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2017年12月 4日 (月)

真実の日本国誕生史・28

 ●日本建国の〔愛〕の理念の証明・3
■銀河によって伝えられた日本国誕生史
 
◆“字書の聖典”と尊重される、2世紀初頭に後漢の文字学者の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』の序には「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂()れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文がある。この文は「文字は学問と芸術の根本であり、また文字は王道政治にとって真っ先に必要な政権基盤であり、また文字は前人が生きた時代の歴史を後人が知ることができる方法である」と意味した。というのも、「銀河」の別称は「銀漢(ぎんかん)」、だから「銀漢から作られた文字」を略して中国の文字は「漢字」と名づけられたからである。王朝にとって不都合な歴史を後世に伝わらないように抹殺(まっさつ)しようとしても、「天にある象(かたち)の銀河の形状」を後世の人々が観察すれば真実の歴史は知ることができた。だから、「銀河を観れば真実の歴史を解明できる仕組み」を許慎は「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古を識るなり」と述べたのである。
 このような『説文解字』序が伝える「銀河を観れば真実の歴史を知ることができる仕組み」にもとづき、712年に成立した『古事記』の序を担当した太安万侶(おおのやすまろ)は「後期縄文時代初頭、わが国は夏音(かおん)文字を習得した。楷書の日下(にちげ)は夏音文字の玖沙訶(くさか)と同義、楷書の帯(たい)は夏音文字の多羅斯(たらし)と同義である」と解説した。したがって、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く夏音文字と夏音文字を表記する楷書(かいしょ)もまた銀河から作られた。だから、安万侶は「『古事記』上巻の記事に用いられる文字(夏音文字・楷書)を銀河各部の形状に変換すれば、後人は『古事記』上巻に記述された史実を知ることができる」と警告(けこく)していたことになる。
 注、『古事記』序が「夏音文字をわが国は習得した」伝える〔後期縄文時代初頭〕は〔中国の夏代(かだい)初頭〕に相当し、紀元前2070年~同2050年頃であった。
 上記した『説文解字』序と『古事記』序が警告するように――漢字を銀河各部の形状に変換すれば、歴史は鮮(あざ)やかに蘇(よみがえ)る。このため、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記された夏音文字と夏音文字を表記する楷書を銀河各部の形状に変換すれば、【日本国誕生史の真相】も鮮やかに蘇る仕組みになっていた。
 したがって「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀か6世紀である」という定説は、『古事記』序の記述を無視して誤読でこじつけた空論であった。(なお、漢字習得の定説が空理空論であることがいとも簡単に察知できる方法については、わがブログ「真実の日本国誕生史・3」に記述した)

6世紀の隋代(ずいだい)に、現在の漢字の前身である楷書が完成した。この楷書より以前に出現した隷書(れいしょ)、篆文(てんぶん)、金文(きんぶん)、契文(けいぶん/殷代後半期に出現した甲骨文字)、殷代(いんだい)前半期の文字、夏代の夏音文字、五帝時代の書契(しょけい)の全漢字は、わたくしが「文字作成銀河」と名づけた下に示す銀河から作られた。

Ginga
 ▲文字作成銀河

 漢字の字源・字形・字義となった文字作成銀河各部には名称が存在しない。ゆえに、わたくしは下図のごとく各部の名称を定めた。

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 ▲文字作成銀河各部の名称図

 中国の正史『三国志(さんごくし)』呉書孫権(そんけん)伝は「黄竜二年(230)、将軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣(つか)わし、甲士(こうし/武装兵)万人を将(ひき)いて海に浮かび、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)を求めしむ」と記述する。
 上記の記事が伝えるように、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の冒頭部は――呉の皇帝・孫権が1万の呉軍を東鯷人(とうていじん)国に遠征を命じた黄竜二年(西暦230)頃、東鯷人国王は208年の赤壁(せきへき)の戦いで2万の呉軍が魏の80万の大軍を一夜にして火攻めで壊滅させた、この40万の魏の大軍に等しい呉の1万の遠征軍と戦っても勝ち目がないと考えて、卑弥呼が統治する隣国の倭国の一員に加わることを決心して防衛軍の派遣を要望した。ゆえに東鯷人国は滅亡して、倭国の一員に加えられる小国となって名は「日本」と改められた。呉の遠征軍を撃退する小国・日本の女王に伊耶那美命が選ばれ、軍王(いくさのおおきみ)に伊耶那岐命が選ばれた。両人は小国・日本の蓬莱山(ほうらいやま/旧称・足高山、現在の沼津市の愛鷹山)に、戦勝を祈願する結婚式をおこなった。この結婚式場は、静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する東日本最大で最古の前期古墳の高尾山(たかおさん)古墳であった。この結婚式の時に伊耶那美命は国作りの柱を〔愛〕と定めて、日本国が誕生した――と、【日本国誕生史】を語るものであったのである。
 現在の学者たちのごとく『古事記』序の「漢字は文字作成銀河から作られた」という警告を無視すると、淤能碁呂島聖婚説話に記述された歴史がまったく不明となってしまう。しかし、『古事記』序の警告「漢字は文字作成銀河から作られた事実」にもとづくと、淤能碁呂島聖婚説話末部に登場する、「久美度邇(くみどに)」の4字の夏音文字に「興而(おこして)」の2字の楷書が加わる「久美度邇興して」という語が「呉の黄竜二年の呉軍の東鯷人国遠征から、日本国は起源した」と伝えていたことになる。したがって、「久美度邇興して」という語句は、淤能碁呂島聖婚説話に記述された【日本国誕生史】の全貌が一気に詳細に具体的に科学的に解明できるキーワードであった。

