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2017年11月29日 (水)

真実の日本国誕生史・27

 ●日本建国の〔愛〕の理念の証明・2
■桂離宮で最も価値ある遺産は庭園平面図である

712年に成立した『古事記』の序を書いた太安万侶(おおのやすまろ)は「後期縄文時代初頭、わが国は夏音(かおん)文字を習得した。楷書の日下(にちげ)は夏音文字の玖沙訶(くさか)と同義、楷書の帯(たい)は夏音文字の多羅斯(たらし)と同義である。というのも、夏音文字と楷書の字源・字形(原形)・字義は共に文字作成銀河の各部の形状だからである。したがって、上巻の記事に用いられる文字(夏音文字・楷書)を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、上巻に記述された歴史が解明できる仕組みになっている」と警告(けいこく)した。
 なぜ、このような仕組みになったかと言えば、『古事記』上巻の記事は朝廷が最も崇拝する皇祖・天照大御神の聖性をいちじるしく汚す史実を伝えるものであったからである。ゆえに、朝廷に極めて不都合な史実を伝えるために〔文字作成銀河各部の形状=文字という仕掛け〕が企(くわだ)てられることになったのである。つまり、文字作成銀河各部の形状のイメージ(映像・心象)は、上巻に用いられる文字(夏音文字と楷書)の字源・字形・字義となった。この「文字作成銀河各部の形状=文字となる事実」は、倉頡(そうきつ)伝説で語られ、『易経』繋辞(けいじ)上伝・下伝にある記事で伝えられ、『老子」上篇(道経)第一章~第三十七章までで記述され、『魏志』倭人伝と『古事記』序などに記述された。しかし、1725年に没した新井白石以後の学者たちは西欧近代科学の合理思考の致命的欠陥の傲慢(ごうまん)な単純化から生まれた〔誤読〕を自由自在にあやつって「文字作成銀河各部の形状=文字となる事実」を抹殺(まっさつ)した。

6世紀の隋代(ずいだい)に、現在の漢字の前身である楷書(かいしょ)が完成した。この楷書より以前に出現した隷書(れいしょ)、篆文(てんぶん)、金文(きんぶん)、契文(けいぶん/殷代後半期に出現した甲骨文字)、殷代(いんだい)前半期の文字、夏代(かだい)の夏音文字、五帝時代の書契(しょけい/わが国では「刻木(こくぼく)」と言った)の全漢字は、下に示す銀河から作られた。この漢字を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけた。

Ginga
 ▲文字作成銀河

 漢字の字源・字形・字義となった文字作成銀河各部には名称が存在しない。ゆえに、わたくしは下図のごとく各部の名称を定めた。

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 ▲文字作成銀河各部の名称

 わがブログ「真実の日本国誕生史」の4回・5回で詳細に解説したように、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した倉頡は、文字作成銀河から漢字を作成する方法を発明した。倉頡は自らが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、反体制側の人々が文字作成銀河の各部から文字を作る学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。ゆえに、倉頡は下に示す〔3つの掟〕を破った者には天罰が下されて即刻に死刑に処せられると定めた。
★倉頡が定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河各部の形状から文字が作られた事実を暴露した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字作成銀河の各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字はただちに消さない者または消し忘れた者
 上記の(1)の掟によって、今日の学者たちは「文字は銀河(天象)から作られた事実」に気づかない。上記の(2)の掟によって、中国でもわが国でも文字作成銀河の各部の名称が存在しないことになった。上記した(3)の掟によって、五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半期の漢字を記した資料は、中国においてもわが国においても学者たちが「文字」と認めた資料は1点も発掘されていない。しかし、紀元前1300年頃の殷代前半期から出現した契文によって、倉頡が定めた(3)の掟は破られた。ゆえに、契文以後に出現した楷書は書いた文字を消さなくてもよい文字であったため、夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名に用いられて楷書で表記されて多数残った。
 紀元前2070年~同2050年ころの夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国に伝来して習得され楷書で表記された夏音文字について、『魏志』倭人伝は――「卑弥呼が文書に用いる文字と魏の都・帯方郡・諸韓国で用いる文字の字形は差錯(ささく/相違)していた。倭の小国・伊都(いと)国の港では魏都・帯方郡・諸韓国の楷書とわが国の夏音文字を点検し、確認をして正しく変換していた」あるいは「倭の卜文に用いられる夏音文字の辞(文字とことば)は令亀(れいき)の法のごとし、つまり殷代後半に出現した亀の甲羅に刻む契文(甲骨文字)のごとし」――と記述する。このような夏音文字を記した資料は上記した倉頡が定めた(3)の掟のために1点も発見されていない。
 「銀河」の別称は「銀漢」、だから「銀漢から作られた文字」を略して中国の文字は「漢字」と名づけられたのである。「漢字は銀河の子、銀漢の子」であった。王朝にとって不都合な歴史を後世に伝わらないように抹殺(まっさつ)しようとしても、「天にある象(かたち)の銀河の形状」を後世の人々が観察すれば真実の歴史は知ることができたのである。この事実を、誰にも容易に理解できる文で表現すると直ちに死刑と定められていたゆえ、『古事記』序の作成を担当した太安万侶は難解な文章を用いて慎重に用心深く説明することにしたのである。

