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2017年12月14日 (木)

真実の日本国誕生史・31

 ●日本建国の〔愛〕の理念の証明・6
■【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える破砕鏡
 
◆わがブログ「真実の日本国誕生史」は1221回までで、A図に示す静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくもんどう)に所在する高尾山(たかおさん)古墳は墓ではなく、【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える封土(ほうど/盛り土)であることを詳細に科学的に具体的に証明した。
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(C) 2017 OHKAWA

 2008年に発見された東日本(小国・日本)における最古で最大の前期古墳の高尾山古墳は、『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚(おのごろじませいこん)説話に登場する伊耶那岐命と伊耶那美命が結婚した式場であった。この結婚式で、『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部に記述された独立国家の東鯷人(とうていじん)国は滅亡して、倭女王卑弥呼が統治する倭国に属する小国となり、「日本」と国号が改められた。
 B図に、倭国と新生小国・日本(旧東鯷人国/通称「東日本」)の範囲を示した。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 伊耶那美命は、高尾山古墳における結婚式において「小国の日本の国作りの柱を〔愛〕にする」と唱えた。これを、わたくしは【日本建国の〔愛〕の理念】と名づけることにした。
 『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話は――結婚式において定められた約束に違反して伊耶那美命は伊耶那岐命より先に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを/なんとまあ、すばらしい男性でしょう)」と述べた。これゆえ仕方なく伊耶那岐命は「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやしえをとめを/なんとまあ、美しい乙女だろう)」と伊耶那美命を讃(たた)えた後に、「女が男より先に唱えたのはよろしくない」という言葉をつけ加えて批判した――という記述で、【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える。
 淤能碁呂島説話冒頭の――ここに天(あま)つ神諸々(もろもろ)の命(みこと)()ちて、伊耶那岐命・伊耶那美命二柱の神に「このただよへる国を修理(つく)り固め成せ」と詔()りて――という文は、「卑弥呼王朝をささえる体制者の面々は、伊耶那岐命と伊耶那美命に小国・日本に赴任して、(黄竜2年=西暦230年に東鯷人国遠征を決行した呉の1万の水軍は台湾沖で8割から9割の兵士を失って壊滅したが、呉は人口を増やさんがために必ずや小国・日本(東鯷人国)の人民狩りをおこなうにちがいないゆえ)、大海を迷い漂う船のごとくきわめて不安定の国土の状況を安定するようにせよと命令した」と意味した。したがって、伊耶那岐命と伊耶那美命の高尾山古墳における結婚式は、呉の遠征軍の襲撃にそなえる小国・日本の防衛のために行われるものであった。
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注 わがブログ「真実の日本国誕生史」の9回の後半部で詳細に解説したように――208年に中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いがあり、80万の曹操(そうそう)がひきいる魏の大軍は、孫権(そんけん)がひきいる2万の呉の水軍に一夜にして撃破された。それから22年後の230年、『三国志』呉書孫権伝が記述するように、呉の皇帝となった孫権は1万の水軍に東鯷人国(小国・日本)への遠征を命じたが、台湾沖で呉の水軍は壊滅した。東鯷人が往来できた大海の海は呉軍には往来できないことを知った孫権は、二度と日本列島への遠征をおこなわなかった。しかし、卑弥呼王朝は必ずや呉軍は再度遠征するにちがいないと思い込んだために、小国・日本国が誕生したのである。)
 呉の遠征軍との勝利の易卜(うらない)において、小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命が先に伊耶那美命を讃えれば、伊耶那美命は小国・日本軍の先頭に立って呉軍の呪的(じゅてき)戦力を奪う魔女になると――定まっていた。他方、伊耶那美命が先に伊耶那岐命を讃えると、軍王の伊耶那岐命は伊耶那美命が愛する夫になって〔愛〕をあらわすことになると――倭の易卜では定まっていたのである。

 だから、淤能碁呂島聖婚説話は「小国・日本における結婚式において、伊耶那美命は【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた」と記述するものであったことになる。

