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2017年12月 9日 (土)

真実の日本国誕生史・30

 ●日本建国の〔愛〕の理念の証明・5
■須佐之男命の八雲立つ出雲の〔愛〕の和歌の銀河解説

◆わがブログ「真実の日本国誕生史」は毎回繰り返して証明しているように――『古事記』序を書いた太安万侶(おおのやすまろ)は「文字は銀河から作られた。『古事記』上巻の記事は文字(字源・字形・字義)を銀河の形状に変換すれば歴史が解明できる仕組みになっている」と警告(けいこく)した。
 「銀河」の別称は「銀漢(ぎんかん)」であるゆえ、「銀漢から作られた字」を略して「漢字」と称されることになった。また「天皇」という語は「漢字が銀河各部から作られた学芸に精通する大王」と意味するものであった。だから、「漢字」や「天皇」の語源の秘密にもとづいて、太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』序で「漢字は銀河から作られた。『古事記』上巻の記事に用いられる漢字の字源・字形・字義を銀河の形状に変換すれば歴史は解明できる仕組みになっている」と警告(けいこく)した。
 漢字が銀河から作られた秘密は、漢字作成原理を発明した倉頡(そうきつ)について語られる伝説で示され、『易経』の繋辞(けいじ)上伝・下伝にある記事が伝え、『老子』上篇(道経)第一章~第三十七章の37の各章で説かれ、『魏志』倭人伝にも記述され、上記したように太安万侶が『古事記』序でも説明されている。
 しかし、新井白石(あらいはくせき/16571725)から現在まで学者たちは上記した伝説や古典が伝える「漢字は銀河から作られた」という説明や太安万侶の『古事記』序の説明をまったく理解できない。だから、当然、今日の定説とされる学者たちの『古事記』上巻・日本神話の研究や意見は歴史を解明するものではなく、誤読・誤訳を八重七重(やえななえ)幾重(いくえ)にも重ねた虚妄(きょもう)であり空理空論であったのである。