◆『古事記』序が伝えるように、わが国では原初漢字の夏音文字が習得されていた。夏音文字は〔文字作成銀河の各部の形状=文字となる秘密・原理〕を保存する原初漢字であり、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話には大和朝廷にとって極めて不都合な反逆の歴史や皇祖の天照大御神が憎悪し敵視した【日本建国の〔愛〕の理念】が記載しなければならなかった。このため、夏音文字と楷書の字源・字形の原形・原義をあらわす文字作成銀河各部の形状に変換すれば歴史が解明できるという、複雑な仕組みが淤能碁呂島聖婚説話には必要となったのである。
 A図に示す「最も多くの文字が作られた銀河の範囲」は五帝時代から紀元前3世紀の秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の時代まで、中国とわが日本列島の天頂に廻(めぐ)ってきた。A図の範囲は上掲した文字作成銀河各部の名称図における左上にある。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 A図に示すように、「鬼の姿に似る銀河」は「十字の銀河」を仰ぎ見て跪(ひざまず)いて拝礼(はいれい)する、王につかえる人物のごとくに観える。だから、「十字の銀河」は倉頡がつかえた「黄帝」に見立てられ、「鬼の姿に似る銀河」が「倉頡」に見立てられた。「鬼の姿に似る銀河」の〔顔に二つの目、首にも二つの目〕ソックリの銀河部が存在するゆえ――「鬼の姿に似る銀河」は[][][]の字源となり「人」の姿に相似するゆえ、中国の古代の学者たちは「倉頡は銀河から字を作る方法を発明した」とあらわすために「四つ目の怪人」という異名(あだな)で呼んだ。ところが、現在の学者たちは“人間は四つ目を有さない。倉頡が漢字を発明したという伝承は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである”とバッサリと否定して〔漢字が銀河から作られた事実〕を抹殺する。 
 五帝時代初頭に生存した黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝の医学研究は、前人の三皇(さんこう)時代の大王が着手していない中国最初の事業であった。黄帝の医学研究は女性の生殖(せいしょく)器官と子どもの出産に関する研究であったが、女性の生殖器官や子が出産する器官には名称がなく、ましてやその名をあらわす文字もなかった。この文字を作るのは、史官(記録官)の倉頡の役目であった。
 黄帝時代初頭、中国各地の天頂に廻ってきたA図の左端にある「十字の銀河の西半身」には、B図に示すように「女性の豊かな乳房」や「妊婦のおなか」に相似する部分が有り、「妊婦のおなか」に観える部分には生殖器官の「子宮」に相当する銀河部が重なる。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 したがって女性生殖器官の「子宮」を相当する銀河部を有する「十字の銀河」は、C図に示すように「黄帝」の[]の字源となって「黄帝」に見立てられることになった。
S703
(C) 2017 OHKAWA
 