◆わがブログ「真実の日本国誕生史・26」以来、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に「結婚式の時に、夏音文字の卜占(うらない)で禁じられていた約束を破って伊耶那美命は先に伊耶那岐命を「阿那邇夜邇志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを/なんとまあ、すばらしい男性でしょう)」と称(たた)えて、“国作りの柱を〔愛〕としましょう”と唱えた」と記述されている箇所が、【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわしていることを証明してきた。
 わがブログ「真実の日本国誕生史・2」で詳細に解説し証明したように、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話には――倭女王・壱与(いよ/『魏志』倭人伝に登場する伊耶那美命の夏音文字による名前)の没後に倭女王に就任した天照大御神は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して、多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓つまり和歌山県東牟婁郡本宮町に所在する熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に埋める残虐な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。この徇葬に立腹して伊耶那岐命・載斯烏越(そしあお/『魏志』倭人伝に登場する伊耶那岐命の夏音文字の名)がクーデターを決行して、伊耶那岐命軍は熊野速玉大社の境内(和歌山県新宮市)にて倭の大軍を撃破した。倭女王から失脚した天照大御神は捕虜となって千引石(ちびきのいわ/現在の和歌山県新宮市に所在する神倉神社のご神体の“ごとびき岩”)の前に連行されて伊耶那岐命と向かいあったとき、天照大御神は「汝の国の【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人草(ひとくさ/人民たち)の母親たちの産道が狭くなるように呪(のろ)って、一日に必ず生まれてくる子どもたちの千人ずつの頭を絞()め殺す」と誓った。伊耶那岐命は「お前がそうするならば、吾は一日に必ず千五百の産屋(うぶや)が立つようにする」と誓い、亡き伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する政事(まつりごと)をおこなうことを決意した――という、大和朝廷にとって極めて不都合な歴史が記載された。
 ただし、朝廷が「天照大御神を讃える偽書を作成せよ」と命令するため、編纂スタッフは「天照大御神」の名を「伊耶那美神命(いざなみのかみのみこと)」と表記する方法で偽書を作成したということにして、『古事記』献呈の許可を願った。しかし名を偽(いつわ)っても「伊耶那美神命=皇祖(こうそ)の天照大御神」であったゆえ、朝廷は反逆の史書『古事記』の献呈を却下(きゃっか)した。「伊耶那美神命」の正体は「天照大御神」であったーーこの事実は、天照大御神(伊耶那美神命)と伊耶那岐命が誓いあった千引石の前の空洞(くうどう)には神倉神社の社殿が建てられ、神倉神社は天照大御神を主祭神として祀る。だから、「伊耶那美神命」は「天照大御神」であったのである。そして、クーデターを成功させた伊耶那岐命は『古事記』中巻に記載された第9代開化天皇であった。