◆上記した【日本建国の〔愛〕の理念】を具体的に証明できる史料が、C図に示す高尾山古墳の後方墳中央の主体部から出土した。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 高尾山古墳の主体部から、D図に示す破砕鏡(はさいきょう)1面、勾玉(まがたま)1点、鉄の槍が2点、鉄の鏃(やじり/矢の先端)32点、槍鉋(やりかんな/木材の表面を平らにする大工道具)1点、主体部に埋められた木の箱の中から出土した。また、その墳丘内(周溝や古墳周囲や主体部)から、呉の黄竜2年=230年頃に作られた約2,000点におよぶ大量の土器が発掘された。
 D図に示す銅鏡は「上方作系浮彫式獣鏡(しょうほうさくけいふちょうしきじゅうたいきょう)」と呼ばれる形式で、破砕した欠損箇所には「仙人」の絵柄があった。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 学者たちの上方作系浮彫式獣帯鏡の研究成果にもとづいて、沼津市教育委員会はD図に示すように、その4つの絵柄は「鹿」「虎」「鳥」「羽人」をあらわすものであると発表した。また、上方作系浮彫式獣帯鏡には「上」「宜()」、「竟(きょう)」という文字の一部が読みとれることができた。上方作系浮彫式獣帯鏡は中国で製作されたもので、2世紀後半頃(中国の後漢時代)に作られた。日本国内ではこれまでに50例近く見つかっている。高尾山古墳の主体部から出土したD図の鏡は、破片が散らばった状態で見つかったゆえ、〔意図的に壊された破砕鏡〕であると考えられている。

◆学者たちの研究によってD図の右上の「鹿」と「虎」をあらわすと指摘された絵柄は、よく見ると〔鹿〕や〔虎〕の姿を表現するものではない。その右下の「鳥」の絵柄と同様に、「鹿」と「虎」の絵柄は〔水面に浮かぶ鳥の形〕をしている。
 上方作系浮彫式獣帯鏡の「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵柄は、E図に示す中国海岸線を表示するものであったのである。
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 F図に示すように、「廟島(びょうとう)列島」は「オス鹿の角(つの)」に見立てられ、「山東(さんとう)半島」は「オス鹿の横顔」に見立てられた。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 ゆえに、E図に示したように「山東半島・廟島列島」の破砕鏡にある文字の「宜」、つまり「地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」は上方作系浮彫式獣帯鏡の〔水鳥〕の絵柄にして「鹿」と、学者たちに指摘されることになった。つまり、「鹿=山東半島・廟島列島」は「水(大海)に浮かぶ陸地」と見立てられて〔水鳥の形〕に図化されたのである。
 わがブログ「真実の日本国誕生史」において毎回繰り返して証明しているように――『古事記』序を書いた太安万侶(おおのやすまろ)は「文字は銀河から作られた。『古事記』上巻の記事は文字(字源・字形・字義)を銀河の形状に変換すれば歴史が解明できる仕組みになっている」と警告(けいこく)した。また、安万侶は『古事記』序の冒頭で「中国の夏代(かだい)初頭(紀元前2070~同2051年頃の後期縄文時代初頭)、わが国には夏音(かおん)文字が伝来した」と記述した。夏音文字は書いた文字が用済みになったならば直ちに消して、漢字は銀河から作られた文字である秘密を厳重にまもる原初漢字であった。「卑弥呼」という3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の字音となり、『魏志(ぎし)』倭人伝の人名・小国名・官職名には多数の夏音(夏音文字の字音)が楷書で表記されて残る。また、『古事記』序は「夏音文字」について詳細に説明し、上巻の随所には〔音〕という注が付いて多数の夏音文字が楷書で表記されて残った。
 「銀河」の別称は「銀漢(ぎんかん)」であるゆえ、「銀漢から作られた字」を略して「漢字」と称されることになった。このため、天に多数の文字が実在することになったので、「銀河が輝く夜空」は「天文」と称されることになったのである。また「天皇」という語は「漢字が銀河各部から作られた学芸に精通する大王」と意味するものであった。だから、「漢字」、「天文」、「天皇」の語源にもとづき、太安万侶は『古事記』序において実在した夏音文字について詳細に説明したのである。
 漢字が銀河から作られた秘密は、漢字作成原理を発明した倉頡(そうきつ)について語られる伝説で示され、『易経(えききょう)』の繋辞(けいじ)上伝・下伝にある記事が伝え、『老子』上篇(道経)第一章~第三十七章の37の各章で説かれ、上記したように『魏志』倭人伝にも記述され、また太安万侶が『古事記』序でも説明している。
 しかし、新井白石(あらいはくせき/16571725)から現在まで学者たちは上記した伝説や古典が伝える「漢字は銀河から作られた」という説明や太安万侶の『古事記』序の説明をことごとく排除した。だから、当然、学者たちが「わが国が、最初に漢字を習得したのは5世紀か6世紀頃である」と主張する定説は〔誤読の空理空論〕であったことになる。