◆『古事記』上巻における淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話や伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話はじめとするその他の説話もまた、朝廷が抹殺(まっさつ)したい歴史を記述するものであった。
 わがブログ「真実の日本国誕生史・2」で詳細に解説して証明したように、反逆の史書『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――倭女王の伊耶那美命の没後に、朝廷の基礎を築いた皇祖(こうそ)・天照大御神が倭女王に就任した。伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した天照大御神は多数の青年男女たちを犠牲(いけにえ)にして殺して伊耶那美命の墓に埋める残虐きわまりない徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮したため、伊耶那美命を愛した伊耶那岐命がクーデターを決行して天照大御神を倭女王から失脚させた。この時、天照大御神は「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民の母親たちの産道を狭くなるように呪って一日に必ず千人ずつ出産児の頭を絞め殺す」と誓った。この誓いのとおりに伊耶那岐命没後に、強大な権力を手に入れた天照大御神王朝は【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を弾圧して、強大な権力を尊重する政事(まつりごと)をおこなった――と、朝廷が抹殺したい歴史を記述するものであった。
 天照大御神は、夏音文字の学芸を権力基盤にして強大な権力を手に入れた。ゆえに672年の壬申(じんしん)の乱の後の天武天皇から712年の元明天皇までの朝廷は、大和王朝の政権基盤である夏音文字を稍(やや/少しだけ)記載して、夏音文字の学芸に精通した天照大御神を絶賛する偽書の作成を欲求(よっきゅう)した。しかし、『古事記』編纂スタッフは偽書の作成を拒絶して『古事記』上巻に史実つまり天照大御神の聖性を汚す歴史を残すことを企(たくら)んだ。編纂スッタフは〔漢字が銀河から作られた学芸を正確に伝える夏音文字や難解な楷書の語句を利用すれば史実を伝えることができること〕に注目し、重大な史実は夏音文字や難解な楷書の語句や文章を用いて表現した。これゆえ上巻には〔音〕という注を付けた夏音文字が朝廷の欲求「稍(やや)」に反して多数記載されることになった。したがって、〔編纂スタッフの企み〕をあらわして『古事記』序は「古事記 上巻 幷(あわ)せて序」と表記され、『古事記』序を書い太安万侶は「上巻の随所に用いて多数記載した夏音文字はじめ難解な楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば、真実の歴史を解明できるようにした〕と〔編纂スタッフの企み〕を慎重に用心深く説明することになったのである。
 この〔編纂スタッフの企み〕は献呈した元明(げんめい)天皇に見破られ、712年正月に完成した『古事記』は献呈拒否されて正史になれなかった。その8年後の7205月、天皇から献呈許可を得て正史にするために皇祖・天照大御神の聖性を汚す歴史の記述を躊躇(ちゅうちょ)した『日本書紀』が完成して、元正(げんしょう)天皇が献呈を承認した。『古事記』上巻に記述された真実の歴史を抹殺するため、朝廷は『日本書紀』の成立直後から10世紀半ばまでの約250年間、『日本書紀』を利用して『古事記』上巻が史実を伝える語や文を誤読・誤訳して否定・隠ぺいする研究会を頻繁(ひんぱん)におこなった。この研究会は「講書(こうしょ)」と名づけられ、講書の研究成果は“学問”と偽称(ぎしょう)されることになった。この偽りの学芸は、9世紀にあって仏教を栄えさせるために朝廷に協力して隠ぺい工作を加担(かたん)した天台宗や真言宗に受け継がれ、さらに近世の本居宣長(もとおりのりなが/17301801)へと受け継がれた。これゆえ、宣長は『古事記』上巻の誤読・誤訳解釈の頂点に立つ注釈書『古事記伝』を著作することになった。『古事記伝』は『古事記』序で太安万侶が「文字を銀河各部の形状に変換すれば、上巻に記述された歴史は解明できる」と説く警告を排除・無視するゆえ、歴史をいっさい解明していない。だから、『古事記伝』は朝廷の講書によって確立された偽りの学芸を受け継ぐ注釈書であったことになる。現在の学者たちは宣長が著作した『古事記伝』を絶対的なテキストとするため、太安万侶が『古事記』序で説く〔『古事記』上巻に記述された上古史を解明する方法〕を排除し無視する。でも、〔文献史料の記事を忠実に読解する方法〕は歴史学においては真っ先に守るべき鉄則であるが、新井白石以後から現在まで学者たちは、『古事記』序の警告にまったく耳をかたむけない。だから、歴史学の基礎的ルールに違反する学者たちの『古事記』研究と意見は、当然、虚妄(きょもう)・空理空論となったのである。
 『古事記』序が「歴史が解明できる」と指摘する漢字(夏音文字と楷書)が作られた銀河の範囲を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけた。漢字は下に示す文字作成銀河の各部の形状から作られた。

Ginga
▲文字作成銀河の写真

 漢字が作られた文字作成銀河の各部には名称が存在しないので、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。

Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称

◆『古事記』中巻の第9代開化(かいか)天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた。この天皇が丹波の大県主(おおあがたぬし)で名は由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚して生まれた子は比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)である。また継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚して生まれた子は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと/10代崇神天皇)である」と記述する。
 開化天皇が居住した「伊耶河宮」の先頭2字の「伊耶」は、「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字「伊耶」と合致する。だから、「伊耶那岐命」は「開化天皇」であり、「伊耶那美命」の本名は「正妃の竹野比売」であったことになる。したがって、「竹野比売が生んだ比古由牟須美命」の人民に敬愛された通称の異名(あだな)が『古事記』上巻に登場する「須佐之男命(すさのおのみこと)」であったことになる。
 伊耶那岐命の継母の伊迦賀色許売命は伊耶那岐命・開化天皇の父親となる第8代孝元(こうげん)天皇とも結婚した。伊迦賀色許売命が生んだ崇神(すじん)天皇は〔三貴子(さんきし)の分治(ぶんじ)説話〕に記述された「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」であった。
 そして、崇神天皇=天照大御神の生母の伊迦賀色許売命は、前述した『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する残酷な徇葬を陣頭指揮した倭女王「天照大御神」であった。「徇葬を決行した天照大御」を「天照大御神」と記すと『古事記』は天皇に献呈承認されて絶対に正史になれなかったので、「徇葬を決行した天照大御神」は「伊耶那美命」に「神」の字が加えられて「伊耶那美神命」と表記された。したがって、わがブログ「真実の日本国誕生史・2」で詳細に解説して証明したように伊耶那岐命に離縁された「伊耶那美神命」の正体は「伊迦賀色許売命」であった。ゆえに伊耶那美神命=伊迦賀色許売命もまた息子の崇神天皇と同じく「天照大御神」という異名で呼ばれたことになる。
 『古事記』の崇神天皇紀は〔建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆〕の条において「崇神天皇は、建波邇安王を“庶兄(まませ/異母兄)”と呼んだ」と記す。『古事記』の孝元天皇紀は「建波邇安は開化天皇(伊耶那岐命)の異母弟である。天皇と伊迦賀色許売命が結婚して生まれた子は、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)である」と伝える。この比古布都押之信命は建波邇夜須毘古命の異母弟であった。ゆえに、比古布都押之信命は伊耶那岐命・開化天皇の異母弟であったことになる。伊耶那岐命と天照大御神・伊迦賀色許売命が結婚して〔養子〕となって父子の関係が生まれた時に「比古布都押之信命」という名であった崇神天皇は「御真木入日子印恵命」と改名した。ゆえに、崇神天皇の実父は孝元天皇であり、崇神天皇は開化天皇の養子であり異母弟でもあった。3世紀では「養子になって親子の関係が生まれた」ということをあらわして、「開化天皇が伊迦賀色許売命に結婚して生ませた子は御真木入日子印恵命(崇神天皇)であった」と記したことになる。

◆上記したように、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた伊耶那美命と伊耶那岐命との間に生まれた息子の、人民に敬愛された通称は「須佐之男命」であった。

『古事記』上巻の須佐之男命の八俣(やまた)の大蛇(おろち)退治神話における須賀(すが)の宮説話は――須佐之男命は八俣の大蛇を退治した後、妻の櫛名田比売(くしなだひめ)と新婚を過ごす宮殿を作るべき土地を出雲国に求めて、須賀の地に到着した時に「わが心はすがすがしくなった」と述べて、この地に宮殿を造って住むことにした。ゆえに、この地は「須賀」と云うようになった。この須賀の宮を造った時、その地から雲が立ち上った。その雲を見て大神(須佐之男命)が初めて須賀の宮を作った時に詠()んだ歌は「八雲(やくも)立つ 出雲八重垣(いずもやへき) 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」であった――と伝える。
 この和歌の原文は「夜久毛多都 伊豆毛夜弊賀岐 都麻碁微爾 夜弊賀岐都久流 曾能夜弊賀岐袁」である。
 この和歌は「盛んに入道雲(積乱雲)が立ち上り、湧き出(いず)って母(伊耶那美命)が唱えた【日本建国の〔愛〕理念】をあらわす八重垣となる。吾(われ)は妻をこもらせるために〔愛〕の八重垣で包む宮殿を作ることにした。母が唱えた〔愛〕の八重垣で、妻と過ごす宮殿を包むことにした」と意味するものであったにちがいない。
 和歌の初句の「八雲立つ」の原文は「夜久毛多都(やくもたつ)」、2句・4句・結句(5)の「八重垣」の原文は「夜弊賀岐(やへがき)」であるように、[]という字が用いられる。この[]は「夜に輝く文字作成銀河から文字が作られた」と示すものであったのである。
 その証拠に、「八雲立つ」の[]の字源は、上掲した〔文字作成銀河各部の名称図〕の左上にある、A図に示す「十字の銀河の子宮」であった。
S791

(C) 2017 OHKAWA
 
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は「声符は云(うん)。云は雲の初文。のち雨を加えて雲となった」と解説し、「言う」を意味する[][]の初文つまり最初の文字であったと指摘する。ゆえに、[][]の契文(けいぶんけい/甲骨文字の字形)や古文の字形は同一形である。
 漢字は、紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した倉頡(そうきつ)によって発明された。倉頡は〔文字作成銀河各部の形状を文字とするから漢字作成原理〕を考案した。倉頡は、B図にて解説するように女体に相似する「十字の銀河」を「文字作成銀河から作られたすべての文字を生む母体」と定めた。したがって、[云=雲]の字源「十字の銀河の子宮(に相当する銀河部)」は「文字作成銀河から作られたすべての文字が生まれる子宮」となった。
S792
(C) 2017 OHKAWA
 