 白川静著『字統』は、C図の右端に配する[]の契文・金文の字形を「火矢(ひや)の形」と解説する。この「火矢」は「火で焼いた鏃(やじり/矢の先)」であり、この〔火で焼いて消毒した鏃を、黄帝は女体を解剖するときのメス(小刀)に用いた〕ゆえ、[]の字形は「火矢」の図案となり、[]の字源・字形・字義となった。
  C図の左図と中央図に示すように、[]の契文と金文の字形は「女性の骨盤や骨格」と「矢(女体解剖に用いたメスの鏃)」を合体して図案された。また、[]の字源「火矢」の[][]の字源を成立させることになった。というのも、白川静著『字統』は、[]の字源を「矢を匚(はこ)の中に収めた形で、〔うつぼ〕または〔ゆぎ〕ともいう」と解説するからである。つまり、「十字の銀河の東の手(左手)」は「弓」に相似する銀河部を有するゆえ、「十字の銀河の子宮」はC図の左図下部に記したように「靭(ゆぎ/矢や鏃を入れる匚=箱」にも観える。だから、黄帝がおこなった子宮と出産の研究は[()]の中に[(メスとなった鏃)]を入れる[]の字であらわされることになった。

◆D図に示すように、[()]の契文形は〔腕時計の針を動かし、ぜんまいを巻く装置〕の「竜頭(りゅうず)に似る銀河」と「竜の顔に相似してならぶ星屑(ほしくず)」が〔竜の顔〕、「十字の銀河」が「竜の身体と尾」に見立てられて図案された。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 C図に示したように「十字の銀河」は[]の字源であり、D図では「竜」の字源でもあったゆえ、文字作成銀河の北端にある「十字の銀河」は西暦229年から始まる呉の元号「黄竜」をあらわすことになった。
 前々回のわがブログ「真実の日本国誕生史・25」で証明したように、E図に示す「夏の銀河の西南部の東側」もまた呉の元号「黄竜」をあらわした。(「夏の銀河の西南部」は、上掲した〔文字作成銀河各部の名称図〕における右下にある)
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(C) 2017 OHKAWA
 
 というのも、「夏の銀河の西南部の東側」は〔龍()の顔や首に相似する〕ゆえ、わたくしは「巨龍の銀河」と名づけることにした。
 この「巨龍の銀河の顔や首に相似する銀河」は、下に示す写真のごとく黄色く輝く。だから、「黄竜」という元号をあらわす。
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▲夏の銀河の西南部の写真

 わがブログ「真実の日本国誕生史」の13回~26回までで詳細に解説し証明してきたように――『古事記』序が説明する歴史解明方法にしたがって夏音文字と楷書を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は「呉の黄竜(こうりゅう)二年(230)1万の呉軍の小国・日本への遠征の決行によって、伊耶那岐命が日本国を防衛する軍王(いくさのおおきみ)に、日本国の女王に伊耶那美命が選ばれた。二人は小国・日本に赴任して来襲する呉の遠征軍の呪的(じゅてき)戦力に勝る黄帝と倉頡の霊力に頼る結婚式をおこなった。この結婚式において、伊耶那美命が国生み(国作り)の柱を〔愛〕と定める、つまり【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した」と記述するものであることが明白となる。
 家康は駿府(すんぷ/現在の静岡県静岡市)の今川家で人質生活を送った8歳から14歳まで、今川義元の軍師・大原雪斎(たいげんせっさい)が死去するまで、『古事記』上巻と『魏志』倭人伝に記載されて残った「夏音文字の学芸」要するに「文字作成銀河から漢字が作られた学芸」を厳しく教育された。この少年期において、家康は淤能碁呂島説話に記述された【黄竜二年の1万の呉軍の小国・日本への遠征によって、〔愛〕の理念をかかげて日本国が誕生した歴史】を復興したいという願望を抱くようになり、この夢は家康の生きる原動力となった。
 1608(慶長13)、家康は科学と芸術の才能に秀(ひい)でる30歳の小堀正一(まさかず)を従五位遠江守(じゅうごいげとおとうみのかみ)に取り立てて、遠州(静岡県西部)の豪族・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)とその一族が作成した【日本国誕生史】を詳細に保存する1千万坪の大鳥の地上絵の研究を命じた。これゆえ、家康から【淤能碁呂島聖婚説話の研究】を命じられた1608年以後、正一は「遠州」と名乗った。
 遠州の豪族・建比良鳥命は伊耶那美命と伊耶那岐命と同年代の3世紀半ばから後半に生存し、1千万坪の大鳥の地上絵を『古事記』上巻が成立する約450年前の260年頃から作成を開始して30年後の290年頃に完成させた。建比良鳥命は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話末部に天照大御神王朝に反逆した一人として「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖である」と記載されている。わたくしは建比良鳥命とその一族が作った1千万坪の大鳥の地上絵を、最初「建比良鳥の地宜(ちぎ)」または「建比良鳥の地上絵」と名づけたが、最近は「卑弥呼の地上絵」と呼んでいる。
 F図の3世紀後半に作成された卑弥呼の地上絵は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史】を詳細に保存した。卑弥呼の地上絵は、現在の静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形として現存する。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 卑弥呼の地上絵は伊耶那岐命が死去した直後に作成され、その各部の地宜(ちぎ/平面的な地図の形)と地名は文字作成銀河各部の形状を表示して【日本国誕生史】を詳細に伝える夏音文字の学芸遺産である。ゆえに、夏音文字と楷書を文字作成銀河各部の形状に変換すると【日本国誕生史】が解明できる『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話と卑弥呼の地上絵は相合致するゆえ、正確な【日本国誕生史】を知ることができる。さらに、家康から〔卑弥呼の地上絵の研究)を命じられた小堀遠州は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史】を明確に証明できる桂離宮の庭園を作成した。
 このため、新井白石(あらいはくせき/16571725)以後から現在までの学者たちが〔西欧近代科学の合理思考の致命的な欠陥である「傲慢(ごうまん)な単純化」〕、要するに『古事記』の序の「夏音文字と楷書を文字作成銀河各部の形状に変換すれば歴史が解明できる」という警告をいっさい無視する傲慢な単純化をもって仰山(ぎょうさん)な〔誤読〕を加えて抹殺した【日本国誕生史】は卑弥呼の地上絵と桂離宮の庭園によって鮮烈に蘇(よみがえ)る。だから、卑弥呼の地上絵は【日本国誕生史】を伝える“不死鳥”である。