◆『古事記』序が「歴史が解明できる」と指摘する漢字(夏音文字と楷書)が作られた銀河の範囲を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけた。漢字は下に示す文字作成銀河の各部の形状から作られた。

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 ▲文字作成銀河の写真

 漢字が作られた文字作成銀河の各部には名称が存在しないので、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。

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 ▲文字作成銀河各部の名称

 再度、E図を見ていただきたい。E図に示した「鹿」「虎」「鳥」と解釈された「中国の海岸線」について、紀元前5世紀に成立した『易経』繋辞上伝にある記事は「易は天地に準(なぞら)う。ゆえに能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯()してもって地理を察す」と伝える。
 高田真治・後藤基巳(もとみ)訳者『易経()(岩波書店発行)は、上記した文中に登場する「弥綸」という語を「つくろいおさめる。洩れなく包(つつ)みこむ」と訳する。E図に「鳥」と記した「中国海岸線は中国の国土大陸を洩れなく包みこむ」ゆえ、「弥綸す」という語をあらわす。この〔鳥の頭に観える山東半島〕の南北は〔鳥の翼の部分〕となる。この〔鳥の翼に観える山東半島の付け根より南の海岸線〕の、長江の河口となる湾(長江口)から会稽(かいけい)の北に面する湾=杭州湾(こうしゅうわん)にかけての海岸線は、鳥の翼の部分が裂けてやぶれる形となる。しかし杭州湾南岸より南へ続く海岸線はつくろいおさまってなだらかな円弧を描く。だから、「弥綸」は「つくろいおさめる」をも意味したのである。
 前述したF図の「オス鹿の横顔に似る海岸線」は、上記した『易経』繋辞上伝の文中の「天地の道」の内の「地の道」をあらわし、または[]の字源をあらわした。
 G図に「天地の道」のうちの「天の道」、つまり[]の字源となった銀河を示した。
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 []の字源銀河は上掲した〔文字作成銀河各部の名称図〕の左上にある「オス鹿の横顔に似る銀河」であった。[]の字源銀河における〔鹿の角(つの)〕は「十字の銀河」であった。
 紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は、文字作成銀河から漢字を作る学術(方法)を発明した。
 H図は、〔歳差〕という天文現象を利用して五帝時代初頭の中国全土の天頂にめぐってきた銀河範囲を示す図である。
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 陝西省(せんせいしょう)の黄陵(こうりょう)県には現在も黄帝を祀る廟(びょう)と墓とされる黄帝陵がある。H図に示すように、黄帝陵は北緯3536分である。中国の南部にある太湖(たいこ)は北緯31度である。司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀は、五帝時代の中国国土の南限は北緯3130分の揚子江(長江)であったと記述する。3世紀(三国時代)の中国国土の南限は北緯18度、北限は北緯42度ぐらいであった。ゆえに、漢字が発明された五帝時代はもちろん、卑弥呼や伊耶那美命が生存した3世紀においても、G図に示した[]の字源であった「オス鹿の横顔に似る銀河」は中国全土を弥綸していた(洩れなく包みこんでいた)ことになる。