◆皇室は、強大な権力を手に入れて大和朝廷の基礎を築いた天照大御神を最も偉大な先祖「皇祖」と定めて崇拝した。上記したように、天照大御神は『古事記』上巻に伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「残虐な徇葬を陣頭指揮した伊耶那美神命」であり、千引石の前で伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を呪い祟(たた)った。
 したがって、朝廷は天照大御神の聖性を汚す反逆の史書『古事記』の抹殺(まっさつ)に躍起(やっき)となった。712年に成立した『古事記』の8年後の720年に出来上がった『日本書紀』は天皇から献呈の許可を得るために天照大御神の聖性を汚す史実の記述を躊躇(ちゅうちょ)した。このため編纂スタッフにとって失敗作であった『日本書紀』は朝廷にとっては好都合な書物であったゆえ、朝廷は『日本書紀』を正史と定め、『日本書紀』の成立直後から10世紀の平安時代中期までの約250年間、『古事記』序が解説する「漢字は文字作成銀河から作られた事実」をより厳重にして隠し、上巻の記事を誤読化する研究言いかえると講書(こうしょ)を頻繁(ひんぱん)におこなった。この講書(『古事記』上巻に対する、学者たちも参加した歴史の捏造工作の研究)によって成立した虚偽解釈は9世紀にあって仏教を栄えさせるために朝廷に協力して隠ぺい工作を加担(かたん)した天台宗や真言宗に受け継がれ、さらに近世の本居宣長(もとおりのりなが/17301801)へと受け継がれた。これゆえ本居宣長は〔『古事記』上巻の誤読解釈〕の頂点に立つ『古事記伝』を著作することになった。
 このような宣長が著した『古事記伝』をテキストするため、現在の学者たちは安万侶が『古事記』序で「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば、『古事記』上巻に記述された歴史を知ることができる」という警告を無視する。このため、現在の学者たちは誰一人、自分の意見が正真正銘の100パーセントの誤読の産物であることにまったく気づかない。
 歴史学においては、文献史料の記述は誤読してはならない。この歴史学の鉄則に則(のっと)れば『古事記』序は「漢字は銀河から作られた」と説明するものであったことになる。したがって、『古事記』序はーー『古事記』上巻は朝廷にとって不都合な歴史を書いた史書であり、また「漢字は文字作成銀河から作られた古代学芸」の基(もと)に真実の歴史を語る書物であったーーと伝えていたことになる。

◆前述したように、日本国は、呉軍が東鯷人国遠征を決行した黄竜二年(西暦230)頃から起源した。この歴史は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述されている――と明確に詳細に示す施設は、わがブログ「真実の日本国誕生史」の23回~前回(27)まで詳細に解説して証明したように、桂離宮の庭園である。桂離宮は、京都市西京区桂に所在する皇室関連施設であり、皇室は「漢字は文字作成銀河から作られた事実」を大嘗会(だいじょうえ)が本格的に復興された1738(元文3)まで確実に知っていた。その証拠に1623(元和9)から1645(正保2)までに作られた桂離宮の庭園は『古事記』序が解説する「漢字は文字作成銀河から作られた事実」にもとづいて作成された。この秘密は、下に示す庭園の平面図に明確に示されて現在も失われずに残っている。

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▲桂離宮庭園の平面図

 徳川家康は駿府(現在の静岡市)の今川家で人質生活を送った8歳から14歳まで、今川義元の軍師・大原雪斎(だいげんせっさい)から、『古事記』上巻と『魏志』倭人伝に記述された〔学問=夏音文字の学芸〕を厳しく教育された。この少年期において、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に記述された【黄竜二年(230)から始まる日本国誕生史】を復興したいという願望を抱くようになり、この願望は家康の生きる原動力となって臨終間際まで願い続けた。しかし、この家康の夢は実現しなかった。ゆえに、家康の夢を受け継いだ将軍秀忠と徳川幕府は小堀遠州に桂離宮の庭園作りを命じ、家康の死から7年後の1623年から遠州は作庭を開始した。だから、桂離宮の庭園の平面図は『古事記』序において太安万侶が「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀河(文字作成銀河)の形状に変換すれば『古事記』上巻に記述された歴史が明らかになる」という警告にもとづいて設計された。
 遠州が作庭を開始した時の天皇は、学問つまり「漢字は文字作成銀河から作られた学芸」と詩歌に関心が深い後水尾(ごみずのお)天皇(16111629年に在位)であり、 162911月から上皇となった。幕府の干渉(かんしょう)と抑圧(よくはつ)に反発する上皇は抵抗して、遠州が存命中、桂離宮に一度も御行幸(みゆき)して庭園を見学しなかった。上皇は遠州より長寿で、1680年・85歳で崩御した。
 小堀遠州は、京都市の伏見奉行屋敷にて1647年に69歳で死去した。
 遠州没後――後水尾上皇が指示して京都市左京区修学院の比叡山山麓の高台に所在した仏刹(ぶっさつ)の修学院(しゅうがくいん)跡に、1653(承応2)から1655(承応4)に離宮を造営するや、その直後(同年の1655年・明暦元年)にすかさず将軍・家綱(いえつな)と徳川幕府は修学院離宮の広大な敷地内に強引に上御茶屋(かみのおちゃや)と下御茶屋(しものおちゃや)の庭園の造営を開始して1659(万治2)に完成させ、家康が少年期から抱いた夢の実現を図った。
 