◆下に日本の美しい庭園の代表される京都市西京区桂に所在する、皇室関係施設である桂離宮の庭園の平面図を示した。

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 ▲桂離宮の庭園の平面図

 家康は、前述した少年期から抱き続けた夢、つまりF図の卑弥呼の地上絵に保存され、また『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された「【日本国誕生史】を復興したいという願望」を実現することできないまま、1616(元和2)に死去した。ゆえに、家康の夢を引き継いだ将軍秀忠(ひでただ)と徳川幕府は、翌1617(元和3)9年前から卑弥呼の地上絵を研究する小堀遠州に遣唐使船の大海を往来した緯度測量を研究させるために河内国奉行に任命した。1620(元和6)に将軍秀忠の娘の和子が後水尾(ごみずのお)天皇の中宮となって入内(じゅだい)し、この頃に桂離宮の造営に着手した朝廷側を代表する天皇の叔父の八条宮智仁(はちじょうみやとしひと)親王を説得して、将軍と徳川幕府は桂離宮の庭園を幕府側で作成する案を承諾させた。F図の卑弥呼の地上絵の上部に記した引佐(いなさ)町井伊谷(いいのや)の居住する卑弥呼の地上絵の守り番であった譜代(ふだい)筆頭の井伊氏は、1601(慶長6)正月に家康に命令されて近江彦根に移住し、【日本国誕生史】を復興させるために1603(慶長8)年から作成を開始し20年後の1622(元和8)3千万坪の大鳥の地上絵を完成させた。この1622年に遠州は近江国奉行に任命されて、彦根の3千万坪の大鳥の地上絵にそそがれた【日本国誕生史】の知識を井伊藩から伝授された。現在の日本地図における滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形は、琵琶湖に浮かぶ3千万坪の大鳥の地上絵・翼の部分が無い「未だ夏音文字の学芸は復興されず・未だ日本国誕生史は復興されず」と表現する水鳥の鳰(にお)の地上絵である。
 翌1623(元和9)45歳となった遠州は京都の伏見(ふしみ)奉行に任命されると、桂離宮の作庭を開始し、病床に伏した67歳の1645(正保2)までの23年間、桂離宮の庭園作りに情熱を傾けた。この事情は、桂離宮に関する史料『桂御別業之記(かつらごべつぎょうのき)』の冒頭で「庭園は小堀遠州政一が伏見奉行であったときに毎々参上してことごとく作った」と記述された。遠州は1647(正保4)26日、伏見奉行屋敷にて没した。享年69歳であった。69年間の人生にあって、遠州はその半生以上の38年間も【日本国誕生史】を研究し、23年間も桂離宮の作庭に情念を傾けて『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史】を桂離宮の平面図に詳細に図化した。
 G図に示すように、「桂離宮の庭園池の東岸の平面図」は倉頡が万物のイメージに類似するゆえ多数の文字を作ることができると指摘した「文字作成銀河の形」に図化されている。
S712
(C) 2017 OHKAWA
 