 中国でもわが国においても上古の文字(漢字)は専ら(もっぱら)卜占(うらない)に用いる記号や符合であり、日照りが続くと王や女王や巫女(みこ)や覡(かんなぎ/神官)が占(うらな)って雨乞(あまご)いすることになった。このため、卜占において「云う」という行為を代表するものは「万物が生まれる十字の銀河の子宮、すなわち神に向かって雲が出でて雨が降るように云って祈願する、雨乞い」であったため、[云=雲]となったのである。

◆『魏志』倭人伝には「倭の卜占に用いる辞(/文字とことば)は令亀(れいき)の法のごとし」と説明する記事があり、この記事は「夏音文字が倭の卜占に用いる文字は殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に刻んだ甲骨文字(契文)のような字形をしていた」と伝える。夏音文字は紀元前20702050年頃の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国に伝来し習得された。「令亀の法」つまり「卜占に用いた甲骨文字」は紀元前1300年頃に最初に出現したゆえ、わが国は甲骨文字が出現した約750年前に夏音文字を習得していた。夏音文字は倉頡が定めた「書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者には天罰が下されて即刻に死刑に処せられる」という掟を厳重に守る原初漢字であった。この倉頡の掟が原因で、中国でもわが国でも夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。しかし、中国の現存する最古の上古音よりも古い、現在残されているもののなかで最古の漢字音を伝える夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名・官職名に用いられ、また『古事記』上巻に楷書で表記されて多数残った。しかし、1725年に没した新井白石以後から現在までの学者たちは〔多数の誤読〕を加えて、『魏志』倭人伝に記述された〔わが国における夏音文字の習得とわが国に夏音文字が実在した歴史〕を抹殺(まっさつ)した。
 A図の[云=雲]の字源について、“字書の聖典”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は「山川の气()なり。雨に従う。云は雲の回転する形に象(かたど)る」と解説する。白川静著『字統』は[云=雲]の字源を「云は雲気の流れる下に、雲中の竜が尾を巻いている形で、雲中に竜がいると考えられていた」と解説する。
 C図に示すように、「十字の銀河」の西北には〔腕時計の針を動かし、ぜんまいを巻く装置〕の「竜頭(りゅうず)に似る銀河」と「竜の顔に相似して並ぶ星屑(ほしくず)」があり、「十字の銀河」は「竜の身と巻く尾」に見立てられて[()]の字源・字形・字義となった。
S793

(C) 2017 OHKAWA
 
 A図に示したように「十字の銀河の子宮」が[]の字源となり、C図の[()]の字源における「竜の尾」は「十字の銀河の子宮」の辺りで巻くことになるゆえ、白川静著『字統』は[云=雲]の字源を「雲中の竜が尾を巻いている形」と解説することになったのであろう。
 上掲した〔文字作成銀河各部の名称図〕に示したように、「文字作成銀河」の右下は「夏の銀河の西南部」である。
 A図の字源銀河の他に、D図に示す「夏の銀河の西南部」と「夏の銀河の西南部内の巨龍の銀河の顔から尾(わし座α星・彦星)までの銀河」もまた[云=雲]の字源銀河であった。
 D図の字源銀河の形状は、『説文解字』の「云は雲の回転する形に象る」という解説に合致し、白川静著『字統』の「雲中に竜がいると考えられていた」という解説にも合致する。
S794
(C) 2017 OHKAWA
 