 このブログ「真実の日本国誕生史」シリーズの26回でも指摘したように、黄帝は東洋最古の医学書『内径(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝の医学研究は、三皇時代の前人たちが着手しない中国最初の事業であった。黄帝は女性の生殖(せいしょく)器官と子どもの出産について研究したが、女性の生殖器官や子どもの出産する器官には名がなく、ましてはその名をあらわす文字がなかった。この文字を作るのは、史官(記録官)の倉頡の役目であった。H図に記入したように、中国の天頂にめぐってきた「十字の銀河の西半分」には「乳房」に観える部分や女性生殖器の「子宮」に相当する箇所がある。ゆえに、倉頡は「十字の銀河」を〔子どもを生む母体〕と見立てれば〔黄帝の女性生殖器と子どもの出産の研究〕をあらわすことができることに気づき――文字作成銀河の各部の形状から作られるすべての文字を生む母体は「十字の銀河」、すべての文字は「十字の銀河の子宮」から生まれるという漢字作成方原理を発明した。倉頡が発明した漢字作成原理の名称は倉頡伝説では「鳥獣の足跡」、『古事記』上巻の淤能碁呂島説話では「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)」と7字の夏音文字で示された(この詳細の解説と証明は、わがブログ「真実の日本国誕生史」の17回でおこなった)
 I図に示すように、女性の生殖器官の側身形は「鳥(水鳥)」の姿に相似する。
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 J図に示すように、女性の生殖器官の正面形は「獣の羊」の姿(卵管・卵管膨大部が羊の角、卵巣が羊の耳、子宮が羊の顔、産道が羊の首)に相似する。
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 I図は「鳥」、J図は「獣」、上記したH図における「十字の銀河の子宮」は「十字の銀河の右足」に重なって「足跡」が連想できるので、倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と呼ばれることになったのである。
 出産するときの胎児の頭が骨盤の出口に近づくと、直腸が圧迫される母体は怒責(どせき/いきみ、きばる行為)が発生してまるで虎が吠()えるがごとく大声をあげる。
 上記したE図の「山東半島の付け根から南の海岸線」は〔出産時の母体の腹部〕また〔虎の横顔〕に相似すると見立てられて、D図の破砕鏡の「虎」となったのである。その証拠に、「山東半島の付け根から南の海岸線」は〔鳥の翼〕に観え、また〔大海()の隣り〕となるゆえ、D図の破砕鏡における「虎」の絵柄は「水に浮かぶ水鳥の姿」に図案されたのである。
 K図は、3世紀における高尾山古墳(北緯357)の天頂にめぐってきた[][(カモ)]の字源銀河図である。
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 K図は、上記したG図の[]の銀河範囲(オス鹿の横顔に似る銀河)と合致する。だから、[][]の字源銀河は後漢時代(25220)と三国時代(220280)において中国全土の天頂にめぐってきて、中国全土を弥綸した(洩れなく包みこんだ)
 K図における「長方形の暗黒天体部」は「鳥居(とりい/神社の出入り口にたてる門)」の形に相似する。[][]の字源銀河によって、鳥居は起源したのである。
 K図右下に配する[]の金文形に「羽」「人」と記したように、D図の高尾山古墳から出土した破砕鏡の「羽人」の絵柄は[]の字源をあらわすものであった。