 E図に示した元号「黄竜」をあらわす「巨龍の銀河の頭から尾までの形」は「桂離宮の庭園池より東岸の御幸門(みゆきももん)から卍亭(まんじてい)までの平面図」に相当する。
 D図に示した「十字の銀河」と「竜頭に似る銀河」は「黄竜」という元号をあらわした。E図の「夏の銀河の西南部における巨龍の顔の銀河部」から「わし座のアルタイル(α星・彦星)」までの範囲も、「黄竜」の元号をあらわす。上掲した〔文字作成銀河各部の名称図〕が示すように、「黄竜」という元号をあらわす「十字の銀河・竜頭に似る銀河」と「巨龍の銀河」は、〔文字作成銀河〕の〔北〕と〔南〕に離れて分かれる。
 ゆえに、G図の左右の二図において、右図の「北」と記した「御幸門」の辺りが左図の「十字の銀河」と「竜頭に似る銀河」の位置となり、右図の「南」と記した部分に左図の文字作成銀河南部の「巨龍の銀河」が所在することになる。だから、G図の桂離宮庭園池の東岸平面図と文字作成銀河における「北」と「南」は、その二図の上下に記した互いに180度反転して配置されることとなったのである。

◆前述したように、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は「呉の黄竜二年(西暦230)頃、小国・日本に赴任した伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚する時、小国・日本の女王・伊耶那美命が国生み(国作り)の柱を〔愛〕と定めると唱えて起源した歴史」を伝えるものであった。
 H図は元号「黄竜」をあらわす銀河の範囲において「天橋の立の二つの築島(つきしま)」で「二年、つまり黄竜二年」をあらわす桂離宮の東北部に庭園の平面図である。この庭園の平面図は、F図に示した「卑弥呼の地上絵の両翼部が殺()がれた形」で「未だ夏音文字の学芸は習わず」つまり「未だ夏音文字の学芸は復興せず」とあらわしている。
S713
(C) 2017 OHKAWA
 
 H図の「卑弥呼の地上絵の両翼部が無い形の庭園」は「桂離宮の庭園の作者は小堀遠州である」という署名となる。したがって、現在、『桂御別業之記』冒頭の「庭園は小堀遠州政一が伏見奉行であったときに毎々参上してことごとく作った」という記事は多くの学識者たちが疑って事実でないと否定されているが、この文献批判説は誤りで事実を伝えるものであったことになる。
 I図に示すように、「亀の尾」という岬には「住吉の松」という名の松の木が植えられ、「住吉の松」と「天の橋立中央の築島」とその南面のわたくしが「蓬莱山の岩」と名づけた岩は「同緯度」であらわすように設計されている。
S714
(C) 2017 OHKAWA
 
 「蓬莱山の岩」は「日本軍は、黄竜二年に呉の港を出発した呉軍は小国・日本にある蓬莱山へ目指して遠征して来る確率性が最も高いと考えて、蓬莱山すなわち現在の静岡県沼津市に所在する愛鷹山(あしたかやま/旧称「足高山」)に日本軍の防衛一大軍事基地が所在した」とあらわすために設置された。
 J図に、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話冒頭で日本中の人民たちが未曾有(みぞう)の恐怖に脅(おび)えて「漂える国」と表現された原因となった来襲する呉の遠征軍が目指す地域として最も確率が高いと日本軍が予想した沼津市の足高山・蓬莱山と伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した高尾山(たかおさん)古墳を示した。
 つまり桂離宮の庭園は、「蓬莱山の岩」を中心にして構成されている。下に、桂離宮庭園の天の橋立中央の築島南面の「蓬莱山の岩」の写真を示した。