A図に修学院離宮の庭園平面図を示した。

S731
(C) 2017 OHKAWA
 
 修学院離宮の上御茶屋は、巨大な人工池の浴竜池(よくりゅうち)を中心とした壮大な庭園である。A図右上の「浴竜池の平面図の形」は(1)『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に登場する「久美度邇興して」という語句をあらわした。また、「浴竜池の平面図の形」は(2)「黄竜二年頃から日本国は起源したとあらわす銀河の形状」をも模(かたど)っていた。
 「天皇」あるいは「天子」という語は「天にある文字作成銀河各部の形状が文字となる学芸に精通した大王」と意味した。だから、家康の夢を実現するために徳川幕府は、後水尾上皇が【日本国誕生史】をあらわしていると察知するにちがいない平面図で設計される浴竜池を強引に作成したのである。

◆修学院離宮に“上皇を慰める”という名目で上御茶屋を強引に作る徳川幕府の必死さに圧倒された後水尾上皇は、上御茶屋が造営中であった1658(万治元)、上皇は故・小堀遠州が作庭した桂離宮に初めて御幸(みゆき)なされた。上御茶屋が完成した4年後の1663(寛文3)3月と11月にも、上皇は桂離宮に御幸なされている。この3回の御幸で、上皇は修学院離宮の「浴竜池の平面図」は(1)「夏の銀河の西南部」と(2)「久美度邇興して」という語句を模るものであることを確認したことになる。
 B図に示す「巨龍の銀河」と「夏の銀河の西南部」が「黄竜」の元号をあらわす。
S732
(C) 2017 OHKAWA
 
 下の写真に示すように、夏の銀河の西南部は黄色く輝く。だから、「黄色に輝く夏の銀河の西南部」は[]、「巨龍の銀河」が[]をあらわして呉の元号「黄竜」を示した。
Photo_3
 ▲黄色く輝く「夏の銀河の西南部」

 C図に示すように、[][]の位置は対称的になるが、上図の「巨龍の顔と首の銀河」がある「夏の銀河の西南部」は下図の「浴竜池の平面図の形」に相似する。
S733
(C) 2017 OHKAWA
 
 上皇が住む「京都御所・皇居」は「内裏(だいり)」という。「内裏」の語源は「ある銀河の部分の形に相似する地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)を内側に裏返しにする思考方法」であった。というのも銀河各部の形状は〔南〕を正面とするために「右西・左東の形式」が定式となるが、地図は〔北〕を正面とするため「右東・左西の形式」となって対称的となったからである。したがって上皇が精通した「学問=文字作成銀河から漢字が作られた学芸」においては、D図の上図に示すごとく浴竜池の平面図を「内側に裏返しする思考」、つまり「内裏の思考」は「叡智(えいち)」とされた。
 D図に示すように、「浴竜池の平面図」は「黄竜」の元号をあらわす「夏の銀河の西南部の形状」を模(かたど)るものであった。

S734

(C) 2017 OHKAWA
 
◆『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に登場する伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した式場は、前述したように、E図に示す静岡県沼津市の東熊堂に所在する高尾山古墳であった。
S741
(C) 2017 OHKAWA
 
 高尾古墳は2008年に発見され、東日本における最古で最大の前期古墳である。この古墳は一般的な「墓」ではなく、足高山・蓬莱山(現在の愛鷹山)を祀る封土(ほうど/盛り土)であった。というのも、黄竜二年に小国・日本へ遠征しようとした1万の呉の水軍は台湾沖で8割から9割の兵を失って壊滅したが、懲りずに必ず呉の水軍は小国・日本へ来襲するにちがいないと卑弥呼王朝と日本軍は思い込んだために、足高山・蓬莱山には日本軍の防衛一大基地が設営されたからである。というのも、足高山は『後漢書(ごかんじょ)』倭伝に「紀元前3世紀、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)に神仙(仙人)の不老長寿の霊薬を求めて来るようにと命じられた徐福(じょふく)と数千人の青年男女一行が目指した」と記述された「蓬莱山」であったからである。ゆえに、卑弥呼王朝も日本軍も呉の遠征軍が有する小国・日本(旧東鯷人国)に関する情報を推理して、呉の遠征軍は徐福一行が渡来目的とした蓬莱山を目指す確率性が最も高いと推断した。これゆえ、蓬莱山・足高山に日本軍の防衛一大基地が設営された。(なお、わがブログ「真実の日本国誕生史・22」で、沼津市の「現在の愛鷹山(旧足高山)」が「徐福一行が目指した蓬莱山」であったことについて詳細に解説し証明した)
 また、足高山・蓬莱山は「日本軍の守護神となった巨大な呪力を有する地霊が棲()む聖山」となった。前述したように、「足高山・蓬莱山」は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は「久美度邇興して」という語であらわされた。「久美度邇興して」の[]の字源は「灸に見立てられた富士山」、[]もまた
「美しい富士山」、「度邇」はつまり「度(わた=渡)る、東邇(ひがしに)」であった。[興]の字源について、わが国の中国古代漢字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統(じとう)』(平凡社発行)は「地霊をよび興すことをいう。まず地霊を祀る」と解説する。ゆえに、「久美度邇興して」は「蓬莱山・足高山が北北西にある日本列島で最も巨大で重い富士山を東の蓬莱山・足高山の稜線(りょうせん)にくっ付くように移動させる神秘的な地霊による風景」を意味した。
 だから、「久美度邇興しての風景」は、F図に示す呉の遠征軍と戦う東日本・日本軍の守護神となった。