◆D図の破砕鏡における「羽人」の絵柄は後漢王朝の政策つまり「鳬」の字源銀河が示す中国全土に多数の子どもが生まれて人口が増加する願望をあらわした。
 『漢書』地理志によると――前漢の平(へい)帝元治2(西暦2)の人口は、約5,950万人であった。王莽(おうもう)が支配した新(925)時代は戦乱で人口は激減し、後漢の光武(こうぶ)帝が没した建武中元2(57)の人口は約2,100万人、質(しつ)帝が死んだ本初元年(146)の人口は人口増加政策によって約4,760万人まで回復していた。D図の上方作系浮彫式獣帯鏡は2世紀(101200)後半に作られたゆえ、その「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵柄は後漢王朝の人口増加政策によって、前漢末期の最多の状況まで近づいたことをあらわすものであったことになる。ところが、後漢末期の2世紀末から三国時代初頭の230年頃までの3世紀前半においては、戦争によって人口は一気に激減して約4,760万人の16パーセントの約767万人まで激減した(魏は約432万人、呉は約230万人、蜀は約94万人)
 呉の皇帝の孫権が1万の水軍をA図・B図に示した東鯷人国(後の小国・日本)への遠征を決行して黄竜2(230)、中国では憎悪・野心・獣性がからまり乱れる残虐きわまりない戦争が続いたために2世紀半ばの人口よりも84パーセントも減少していたのである。そして、『魏志』倭人伝にある「漢の時に朝見する者あり」という記事や「古(いにしえ)より以来、その使中国に詣(いた)る」という記事の倭の使者たちによって、また『後漢書』倭伝の「東鯷人国の人民は、時(定期的)に呉の会稽に至って市(いち/交易)をしていた」という記事の東鯷人たちによって、中国は戦争の狂気で一気に人口が激減した様子が報告された。ゆえに、中国の戦争による暗黒・身の毛もよだつ悲惨な状況は国中にひろがる噂(うわさ)になって、わが国では多くの人民たちの恐怖となった。
 現在、D図の上方作系浮彫式獣帯鏡は日本国内で50例近くも見つかっている。そして、この鏡には「不老長寿」をあらわす仙人と「中国全土に多数の人々が安らかに住む」と表現する「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵柄がある。また、『魏志』倭人伝は倭(B図の西日本)では2世紀末(西暦170年、180年頃)に大乱があったと伝える。だから2世紀末頃から3世紀当時、平安を願う人々によって2世紀後半に中国で作られた上方作系浮彫式獣帯鏡は800例あるいは1,000例も大量に、わが国に輸入されることになったと考えるべきことになる。したがって、『魏志』倭人伝の景初2(238)12月の記事にある魏帝が「銅鏡」を「汝の(国の)好物」と表現した、その言は「倭国では中国で作った銅鏡を好物にする」と意味したものではなく、「不老長寿の仙人と中国全土に多数の人々が住む絵柄がある上方作系浮彫式獣帯鏡」について「汝の好物」と表現したものであったにちがいない。
 このような状況であったゆえ、伊耶那美命が高尾山古墳で伊耶那岐命よりも先に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と唱えた言は「小国・日本に沢山の子どもが生まれるようにして、人民が満ち満ちあふれることにしましょう」と解釈されて、“伊耶那美命は〔愛〕を小国・日本の国作りの柱にした”という噂(うわさ)が国中に爆発的にひろまったのである。だから、この鏡では〔愛〕をあらわさない「不老長寿の仙人」の絵柄が壊され、〔愛〕をあらわす〔国土に沢山の子どもが満ち満ちあふれる愛〕をあらわす「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の絵柄が残されたのである。