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 ▲蓬莱山の岩の写真

 上に示したI図の再度、注目していただきたい。I図の左側、蓬莱山の岩の真西の「亀の尾」という岬には「住吉の松」が植えられている。「住吉」は大阪市住吉区住吉町に所在する「住吉大社」をあらわす。住吉大社は近畿地方きっての古社で、摂津国一の宮として信仰され、軍神あるいは船舶の守護神として古来より崇敬(すうけい)を集めてきた。ゆえに、「住吉の松」の真東の「蓬莱山の岩」は「来襲する呉の遠征軍と戦う、蓬莱山に防衛一大基地を設営した日本軍」をあらわした。
 遣唐使の派遣(はけん)の際には、住吉大社の神に祈ることを常とした。
 持統(じとう)上皇は「日神の天照大御神」と国号「日本」という名称は似た者同士であることを利用して、淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史】の抹殺を企んだ。中国王朝にわざわざ承認を得なくても、持統王朝が決断すれば「倭」から「日本」への国号の改変はできる。しかし、中国王朝との外交交渉による承認を得るならば天照大御神という名に合わせて「日本」という国号が改変されたと後世の学者たちは必ず思い込むにちがいないと上皇は考えて【日本国誕生史】の抹殺を企んだのである。ゆえに現在の幾人かの学者たちは持統上皇の謀略にすっかり騙(だま)されて「第7回遣唐使が派遣された720年に日本国は誕生した」と主張する。
 大宝(たいほう)二年(702)629日、中国王朝から「日本」という国号改変の承認を得るために、持統上皇に命令された第7回遣唐使は九州の港を出帆した。この時の最下位の遣唐使の幹部は、万葉歌人で名高い山上憶良(やまのうえのおくら)であった。『万葉集』63番の和歌の題詞は「山上臣(おみ)憶良、大唐(もろこし)の在()る時に、本郷(もとつくに)を憶ひて作る歌」である。ゆえに、この和歌は憶良が上皇の命令を成功させるための外交に努力する中国に滞在した日々にあって、【日本国誕生史】が失われる本国の将来を心配して作った和歌である。
 憶良が作った『万葉集』63番の和歌は「去来(いざ)子ども 早く日本(にほん)へ 大伴の 三津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ」であり、現代語に訳すると「さあ遣唐使と船乗り諸君 早く日本へ帰ろうよ。出発した時の港であった難波の三津は、上皇に逆らって【日本国誕生史】を守らんとする大伴氏の所領である。その難波の三津に生える松が、我らを待ちわびていよう」と意味した。憶良は「遣唐使と船乗りたちは伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】にもとづいて生まれた人々である」と表現するために、「子どもではない大人(おとな)の遣唐使と船乗りたち」を「いざ子ども」と表現することにしたのである。
 だから、I図の「住吉の松」の東にある「黄竜二年」をあらわす「天の橋立の二つの築島」は第7回遣唐使が九州の港を出帆した「大宝二年」をもあらわし、「蓬莱山の岩」は「遣唐使と船乗りたち」を「子ども」と表現した【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。
 憶良の代表作の『万葉集』803番「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優れる宝 子にしかめやも」は「銀よりも黄金よりも宝石よりも、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】の基(もと)に生まれた子こそ、最高の宝だ!」と、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】を讃える和歌であったのである。
 前述したように、1616年に家康が没した翌1617年に、遠州は河内国奉行に任命されて遣唐使船の大海を往来した緯度測量を研究することになった。だから、河内国奉行・遠州の主な任務であった研究成果によって【日本建国の〔愛〕の理念】は、I図で解説したように憶良が作った『万葉集』63番の和歌を住吉の松・蓬莱の岩をもって表示されたのである。

◆J図に、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話冒頭で日本中の人民たちが未曾有(みぞう)の恐怖に脅(おび)えて「漂える国」と表現された原因となった来襲する呉の遠征軍が目指す地域として最も確率が高いと日本軍が予想した沼津市の足高山・蓬莱山と伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した高尾山(たかおさん)古墳を示した。高尾山古墳は一般的な古墳の用途である「墓」ではなく、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した式場であり、この結婚式で伊耶那美命は【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 2008年に高尾山古墳は発見され、東日本における最古で最大の前期古墳である。
 K図に、高尾山古墳の平面図を示した。高尾山古墳の後方墳中央に主体部がある。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 L図は、高尾山古墳の主体部・舟形の匚(はこ/)に埋納された出土物の状況図である。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 舟形の箱には、鉄の鏃(やじり)33点、鉄製の槍が2点、後漢製の破砕鏡(はさいきょうが)1面、勾玉(まがたま)1点、長持ちする柱を作るために木の表面を削る大工用具の槍鉋(やりかんな)1点、収納されていた。
 L図に示すように、後漢製の破砕鏡より約1m離れた東と南東からは「230年頃の東海西部系の土器」が出土して、「日本国は230年・黄竜二年の呉軍の遠征から起源した」と示す。
 M図に、230年頃の土器の産地である東海西部の尾張・三河・遠江の三旧国と伊勢湾と三河湾の地図の形を示した。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 N図は桂離宮の庭園中心部の平面図をあらわす。N図右下の「両翼の無い卑弥呼の地上絵の形を模(かたど)る庭園部の平面図」はF図に示した遠州が【日本国誕生史】を研究した「遠江の卑弥呼の地上絵」を図化したものであるゆえ、「遠江」をあらわす。
S725
 