◆上掲した「文字作成銀河」を撮影した藤井旭氏はわが国の天体写真家の第一人者とされる。藤井氏は多数の本を著作し、『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社発行)において藤井氏は〔夏の銀河の西南部の形状〕を「いて座附近の銀河」と題して、「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる」と表現する。
 ゆえに、須佐之男命が作った和歌の初句に登場する「八雲」は、D図の[]の字源となった「夏の銀河の西南部」の形状から連想される「入道雲」であった。「入道雲」は「八重七重に幾重(いくえ)にも雲が重なる積乱雲である」ゆえ「八雲立つ」と表現されたのである。
 須佐之男命が須賀の地に到着した夜、視界に入る灯火の光がまったく無い人里離れた当地は真っ暗闇で、[]の字源となったA図の「十字の銀河の子宮」とD図の「夏の銀河の西南部」が鮮烈に燦然(さんぜん)と輝いていた。そして須賀の宮の建築が初めて着工された当日は快晴で、宮殿が作られる地の正面に聳(そび)える標高426mの山の背後には八重に聳える入道雲が湧き立っていた。「この山と背後に湧き立つ入道雲」を、須佐之男命はD図の「夏の銀河の西南部」の形状に相似すると見立てた。ゆえに、この山は「八雲山」と名づけられた。須佐之男命は「八雲山」を「宮殿を守る垣根」に見立てて「出雲八重垣」と詠み、八雲山の麓に作る宮殿と宮殿を囲み包む垣根(かきね)を想像して「妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」と表現したと考えられる。
 わがブログ「真実の日本国誕生史」の19回はじめ23回・24回・25回・28回・29回などにおいて、E図に示した『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話末部に登場する「久美度邇興(くみどにおこ)して」という語を解説した。
S801

(C) 2017 OHKAWA
 
 E図中央に示す静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳で伊耶那岐命と伊耶那美命は結婚した。高尾山古墳は、2008年に発見された東日本における最大で最古の前期古墳である。高尾山古墳は蓬莱山(ほうらいやま)・足高山(あしたかやま/現在は「愛鷹山(あしたかやま)」と表記される)の麓に所在する。蓬莱山(足高山)の「蓬(ヨモギ/キク科の多年草)」の葉の裏面の白い綿毛(わたげ)から、お灸(きゅう)して療治する時に用いられる艾(もぐさ)が作られる。「富士山」は「艾に火をつけた灸」に見立てられて、[]の初文(最初の文字)[]という字で表示された。[]はもちろん「富士山」を「美しい霊峰」と称賛するものである。「度邇」はE図の上部の矢印が示すように「蓬莱山・足高山の北北西に所在する日本一巨大な富士山が、東邇(ひがし)にある蓬莱山・足高山に峰の後ろにくっつくように度(わた=渡)る」と意味した。「興して」の[]の字源を白川静著『字統』は「地霊をよび興すことをいう。まず地霊を祀(まつ)る」と解説する。だから「西にある日本一巨大で重い富士山を足高山が自分のほうに引き寄せて、足高山の峰の後ろに移動させる地霊と風景」は「久美度邇興して」と表現されることになったのである。この神秘的な「久美度邇興しての風景」は高尾山古墳が所在する駿河・沼津市では目撃できないが、駿河に隣接する伊豆西端・静岡県駿東郡清水町からは目撃できる。ゆえに、須佐之男命が作った和歌の2句「伊豆毛夜弊賀岐」には「伊豆」の2字が配されことになったのであろう。

A
 ▲実際に目撃できる、西にある富士山が東の蓬莱山・足高山の峰に後ろに移動する「久美度邇興しての風景」(伊豆の西端の駿東郡清水町から撮影)

◆わがブログ「真実の日本国誕生史・28」の末部でも証明したが、F図に示す[]の字源「夏の銀河の西南部」の形状は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話末部に登場する「久美度邇興しての風景」に合致すると見立てられた。
S802