◆上記したK図右下の[]の字は「味鴨(あじがも/別称「トモエガモ」)をあらわした。
 味鴨は中国東部、日本で越冬し、その群れをつくって行動する。古代においては飛翔(ひしょう)する味鴨の群れはなんと3㎞にも及ぶ大群であった。この群れの習性のためにヒトが大量に狩猟するようになって、1970年代には絶滅を危惧(きぐ)されるほどに減少した。
 D図の右上に「上」と記したように、上方作系浮彫式獣帯鏡には「上」という字がある。
 L図は、中国大陸の東にある大海と海岸線を「上」にした、高尾山古墳出土の破砕鏡に残った「鹿」「虎」「鳥」「羽人」の4つの絵柄の解明図である。
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 L図が示すように、中国全土は「鳥(の形)」の海岸線に洩れなく包みこまれる。ゆえに、「鳥」の海岸線を「味鴨の大群」、つまりL図の右上の[]の金文形における[]に見立てると、[]の金文形の[]は「中国全土に住む人」に相当する。したがって、[]の金文形の[]は「味鴨の大群」をあらわすものゆえ、[]の金文形の[]は「中国全土に住む多数の人民」をあらわすことになる。だから、高尾山古墳出土の破砕鏡の「羽人」の絵柄は「中国全土に住む多数の人民」をあらわしたことになる。
 『万葉集』巻第四の485番の長歌と486番・487番の2首の短歌の題詞(だいし)は「岡本天皇の御製(みうた)一首幷(あわ)せて短歌」である。ゆえに、この3首は岡本天皇が作った。岡本天皇は34代舒明(じょめい)天皇(629641年在位)35代皇極(こうぎょく)天皇(642645年在位)であり、皇極天皇は重祚(ちょうそ)して37代斉明(さいめい)天皇(655661年在位)でもあった。歌の内容からして、485番・486番・487番の3首を作った岡本天皇は皇極天皇・斉明天皇であり、この3首は舒明天皇の皇后であった宝皇女(たからのひめみこ)時代に作ったと考えられる。舒明天皇は皇后と蘇我入鹿(そがいるか)の仲を疑った。ゆえに、この3首には皇后が舒明天皇に入鹿との仲を疑われた様子が表現されている。
   岡本天皇の御製一首 幷せて短歌
 神代より 生()れ継ぎ来()れば 人さはに 国には満ちて あぢ群(むら)の 通ひは行けど 我()が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮()るるまで 夜(よる)は 夜()の明くる極(きは)み 思ひつつ 眠()も寝()かてにと 明しつらくも 長きこの夜()(485)
 〔神代の伊耶那美命が唱えた〔愛〕の理念を唱え、人民はこの誓いをまもってきたために、人民は飛翔する味鴨の大群のように、この世に多数満ち満ちて愛睦(むつ)まじく私の目の前を通り過ぎますが、私が恋い慕うあなた(舒明天皇)は、私と蘇我入鹿の仲を疑って、私の夫であることを拒否して私を抱いてくれません。私は昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまで、あなたを思いつづけ、一睡(いっすい)もできませんでした。この夜は、ほんとうに長い夜でした。〕
 485番の長歌の初句「神代より」から5句目の「あぢ群れの」(味鴨の大群の)までは――D図に示した高尾山古墳から出土した破砕鏡に残った絵柄は伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた――と証言するものとなる。宝皇女は38代天智天皇と40代天武天皇の生母である。このような確かな女性が、「神代の伊耶那美命は、飛翔する味鴨の大群のように、国土に人民が満ち満ちあふれるようにと〔愛〕の理念を唱えた」と証言した。
 奈良県には古代、「飛鳥(あすか)」と呼ばれて栄えた広い地域があった。この飛鳥には歴代の皇居が営まれた。允恭(いんぎょう)天皇の遠飛鳥(とおつあすか)宮、顕宗(けんそう)天皇の近飛鳥八釣(ちかつあすかやつり)宮の後、その後しばらくして、推古(すいこ)天皇以後、元明(げんめい)天皇に至る1世紀余り、一時期を除き、おおむね飛鳥の地が都となった。推古天皇の小墾田(おわりだ)宮・豊浦(とゆら)宮、舒明天皇の岡本宮、皇極天皇の板蓋(いたぶき)宮、斉明天皇の後岡本(のちのおかもと)宮、天武天皇の浄御原(きよみはら)宮などは飛鳥の地に造営された。だから、上記した485番の宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)が作った和歌は、「飛鳥」の由来は「飛翔する味鴨の大群」であったと示していることになる。