 「天の橋立の二つの築島を包む池の形」は向きが異なるが、M図に示した「三河湾」を模っている。ゆえに、「三河」をあらわす。「三河湾」を模る池の形は、〔松の木の根元の形〕となる。〔神仙島を包む松の木の葉冠部(ようかんぶ)〕の形をした中央池〕はM図に示した「伊勢湾」の地図の形を模る。したがって〔伊勢湾の形に相似する中央池〕は伊勢湾に面する「尾張」をあらわす。
 だから、「神仙島を包む中央池」は「尾張」、「天の橋立の築島を包む池」は「三河」、「翼が無い卑弥呼の地上絵を模る庭園部」は「遠江」をあらわす。ゆえに、L図の高尾山古墳の主体部から出土した「230年頃の東海西部系土器」をあらわしていることになる。
 桂離宮の庭園池に浮かぶ「神仙島」は『後漢書』倭伝の末部に「紀元前3世紀、秦の始皇帝が徐福(じょふく)に数千人の青年男女を率いて大海を渡って〔蓬莱の神仙〕を求めさせた」と記述された、この「蓬莱の神仙」つまりJ図の「沼津市の蓬莱山・足高山」をあらわす。
 神仙島近くの西にある「月波樓(げっぱろう)」という名称は、中国9世紀の詩人の白居易(はききょい)が呉の杭州(こうしゅう)随一の景勝地の西湖(さいこ)の様子を「春、湖上に題す」という詩にし、この詩の中で「月は波心(はしん)に点ず」と表現した句から付けられた。月波樓の屋根裏には額(がく)が立てかけられ、この額は近くの神社に奉納されていた「南蛮船を描く絵馬(えま)」である。したがって、「南蛮船の絵馬」は黄竜二年に小国・日本に遠征しようとしたが、わがブログ「真実の日本国誕生史・16」で詳細に解説したように、緯度が精密に測定できないために大海を渡ることができなかったが原因で8割~9割の兵を失って壊滅した「日本国誕生の起源となった1万の呉の遠征軍の軍船」をあらわす。

L図の高尾山古墳から出土した230年頃の東海西部系の土器は、その主体部の作成に遠江の豪族の建比良鳥命が関わっていたにちがいない。というのも、F図に示した遠州が研究した卑弥呼の地上絵は伊耶那岐命が没した直後の260年頃から建比良鳥命が指揮して作成が開始され、卑弥呼の地上絵には高尾山古墳の主体部の埋蔵物があらわす日本国が誕生した歴史の秘密が詳細に図化されているゆえ、建比良鳥命は「歴史」について確固たる認識を有した人物であったことになるからである。だから、3世紀の優秀な歴史家・建比良鳥命が作成した卑弥呼の地上絵を研究した遠州によって、桂離宮の庭園の中心部に高尾山古墳の主体部に埋納された230年頃に作られた土器の産地の「東海西部の尾張・三河・遠江」をあらわす設計が配置されることになったのである。
 結局、桂離宮で最も価値ある遺産は学者や文化人たちが口をそろえて称賛する建築美ではなかった。桂離宮で「永遠なるもの」と称賛して最も注目すべき価値ある遺産は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史】を詳細に解説して科学的に証明することができる、遠州芸術の最高傑作の庭園平面図であったのである。
 以上、わが国における「科学における不正行為」の最たる事件は、新井白石以後から現在までの学者たちが主張しマスコミが支援する日本神話説と日本神話に直結する邪馬台国説の両説である。この両説は【科学】に反する【誤読】の産物、日本民族を心底から侮辱する空理空論であったのである。

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