(C) 2017 OHKAWA
 
 八雲山の山頂からは、島根半島や宍道湖(しんじこ)、中海(なかうみ)の絶景が一望できる。
 だから、須佐之男命は八雲山の峰の後ろの島根半島や宍道湖、中海がある北側にて八重に積みあがる入道雲を見て、「入道雲」をF図に示した「久美度邇興しての風景」における「久美」となる「富士山」に見立て、したがって「八雲山」は「度邇興して」の「蓬莱山・足高山」相当すると感動して、「八雲立つ……」と詠む和歌を作ったにちがいない。
 というのも、富士山は北緯352138秒であり、須賀の宮は北緯2114秒で、両者の緯度差はわずか24秒であるゆえ同緯度であるからである。須佐之男命は当地に到着した夜、燦然と輝く天頂にめぐってきた銀河部を測量して〔富士山と須賀の地が同緯度であること〕に気づいた。ゆえに、思わず「わが心はすがすがしくなった」と述べたのであろう。
 上記した『古事記』上巻の須佐之男命の須賀の宮説話の続きは、下記のごとくである。
 「須佐之男命は和歌を作ると、櫛名田比売の父親の足名椎神(あしなづちのかみ)を呼びよせて『おまえをわが宮の首長(おびと)に任命しよう』と仰せられ、また稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)という名を与えた。
 そこで、須佐之男命は櫛名田比売を以て久美度邇起(くみどにおこ)して、つまり母の伊耶那美命が「久美度邇興しての高尾山古墳」で結婚する時に唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する国土生みを櫛名田比売と共に須賀の地から起源することにした。」
 わがブログ「真実の日本国誕生史」は1回以来繰り返して、日本国(小国・日本)の範囲はG図に示す東日本であったと証明してきた。
S803


 上記したように、淤能碁呂島聖婚説話末部は「久美度邇興して」と記すが、須賀の宮説話では「久美度邇起して」と「興して」を「起して」と記す。
 E図・F図に示した日本国の西端・駿河に築造された高尾山古墳は、富士山を西から東へ移動させる地霊を有する「久美度邇興しての蓬莱山・足高山」を祀(まつ)る封土(ほうど/盛り土)であった。ゆえに、「須佐之男命の母・伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐ、山陰出雲地方における国土生みの起源」は、須賀の宮伝説では「須賀の宮と富士山は同緯度である」ゆえ「久美度邇起して」と記されたのである。つまり、「久美」は「富士山」、「度邇」は「富士山と同緯度」、「起して」は「起源する」と意味したことになる。
 山陰出雲の島根県雲南市大東町須賀260に造られた須賀の宮、現在の須我(すが)神社はもちろんG図に示した日本国の地に鎮座する宮殿ではない。しかし、須我神社はG図に示した日本国で伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を山陰出雲で起源させる宮殿であった。だから須賀の宮=須我神社の別名は「日本初之宮(にほんはつのみや)」と呼ばれることになったのである。

◆伊迦賀色許売命(倭迹迹日百襲姫命)・崇神天皇の天照大御神母子は(1)伊耶那美命と【日本建国の〔愛〕の理念】、(2)伊耶那岐命・開化天皇、(3)山陰出雲に居住した伊耶那美命の息子の須佐之男命、(4)伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民たちを憎悪した。要するに、倭迹迹日百襲姫命・崇神天皇母子は〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部〕に記述されたように「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する母親たちの子たちの頭を一日に必ず千人ずつ狭い産道で絞()め殺す」と呪(のろ)い祟(たた)る政策をおこなって、強大な権力を手中におさめる王朝を創設して大和王朝の基礎を築いた。
 この様子を伝えて、『日本書紀』の〔崇神天皇の六年〕の記事は下記のごとく記述する。
 「人民(百姓)が流離(りゅうり)するものたち、あるいは反逆するものたちがあり、その勢いは徳をもって治めようとしても困難であった。それゆえ朝夕、天皇は天神と地祇(ちぎ)に祈った。これより先に天照大御神と倭大国魂(やまとのおおくにたま)の二柱の神を、天皇の御殿の内にお祀(まつ)りした。ところが二柱の神は、それぞれの神の勢いを畏(おそ)れ、ともに一社殿で祭られることを嫌った。そこで、天照大御神には豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)をお付けになって、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀ることにして、「磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろき)」つまり「天皇が居住する宮殿・磯城(しき)の瑞籬宮(みずかきみや)を守護する祭場」を造った。また、日本大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)には、渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)をお付けになって祀った。ところが渟名城入姫命は、髪がぬけ落ち、身体が痩()せ細って祀ることができなかった。」
 崇神天皇は天照大御神を熱心に祀っていたゆえ「天照大御神」という異名で呼ばれ、生母の伊迦賀色許売命(倭迹迹日百襲姫命)も天照大御神を尊び祀るものであったゆえ「天照大御神」という異名で呼ばれることになったのである。崇神天皇の生母・伊迦賀色許売命は【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・恨み・呪詛(じゅそ)した。ゆえに、彼女が祀る天照大御神は呪詛・祟りの神となった。崇神天皇は御殿で天照大御神を祀ると王朝に呪詛・祟りの危害が及ぶと心配して、御殿の外の磯堅城の神籬で天照大御神を祀ることにしたのである。
 前述したように、須賀の宮の別名は「日本初之宮」である。ゆえに、上記した『日本書紀』の〔崇神天皇の六年〕の記事では前半で「倭大国魂」と記された神の名は、後半では「日本初之宮」にもとづいて「日本大国魂神」と記されることになったのである。
 だから「倭大国魂」と「日本大国魂神」は「倭地の山陰・出雲にて、【日本建国の〔愛〕の理念】を起源させた須佐之男命を呪い祟るための神」であったことになる。これゆえ須佐之男命の後継者となった出雲王朝の王は「大国主神」と記載されたのである。ゆえに、日本大国魂神を祀る巫女の渟名城入姫命は毒を盛られたのであろう、髪が抜け落ち体が痩せ細って祀ることができないことになったのである。