S742
(C) 2017 OHKAWA
 
 G図に示すように、日本一巨大の山の富士山は蓬莱山・足高山の北北西に位置する。しかし駿河国と伊豆国の境界線となる伊豆西端より東側の小国・日本では、G図の中央に示すように、なんとも神秘的なことに! 日本一巨大な重い富士山が東に渡って(移動して)蓬莱山・足高山の稜線にくっ付く。
S78b2
(C) 2017 OHKAWA
 
 G図中央の絵「久美度邇興して」の風景写真を、下に示した。

A

▲伊豆・駿東郡清水町の蓬莱山・足高山の稜線にくっ付く富士山

 H図に示すように、「内裏」の語源にとる「浴竜池の平面図」は「久美度邇興しての風景」を模(かたど)って作られた。
S744
(C) 2017 OHKAWA
 
 そして、I図の上図の「銀河の中心方向からさそり座α星までの三角形状の飛び立つ鳥のような形をした銀河」は下図の「東へ渡る富士山」をあらわし、また上図の「胎児の姿に似る銀河」は下図の「蓬莱山・足高山」をあらわし、「巨龍の銀河の顔と首の銀河」は「浮島沼や駿河湾」をあらわした。

S745

 
 だから、(1)「夏の銀河の西南部」と(2)「久美度邇興して」という語句によって、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は「黄竜二年頃に日本国は起源した(B図参照)。伊耶那岐命と伊耶那美命は蓬莱山・足高山の麓の浮島沼東方の高尾山古墳で結婚した(I図参照)。云々(うんぬん)」と記述するものであったことが、一気に明らかになる。これゆえ、一度も小堀遠州が作った桂離宮の庭園を見学しない後水尾上皇に徳川幕府は我慢(がまん)できなくなって、強引に(1)「夏の銀河の西南部(D図参照)」と(2)「久美度邇興して(H図参照)」の両方を平面図であらわす浴竜池を上御茶屋に作成したのである。 
 現在は街の照明などで夜空が明るくなる「光害」の影響で日本では約7割の人々が肉眼で銀河は見られないが、その昔は夜となれば日本国全土の南天に巨大な「夏の銀河の西南部」が黄色く輝いていた。ゆえに『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話を朝廷が誤読化した講書解釈をもってしても【日本国誕生史】は抹殺することができなかった。上のI図が示すように「夏の銀河の西南部」は「久美度邇興しての風景」を模り「黄竜二年頃から日本国は起源した」と明確に示したからである。また、「久美度邇興して」という語は実際に目撃できる「巨大な富士山が東に移動して現在の愛鷹山の峰の後ろにくっ付く風景」であった。したがって「久美度邇興して」という語によって、『古事記』上巻の淤能碁呂島説話に記述された【日本国誕生史】は一気に詳細に具体的に科学的に解明できる。
 学識者たちは『古事記』序の警告を無視して誤読を自由自在にあやつる空理空論で【日本国誕生史】を排除(はいじょ)するが、【日本国誕生史】は「夏の銀河の西南部」と「久美度邇興しての風景」によって燦然(さんぜん)と輝く真実・真理となる。
 だから我々日本人は、〔誤読〕で真実の【日本国誕生史】を奪って虚仮(こけ)にする学識者たちの意見を「荒唐無稽のデタラメである」と断定できる権利を有する。
 わが国における「科学における不正行為」の最たる事件は、こぞって学識者たちが【科学】に反する【多数の誤読】を用いてねつ造する日本神話説と日本神話に直結する邪馬台国説の両説である。

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