を言い渡されるとともに倭女王から失脚した――という史実を記述するものであった。
 これゆえ、朝廷は皇祖・天照大御神の聖性を守るために、『古事記』は朝廷を崩壊させる危険な思想を植え付ける禁制の書物であると定め、さらに720年に『日本書紀』が成立するとその直後から「講書(こうしょ/学者による『日本書紀』の講義)」を10世紀半ばまで頻繁(ひんぱん)におこなって、『日本書紀』を正史にしようとして天照大御神の聖性を汚すのを避けたが原因でアイマイ・不確かな記事となった文や語句を利用して史実を隠す研究・虚偽の史観を確立して、『古事記』上巻に記述された史実の抹殺(まっさつ)を図(はか)った。
 したがって、将軍と徳川幕府の「『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は史実を語るものであったと定めていただきたい」という願望を後水尾上皇が承認すると、皇祖・天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)すことになった。
 しかし、上皇は一大決意して将軍と幕府の願いを承認した証拠を、P図に示す窮邃島(きゅうすいとう)に建てられた「窮邃亭」に陶器で作った額を掲げて示した。
S663
(C) 2017 OHKAWA

◆Q図が、後水尾上皇が自ら作った陶器の額である。上皇の直筆「窮邃」の2字を八角形で囲み、八角形が重なった縦長の六角形の中に〔赤い水引きの結び模様〕を配した。
S664
(C) 2017 OHKAWA
 
 R図に示したように、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の末部に登場する「久美度邇興して」の語句をあらわす(1)蓬莱山・足高山の西にある富士山と、(2)蓬莱山・足高山の尾根の東に渡る(移動する)富士山の、二つのタイプの富士山が並ぶ映像(イメージ)を想像したにちがいない。
S665
(C) 2017 OHKAWA
 
 ゆえに、Q図の左側に記したように、「八角形」は「富士山」をあらわす図案となる。
 S図に示すように、古代絵画の蓬莱山図では蓬莱山は亀の甲羅の上に乗っている。したがって、Q図に示した額中央の〔六角形〕は「亀甲文」となった。
S666
 
 中央の「赤色の水引きの結び模様」は「出産の御祝い事」に用いられゆえ、淤能碁呂島聖婚説話に登場する「出産=美斗能麻具波比」を表現するものとなる。したがって「赤い水引き模様」は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を表現する図案となる。
 『説文解字』は「究は窮なり」と解説するゆえ、[]の字義は「究(きわ)める。窮(きわ)まる」である。また『説文解字』は[]の字を「深遠なり」と解説する。白川静著『字統』は[]に字について「上古を邃古という」と指摘する。したがって、「窮邃」は「深遠な上古の歴史を学問として深く掘り下げて究める」と意味するものであったことになる。

 以上のごとく、「天皇」と「天子」という語は「文字作成銀河各部の形状が文字となる学芸に精通した大王」と意味するものであり、『古事記』序は「文字作成銀河各部の形状を文字とする学芸を用いれば、『古事記』上巻に記述された歴史は解明できる」と伝えるものであったのである。これゆえ、反逆の史書『古事記』上巻の記事は朝廷にとって極めて不都合な事実であった。だから、朝廷は中途半端な失敗作『日本書紀』ができあがった直後から講書を約250年のあいだ頻繁におこなって『古事記』上巻の記事・語句を歪曲(わいきょく)し誤魔化(ごまか)す解釈方法を研究して確立した。この正しい解釈のごとく偽装した曲解工作(きょっかいこうさく)を正しいと信じて受け継いだ
本居宣長(もとおりなりなが/17301801)は注釈書『古事記伝』を著作した。しかし『古事記伝』は、真っ先に守らなければならない『古事記』序が解説する『古事記』上巻の歴史解明方法についていっさい無視して排除(はいじょ)した。さらに、現在の学者たちは宣長が著作した『古事記伝』を教科書とするため、その研究と意見は空想の産物となった。学者たちは学者ならば必ず守らなければならない「真っ先に文献史料の記事を忠実に読解する」という学問の鉄則を守らないために『古事記』序に記述された警告にいっさい耳を傾けず無視するため、〔誤読から生まれた空理空論〕を「学問」、あるいは「正しい解釈」と思い込む。しかし後水尾上皇が徳川幕府の願望・家康の夢は事実であったと認定したように、現在の学者たちの意見の実体は〔誤読の空理空論〕であり、もとより「学術的成果」ではなかったのである。

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