◆『古事記』の開化天皇紀の末部は「御陵(みはか)は伊耶河の坂の上()に在り」と記す。
 この開化天皇陵は奈良市油坂町に所在する全長が約105mの前方後円墳である。この開化天皇陵は、墳丘(ふんきゅう)規模から、5世紀末から6世紀初頭の時期に築造されたと推定されている。というのも、伊耶那岐命・開化天皇はおそらく260年より直前頃に没したであろうが、崇神天皇は養父伊耶那岐命・開化天皇を激しく憎悪するものであったゆえ、開化天皇陵を築造しなかった。だから、開化天皇陵は5世紀末から6世紀初頭の時期に築造されることになったのである。
 『古事記』上巻の〔三貴子の分治説話〕は「伊耶那岐命は養子の天照大御神・崇神天皇を後継者に選んで、天下を譲った」と記す。というのも、伊耶那岐命は伊迦賀色許売命を憎悪してクーデターを起こし、伊迦賀色許売命と息子の崇神天皇はこのクーデターを怨(うら)んで復讐を誓うものであったゆえ、この憎悪の連鎖(れんさ)を断ち切るために伊耶那岐命は崇神天皇を後継者に選んだことになる。だから、崇神天皇は復讐の怨念(おんねん)を断って開化天皇陵を築造しなければならなかったのであるが、復讐の炎を消すことができなかった崇神天皇は養父の開化天皇陵を築造しなかった。
 学者たちは「崇神天皇紀からは歴史と言える。しかし開化天皇陵は3世紀に築造されるものでないから、開化天皇紀は歴史を伝えるものではない」と主張する。しかし、開化天皇は伊迦賀色許売命と崇神天皇に激しく憎悪されるものであったゆえ、この点を注目すれば一変して「開化天皇紀は明確に歴史を伝えている」ことになる。

 以上のごとく、『古事記』序が説明する歴史解明方法に従えば『古事記』上巻の記事は【科学】が成立して歴史が一気に解明できる。他方、(1)『古事記』序の警告を無視し、(2)西欧近代科学の合理思考の致命的欠陥の傲慢な単純化に憑()りつかれ、(3)朝廷が約250年間も継続して研究した講書によって確立された偽りの学芸を受け継ぐ誤読・誤訳解釈を正しいと信じ込む、この三種の誤りの方法を合体させるパラダイム(立論方法)をもって主張する現在の定説となる学者たちの研究と意見は歴史をまったく解明するものではない。
 2000年に起きた考古学者・藤村新一が犯した「旧石器発掘ねつ造事件」は、わが国における「科学における不正行為」の代表例とされる。この事件にはるかに超えて「科学における不正行為」の最たる大事件は、学識者たち一同が『古事記』序が説く歴史解明方法を排除して、上記した三種の誤りを合体させる方法で『古事記』上巻に記述された【日本国誕生史】をはじめ数々の真実の上古史を抹殺して平然と“学術である”と主張する行為である。学識者たち一同の「日本神話ねつ造事件」と日本神話に直結する邪馬台国説は【多数の誤読を用いてねつ造した空想】であり、日本民族を心底から侮辱する空理空論だったのである。

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