◆宝皇女が作った485番の長歌の反歌(はんか)487番は、下記のごとくの短歌である。
 近江道(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉(いさや)川 日()のころごろは 恋ひつつもあらむ(487)
 〔近江道(現在の滋賀県)に所在する鳥籠の山(現在の近江八幡市の沖島)の傍(そば)の東北に河口がある不知哉川(現在の愛知川)、この川の名が“知らない”と示すように、私の心を知ろうともせずに私を疑って私の言葉を信じないつれないあなた(舒明天皇)ですけど、今日この頃は、私のことを恋しく思っていてくださるのでしょうか。〕
 「近江」とい名称は「近江海(ちかつうみ)」から転訛(てんか)されたとされる。「近江海」は古称が「鳰(にお)の海」であった、現在の琵琶湖である。L図において「海」を「上」にしたように、近江海・鳰の海を「上」にすると、M図のごとくなる。
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(C) 2017 OHKAWA
 
 “字書の聖典”と尊重される『説文解字(せつもんかいじ)』は、「不知哉川」の[]の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。つまり、M図の右上に示した「天()を飛翔する鳥」は「陸に降下しない鳥」ということで[]は「否定」をあらわす字義となった。宝皇女は「琵琶湖」を「空を飛翔する鳥」に見立てて[]とし、また、L図では「東の大海」を「上」とするが、M図(宝皇女)は「西」を「上」としたゆえその「東と西」の相違から[]としたと考えられる。M図に示すように、「不知哉川」は現在の愛知川(えちがわ)であった。
 『延喜式(えんぎしき)』や『倭名抄(わみょうしょう)』は、「愛知」は古代「愛智」と表記されたと伝える。[]の字義は「知恵(学術知識)」である。M図の「現在の西」を「上」とする思考は夏音文字における智=学術知識であった。ゆえに、「愛智」と表記されたのである。[]を「エ」とする字音は、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわすことになった「阿那邇夜志愛()袁登古袁」の言でも「エ」であり、夏音文字の字音であった。天保時代(18301844)頃から、「愛知」と表記されることになった。
 琵琶湖に浮かぶ最大の島の「沖島(おきのしま)」は、487番では「鳥籠の山」と呼ばれた。
 下に示す沖島の空中写真は、M図同様に「現在の西」を「上」にした沖島の写真である。沖島はA図に示した「伊豆半島」の形にソックリである。
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 ▲沖島の空中写真

 N図は、空中写真と同じく「現在の西」を「上」にした沖島の地図である。
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 沖島の最高峰の名は「蓬莱山(ほうらいさん)」である。
 M図の中央上に示したように、比良(ひら)山地にも「蓬莱山」がある。比良山地の蓬莱山と沖島の蓬莱山は同緯度(北緯3512)である。A図に示した沼津市足高山(あしたかやま/現在の「愛鷹山」)の山頂も比良山地の蓬莱山と沖島の蓬莱山と同緯度(北緯3512)である。つまり、比良山地の蓬莱山と沖島の蓬莱山は――伊耶那岐命と伊耶那美命が高尾山古墳で結婚した当時の足高山の名は「蓬莱山」であった――と伝えていることになる。
 要するに、『後漢書』倭伝末部が「秦(しん)の始皇帝(紀元前246-同210年在位)は、方士の徐福(じょふく)を遣(つか)わし、青年男女数千人をひきいて海に入り、蓬莱の神仙を求めたが得られず」と記述する「蓬莱山」は、沼津市の足高山であったのである。
 呉の水軍は足高山=蓬莱山を目指して遠征してくると思い込んだ日本軍はA図に示した浮島沼(うきしまぬま)から足高山周辺に一大防衛軍事施設を設営して(これら3世紀の軍事施設遺跡群は、すでに発掘されている)、天と足高山=蓬莱山を祀る高尾山古墳を築造して防衛を固めた。足高山の中腹には「足高山尾上遺跡群」と呼ばれる遺跡群が存在する。この足高山尾上遺跡群を代表する遺跡は「八兵衛洞(はちべえぼら)遺跡」である。遺跡の所在地の小字(こあざ)が「八兵衛洞」であるゆえ「八兵衛洞遺跡」と名づけられた。
 「八兵衛洞」の[]は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話に登場する「八尋殿(やひろどの)」の[]に合致し、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)[]の字義を「武器。兵士。戦(いく)さ」、[]の字義は「防衛する」であったと解説する。『説文解字』は[]の字源を「疾(はや)く流るるなり」と解説するゆえ、この字源解説を上記した文字作成銀河の形状を観察して思考すると「切り立った崖の上の空地」ということになる。八兵衛洞遺跡はじめ足高山尾上遺跡群の建物址は[]の字源「切り立った崖のような急坂の上の空地」に建てられていた。
 だから、高尾山古墳は学者たちや沼津市教育委員会が指摘するように「墓」ではなかった。高尾山古墳は『古事記』上巻の淤能碁呂島聖婚説話の記事に矛盾なく合致して【科学】が成立するゆえ――卑弥呼王朝が呉の水軍は必ずや来襲するにちがいないと思い込んだために、防衛を命令されて小国・日本に封(ほう)ぜられることになって伊耶那岐命と伊耶那美命が、天と蓬莱山=足高山を祀って呉軍に勝利するを祈願して結婚した式場の封土(ほうど/盛り土)であったことになる。

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